第十二話
通り魔の話
・
羅乃目……紅族。第十九代統領
・
黒骸……紅族。羅乃目の許婚
・
羅神……羅乃目に憑いている黒い狼の
憑守
・
雨庸……黒骸に憑いている白い大蛇の憑守
・
鎌苅トキ時……憑守が見える、
食事処伊呂波二代目店主
・
天河良……通称「死神」。伊呂波のケツ持ちをしている彫り師
・
稲垣儀三郎……良のお隣さん。闇医者
・
無銘……良のお向かいさん。ひとでなし
・
真島陣次……良のご近所さん。毒を愛するイカれたくそ野郎
ひとでなし。
人で無し。
おおよそ人間が持ち合わせているであろう優しさや思いやりの心がない様。人情の欠落している人間を表す。
軽薄、非道、冷酷、残酷。
しかしこれは「人間に使うからこそ」意味をなす言葉であり、ある意味で非常に人間的な言葉と言える。
では人間ではない対象には、どの言葉を投げつけてやればいいのだろうか。
「ひとでなし?」
「ええ、正にその言葉の通りです」
いつから自分が人間だと思い込んでいる?
*
太都、東町の一画、中低階級向けの墓地。
お世辞にも綺麗に整備されているとは言いがたいが、それでも個人を偲ぶ想いを一手に引き受けたその土地は今日も凛としていた。並ぶのは簡素な墓石と、場所によっては土の盛り上がりと適当な石だけであるものの、天に向かってそびえる姿は厳かである。
その瞬間に人影はなくとも、添えられた花、花、花、誰かの好物。昨日も今日も、誰かが誰かを思った痕跡が残されている。
「
鎌苅貴一……キイチ。ほお、お前さん随分と立派な墓建てて貰ったのう」
「いやあー、やっと一緒に来られてよかったです」
案内された墓石の文字を読み取る儀三郎と、後ろで満足そうに微笑んでいるトキ時。何度も口にしつつも確約を取れていなかった「一緒に先代の墓参りをする」を、ようやくこうして実現させたのだ。
「
……喧嘩別れの記憶はあれど、もう理由もきっかけも覚えとらん! すまんな!」
少しも悪びれていない様子の儀三郎は豪快に笑いながら墓石を素手でべちべちと叩いている。
「まあ大方わしが何かやらかしたんじゃろうな
……お前さん無口で頑固な糞爺じゃったのう。それにあの小さかった倅もこんなにデカくなって
……」
儀三郎は持っていた酒瓶から酒をひと口。そして残りは貴一の墓石へと乱暴に振りかけた。
「わしは長生きするぞ」
儀三郎の髪は今日もきっちり整えて結ばれており、髭は少しも残さず剃られている。
「倅とまた縁があるとは思わなんだ、これも巡り合わせというものかもしれんな。お前さんの代わりに見といてやるからそこで指咥えて眺めとれ」
儀三郎の着物は、着古されて袖先が擦り切れている。
「そんな風に思っていてくれたんですか」
「年寄りだって、友の墓の前でくらいは格好つけんとな」儀三郎は墓前でしゃがみ、作法もへったくれもない雑さで手を合わせた。「お前さん、キイチとの
順番を間違えなくてよかったのう」
瞬時に言葉の意味を理解したトキ時は、脳みそが揺れる感覚を覚えた。
親と子の守るべき順番。少なくともそこだけは守れた。
「守れた、もの
……それだけなんですが」
「親はなんだかんだ、それだけでいい。砦だ」
「
……」
神妙な面持ちで墓石を見つめるトキ時を見かねて、儀三郎は全く別の方向へ話題を変えてきた。この老人は事実を述べただけであって、湿っぽい空気にしたかったわけではない。
「お前さんのその、歌舞いとる襦袢の代わりに着てる白いのはなんて言ったか」
「え? ああ
……これは『しゃつ』って言うんですよ、舶来品のひとつです。先代が客に貰ったか何かで手に入れて、自分は着ないからやるって、昔貰った物が始まりです。自分でも細々と買い集めてるんです」トキ時はシャツの襟元を摘んだ。「西町にある、胡散臭ーい店にたまに入荷するんです。あまり手に入らないので苦労することもありますけど、今となっては先代との思い出の延長って感じで。気に入ってます。夏は暑いんで着ないですけど」
一の質問に真摯に答えようと、十を返す為にあれこれと話すトキ時。締め括りに、肩をすくめて笑う。
儀三郎は顎を右手で撫で回して何かを思い出したらしい。その髭の生えていない滑らかな顎を。
「
……その客、多分わしじゃな」
「へ」
「襖絵を描きに行った屋敷が異国のお偉いさんで
……どうだったか、よくわからんまま貰ったんじゃが
……なんやかんやでそれをキイチにやったな。今思い出した」
「え!?」
「持ち金を鉄火場であらかた溶かして、確か支払いが足りんかったとか、そんなじゃろうな」
「ええ
……?」
「いやもう賭けは懲りたから今はやっとらん。ほお〜他はあんまり着とらん歌舞いたもんを、お前さんみたいなくそ真面目そうな奴がなんで着とるんかと思っとったら、わしか、原因は。ほう」
「あのちょっ、と、情報が多いんですけど
……」
世間はどうやら、狭いらしい。
儀三郎と墓参りに出たトキ時。
それ以外はどう過ごしているのかと言えば。
羅乃目は早速曲げわっぱに弁当を詰めてもらって山へと元気よく遊びに行った。一応は日が暮れる前には戻るよう伝えられたが、それが守られるのかは定かではない。(門限は後々破るつもりであっても、最初は守るのが大切である。)だが羅神も一緒なので問題ないだろう。
黒骸はイゴさんの元で碁を打って来た。本人も少しずつ手応えを感じられるようになってきたらしく、初期よりも明らかに意味を持たせた一手を選べるようになってきていた。イゴさんも満足そうである。
そんな少し軽い足取りで伊呂波へと帰って来た黒骸を、待ち構えていた影がある。
「黒!」
控えめに、短く。だがはっきりとした発音で呼び止める声。
「良さん、どうしたんですか? まさか店に誰も居ないからって外で待ってたんですか?」
手応えの喜びの余韻を残している黒骸の声は、普段よりもほんの少しだけ弾んでいる。
「
……お前に用があって来た。歩きながら話す」
己とは対象的な苦い表情の良を見て、瞬時に態度に締まりが出た。
「わかりました」
店内で話さないということは不特定多数の第三者にではなく、いつ帰って来るかわからないトキ時か羅乃目に聞かれたくない話という推測が立てられる。また大人の話だろうか。
先陣を切る良は大股で蜜方面へと歩を進めていた。これからする話を覆い隠す雑踏を求めている。黒骸は黙って半歩後ろに着いた。
「店にイタルが話しに来たろ?」
いつ切り出されるかと構えていたが、それは思っていたよりも遥かに唐突に始まった。顔の向きを正面から変えずに、続きの文を付け足す。
「うちの長屋に来た新入りの話」
「ええ、四六時中殺気を放っている方、ですよね」
これに良からの反応は無く、また沈黙。この続きにはもう一段階上の雑踏が必要なのかもしれない。目的地を持たない徘徊が今一度挟まれる。
「
……郡司覚えてる?」
「ええ。流石に忘れません、けど
……」
皆まで言う必要は無いだろう。わざわざあの男の名前を出す意味を。
「お前本当はイタルの話で薄々勘付いてただろ」
良は足を止めて振り返る。少し、ほんの少しだけ、責めるような雰囲気が滲んでいる。
「話を聞く限りでは確かに可能性はよぎりましたが、ああいった身分の人間は不始末の際に責任だとか言って腹を切るものでしょう? まさか存命とは夢にも」
「確かに
……それもそうか。悪い」
良は再び歩き出す。
「それを何故、俺だけに?」
黒骸は、先程よりも良との距離を詰めた。耳元で囁けるような距離に。
「トキ時に知られたくない」
短く、そして明確な答えが返ってきた。
「あいつにあの件をチラつかせたくない。荷が重すぎる案件だった。あいつなんで急に南町に旅行だなんて言い出したと思う? 榛からの金を使い切って手元から無くす為。あれを楽しいと美味いに変換して全部手元から無くす為」
「
……」
「この俺が言うのもなんだけど、あいつは本当に普通の男だ。裏社会のあれこれに巻き込んだら絶対に駄目なんだ。ただ真っ直ぐ日の当たる場所で美味い飯作って笑っていないといけない男なんだ」
「トキ時さんが大切なんですね」
「そりゃあね。当然」
ここで良の歩みが少し緩んだ。
黒骸は斜め後ろではなく、良の真横につける。
「とにかく。郡司の見た目はかなり変わってる、元を知っているからかろうじて判別できる程度で、正直なところ同一人物とは信じがたい。短期間でこうも変わるかねってくらい」
「しかし
……」
「そう、間違いなく郡司。俺は人の顔と名前を一発で覚えるのが得意なんだ。人ってのは顔の造形だけじゃなくて仕草や癖からも総合的に判別出来る。他人にしては、似過ぎ」
良は一度言葉を区切ると、「入ろ、奢る」と言って適当な茶屋を指差した。
店内へ足を踏み入れるやいなや「あれ、死神じゃないか」と気の抜けた店主の声。
「よう。奥空いてる?」
「へいへい空いてるよ、悪巧みかい?」
「へへへ、どうかなー?」
「まーったくよ、暇してんなら最近ここいらではしゃいでる奴らにお灸を添えてやってくれよ」
「なに、また? わかった、それは別で聞きに来るから」
店の奥へ案内された死神様は、黒骸へひとつも確認を取らないまま適当に注文を終え、煙草を一服。
「流石、北町の死神様は顔が広いんですね。初めからここを目指していたのですか?」
視線だけで店内を確認する黒骸の口からは、単なる感想が出てきた。少し感心している様子だ。
「まあね、西と北ならこの顔だけでかなり融通利くよ。西だとたまに面倒ごととか片してんの。利害が一致したら、ね。放っておくと伊呂波にまで害が及びかねない案件とか。おかげで変に嗅ぎ回らなくてもある程度の巷の情報が、ご丁寧に至る所から入るわけ。そんでここに入ったのは気分、目に入ったから」
こういったものも、良の情報網のひとつということだ。
「
……全てはトキ時さんの為に?」
「捉え方はなんでもいいよ」
良の前髪の隙間から、左の瞳が覗いている。唇の隙間から吐き出された紫煙で、それも一瞬、見失う。
「
……あの」
「はいはい、じゃあ失礼するよ。はい、はいどうぞ、はいはい」
黒骸が口を開いたと同時に、注文の品が手際よく眼前に並べられる。
「んじゃあ、ごゆっくり」
登場した葛切りは、茶と箸休めまでついていた。
続きを話したい黒骸とは裏腹に、良は早速葛切りに舌鼓を打っている。「食いな、美味いよ」
視線を完全に葛切りに移してしまっている良に倣い、黒骸も一旦箸を手に取った。
「
……伊呂波に出入りしている『死神』が居る長屋だとわかっていて、入居してきたと思いますか?」
箸を持ったものの葛切りを口に運ばない黒骸と、視線だけ上げた良の目が合う。
「そこは微妙かも」良は一度茶を啜る。「他の町の住居事情は詳しくないし、別に北町も全部がそうってもんじゃないけど
……うちの長屋、入居はしやすい。紹介は不要、前金も用意しなくていい。部屋が長いこと空いてるってのは界隈じゃあ比較的有名だし、北町としても異端なご近所さんと、立地と大家に目を瞑れるなら、安くて広くて文句無し」
良は「だろ?」と同意を求める視線を投げてくる。確かに身ひとつで北町へ来たのなら、選びやすい条件のように聞こえる。
「でも伊呂波に来ない、そして俺と顔を合わせても眉ひとつ動かさなかったことを考えると、完全に人攫いの連中に憎悪が向いていて俺たち、いや、黒にはもう興味がない
……とは思ってる」
「俺に興味があったとしても、とんだとばっちりですけどね」
「まあ、とばっちりも往々にしてあり得る話。だから向こうからわざわざ接触してくる可能性は低いし、万が一顔を見てもトキ時が気付くとは思えない
……とは思ってる」
希望的観測を孕んだ不確定な推測。それでも最悪の可能性を想定し、対策を講じることで守りたいものがある。
「
……保険が欲しい、ということですよね。こちらに接触してこないという絶対的な何か」
「俺も思ったけど、ないじゃん。そんなん。だから事情を知ってる人数が多い方が対応しやすいかと思って黒に言ってる。羅乃目には言わないつもり。羅乃目は匂いで気が付くとかありそうだけど、性格的に気付いても言及してこない、多分、そっちに賭ける」
「その賭けなら多分勝てますよ
……この話、一旦俺に任せて貰えますか? 案がひとつ、あります」
「なに」
黒骸は良からの問いに唇を軽く開きかけたが、きゅっと結んだ。
「
……上手くいったら、お話します」
「
…………」
葛切りをありがたく完食した後、黒骸は良を茶屋に残し足早に伊呂波へ戻ると一息も入れずに即店を出た。懐に、何かを入れて。
気楽に良に会いに行くのであれば道中イタルとばったり出くわすのも歓迎だが、今回ばかりは誰にも会わずに済ませたい。集中している。意識を薄めたくない。
今日の北町は命乞いと怒号という最低な出迎えをしてくれた。雨庸が見渡して面白おかしく状況を説明してくるが、どうやら見知った顔は無い。人間が起こす一方的な暴力に興味もないので、早々に華鉄長屋のある町外れへと道を逸れる。
迷わず手を添えた戸は、良の向かいの部屋のもの。新入りの無銘が暮らす部屋。
短く、それでいて力強く戸を叩く。壊れた長屋木戸を潜った辺りから肌を刺す嫌な殺気と、雨庸が先に顔を突っ込んでいて在宅は確認済みではあるが、戸の音に付随して動いた気配を掴んでから返事も待たずに戸を開ける。
「こんにちは郡司さん
……今は無銘さん、とお呼びすればいいでしょうか。俺のこと、わかりますよね?」
主導権を握ろうと、あえて上から覗き込むように物理的に威圧しながら話すことにしたらしい。微笑みを絶やさず、決して視線を逸らさず。
座ったままの無銘はぎらついた瞳を投げてきた。座ったままと言いつつも、その手は刀に掛けられている。抜刀を待つ刀を、無銘は黒骸の顔を見るなりわかりやすく放った。痛み擦り切れて畳と呼ぶのも躊躇う床に、武士の魂とやらは打ち捨てられた。
この短い時間で黒骸は郡司をできる限り観察する。元を知っているという優位性を持っているからこそ可能性を候補として挙げられるだけで、実際目の当たりにしても
これが郡司直助だったとは俄かには信じ難い。
どうやら人間は短期間でそれなりに変貌出来るらしい。いや、今正にここに
……これが黒骸の素直な感想であった。
「あの男にでも聞いたのか。まあいい
……俺は、お前に礼を言いたいと思っていた。お前は正しかった」
「正しい、と?」
黒骸は「礼」の部分で警戒はしたものの、続く「正しかった」を聞いて瞬間的に高まった緊張を素早く解く。無銘からは絶えず放たれる殺気の対象から明確に除外されたわけではないが、筋肉が収縮しているよりも多少の脱力がある方が咄嗟の場合にも動きやすい。
そしてどうやら郡司だった頃から口調が大きく変わっている。変わったのは見た目だけではないということだ。
「随分と怪訝そうだな。正しい、そのままだ。お前は自分を『ひとでなし』だと言ったな。少なくとも俺はそう受け取った。つまり、ひとでなしであることは正しかった」
「
……話が、見えませんね」
黒骸の目の前で話す男は、まるで人間とは思えなかった。黒く染まった負の感情を固めれば、あるいはこういう形になるのではないか、程度の。
「
……笹垣家を皆殺しにして来た」
「!」
「俺はひとでなしに成ったんだ。無銘に成った。人間なんて辞めてやった。もっと早くひとでなしに成るべきだった」
全く予想していなかった話の展開に、黒骸は内心動揺している。
「
……人攫いの組織について嗅ぎ回っているらしいですね。あれから何があったのか、教えていただけませんか? 俺に礼を言いたかったくらいに
恩義を感じているのでしょう? 気になりますね、あなたがこちら側へ来た理由が」
動揺を悟られまいと黒骸は一層微笑む、出来るだけ優しい表情を意識して。それでも目線の高さは決して揃えず、立ったままの姿勢を保っている。見下ろしている。
「見つからなければ腹を切るようなことを言っていたじゃないですか。それをせずにここに居る、ということですよね? 皆殺しに『お蝶様』は入っていないのでしょう? ほら
……もう俺たちは『ひとでなし仲間』じゃないですか」
少々無理があると思いながらも、駄目押しで同じ穴の狢だと強調する。話を、交渉を少しでも容易にする為、相手の手の内胸の内を聞き出せるのであれば聞いておきたいのだ。そしてこちらの切り札が通じるのかどうか探りを入れつつ。
「仲間
……はは、とんだ戯言だな。ははははは!」無銘は驚くほど大きな声で笑った。「まあひとりくらい居てもいいか、俺が
何であったか知っているしな」
無銘は語る、己が最後に郡司直助だった時の物語を。
「
……俺の捜索虚しく、お蝶様は腕だけ帰って来た。お前たちが散々警告していた結末だ。俺はお蝶様を守りきれなかった自分を呪いながらも、『腕だけなら、まだ、あるいは』と一縷の望みを抱いていた。生きてさえいてくれれば
……」
語る男の瞳に光は無い。無いはずであるのに、妙にぎらついているような錯覚を覚える。およそ人間には不可能と思しき表情。この男は本人の言葉で言うところ、間違いなく『成った』のである。
「腹はもちろん切るつもりだった、当然だ。それでもその一縷の望みに賭けて、あと少し時間が欲しいと進言する為に当主を探して屋敷を歩いていた。三男とは言え笹垣家の息子が行方をくらませているんだ、その時、普段は屋敷にいない親戚一同がこれでもかと集まっていた
……祝言の日取りも迫っていたしな
……そこであの男、お蝶様の叔父に当たる男が
……間違いなくこう呟いていた」
──ダンッ
郡司直助だった男が、床を拳で思い切り殴った。行き場のない憤怒を吐き出す先を探している。
「あの男青ざめて『男を攫うはずがない』と、間違いなく、間違いなく言っていた! あの男! あの男ォ! 問い詰めたよ! あの男は人攫いの組織を介して肉欲に耽るとんだ俗物だった!! お蝶様が辿ったであろう道までもぺらぺらと!!」
──ダンッ、ダンッ、ダンッ、ダンッ
「俺は初めから間違っていた! お蝶様の拒否など聞き入れずにふたりで何処かへ逃げてしまえばよかったんだ! 無理矢理でも! 俺がひとでなしであれば! 俺が先に攫えば! そうすればこんな、こんな
……」顔を覆っていた両手をはた、と外し、次は力無く笑っている。「俺はそこで気が付いたんだ、そもそも『笹垣家』が悪だったと。お蝶様の意思を無視して飛丸様として婿入りを強いるあの家こそが悪だった。そうでなければお蝶様はお前にも縋ったりしなかっただろう。西町にも来なかった。諸悪の根源は笹垣家そのものだったんだ。だからお前個人にもう怨みはない。根源を、根源を絶たねばという思考が脳を覆い尽くしたかと思えば
……次の瞬間、もう辺りは血の海で、屋敷中誰ひとりとして息をしていなかった。やってやった。この為に腕を磨いていたのだと確信するほどに」
満足気にも見える無銘の表情は腹の底から嫌悪感を湧き上がらせる類のもので、見るに耐えない酷いものであった。
何かをきっかけに思考や思想、行動が変化することは珍しくはないであろう。そして、その何かが真っ直ぐに理由になっている場合と、本人の中で湾曲して脳を揺さぶった場合とが存在することも否定は出来ない。こちらはどうやら、後者寄りの雰囲気を纏っている。
開き直りや、現実逃避に近いのかもしれない。
「
……なるほど、経緯は把握しました。そしてあなたは腹を切ることを辞め、直接手を下した組織そのものにも復讐を目論んでる、と。そう受け取っても?」
「構わない。俺の復讐は終わらない。終わっていない。郡司直助はお蝶様と共に死んだ。俺は無銘だ」
ここまで聞いた黒骸は、そっと長い指を揃えた手で口元を覆う。「なるほど
……」と、小さく頷きながら次の言葉を少々時間を稼ぐような素振りを見せた。
「
……教えて頂きありがとうございました。では、俺がここに来た理由を簡潔にお伝えします」黒骸は口元から手を離す。「お願いに参りました。食事処伊呂波の店主、鎌苅トキ時に、ひいては我々に金輪際接触しないで頂きたい。店が北町に近い、そして向かいに住む死神と懇意にしている為、すれ違う程度の接触は高確率で発生し得ると判断し、これは許容します。しかし
あなたが人間であったことを仄めかすような言動は一切認めません。無銘として徹底して頂きたい」
「確かに俺は人間であったことを全て捨てた身だ。今後それを他人に匂わせるつもりは一切無い。だが
……俺はお前のその要望を飲む理由も義理もない」
「仰る通りです」
黒骸は二度ゆっくり深く頷くと、目を細めて口角を上げた。
「俺たちは、あなたがご存知の通り便利屋を営んでいます。実は先日、とある場所の事後清掃を依頼されまして
……」
黒骸は懐へ手を入れる。探るまでもなく指先に触れたそれを素早く掴み取ると無銘の眼前に晒した。
「流石に詳細はわかっていません。が
……」角を指先で摘んだそれを無銘の前で左右に揺らす。「どうやら何処ぞの人攫い組織の『顧客名簿』です。全て処分して欲しいとの依頼をこっそり無視して拝借して来ました。血で開けない部分や解読不可能の部分もあるのですが実は気になる点がありまして、先程のあなたの話を聞いて確信に変わりました」
ぺり、と乾いた硬い音を出しながら黒骸は顧客名簿を捲り、目当ての場所を長い指で指し示した。
「ここ、笹垣、と読めますよね? 叔父ということはご当主のご兄弟でしょうか。長男以外は大抵婿入りするので姓が変わると思うのですが、逆に足がつくことを恐れて旧姓で登録している可能性は? もしくは婿入り前から火遊びをしていた可能性は? この男があらゆる組織を利用している可能性も否定できませんが
……しかし、ここに記載されている名前の者を片っ端から当たれば、目当てのものかは定かでなくとも、少なくとも名簿の組織についての手掛かりになり得るとは思いませんか? そこからまた別の組織についても掴める可能性は?
……こちらの名簿を差し上げます、お願いを聞いて頂けるのならば」
黒骸は自分でも驚くほどに舌が回っていることを脳の隅で自覚していた。回る舌が話の筋を通して意味を成しているのかは正直判断できかねていたが、それでも、言葉を止めることは出来なかった。
「
……俺はお前が誰から何処の事後清掃を任されたかをここで吐かせることも出来るが?」
「残念ながら仲介屋を挟まれてしまっている為に詳細が降りてきておりません。またこちらから問うのも御法度
……守秘義務だとかの諸々を差っ引いたとしても、俺を詰めてもこの名簿以外は何もお出し出来ません、そもそも知らないので。いかがですか? これ以上出てこない不確かを求めるのか、確実な物を手にするのか
……この名簿が本物であることだけ、保証します」
黒骸が伊呂波へ帰ってきた時、家主も同居している愛する許婚も不在であった。店内を抜けて土間へ出て、そのまま中庭へと足を進める。
掘立て小屋は陽が高い時間帯も相変わらずぼんやりと薄暗い。今の心境には心地よい薄暗さ。
適当に履き物を脱ぎ捨てると、それを揃え直しもせずに部屋の奥へと転がるように座った。
黒骸の肩が小さく震えている。
「
……くく、ふふ、ふ
……あははははは!」
黒骸は笑っている、耐え切れないと言わんばかりに。顔を覆っていた手を退け、壁に背を預け、顔を天井に向け、頑なに大きく開きたがらない口を大きく開けて笑っている。立派な犬歯を剥き出しにして笑っている。
「あっははははは!」
人間が誰も居ない食事処伊呂波の敷地内で、獣の笑い声だけが響いている。
「はあ
……ふふ、ああ、本当にくそ以下だな、人間って生き物は、反吐が出そうだ
……ふふ、無銘の話を聞いている間、笑いを堪えるのに必死だったよ。ねえ、雨庸」
伸ばした右腕に視線を沿わせ、黒骸は雨庸を呼ぶ。ここに来い、という意味だ。
「人間同士で殺し合うなら勝手にすればいい。でもまさかその為に人間を辞めなければならないなんて片腹痛い。まるで人間は理性的であると言っているみたいだ、滑稽過ぎる、現実逃避と自己防衛の一種じゃないか、あんな戯言とても耐えられないよ。それから
……」右腕に絡んできた雨庸の頭を撫で、今は閉じられているその大きな口を人差し指でなぞる。「例え何者であっても、大切としているものを奪われれば復讐に走る。だから俺たちは間違ってない。俺は間違ってない」
同意を求める黒骸の視線を受け流しながら、雨庸は口の中だけで「だったらよォ」という前置きをすると、いつもより遥かに控えめな音量で言葉を紡いだ。
「オメエ
……なんで無銘と交渉みてえなマネしたんだ? 死神は話を共有したかっただけで、一歩踏み込んだ行動を求めてたわけじゃねえ。別にお前が出向いてあんなことする必要なんてなかっただろ? 微妙な嘘まで吐いてよォ。どうすんだ、あいつが辿り着いたら
……死神の話だけ聞いて、はいそうですかって。なんでしなかったんだ」
「
……ああ、確かに
……」
まるでその発想はなかったとでも言いたげな黒骸の声色は頼りなさ気に床に落ちた。笑っていた時の勢いは瞬時に失われ、ゆらゆらと花びらが散る速度でぼんやりと落ちて床に染みていく。
「なんでだろう」
長生きすると豪語している儀三郎であるが、聞いたところどうやら食生活にそれほどは気を遣えていないらしい。彼の生活のほとんどは、酔えもしない酒で満たされていた。伊呂波へ足繁く通ってくれるわけでもないので、良のように食事の内容をなんとなく握して面倒を見ることも出来ない。そこでトキ時は不定期で料理を儀三郎へ差し入れすることに決めた。儀三郎に己を少しでも長く『見といて』もらおうと決めたのだ。
ゆくゆくは良や羅乃目たちに配達を任せようと思いつつも、初回は自分で直接届けようと気合を入れて、こうして冷や汗をかきながら北町を歩いている。
とは言っても羅乃目と黒骸を両脇に侍らせて歩いているので、安心感は多少上乗せされているだろう。トキ時を中心にして、黒骸が前方と左側、羅乃目が右側と後方を担当するという防衛の布陣を敷いている。ふたり居ればトキ時の前後左右を固めることは容易い。
「ねえ、たまにってどのくらいの頻度でやんすか?」
トキ時の右側やや後方を歩きながら、羅乃目はここ数日しきりにこの話題を上げてくる。
「たまに、なあー。月に何回かってところじゃないか?」
「何回かって、何回でやんすか?」
「うーん、そこは前にも言ったけど個人の裁量だよな」
「ぬ。じゃあ結局わかんないでやんす」
「ははは、だからそこは羅乃目が決めてもいいってことだよ。たまにってこのくらいだよなーってさ」
「たまに、難しいでやんす
……」
羅乃目は賽の目屋から帰ってからと言うものの、たまにの頻度についてあらゆる人物に聞いている。昨晩は客にも片っ端から聞いていた。
「たまに? 俺がここ来るくらいの頻度じゃねえか?」「いやいやもっと短えよ、お前はもっと来いって」「最近嫁がたまにも抱かせてくれなくなったな
……」「ッヒーご愁傷様だな」「どうせバレたんだろ花びら通いがよお」「俺はたまに違う女で緩急つけんのが好きなんだよお〜だからこそ嫁と燃えるんだろうがよお〜」「だからそのたまにの頻度の話だってんだよ」「三日に一回!」「へ? 抱く頻度の話かい?」「ちげえよ、たまにはもっとたまにだろうが」「週一はやりてえ」「は? 週三はやりてえだろ」「おーいこっちに酒追加!」「毎日!」「ぎゃははは!」
思っていたよりも回答にばらつきがあるので、本人の中で徐々に混乱が生じ始めている兆しが見える。だからこうやって二周目三周目に入っているのだ。
「二週間に一回、くらいの頻度じゃないかな。それで多いって言われたら減らせばいいし、大丈夫そうなら増やすのがいいんじゃない?」
黒骸の提案を聞いた羅乃目は「ふんふん」言いながら唇をほんのり尖らせた。
「ごめんで済んだら奉行所はいらねえんだよ! 死ね!」
町に響く怒号に、トキ時の肩が大きく動く。
ご覧ください。左手に見えますのは、命乞いに被さる罵詈雑言と、今にも切れそうな額の血管。それから白鞘の匕首と、ふたりがかりで首を垂れる体勢で固定された男。今日も今日とて北町は北町なのである。
青ざめたトキ時はそれを視界から外す為に素早く俯き、それでもその場を下手に刺激しないようにゆっくりと道の右側へ寄っていく。
黒骸がさり気なくその体でトキ時の視界を遮り、嫌な音が耳に入る頃合いを見計らって雨庸が阿保のごとき大きな声で天気について叫ぶ。傍目には嫌な音に体をビクつかせている様子に見えるが、トキ時にとっては雨庸の声が大き過ぎることによる単純な驚きであり、それにより嫌な音は聞こえていないという神がかった仕様である。人間用に外側だけを繕った最善手。
「
…………びっ
……くりしたあ」
極めて小声でそう呟く。心臓が口から飛び出そうになっているものの、その理由は至って健全なトキ時の完成である。
「オレ様の美声にそんなに驚くなよな」
黒骸に巻き付いた得意げな雨庸にトキ時は目線だけで礼を言った。おそらくこの大声作戦は雨庸の瞬時の判断で決行されたのだから。
だから気が付かなかった。トキ時の右前方から、明らかな悪意を持って近寄ってくる人間に。
明確にトキ時との距離を詰めてくる男の姿を捉えた羅乃目は、男がトキ時に接触する瞬間を見計らって間に体を滑り込ませて袖を引っ張る。
「ねえトキさん、今日はねえお豆腐食べたい気分でやんす」
「おー? 唐突だなあ。いいぞ、夜は豆腐で一品用意しような」
男の目当てだったであろうトキ時との接触は、羅乃目との接触という形で幕を引いた。ぶつかったと文句のひとつでも言われるかと思っていたが、拍子抜けするくらい呆気なく男は無言のまま即座に離れて行く。
「
…………ちくってした」
「? 羅乃目、どうかしたのか」
「ううん、なんでもないでやんすよ。だいじょぶ。お豆腐楽しみだなーって」
確かに右腕上部に覚えた鋭い痛み。トキ時へ下手に心配を掛けまいと袖を捲るのを諦めた羅乃目は、さり気なく左手で患部を押さえて、着物越しに流血していないことだけ確かめた。
トキ時は今晩豆腐で何を作るか脳内で構築を始めた。
黒骸はこっそり無銘のことを思い出していた。
雨庸は機嫌がよさそうに体をくねらせていた。
羅神はそれを見ていた。
どうやら儀三郎の部屋も、良の部屋に負けず劣らず掃除が行き届いているらしい。広げてあった画材を端に寄せれば、各々が座れる場所を容易に確保することが出来た。儀三郎は医者でもあるので、良宅と反対側に面している壁が薬棚で埋まっている。あとは中身の有無がわからない酒瓶がごろごろ、ごろ。ごろ。部屋自体の清潔感と物の多さはある程度までなら共存可能だ。
「えー、言ってくれたら迎えに行ったのに。変な目に遭ってない? なんかここ数日妙に騒ついてるんだよね北町」
仕事を終えた良が隣から合流し、五人は円を描くように向かい合って座っている。儀三郎宅では茶は出てこず、湯呑みに酒を入れたものが全員分用意された。
さも当然と言わんばかりに、トキ時の湯呑みの中身を半分に減らして元の位置へと戻した良は、一定の見方では一応は存在していた北町の均衡が若干揺らいでいる傾向にあることを口にする。
「心配せんでもこの程度のさざ波なんぞよくあることじゃろ。大方いきがってどこぞの町外れを仕切り始めた奴でもおる。その余波じゃ。どうせまたすぐに大波に飲まれて凪ぐ」
「ここで生活している方が言うと説得力ありますね
……いやあー歩いていて突然道端で打首が始まるのは正直勘弁してほしいんですけど」
後半は消え入りそうな声を絞り出したトキ時は詳細を思い出さないようにしたいのか、上半身を左右に揺らし、ひとりであわあわ言っている。瞬間を目撃していないからといって彼の柔らかい心が無傷なわけではないのだ。
「慣れろ、とは言わんが気にするな。あれは他の町で茶屋の娘が呼び込みをしているのと大差ない風景じゃからな」
「嫌ですそんな風景いいいいいいぃぃい」
「まあまあ帰りは俺が送ってくって」
ぎゅっと両目を瞑って上半身を左右に揺らしながら「いいいぃぃい」と鳴くトキ時もなかなか怪異的である。その怪異の背中を叩きながら良は自分の湯呑みから酒を飲んだ。
「羅乃目、どうかしたの? 疲れちゃった?」
儀三郎宅に到着してから羅乃目はひとことも発していない。黒骸はさり気なく羅乃目の額に手を当てて様子を伺うが、羅乃目から返ってきたのは、「
……はさはさ」という小さな声であった。
「はさはさ
……って前に体調崩した前日に言ってたやつだ」
羅乃目の声でまた瞬く間に怪異からトキ時に戻ると、体ごと羅乃目へ近付こうと手で床を押す。
「で
……」
「?」
「羅乃目?!」
一音だけ残して、羅乃目は外へ駆け出してしまった。
慌てて男性陣が追いかけると、玄関先で吐き戻し、唸りながら地面に這いつくばっているではないか。
「なんじゃ、酔ったか? すまんな酒しかなくて。今後は羅乃目の為に茶も置いておこうかの」
呑気な儀三郎は羅乃目の背中をさすろうと隣にしゃがみ込む。既にしゃがんでいる黒骸の反対側、つまりは羅乃目の左側に。
「待てじじい、羅乃目はまだひと口も飲んでねえ。黒! なんか羅乃目に変わったことは? さっき熱ありそうだった?」
「触った感じはありませんでした、平熱です」
「
……トキ時、俺の家から飲み水持って来て、湯呑みにでも酒瓶でもなんでもいい!」
「わ、わかった!」
羅乃目の嘔吐がおそらく想定している呑気な理由ではなさそうだと判断した良は、医者を差し置いて状況把握に努めようとしている。
「まあ待て死神、わしに任せろ。羅乃目、顔を見るぞ。ふうむ、酒じゃないとなると
……」
焦る若者をいなしつつ、儀三郎はまだ苦しそうにしている羅乃目の両頬を持って向かい合う。顔色と下瞼の色を見つつ右手で首元から脈を取り、目線だけで吐き出した内容物を確認した。
「熱なし、血の気もなし、全身の震え、過呼吸の予兆、焦点も合っとらん、脈が乱れて
……鼻血が出てきたのう。何か変な物を食べたりだとかはあるか?」
「いえ、羅乃目に限ってそれはあり得ません、混ぜ物にもかなり敏感です。それに朝から同じ物しか口にしていません」
自分の回答の誤りから誤診を招くわけにはいかない黒骸は、努めて冷静を装うことで自分を保っていた。横目で確認する羅神は羅乃目の生命の危機を知らせてこない。狼狽えた様子は見受けられるが現時点では最悪の状況を迎えてはいない。深呼吸しつつ見守ることに徹した。
「
……だれ、だ
……おまえ」
「わしがわからん
……見当識障害」
「儀三郎さん羅乃目を預かります、少し離れてください」
儀三郎を振り払おうとする羅乃目の手を間一髪で掴んだ黒骸は、そのまま彼女を膝上に仰向けで抱えて手を握る。
「羅乃目、俺だよ、わかる?」
「水持って来た!! 羅乃目大丈夫か! って鼻血?!」
酒瓶に入れた飲み水を抱えてトキ時はおたおたしているが、鼻血を拭いてやろうと一歩近付いた。
「止まってトキ時」
良がトキ時の肩を掴む。
「今の羅乃目、誰が誰かわからないかも。多分
人間は近付かない方がいい」
「
…………!」
この間に、儀三郎は顎を撫でながら脳内で症状を組み立てていく。
「
……虫に刺されたり、蛇に噛まれとらんか」
「! 黒骸、羅乃目の右腕を確認しろ!」
「みぎうで
……!」
刺す、噛まれるで心当たりの浮かんだ羅神が柄にもなく大声で指示を出す。その声に素早く袖を捲った黒骸は目眩を感じた。
「赤黒い
……ここ、ここ! 何か刺した跡が!」
「したらばおそらく毒! わしは専門外。死神! すぐに
陣次のとこ行け!」
「トキ時はじじいとここに居て! 黒、羅乃目抱えて! 陣次は向かいの部屋だから!」
言うが早いか大股の駆け足で向かいの部屋の戸を叩く。というより最早殴る。
──ドンドンドンドンッ
「陣次! 俺だ! 開けんぞ!」
家主の返答も聞かずに思い切り開け放ち、「きゃー!」と叫ぶ声に被せてもうひと叫び。
「急患だ! この症状の解毒薬を速攻で作れ! この子が死んだらお前を殺すからな!」
「も
……も、もも、もー、なんななななんっ、だよ、ぼぼっ、ぼ僕は僕で、いっ、いいいそ、忙し、いんだっ、から」
陣次と呼ばれたこの部屋の住人は、ぼさぼさの黒髪で目元を覆い、野暮ったい鼻をそばかすが彩る。それらをぬるりとした輪郭で囲んだ吃音の酷い小柄な青年であった。
「嘔吐、熱なし、血の気なし、全身の震え、過呼吸気味、脈の乱れ、目の焦点が合ってねえ、それから鼻血と見当識障害。多分虫か蛇に噛まれてる。症状が出始めたのはつい今し方。何かあったとしたらここに来る途中か
……? 多分、四半刻以内!」
風呂でも覗かれた女史のような様子の陣次を無視して、良は羅乃目に現れた症状を余さずに報告していく。途中で黒骸が羅乃目を抱えて入って来たのでそのまま袖を捲って指をさす。
「患部はここ、秒で治せ、いいな! 黒、羅乃目ここに寝かせて」
「も、っもー、ちょ、ちちちちょっと待って、こ、こ、こわ、怖いこと言わ、いっ言わない、でっ、でよ」
陣次は文句を言いながらも羅乃目の腕を覗き込んだ。顔を寄せて匂いを嗅いでいる。
「陣次、壁見て話していい。的確に最短でやれ」
陣次の性分を知っている良はそうやって気遣う素振りは見せたものの、威圧感は消えていない。
「ここ舐めていい?」
「おう」
「え?!」
突拍子もない質問をする陣次と、それを二つ返事で承諾している良に驚きを隠せない黒骸は正座の体勢から腰を上げた。が、良に腕で静止された為に仕方なく正座に戻った。
「まあそりゃそうだよな
……でもこういうのは陣次に任せとけ。こいつは毒の専門家」
「
……」
刺し跡を口で吸っている陣次は、毒を抜くというよりは味を確かめている様子であった。一応述べておくが、万が一毒性の虫に刺されたり蛇に噛まれても決して毒を口で吸い出してはならない。忘れないでほしい。
陣次はぺろりと舌を出すと、ぶつぶつ言いながら壁一面を覆う薬棚から次々と何かを取り出していく。
ほんの少しだけ落ち着きを取り戻した黒骸は、医者である儀三郎の部屋よりも遥かに多い薬棚とその引き出しの数に圧倒された。足の踏み場を最低限確保した床の上には植物を乾燥させた束や、植物の根、中身が不明の薬瓶たちが無造作に、そしてところ狭しと転がっている。
「わかりやすく、言うと。大元はガガヤマっていう蛇の毒で、そこに幾つか足してある、ん、んだと思う。人為的な配合を、してる」
壁に向かって話す陣次は、先程よりも遥かに聞き取りやすい言葉を紡げるようになっていた。言葉こそゆっくりだが、手元では迷いない手際のよさで何かを煎じ合わせていく。
「とりあえ、ず。先にこっちをう、腕に塗っておいて」
元から備えていた塗り薬を良に手渡す。わかりやすく顔を壁に向けたまま。黒骸はこの男が人間嫌いというよりは、単純に会話を含めた交流が苦手なのだろうと判断した。
「単なる、蛇毒なら血清で、い、いいんだけど、ちょっと違うから、こっちも少し足す。血清、こ、これを打って、こっちを、飲ませる」
陣次は右手に注射器、左手に粉薬を持って振り返るとすぐさま粉薬を良に押し付け、慣れた手つきで羅乃目の腕に静脈注射している。
注射を終えた陣次はまたしても良へ向かって水を押し付け、「早く、飲ませて」と呟いて背中を向けてしまった。
「はい、は、吐いてるなら、水分を失ってるから、後でみ、水、多めにあげた方がいい、よ。循環、大事だから」
「ありがとよ。これでひとまずは大丈夫?」
良に問われた陣次は体の前で意味もなく両手を合わせたり、指を絡めたり、人差し指の指先を合わせたりしてしてもちゃもちゃしている。
「う、うん。半刻くらいはこのまま様子見、て。あとは安静にしてれば、だい、大丈夫。一日くらい、あんまり動かさない方がいい、かも。ガガヤマ、致死性が高、いけど、この子は大丈夫だったんだ、ね」
毒の専門家からの「大丈夫」を受けて、黒骸と良は一旦胸を撫で下ろすことに成功した。
「そんなに危険な毒だったんですか?」
「こ、殺すつもりじゃないと、使わないよう、な、毒
……だよ。採取も難しいし、しかも、それを独自に改良してる、か、から、かなり殺意が、高いと思う。これで済んだの、奇跡、かも」
陣次の言葉に、黒骸と良は視線を送り合った。明確な殺意を持って近付いて来た第三者の存在
……狙って来たのか無差別か。
「
……仮にこの毒で死ぬとしたら、どういう症状が出てどのくらいで死ぬ?」
「多分、多分だけど、症状が出るまでに四半刻くらいで。最初は嘔吐に血が混じったり、泡を吐いたりして、次に意識障害が出て、全身の震えと痛み、刺された患部の筋組織の壊死、かな、た多分。そ、それから毒が全身に回ると内臓が壊れて血とか色んなものが、口とか鼻、とかから出てくると思う。耳、もかも。悲惨な、し、死に様だと思う。発症から死まで、た、多分
……」陣次は言葉を切って頬を掻く。「多分、一刻かからない」
想像以上に悲惨な道程。
「だから、この子、凄いなって。ぼ、僕、僕にも毒は全然効かないけど、これ、これなら結構楽しめそう。作り方、症状と味で、大体わかった、し。へへ」
陣次の「楽しめそう」という言葉に、黒骸はわかりやすく眉間に皺を寄せた。たった今愛する者が最悪の死を迎えていた可能性があるというのに、この男は何を言っているのだと。
「黒、怒んないで。陣次は毒と解毒剤を独自に精製して自分で摂取して、死ぬぎりぎりを楽しむのが生き甲斐なの。ありとあらゆる毒に耐性ができてて、そんじょそこらの毒はこいつに効かない。でも他人には無害だから安心して、毒はぜーんぶ自分用」
「最近楽しめる毒、が、へ、減ってきてるから、う、嬉しいなあ。えへへへ」
そう、ここは北町でも異端な者ばかりが暮らす華鉄長屋。単なる人斬りも強姦魔も悪人も存在しない。生きている人間には比較的無害なクソ野郎揃いであるにも関わらず、その奇怪な言動と噂に尾ひれ背びれがついてこの有様。空き部屋がなかなか埋まらない最悪な長屋。大家が最低なのは事実であるが、実は北町で最も安全と言っても過言ではないのがこの長屋だと誰も知らない。
「症状と味だけで人為的に混ぜられた毒の成分を理解して的確に解毒出来る奴なんて、太都中探しても他にいないよ。ほら、羅乃目も明らかに落ち着いてきたじゃん。大目に見てやって」
どうやら良は陣次を高く評価しているらしい。彼を擁護する言葉を並べて、左手をひらひらと振っている。事実、的確な処置で羅乃目の顔色はみるみるとよくなっているのだ。黒骸もここは認めざるを得ない。
「おい
……なあ、羅乃目
……大丈夫か?」
恐る恐るという単語がこれ以上なく似合う姿勢で、トキ時が戸口から覗き込んでいる。陣次からのお墨付きが出た辺りで雨庸が声を掛けに行っていたのだ。
「あ
……トキちゃん、来ちゃった?」
「きゃー!! ま、またっ、まっ、た人がふふふふふ増え、った! も、もうむむむむ無理! ええーん、しにしし、にがみ、か、かえっ、かええっ、って!」
良の語尾に被せて陣次が泣きながら大騒ぎを始めた。この男、どうも多人数の人間と同じ空間にいると混乱してしまうらしい。本当に泣いている。目元は見えないがどう見ても泣いているし既に鼻水まで出ている。可哀想に。
「え?! ちょ、あの、なんかごめんなさい!!」
これ以上泣かせるのも申し訳ないので、戸口で陣次と同じくらい混乱しながら謝るトキ時の言葉を残して黒骸たちも早々に退散することにした。
「陣次、俺だけ後でもっかい来るから。ひとり、ひとりで来るから」
戸が閉まり切る間際の隙間へ向かって良が最後に叫ぶ。中からは「ひ、ひひひひひとりだよ! 絶対!」と鼻詰まりの声が聞こえる。
「とりあえず俺んちでいっか。じじい、後で報告入れっから待機!」
「待機て
……なんじゃ、まあ羅乃目が無事ならよし。吉報しか聞かんぞ」
「へいへい」
右手をひらひらと振りながら背中で返事をする良。
「すみません、一旦失礼します」
羅乃目を横抱きにした黒骸は会釈をして良の部屋の戸口を潜った。儀三郎の視界から外れた瞬間から、良の表情が険しくなっているのを感じながら。
トキ時は羅乃目の状態と処置の内容を既に二体の憑守から聞いていた。改めて詳細を話す必要がないことだけ、黒骸は良へと伝える。
羅乃目を寝かせ、男三人で向かい合って座る。誰が言ったわけでもないのに、小さめの声でも聞こえるように互いの距離はかなり近い。
「
……人為的に配合された、致死性と殺意の高い毒。現場は見てねえけど故意に人間にやられたのは明白
……狙ってやられた、と思う?」
手探りで煙草盆を手繰り寄せた良は、誰もが口にし難いであろう項目を最初に挙げた。
「だとしたら理由がわかりませんね。嫌な言い方ですが、か弱い女性だからという限定的な無差別の可能性も否定出来ません。そして羅乃目がそれを許すとも思えません」
「確かに、それもそう
……」良は煙草に火を付ける。「トキ時はどう思う? なんかある? てか顔色悪過ぎ。もう羅乃目は大丈夫だから落ち着いて」
あえて笑顔を作った良とは対照的に、トキ時の顔は血の気が引いて震えない為に奥歯を食いしばっている。
「あの、あのさ
……多分、狙われたの、俺なんだと思う」
「はあ?」「!?」
震えを隠し切れなくなったトキ時は正座した膝を手のひらで握りしめながら、なんとか言葉を絞り出している。話したいことはわかり切っているのに、それを口にすると事実になる。それが、それも、それ故に、怖い。
「俺なら間違いなく、死んでた
……羅乃目が、羅乃目が守ってくれたんだ。思い返せばあの時、あの時だ絶対」
そしてトキ時はここへ来る道中で起きたこと、思い返せば違和感があった瞬間をふたりに話す。
「急にどんって寄ってきて、夜は豆腐が食べたいなんて言うから、どうしたんだって思って
……思ったけど、別に何も
……あの時羅乃目が盾として間に入ってくれていたんだ、間違いない、死ぬのは
……」
「トキ時、もういいよ、わかった。結果ふたりとも無事だから、言わなくて
……」
「死ぬのは、俺だった
……!」
震えを隠すのをやめたトキ時は、頭を抱えてうずくまる。「痛いのも苦しいのも俺だった」「一刻もしないで悲惨な死に様を晒すのは俺だった」「羅乃目が
……」「羅乃目が守ってくれた」「でもこんな、こんなこと
……!」「どうして!」
がたがたと震える親友を背中から抱きしめて、良は小さな声で何度も「大丈夫」と唱える。「大丈夫、羅乃目も助かった。羅乃目だから助かったんだ。トキ時にだってこれ以上怖い目に遭わせたりしねえ、約束する、大丈夫だから」
トキ時が落ち着くまで、少しだけ時間が必要だった。それこそ、羅乃目が寝返りをうって小さく丸まるのを見届けるまでは。羅神に添い寝をされながら健やかな寝息をたてて丸くなる羅乃目は、どこからどう見ても普段通りであった。少しだけ、救われる。嵐の心は凪へと向かう。
「
……大事な話だから聞いて、トキ時も、黒も」
良はトキ時の背中をさすりながら、真剣な声色で場を仕切り直した。
「陣次の見立てじゃあ毒は即効性ではない。つまり明確で高い殺意を持ってはいるが、それを見届ける意思がない可能性が高い。見なくても死ぬだろうってたかを括ってるのかも。んで毒ってのは刀ぶら下げてるのとは違う、明らかに使用目的を持たないと持ち歩かねえもんだ。他人を毒殺する気満々で歩き回ってる奴が、少なくとも北町に居た。ここまではいい?」
「はい」「
……おう」
「トキ時を狙っていたところに羅乃目が割り込んできたのは、やった本人もわかってるだろ。だから羅乃目が元気に歩き回っているのを目撃されるのはうまくない。それから、当初の狙いだったであろうトキ時。お前もまたその辺歩いてたら狙われる可能性が高い」
トキ時が口をぐっときつく閉じる。
「トキ時が狙われた理由が現状全く見えてねえのが痛い。対応が後手に回っちまうからな。無差別か怨恨か俺絡みか、はたまた全く違う理由か
……なんか心当たり、ある?」
「
……ない。ずっと考えてるけど、ない」
「だよなあ。あるとしたら俺絡み、か。そりゃ
……だからこの件すげえ責任感じてる」
良は黒骸を真っ直ぐ見据えている。
「
……羅乃目は羅乃目の意思でトキ時さんを守ったはずです。本人もきっと平気な顔して起きてくると思いますよ」
「ああもう、悪い、気を遣わせて
……」
良は先程吸えずじまいだった煙草をもう一度詰め直し火を付け、今度はゆっくりと堪能した。
三者三様に重くなった空気を紫煙が揺らす。しかしこの程度で動く空気ではなかった。混ざり合って天井へ向かって散っていく紫煙。何も変えられずに散りゆく儚さ。
「ここは俺の勘なんだけど、羅乃目はあの見た目としては有り得ない力持ち、体重が重い。つまりは筋肉量が人間の比じゃねえ。そういう身体的な特徴が、致死性の高い毒をぎりぎり掻い潜った要因なんじゃねえかと思う。毒が経口摂取じゃなくて体に直接入れられたことが、超絶不幸中のギリ幸いだった、かも」
「そう、ですね。的確な処置を早期に受けられたことも幸いでした。放っておいても自然に自己回復出来ていたとは到底思えません。仮に死は免れたとしても
……」言葉を切った黒骸は一度目を伏せ、再び前方を見据える。「あの、良さん」
「なに」
「
……捕まえましょう。犯人を。俺たちの手で」
良は最後のひと口を唇から放つと、小気味のよい音を立てて煙草盆へ火種を落とした。
「
……俺も同じこと考えてた」
出歩いて目撃されることを避ける為、羅乃目とトキ時を儀三郎の元へ預け、黒骸と良は各々得意分野で犯人の尻尾を掴む行動を始めた。
「俺は突然悲惨な死に様を晒した奴が他にいないか情報を集める。仮に俺絡みでトキ時だけを狙って犯行を起こしてるなら、俺が嗅ぎ回っていれば向こうから行動を起こす可能性もあるしな。あとはここいらで医学を齧ってる奴の情報も少し集めとく」
「俺はガガヤマの方から調べます。わざわざ人間が毒を採取しに来れば印象に残るはずですから。毒蛇とは言っても蛇ですし、協力してくれると思います。生息地は広そうですがガガヤマは縄張りを意識する種で大きく移動することはないと思うので、一旦は北町に面している山から調べます。運がよければ、犯人がまた来るかもしれません」
目を覚ました羅乃目は黒骸の予言通りなんともない顔で、「トキさん痛いとこない?」と聞いてトキ時に抱き締められていた。大事を取って一日寝ているように言われているが、守られるかは定かではない。トキ時と儀三郎に両側から押さえ付けてもらおう。
こんなことになるとは夢にも思っていなかった羅乃目は、残念ながら男の顔をしっかり見ていなかったので細かな特徴はわからずじまいである。しかし北町を歩いているとなれば北町の住人である可能性が高い。羅神も独自に町を歩いて不審な男を探すことにした。
「人間が捕まえる前に必ず捕まえてやりましょう。下手を打って既にお縄だったら、牢屋から引き摺り出してでも捕まえます」
「捕まえた後は?」
「
……それ、聞きますか?」
良の問いに黒骸は冷たく不気味な笑顔で返した。温度のない笑み。それはまるで──。
「いや、いい
……多分同じこと考えてる」
その顔を見て安心したとでも言わんばかりに、良も目元をきゅっと細くした。
*
──さて、人間は舞台から捌けて頂こう。残るは人ならざるものだけである。怪我が嫌なら、ささ、早くお帰りなさい。
そうして舞台は整うのだ。ここからが、ひとでなしだらけの第二幕。
はじまり、はじまり。
*
「これだから人間は
……」
これでもかと眉間に寄せた皺を、俯いて長めの前髪で隠す。今の黒骸は、意識をしていなければ口元も実に不機嫌そうな曲線を描いてしまう。普段の微笑む姿からは想像も出来ないであろう。
「人間
……どう考えても害悪だ。害虫に等しい。生きている価値がない」
「ま、オレも同意ではあるぜ? でも冷静さは無くすなよ。いざって時に困るからよォ」
「
……わかってる」
雨庸からの忠告は素直に聞き入れつつ、黒骸は細く深呼吸をしながら歩を進める。
ここは北町に面した山の裾野。酷く険しいこの辺りの山も、裾野程度であれば素人でも比較的容易に歩き回ることが出来る。紅族であれば尚のこと。
背の高い木々に覆われ、少し湿った空気でしっとりと薄暗く、どことなくひっそりとしている。
「ああ
……くそ」
誰に見られているわけでもないのに、口元の歪みを打ち消そうと足掻くのは何故であろうか。黒骸に染み付いた『何か』がそうさせている。
実は先程、野盗のような男たちに絡まれて返り討ちにしたばかりなのだ。それが黒骸の不機嫌をこれでもかと助長させている。
男たちの長々とした口上を掻い摘むと、どうやら自殺願望のある人間の望みを叶える最低な輩がこの辺りには多く生息しているらしい。だが待っているだけで採算の取れない仕事としか思えない。こんな場所が自殺の名所なのであろうか、そんな手間を掛けずとも、ここに辿り着く前に北町で死ねるのではないだろうか。黒骸にはわからなかった。
「人間の考えることなんて知りたくもないけど
……」
脳内再生の思考に自ら相槌を打つ。
「水場は向こうか
……ガガヤマは水辺を好む奴らだからな」
気を利かせた雨庸が話題を変えてきた。ここの付き合いも二十年になる。雨庸が誰よりも黒骸を理解しているというのは、おそらく誇張表現ではない。どこまでも現実に寄り添った末の回答になる。
憑守と紅族はありとあらゆる観点から相性を鑑みて、最善の相手に憑きつ憑かれつ現世の戸を叩いてくる。憑守であれば紅族であれば、相手が誰であろうと
……というわけでは決してないのだ。
「雨庸はどう思う? 今回の件」
「どうって言ってもなあー、人間の考えることなんてオレにはわかんねえよ」
「
……許せないんだ、羅乃目が危険な目に遭ったことが」
「それを許した自分も含めてか?」
「そう
……そうだね。まさしくだよ。左右の布陣を逆にしていればあんなことには
……」
「あの毒は羅乃目だからなんとかなった、とオレ様は読んでるけどな。医者のじいさんは処置が早かったお陰だと思ってるみたいだけどよォ。黒でも多分無理だったと思うぜ? 羅乃目の紅族としての逸材っぷりはオメーもわかってんだろ」
「ねえ雨庸
……俺は。俺は無力だと思う
……?」
着実に水辺へと歩を進めながら、黒骸の口元は先程とはまた違った意味合いで歪み始めている。
火付けの時、人攫いの時、そして今回。黒骸は羅乃目を危険な目に遭わせ続け、そして助けにも行けず側についてやることも出来ていない。思い返せば体に合わない薬を飲んだ時もそうだ。あまりに無力であり、不能であり、非力であり、いっそ無価値。それは統領の許婚としてあるまじき醜態であった。
ははうえとのやくそくを、守れていないことになる。
「無力なもんかよ。こんなでっかく立派になってるじゃねえか
……オメエは統領の婿に選ばれた逸材なんだぜ?」
「たまに不思議でならないんだ。なんで俺だったんだろうって。過ぎた肩書きであるような、分不相応のような
……愛してる、愛してるよ。羅乃目を、この世で一番。他に何も要らない。そう、要らないんだ。羅乃目以外。愛してる」
「
…………」
「ああ
……仮にこれが俺の責任転嫁だったとしても、今回の相手は絶対に許さない。生まれてきたことを後悔させてやる」
黒骸は、人間を恨んでいる。
真っ黒い、憎悪と恨みをぎゅっと固めて作り出した腹の下。それを隠す為に必死に身に付けた鎧。
「そうだな」
無自覚でトキ時の為に動けるくせになァ。という続きの言葉を大きな口の中で溶かし、無かったことにする為に丸呑みにする。しかし黒骸の魂は丸呑みにしない。生きとし生けるもの全てにとって、死が救済ではないことを雨庸は知っているからだ、少なくとも彼の信条では。仮にこの矛盾と苦しみから黒骸を救う為の道が死しかなかったとしてもだ。
紅族にとっても死は終着点であるというだけで救済ではない。例え『永遠』になれるのだとしても。
「ま! とっとと行こうぜ。オレ様は蛇だからな。蛇への聞き込みなんざ朝飯前よ! 手っ取り早くここいら一帯の蛇みんな集めちまおうじゃねえの」
「
……俺も蛇憑だから蛇だよ」
「おおよ、オレたちァ今回の件に打ってつけの逸材じゃねえか。アホな人間とっ捕まえて、さっさとブッコロしてやろうぜ!」
「
……雨庸って、たまに驚くくらい優しいね」
「バッキャーロー! オレ様はいつも優しいだろうがよ!」
黒骸は少しだけ笑えた。
この馬鹿みたいに声が大きくて口の悪い巨大な蛇は、いつだって彼の一番の味方であった。
各々の情報収集の後、ひとでなしどもは一旦死神宅でひそひそと情報を共有し、それから儀三郎宅へと向かった。
「彼らの毒を採取しに人間が最近何度か来ているらしいです。ガガヤマは元来大人しい性格なのですが、珍しく人間側からちょっかいを掛けられたことを大変不快に思ってよく覚えていてくれました。流石に人間の個体を識別出来るような情報は得られませんが、独自に毒を配合していたのならそれなりの量と効き目の実験が必要だったはず
……一定の期間足繁く通っていたと推測されます。また訪れる可能性も捨てきれません。しばらく俺も通うのも手かと思っています。そう、それから実験が必要だったのではというところから、北町周辺の動物が怪死していなかったかを調べました」
「流石、いい着眼点じゃん。いた?」
「いました。山の裾野で野犬が怪死しています。これは動物たちの感覚なので正確ではありませんが、近々で四体。あれの死体を啄むなと彼らの情報網で回っていましたよ。ガガヤマの生息地と野犬での実験、どちらも山の裾野に集中しています。実験の現場が裾野だったにせよ、町中で実験した死骸を裾野へ運んだにせよ、恐らくは北町の中心よりもかなり山際に住んでいる輩ではと推測しています。なんらかの遺体や死骸を運ぶという北町での珍しくない光景も、等号で目立たないということではないはずです」
「それで今回満を持して実行に移したってことか。山際に一旦絞って情報を集め直すのも手だな
……うし。悪いが俺のは二度手間になるから向こうで話す。一応は収穫あり」
「わかりました」
蛇や動物から仕入れた情報だなんて、口が裂けても儀三郎の前では話せない。一旦は死神が仕入れた情報だけを開示することにした。
向こうでは儀三郎が買い物をしてきた食材と限りなく少ない調理器具でトキ時が多少苦戦しながら作った簡素な料理に、ふたりが大喜びで食いついていた最中であった。最中と言ってもかなり終盤だ、もう後ひと口ふた口で終了してしまう。
「羅乃目、もう大丈夫なの?」
「もうぜんぜんだいじょぶでやんすよ! でもトキさんのご飯食べたらまたちょっと寝るでやんす。寝ろって言われてるから」
「そりゃあのう、毒に侵された奴がこんなに元気にしてちゃ駄目じゃからな。その茶も飲んで寝ろ寝ろ」
儀三郎は羅乃目の為に茶葉も買ってきたらしい。今後はこの家で茶が出てくる。これだけだとなんてことなく聞こえるが、これは前代未聞の大変革なのだ。稲垣儀三郎の家で、酒ではなく茶が出てくる。
「じゃあ俺から情報共有ね、羅乃目は寝ても聞いててもいいから楽にしてて」
「はあい」
良へきちんと返事をしながら、羅乃目はトキ時の手をむんずと掴んだ。これは羅乃目なりの気遣いである。この後の話の内容がどうであれ、本来ならば自分に降り掛かるはずだった悲劇を思い返さなければならないトキ時への。
自分は大丈夫だという主張も含んでいるかもしれない。死んでいない、生きている、なんの問題もない、大丈夫だ。
「ここ三日で、陣次が予想していた症状に近い悲惨な最期を道端で突然迎えた奴がふたりいる。場所は東町。つってもかなり西町寄りだな。それでそのふたりには接点が無い。無いというか、現状は見つけられていない。どっちも世間的には蛇に噛まれたんじゃないかってことになってて、町で蛇を見つけたらご一報を! みたいな呼び掛けはしてるみてえだな。ま、陣次みたいに舐めて毒の内訳を理解できる奴なんていないだろうし。少なくとも人為的に起こされた事件だとは思われていない」
ここまでを一息で言い切ると、話についてきているかの確認で一周全員の顔を見回す。
「つまり。なんらかの理由でトキ時単体を狙った犯行ではないと仮定して問題なさそう。無差別か、犯人としては一貫性のある行動か
……人間の犯行ではないと思われている点は俺たちに有利だ。世間は犯人探しなんてしてねえ」
安心していい理由はひとつも無いが、それでもトキ時の胸は少しだけ地面に近付いた。羅乃目に掴まれた手が彼女の高い体温を受けて温もる。
「それから他の情報を並べて、北町の山際に住んでる奴が怪しいんじゃねえかって予想は立ててる」
「山際ぁ、のう
……」
絞れているようで絞れていない不確かな範囲。儀三郎が自身の顎を撫で回して脳内で情報を整理している。
「
……無差別の線ではこれ以上絞れません。仮に犯人にとって一貫性がある犯行だったとして、それはなんだと思いますか? 既に亡くなっている共通点のないふたりにトキ時さんを足すことによって輪郭が見えたりしませんか」
黒骸は長い指を顎に添えている。
「トキ時の特徴
……まずは職業、飯屋。でもそれは死んでるふたりとも異なる
……じゃあ見た目。赤茶の短い髪、人のよさそうな太い眉毛、垂れてないけど目尻が柔らかい大きな目、大きな鼻、大きな口、厚めの唇
……」
良は指を折りながらトキ時の身体的特徴をすらすらと挙げていく。こうも容易く挙げられるのも、常日頃から良がトキ時をよく見ているからに他ならない。
「体躯は厚め、首も思いの外太い
……うーん」
「おま、俺のことそんなに事細かに
……!」
トキ時が謎の照れを覚えて、また違った方向性の落ち着きのなさを出し始めた。勢い余って羅乃目の手を振り解いてしまう。それでも羅乃目は口角を上げて満足そうだ、少なくともトキ時はつい今し方よりも遥かに元気に見えるので。
「『しゃつ』、しゃつも特徴じゃろ。お前さんらは見慣れとるかもしれないが、こいつはなかなか歌舞いてる代物じゃぞ。他にあまり見ないじゃろ。こんな真面目そうな奴がなんで着とるんかとわざわざ聞いたくらいじゃからな」
「しゃつ
……!」
まだ不確かな糸口を必死に掴もうと良は単語を反芻する。そこから瞬時に脳内で関連事項を書き並べて検証していく。
「トキ時そのしゃつどこで買ってるっけ、
唐物屋?」
「え? ああ、いや。そんな立派なところじゃ買えないからな、反対の花びらにある胡散臭ーい店で買ってるぞ。別にあそこは舶来品の店じゃないんだけどな。ごちゃごちゃとなんでも売ってる、たまに入荷するんだ」
「舶来品
……唐物屋
……」
良は再び脳内で何かを組み立てる。まだ可能性のひとつである、という程度の枠を越えられないそれを一旦は調査方針に定めたらしい。
「黒、一緒に来い。もうひと仕事
……」良は非常に珍しく、その長い前髪を少しだけ分けて視界を広げた。「これで犯人に近付けるかも」
その後の展開は実に早かった。
既に死んでいるふたりが最期にそれぞれ違う西町の唐物屋へ足を運んでいること、買いこそしていないが、舶来品に興味を持っていたことが判明した。
そして唐物屋から出たところを狙われて東町へ帰宅するまでの間に発症し、道端でこの世の終わりを演ずる羽目になった
……。
「多分、全容はこれ。トキ時は唐物屋に行ってないけど現物を着用しているという点で突発的に標的にされた
……」
ひと仕事を終えたふたりは長屋に戻らず、道端で今回の筋書きを並べ、脚本を組み立て確認している。
すっかり陽の落ちた真夜中の空は薄曇りで何も照らしてくれない。草木も眠る丑三つ時。しかし本領を発揮する常昼の西町、情報収集にはありがたい限りである。眩い喧騒で背景に溶け込んだふたりは堂々と密談めいた内容の言葉を放つ。互いの顔を近付ける姿勢も却って自然だ、誰も気にしていない。
途中で何度か袖を引かれたが、なんてことない顔でやり過ごす。一度だけ死神が惜しそうな表情を見せた。比較的好みの鷹が舞い降りてきたのかもしれない。
「北町の山際在住、毒物の調合や投与が出来ることから少なくとも医学関係の何かしらを齧っていて、異国への嫌悪感を持っている男
……でしょうか。大方の犯人像は」
「ああ、一旦その線で行こう。俺は引き続き北町で情報を集める。悪いけど黒はガガヤマの方を張って欲しい。味を占めて追加の毒を採取しに行く可能性が捨てきれねえ。そこ押さえればほぼ現行犯だ
……そっちは俺には出来ねえ」
「お任せください。なるべく殺さないように仕留めます。なるべく」
「間違って陣次を捕まえるなよ。毒となるとあいつの行動力はとんでもねえから」
「ああ
……確かに取りに来そうですね」
思わず小さく笑ってしまった黒骸を左目で確認しながら、良は煙草に火を付ける。
「黒、別件だけど」
「なんでしょう」
「無銘の件、どうした」
「
…………」
黒骸は時間を稼ぐようにゆっくりと瞬きをする。その姿を捉えて逸らさない左目。
「
……結果として保険を掛けることに成功しました。結論から言うと、組織の『顧客名簿』を渡して交換条件でこちらへの接触の一切を禁じました。生活圏が密接していてすれ違うくらいは当然あると思うのでそこは規制しませんでしたけど。万一の場合も人間であったことは決して匂わせないようにと、釘を刺してあります」
「馬ッ鹿! お前あれ燃やしてなかったのかよ!」
良の反応は当たり前のものである。あの時わざわざ確認してきて燃やせと結論付けた物を持ち出している。だったら初めから確認してこなければよかっただろう、とも思っている。おそらく。
「
……何に使うつもりだった。燃やせって言ったろ」
「何にも使いませんよ。でも矛盾していますが、何かに使えるだろうと思って持ち出しました。結果がこれです。トキ時さんの心の安全を守るのに一役買ってくれましたよ」
同じ目的で動いていた眼前の男が、突然何処を向いているのかわからなくなった。良は冷たく微笑む黒骸の腹の底がわからない。
「いざとなれば消します。人間くらい、いくらでも」
そうでしょう? と言いたげな黒骸の視線は紫煙越しに良へと突き刺さる。
「
……はあ、今それをどうこう言っても仕方ねえか。わかった、とりあえず解決ないし、一旦は心配事の項目から除外しても問題ないってことだな?」
「はい。今後無銘で不審なことがあれば俺にも教えてください。対応します」
良は最後の煙を吐き出すと、火種を落として念入りに踏み潰して火を消した。ざり
……と地面に余韻を残しながら何度も何度も捏ねるように踏んだ。
「ひとつ気になっていたのですが、あの組織を誰が解体したのか、そもそもあの組織の存在自体が世間に露見していないように思えるのですが。瓦版にも載っていないですし、全てが尻すぼみというか」
「確かに、万が一漏れても
北町の死神様が出てきたってことになるようにはしといたけど。それも無い、な
……少なくとも噂くらいは立つと思ってた。妙っちゃ妙」
「仮にも火事が起きて
……何事も無かったことにはならないのではないでしょうか。無銘も辿り着いていませんでした。界隈だけでなく、世間的に騒がれていた組織のその後を」
「榛
……かも」
良の口から、探るような雰囲気を纏って女帝の名前が紡がれた。
「あの後会いに来たろ。情報を統制して揉み消してるの、あいつかも」
「何故?」
良からは、未だ探る雰囲気が消えきっていない。
「あの組織が腹に据えかねている風にも取れたから、そもそも無かったことにしたかった、とか
……? 羅乃目が欲しい、みたいなこと言ってなかったか? 何かしらの見返りを想定して恩を売られている
……? いや、単なるあの場だけの戯れの言葉にも受け取れるが」
去らない一難。否、去ったのか。
「あ、いや。床上手な俺への贈り物みたいなもんかもしれねえ。気に入ってるから面倒なことにならないようにしてくれてる、これだな。きた。わかった。よかった〜俺ってば床上手で。芸は身を助ける。あーさっきの子結構好みだったな、名前聞いといたらよかった」
生活に、問題は付きものである。
ハレとケ。
ケケケ。
例え悪人であろうと、夜間に山に入ってガガヤマの毒を採取することは物理的に不可能であると判断し、一旦はここで調査を終了させることにした。黒骸は儀三郎宅へ向かい、良は輪郭をぼやかしながら花びらの中心部へと消えてゆく。
数刻後。
仮眠を取って早々に山へと出向いた黒骸は、トキ時が持たせてくれた握り飯を落としていないか道中で二回触れて確かめた。
出際に「普段と釜が違うし釜戸の火力も違うからちょっと硬めなんだよ、ごめんな」と申し訳なさそうにしていたトキ時の顔が浮かんで消える。米を自分に割いてくれた儀三郎にも礼を言って出てきた。羅乃目は珍しく寝坊助で、丸くなったままであった。回復の為に、少なくとも普段よりは体力を使っているのだろう。羅神は視線だけで見送ってくれた。
あえて近辺のガガヤマを一箇所に集め、探していれば否応なしに張っている場所に辿り着くように下準備をする。縄張り意識のしっかりしたガガヤマに片っ端から断りを入れて頼んで回るのだ、これも紅族と憑守の立場があってこそ実現できる妙技である。
一日張り込む心積りでここへやってきた。良の方で収穫があれば、良からトキ時に、トキ時から羅神に報告し、羅神が黒骸を探して連れ戻すなりなんなりする手筈になっている。多少手間は掛かるが適材適所、だ。蛇は山で潜伏し、死神は人里で目当ての魂を探すのだ。
待つ。待つ。目的地を少しだけ見下ろせる位置に陣取って、今日来るとも知れぬ誰かを待ち伏せて、息を殺して。大きな体も気配を消せば木にもなれる。多少無理があると思いつつも、目立つ髪色を隠す為にゴザを持ってきている。どうやったって角張るそれを不恰好になんとなく被って、待つ。待つ。
待つ、待つ。
太陽が明確に位置を変えたとわかる頃。
「!」
何者かの気配を察知して、黒骸は身構えた、が。
「うを。あいつじゃねえか! スゲーな! 毒への執念がよ」
雨庸がひっくり返りそうになるくらい大笑いしながら、滑るように素早く降りて行った。
そう、ガガヤマの毒を採取しに陣次が姿を現したのである。もたもたと、明らかに運動不足に見える体を一生懸命に動かして視界の隅から現れた。視界の端から中央に来るまでの時間がまあ掛かること掛かること。これには流石の黒骸も、なんというか笑ってしまった。笑う以外の感情が見つからなかった。自分に使う為に危険を犯して山まで毒を取りに来る男、真島陣次。野盗には出くわさなかったのだろうか、もしかしたらここは手慣れた順路なのだろうか。
雨庸がガガヤマたちに「コイツは紅族統領の命を救った男だ! 悪ィが今日のところは大人しくその毒を採取されてやってくれ」と声を掛けている。一瞬不満の色もちらついたが、陣次と対峙したガガヤマはまるで舞台上の出来事のような形だけの攻防を演じると、うまい具合に陣次へとその毒を渡した。
「わっ、やった。やった、へへ、へ。は、はや、早く帰らなきゃ、楽しみ」
また時間を掛けてもたもたもちゃもちゃと、陣次が視界の隅へ消えるのを待つ。ああ、転びそうだ。おっと、持ち堪えた。気を付けて帰れ。
「まさか過ぎんだろうがよ、爆笑もんだぜ」
語尾に笑いを含みながら、雨庸がするすると戻ってきた。念の為に黒骸は声を出さずに同意の視線だけ送るに留めた。
ここからまた待つ、待つ、待つ。
昼時を過ぎたので、その場を雨庸に任せて黒骸は一旦山奥へと入ることにした。昼飯である。
トキ時の申告通りにいつもより硬い米をありがたく噛み締めながら、少しだけ思考を手放す。木々の隙間からぶつ切りになった空が見える。張り込みなんて大抵は無駄骨になるのだ、散歩気分も多少は味わっても文句は言われないであろう。
細く深呼吸。
山はやはり落ち着く。
脳内で詰碁集の一問を引っ張り出してきた。こういう局面はどうも直接切り込んでしまうのだが、どうやら一歩引いて相手を揺さぶった方が後の展開に幅が生まれるらしい、と黒骸は最近少しだけ理解した。イゴさんと打つとどうにも強気に出てしまう。そこも含めて大変気に入られていることも理解しつつ。
「黒!」
雨庸からの呼び掛けに、慌てて思考を抱え直す。
「人間だ、人間が来やがった」
静かに速やかに張り込み先へ戻ると、間違いなく人間が居た。しかし。
「女
……?」
「そうなんだよ女なんだよなー! でもどう考えても怪しいだろうがよ! とっ捕まえたら何か吐くぜありゃあよォ」
今にも泣きそうな表情で明らかに挙動不審な若い女は、おっかなびっくり足元を見ながら歩いている。その姿はどう肯定的に捉えても山に慣れていない。そしてどうにも自殺しに来たようにも思えない。非常に短絡的ではあるが、黒骸はひとつの仮説を立てて女に近付いた。
「もし」
「ヒッ」
「ああ、すみません、驚かせて。当然ですよね、ええと、誓って何もしません、質問に答えて頂けたら町まで送りましょう。単刀直入に聞きます。はいかいいえで答えてください
……誰かに頼まれてここに来ましたか?」
「なーんか俺って黒を待たせてばっかりじゃね?」
「そんなことありませんよ。全然待っていませんから。それに時間なんてあっという間でした」
ここは山際。北町の外れ。どこからどう見ても今は使われていない打ち捨てられた穴だらけで隙間風が通る、家屋だったであろう木の箱。
箱の戸を開けて良が軽い調子で入って来るのを、黒骸は微笑んで迎え入れた。
まだ陽のある時間帯であるが、ここは薄暗い。戸に貼られていた穴だらけの障子から申し訳程度に入る光が、黒骸と良を逆光で照らした。
箱の中央に、男がひとり。
「良さんが来る前に多少は話し方を覚えてもらっておこうと思いまして。すみません、結果としてこんな感じになっちゃいましたけど。きちんと話せますよ。足と指だけなので」
縄で縛られ、両足の膝下と、両手の五指がそれぞれあらぬ方向へ向いている男は、自身の涙と鼻水で今にも溺死しそうである。
「ではもう一度、お願いしますね。これ以上は何処を折ればいいのかわからないので、よろしくお願いします。死なないようにするというのは案外難しいんですよ。折れた骨で内臓を傷付けないとか、太い血管に骨が刺さらないようにするとか。出血死も怖いですからね」
黒骸は男の猿轡を取ると、気味が悪いくらいに微笑んだ。良はそれを大して気にもせず、男を顎で指して話すように促し煙草に火を付けた。
それぞれが、それぞれの怒りを抱えてここに居る。
溺死間際の男は言われた通りに二度目の供述を始める。その姿も含めてあまりにも聞くに耐えない有り様なので、内容をまとめる。以下の通りだ。
男はこの国の未来を憂いていた。見せかけの太平は続くが、国力は落ちていくばかり。異国からの物資や労働力を喜んで受け入れていては先は見えている。この国は薄まるばかりだ。
「異国に尻尾を振るひとでなしどもが! この国を悪くしている!」
紅族討伐の時、ひと時ではあるがこの太都は結束した。次こそは異国に対して結束して強い姿勢と態度を取るべきである。その発端を自分が始めてやった、だとかなんとか。
大変意識が高いご高説を賜りつつ、この演説が二回目の黒骸は途中で欠伸を噛み殺した。
良も大して真面目には聞いていない。目当ての男を眼前にして、ただはらわたが煮え繰り返っている。
「しかも肝心のガガヤマの毒は女性を脅して、その方に取りに行かせていました。生き物の風上にも置けません」
「私はッ、この国を思って、警鐘を鳴らしているだけだ! 異国は排除! この国を守らねば!」
良は「紅族討伐」の単語が出てきた際、視線だけで黒骸を確認しようとしたがとても出来なかった。柄にもなく震えた、一瞬。あまりにも隣から発せられる殺気が黒く濃く、そして真っ直ぐに澄んでいたからだ。間違って目など合っていたらと思うと
……
そしてこの単語のせいもあって、自分が到着する前にこれだけ痛めつけたのだろうと容易に推測出来た。勢い余って殺してしまうなどということもなく、最低限の理性を持って行動しているという事実が、より一層恐怖に奥行きを与えていた。
「まあいい。とにかくてめえは相手を間違えた。それだけだ」
蛇が恐ろしくて震えていたことなどおくびにも出さず、死神は男へ淡々と告げる。煙草の火種は当たり前のように男の上へ落として、男ごと踏みつけて消す。
「遺言はさっきのでいいだろ?」そう続けると、戸口へと振り返る。「ほら、陣次こっち来いって、大丈夫、大丈夫だから。な? おいでおいで、今度ガガヤマの毒採ってきてやるから」
「ほ、ほほほんっと? やく、やくそくだかららら、らね。ぼ、僕ぅの毒、を人にあげるな、なななんって、ぜっ、たい嫌なんだから、ほん、んんっとは」
相変わらず吃音が酷いもちゃもちゃした陣次が、手に注射器を持っておずおずと現れた。ええーん人がたくさんいるよお、という旨の発言もして死神に泣きついている。
「ほら、すっと刺したらすっと帰っていいから。な? あ、これちゃんと最大濃度にしてきた?」
「僕ができふ、でき、できる最大濃度にににに、してある、よ」
言うが早いか、陣次は微塵も躊躇いなく箱の中央で転がっている男の首へ注射針を刺した。
「お、おら、り、終わり! じゃあね、か、かかかえっる、から!」
これで僕の仕事は終わりです! と言わんばかりに死神へ告げると、そそくさと出て行ってしまった。
「んもー、陣次は情緒ってもんがないんだから」良はどこか優しい表情で陣次を見送ると、瞬きで表情を変えて男を見下ろした。「
……ほら、発症まで後四半刻。せいぜい楽しみな」
「へっ
……?」
「お前が使ってたガガヤマの毒と他の諸々を足した特製毒。それと同じかは知らねえけど同等かそれ以上の効果が期待できる代物を用意した。しかも最大濃度、可能な限り大量にぶち込んだ。ああ、むしろ四半刻持つといいな」
ようやっと状況を理解した男の口から、生き物とは思えない悲鳴が漏れる。
死神が告げる。
「せいぜい楽しめ」
蛇が告げる。
「生まれてきたことを後悔しろ」
最早人間と呼べない何かに近付いている男と、それをただ冷めた表情で見下ろすふたり。
ただ眺めていた。死に様を。
在らん限りに苦しんで、生まれたことを後悔して、確実に死ぬ様をこの目で確認しないと気が済まない。
「黒」
「なんですか?」
「
その顔、トキ時には見せないようにな」
はて、と黒骸はわざとらしく両手で顔を包んだ。
「ふふ。良さんもその顔、トキ時さんに見せない方がいいですよ」
あらやだ、と良はわざとらしく両頬を手のひらで軽く叩いた。
「なあ、今回、舶来品は理由じゃなかったってことにしてくんねえ? こいつを見つけたのも黒の張り込みあってこそだし。俺の方は見当違いの無駄足だったってことで」
「トキ時さんの為ですか?」
「そりゃあね。あいつは好きなもん着て、笑って生きてるのが似合う。しゃつも似合ってるし、俺は好き。異国の皿とか壺とかもたまに見かけるけど、いいじゃん華やかで。孔雀の羽とかかっけえし。鎖国思想なんて古い古い」
「トキ時さんが大切なんですね」
最低な環境音を背景に、ふたりは平時と変わらない態度で口裏を合わせている。まるで単なる悪戯を隠すかのように。
「俺はトキ時の為ならなんだってやる」
「奇遇ですね」黒骸はわざとか否か、ほんの一瞬だけ瞳を赤くした。「俺も羅乃目の為ならなんでもやりますよ」
黒い瞳に戻った黒骸に向かって、良はやや笑いながら人差し指を自身の唇の前にそっと当てる。
「トキ時には、内緒」
*
人間とそれ以外の線引きは、酷く曖昧である。いつ人間の道を踏み外すのか、はたまた逆に戻って来るのか。遠いようで近い。まるで小判の表と裏のように。
この道の先へ行ってはならない。
その果ては、成れの果て。
自分だけはそうならない?
自分だけは正しい?
その傲慢さが命取りになる。
人間を辞めたい?
そもそも、いつから人間だった?
己は、隣人は、人間であるか?
次話