和泉茜はドキドキと胸を高鳴らせながら冷蔵庫の扉を開く。瞬間ひやりとした風が火照った頬を撫でて、茜は僅かに目を細めた。一人暮らし用のこぢんまりとした冷蔵庫の最上段には、真っ白なショートケーキが鎮座している。冷蔵庫のライトに照らされてキラキラと輝いているそれは、まるでスポットライトを浴びるスーパースターのようで、茜は思わず、ほう、と息を漏らした。
前のめりになった拍子にはらりと落ちてきた前髪を耳にかけ直して、そっと冷蔵庫の中へと手を伸ばす。逸る心を抑えつつ、茜は慎重にケーキ皿の縁を掴んだ。何せこのケーキだけを心の支えにこの一ヶ月を乗り越えてきたのだ。焦りすぎて床に落としてしまったら、このさき一週間は落ち込む自信がある。
ひんやりとしたケーキ皿を両手でしっかりと支えながら、尻で冷蔵庫の扉を閉める。些か行儀が悪いが、ケーキを無事に運ぶためなのだから許して欲しい。そのまま慎重にケーキをテーブルへと移動させて、蔦模様の細工が施されたケーキフォークと黒猫のシルエットがあしらわれたマグカップ、そしてあちこちに水玉模様が浮かんだ急須を用意する。
どれもこれも、新生活ために揃えたとっておきの食器たちだ。特にこの急須は、水玉模様の深い青色に一目惚れして、迷う間もなく購入してしまった。ちなみに急須のなかに入っているのは、静岡土産の緑茶のティーバッグである。そこは普通紅茶じゃないの、と以前友人に怪訝な顔をされたのだけれど、実家では昔からこうだったのであまりピンとはこなかった。兎にも角にも、美味しければ良いのだ。
とぽぽ、と急須からマグカップへとお茶を注げば、優雅なおやつの時間の準備は完了だ。皿の上のショートケーキも、心做しか茜に食べられるのを待ちわびているかのように見えた。茜はそわそわと椅子に座って、ケーキに軽くかけられていたラップを外す。ふわりと漂ったいちごの甘酸っぱい香りに、じゅわりと唾液が溢れ出した。
丁寧にナッペされた生クリームは新雪が積もったばかりのゲレンデのように滑らかで、その上には粉砂糖が振りかけられたいちごがちょこんと飾られている。純白と深紅のコントラストが目に鮮やかだ。食べる前からもう、このケーキが美味しいということがわかってしまう。さすが、近所でも評判のケーキ屋のショートケーキだ。大学生になってからの一ヶ月は慣れないことばかりだったけれど、こういうご褒美があるなら頑張った甲斐があるというものだろう。
なんてことを考えながら、いそいそとセロファンを剥がす。生クリームがべったりとついたそれを見て、茜は思わず手を止めた。ーいや、わかっている。これはきちんと畳んで、お皿の端にでも避けておかなければならない。そうするべきだ。わかっては、いるけれど。
僅かな逡巡の後で、茜はケーキフォークに手を伸ばした。
「いや、だって誰も見てないし」
言い訳をするように呟いて、そっとセロファンにフォークの先を当てる。
「生クリームが自慢だって、お店の人も言ってたし」
控えめな甘さと滑らかな舌触りが売りなんですよ、という店員の言葉を免罪符に生クリームをすくい取る。フォークの上の生クリームがやけに美味しそうに見えて、たまらない気持ちになった。
セロファンについた生クリームにしろ、蓋の裏についたアイスにしろ、しゃもじについたお米にしろ、どうしてこう、本体から離れたところにある食べ物というものはこんなにも魅力的に見えてしまうのだろうか。いけない、とは思いつつも、どうしても手を伸ばすのをやめられない。人前では許されないことをしているのだ、という背徳感が美味しさを助長させるということを知っているから、尚更だ。
「家じゃお母さんに文句言われるもんなぁ」
そう呟いて、茜はひひっと引き笑いを漏らす。眉を吊り上げた母の顔が目に浮かぶようだ。例え何と言われようとも、やめることはできないのだけれど。母の小言を聞き流しながら口に含んだ生クリームは、背徳の味がしてまた格別に美味しいのだ。
──茜ったら。お行儀悪いよ。
心底呆れた、と言わんばかりの母の声が蘇る。大袈裟に体をくねらせ、美味しい美味しいと繰り返す茜に、母が仕方がないなというように微笑むのが、実家ではお決まりの流れだった。
──しょうがないじゃん、美味しいんだもん。
そう開き直る茜にため息を吐いて、そうして母は膝を覗き込んで言うのだ。
──いっつもおねえちゃんの真似して、茜ったら本当に困った子よねぇ。
ああ、そんなこともあったなぁ。もう、いつの出来事かも覚えてはいないけれど。不意に思い出したやり取りに、茜は生クリームがのったフォークをゆらゆらと揺らしながら笑って。
そして、ひゅっと息を呑んだ。
茜には「あね」がいた。美人で、気まぐれで、お転婆で。けれどとても頭が良くて、優しくて、面倒みがいい、そんな自慢の「あね」が。
「なんだ、猫じゃん」
だから、小学校に入学してすぐのころ、初めて「あね」を友人に紹介したときに言われたその言葉を、茜はすぐに飲み込むことができなかった。
「猫だけど、おねえちゃんなんだよ」
「猫がおねえちゃんなんて、ヘンだよ。猫はおねえちゃんになれないよ」
「でも……」
「それに、茜ちゃんたち全然似てないじゃん。もし猫がおねえちゃんだって言うなら、茜ちゃんだって猫じゃなきゃおかしいよ」
茜はそれ以上言い返さずに、きゅっと唇を引き結んだ。何を言っても、この友人にはわかってもらえないと子供心に悟ったからだ。確かに友人の言うように「あね」は猫で、茜は人間だ。けれど、それがどうして「あね」が姉ではないということになるのだろう。
胸がモヤモヤとして、ひどく息苦しかった。大好きな「あね」を否定されたことが悔しくて、わかってもらえないことが悲しくて。友人が帰ったあと、茜は堪えきれずにぽろぽろと泣いた。そんな茜を慰めるように、おやつだよ、と大好物のショートケーキを差し出されたけれど、このときばかりは食べる気がしなかった。
「うーん、確かに他の人にはわからないかもしれないけどね」
どうしてあの子は、猫は「おねえちゃん」じゃないなんて言うの。涙ながらにそう訴えた茜の黒髪をするすると優しく梳きつつ、母が言った。
「でも、くろちゃんは茜のおねえちゃんだよ」
ねぇ、と母は同意を求めるように膝上を見る。母の膝の上では「あね」──くろが、翡翠色の瞳を爛々と輝かせながら、じっとショートケーキを見つめていた。艶やかな黒い毛皮に身を包んだ彼女は、茜たちがケーキを食べ始めるのを心待ちにしているかのように、鼻先をひくひくと動かしている。
くろはピルピルと耳を震わせると、母の呼びかけに答えるようになぁんと声を上げた。いや、もしかしたら早く食べろと急かしていたのかもしれない。セロファンについた生クリームはくろの大好物でもあったので。
「ほら、くろちゃんもそうだよって」
「でも、猫はおねえちゃんになれないって言われた」
「なれるよ、なれる。だってくろちゃんは、茜が産まれる前から茜のこと守ってくれてたんだよ?」
それは、母の口癖のようなものだった。
まだ茜が母のお腹のなかにいた頃の話だ。臨月間近で、夜毎に腹が張って息もできないでいた母に体温を分け与えるかのように、くろは毎晩母に寄り添って寝てくれたのだという。時には腹の上に乗ってまで、くろは母を温めてくれていたらしい。
さすがにちょっと重かったけどね、と母は苦笑して、でもおかげでよく眠れたなぁと懐かしむように呟いていた。当の本人であるくろは、ありがとうねとふわふわの毛並みを撫でられながら、呑気にあくびを零していたのだけれど。
子供ができにくい体質だった母は、念願叶って茜を妊娠したあとも色々と苦労していたのだと、ずっと昔に父が教えてくれた。その苦労の多くを母はあまり口にしようとはしなかったけれど、この話だけは寝物語に何度も話して聞かせてくれた。その話を聞くたびに茜も誇らしい気持ちになったものだ。
けれども、このときの茜にとってはその話でさえなんの慰めにもなりはしなかった。母も茜の機嫌が上向かないことに気付いたのか、髪を梳く手を止めてショートケーキへと手を伸ばした。とりあえず、先にくろに生クリームを与えることにしたのだろう。
「茜がお腹壊して寝込んでたときだって、くろちゃんが一緒に寝て温めてくれてたでしょ。いつもならお母さんと一緒に寝てるのに」
「…………」
「さっきだって、泣いてる茜を一番に見つけたのはくろちゃんだったじゃない。くろちゃんはさ、ちゃんと茜のこと大事に思ってくれてるよ」
ペリペリとケーキに巻かれていたセロファンを剥がしながら、母が諭すように言った。事実だった。玄関でぐじゅぐじゅと鼻を鳴らしていた茜の側に真っ先にやって来たのはくろだ。心配するように茜に顔を寄せ、それでも泣き止まないと見るや「ぅわぁああん!」と滅多にない大声で鳴いて母を呼んだのも。
「それじゃ駄目なの?」
「だめじゃないけど……」
茜はすん、と鼻を鳴らすと、それきりむっつりと黙り込んだ。胸のモヤモヤはいくらか軽くなったものの、底の方にはまだ残っている。
「ほーら、くろちゃん」
母は生クリームがついたセロファンの両端をぴんと張るように摘んでくろに差し出した。ひとまず茜のことはそっとしておくことに決めたらしい。くろは待っていましたとばかりに耳を立てると、薄いピンク色の舌でぺろりとクリームを舐めとった。
「美味しいねぇ、くろちゃん」
生クリームの上に蜂蜜とチョコソースをたっぷりと垂らしたような甘い声で母が言う。たぶん、こういう声を「猫なで声」というのだろう。妙に冷静なことを意識の端で考えながら、茜はぼんやりとくろが生クリームを舐めとっているのを眺めていた。くろがごろごろと喉を鳴らす音と、さりさりと生クリームを舐める音だけがリビングに響く。
「……おねえちゃんなのに、似てないって言われた。似てないならおねえちゃんじゃないって」
「えぇ?」
ぽつりと零した言葉に、母が素っ頓狂な声を上げた。なんだか馬鹿にされているような気がして、茜は再び黙り込む。茜だってもう小学一年生だ。茜とくろは違う生き物であることくらいわかっている。それでも、と思ってしまうのだ。それでも、似てなくても、「あね」を姉と言ったって良いじゃないか、と。
「馬鹿だなぁ」
「ばかじゃないもん!」
反射的に噛みつけば、母はごめんごめんと笑いながらそっと茜の髪を摘んでみせた。
「これ、何色だ」
「……黒」
「じゃあ、くろちゃんとお揃いじゃないの」
母はそう言うと、くろの真っ黒な毛並みを優しく撫でた。口元に真っ白なクリームをつけたくろが、にゃあと鳴く。茜はそれを見て小さく吹き出した。まるで、サンタクロースの髭みたいだ。一度笑ってしまうとずっと不機嫌でいるのもバカバカしく思えてきて、茜はふっと肩の力を抜いた。
泣いたせいでお腹も減ったと、茜もケーキに手を伸ばす。まだ納得がいっていないこともあるけれど、今は忘れることにした。美味しいケーキを食べるのに、嫌な気持ちのままではもったいない。セロファンの端を摘む。とりあえずこれはくろにあげよう、と思った。
それからも、茜とくろは仲のいい「姉妹」であり続けた。日のよく当たる窓際で一緒に昼寝をしたり、猫じゃらしで遊んだり。ときには「あね」らしい理不尽さでソファ──くろのお気に入りの昼寝スポットだ──から追い出されたりもした。ちょっかいをかけすぎて、くろの自慢の爪で思い切り引っかかれたこともある。
けれど部屋の隅で泣いている茜を一番に見つけるのはいつだってくろであったし、少しでも茜が体調を崩すと治るまで寄り添ってくれるのもまた、くろだった。
そうやって、毎日を共に過ごしてきたからこそ、くろの異変にはすぐに気がついた。
まず、あまり家の中を歩き回らなくなった。それまでは居心地のいい寝床を求めてあちこちに潜り込んでいたというのに。食事の量も減って、大好きだった生クリームに見向きもしなくなった。少しずつ体力も落ちてきて、起きているよりも寝ている時間の方が長くなった。
そして何より、あんなにも艶やかだった黒い毛並みに、白髪が混じるようになった。
「くろちゃんも、もうおばあちゃんだから」
膝の上で眠るくろを寂しげに見つめながら母が言ったのは、茜が小学五年生になってすぐの頃だった。
「茜が生まれるまで十年、生まれてから十年……。二十年も長生きしたんだもんね、これが自然なんだよ」
母のその声が、まるで自分に言い聞かせているようだったことを、よく覚えている。
そうして春が過ぎ、梅雨が明け、夏になり。季節が秋に差し掛かった頃ついに、くろは起き上がることができなくなった。
ああ、もうすぐなのか。家族全員が察していたと思う。けれど、それを受け入れることなんてできなくて、ある日母の寝室──この頃のくろは大抵、ここで過ごすようになっていた──に忍び込んだ茜は、静かすぎる寝息を立てるくろに縋りつくようにして言った。
「ねぇ、くろちゃん。もうすぐお母さんの誕生日だからね、ケーキもきっとあるよ。そしたら私の分の生クリームもあげるから。だから、早く元気になってよ」
くろからの反応はない。わかっている。わかっていた。この頃には、くろはもう起きている方が珍しい状態になっていたのだから。碌に食事もとれなくなっていたし、翌週に迫る母の誕生日までくろの命がもつかわからないということも、茜はしっかりと理解していた。
それでも、自分が声をかければ目を覚ましてくれるのではないかと、心のどこかで思っていた。だって、くろは茜が落ち込んでいたらすぐに見つけてくれたのだから。そばにいてくれたのだから。
それなら今だって一緒にいてくれなきゃおかしいだろう。茜は今、こんなにも胸にぽっかりと穴があいたような感覚がしているというのに。
ねえ、なのに一緒にいてくれないの。慰めてくれないの。そんな思いを込めてくろの背を撫でたけれど、くろは眠り続けたままで。
目元がぐっと熱くなった。喉元に何かが込み上がってくる。今すぐに叫び出して、泣き喚いてしまいたかった。けれど、それで大事な「あね」の眠りを邪魔したくなどなかったから。茜はその全ての衝動を押し殺すために、ぐっと奥歯を食いしばる。
そうやって、くろの体が上下にゆっくりと動くのをじっと見つめていると、不意に彼女の瞼が震えたような気がした。
「……くろちゃん?」
ゆるりと、緩慢な動きでくろの瞼が持ち上がる。焦点があっていない翡翠色の瞳が、何かを探すようにうろうろと周囲を彷徨った。ひたり、と視線が絡む。
「……にゃあ」
くろが息を引き取ったのは、それからわずか二日後のことだった。
その日は、静けさがやけに耳について目を覚ました。起きてすぐに違和感に気付いた。いつもなら聞こえる音が、何も聞こえないのだ。朝のニュースの音も、母が朝食の支度をする音も、父が新聞をめくる音でさえも。
茜は無言で布団から身を起こして、そっと床に足をつける。足裏から感じるゾッとするほど冷たい感覚に、自然と茜は体を震わせた。
妙に凪いだ気分のまま、リビングへと足を向ける。そろそろと薄暗い廊下を歩けばその分だけ体温が奪われて、パジャマの上に何かを羽織らなかったことを少しだけ後悔した。
きゅう、と鳴る腹を抱えながらリビングに繋がる扉を開く。寒々しい空気がむきだしの頬を撫で、キュッと全身の毛穴が締まるような感覚がした。
「あ……、おはよう茜」
こちらに気付いた母が、泣き腫らしたことがありありとわかる顔で声をかけてくる。
「うん」
茜は言葉少なに頷いて、ぐるりとリビングを見渡した。本当に、今日は何の音もしない。電源のついていないテレビに、湯気を立てていない電気ケトル。畳まれたままの新聞紙と、それから、使われた様子のないガスコンロ。いつもと違うのは、たったこれだけのことなのに。
そのままソファに視線を移すと、不機嫌そうな顔をした父と目が合った。
「くろ、死んじゃったってよ」
「……うん」
怒ったような声で告げる父に、茜は小さく頷いた。不思議と涙は出てこなかった。ただ、胸にすきま風が通ったような感覚だけがした。
父の眉間に皺が寄る。思わずビクリと肩が跳ねて、咄嗟に足元に視線を落とした。冷えて、青白くなってしまった爪先が見える。
父は刺々しいため息を吐くと、そのまま何も写っていないテレビの方へ顔を向けた。──あとから思えば、父は父なりにくろの死を悲しんでいたのだろう。けれどこのときの茜には、自分が泣けないから父が怒っているのだとしか思えなかったのだ。
そのままモジモジと足先を擦り合わせていると、母があっと何かに気付いたような声を上げた。
「ごめん、お腹空いてるよね。ごめんね、まだ何の準備もしてなくて……。ちょっと待っててね、ごめんね」
「え、あ──」
確かに茜の胃は空っぽで、先程からきゅるきゅると鳴って空腹を訴えている。だがそれを正直に言うのは何となく躊躇われて、茜は口ごもった。
「朝飯なんて、食えるわけないだろう」
とりあえず何か言わなくてはと口を開いたところで、父の叩きつけるような声が割り込んでくる。はくり、と茜の口から、言葉になりきれなかった吐息が零れた。
「なぁ?」
厳しい目付きのまま、父がこちらを見る。促すようなその視線に、釘を刺されたような心地がした。
「……うん」
パジャマをぎゅうっと握りしめながら、茜はこくりと頷いた。相変わらずきゅるきゅると鳴る腹を抱える自分が、なんだかひどく冷たい人間のように思えて仕方がなかった。
その後のことは、切れぎれにしか覚えていない。母がどこかに電話をかけていたこと。真っ白な箱のなかで眠るくろの周りに、おもちゃや、タオルや、花を詰めていったこと。そして、喪服を着た人たちにくろを引き渡したこと。
ああ、けれど、鮮明に覚えていることがある。
くろの亡骸を引き渡して、ソファに腰を下ろし、ぼうっと時計を眺めて。ああ、もうお昼なのかと、そう思ったときにはもう、その言葉はぽろりと口から転がり落ちてしまっていた。
「……お腹減った」
口にしてから、しまったと思った。母が、言葉もなくこちらに視線を向ける。全身から血の気が引く感覚がした。
「あっ、違くて、その……」
慌てて首を振ったものの、一度口に出した言葉が消えてなくなることはない。
「……ごめんなさい」
母の顔を見ることができなくて、茜は立てた膝の上に額を擦りつけた。ふ、と短く息を吐く音がする。続いてギシリとソファが軋む音がして、体が僅かに右に傾いた。母が隣に腰掛けたのだろう。
「なんで謝るの」
「……くろちゃん、死んじゃったから」
「うん、そうだね」
「……お腹減って、ごめんなさい」
茜は出来うる限り体を小さくしながら言った。
「……馬鹿だなぁ」
それは、いつかの日と同じような響きを伴って茜の耳に届いた。ハッとして隣の母を仰ぎ見る。母は泣き腫らした目をして、それでも雨上がりの空のような澄んだ眼差しを茜を向けて笑った。
「当たり前だよ、生きてるんだから」
カチャン、という甲高い音で我に返った。ハッとして手元を見れば、ケーキ皿の上にフォークが転がっている。どうやら茜がぼーっとしているうちにフォークが手から滑り落ちてしまったらしい。先程の音はケーキ皿とフォークがぶつかった音だったようだ。
茜はひとつ瞬きをしてそれを拾い上げた。そして、そのままぱくりと口に含む。評判通りの滑らかな生クリームの舌触りと、ふんわり広がるいちごの甘酸っぱい香りに、自然と頬が緩んだ。
──美味しいねぇ、くろちゃん。
耳元に蘇る、いつかの母の声。それと共に、くろがさりさりと生クリームを舐めとる音までもが聞こえてくるような気がして、茜はそっと目を閉じた。
母の膝の上に座り、生クリームを催促するくろの姿を今でも鮮明に思い出せる。それがとても嬉しくて、それと同じくらい、くろが思い出になってしまったことを寂しく思った。
思い出になるということは、茜が思い出そうとしなければ、くろに会えなくなるということだ。何もせずともそばにいてくれたあの頃とは、違うということだ。
くろのことを忘れたことはないし、忘れるつもりもないけれど。──それでも最近、くろを思い出す回数が少なくなってきたとは、思う。今日だって、生クリームというきっかけがなければ思い出すことはなかっただろう。
ぽっかりと空いていたはずの胸の穴はいつの間にか塞がっていて、あの日々が、少しずつ過去になっていく。そして、あと数年もすれば、くろと過ごしてきた時間よりも、くろがいない時間の方が長くなる。それが、茜にとっては、とても──。
リビングにぎゅる、と間抜けな音が響いた。ついに胃袋が我慢の限界に達したらしい。
「…………」
茜は口からフォークを引き抜いて、大きく息を吐いた。感傷的な気分が台無しだ。でも、それも仕方ないことなのだろう。茜は、生きているのだから。
目を開くと、当然ながらそこには未だ手付かずのショートケーキがある。茜は肺をケーキの甘い香りで満たすように思い切り息を吸い込んだ。気分を切り替えるように、ぎゅっとフォークを握り直す。
「よーし、食べるかぁ」
なぁんと、くろの声が聞こえた気がした。
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