夜明 奈央
2025-08-27 05:57:48
4580文字
Public 久々綾
 

久々綾と4年生の日常

策が嵌る者・策に溺れる者の綾部視点前日譚。単品でもお楽しみいただけますが、本編の重大なネタバレを含みます。
2025年8月24日初出

 いつもの如く喜八郎が穴掘りに勤しんでいると、鼻の頭にぽつりと冷たいものが落ちた。あ、と思って空を見上げると、すぐにそれはぽつぽつとあちこちに広がっていく。雨だ。少し前から厚い雲が垂れ込めていたが、ついに降り始めてしまったようだった。
 穴から這い出ると、近くで壁の修補に励んでいた用具委員が慌てて屋根の下へ走っている。雨はあっという間に土砂降りへと切り替わる。喜八郎も屋根の下へ走っていると、委員会の面々と走っていた守一郎が隣に並んだ。
「結構酷いね」
「うん。壁の修補は終わったの?」
「途中だけど、続きはまた今度かな」
 話しているうちに屋根の下へと到着する。すっかりずぶ濡れになってしまった衣服を搾ると、ぽたぽたと水が落ちた。用具委員は食満先輩が用具倉庫から手拭いを持ってきて、「みんなちゃんと拭けよー」とひとりひとりに配っている。喜八郎が身につけている手拭いは一緒に濡れてしまっただろうし、都合よく近くに乾いた手拭いを置いているなんてこともない。適当に服を脱いで部屋に戻るしかないかと思っていると、食満先輩が「喜八郎、良かったらお前も」と手拭いを差し出してくれた。
 断る理由もないのでありがたく受け取ろうとしたところで、向こうから久々知先輩が走ってきた。手には数枚の手拭いを持っている。
「おやまあ、遠慮しておくことにします」
「さっきそこで掘ってたから雨に降られてるんじゃないかと思ったんだけど、もしかして必要なかったかな?」
 やり取りを見ていた久々知先輩がしょぼんと眉を下げる。食満先輩がびっくりしたみたいに手拭いを差し出した手を引っ込めた。喜八郎もちょっと驚いているので、食満先輩の気持ちはすごくよくわかる。
「そんなことないですよ。嬉しいです」
「そっか」
 久々知先輩に乾いた手拭いを頭の上から被せられる。受け取って顔や髪の毛の水分を拭き取っていると、何やら視線を感じた。守一郎が興味深そうにこちらを見ていて、喜八郎と目が合うと気まずそうにパッと目を逸らした。不審がられている。久々知先輩が勝手にしたことだから、喜八郎に責任はないけれど。
 付き合っていることをみんなに隠しておこうと言い出したのは久々知先輩の方だ。言いふらすようなものでもないので簡単に了承したが、本当に隠す気があるのかわからない。特別扱いは嬉しいが、ただの友人と言い張るのはちょっと無理がある気がする。久々知先輩は優しいから尾浜先輩が同じように雨に降られたら手拭いを持って駆けつけるのかもしれないけれど、少なくとも喜八郎は滝夜叉丸が雨に降られたって勝手にしろとしか思わない。
 ひと通り水分を拭き終えると、雨に降られたメンバーはそのまま風呂に直行することになった。久々知先輩は濡れていないから「いってらっしゃい」と去っていく。
「喜八郎って久々知先輩とそんなに仲良かったの?」
 脱衣所で隣同士になった守一郎にこそこそと尋ねられた。ほら、やっぱり疑われている。一応約束しているのでほいほい真実を話すことはない。
「まあ、それなりに?」
「そっか。久々知先輩って気が利くんだね」
 どうやら誤魔化せたようで、守一郎は素直に感心している。それ以上の含みはなさそうだった。誤魔化せたのは守一郎だからだと思うが、こんなのでいいのだろうか。

□ □ □

 煙硝蔵の前を通りかかると、扉が開いていた。もしかして久々知先輩がいるかもと外から覗くと、ちょうど何かの書類を持って中から出てきたところだった。久々知先輩の後ろには雑にまとめられただけの書類が散らばっている。委員会の仕事の真っ最中のようだ。その割には他のメンバーは見当たらないので、また久々知先輩が1人で引き受けているのか。
「久々知先輩こんにちは。委員会のお仕事ですか?」
「喜八郎か。うん、これ、たぶん三木ヱ門だと思うんだけど」
 持っていた書類を見せられる。それは今月分の火薬の申請書のようだった。申請日や火薬の種類と量が書いてあるが、名前が書かれていない。筆跡は確かに三木ヱ門だ。
「それ、名前書いてもらえばいいだけですか?」
「ん? そうだけど」
「なら僕が行ってきます」
 この時間なら、たぶん三木ヱ門は射撃場だ。誘爆を避けるため、射撃場は煙硝蔵から遠く離れている。そんなところに行っていたら久々知先輩の仕事が終わらなくなってしまう。
「いいの?」
「はい、どうせ暇ですし。まだお仕事残ってるんでしょう?」
「それは助かる。ならお願いしようかな」
「はい、その代わり戻ってきたらかまってくださいね」
「あはは、わかった。戻ってくるまでにがんばって終わらせておくね」
 久々知先輩から申請書を受け取って、煙硝蔵を後にする。射撃場に着くと、三木ヱ門は案の定そこにいた。元気に火器の試し撃ちをしている後ろから近づいて、弾込めのタイミングで声を掛ける。
「三木ヱ門、サインがほしいんだけど」
 申請書を見せると、三木ヱ門はすぐに事情を察知した。筆を取り出し、さらさらとサインを書きつける。
「しかし、お前にもこんな可愛げがあったとは意外だな」
「なんの話?」
「これ、久々知先輩の手伝いだろう?」
「別に、さっきちょっと通りかかっただけだから」
 咄嗟に言い訳が口から飛び出すが、ほとんど意味を為さないことくらいしかわからない。居心地が悪くなってとっくに書き終わっている書類をひったくった。
「じゃあ久々知先輩によろしく頼む」
 三木ヱ門ににこやかに送り出される。失敗したかな、と思うが今更か。喜八郎はその場から逃げるように走り出した。

□ □ □

「今日の穴掘りは終わり?」
 穴掘りを終えて井戸で泥汚れを落としていると、久々知先輩に声を掛けられた。顔を上げると久々知先輩とタカ丸さんが並んで歩いている。
「はい、おふたりは委員会終わりですか?」
「そうだよ」
 2人が来たのは煙硝蔵の方だから、井戸に用があったわけではなく単純に長屋へ戻る通り道だろう。だからそのまま通り過ぎていくかと思っていたのに、久々知先輩は真っ直ぐにこちらへ近づいてきた。
「まだ泥残ってるよ」
 久々知先輩にほっぺたを擦られる。
「俺、先に戻ってるね。ごゆっくり〜」
 後ろでそれを見ていたタカ丸さんはにこにこと微笑ましい表情で手を振ると、そそくさと消えていく。それを久々知先輩と2人で見送った。
「言ってくだされば良かったのに。僕に触りたかっただけでしょう」
「バレてた?」
「そりゃわかりますよ」
「だってなんだか可愛くて。バレちゃったかな」
 久々知先輩は開き直ってでもいるのか、喜八郎の顔を真正面から見つめる。視線が熱くて、ここが外じゃなければ絶対キスされてたなと思う。せっかく周りには誰もいないのに、してもらえないのがちょっと悔しい。けれどそういうところは絶対に譲ってくれないから我慢するしかない。
「たぶんとっくに」
 この人はわかっててやってるんじゃないのかな、と時々思う。本当に隠すつもりがあるのならタカ丸さん程要注意人物もいないというのに、ちっとも隠す気が感じられない。タカ丸さんは言いふらしたり揶揄ったりせずにこうして気を利かせてくれるのでありがたいが、ちょっと甘えすぎじゃないだろうか。

□ □ □

 喜八郎が部屋で1人踏鋤の手入れをしていると、扉の外から「喜八郎、いる?」と声を掛けられた。「いますよー」と返事をすると、予想通りそこに立っていたのは久々知先輩だった。
「こないだ言ってた本、持ってきたよ」
「なにか言ってましたっけ」
「忘れちゃった?」
 久々知先輩はすっと部屋に入ると、扉を閉めてきょろきょろと周りを見回した。
「今ひとり?」
「はい。滝夜叉丸はついさっきまで委員会で走り回っててお風呂です」
「そっか」
 こないだ言ってた本、というものに全く心当たりがない。ちらりと見えた表紙には「罠のすゝめ」と書いてあって確かに喜八郎の興味を引きそうではあるが、久々知先輩とそんな会話をした覚えはなかった。喜八郎の近くに座っても、先輩は持ってきた本を差し出す気配もない。
「ごめん、ほんとは喜八郎の顔見に来たんだ。明日からしばらく実習で会えないから」
 手を伸ばして髪の毛を梳かれる。
「本は滝夜叉丸がいた時のための口実」
 久々知先輩がふふっと小さく笑う。悪戯っ子みたいな笑みは、付き合うようになってから急に見ることが増えたものだ。先輩はなんだか楽しそうだが、喜八郎は正直ちょっとめんどくさくなっていた。
「もう話しちゃいませんか?」
「なんで? こそこそするの、嫌になっちゃった?」
「嫌にはなってませんけど、まどろっこしいというかめんどくさいというか、そもそも勘付かれてるような気もしますし……
「なにか言われた?」
「直接は言われてませんけど……
 言われてはいないが、こんなにあからさまで気づいていない人などいるのだろうか? 少なくとも4年生はみんな多かれ少なかれ喜八郎と久々知先輩の関係が「ただの仲の良い先輩」ではないことに気づいているはずだ。恋人であることを隠したいという割に久々知先輩は堂々と会いに来るから、喜八郎も何をどこまで隠すべきなのか曖昧だ。
「大体、隠そうって言い出したの先輩なのに、ほんとに隠す気あります?」
「うーん、変に隠す方が怪しいと思うんだけど。授業でもやっただろ?」
「やりましたけど……
 ご機嫌取りみたいに額に口付けられる。話を有耶無耶にしようとするのにもこれくらいで丸めこめると思われていることにもちょっとムカつく。けれど隠していることによって何か明確に困っていることがあるわけでもないから、強固に主張する程でもない。とりあえず今日のところは現状維持か。
 喜八郎が何も言わないでいると、そのまま唇にも口付けられる。ちゅっちゅと可愛らしい音と共に口付けを繰り返される。もっと、と先輩の首に手を回して唇を開いたところで、廊下を歩く足音が聞こえた。途端にぱっと唇を離されて、首に回していた腕も振り解かれてしまった。離れてしまった一歩分の距離が遠い。
 じっと外の様子に聞き耳を立てていると、遠慮の欠片もなく扉が開いて滝夜叉丸が入ってきた。あまりにもタイミングが悪い。つい舌打ちを溢しそうになったのをなんとか堪えただけでも褒めてほしいくらいだ。
「久々知先輩、いらっしゃってたんですね」
「ああ、もう帰るから気にしないで。邪魔したね。喜八郎、それじゃまた」
 久々知先輩は涼しい顔でさっさと部屋を後にしてしまう。お預けを喰らって物足りなさを感じているのは喜八郎だけとでも言うのか。滝夜叉丸に恨みがましい目を向けると、不審そうな顔をされる。
「なんだ。私がなにかしたというのか」
「べっつにー!」
 まさか滝夜叉丸の目の前でキスするつもりはないが、交際を伝えていればもうちょっとどうにかなったのではないかと思う瞬間は多い。今だってせっかく会いに来てくれたのだから、キスの続きはともかくもう少しお話するくらいできたはずなのに。わざとらしく傍らに置いていかれた「罠のすゝめ」が憎い。
 どうせほとんど隠せていないのだから、さっさと言ってしまえばいいのに!


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