この話の二人です→
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悪いが寝る前にリンゴジュースにローズマリーを入れておいてくれ、と言われていたのを歯を磨いている途中で思い出した。それくらい自分でできるだろうに、わざわざ僕に頼んできたのはモーディスの方が僕より一日長く勤務していて、今日で連勤六日目だったからだろう。
もう何もする気にならん、と珍しく髪も乾かさずに頭にタオルを巻いて、ふらふら寝室に向かうのを見送ったのが二時間ほど前のことだった。モーディスはようやく明日一日休みなので、起きてから多少マシなものを口にしたいと言うことだろう。
大した手間でもないしな、と冷蔵庫に入っていたりんごジュースのボトルに、窓辺で育てていたローズマリーを二本ほどちぎってつけておく。一晩経てばモクテルとしても通用しそうな爽やかな味のリンゴジュースに代わっていて、炭酸水で割っても美味しい。
モーディスと同居するまで飲んだことのない飲み方だったが、今ではすっかりハマっていて、僕も気に入っている。
>リンゴにローズマリーを漬けておいたよ
メッセージを念のため送っておき、歯磨きを終える。既読にならないのを確認して、明日のスケジュールをもう一度確認する。日付が変わる前には寝たい、と思いつつ、予約のキャンセルが入っていないか、あるいはキャンセルで空いた枠に新規の予約があるかどうかチェックした。できればコース料理の当日キャンセルがありませんように、と願いながら通知を眺めて、そう言ったものは今のところはなさそうだ、と安堵した。
食材が余るのはもちろん嫌だったけれど、ランチもディナーも当日キャンセルするということは、お客さんにとって何か良くないことがあったと言うことだろう。できればそう言う不幸が誰にもなければいいといつも祈っている。
全てのチェックを終えると日付を少し跨いでから寝室に行き、明日のために目を閉じる。あと一日働けば僕も休みだ。
年末は料理人にとって地獄のような繁忙期で、十一月の中頃辺りからびっしりと埋まって行く予約表にスタッフ一同戦々恐々していた。
店が繁盛しているのはありがたいことだったけど、忙しすぎてスタッフが辞めてしまうことも多く、常に人手不足だった。待遇はそれほど悪くないはずなのだが。
そう言うわけで、今年も残すところあと二週間。
クリスマスの足音がわりのジングルを死ぬほど聞きすぎて、今や鈴の幻聴が聞こえるようにもなってくると、朝から晩まで仕込みと調理を続けてやっと店が回る始末だった。期間限定で皿洗いのアルバイトの子にも入ってもらっているけれど、それでも調理器具を洗うのがちょっと間に合わない
……、なんて始末だった。
次から次へと七面鳥を焼いたりローストビーフを焼いたりテイクアウトのオードブルを作ったり、ひたすらパスタソースを作って、魚を捌き、お得意様だけが注文できる裏メニューのチャーハンを作ったりしていると、気づけば今日も閉店時間になっていた。
閉店締めを終えたヒアンシーに出してもらった今日の提供メニューの一覧を眺め、やっぱりメニューが多すぎるか、とこっそりため息をついた。
店に「食堂」と名前が付くせいか、メニュー数が多すぎるのが店の課題だ、と言う話は今年副料理長として勤務し始めたモーディスとも散々してきた話だった。オーナーのアグライアも交えて売り上げだの注文率だのから色々予測も立てて見たけれど、結局まだどのメニューを残してどのメニューを消すかの見通しが立っていない。数字の話となると途端にモーディスは二十年前から使っているパソコンにデータを大量に移行している時みたいに、視線が虚ろになって沈黙してしまうのも要因の一つだ。
彼は他のことはなんだってできるのに、こと数字の話となると判断が鈍る。
それでどうやって繊細な料理を作ってるんだ、と思うけれど、五感がいいのでなんとかなっているらしい。揚げ物や焼き物は色と音でどのくらい火が通っているのか分かる、と言い張る彼と何度か火入れの対決をしたが、常に完敗だった。そんなギフトを持ってるなんて狡すぎる、と悔しく感じることもあったけれど、その代わりに細かな計算ができないのだろう。多分。
さておき、提供メニューは来年こそ絶対に変更した方がいいだろう、とは思うけれど、そもそもは常連客の要望に答え続けた結果の今でもあるので、そこをどうバランスを取るかで悩んでいる。
「明日はお休みですよね? ゆっくり休んでくださいね」
「ありがとう。ヒアンシーも無理せず」
明日は定休日で、店のメンテナンスのために出勤するスタッフは数人いるけれど、僕は何かトラブルが起きなければ休暇を取っていいとアグライアに言われていた。何しろ、明日がクリスマス前の最後の休暇だからだ。
食堂は毎週火曜日を定休日としていたけれど、今年のクリスマスは残念ながら火曜日だった。その日に営業しないなんてありえないし、その後も年末と新年のパーティーが控えている。クリスマス翌日の二十六日を臨時休業日にしているけれど、その日は年末年始の仕込みや食材発注のチェックをする必要がある。
まあ、愚痴を言えばきりがない。毎年こうこなのはわかっているし、閑古鳥が鳴くよりずっといい。
今が一番気合が必要な時期だというだけで、提供した料理を食べて喜んでくれるお客さんの顔を見られる職業ではあるから、毎日幸福も感じている。
昨日のモーディスのように足をずるずる引きずって帰宅すると、珍しくモーディスが起きていた。昨日寝る前に見た顔は少し疲れているように見えたけれど、一日休んですっかり回復したのか、もう顔色はいつもと変わらない。
「ただいま、珍しいな起きてるの」
僕が昨日ローズマリーを漬け込んだと思しきリンゴジュースを飲んでいたモーディスは、最近ハマっているらしい極東料理番組のストリーミング再生を一時停止する。出汁のとり方を説明している場面のようだった。
「遅くまでご苦労だったな。どうせ夕食はまだだろう? 付き合ってやるから先に風呂に入ってこい」
「え」
思わず部屋の時計見る。今日は締め作業に時間がかかったから、もう二十三時を回る頃だった。忙しすぎてもスタッフのまかないを作る時間はあれど、自分が食べる暇がなかったので確かにおやつにクッキーを少し食べてから何も食べていない。
「なんでわかった?」
「お前は忙しくなると自分の食事を抜きがちだ。今朝は軽食でも持たせようかと思ったが、俺も起きれなかったからな。いいから風呂に入ってこい、湯は溜めてある」
「モーディス
……君はなんて素晴らしい奴なんだ
……」
「キマってる暇があるのなら風呂に行け。油臭いぞ」
疲れ切って謎の感動が込み上げ、ハイになった頭のままモーディスにハグしに行くと、モーディスは呆れつつも一応ハグをしてくれて、だけどすぐにべりっ、と僕の腕を剥がし、ぐいぐいと風呂場まで背中を押してくる。
バタン、と扉が締められた途端、確かに色んな油の臭いが髪や肌からする、と気がついた。今更気付いて恥ずかしくなったし、しまった、かっこ悪いとこ見せたな、とちょっとだけへこむ。別にモーディスだって同じ調理人なんだから油臭いのなんて気にしないのはわかってるけど、事実と感情はまた別の話だ。
お風呂場に溜められたお湯は驚くほど赤い色をしていた。多分最近モーディスが気に入っている強炭酸泉の入浴剤だろう。さっさと髪と体を洗って浴槽に体を沈ませる。
熱めのお湯で体がほぐされていく感覚が気持ちいい。
「年が明けたら温泉にでも行きたいな
……」
その時にはモーディスを誘ってもいいだろう。多分あいつも風呂は好きだろうし。
実家を飛び出してきたモーディスと同居を初めて一年近くが経ったが、今のところ修復不可能な喧嘩もせず、意外と平和に暮らしている。
ルームシェアをしてると説明をしても、スタッフに時々「副料理長と付き合ってるんですか?」と驚きと共に揶揄われる以外は、特段困ったことも起きていない。
モーディスは貯金が貯まれば「ちゃんと」この家を出て行こうとしているらしいけれど、僕としては別にこのまま同居でいいんじゃないか? と思っていたりする。
「お風呂洗っておいたよ」
昨日のモーディスよろしく髪を乾かすのが億劫で、タオルを頭にかぶせたまま出てくると、ソファ前のローテーブルに夜食、というには手の込みすぎた小皿料理がいくつも並んでいた。
ソファに腰掛けたモーディスは帰宅当初と違い、髪を後ろで一つにまとめている。普段は見えないうなじが顕になっていることに気づいて、思わず凝視してしまった。
不思議そうにモーディスが振り返り、慌てて視線を逸らす。まずい、ちょっと露骨だったかもしれない。
「酒はいるか?」
「いらない。君と同じでいい」
そういうと、「冷えてるぞ?」とモーディスがリンゴジュースのグラスを持ち上げる。きっと、僕と違って家にいたから冷たいものを飲んでいるのに、それでいいのか? と聞きたかったのだろう。
流石に風呂上がりだったし、部屋も暖かいから、ちょっとぐらい冷たいものを飲んだって平気だったけれど、モーディスのわかりづらい気遣いが疲れているせいか余計に沁みる。
「寒くなったら
グリューワインでも作るよ」
「飲むなら作るが」
そう言って、モーディスが背後のキッチンを指差した。まるで僕の答えを予測したかのように、テーブルの上にはワインといくつかのスパイス、レモンとオレンジが並んでいる。あれは自分で作るよりもモーディスが作った方が何故かずっと美味しい、彼のとっておきのレシピだ。
「昼のうちに買い出しに行ってきたからな、いくらでも作れる」
「今夜の君はちょっと優しすぎて怖いな。僕の機嫌を取ってどうしようって言うんだ?」
後でお願いするかも、と言いつつ、ジュースの注がれたグラスを持ち上げて、モーディスが飲んでいるグラスに触れ合わせるフリをする。
ローズマリーを漬けたリンゴジュースはいつもと変わらず、予想した通りの爽やかな後味が鼻を抜けていく。
並べられていた小皿からクラッカーを取り、クリームチーズと生ハム、マーマーレードジャムを塗ってかじる。ジャムは先週あたりにモーディスが疲れすぎて逆に無心で煮詰めていたものだ。市販のものよりちょっとだけ甘味が深いが、僕も好きな味で気に入っている。
「
……お前は真面目に働いているのだから、たまには労われてもいいだろう」
低くやわらかい音で小さく溢された言葉に、なんだか不思議な感覚を覚えた。モーディスの言葉はいつだって正しくて力強かったが、時折、こんな風に慈しむような優しい声を落とすことがある。そう言う声を聞くたびに、まるで信託でも受けたかのような、ふわふわとした酩酊にも似た心地よさを覚えてしまう。
そう言う声や言葉に、なにか特別なものが含まれていればいいのに、と考えてしまうほど。
「繁忙期のピークには少し早いが、お前は俺よりやることも考えることも多い。アグライアの相手も任せきりだからな」
そう言ってモーディスが少し眉間に皺を寄せたのは、きっと彼女が数字の話をするのを思い浮かべたのだろう。
「なに、俺の出勤日は調理場の細かなことは俺に任せておけ」
「
……わかった。そうするよ」
頼ってくれと言わなきゃ行けないのは料理長の僕のはずだが、モーディス相手だとどうにもうまくいかない。だけど彼こそ人に頼られるのが向いているし、面倒見もいい奴だ。僕が手放しても問題ないものはモーディスに抱えてもらった方がいい。
結局ちまちまと食べているうちにグリューワインが飲みたくなり、モーディスが鍋でスパイスと一緒にワインを煮てくれる。
このままソファで眠りたくなりそうだ、と虚空に向かって呟くと、鍋のワインを耐熱ガラスのマグカップに移しながら、モーディスが「ベッドまで運んでやるから好きにしろ」ととんでもないことを言う。
「君に僕が持ち上げられるのか?」
モーディスと僕は背丈や体格はそんなに変わらないし、確かに何十キロもの小麦袋や肉をお互い運んだりするから、普通の人よりは重たいものを運べるだろう。だけど、大の大人の男を担げるとはとても思えない。
「試すか?」
フン、と鼻で笑ったモーディスが挑発的に瞳を細めながら、グリューワインを運んでくる。
「いい考えかもな。君がソファで眠ったら部屋まで運んであげるから、存分に寝てくれ」
こう見えて腕の筋肉は君より自信があるんだ、と力こぶをつくって叩くと、モーディスは疑うように、けれどブロック肉を見定めるような目でじろじろと僕の腕を見つめる。モーディスはフン、ともう一度鼻を鳴らし、「己に自信があるのはいいことだ」とちょっと馬鹿にしたように笑う。疲れていたからだろう、いつもならこの程度の言い合いなんて少しも響かないのに、今日はムッとしてしまう。
「せめて触ってから言ってくれないか?」
ほら、とモーディスの手を掴んで、無理やり二の腕を触らせる。
「君よりあるだろ」
自信満々に口にしたその瞬間の僕は、モーディスがなんだが気まずそうに口を閉ざしたことに気づいていなかった。
掴んだモーディスの手がちょっと震えていて、やたらと熱かったことに気づいたのは、モーディスが「おめでたい奴だ」と僕と視線を合わせずに呟き、そっと手を引こうとしたその時だった。
「モーディス? 君もしかして熱があるんじゃ
——」
そこまで言って、え、もしかして、と頭の中でさっきまで消えていたはずのジングルと鈴の音がけたたましく響いた。
シャラシャラと喧しく明るい、まるで聖夜を祝福するかのような音が耳の中で響き、その瞬間視界が急に明るくなったような気がした。
モーディスの気まずそうな、少し照れた表情は見たことのない表情で、それを「照れている」と判断するのにやや時間が取られる。
逃げていった手を反射的にガシッと掴み、「あのさ」と早鐘を打ち始めた心臓に、何故か気持ちを後押しされたような気がして言葉を続ける。
「もしかして君って、僕が好きだったりしないか?」
だったら付き合おうよ、と捲し立てた僕に、モーディスが目を見開く。その瞳に滲んだ「期待」を見逃せなかった。
たけど、モーディスの表情はすぐにちょっと怒っているようなそれに変わって、「何を言っている?」と僕の手を振り解こうとした。
ここで手を離したら、きっとはぐらかされてしまうだろう。
「僕は君が好きだ。だから揶揄ってるわけじゃない」
モーディスの逃げようとする手をソファに押し付けて、ぐいっ、と身を寄せる。ソファの背にそれ以上の後退を阻まれたモーディスが観念したように一度目を瞑り、ため息を吐く。
次に目を明けたモーディスは、観念したように肩をやや落としながら、再度ため息をついた。
「
……もし揶揄っているつもりがないのなら、今すぐにキスしてみせろ」
どうしてモーディスがそんなことを要求して来たのかは、今になってもわからない。モーディスにとってはそれが重要なことだったのかもしれないし、本当に揶揄われていると思ったのかもしれない。
何しろ本当にこの日まで、少なくともモーディスは僕に
こんな思わせぶりな態度は取らなかったから。
思いのほか柔らかい唇にキスをしているうちに、モーディスが顔をそらして口付けから逃げようとする。君がしろって言ったんだろ。顎を掬うように顔を向けさせて、もう一度唇を重ねる。
心臓が破れそうなほど激しく打つ音が耳の奥で聞こえていて、こんな風になんともないフリをしてキスをしているけれど、実は緊張して死にそうだってことがモーディスにバレやしないだろうかとハラハラしていた。
「っ、は
………………ん、」
キスの合間のモーディスの小さな吐息が耳に響くたびに、聞いたことのない声で興奮した。
胸を押されていることには気づいていたが、それは敢えて気にしなかった。お互い同じくらい体を鍛えているから、ちょっとやそっとの力では抵抗の証明にならない。
「なぁモーディス、さっきの話、やっぱり僕から証明しようか?」
君じゃ僕を抱え上げられないだろうけど、僕ならきっとできるだろう。だから暗に、ベッドに行かないかと誘ったつもりだった。だってモーディスはキスですっかり表情が溶けていたし、明日は奇跡的にお互いに休みだった。いや、もしかするとモーディスもこのタイミングを狙っていたのかもしれない。
「
…………が、」
「が?」
「ワインが冷めてしまうだろう
……」
「
…………………そ、れはそうだね?」
「飲みたいと言ったのはお前だ」
もう一度温めると味が落ちる、と拗ねたように続けたモーディスにむくむくともたげていた激情がボキッと挫かれて、思わず「あはは」と笑ってしまう。
「確かにそうだ。先に飲むよ、折角君に作ってもらったんだし」
殆ど押し倒すようになっていた体勢を戻し、テーブルの上のマグカップを取って口をつける。
スパイスと柑橘類のいい香りが鼻腔を駆け抜け、ホッとひと息をつく。ワインはまだ少し熱いくらいで、猫舌の人間だったら飲むのは難しいだろう。
「そうだ、片付け終わったらどっちの部屋に行く?」
恥ずかしいのを隠しているのだろう、不機嫌そうな顔をしているモーディスに視線をやり、そっと膝に触れる。
モーディスが驚いたように目を見開き、いや、その、と珍しく歯切れの悪いことを言う。
君らしくないな、とあまり良くない優越感が顔を出すのがわかったが、まあ、このくらいはモーディスにも許してもらおう。
このままチャンスを逃すつもりは僕にはない。
モーディスは僕から顔を逸らして前を向きながら、ワインをちびちびと飲んでいる。やがてテーブルの上に意を決したように、ガラスのマグカップが置かれた。
「
……お前の部屋でいい」
ワインのせいだろうか、そう答えたモーディスの整った横顔が、いつもより少し赤い。
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