ながひさありか
2025-07-18 00:45:28
11730文字
Public STR-Phaidei
 

鍵のかかった男

「六度目の春」の続きでこれで終わりです。
ちょっとだけファイノン視点があります。
嬉しい感想ありがとうございました。

前回→ https://privatter.me/page/687680474d5a9

 棚の奥底に自宅の鍵がもうひとつあることを思い出したのは、間抜けヅラでソファで眠っているファイノンを確認し、冷凍庫から仕込んでおいたフレンチトーストを取り出したその時だった。レンジで解凍をする間に鍵を探し出し、手のひらの上で弄ぶ。悩んでいるうちに電子音が鳴る。
 フライパンを火にかけ、鍵をシンクに置く。片面を焼く間に急いで服を着替え、フレンチトーストをひっくり返す。サイズも色も違う皿を二枚棚から出し、それぞれに焼き上がったフレンチトーストを盛り付けると、ひとつにラップをかけておく。
 家を出る十分前になってもファイノンは目を覚さない。朝に弱かった記憶はないが、もしかすると時差ボケを起こしているか、あるいは実は体調が悪いのかもしれない。顔色は悪くなかったが、真実はわからない。
 悩んだ末にファイノンを起こし、鍵を握らせる。寝ぼけ眼の男は鍵を見、困惑の表情を浮かべた。その表情に、本当に帰って来たのか、とまだ現実を受け入れられない脳が考える。
 今夜俺が帰ってくるまでは家にいろ。その後はどこへでも好きに行けばいい。それから、朝食はあるが昼の分はない。買い物に出るなら鍵をかけろよ。
 そう言い渡し、出勤する。背後からモーディス、と慌ててソファから降りる足音がしたが、振り返らなかった。既に、いつもより五分家を出るのが遅れていた。
 職場につけば、予想はしていたが昨日の出来事が噂になっていた。
 その指輪、本当にフェイクじゃなかったんだ。それだけ君の持ち物の中で浮いてるから、絶対虫除けだと思ったのに。意外そうな顔で俺の左手を見る上司に、嘘をついたことはない、とそれだけ返し、閉架書庫の整理に向かう。それ以上の問いかけには答えなかった。誰にも俺とあいつのことを理解して欲しいと思っていないからだ。
 大学を卒業しておおよそ一年後、旅のVlogとやらを度々投稿していたファイノンは、「チャンネルの収益が通ったから」と言って、俺に指輪を贈った。安物のシンプルなデザインで、服装もシチュエーションも選ばない。
 こう言うものを贈る知識はあったのか、と服に全く頓着しない男に言えば、「僕のことなんだと思ってるんだ?」と分かりやすく拗ねて、「君の実家にはこれの百倍くらいの物があるだろうし、どうせ贈るならもっと良いものにしろって言うかもしれないけど、今の僕にはこれが精一杯だから」と少し恥ずかしそうに口にした。記念日でも互いの誕生日でもなんでもない日だったが、かえって嬉しかったのを覚えている。
 お前にそんな物は期待していない、と笑った俺に、「わかってるけど言うなよ!」と喚いて、ファイノンは無理やり俺の指に指輪を嵌める。
 いつサイズを測った? 君が寝てる間に。瞳を細めながら、俺の手を見つめて満足そうに笑う男に、悔しいが負けた、とそう感じた。
 僕とデートする時だけでいいからつけてくれよ。普段は恐ろしく図々しい男のいじらしい言葉が響いて、以来、つけっぱなしにしている。
 もうちょっといいやつ買おうか? と五年前、長い旅に出る前尋ねられたが、もう随分と手に馴染んでしまっているので不要だ、と答えていた。君がいいならいいけど、と答えた顔は不服そうと言うよりどこか嬉しそうに見え、単純な奴だな、と思っていた。
 本を整理しながら、久しぶりにまじまじと指輪を眺めた。上司が言った通り、俺の持ち物の中では浮いている。それは悪い意味ではなく、俺にとってはいつでも光っているように感じていた。

 ところで、この間送ったリンク見てくれた?
 ファイノンは度々、旅の間も、旅の記録を載せているチャンネルを俺に見るようねだっていた。しかし、それだけは今になっても一度も見ていない。編集している姿を後ろから見たことはあったが、それだけだった。
 旅に出ない俺が動画に写ったことはないし、BGMとテロップだけで構成されていて、ファイノンの顔も声も出ていない。それでも見てやらなかった。
 見ればなにかと口出ししたくなってしまうかもしれないだろう、とあいつには言ったが、本当の理由は違っていた。 
 例え顔や声が写っていなくとも、姿を見れば、きっと会いたくなってしまうだろう。だから見てはやらなかった。
 一度も言ってやったことはなかったから、きっとあいつは知らないだろう。

   *

 寝起きでまだ頭の働かない僕に鍵を押し付けたモーディスは、僕に言い訳のひとつも許さず、呼び止めるのも聞かずに仕事に行ってしまった。
 出て行けと言われたほうがまだマシだったかな、とテーブルに置かれていたフレンチトーストを温め、一人で朝食を食べながら考える。
 俺が帰ってくるまでは家にいろ。それってつまり、僕は近いうちにまた君の前からいなくなるだろうと思われてるってことだ。それはまあそうだろう。勝手に気まずくなって連絡をしなくなったのは僕だ。昨日泊めてくれただけモーディスは優しいし、僕は彼の優しさにつけ込んでいる。
 昨晩、パスタを温め直したらモーディスの顔は不本意そうだった。ただでさえ然程手がかかっていないのに、伸びてしまっているからきっとうまくないだろう。パスタが冷めた原因は僕が言い訳を聞いて欲しがったからなのに、それを責めてこない言葉に、怒鳴られるより余程深く胸に後悔が刺さった。
 昔からそうだ。モーディスの怒りはあまり持続しない。それはきっと良い意味で他人にそれほど期待をしていないからだろうし、責任感が強すぎて全てを自分の選択の結果だと思ってしまうからだろう。例えば僕の選択がモーディスの望みとはずれていても、僕を信じるという選択をしたのは自分だから、その結果がどうあれ僕を責めるようなことは言わない。そんな風に。

 大学在学中、卒業したらもっと世界を見てみたいんだ、と夢を語った僕に、「行けばいい」と背中を押してくれたのはモーディスだった。
 金や言葉はどうするんだ? まあ、なんとかなると思う。
 行き当たりばったりの僕に、モーディスは「呆れるほど考えなしだな」と言いはしたものの、それ以上のことは言わなかった。バイト三昧のくせして、旅費を貯めてるからと碌にデートで遠出もしない僕に文句も言わずに。
 贅沢はいつでもできる、と実家の太いモーディスに言われるのは正直複雑な気分ではあったけど、些細なことでも新鮮そうに喜んでくれるところはありがたかったし、そう言うところがちょっと世間ズレをしていて可愛かった。

 食べ終わった食器を洗ってカゴに入れた後、なんとなく食器棚を開ける。昔のモーディスは色違いの食器をセットで揃えていたような気がしたけれど、引っ越しの際に捨ててしまったのか、今は色違いの食器は持っていないようだった。自業自得の年月の流れを感じて傷つくのはやめようと思っているはずなのに、結局自分勝手に傷ついてしまう。だけど、かつて一緒に揃えたはずの食器が捨てられているのはやっぱり少しショックだった。
 昨晩、「お前の分の布団はない」と少し硬い声でモーディスに言われた時、それが? と思っていた。
 別にどこでも眠れるから大丈夫だけど、散々野宿とかして来たし。と言った僕に、モーディスはため息をついて、少しは脳みそを使ったらどうだ、と口にした。それでも彼の真意はわからなかったけれど、今にしてようやくわかった。モーディスはきっと、僕はもう戻ってこないと思っていたのだろう。だから僕の分の布団はないし、食器ももう揃っていない。
 大学進学を期に、モーディスは親元を離れて一人暮らしをはじめていた。どこに住んでるんだっけ、と聞けば、何故そんなことを聞く、と真顔で言う。え、遊びに行こうかと。そう答えた僕に、家に誰かを招く予定はないが、と言われて衝撃を受けた。付き合ってるのに、親もいないのに、なんでだよ、と思った。
 ……来たいのか? え、勿論。いや、君が絶対に来るなと言うなら行かないけど。あ、でも僕の家には来てくれよ。君のマンションと違って全然狭いし古いけど、君の布団もパジャマも歯ブラシも全部用意してあるから。
 何故泊まる前提なんだ、と困惑するモーディスに、だってもう大学生だよ? と言えばますます困惑されて、そこからどう話題を切り出すか少しだけ困った。
 普通わかるだろ、付き合ってるんだからさ。手を握ってしどろもどろにようやく口にしても、モーディスはよくわかわらん、と眉を寄せ首を傾げた。「付き合う」のはわかるくせに、とちょっとだけ文句を言いたくなった。
 結局僕の家にモーディスが来るよりも、モーディスの家に僕が行く回数の方が多かった。何故って、モーディスの家の方が壁が厚くて、大学帰りに買い物もしやすかったからだ。他人を家に招く予定はないと言っていたモーディスが「来客用だ」と言ってもう一式寝具を買ったり、食器を揃えるのに僕もついて行った。結局僕以外は親友だという男が二度ほどモーディスの家に来ただけで、それ以外の人があいつの家に招待されたことはない。

 今更僕がショックを受ける資格はないな、と棚を閉めて、いや待てよ、と思い直す。
 モーディスは昨日、「今更別れ話なんぞ聞きたくもない」、と言わなかったか? それってどっちの意味だろう。もう別れているつもりなのか、それとも、布団や食器がないのは彼が過去に僕に怒っていた証拠なだけで、わざわざ買い直していないと言う話なのかもしれない。
 そりゃ、五年も碌に帰ってこない人間のための荷物なんてあっても邪魔なだけで、引越しをするなら尚更捨てるに決まっている。そんな物は戻って来てからまた買ったっていいんだから。
 それになにより、——指輪がそのままだった。僕が昔買った、本当に安物で全然モーディスには似つかわしくない、だけど当時の僕にはそれが精一杯の背伸びだったそれを、あいつは今もつけてくれている。
 自惚れるな、ただの虫除けだ、と言われてしまうかもしれない。だけど、例えそうだったとしても僕が贈ったものを使ってくれているのは嬉しい。
 当時、なんとなく気恥ずかしくてお揃いの指輪を買わなかったことを実は少しだけ後悔している。モーディスはあんまり気にしていないようだったけど、これも本当のところはわからない。
 こんなに長い付き合いなのに、意外とわからないことが多かった。それは僕たちがそのわからなさに居心地の悪さを感じなかったからで、お互いにあまり気にしてこなかった証拠だ。だから今まで喧嘩をしたことはあっても、一度も別れ話には発展しなかったのだろう。
 旅に出る僕をモーディスは一度も止めなかったし、早く帰って来いとも言わなかった。電波が通じなくて誕生日を祝えなくても、お前の人生だ、お前がやりたいようにしろ、といつも背中を押してくれていて、君のその優しさって一体どこから来るものなんだ? とずっと不思議だった。そう言う優しさに僕はずっと甘えていて、だからこそこんな風にあちこちを好き勝手放浪出来たのだろうとわかっている。
 帰る場所があるからこそ自由に進んでいけると言うのか、あるいは僕にとってモーディスは灯台のような存在だと言うべきか。
 だからまさか、あいつの部屋に別の人が住んでいて、職場がなくなっていたことにも驚いたわけだけれど。

 今朝、モーディスにもらった鍵を手の中でしばらく弄んでから、ラップトップを立ち上げる。モーディスが帰ってくるまで何をして時間を潰すか悩んでいたが、スマートフォンである程度編集しておいた動画ファイルを開き、投稿用に仕上げることにした。本当は投稿までしておきたかったが、レンタルしていたモバイルWi-Fiはもう返却してしまっていた。今夜モーディスが帰ってきたらWi-Fiのパスワードを忘れずに聞こう(教えてくれるならだけど)。

 一年ほど前、しばらく電波環境の悪いところに行くから、不定期投稿になると予めSNSでは告知していたけれど、しばらくは週に一度か隔週で投稿する予定だ、と編集画面と共にSNSに投稿しておく。
 チャンネルはものすごく収益があるわけじゃないけど、まあなんとか食べていけるだけの収入は定期的に入ってくる。それに加えて、数年前からWEBや雑誌に旅行記やエッセイを載せてもらえるようになっていた。
 モーディスにもその話はしていたけれど、一度も見たり読んだりはしてもらえなかった。それでもあまりショックを受けなかったのは、モーディスが感心したように「それが仕事になるのか、お前の才能だな」と一言褒めてくれたことがあったからだろう。
 だから多分、今まで一度もモーディスが見てくれなくても、投稿をやめずにいるのだと思う。いつか彼に見て欲しいと言うより、モーディスが感心してくれた僕でいたかったからだ。

   *

 今から帰ると送るべきかと車中で悩んだが、結局連絡はしなかった。本来ならばこんな意趣返しをするべきではないとわかっていたが、まだ冷静にはなりきれていなかった。職場で無視をし続けても散々昨日の顛末を聞かれて、それに苛立っていたのもあるだろう。
 鍵を回し、ドアノブに手をかける直前になって、果たして本当に家にいるのだろうか、と一瞬だけ疑念がよぎった。しかし運転前に確認したスマートフォンには今日の分の連絡はなく、ファイノンが昨日送って来た「君今どこに住んでるんだ!?」と言う一文と、コールの履歴が十回程残っているだけで、きっと家にいるだろう、と信じることにした。
 ただいまを言う習慣はなくなって久しい。ドアを開け、無言で鍵を閉めると、買い物袋を下げてリビングの戸を開ける。
 あ、おかえり。まるでずっとこの家にいたように、妙にしっくりくる馴染み深さで、よれよれのパーカーを着たファイノンがラップトップから顔を上げた。寝起きに見た跳ねた後ろ髪がそのままだった。
 マウスから手を離したファイノンは椅子から立ち上がり、何かしようか悩んだんだけど、触っていいか聞かなかったから、朝食のお皿だけ洗って、あとは特に何も……、と気まずそうに報告する。
 別に期待していない、と思わず憎まれ口を叩いてしまう。俺が頼んだ通り、今夜まで家にいるのならそれでいいと言う意味だったが、きっと誤解しただろう。なにか手伝おうか、と買い物袋に視線を落としたファイノンに首を振り、「すぐに夕食にするから待っていろ」と言って手を洗う。どうせ作るのなら一人分も二人分もそれほど手間は変わらない。
 それまだ使ってたんだ。いつだったかファイノンが旅先で買ってきた青い絞り染めの布を使ったエプロンの紐を結んでいると、背後で落ち着きなく立っていたファイノンが口にする。なんとなく答えに窮して、聞こえなかったふりをした。

 昨日は無言の気まずい食卓だったが、今日は既に俺が絆されているらしく、ファイノンが能天気そうな声でやたらと美味しい美味しいと言って夕食を平らげていくのを「相変わらずよく食べるな」と口に出していたし、気づけば笑っていた。そもそも互いに食卓を囲むつもりがあるのだから、俺が不機嫌のふりを続けるのは難しいし、消化にも悪い。昨日の謝罪を受けいれてやった手前、今日になってもこの五年間を責めることはできなかった。
 そうだ、後でWi-Fiのパスワードを教えてくれないか、とソースを口許につけたままのファイノンに尋ねられ、席を立ってパスワードの書かれた契約書類を探す。後ででいいよ、と慌てて言われたが、後になれば忘れてしまうような気が何故かした。
 書類を引っ張り出して渡すと、スマートフォンにメモをしてすぐに返してくる。書類を再びしまい、席につくと、「この五年で行儀が悪くなったな」とティッシュ箱をファイノンの方へ押しやる。……どこかについてる? ティッシュを二枚抜いて恥ずかしそうに尋ねる男に、口許を指差してやった。

 食器は僕が洗うよ、と言って聞かない男に後片付けを任せて、昨日と同じように俺が先にシャワーを浴びる。お前の服はまだあるか、とラップトップに再び向かっていた男に声をかければ、明日くらいまでは。と答えが返ってくる。
 気まずそうに、ところで、家を探すまでの間、ここにいてもいいかい? と上目遣いで情けない顔をファイノンがした。今夜までは家にいろと言ったが、どうやらしばらくここを出ていくつもりはないらしい。瞬間的に感情が混乱し、思考が停止する。怒りが込み上げるのと同じくらい、どうしようもなく嬉しくなっていた。
 それがばれないよう、目を閉じ、開いて、契約時の記憶を洗う。一応一人暮らし用の物件ではないので大丈夫だろう。
 家賃三分の一は払えよ。……払えるのか?
 えーと、多分? チャンネルの収益もあるから。
 見る? と画面を見せようとするファイノンに、いやいい、と断り、お前も風呂に入って来い、と促した。何年もふらふらできるだけの収入が続いていることに純粋に安堵した。

 ファイノンがシャワーを浴びている間に、帰りにホームセンターで適当に買って来た簡素な寝具の一式を車から部屋に運んだ。明日には出て行くと言われればソファで寝ろと今夜も言うつもりでいたが、そうはならなかった。ソファをもう少しはじに寄せれば無駄にでかい体でも問題なくリビングで眠れるだろう。
 髪を乾かすために脱衣所のドアを叩く。え、なに? と慌てた声のファイノンに「髪を乾かすからドライヤーを取ってくれ」と言うと、なんだ、とほっとしたような声が聞こえ、ドアがスライドし、上半身裸のファイノンが俺にドライヤーを差し出す。
 それを素直に受け取ってさっさと退散しようとしていたのに、受け取るために差し出した手を宙空に浮かせたまま、じっとファイノンを見つめていた。
 昨晩はさすがに会話をするつもりにもならず、シャワーを浴びる前に一通りものの場所を説明して、ソファで寝ろと吐き捨てて寝室に引っ込んでいた。だから、少し日焼けした首筋に濡れた髪が張り付いている姿も、相変わらず着痩せの激しい厚い胸板も、血管の浮いた二の腕も手の甲もはっきりとは見なかった。
 あ、と思った瞬間には、こんな時ばかり妙に敏いファイノンにばれていた。ドライヤーは乱雑に洗面台に置かれ、瞳を細めた男の顔が目の前にあった。待て。意味のない制止が反射的に溢れたが、当然それをファイノンが聞くはずもない。
 廊下の壁に体を押し付けられ、顎を掬われる。ファイノンの頭の上に中途半端に引っかかっていたタオルが床に落ち、唇が重ねられかける。待て、と手を前に出し、顔をそらして胸を押す。しかし、濡れた毛先が鼻先と頬を撫でる感触に体が震え、手から力が抜ける。
 モーディス。もう何年も聞かなかった熱っぽく掠れた低い声に一瞬で意識が絡め取られ、やめろ、と言えなくなる。許してやるとは思ったが、それは関係の完全な修復を意味しない。だからしばらくは、何もさせないつもりだった。それを許せばこいつはまた何も言わずに何年も帰ってこないような気がしたからだ。そうされたって文句を言う資格は俺にはないはずなのに。
 好きに生きろと言ったのは俺で、その言葉に嘘もない。今でもそう思っている。それでも時々文句を言ってやりたくなる瞬間くらいは俺にもあった。それだけの話だった。
 キスもしたくなかったのかと言えば、本当は昨日だってしたかった。許してくれる? 眉を下げた上目遣いの情けない顔で真正面から見つめてくるようであれば、きっと頬をつねったりはしただろうが、それだけで許してしまっていただろう。
 モーディス、こっち見て。それなのに、この男は俺に許しを乞うどころか、生意気にも顔を見ろと命令をしている。勿論声に懇願の色は混ざっていたが、とても人にものを頼む体勢ではないだろう。
 せめてもの抵抗で逸らした顔をそのまま黙っていると、君にキスがしたい、と俺の両肩の隣の壁に手をついて口にした。さっきまでの勢いはどうした? と茶化してやりたかったが、睨むために顔を見れば負けてしまいそうだった。この男の妙に憐れみを誘う情けない顔が見たいわけではない。笑っている顔の方が誰だって好きだろう。
 だめ? それとも嫌? 俺のことは五年も待たせておいて、まるで堪え性のない男が焦れたように、少し苛立った声で言う。時々見せる愚直な忍耐強さはどうした、と蹴り飛ばしてやりたかったが、生憎膝を上げるのも難しい体勢だった。
 メデイモス、ごめん。僕が悪かったのはわかってる。だけど、
 苛立つ言葉を延々と続けられそうで、もう言い訳はいい、とファイノンの口を手のひらで塞ぐ。塞いだ手のひらにすぐに口付けられて、くそっ、と手を引いた。どうせそうなるとわかっていたのに、それでも手を出してしまったのは俺だった。
 ファイノンは俺の左手を掴むと、指を絡ませて、まだつけてくれてるんだな、と縋るようにリングを撫でながら口にした。
 自惚れるな、馴染みすぎて忘れていただけで、特別な意味はもうない。わかってる。君にとってこれがどれほど安物で大した物じゃないかなんて、僕が一番よくわかってる。
 ——わかっていないのはお前の方だこの馬鹿。
 手を振りほどき、傷ついた顔をしている男の肩を掴む。歯をぶつけるように唇を合わせて、すぐに突き飛ばした。
 好きにしろと言ったのは俺だ。それを謝罪して欲しいとはもう思っていない。連絡を寄越さないのも別に構わない。それで俺を蔑ろにしているとは責めない。その代わりに、お前もそれ以上許されたがる顔をするな。
 一気に捲し立て、は、と息を吐いた。体から力が抜け、ずるずるとしゃがみ込んでしまう。片足を投げ出し、立てた膝を抱えて俯く。こんなことを言いたかったわけじゃなかった筈だ。許すと決めた筈だった。クソ。
 そろそろと近づいてきた男がしゃがみ込み、恐る恐る髪に触れてくる。前髪を手のひらですくいあげて俺の顔を見ると、もしかして泣いてる? とひどく狼狽した声で言った。他に言うべき言葉がいくらでもある筈なのに、普段舌から産まれたような男は、こう言う時ばかり気の利いたことが言えない。
 俺が泣くと思うか? 泣いた顔を見たことはあるよ。ほら、動物とか子どもが死ぬ映画とかさ……、君ああいうの苦手だろ。………それはお前もだろうが。あいたたた、痛っ! 痛い待ってくれ頬がちぎれる!
 思いっきり頬をつねり、涙目で痛がる男の顔を見てようやく気分が落ち着いた。手を離すと、ファイノンはひどい、と頬をさすりながら恨みがましい目で俺を睨み、唇を尖らせる。
 少しは痛い目を見るべきだろうが。そう溢した俺の声は自分でもわかるほど疲れていて、それを聞かせたのは癪だった。
 うん。
 短く、幼い応えだった。そのまま顔を近づけてキスをしてくる男を、今度は拒まなかった。俺の髪を邪魔そうに横にはらい、ファイノンが何度も唇を重ねてくる。角度を変えながら、舌先で俺の唇をつつき、だめ? と合間に尋ねてくる。それを敢えて無視し、首に腕を回して抱き寄せる。
 触れるだけのキスを何度も繰り返していると、髪を撫でられて、だんだんとファイノンの手が背中から腰に降りてくる。それに気づかないふりをし、そっと唇を開けてやる。ファイノンの舌先が口の中に入って来た瞬間、びくっ、と体が大袈裟にも思えるほど跳ねた。お互いに驚いて、しばらく固まってしまう。
 ご、ごめん。唇を離したファイノンが何故か顔を真っ赤にして謝罪するのが気まずく、視線を伏せる。ふん、とわざとらしく声を出してみるが、そんな態度を取ったところで、舌を入れられただけで驚いた事実は変わらない。
 本当に浮気しなかったんだ、などとふざけたことを宣おうものなら今度こそ鼻をへし折ってやろうかと思ったが、流石のこの男もそんなことは口にせず、俺の体を抱き寄せて、そのまま脱力し、体重を思いっきりかけてくる。
 重い。文句を口にはしたが、懐かしい重みと熱は悪くない。旅の間も食に困らず、大した病や怪我もしなかったようだ。それは幸いなことだった。
 重いままでよかっただろ、と何故か妙に嬉しそうな声でぎゅうぎゅうと抱きしめてくる男に調子のいいやつだ、と呆れたふりをし、しばらくそのまま抱きしめさせてやる。
 床じゃ腰を悪くするな。唐突にファイノンが口にし、顔を上げた男がもう一度キスをしてくる。妙にすっきりした顔で笑う顔に腹が立ち、そっと頬をつまむ。
 いつまでその格好でいるつもりだ? いくらお前が頑丈でも風邪を引く。
 風邪は引かないだろうけど、君も髪を乾かした方がいいな。
 手を引かれて立ち上がると、はぁ、とお互いに同じタイミングでため息をつく。
 奇妙な沈黙が数秒落ち、あ、えっと服着るから……、と何故か恥ずかしそうにファイノンが言い、ドライヤーを押し付けてくる。羞恥が俺に伝染し、そうだな、と冷たく言い放つと、乱暴にドアをスライドさせて閉じた。

 髪を乾かす前にソファを少しはじに押しやると、簡素なマットレスを敷き、寝具を置いた。その間、微かにシャワーの音が聞こえていた。やはり湯冷めしたようだった。
 おおむね髪が乾いたところでファイノンが脱衣所から顔を出し、妙に遅かったような、と思いつつ、お前も使え、とドライヤーを差し出す。
 ああうん、と何故か上の空の男はそれでも大人しくドライヤーを受け取り、少しだけパサついてしまっている髪を乾かした。
 日焼けしたな。思わず髪に手を伸ばして口にすると、あんまりケアしてなかったから、と苦笑した。
 マットレスとか買ってくれたんだ。
 床に敷いたマットレスに腰を下ろしている俺を見て、ファイノンが眉を下げて笑う。それにふん、と答えてやる。
 ソファで寝るのは体に悪い。
 後でいくらかかったか教えてよ、払うから。
 いい。来客用だ。
 ……誰か家にあげる予定でもあったのかい? 昔から親友と僕以外呼ばないじゃないか。
 ………………………………お前は呼ばなくても来る。
 ドライヤーを止めたファイノンはコードを回収して巻き、置いて来る、とわざわざ宣言して再びリビングを後にした。
 なんとなく変な空気になっているのを感じたが、どうするべきなのか、すぐには答えが出なかった。マットレスの上に腰を下ろしたままぼんやりしていると、戻って来たファイノンがえっと、と口を開く。
 明日も仕事? 明日は休館日だ。そうなんだ。なら……、いややっぱりなんでもない。
 帰宅した時に着ていたのとは色違いの、とんでもなく黄色いよれよれのパーカーを着ているファイノンが言い淀むのを見上げながら、何か飲むか、とようやくマットレスから立ち上がる。明日は荷物をあらためさせて、まともな服がなければ買い物に連れ出した方が良さそうだった。
 あのさモーディス。
 冷蔵庫を開け、ザクロジュースとミネラルウォーターをそれぞれ取り出し振り返ると、ファイノンは棚からコップを二つ持って来て、テーブルへ置く。
 君は謝るなって言ったけど、やっぱりもう一度謝らせてくれ。ごめん、連絡しなかったのは本当に僕が悪かった。……もし待っててくれたのなら、待っていてくれてありがとう。あと、——ただいま。
 近づいて来た男は、許しを乞うように情けない顔をし、俺の手を取った。おかえり、と言ってやるのは癪だったが、「無事でなによりだ、旅は楽しかったか」と結局口にしてしまう。
 うん。
 ほっとして頷いた男の青い瞳が微かに潤んでいるのを見、まあ、反省しているようならいいか、と感じた。本心だった。
 でも、やっぱり君がいないとどこか虚しいなと思ったよ。本当に。だからひとり旅はもう終わりだ。次こそ、どこかへ行くなら君にもついてきて欲しい。そんなに長く休めないのはわかってるから、ちゃんと話し合おう。……それで、その、聞きたいことがあるんだけど。
 手を握ったまま緊張した面持ちで俺を見つめるその姿に、何故か、学生時代、ファーストフード店で「もう気づいてると思うけど」と告白してきた記憶が重なる。
 ——君が僕に甘すぎるのって、どうしてなんだ?
 期待するような目だった。大きな瞳に部屋の照明が反射し、ちかちかと瞬いている。お前の期待に応える言葉を確かに俺は持っているが、それを素直に言うべきか少しだけ悩んだ。
 こんなやりとりは、もっと若い時分にしておくべきだろうと思ったからだった。
 そんなこともわからん男に言ってやる言葉は本来はないが、と少しだけ意地の悪い前置きをし、ファイノンがひやりと顔色を悪くするのをじっと見つめる。

 お前を愛しているからに決まっている。わかったら、二度とそんな質問をするな。


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