もち屋
2025-08-19 20:56:45
13738文字
Public ファイモス
 

あいに行くまで 待っていて②

ファイモス/俳優ファイノン×バンドモーディス/転生現パロ
夢に向かって進むモーディスと、都会に出てきた田舎者の話。
前回→https://privatter.me/page/689a2af12672a



 学部棟で彼を見かけた時、ずいぶんと雰囲気が違ったのを覚えている。文学部を専攻しているモーディスと、経済学部を専攻している自分では、取っている講義がなかなか被らない。一部の基礎科目くらいなら同じものがあるかな、と思ったけれど、オクヘイマ大学は講義の種類が多すぎるからか全くといっていいほど顔を合わせることがなかった。

「君って、学部棟にいるときと雰囲気が違うよな」
……? そうか?」

 部室でギターのチューニングをしているモーディスに話しかければ、不思議そうな声が返ってきた。学部棟で見かける時は、ややピリピリとした空気をまとっているのに、ここでギターをいじっている時は驚くほど穏やかだ。口にしてみたけど、本人としては自覚がないらしい。

「いつも周囲を威嚇してる感じがするけど……自覚がないのか?」
「失礼な奴だな。人目を意識するのは当然のことだろう」
「あんな風に威嚇するのが人目の意識なのか? 君って友達がいないんだな」
「貴様……

 呆れたような声が返ってきて、モーディスが視線をこちらに向ける。背の高い彼は学内でも目立つ方だから、時折移動する時に見かけることがあるが、誰かと話している姿はほとんど見たことがない。クレムノスからの留学生は彼以外にもいるはずなのに、誰も彼に話しかけようとはしていなかった。

「そういうお前こそ、あまり集団行動をしていないように見えるが」
「えっ、君……僕のことを見ていたのかい?」
「お前は目立つから覚えていただけだ」

 自分を棚に上げるな、と続けられる。暗にお前も人のことを言えないだろう、と言われて、それはそうだけど、と鼻白む。一応、学部で話す友人はいるし、よく話しかけられる方ではある。グループワークは元々得意だったし。ただ、大学にいる間ずっと行動するのかと問われれば、そういうわけでもないだけで。

「そもそも、僕と君は棟がかぶること自体少ないじゃないか。単に友人といるところを見ていないだけじゃないのか?」
「それを言うのならお前も同じだろう」
「じゃあ君は一体普段誰とつるんでるっていうのさ」
「故郷から共に留学している親友だ。共にバンドを組んでいる」

 全員学部が同じ訳では無いが、と不服そうに続ける姿に、そういえば彼は五人組のバンドを組んでいたのだった、と思い出す。本当に自分が彼らの姿を見ていないだけなのだろう。あれ、でも同じ大学に通っているのなら、どうしてモーディスだけこの部室にきているのだろう。なんだか不思議な感じがする。

「メンバーも同じ大学に通っているなら、ここで練習すればいいんじゃないのか?」
……ここは狭い」
「いや、フルメンバーで練習できるはずだけど」
「あいつらが来たら、お前の練習スペースがなくなる」

 それに、Nikadoryはサークルではない。と続けられて、そういうものだろうか、と首をひねる。ただまぁ、たしかにモーディスの言う通り、バンドメンバー全員で部室を使って本格的な活動をするのなら、サークルとしての申請が必要になってくるだろう。今二人で練習しているのだって、個人同士がなんとなく集まっているという体裁でなんとか許されているようなものだ。
 今のところ、通うのに不便なこの部屋を使いたいという人たちがいないから使えてはいるけれど。もしも他に部室を使いたいという団体が現れた時には立ち退かなければならなくなる。

「まあたしかに、三人以上で使うならサークル申請が必要になるもんな」

 色々と面倒が増えるのはよくない。サークルとしての体裁をとるようになったら、しがらみも増えてしまうわけで。それなら、今のままの方がいいというのも理解できる。

「そういえば、エレキギターってほとんど触ったことないんだけど、どんな感じなんだ?」

 それ以上追及しても良いことはないしな、と切り替えて、チューニングを終えてアンプに繋ぎ始めたモーディスに声を掛ける。今まではアコースティックギターしか触れたことがなかったから、モーディスが機材に繋いでいるのを見る度に、どんな弾き心地なのだろう、と気になっていた。

「弾いてみるか?」
 差しだされたストラップを受け取って、身体にかける。ずっしりとした重みが肩に乗っかって、重心をとれるようになるまで少しかかった。
「これ、ピックを使ったほうがよかったりするのか?」
「指弾きでも構わんが、ピックを使ったことは?」
「実は初めてだ。普段はずっと指弾きしかしてなかったから」

 じゃあ使ってみるといい、と予備のピックを渡される。表面に刻印の入ったピックには、Nikadoryと刻まれていた。自分たちのバンド名のピックを作っているのだろうか。

「このピックって自分たちで作ったのか?」
「いや、これはクレムノスで売っているものだ。俺達のバンド名は、紛争の神の名を使っているからな」

 紛争を信仰しているクレムノスではごく一般的に売っているものらしい。四枚の羽が折り重なったものの下に、文字が並んでいる。紛争の神はこんな姿をしているのか。エリュシオンでは歳月を信仰しているから、他の国の神のことはよく知らない。

「それよりも、ピックの使い方だが――」 

 モーディスがピックを片手に近づいてきて、僕の手にそっと手を重ねる。そのまま手を振り下ろせば、空気を切り裂くような重音が鼓膜に届いて、わあ、と僕は声を上げた。
 エフェクターに繋いでいるからか、スピーカーから鳴った音は、ずいぶんと歪んでいる。自分が驚いたのがそんなに面白かったのか、猫のように目を丸くしたモーディスは、次いで、はは、と笑った。

「いつも聞いている音だろう」

 そんなに驚くことか、と続けられれば、なんだか面白くない。

「自分で弾くのは初めてなんだ。仕方ないだろう」

 唇を尖らせてみれば、じきに慣れる、と背中を叩かれた。別にずっとエレキを弾くわけじゃないんだけどな、と思いながら、モーディスの言う通りにピックで弦を弾いていく。音幅が広いというのだろうか、音圧をあげたエレキは、色々な音色を出すことができて純粋に興味深かった。
 試しに、以前モーディスに教えてもらった曲を弾いてみれば、たしかに路上で聴いた彼らの音になって、なんだか楽しくなってくる。そのうちに、背後からもう一本のエレキが響いてきて。振り返れば、色違いのギターを構えたモーディスがに、と口端をあげていた。

「あれ、二本もあったのか」
「ああ。ここに一本、置かせてもらっている」

 部室の棚を指して、モーディスが笑う。たしかに、普段相棒をしまっている棚に、いつの間にかギターケースが増えていたのは覚えている。あれはモーディスの二本目だったのか。そういえば、彼はいつもギターケースを抱えて部室にやってくるから、棚に置いている楽器はないはずだった。それなら僕にメインを貸さずに二本目を貸せばよかったのに、と思わなくはなかったけど。特に追及しないことにした。
 せっかくだからセッションでもするかい? と問いかければ、返事の代わりに鮮やかな音が降ってくる。そのまま音を追いかけていけば、競うようにモーディスの音が跳ねて、飛び回っていく。相変わらずめちゃくちゃな演奏をするな、と思いながら。負けじと自分も腕を振り上げた。




 
「最近、何か良いことでもあったのですか?」

 いつものように撮影のセッティングをしていると、唐突にアグライアがそんなことを言うものだから。持っていたブレスレットを取り落としそうになった。そんなに顔に出ていたのだろうか。

「良いこと……というか。前に相談したサークル棟の件、覚えてるかい?」
「ああ……たしか、楽器の練習場所を探していた件ですね。無事、使用許可が降りたと聞いていますが」
「そうそう。そこで練習していたら、面白い奴に会ったんだ」

 モーディスと会った時のことを口にしながら、ふと、彼は名を名乗らなかったな、とぼんやりと思う。自分も名乗っていないのだけど。でも、何故か向こうはファイノンの名を知っていた。こっちも知っていたからお互い様といえばそうなのだけど。なんだか不思議な感じだ。
 別に自分はモーディスみたいに有名人ってわけじゃない。田舎から上京してきた学生なんてそれこそいくらでもいるわけで。きっと、彼に聞いたところで教えてはくれないんだろうけど。ぼんやりとそんなことを思いながら、ファイノンは撮影用のブレスレットを腕に嵌めなおした。

 

 オクヘイマの大学に進学してはや数ヶ月。季節が一つ移り変わろうとしていた。
 慌ただしい日々も落ち着いてきて、ようやく一人で暮らすことにも慣れてきたように思う。都会の人の多さにも、故郷とは違う食べ物の味にも。みんなが話す言葉のトーンにも追いつくことができるようになった。エリュシオンは辺境にあるけれど、使っているのはオクヘイマ共用語だったから、自分はさして言葉に苦労はしなかった。それでもやっぱり特有の訛りが残っているのではないかと気にする時はある。そういえば、モーディスなんかは完全に違う言語圏からの留学生だから、その辺どうしているのだろう。彼の言葉がおかしいと思ったことは一度もないけど。そういえばクレムノスは全く違う言語体系を持っていたはずだ。
 言葉以外にも、引っ越してきたばかりの頃は本当に大変だった。田舎から上京してきた僕を待ち受けていたのは都会の物価高で。エリュシオンではほとんど自給自足に近い生活を送っていたから、そもそも野菜やパンを買うなんて考えたこともなかった。肉類は買うこともあったけど、それだって別にさほど高いわけじゃない。うちは大きな畑を持っていたから規格外品もそこそこ出る。うちで育てていない野菜や肉は近所で物々交換してもらうことが多かったし、一応、趣味程度の規模だけど家畜もいる。水だって井戸から水道を引いていたから、蛇口から直接コップに注いでも問題なかった。
 都会のアパルトメントの水道水を口にしてはいけないのだと知ったのは、初日にお腹を壊した時だ。今まで大きな怪我や病気もなく過ごしてきたから、多少なり身体は強い方だと思っていたのだけど。あの時ばかりは、生まれて初めて生命の危機を実感したほどだ。自分の健康は家族と環境が作り出してくれたものだったのだと痛感して、丈夫に育ててくれた両親に感謝した。
 そうして都会の洗礼を受けた僕は、何から何までテミスで買わなければならない生活に頭を抱えていた。
 実家からの仕送りも多少はあるけど、学費や家賃を負担してもらっている手前あまり甘えたくもない。両親は気にするなとは言ってくれるだろうけど、やっぱり生活費くらいは自分で賄えるようになりたかった。とは言っても、元々自分が大学を志したのは両親を楽にするためでもある。だから、アルバイトに注力しすぎて学業が疎かになるなんてことは絶対にしたくなかった。その点、オクヘイマ大学は学生起業のコンペも開催しているし、インターン制度も整っているからありがたかった。特に経済学部の生徒への支援として、OBや非常勤講師が募集している学内バイトも多く、学業との両立がとてもしやすい。
 その中でも、非常勤講師のアグライアの元で働けたのは幸運と言える。
 週三日、彼女の事務所で働く日には食事が支給され、給与も学生がもらうには多すぎるんじゃないかってくらいにはもらっている。流石に毎日外食できるほどではないけど、購買でパンを買う際に財布の中身を気にしなくて済むようにはなった。その代わり、彼女は仕事に対して一切妥協を許さないから、そこそこ忙しい職場ではある。
 アグライアの事務所はそこまで大きくなく、常駐しているスタッフはサフェルとラフトラくらいだ。ラフトラは正確には一人ではなく、そう呼ばれているアグライアの侍女の総称で、サフェルも彼女たちが何人いるのかは知らないらしい。そういう意味では人数が少ないわけではないけど、それでも人手が足りている方ではない。
 自分は雑用係として雇われていて、サフェルがあまり得意としていない力仕事や、アグライアの作った装飾品のパーツモデルをしていた。
 彼女としては僕にファッションモデルをして欲しいみたいだったけど。流石にブランドを背負って立つのは気が引けるので断っている。それに、そういうのはモーディスみたいな美人がやるべきだ。自分自身、こうしてパーツモデルをしていることだって、想像していなかったくらいなのだから。
 アグライアは気が向いたらいつでも、と言っていたけど。気が向くことはきっとこの先もないと思う。大学を卒業したら実家に戻って農家を継ぐと決めていたし、経済学を学んでいるのもそのためだ。それはバイトを始める時に伝えている。それこそ、こうして手伝うようになるまでは無縁の世界だったわけだし。
 カシャ、とシャッターを切る音が部屋の中に響き渡る。今日撮影するのは、かなり重量のある金のブレスレットと、ダイヤカットされた大粒のラピスラズリを埋め込んだネックレスだった。ブレスレットの撮影はすぐに終わり、、次は、とネックレスを手に取って、ふと違和感を覚えた。彼女の作るアクセサリーはデザインが凝ったものが多いのに、これはかなり装飾が抑えられている。
 指示されるままにそれをつけて撮影を続けるけれど、違和感はずっとあった。緊張を解すためなのか、雑談を続けるアグライアに、部室で出会ったモーディスと最近セッションをよくしているのだと口にすると、彼女は不意に手を止め、ゆる、と眦を緩めた。

「Nikadoryのギターボーカルなら私もよく知っています。そうですか……彼と会ったのですね」
「えっ?アグライア先生が? ちょっと意外だな。あまりロックとか聞かないイメージだったよ」
「ふふ、彼とは以前よりちょっとした繋がりがありまして……それと、今作っているのはNikadoryのライブ衣装ですよ」

 そのネックレスも、彼らのためにデザインしたものです、と続けられて瞠目する。雑誌用の撮影だと思っていたけど、衣装に合わせたアクセサリーの着用イメージとして送るものらしい。

「彼らってインディーズバンドだよね?」
「はい。繋がりがある、と言ったでしょう?」

 モーディスは私の教え子でもありますから、と続ける表情は穏やかだ。
 Nikadory――普段路上で歌っている彼らは、SNSでの活動をほとんどしていない。それこそ、駅前の広場や公園でその声に足を留める人くらいしか知らないようなひっそりとしたバンドだった。
 それが、最近彼らが歌っている様子が収められた動画がSNSで拡散され、話題になったのだという。そこからライブハウスへの出演依頼が届き、その話を聞いたアグライアが衣装の制作を申し出たのだとか。
 なんだそれ、そんなこと僕は一切聞いていないんだけど。思わず喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、そうなんだ、と返す。ここで彼女に文句を言っても困らせるだけだ。
 たしかに最近モーディスが部室に来ないとは思っていたけど、まさかそんなことになっていたとは。
 それに、モーディスとは部室でセッションをするだけの関係で、別にバンドメンバーというわけでもない。学部も学科も全然違うし、取っている講義だって全然被っていない。連絡先を交換しているわけでもないのだから、知らなくて当然だ。というか、本当に自分はモーディスのことを全然知らなかったのだと突きつけられたようで、ちょっとショックだった。
 彼の所属しているバンドのことだって、こちらから話題を振ったらたまに話してくれるけど、向こうから口にしたことはない。でも、いつだったか、メジャーを目指しているのだと一度だけ話してくれたことがあった。自分たちの音楽を世界に轟かせたいのだ、と。
 ライブハウスへの出演は夢への第一歩と言える。アグライアが衣装協力をするほどだ。それだけ彼らも本気なのだろう。彼らは着実にその道のりを歩み始めていた。
 それならSNSもちゃんと活用すればいいのにとは思うけど、彼らなりのポリシーなのだろう。僕が口を出すことではない。そもそも自分はモーディスからそう言ったことを一切聞いていないのだから、口を出すも何もないのだけど。あ、まずい。結構ショックかもしれない。
 彼の音を聞いて気ままに歌う時間が好きだった。たまにセッションをしたり、楽譜が読めない自分にモーディスが読み方を教えてくれたり。穏やかで、温かくて。その時間を楽しみにしていたのは自分だけだったのかもしれない、なんて勝手な感情が湧いてきて、小さく唇を噛む。いけない、今は仕事中だ。

「ああ、そういえば。今週末、彼らの衣装合わせを予定しているのですが……よかったら、あなたも来ますか?」

 僕の動揺を拾い上げたのか、不意にアグライアが一枚のデザイン画を差し出してくる。今撮影しているネックレスが白いライダースと共に描かれているそれは、おそらく彼らのための衣装だ。

「立ち会って大丈夫、なら……でも、僕が手伝うことってあるのかい?」

 衣装合わせ自体は今まで何度か立ち会ったことがあるけれど、自分が手伝うようなことはほとんどない。

「今回は人数が多いので。それに、全員分のヘアメイクも行う予定です。衣装だけでなく、舞台上の彼らを全て任されていますので。ラフトラもいますが、手は多いに越したことはありません」
……ありがとう、アグライア先生」

 ただし、その分きっちりと働いてもらいますからね、と目を細めるアグライアは、どこか機嫌が良さそうにも感じられて。モーディスの話をしたのは今日が初めてだというのに、もしかしたら自分よりも彼女の方が、僕が立ち会うことを望んでいたのではないかと思うほどだ。
 彼らに繋がりがあったことも、自分は今日知ったくらいだし。なんだか不思議だな、と感じながら。ネックレスに嵌め込まれたラピスラズリをそっと撫でた。


 
 激しい雨が窓を叩いて、風で飛んできた木の枝が大きな音を立てる。にわか雨というにはあまりにも強いそれは、まるで嵐のようだ。
 衣装合わせ当日。予報では晴れと報じられていた天気が大きく崩れ、一帯には雷雨が響き渡っていた。

「ファイノン、タオルの用意を」
「一応、降り始めた頃に出しておいたよ。ただ、足りるだろうか……

 普段から泊まり込みで作業することが多いアグライアの事務所には、仮眠室とシャワールームが併設されている。スタッフが泊まることはほとんどないから、もっぱらアグライアしか使っていないのだけど。シャワールームに置いてあるタオルは、色々なことに使うから、とそこそこの枚数がある。とはいえ、Nikadoryのメンバーはみんな大柄だ。全身濡れてしまったともなれば、一人一枚で足りるのかは怪しかった。
 時間には問題なく到着する、とモーディスから連絡があったけど、移動中に濡れる可能性は高いだろう。程度にはよるが、濡れ鼠になっていたら衣装合わせの前にシャワーを浴びてもらうことになる。
 舞台上の彼らを全て整えるのだと言っていたアグライアの言葉通り、今日はいつになくラフトラの人数が多い。普段はメイクを担当しているラフトラは一人なのに、今日は六人もいた。タオルでは追いつかない可能性を考慮してシャワールームの掃除と準備はしているけれど、もしそうなった場合、全員のセットが完了するまでかなり時間がかかってしまう。果たして、予定していた時間内に終わるのだろうか。

……ファイノン、この後の予定は?」

 腕を組み、考え込むように俯いていたアグライアが不意にこちらに視線を向ける。特にないよ、と返せばそれならよかったです、とやや安堵したような声が返ってくる。彼女もこの状況に思うところはあるようだ。

「特別手当を出しますので……今日一日、手伝っていただけないでしょうか?」
「もちろん。僕にできることならなんでも言ってくれ」
「ふふ、心強いです。感謝します」

 それではよろしくお願いしますね、と頷くと、アグライアは立ち上がって工房へと消えていく。おそらく衣装の調整をするのだろう。
 その時の自分は、無事にモーディスたちが無事に来られるかばかりに意識を割いていたから、アグライアの瞳が輝いていたことなんて、何一つ気づかなかったんだ。



「なんでも言ってくれ……とは言ったけど」

 まさか、ずぶ濡れになってしまった彼らの代わりに衣装を着る羽目になるだなんて。
 まるで誂えたかのようにぴったりのインナーとジャケットを羽織って、指定された位置に座る。普段は適当に手入れしている髪の毛を、今は数人のラフトラがアイロンを当てて癖をつけ、スプレーで固めていた。
 何かを口にしようにも、メイクブラシが顔を滑っていくから迂闊に開くこともできない。着々とモデルとして仕立て上げられている事実になんだか嫌な気配を感じるけれど、なんでもすると言ったのは自分だ。それに、彼らにとっても不可抗力だろう。そもそも、今日の衣装合わせを見学することになったのも、彼女の采配なのだから。
 はぁ、と小さく息を吐いて、ラフトラが嵌めていったイヤーカフの感覚に目を閉じた。


 ――時は少し前に遡る。
 あの後、モーディスたちは無事、事務所へたどり着いた。けれど、自身の予想通り着替えが必要なほどに濡れてしまっていて。嵐のような雷雨だったから、致し方ないことなのだけど。タオルで拭いただけでは風邪をひいてしまうと判断したアグライアは、シャワールームを彼らに使わせることにした。と言っても、シャワーは一人ぶんしかないから、順番に入ってもらっている。スタッフ用のシャツがあるから着替えには困らないものの、人数が人数だから全員の準備が整うのはかなり後になりそうだった。
 一番身体が弱いへファイスティオンがシャワーを浴びている間、アグライアとモーディスは何事かを話し合っていた。たぶん、今後の段取りを決めているのだろう。ライブ自体は一か月ほど先だけど、肝心のアグライアのスケジュールが今日以外ほとんど空いていない。
 今回はセットを諦めて、衣装のサイズと微調整だけに留めることもできるけど、全員の準備が整うのに時間がかかるのは変わらない。衣装の確認をするにも、まずは本人が着られる状態にならないと話は始まらないわけで。どうにもならないものを嘆いても仕方がなかった。
 モーディスとの打ち合わせが終わったのか、アグライアがこちらに向かって歩いてくる。表情の読めない緑の瞳がじ、と全身を検分するように眺めて、ふむ、と一つ頷いた。

「ファイノン、あなたはモーディスとほぼ同じ身長でしたよね」
「あ、ああ……そうだと思うけど」
「では、少し手伝ってください」

 それだけ告げると、アグライアは手のひらを打ち合わせた。なんだかとても嫌な予感がする。いつの間にか現れたラフトラが僕の背を押して、ドレスルームへと連れていく。
 なんとなく、アグライアが今日一日付き合ってくれないかと言った時からそんな気はしていたけれど、まさか本当になるだなんて。
 時は金なりというでしょう、とは彼女の言だ。ファイノンはモーディスと体格が近いから着用イメージになる、と。そんなことを言っていたけど、半分くらいしか理由になっていない気がする。だって、事前に見せてもらっていたデザイン画の衣装と明らかに色味が違う。大まかなシルエットは同じだけど、白を基調としていて差し色に赤を忍ばせていたモーディス用の衣装とは違って、自分が着せられたそれの差し色は青だ。
 Nikadoryのバンドカラーは赤と黒だから、青を使った衣装なんてメンバーの誰のものでもない。
 そもそも、ラフトラが六人いた時点でアグライアはこうするつもりだったのかもしれない。Nikadoryは五人組のバンドなのだから。アグライアがファイノンにモデルをさせたがっていたのは知っていたけど、まさか衣装も用意していたなんて。どこまでこの展開を予想していたのだろうか。

「もっと背筋を伸ばして、堂々としてください」

 ぐるぐると考えていると、アグライアの鋭い声が飛んでくる。どうやら最終調整が終わったらしい。着付けの後、オフィスに戻った僕を上から下まで眺めて、アグライアはラフトラに細かな指示をしていた。慌てて言われた通りに胸を張り、わずかに顎を引く。パーツモデルをしていた時から、姿勢の作り方は叩き込まれていた。それが功を奏したのかはよくわからない。アグライアの「良いでしょう」と満足そうな声が返ってくるのと、カシャッ、とシャッター音が響くのはほぼ同時だった。
 あれ、今日は撮影はしないって聞いていたんだけど。音の方を向けば、モーディスがこちらに端末を向けていた。

……悪くない」

 ふ、とモーディスがやわらかく相好を崩している。
 それは衣装に対して言っているのか、自分に対して言っているのか。たぶん、衣装に対してなんだろうけど。ほとんど人を褒めることがないモーディスの言葉に、ど、と鼓動が大きく跳ねた。
 アグライアの衣装は完璧だから、そういう感想になるのもよくわかる。勘違いをしてはいけない、と思っているのに、端末に視線を落とした蜂蜜色の瞳が、とても優しい色をしているから。君ってそんな表情もできたんだ、と思わず口から飛び出そうになる言葉をぐ、と飲み込んで、口を開いた。

「モーディス! シャワーはもういいのかい?」
「ああ、面倒をかけたな」

 今はペルディッカスが使っている、と続けながらモーディスは撮った写真の細部を確認するように写真を拡大している。いくらアグライアの指示とはいえ、この格好を撮られるのはなんだか少し恥ずかしい。

「それ、あとで消してくれよ」
「なぜ消す必要がある。衣装の確認として着ることにお前も同意したはずだ」
「そ、れはそうだけど……シャワー浴び終わったなら、すぐに君も着ることになるんだから、僕の写真なんていちいち残す必要はないだろう?」 

 だから、と一歩モーディスの方に近づけば、シャワーを浴びたばかりだからか、仄かに甘い香りが鼻先をかすめていく。アグライアが普段使っている華やかな香りの奥に、モーディスが普段つけている甘い香水の匂いが混ざって、目の前にぱち、と光が飛んだ。匂いが違うだけで、なんだかひどく落ち着かない。まだほんのりと湿っている髪が光を反射して、きらきらと輝いて見えた。そわそわとする気持ちを押さえつけるように、ゆっくりとモーディスに手を伸ばす。

「まだ髪が濡れてる。ちゃんとドライヤーで乾かしたのかい?」

 髪に指を差し入れて通していくと、わずかに湿っている。指摘されたことが心外だったのか、む、とモーディスは唇を引き結んで、僕の手を払った。

「言われずとも使っている」
「どうだか。まだこの辺とか濡れているじゃないか。このままじゃ風邪を引いてしまう」

 もしかして君って、普段自分でドライヤーとかしないタイプ? と口にすれば、目に見えてモーディスの眦が吊り上がった。

「アグライア先生、ドライヤー借りるよ」
「どうぞご自由に」

 風邪を引かれたら困るから、と彼の手を引いてドレスルームへと足を向ける。そういえば、アグライアは僕たちのやりとりに何も言わなかったな、と考える。モーディスの髪が乾き切っていないことくらい、気づいたはずなのに。ああでも、ラフトラがセットするならその時に乾かしてくれるか。わざわざ僕が口を出すことでもなかったのかもしれない。でもまぁ、彼女が止めないのなら、多少の意趣返しくらい、しても良いだろう。
 後でどう伝えればモーディスが写真を消してくれるのだろうか、と考えながら。慣れない香りに落ち着かない心を誤魔化すようにドライヤーを手に取った。



 ◆



 ごお、と気圧が上がって耳の奥が塞がれる感覚がする。イヤフォンから流れるメロディを追いながら、肩にのしかかる重力に従うように、モーディスはゆっくり目を閉じた。
 来週から始まるワールドツアーは、クレムノスの凱旋公演から始まり、オクヘイマでファイナルを飾る予定だ。関係者チケットをファイノンに送ってはみたけれど、果たして奴はそのメッセージを確認しているのだろうか。
 
 数年前、唐突に発表されたファイノンの芸能界引退は、瞬く間に週刊誌の表紙を飾り立てた。俳優としても名が売れ始め、国外からのオファーも増えてきたというタイミングのことだった。ここからスターへの階段を駆け上がるだろうと誰もが思っていたのに、ファイノンは新規の仕事を止め、受け持っている仕事を全て片付けて引退を発表した。
 ファイノンの最後の仕事は、映画の主演兼主題歌だ。今まで歌をやってこなかった彼の最初で最後の曲は、自分が作詞と作曲を担当した。ファイノンの甘く優しい声質を生かしたバラードは、自分でも彼に相応しい最高の曲だと自負している。
 ただ、奴がタイミング悪く曲の発表直後に引退なんてするものだから、ファイノンの進退にNikadoryが関与しているのではないか、と痛くもない腹を何度も探られる羽目になって。へファイスティオンなんかは、たいそう腹を立てていたものだ。今まで奴との関係に表立って反対していなかったメンバーたちもみな、苦々しい表情を浮かべていて。こうして彼のことを気に掛ける自身にあまり良い顔をしない。自分としてもその気持ちは理解できる。ファイノンは自分に何も告げずに引退したし、最後に会った日から連絡が取れていないのだから。
 ただ、それでも。奴と最後に会った日に言っていた「絶対に変わることのない気持ち」という言葉が心の奥にずっと残っているから、ファイノンの選択を待つのだと決めていた。
 奴は、脆く崩れやすい硝子のような心を持った男だ。他人の期待に応えようとしすぎるきらいがあって、自身の願望はひどく希薄で。けれど、それなのに自分とのことになると、子供じみた独占欲と競争心を覗かせる。
 きっと、自分が音楽の道で身を立てようとしなければ、奴は芸能界なんかに入らず、大学時代に出会ったばかりの頃のまま、家業を継いでいたのだろう。本来道が交わることなどなかったのに、触れ合ってしまったから。奴の運命は、ずれていったのだと思っている。
 だから、ファイノンが何かを定めて、自身の元を離れたのなら。その選択の行く末を見届けてやるのだと決めていた。
 今でも、街で彼の歌う甘やかなラブソングを耳にすることがある。ファイノンの姿はもうどこにもないのに、優しく囁くような歌声だけがずっと頭に残って離れない。
 ポーン、と鼓膜を打った電子音と共に、シートベルト着用を義務付けるサインが消える。
 機内のアナウンスを聞き流しながら、ちら、と窓の外に視線をやった。分厚い雲が羽の下に広がって機体の影を映している。きっとこの空の下、どこかに奴はいるのだろう。
 あと数時間もすれば、クレムノスの地を踏むことになる。そうすれば、奴のことを気にかける時間は取れなくなってしまう。
 電波を切った端末を開いて、いつだったか勝手に待ち受けに設定された男の写真を見つめる。これは初めてファイノンが雑誌の表紙を飾った時のものだったか。変えるのが面倒でそのままにしていたそれのおかげで、奴の顔を覚え続けていられる気がした。きっと、変えたとしても忘れることはないのだろうが。
 不意に、ファイノンに消してくれと頼まれていた写真があったな、と思い出してカメラロールを遡る。今の端末にするよりも昔の、本当に古い写真。
 撮られることなんて何も意識していない、少し背筋を正しただけの、どう見ても衣装に着られながら精一杯胸を張っているファイノンの写真。素朴で、幼くて。けれど、愛おしい一枚だった。
 初めてのライブ衣装を仕立ててもらった時に、アグライアが奴のために作った色違いのロッカージャケット。
 少ししか袖を通されることはなかったものの、後で買い取ったそれは、今でもクローゼットにしまわれている。
 あの頃の自分たちは、まだ何者でもなくて。未来に向かって歩き出したばかりの若造だった。ファイノンもまだ顔出しモデルなんてしていない、田舎から出てきたばかりのただの事務所手伝いのアルバイトで。きっと、本来であれば交わることなんてない人生だった。
 この道を歩むと決めたことに何一つ後悔などしていない。もとより、それで良いと思っていた。だが、ファイノンの人生において、自分と交わったことで選び取ったそれが、果たして奴にとっての最善だったのかはわからない。
 けれど、他人の願いを叶え続けようとする男が、引退を決意したのであれば。きっと、奴の中での答えが出たのだろうとも思う。そう思っているからこそ、ファイノンを深く追うことはしなかった。
 イヤフォンから流れる旋律が、ツアー用の新曲に変わる。この曲だけは、ファイノンに宛てたものだ。ワールドツアーが決まった時から、世界のどこかにいる奴のために書いた歌。
 もしも、全てが終わった後に、それが奴に正しく届くのならば。自分はずっとここにいるのだと伝えるためのもので。果たしてそれがファイノンに届くのかは分からない。けれど、何も言わずに消えた男に対して、そのくらいの意趣返しをしても許されると思った。
 飛行機が高度をわずかに下げ、故郷が近づいていることを教えてくれる。
 衣装に着られている男の写真を待ち受けに設定し直して、モーディスは小さく男の名を呼んだ。

 


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