急遽出動した任務が終わりスーツを着替えて基地の部屋へ入ると先に戻っていたホアキンが定位置の椅子に座って片手を上げて挨拶してくる。いつもなら閉じることを知らないその口から任務中の自分の動きはどうだったかだの俺との連携が良かっただの喋りかけてくるが今はそれがない。もう片方の手に握られてる何かが唇に触れているからだ。
「なにやってるんだ?」
「ん……っと、お帰り、サム!これ?これはリップバームだよ。唇の保湿にねって流石にサムも知ってるよね。」
「あぁ、俺も少し前までよく使ってたな。」
空を飛ぶという形をとっている以上、風や乾燥との戦いは年中だ。若いころはケアなんて怠っていたからよく唇が切れて文字通り痛い目をみていたのを思い出す。流行りや軍内の噂話が好きだったライリーはどこぞの誰かから情報を仕入れてリップバームをある日見せびらかしてきたんだったか。とはいえすぐに俺の分も渡してくれたんだが。そういうところであいつは気の利くやつだった。
俺が使っていたリップバームもホアキンが持っているものと同じチューブタイプで容器を押せば先端の穴からバームが出てくるもの。ホアキンはその先端に直接口をつけていたが俺は指で取って塗るようにしていた。
「……最近は使ってない?」
蓋を閉じたリップバームの容器を手の中で弄びながらホアキンは立ったままの俺を見上げて問いかけてくる。何かを探るような、だが答えを知っているような顔に疑問を持ちつつ頷く。
年齢と共に身体の水分は抜けていくだろうに唇は何故だか潤いを保っていてここ最近はあまり唇の乾燥が気にならなくなったような気がする。以前は二、三日に一度は就寝前と任務の前後に塗っていたが塗り忘れても痛い目を見ることがなくなったから自然と使用回数は減っていった。やらずに済むなら手間も減るからラッキーだと思っていたのだ。スーツが新しくなってヘルメットを装着するようになったからだろうか。
確かめるように自分の唇を触ってみてもそれなりの弾力で指を弾き返してくるし、親指で下唇をなぞってみても表面が引っかかることもない。
「っ、サム……誘わないでよ……。」
「?」
ホアキンは額が膝に付くんじゃないかというくらい項垂れながら手の中にあったリップバームのチューブを二本の指で挟んで俺の目に入るように掲げてくる。
「それがなんだ?俺にも使えってか?あいにく俺は人と同じものを使うのに抵抗があるんだ。お前さっきそれ直接塗ってたろ。」
「もう!違うよ!本当にわかんないの!?自分が何で乾燥してないか!!」
「な、なんだよ急に。」
勢いよく顔を上げたホアキンはその勢いのまま椅子から立ち上がり俺の前に仁王立ちする。怒ってるんだか拗ねてるんだかの様子に俺はますます首を傾げるしかなくなる。こいつの上下する感情は今に始まったことではないが。
「俺が、アンタが寝静まってから夜な夜な塗ってるの!俺と!同じやつを!」
「はぁ??」
腰についていた片手がリップバームと共に突き出され眼前はチューブとホアキンの顔でいっぱいになるのであまりの近さに冷静さと距離感を保つため一歩だけ足を引く。
「そもそもサムのせいだよ。サムがいっぱいキスしたいって強請るから、いやそれ自体はめちゃくちゃ嬉しいんだけどさ?キス強請るときのサムってすごく可愛いし、エロいし。でも一晩中ってなると流石の俺も乾燥してきちゃうし、サムもそうだと可哀そうだしって思って。あとすっごい前に任務から帰ってきたら唇切れてすごい痛そうだったんだよ?でもそれアンタ唇舐めてどうにかしようとしたんだもん。あんな顔みんなに見せないでよ!だから俺が夜な夜な塗ってるの。それは別に嫌じゃないからいいんだけどさっ。」
どこで息継ぎをしたんだと思うほどの文字数をホアキンは鼻息荒く捲し立ててその勢いに口を挟む間もなく全てが耳から脳へと届けられる。いくつかは届かないほうが良かったこともあるが。職場でなんつう話をしてんだ、お前は。
確かに少し前からホアキンとはそういう仲になったし、自宅へ誘いそういうコトをしたりもしているが、ホアキンが言うように寝ている間に塗られていたのなんてまったく気が付かなかった。それにやけにキスしたがるのは絶対お前の方だ!
「あ、えっと……さむ、怒っちゃった?」
俺が返事に迷っている間に先ほどまでの勢いは音がしそうなほどしぼんでいき突き出されていたリップバームはホアキンの手の中へと仕舞われ何も持っていないもう片方の手が俺の袖をつん、と引っ張る。子犬、と称しても誰からも怒られないだろう顔面と共に。
この顔は本気で反省してるわけではなく自分のやったことに間違いはないが俺に『よし。』と言ってもらうための言わばポーズだ。そもそもこの行動をして良いとわかっている辺りこいつはかなり確信犯なのだが、これをされて俺もまた本気で怒ったことなぞないのだ。どっちもどっち、というやつだろうか。
「はぁ……別に怒ってはないが。」
「ホント!?良かった~!へへ、これからもサムの唇の治安は俺が守るからね!」
「だが勝手にやってたってのはちょっと納得いかないな。貸してみろ。」
「え?ちょ、サ、サム?」
ホアキンの手の中にあったチューブを奪い、軽く肩を押せばすぐ後ろにあった椅子に素直に腰を下ろし頭の上にはクエスチョンマークが見えそうなほど戸惑っているという表情を全面に出している子犬に少しばかり真剣な表情を作ってやるとふわふわと浮いていた手は膝の上に収められる。
チューブを軽く押し人差し指に少量リップバームを出せばホアキンの肩に左手を添えてまだ潤っている唇にゆっくりと触れる。
「んっ……」
まずは上唇をなぞり、流れるように下唇へ。それから浸透させるようにもう一度指を一周させながら弾力を楽しむ。若いからか、ハリがあり指を押し返してくる。いつもこの唇が自分に触れているのだ。そう思うとこの行為も悪くないと思ったし、ホアキンが夜な夜なやったことも理解できる気がする。
「ねぇ、さむ。」
ぴったりと膝に収まっていた手が俺の腰を撫で、じっとりと、夜の時と同じ少し低い声で名を呼ぶ唇が震えその振動がそのまま指から全身へ伝わってくる。ホアキンを見下ろせば可愛らしい子犬は何処へやら、大人の男の視線が纏わりつく。
「このままじゃ多いからもらってよ。」
腰にあった手は俺の両手を取ってごく軽い力で引き寄せられ抵抗することなくそのまま身を屈めて潤うというよりぬらりと光る唇に唇を合わせる。角度を変えるとぬち、と普段はしない音が部屋に落ち職場でなんてことをしているのだと頭の片隅で思うのに、まだ離すことが出来ない。幾度となく重ねた唇がなおも気持ちいい。
重ねるだけにしていたのだがホアキンが舌を差し出してきた瞬間、上体を起こし強制的に唇を離すと途端にきゃんきゃんとまた子犬が吠え始める。
「あっ!もう、なんでー!?」
「馬鹿、駄目に決まってるだろ。どこだと思ってるんだ。」
「キスまでしたんだから同じでしょー!」
「へぇ、あれ以上して止まれる自信があるんだな?」
「え、いや、それはぁ……。」
「ほらみろ。俺もだ。」
「え!?待ってサム、今なんて!?」
素直に目の泳ぐホアキンに笑いを堪えつつ本音を吐き出して今度こそと距離を取って自分のデスクへ腰を落ち着かせる。任務だけこなしていられればいいが軍が絡むと報告は絶対だ。甘ったるかった空気を入れ替えるようにほんの少し硬い声で未だ吠えようとする相棒へ声を飛ばす。
「さて、さっきの任務で何か報告することはあるか?ホアキン。」
「オーケーサム。軍との連携についてなんだけど――」
俺の雰囲気を察して瞬時に切り替える姿に関心しつつ、今日の夜は大変かもしれないなと頭の片隅で思うことにした。
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