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ugmm_
2025-09-07 16:56:05
16398文字
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古代ローマ
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クアルタ
前192年と前184年。
現パロではない。ラエリウスの妻(サピエンスの母)という、存在することしか分からない女性の話です。友情出演スキピオ夫妻。
婚約者が死んだ。
その報を受けたとき、クアルタはその場に崩れ落ちた。婚約者の親族たちは顔を覆って嘆く若い娘を前にして、僅かに救いを得たように涙をこぼした。おおここまで惜しんで下さるとは
……
そんな慨嘆が頭上に落ちるとともに、乳母がクアルタを助け起こす。
父と葬儀などの話をするのを背に聞きながら、屋敷の奥へ下がる足取りはゆっくりと、かろうじてその場に立っているというものだった。アトリウムを出、部屋をいくつか通り過ぎ、いちばん奥の自分の居室に入った時、クアルタは大股でずしんと床を踏んだ。
「死ぬと思ってたのよ」
戸を閉めた乳母が深々とため息をつく。
「だってなんだか顔色が、黄色かったもの。もうすぐ死ぬ人の顔だったわ。ああよかった! あんな前途のないおじさんの奥方になったら私の顔まで変な色になるところだったじゃないの!」
「お嬢さま、慎んでくださいまし」
「慎んだわ。一年も頑張ったのよ」
十五歳だったクアルタは、父が連れてきた婚約者を前に笑顔を作れなかった。俯いて黙り込んでいる娘を前にして婚約者は控えめなお嬢さんだと笑っていたけれども、その笑いがどうにも嬉しそうで、引っ込み思案な少女を好む男は嫌だと思ったものだ。
しかし死んだ。これほど穏やかな婚約の解消はない。
寝台に仰向けになり、喪服を着て過ごす義理はあるのだろうかと思案するクアルタを、乳母が困ったものだと見守っていた。
それからしばらくの穏やかな日々を、クアルタは友人たちとの文通に費やした。ほとんどが既に結婚してローマを離れた者もある幼友達は、十六歳のクアルタが次にどんな男と婚約することになるかを案じていた。
そう、それが問題であり、それだけが問題だった。
父がクアルタの部屋に顔を出したのは、昼食を終えて少しした頃合いだった。もう喪服を着ていない娘が長椅子にだらしなく足を伸ばし手紙を広げているのを見て、このところますます丸くなってきた頬に笑窪を作る。
「クアルタ、ここにいたのか。可愛い娘よ」
困った娘ではなく可愛い娘。つまり、クアルタのおかげで何かいいことがあったのだ。投げ出していた脚を一応裾に隠し、クアルタは隣に場所を空けた。
そこにどっかりと腰を下ろした父は、もう六十近い。クアルタが産まれたとき既に中年だったとはいえ、仕草に老いが目につくようになってきた。
「今朝の伺候でな、とても良いお話をいただいたんだ」
「今朝?
……
スキピオ様のところに行ったのよね?」
父は一応伺候を受ける側であるが、それこそスキピオ家の人々のように挨拶を受けるだけと言うほど偉くはない。父はひどいあがり症で弁論を嫌い、何度か頑張った法務官選挙だって上手くいかなかった。自分を頼ってくる人々をより頼りになる人物に繋げるのばかりが得意な人だ。母方の一族には何人か執政官がいるが父方は法務官止まりというのがクアルタの生まれた家だった。
「お声がけくださったのはアエミリア様なんだ。お前にな、ぜひにという話でな」
嬉しいのが先走って何の話だか分からない、とすっとぼけるほどには、クアルタは鈍くなかった。
娘の顔から笑みが消えるのにも父は気付かないで、本当に良いお話なんだとひとり頷いている。
「お父様、ちょっと早いんじゃないかしら」
「うん?」
「婚約者を亡くしてすぐに次っていうのは、なんだか薄情に見えてしまうのじゃない?」
「何を言うんだ、もうあんなのは忘れていいんだぞ」
「あんなの?」
こんなに良いお話はないと言っていたくせに──あの時は、相手の家が裕福なのを喜んでいた。だが、父がそのつもりならばこちらも同じ姿勢で挑めばよいだけのこと、クアルタは脚を組んでクッションに凭れかかった。
「それで
……
何歳?」
腕まで組んで目を細めた娘に、ふむと父は指を折った。
「いくつだったかな。スキピオ殿と同い年だから」
「は? おじさんじゃん」
「今年で四十四」
「お父様、それってほとんど私が生まれたときのお父様の齢よ。何度も言ったじゃない! 家にお金があって三十歳くらいで財務官を経験してて弁論が上手くて禿げてる家族のいない男を見つけてきてって!」
「そういう男はな、たいてい子供のうちに売れちゃうんだよ。みんな先見の明があるんだな」
「グラックスは売れ残ってるわよ!」
「無理だよ、みんな目をぎらぎらさせて取り囲んでるんだぞ」
そんなの母が友人たちと話しているのを聞いていれば嫌というほど分かる。名門の子息は当然父親が名士と親しいからさっさと子供同士を婚約させてしまう。祖父や父親を早くに亡くして自力で縁談を探している青年は格好の獲物で、しかしそういう青年は往々にして理想が高い。
はっとしてクアルタは父の膝に手を置いた。
「奥様を亡くしたところとか? 子供がいる?」
「いや、結婚なさったことはないよ」
「なんだ
……
」
「ラエリウス殿は若いうちに決めない方がいいと言われて時機を逃したんだろうな」
父の顔を見上げ、クアルタは首を傾げた。どこの家名だろうか、それは。
「どこの氏族?」
「家名はないんだ、ただのラエリウス殿さ」
「
……
貴族じゃないってこと?」
まさかスキピオ家の被庇護者の誰かを見繕ってきたのだろうか。イタリアの辺鄙なところの一族で、嫁いだが最後ローマに戻ることもできず、話し方やものの食べ方や着こなしをいちいち珍しがられながら、スキピオ家の土地の管理人なんかをして一生を終える──みるみるまに泣きそうになっていく娘の肩を慌てて父が揺すった。
「お前をローマ以外にやらないという約束は守る! ラエリウス殿の邸はちゃんとローマにあるし、彼はスキピオ殿の古い友人なんだ、法務官だって務めておいでで」
新人と呼ばれる類の人物ということだった。クアルタは毎年覚えていられない法務官たちの顔ぶれより先に、思い出すものがあって眉を寄せた。
「このあいだの執政官選挙に落ちてた人?」
来年の執政官はスキピオ・ナシカとグラブリオであり、ラエリウスではない。しかし立候補者にいたような気がする。父はどうしてそんなこと思い出すのかなあと呑気に言っていたが、クアルタは長椅子に突っ伏して父を足で押し退けた。贅肉の柔らかい感触が憎たらしい。
「そんなの嫌! アエミリア様には婚約者が死んだ悲しみのあまり起き上がれもしなくなってるって言っておいて!」
「クアルタ、アエミリア様にはこのあいだお会いしたところだろう?」
「うるさいっ! お父様のばか!」
父は癇癪を起こす娘の頭をぽんぽんと撫で、まあまずはお会いしてみなさいと優しく言った。
数日後、ラエリウスはアエミリアに伴われてクアルタの屋敷を訪れた。父と母がそれを出迎えてああだこうだと長い挨拶をするのが、冷たい風に乗って裏庭にいても聞こえてくる。
乳母がまだ気になるところがあると言うように髪を整え、裾を払ってくれるのを、クアルタは有難いとも思えずに眺めた。両親は娘が駄々を捏ねることは許すが、結局言う通りにはしてくれないのだ。アエミリアからの紹介と知った母はもう有頂天だし、父だってこの縁談のことでスキピオから声をかけられた話を三度は繰り返している。カトーから声をかけられてもガルバから声をかけられても喜ぶような父だったが。
「お嬢さまは殿方が苦手で困ってしまいますね」
浮かない顔のクアルタをそんなふうに言って、乳母が屋敷の中の様子を窺いにその場を離れた。屋敷の庭にある小さな池のそばで、足の長い虫が水面に浮かぶのを眺める。
「お嬢さま。応接間に参りましょう」
顔を合わせたところで、何だと言うのだ。結婚式の日取りを決めて、それまでにクアルタか相手が死ななければ結末は同じではないか。
完全に拗ねたまま、クアルタは客人の通された部屋に入った。父が勢いよく振り返り、手招きをする。
「クアルタ、こちらがラエリウス殿だ。アエミリア様のことは存じ上げているね」
父が言うのに、クアルタは自分でも驚くほどか細い声ではいと答えた。こんな細い声が出る喉とは知らなかった。
こちらを見たラエリウスは予想していたよりは若々しい見目をしていた。痩せているし、髪は見える限りは生え揃って額も広くない。顔の造作は別に良いとも悪いとも思わなかった。ただ立ち上がった彼が父より背が高いのをひとつ加点とクアルタは内心で数えた。
ガイウス・ラエリウスと名乗り、決まりきった挨拶を交わした彼よりも、その隣にいるアエミリアの方にクアルタの目は向かった。この日は控えめな装いで、それなのにクアルタや母が持つよりずっと見事な品で耳や首元を飾っている。しかしそうした宝飾品にしても繊細に結い上げられた髪にしても、彼女が生まれ持った気品に寄り添うようにそこにあり、ひとつも喧しくないのだ。
ぎこちなく口元に笑みを浮かべて椅子に座った娘を、アエミリアは穏やかな眼差しで見守っていた。婦人たちの集まりで物静かに過ごしている時よりも優しげに見え、それでほんの僅かに背筋に入っていた力が抜ける。それさえも見抜いたように、アエミリアが少しこちらに顔を寄せて言った。
「急なことで驚いたでしょう。私は以前から考えていたことだったのだけれど」
まあ、と驚いてみせたのは母だけだった。ラエリウスは緊張で止まらなくなっている父のおしゃべりに付き合っており、こんなときだと言うのにいつものように場は男女で分かれてしまっていた。
「意外な話だったかしら」
「いえ、あの
……
正直言うと」
「そうよね。あまり女の子の間で話題になるような人でもないし」
それも否定しなかった。アエミリアの息子たちの方が話題に上がることが多いくらいで、話題に出したとしてもそういえば結婚していなかったのかという感想だろう。
焦点を合わせないまま視界に入れたラエリウスが、父に根気よく返事を続けている。もう何を喋っているのだか家族にも分からないような脈絡のないおしゃべりに嫌な顔をせず、聞き流すというのでもなく。それにほっとするのは、おそらく父が蔑ろにされるところを見たくないがゆえなのだ。
自分が彼のいいところ探しをしているのならいいのに。
母とアエミリアの和やかなやりとりが頭上を通り過ぎているうちに、大人たちが席を立ったのでクアルタは目を白黒させて自分も腰を上げかけた。母が娘の肩を叩き、お父様がちっとも静かにならないからと言って、三人は部屋を出て行ってしまう。
嘘でしょ、置いて行っちゃうの、こういうのは母親がべったりくっついて見張っているものじゃないの──乳母と侍女ひとりだけがクアルタのそばに残され、部屋にしんと沈黙が落ちた。ラエリウスがこちらを見ているが、クアルタはテーブルの小さな傷をじっと見つめた。
「
……
相変わらず楽しい人ですね、お父上は」
「はあ、そう言っていただけると
……
」
「あなたのことをとても可愛がっておられるのが分かる。安心しました」
どういう意味かちらと見た相手は苦笑を浮かべていた。
「アエミリアとは親しいんですか、彼女はこの縁談をとてもいい思いつきだと思ってるようだけど」
「母がアエミリア様によくしていただいています。母方の祖父はカンナエで
……
」
「ああ
……
」
どこの家族と話していても、土を掘れば小石にぶつかるようにこうしてぶつかってしまうものだ。ラエリウスは大袈裟に驚いたり同情したりするでもなく、それならば分かると頷いた。
「あなたは気に入ってるんですか」
クアルタの口がそう動いたのは、この肩身の狭さを張り合う空気に耐えられなくなったからだった。あの、自分は連れて来られました、という顔。それに相対する自分の不本意さが滲み出る膨れ面。
「あなたが断る以外にこの話をなかったことにする方法はないんですから、率直になってください。父にあなたを当選に導く力はありません。スキピオ様の後押しに加わったところで賑やかしくらいのもので」
「そうは思わないよ、お父上は案外好かれている。あなたの伯父上方もおられるし」
「でももっと
……
こうだったらよかったのにって思ってらっしゃるんじゃないですか」
「それじゃあクアルタ、あなたは?」
「そりゃあ」
新郎としての相手の欠点を論う気にはなれず、クアルタは口をもごもごさせてから、
「叶わないと分かっていても、理想の結婚を思い描くものでしょう」
負け惜しむように言った娘に、ラエリウスは困り切った、しかし不愉快そうでない曖昧な笑みを浮かべていた。幼い子供を相手にすることがあるか、我儘な女と付き合ってきたか、どちらであれこちらが大人をいじめている気分になる。
「やっぱり女の子はスキピオみたいなのがいいのかな」
クアルタはぽかんとして壮年の男を見た。やれやれ困ったもんだ、みたいな調子で何を言い出すのか。
「それってご子息のことじゃなくて? スキピオ様ってあなたと同い年で
……
おじさまというか
……
」
「おじさま
……
」
クアルタの困惑がラエリウスに何らかの衝撃を与えたらしく、よそいきの顔が綻ぶ。自分がおじさま呼ばわりされたことでなくスキピオについてばかり驚いているラエリウスに、彼について真っ先にスキピオの友人ということを挙げた父を思い出した。
あれからさらに知ったことといえば、ラエリウスはクアルタが生まれた時には始まっていたあの戦争で初陣から戦い続けたこと、彼は戦場で常にスキピオの傍らにあったということだ。イタリアでカルタゴ軍を目の当たりにし、ヒスパニアで、アフリカで、何もかもを賭して戦った。いまも、ラエリウスのなかのスキピオはその頃のままなのだ。
トガに覆われない右腕に残る傷痕がいまになって目についた。
「スキピオ様は、お若い頃には
……
神々しいくらいに格好よかったって」
クアルタの呟きに衝撃から抜け出したラエリウスは、少女の面持ちが打って変わったことに目を瞬いた。子供っぽく拗ねた顔が、どうにか感情を抑え込もうと強張っていた。
「兄がシキリアから手紙に書いてくれました」
「お兄さん?」
「兄はザマで死にました」
祖父の話をしたときとは、明らかに反応が違った。
塞ぎ切らない傷に触れたように、生々しい痛みがその目に過る。自らが過去として置いてきた者たちを悼む、諦めを帯びた悲哀だった。十年前、使者が戦勝をローマに伝えたあの歓喜に満ちた日、クアルタは父母が抱き合って泣くのを見た。兄が最後に書き、同輩に託した手紙は、幼かったクアルタに宛てたものだった。
兄は言葉を尽くし自分の参加する戦いの素晴らしさを書き、自分の従う将軍を誇らしく思う気持ちを書いた。しかし必ず参加することになるだろう凱旋式では罵りまくってやるんだと冗談めかして──
「ごめんなさい
……
」
衝動に任せ立ち上がり、クアルタは無礼と知りながら部屋を出た。乳母が追いかけて来る気配を背に、父母やアエミリアに会わないで済む部屋を探して飛び込んだ先で、幼い声が彼女を呼んだ。
「姉上?」
どうしたの、と背を撫でてくれた八歳になる弟を、かつて兄の呼ばれたのと同じ名でクアルタは呼んだ。
その日の振る舞いが叱られなかったのは、ラエリウスが自分の迂闊な発言のせいだと説明したかららしい。若い娘に言うべきでないことを言って恥をかかせてしまった、などと言われると、父母はクアルタの機嫌を取るのに忙しく叱ることなど忘れてしまう。
しかし、彼女には通用しなかった。ラエリウスの親切な嘘も、クアルタの無言も。
アエミリアはすぐに、今度はひとりで母ではなくクアルタを訪ねてきた。来訪の知らせに竦み上がって逃げる口実も思いつかなかったクアルタは、優雅に微笑むアエミリアを前にして絞められた鶏よりおとなしかった。
「怒りにきたわけじゃないのよ」
そうは言うが、これならラエリウス当人に来られる方がまだやりようがあった。泣けば許してくれそうだったし、逆上したら有耶無耶に出来そうだったし。
庭先に出した椅子に並んで、穏やかな日差しがクアルタの気分からすれば空々しかった。厚着をしていたが足元に吹き込む風は冷たく、背筋にその冷たさが這い上がってくるような心地だった。
「クアルタ、あなた結婚が怖いの? 子供を産むこと?」
出し抜けにそう尋ねたアエミリアはどちらもかと小さく首を傾げる。
「悪いことではないわ、ちっとも怖がらない子の方が心配なくらい」
「でもアエミリア様は
……
」
齢が近く、自分と釣り合う家門の後継者との結婚。様々な偶然が重ならなければ叶わない縁組に、恐れるべきところはないように思えた。親しんできた幼馴染と結婚できたらどれほど良いだろうと夢想する少女たちの思いを知らないわけでもあるまいに。
アエミリアはすべて知っているという風に笑い、左手の指輪を撫でる。怒りにきたわけではないという先ほどの言葉にやっと納得できた。
「
……
怖いのは、すべて怖いんです」
──可哀想なテレンティア、あれほど愛してくれた祖父を亡くしてすぐ、カプアで年老いた男の後妻になって子供を産んで死んでしまった。誰よりも勝ち気だったセルウィリアは夫となった人の内縁の妻に苦しめられて、美しい髪は色褪せてしまった。長年の婚約者に迎えられてからユリアは人前に出なくなって、女だけで行う祭祀で見かけた彼女は腕に痣を作り片足を引きずっていた。
夫の愚痴を言いながらもその口振りに愛情が籠り、腕に抱く我が子の可愛さに産みの苦しみなど忘れてしまったと言わんばかりの友人たちのことよりも、彼女らのことばかりを思い出す。幼い頃も今も、クアルタの目にはそれなりに幸せそうに見える母の、息子を亡くしたあの日の魂が引き裂かれていく悲鳴を。
女は簡単に不幸になる。
だからせめて、子供でなくなる瞬間だけは幸せになりたかった。
「姉上、怖いことなんかしなくていいんです!」
驚いて振り返ると、子供のトガを着た弟が憤然として立っていた。慌てて連れ戻そうと腕を引く子守奴隷を振り払って姉たちの前に走ってくる。
「マルクス、来ちゃ駄目って言ったでしょ」
「姉上、結婚なんかしなくたってこの家にいればいいんです。僕と僕の家族と一緒に暮らしましょう」
あの日姉が泣いたのを、マルクスはラエリウスの説明の通りに思っている。クアルタはくすりと笑って紅潮した丸い頬を撫でた。
「ばかね。小姑と暮らしたがるお嬢さんなんてどこにもいないのよ」
「だったら結婚しません」
「何言ってるの、あなたを独り占めしたがる人と結婚してちょうだい。ほら、部屋に戻って」
まったく引き下がる気配のない弟がぎゅっと唇を引き結んで地面を踏み締めていた。それがクアルタとまったく同じ仕草で、ここに乳母がいれば笑いを堪えきれなかっただろう。
子守奴隷に半ば抱えられ屋敷の中に戻る男の子を、アエミリアはどこかぼんやりとして見送っていた。
弟の失礼を謝ろうとしたクアルタはその眼差しに何も言えなくなって、アエミリアの気持ちがこちらへ戻ってくるのをじっと待った。
「私の弟も似たようなことを言ってくれた」
そう言って微笑んだのはスキピオ家の女主人でなく、ひとりの姉のようだった。アエミリアの美しい手がクアルタの両手を取り、強く握る。いつも静かな色を浮かべる深い青の瞳が意志を持って少女を覗き込んだ。
「あなたのお母様がお父上の葬儀のあと私を訪ねて来てくれた時のことを忘れないわ。私は、他の皆と同じように恨み言を言いにきたのだと愚かなことを思ったのに、あの方は自分たちは励まし合えるのではないかと言ってくれた。クアルタ、あなたには幸せになってほしいの」
クアルタは目を瞠った。母は娘にそんな話をしたことがなかった。
「あなたにだけ教える。私が怖かったのはね、スキピオが死ぬことだった」
「──アエミリア様」
「戦場に出ると決めたあの人の背を心から押しながら、行かないでと叫びたかった。スキピオが死ねば私はすぐに再婚することになったでしょう。そうしたらきっと、息子たちが成人することはなかった。コルネリアが産まれることもなかった。ひとりきりになるのが怖くて、熱の下がらないプブリウスに縋って泣いたの。ルキウスが自分が誰の子か忘れてしまわないように、まるで父親がそばにいるかのように育てた」
狂おしいほどの恐れが指先から流れ込んでくるようだった。励まし合ったという母と彼女は、その思いを共にしただろうか。せめてそうであればと、クアルタはアエミリアの手を握り返した。
このローマで最も幸福な貴婦人とされ、よき妻としてよき母として、なんの瑕もないと褒めそやされてきた女性は、切なく笑う。
「パウルスは再婚しなくともいいと言ってくれたけれど、まだ後見人を必要とした弟に頼るなんてできない。父親が死ぬということは、夫を亡くすかもしれないということは、人生を失うかもしれないということだった」
目を伏せ、ひとつ呼吸を置いて顔を上げると、いつもの彼女だった。クアルタが憧れる貴婦人は友人の娘に諭すように言う。どれほど怖くとも、自分たちは立ち向かう他にないのだと。
「ラエリウスは信頼の置ける人よ。あなたの夢見たひととは程遠いでしょうけれど、あなたが何を望むのか聞いてくれるわ。私があなたたちを引き合わせたのは、何もあの人のためだけじゃないの」
クアルタは、それでも迷いのある胸を怺えて頷いた。
アエミリアは去り際、また近く訪ねると言い置いていった。てっきりまたラエリウスを連れてくるという意味だと思っていたクアルタは、数日後に小躍りしながら帰ってきた父が奴隷たちを追い立てるように指図し始めたのを見て舌を巻いてしまった。
晩餐に友人を招くのはありふれた日常だったが、賓客と言っていい人を迎えるのはそうではない。スキピオがラエリウスや他の友人を伴ってやってくるとあって、奴隷たちはその日の買い物を済ませていたのに再び市場に駆け込む始末だった。
クアルタはまだ子供の扱いなので、横臥する晩餐の席には呼ばれない。母も、客の連れてくる妻女たちも、アエミリアの流儀に従って女たちの席にまとまるだろう。男ばかりの宴席で起こることといえばひとつ、猥談と相場が決まっている。
「そんなことないと思いますよ」
乳母が呆れて言うのをクアルタはきっと睨んだ。
「あるわよ。お父様のお友達が騒ぐの見たことないの?」
「でももっと
……
上品な方たちなんでしょう?」
「そんなの酔えば同じじゃない。そのうえ縁談で揉めてる人がいれば本音がボロボロ出てくるに決まってる、お父様は弱っちいし。これはアエミリア様がくださった大事な機会よ」
「だからってこんな
……
みっともない
……
」
ふたりは裏庭に向かって開く食堂の窓の下に座り込んでいた。日も落ちて暗いなか、一枚の毛布を被り庭木に隠れるように体を丸くする彼女らを奴隷たちは見てみぬふりでいる。
既に客人が食堂に揃い、父の楽しげな声が頭上に響いていた。乳母が皮袋から差し出してきた干し無花果を齧りながらさっさと酒が回らないかなと長い挨拶を聞き流す。
「──やっと結婚する気になったと聞いて、すぐにいい相手が見つかると思ったのに。何をまごついてるんだ?」
誰かがそう言ったのは、乳母が船を漕ぎ始めた頃だった。それまで政治向きの話だのギリシアの哲学の話だのが続いてクアルタにとっても子守唄と化していたのだが、はっと意識が明瞭になる。
「いい相手が見つかったからまごついてるんじゃないのかい」
「このお父さんが可愛い娘に嫌われたくないって言うんで、攫うに攫えないんだろ?」
陽気な笑い声には、父を嗤う響きはない。父より年長の者はいなかったはずで、その辺りを弁えた人々らしい。
「いいお嬢さんだよ、うちのアエミリアがそう言うんだから」
涼やかに響いたその声が、スキピオのものだった。男たちはアエミリアのためか彼のためか、それはそうだろうと同調してみせる。肝心のラエリウスの声は聞こえてこない。
「うちの姪に聞いたらお嬢さんは友達が多いらしいね。父親譲りかな」
「いやあ、母親に似たんです。私に似てるのは癖っ毛くらいのもので」
「マルクスは寂しがるだろう、仲のいい姉弟てのは貴重だよ。うちの姉なんか子供の頃から私を目の敵にして
……
」
窓から漏れる油灯の明かりのように穏やかな空気に、クアルタは膝をきつく抱え込む。
「兄君が言っていた通りのお嬢さんみたいだ」
息を呑んだ。スキピオの言葉に周囲がやや困惑しているのが静かになった食堂から伝わってくる。父が、あの子を覚えておいでですかと問うた。スキピオはもちろんだと。
不意に、こんなときに鼻がむずむずしてきて顔を顰める。鼻を摘んでみてもこみあげてくるこそばさがどうにもならず、顔に引き寄せた毛布にくしゅんとクアルタはくしゃみをしてしまった。
なんだい今の、誰かいるのか、と客たちが外を気にした。逃げるか、いやしかし──
「誰もいないよ」
窓から顔を出したスキピオとばっちり目が合って叫びそうになったクアルタの口を乳母が塞ぐ。
彼は不審な女たちに驚くことなく、まるで最初からそこにいるのを知っていたかのようにこちらに微笑んだ。告げ口する気もないらしく、月でも眺めているような風情で窓辺にいる。
「ご子息は僕がシキリアで訓練した新兵のひとりだった。よく労苦に耐え、指揮官に対して素直で
……
あんまり妹の話ばかりするのでそれで有名だったよ」
「本当に
……
妹想いの兄で
……
クアルタもよく懐いていました」
「四番目の、初めて自分を呼ぶまで大きくなってくれた妹だと言っていた。アフリカに渡った頃には、早く妹に会いたい、もう怖がることはないんだと教えてやるのだと。
……
僕は、自分も早く子供たちに会いたい、お揃いだと返した」
父が涙ぐんでいるのがクアルタには見えるようだった。長男を亡くした両親は、それでも弟を儲けた。三人の娘を赤子のうちに喪って、それでもクアルタを育てたように。
スキピオの明るい瞳がただ優しく、彼の指揮のもと死んでいった兵士たちを見つめている。兄がもしかしたら本当にネプトゥヌスの子ではあるまいかと書いた人だった。
「どんな旦那を選ぶんだと聞いて怒られた覚えがあるんだよな」
ラエリウスがやや掠れた声で言うとスキピオがそちらを振り返って、乳母と身を寄せ合っていたクアルタは糸が切れたように力が抜けた。
「まだ六歳なんだぞって。そのくらいから婚約者の家で暮らす子もいるって誰かが言ったらもう
……
あの妹のことだって、ぜんぜん結びついてなかった。十六歳になってるって発想が頭から抜け落ちてて」
「それじゃあいまはどうなの、もしかして気後れしてるのかい」
「そうだなあ、気後れっていうか
……
」
いくらか酒の入った、酩酊とは程遠い緩やかな物言いは、あの日とは違っていた。ラエリウスはううんとおそらく首を捻って、でも嬉しいんだと言った。
「大事にされてきた人の方がいい。投げ売られるみたいに嫁に出された人は旦那の言うことをよく聞くかもしれないが、いつまでもお客さんで、嫁いだ家を自分のものにできないだろう。いま俺の家は空っぽなんだ。うちを自分のものにして、新しく色んなものを詰め込んでくれるなら、あいつの言ってたようなおしゃまでお転婆な、王女さまみたいな人でも嬉しいよ」
でも向こうが嫌ならしょうがない、そんな弱気な呟きに父の嗚咽が被さったので客人たちは大いに笑った。格好をつけるということを知らない父の、おいおいと泣く声がひとつも悲しくない。クアルタの肩を抱いて毛布に包み直した乳母が優しい笑みを浮かべていた。
そっと立ち上がって、音のしないように窓のそばを離れたクアルタの背に、気の置けないやりとりが届く。
「ねえ、婚約式の父親役は誰にしてもらうの? 僕がやってあげようか」
「嫌だよ、お前に頼むくらいならディウェスに頼む」
「大神祇官のいる婚約式か」
朝になれば、父はもうクアルタのご機嫌取りをやめて、婚姻のための準備を進めていくだろう。クアルタは、もうじたばたと逃げ回らずに父と母に頷く自分を思い描いた。それを負けたとは、もう思わなかった。
婚約式と結婚式、それぞれに相応しい吉日を神官に調べてもらい、親族や友人たちに知らせを送って式のために必要なあらゆる準備を進める。その慌ただしさの中で、クアルタはただひたすら乳母と侍女に髪や肌を磨かれていた。娘には他にするべきことがないのだ、ウェヌスに祈るのも大切なことではあったけれど。
しかし結婚式は年が明けてさらに六月の下旬と決まっており、一旦は婚約式のために気を張るにしても、先が長すぎるというのが正直なところだった。
婚約式を済ませた後も、その空白を埋めるようにラエリウスはしばしばクアルタの屋敷を訪れた。父はすっかりこの婿を気に入っており、最初は反発していたマルクスもいつの間にか丸め込まれている。
両家の親族と友人たちを招く婚約式で、ラエリウスにはほとんど親族がいなかった。遠縁の人々が田舎から出てきていたが、親族の代わりに多く呼ばれた友人たちの地位の高いのに恐れ慄いて小さくなってしまっていた。
左手に嵌めた鉄の指輪はいまのところなんだか邪魔くさかったが、じきに慣れると誰もが言う。窓から差し込む光を当てて、まだ真新しい指輪を矯めつ眇めつするクアルタを、ラエリウスは目を細めて見守っていた。その指輪の他にも、婚約式で彼が贈ってくれた腕輪を身に着けているのを見ていたのかもしれない。結納品の見事なことは、ラエリウスがアエミリアやその他の見識ある女性の助力を得た証だった。
応接間にはいつものように、乳母と侍女が控えて彼らを見守っていた。
「あの親戚の方たちはもう帰ってしまわれたんですか?」
彼らにはローマに出てくるなんてそうあることではなく、見物をしていくという話だったが。
「予定より早く帰ったよ。ここがあんまり喧しいんでおかしくなりそうだって言って」
「そう
……
」
「あの人たちは、別にことあるごとに関わるようなことはないから」
気にしなくていい、と。ラエリウスはいつもこの調子だった。最初に顔を合わせた時のような繕った物言いはやめたが、何かあると心配いらないと言い訳をし始める。
クアルタは今日まで、彼の前ですんと澄ました顔を崩さずにきてしまった。ラエリウスは自分よりずっと若い娘相手に幼い子供になら通じる懐柔策が通じないので困り切っている。
「聞こうか聞くまいか迷っていたんですけど」
「うん?」
「父が知らないって言うので、聞いちゃいます。もしおうちに世話をしてくれてる人とか、外にでも懇意の人とかがいたら
……
」
「は? そんなものいない!」
「ずっと独身だったのに?」
「清い身とは言わないが、君がいま想像しているようなことはない、断じて」
「ふうん」
安堵するでもなく頷くクアルタに、ラエリウスは物言いたげだったがそれ以上は言い募らなかった。しつこいほどに怪しい印象を与えるのを分かっているのだ。
「ラエリウス、私はいろいろ空想を広げてきたの」
ラエリウス様などと呼ばなくていいとも彼に言われて久しい。
「夫に愛人がいたらどう戦うかとか、子供がなかなかできなかったらどうするかとか、義理の両親と仲良くできなかったら嫌とか、いつか息子が嫁資を返すために借金するとかわいそうとか」
「そんなに先のことまで?」
「いくつかはもう解決しましたけど、こうだったらいいなと思ったなかにひとつ、執政官の妻になりたい」
クアルタはにんまり笑って、面食らうラエリウスにうちは法務官格の家だからと続けた。
来年の執政官選挙には父も奔走するはずだ。それがどれほどの助力となるか、クアルタはラエリウスが言ってくれるほどではあるまいと思うが、ラエリウスだって今年以上に頑張るだろう。
「私たちの家に並べる像の、いちばん最初はあなたのものでしょ。執政官の方がかっこいいわ」
またうんと先の話をするクアルタにラエリウスも気の抜けた笑みを浮かべた。一年に二人だけの執政官は、監察官ほどでなくともなるのが難しい。一度の落選くらいはよくあること、くよくよしても仕方のないことだった。それでもどこかに焦りがあるのだろう。
「一緒に喜んでくれる人がいるとやっぱり嬉しいよ」
「あら、まだ喜べると決まってもないのに」
ふたりが笑い合うのに、乳母と侍女がこっそり目を見合わせていた。クアルタが彼女たちを婚家に連れて行くことはもう決まっていて、主人たちの仲はまったく他人事ではない。だから嬉しいのだろう。
マルクスが戸口からこっそり部屋を覗いているのに気がついたラエリウスが立ち上がる。彼は兄によく似た子だと言って、生真面目な少年を可愛がってくれていた。まあ兄弟というよりは親子にしか見えないのだが、それは言うまい。
弟に呼ばれて、クアルタも応接間を出た。
「ガイウス、すっかり仲良しさんねえ」
広々とした庭で草の上に広げた敷布に転がる子供たちが、クアルタを振り返ってふくふくと笑った。
リテルヌムに到着した昨日のうちに、息子は同じように招かれていたパウルス家の子息と仲良くなってしまっていた。一歳の幼いプブリウスと並んでいると、四歳になった我が子も大きくなったものだといちいち感慨深い。プブリウスの兄のクィントゥスもガイウスと馴染んでくれて、滞在の間に子供たちが退屈する心配は要らなそうだった。
「ガイウスは一人っ子なのに面倒見がいいのね」
同じように子供たちを見守っていたパピリアが言うのにクアルタは笑みを深めた。パピリウス・マソ家とアエミリウス・パウルス家の血を引く高貴な兄弟に囲まれて、うちのガイウスは違和感がないどころか同じくらい良い家柄の子に見える。なぜだか分からないが。
結婚の二年目、子を身籠ったクアルタは男の子でも女の子でも育てるという約束を取り付けて穏やかな気持ちで子の生まれるのを待った。この新しい執政官格の家に生まれた子が男の子であったことは、両親ばかりでなく周囲みなを喜ばせたものだ。
もっと豊かな家に迎えてやりたかったとラエリウスは言ったが、それも一度きりのことだった。執政官としてアシアでなくガリア・キサルピナを任地とされた時ひどく残念そうだった彼は、それでも結局自身の弟のためにそれを押し通したスキピオを恨むようなことは言わなかった。それに、ルキウス・スキピオが凱旋式を挙げてアシアティクスと呼ばれ、元から富んでいた家門をいっそう輝かせた、その帰結がこの海辺の別荘にあるとは予想もしなかっただろう。
パピリアはどこか所在なさげに、近くに見える海と広々とした別荘とを見遣った。
「ここはいいところだけれど、暮らすには退屈しそう」
「そうねえ
……
」
「あなたも来るのは初めて?」
「ええ。あの人はもう呆れるくらい通ってるけれど。ガイウスがスキピオ様に興味があるみたいだから連れて来ることにしたんですって」
あれだけ話して聞かせれば会ってみたいと言うに決まっている。ラエリウスには自分が昔話となると親友の話ばかりしている自覚がなく、ガイウスの示した興味に嬉しそうにしていた。
草を踏むいくつかの足音に振り向くと、アエミリアが娘たちと共に別荘を出て来ていた。彼女らの後ろに続く奴隷たちが、昼の簡単な食事を広げてくれる。転がっていた子供たちがぱっと起きて、それぞれの母親のそばに座った。クィントゥスはプブリウスを抱えている。
アエミリアとクアルタの間に座ったコルネリア・ミノルは、自分より小さな子たちを構いたくてうずうずしている様子だった。昨日構いすぎて母に嗜められたので堪えている六歳の女の子が、あまりにも可愛くて可笑しい。
自分を見つめる視線にコルネリア・ミノルが顔を上げ、相手を呼ぼうとして首を傾げた。
「クアルタおばさまはどうしてクアルタって呼ばれているの? わたしはミノル、お姉さまはマイヨル、それと同じ?」
そして言ってみてから、思いつくところがあったらしくすぐに眉を下げた。そろそろと母を見た驚くほど聡明な少女にクアルタが声をかけるより先に、プブリウスを見守っていたガイウスが母のそばから顔を出す。
「お母さまは三女神さまのつぎに美しいかただから、クアルタなの」
まあ、と女たちのため息が重なり合った。この子は一体どうしてこんなに可愛いのだろう。
コルネリア・ミノルは大きな目をぱちぱちさせて、なるほどと何度も頷く。確かにそう、でもそうしたらうちのお母さまもそう呼ばれていいはず、お父さまは気が利かない
……
おしゃべりな少女にガイウスはおっとり笑い返している。
クアルタは息子の小さな体をぎゅっと抱き寄せた。髪の色も瞳の色も父親そっくり、顔立ちもクアルタにはあまり似なかったのに、この整った目鼻立ちにしても長い睫毛にしても、いつも行儀よくおとなしい性格にしてもどこから来たのか。少女の頃に夢見た、それなら産んでもいいと思った子供そのものではないか。
「クアルタ、それじゃガイウスが飯食えないだろ」
「ガイウスに向かって飯とか食うとか言わないで」
いつの間にか背後に立っていたラエリウスは子供たちの視線にひとつ咳払いをし、さっきまでガイウスたちの転がっていた場所に腰を下ろした。
「
……
ごはんが食べられないだろ。ガイウス、こっち来るか?」
そう言って膝をぽんと叩く父親の方に、クアルタは息子をそっと押し出した。父の膝に収まって笑顔を浮かべるガイウスに、もしもと最近は思う。ガイウスはラエリウスが執政官を務めた後に生まれたが、父親がもっと若かったならば、こんなふうに幼い頃を一緒に過ごせはしなかったのではないかと。
スキピオとパウルスは、と見れば、軒先に椅子を出してこちらを見守っていた。スキピオの息子たちもそばにいる。何を話しているのだか、笑顔が見えた。
「お母さま、お父さまはお腹空いてないのかな」
クィントゥスがパピリアに問うと、パピリアは「さあ」とだけ言って、オリーブの実を口に含んだ。しばらく父母を見比べていたクィントゥスは弟を抱え直してもう問わなかった。
クアルタは内心この夫婦は大丈夫だろうかと案じていたが、とても口には出せない。アエミリアがクアルタにしてくれるほどにはパピリアに親身ではないのも気がついていた。パピリアは意見のはっきりした凛とした女性で、それのどこか気に入らないのか見当もつかないのだ。
コルネリア・ミノルの食べこぼしを嗜めたアエミリアが、クアルタと目が合ってふとその表情を緩ませた。娘たちと共に夫に従いリテルヌムに移った彼女は、ローマにいた頃、身辺がひどく慌ただしかった時にも嘆くことをしなかった。
こんなふうに過ごすことは、想像もしなかった。
汐風が三家族の間を通り抜けて、娘たちの髪をふわふわと揺らした。姉はナシカの子息と、妹はあのグラックスと婚約したコルネリアたちのことが、クアルタにはもう羨ましくはなかった。家族の状況を理解してよき姉としていつも笑っているコルネリア・マイヨルは、来年にはローマに戻り結婚することになっている。父が生きているうちにと急かされて。
ガイウスが、父の膝からクアルタを見ていた。母の様子によく気がついて、ときに申し訳なくなるほど優しく接してくれる我が子に微笑む。ラエリウスはクアルタに変わらずよくしてくれていた。彼は息子を叩いたり怒鳴ったりせず、時間の許す限りそばにいたいと言って憚らなかった。
幸せかと問う声は兄のものだった。いつも、幸せになろうとしていると返事をしてきた。けれどもう、幸せだと答えてもいいのかもしれない。
腹くちくなった子供たちが、海に行きたいとラエリウスにせがんだ。よしと頷いたラエリウスが寛いでいたパウルスを呼び付け、スキピオが娘たちの視線を受けて立ち上がる。無理をしないでとアエミリアが言うのに彼はただ笑って、両手をコルネリアたちと繋いだ。父親たちを連れて子供たちが踊るように駆けていく。
それがいつか、どれほど愛おしい記憶になるか、クアルタにははっきり分かっていた。
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