第十一話
二筋道の話
・
羅乃目……紅族。第十九代統領
・
黒骸……紅族。羅乃目の許婚
・
羅神……羅乃目に憑いている黒い狼の
憑守
・
雨庸……黒骸に憑いている白い大蛇の憑守
・
鎌苅トキ時……憑守が見える、
食事処伊呂波二代目店主
・
天河良……通称「死神」。伊呂波のケツ持ちをしている彫り師
・
桃雄……貸本屋
・
要イタル……家族想いの優しい青年
・
鹿角善平……槍術道場の師範代
・
明夜……蜜で働く若い遊女
・
五十嵐権左……花屋の花ちゃん
ここに道標を立てる。
ここが分岐点であったと、記す為に。
いつか道を戻りたくなった時の
……来るかわからない、いつかのその日の目印になるように。
本流から支流へ、支流から本流へ。
全ての道は何処へ繋がる?
全ての川は海へ出る?
別れたものは、いつかまた出会うと信じて。
*
黒骸は夢をみていた。
何度もみた夢。
記憶が薄れたり、それこそ記憶違いの部分もあるだろうが、微睡みの脳内で生成されたそれは当たり前のように毎回同じ脚本で繰り返される。
生前の母や、半ば揶揄うように羅神や雨庸に散々聞かされた。
──羅乃目と初めて会った時のこと。
羅乃目の生家、というよりも我ら紅族統領の住まいの前に立っている。夢特有の、少し現実とは異なる仕様で。
部屋の奥。正座で向かい合う母と、生まれたばかりの羅乃目を抱いた彼女の母がいる。
母ふたりは首から上がない、当たり前のように。
目が覚めている時ならば思い出せる顔が、どうしてか夢だと失われてしまう。
結末を、知っているから?
「黒骸、いらっしゃい」
母に呼ばれて土間から履き物を脱ぎ捨てて小上がりを上がろうとするが、何故か上手く上れずに何度ももたつく。見かねた雨庸が足元へ体を滑り込ませ踏み台になってくれるので、それをまだ小さな足で無遠慮にべちべちと踏みつけてよじ登る。
「なあに? ははうえ」
「さあ、もっと近くへ」
母に促され、とてて、と駆け寄る。お包みされた生まれて間もない、まだ赤い肌の乳幼児が見える。自身が母親の腹から出て個体として生まれたことに気が付いていない生き物。目を閉じて口だけむちゃむちゃと動かしている、自我が芽生えるよりうんと前の羅乃目。
「黒骸、このお方が次期統領の羅乃目様です。お前はこの方の婿になるんですよ。しっかりとご挨拶を」
この時、母の言葉を黒骸は全く理解していなかった。「じきとうりょう」も「むこ」も、全く意味を形成されずに文字列だけ流れてくる。
そうだ、母は普段はもっと優しく砕けているのに、締めなければならない場面ではピンと背筋を伸ばし、子ども相手にもきっちりとした言葉遣いをしていた。黒骸は何度もみた明晰夢をなぞりながら、別の脳みそでそれを思っている。懐かしさ。
「あかちゃん?」
誰にというわけではないが、なんとなく確認のような口調で単語を口にする。赤くてしわしわの頬をおっかなびっくり指先で触れた。
「ちっちゃい、かわいいね」
ふに、と押し込まれる頬を気にも留めず、変わらず口だけ動かしている度量の広さは次期統領ならではのものなのだろうか。
「ぼくがまもってあげるね」
そして、ここでいつも通り場面が変わる。
あの日に、飛ぶ。
相変わらず首から上が失われているのに、母のひっ迫した態度が手に取るように伝わってきて、肌をひりつかせる。
「よく聞きなさい、母は身重で一緒には行けません。ですが黒骸、自分の為すべきことはわかっていますね?」
「はい」
我ながらどうしようもなく頼りない返事だ、と大人になった黒骸はいつもここで思う。
「羅乃目様はまだ幼くいらっしゃいます。お前がお守りするのですよ
……お前の体は歳の割に大きく育ちましたね、とてもよいことです。羅乃目様をお守りできるほど立派に育ちました。母は心から嬉しく思います
……いざという時はどうするのか、わかっていますね?」
「はい」
統領の伴侶として果たすべき役割。例え自分を犠牲にしてでも、統領を生かすこと。
それを幼い我が子に強制、いや、伝えなければならなかった母の気持ちを、少しだけ想像できる年齢になってきた。残酷だ。
母にこの台詞を言わせたのも、元凶は人間である。人間、人間。
「さ、行きなさい。早く!」
ここで母の腹はゆっくりと縦に裂け、その中には暗闇が広がっている。最後に母はなにかを伝えようと言葉を発しているが、それがいつも聞き取れない。思い出せない。視界いっぱいが暗闇に染まる頃。
「
……」
いつも通りじわりとした腹の古傷の痛みで、黒骸は目を覚ます。
悪夢と言えば悪夢なのだろうが、この夢をみた日は実にすっきりすんなりと目が覚める。妙に冷静で、むしろ心が穏やかであると言っても過言ではない。
視界にちらつく、己の白い髪。
「んむ、黒おきてる。おはよ」
腹の辺りで丸まっていた羅乃目が目を覚ました。
「おはよう羅乃目」
顔を合わせるようにずり上がってきた羅乃目をそのまま抱きしめる。
少し遅い、朝である。
「なあーいいだろ? な!」
「えー? 南町は行かないってば」
営業前の伊呂波へやってきた良は、トキ時からの激しいお願い攻撃を受けている。それはもう、あの北町の死神様がたじたじで押されているくらいに。
「だーかーらぁ、俺は行かないって。おひいと黒を連れて行きなよ」
なにが起きているのかというと
……発端はこれだ。
「南町の柳坂で! 鴨蕎麦が食いたい! もう何年食ってない?! うああ禁断症状だ! 食いたい! 美味いんだあれが! あの蕎麦と! 鴨が! 俺を呼んでる!」
なんでも南町にいた頃に贔屓にしていた蕎麦屋の鴨蕎麦をふとした瞬間に思い出し、もう食べたくて食べたくて仕方なくなってしまったらしい。
蕎麦は専門外のトキ時は、自分の味覚にぴったりと合う最高の蕎麦は自作できない。専門家を頼る他ないのだ。
「てか鴨の旬って冬じゃん、ちょっと過ぎてるって。次の冬まで我慢してなって」
時期を伸ばして有耶無耶にしようとしているのか、良は鴨の旬について言及してきた。とりあえず一旦この場を逃れたい、に近い。
「いーや、春になって少し身が締まってきた今がいいんだ! そりゃあ冬場も格別だけどな! また別なんだ!」
「えー? もう。てかほら、あれはどうすんの、ぬか床。命の次くらいに大切そうにしてるじゃん。ちゃんと毎日混ぜないと駄目なんじゃないの?」
これは決め手になると確信を持っていた良の言葉を躱すように、トキ時は不敵に「ふっふっふ」と似合わない笑い方を始めた。
そしてすっと羅乃目の横で片膝を付くと、両手を羅乃目に向かって「はい! この方です!」とでも言うようにひらひら(わかりやすく記述するならばキラキラに近い)とはためかせる。
「はい! なんと羅乃目に伝授しました! 俺が思うぬか床の一番いい混ぜ方!」
「伝授されたでやんす〜」
羅乃目もトキ時を真似してなのか、自身の顔の両側で手をひらひら、(もういいか)否、キラキラさせている。
羅乃目の手力は人間のそれと比べ物にならないくらいに強いことは良も知っている。そして、力加減が上手で優しい手捌きが出来ることも知っている。
「
……だからふたりは留守番組なわけ?」
「最初はもちろんお声が掛かりましたよ。でも俺たちは獣肉を基本的には食べないので、残念ですがお断りしたんです。ぬか床を危惧したのは良さんだけではないですからね。それで大役を賜りました」
「まああれだけ大切そうに混ぜてる姿を見てたら、そりゃあ皆んなそこ気になるよな。てか肉食わないんだ」
「ええ、人間が人間を食べないことと同じような感覚かと」
それとなく避けている雰囲気は察知していたが、改めて提示された情報を良は一度噛み締める。
「あれでも鶏卵食ってなかったっけ、卵焼き」
「んと、わっちらは人間のふりして生きてきたから、ちょっと基準緩くなってるでやんす」
「羅乃目の言っていることも否定できませんが、紅族も例外的に肉を口にすることはありました。確かに近年のこれは儀式に近い意味合いもありましたが
……長い歴史で俺たちと獣の関係性は変わり続けてきたと教わっています。いわゆる今の人間と家畜としての獣あり方や、肉食の全てを否定や拒否するわけではありません」黒骸は少し首を傾けてこう続けた。「栄養というものを考えると、動物性のものもたまに口にするといいらしいですからね」
「わっちらね、虫と魚ならいっぱい食べてもいいんでやんすよ」
「ふーん、なるほどね」
良はふたりの新情報を脳内に書き加えた。肉食を好まない、もしくは進んで口にしない人間も一定数存在するので、これに関してはさほど隠蔽に苦労はしなさそうである。トキ時が「え、虫って、虫
……は、佃煮とかだよな? イナゴの佃煮的な。蜂の子的な
……」と確認を取っていた。それには羅乃目がにこにこ頷いている。甘辛い味付けを好む子どもは多い。
「ほ
……じゃなかった。だから、な? 俺が旅費持つからさ」
虫食の内訳が知っている料理だったことに胸を撫で下ろしたトキ時は、改めて話題を元に戻した。
親友の頼みにも、どうにも今回は渋る死神様。
「いやまあ金は全然だけど
……」
良はまだなにか逃れる言葉を探している。ぬか床を任せたということは、「肉が入ってない美味しい蕎麦、食っておいで」とふたりに言っても、もう無駄であると気付いてしまった。
「南、町
……なあ」
ここまで渋る良を見たことがなかったトキ時は、途端に顔を曇らせて申し訳なさそうになる。
「
……ごめんな。無理に連れて行きたいとかじゃないんだ。ただ、本当に美味いからさ。知ってほしいなって言うか、誰かと共有できたらいいなって思ってさ」
その言葉に申し訳なさそうになるのは良の方だった。のらりくらりと南町へ行きたがらない理由など、ここの誰も知る由もない。
「でもさ、大丈夫だ。お土産たくさん買ってくるからな。ひとりで行ってくる。留守は任せたからな」
空気を悪くさせない為か、朗らかな笑みでそう締めくくるトキ時であったが、むしろそれが良の心を動かす決定打となった。
「ちょ、ひとりはさ、本当、トキちゃんのひとりは危な過ぎ。なにに巻き込まれるかわかったもんじゃねえ。駄目。絶対面倒なことになる。最悪冤罪で牢に繋がれる」
「待て待て、俺の評価どうなってんだ?」
優しいトキ時へ害をなした者を、影でこっそり処分しているのは良である。とんでもない大ごとになる前に手を打つか、手を回すか、なってしまった後に丸め込むか。なんにせよ、事後処理している。近場であればトキ時と自分の関係性を知っているある程度の悪人はふるいに掛けられるものの、南町となると全くもって北町の死神様の肩書きは無力である。無名である。無効果である。
「
……一緒に行くよ。泊まりがけで何日もひとりだなんて心配」
「だから俺への評価どうなってんだ? お前に会う前は普通に南町で元気にやってたからな?」
「まあまあ、それも不思議でならねえけど。ほら、教えてよ、トキ時の美味しいの。共有しよ」
こうしてトキ時と良の南町旅行が決まったのである。
ここで驚きだったのが出発当日の朝に店に現れた良が、何処で買ってきたのかいつもは着ていない襦袢とそれなりに上等な着物をきっちりと着付けて現れたことである。
同じ太都内とは言えかなり距離がある。歩きの旅路なので足元は尻はしょりに股引き脚絆、草鞋。髪は丁寧に櫛を通して撫でつけられ、うなじの辺りで低く一本に纏めている。顔の右側へかかる前髪と包帯こそ普段通りであったが、すれ違いざまに受ける印象はそれこそ天と地の差があるだろう。
「おま
……別に普段通りでいいのに」
「南町で悪目立ちするのは避けるべきっしょ。トキ時の為なら一般人への擬態もなんのその」
へらりと笑う良は空気が触れることに慣れていないのか、首の後ろをさすって少し落ち着かない様子を見せている。
顔の彫り物はどうにもならないので当然そのままだ。だが嫌な表現にはなるが、「数年前の大火で爛れた顔を誤魔化す為である」のような説明は通りそうな小綺麗な雰囲気になっている。
「ありがとうな。気を遣わせちまって」
「いいってことよ。せっかくだから楽しも?」
「死神って、本当はすんごいきれいでやんすね」
ふたりのやり取りを眺めていた羅乃目が会話に入ってきた。いつもとは違う死神様に興味津々だ。良の周りをとことこと歩きながら様々な角度で顔を見上げてくる。
「そんな見ないでよ
……いやてか言ってんじゃん、顔もいいんだって〜俺。普段から振りまいてるとモテすぎちゃって大変なの、だから隠してんの。ね?」
前半はかなり素に近い雰囲気で見られることを嫌がる素ぶりを見せたが、後半はをそれを無かったことにするかの如く、普段の軽い調子に戻った。
「死神は仕事する時にぐってしてスッてなってかっこいいから、見た目はどっちでもいいと思う」
なんとなく的外れにも感じる感想を述べながら、可愛いという形容詞を使うのは憚られる立派な犬歯を見せて彼女は笑った。
「仕事してる姿がいいなんて、見る目あるじゃん」
にひ、と、むふ、で視線が絡む。
「向こうには何日滞在するんですか?」
「んー、とりあえず移動含めて四五日くらいで戻りたい! という無計画だ。まあ俺もこんなに家を空けようとしてるのは初めてだし、そんなに遊び回る予定でもないからな。早めに帰ってくるつもりではある」
「俺も早めに帰らないと女の子たちが寂しいって騒いじゃうからさ〜」
ここであえて仕事ではなく女性関係の話題を出すのが、なんとも良らしい。
「わかりました。留守は俺たちにお任せください」
そうやって見送られながら、男ふたりで南町を目指す。距離こそあるが太都内の移動だ。財布を擦られたりゴロツキに喧嘩をふっかけられる可能性はあるが、太都の外を旅する際に付き纏う野生動物の脅威も、宿場町へ辿り着けずに野宿をする心配も、食事の悩みも、急な天候の変化も賊に追い剥ぎされる心配もない
……いや、賊に関しては否定出来ない可能性を秘めている。悪人はどこにでもいる、失念していた。申し訳ない。
「よかったの? 計らずもふたり旅になったけど」
「いいだろ。雇い主の目が無い方が羽を伸ばせるだろうからな」目線を前方に向けたままトキ時は続ける。「まあ一番いいのは四人で行くことだったんだけどな」
「はは、そっちが本心でしょ」
残念そうに眉毛を下げるトキ時の背中を、良は軽く叩いた。
「なんにせよ四人は無理だって。大事なぬか床ちゃんがいるんだからさ」
「
……花ちゃんか儀三郎のじいさん、預かってくれないかなあ」
まずは西町を出ようと道をゆく。西町通り辺りまではほぼ無意識に適当に歩いて問題ない。その後も極端な話、南へ向かって延々と歩き続ければいい。太都内の往来によく利用される整備された道もある。
「んー、でもまあ、いい機会だからお前と共有しておきたい話題もあるしな」
「ん。了解」
「あ、別に駄目な話題じゃないからな!」
「わかってるよ、この幸せ男」
残念ながら今回はトキ時と良の珍道中の話ではない。留守番組の話である。つまりふたりとはここで一旦お別れだ。
「よーっし! 食い倒れするぞー!」
「無計画って言ってたのに、旅の目的はちゃんと決めてあんじゃん」
「一番の目的は柳坂の鴨蕎麦だ!!」
けらけらと笑いながら、二手に分かれた道の左を選んで進んだ。
食事処伊呂波で留守を任されたふたりと二体は、まず予め用意していた休業のお知らせを店の戸に貼る作業から始めた。とは言えこんなものあっという間に達成してしまう。
続いて、「突発旅行で消費の計画が上手く立てられなかったから、遠慮せず使い切っていいぞ」とトキ時に言われた食材を確認していく。トキ時のおかげですっかり舌が肥えてしまっている懸念はあるものの、ふたりは問題なく自炊ができるので店主不在でも食事で苦労はしなさそうだ。
「さて、今日は特に依頼も予定もないし、のんびりしようか」
「黒はイゴさんのとこ行かなくていいでやんすか?」
「家主が旅行で数日不在になるので、留守を任されたからしばらく顔は出せませんって言ってあるんだ。だから大丈夫」
その台詞に、羅乃目は「ほ」の口になった。これは安心の「ほ」ではなく、「ほえー、そうでやんすか」の「ほ」である。
「でも怠っているとすぐ見透かされちゃうんだ、練習しないと」
しないと、などと義務感たっぷりな台詞を吐いたが、実際は柔らかく口角を上げて実に楽しそうにしている。
そして羅乃目が問うよりも早く、二卓で詰碁の準備を始めた。
「アイツぁーよ、もう駄目なんだ、もう碁の虜になってやがる」
雨庸も言い方自体は乱暴だが、その体の動きには喜びに似たものが滲んでいる。
「いいことだろう。夢中になれるものがあるのは」
「黒楽しそうだから、わっちも嬉しい」
黒骸は照れくさそうに笑うと、初級編第二十問を盤上に再現し始めた。
最初こそ盤面を覗き込んでいた羅乃目であったが、その視線は早々に黒骸の顔にのみ注がれるようになり、終いには椅子を引きずってきて黒骸の背中にぴたりと自身の体を預け、なにやらにこにこと楽しそうである。
「お前もなにかすればいいだろう」
「んー? 黒の背中にくっついてるでやんすよ。散歩の気分じゃ、ないでやんす」
「時間を無為にするなと言っている。読書でもしたらどうだ。読みかけの物があっただろう」
「どくしょ、読書でやんすか。本は好きだけど、あれ面白くなかったでやんす」
羅神が言っているのは、羅乃目の好みに合わずに先を求められなかった、巷で流行りの若い女性向け文学作品である。
黒骸の心音に耳を傾けて心地よくなってきたのか、羅乃目はふわりと瞼を閉じた。
「面白い本、あったらいいでやんすけど
……」
「やあお嬢さん、面白い本をお探しかな」
「!」「!」
食事処伊呂波は休業中とはいえ、ふたりに便利屋の相談者が来ないとは限らない。半分開け放たれていた店の戸から中年男がぬっと顔を出した。頭頂部はつるつるで寂しくなっているが、耳から下辺りの毛はまだ剛毛も剛毛としてご健在で、黒く長いそれを無造作に遊ばせ、ツルツルのくせになんともゴツゴツとした印象を他者に与えてくる。端的に言えば斬首前に髷を解かれた武者だ。とは言っとも、とても首は斬れそうにない、年齢を感じさせない生命力の漲った顔をしている。詰碁に集中していた黒骸と、その黒骸の心音に耳を傾けて蕩けていた羅乃目はすっかり驚いた様子で男に目線を合わせる。
「揃って気を抜き過ぎだ」
羅神は呆れたように首を振って伏せの体勢になった。
「驚かせてしまってすまない。私は貸本屋を生業としている者でね。面白い本があれば
……の呟きを耳ざとく拾って顔を出させてもらったんだ」
「耳
……いいんでやんすね、おじさん」
まだ状況を整理している途中の羅乃目は、なんとなく場を繋ぐ為に現時点での素直な感想を述べた。
「本に関する単語にだけは敏感でね。お邪魔させてもらっても構わないかな」
「あ
……ええ、はい、どうぞ」
先ほどから首だけの登場で、許可を得るまで店内に足を踏み入れない律儀さは持っているらしい。
「では失礼」
ようやく生首から脱出した男は、背負い直した大きな荷物を戸にぶつけないようにちらりと目線を動かしながら入ってくる。
禿頭と驚くほど剛毛で健康的な長い髪が描く不釣り合い。達磨のような印象で背は高くないものの、その内訳が脂肪だけではないことが伝わってくる五十代の男。
「私は貸本屋の
桃雄という。以後お見知り置きを」
お辞儀をする動作の流れで、背の荷物を床に下ろす。大きな布にこれでもかと積まれて詰め込まれた本たちは、さほど背の高くない桃雄と同じ位に高く大きい。
「これ全部本でやんすか」
「もちろん。全ては持ち歩けないが、営業の時は専門書から艶本まで広く浅ーく様々な本を取り揃えている。お得意さん回りの時はそれぞれ好みに合わせて尖った物も少々ね」
「あなたをこの辺りでお見かけしたことはなかったと思いますが、何故危険の高い辺鄙な場所へ?」
黒骸の疑問も尤もである。西町に貸本屋が彷徨いていることが既に稀であるし、ましてやこんな北町寄りに迷い込むことなど狙っていなければないだろう。
「言ってしまえば顧客の新規開拓だ、春だから。囲まれて色に従事している者にこそ、物語で外の世界を知ったり、空想に胸を躍らせる時間が必要かもしれない、なーんて大層お節介なことを思い立って試しにな。まあ思い立ったはいいけど直接遊郭に営業掛けに行く勇気はまだなくてね、幸か不幸かあまりこういう場所に縁がないもんで、岡場所もどうもおっかないし。そして遊女は知識が大切だから既に提携している立派な同業者がいるだろうなーと頭をよぎり、さて結局どうしたもんかと彷徨っていた最中だよ」
「結構歩いてきたでやんすね。ここ花びらの端っこだし、今は休業中だけどご飯屋さんでやんすよ」
「飯屋だから入ってこられた寸法だよ」桃雄は禿げ上がった頭とふさふさの毛の境目を罰が悪そうに掻いた。「これも縁、どうだい、本の好みを聞かせてくれないかい。今日手元に無い物はしっかり後日持ってくるから」
桃雄はさあなんでもこい! と言わんばかりに本の山を眺めながらふたりの言葉を待っている。
「わっち
……なんだろ。強くて強いのがいいでやんす」
「強くて、強いの
……?」
自身の感覚を探りながら話す羅乃目の言葉に、桃雄の頭は疑問符で埋め尽くされた。
「『巷で女の子に大人気だよ』って言われて貰った本が全然面白くなくて、つまんなくて読めなくって。もっとしっかりした強いやつが読みたいでやんす」
「あー『巷で女の子に大人気』
……もしかしてこの本かな」桃雄は本の山を人差し指でさしながら目当ての物を探している。和綴じの本に背表紙など無いので、角ぎれの色と本文の厚みで本を判断する職人技だ。「これこれ『花世のふたりごと』。身分差の悲恋なんだけど、読む人によっては幸せな結末を迎える物語だね。繊細な心理描写が売りのひとつ
……ううむこれが駄目か、年頃の婦女子で読んでいない人はいないくらい大人気なんだがなあ。鉄板だ」
「人間の愛とか恋とか、心底どうでもいいでやんす」
羅乃目は人間に興味がない。
「そうか
……ええと、そちらの御仁はどうかな」
桃雄は現在手持ちの本と羅乃目の要望を脳内で照らし合わせる時間を稼ごうと、続いて黒骸に狙いを定めた。
「そうですね。歌集はありますか?山などの自然を詠んでいる作品がいいです」
「ある、いいのがあるよ」一度本の山を二つに分けながら、お目当てを手に取る。「方向性の違う作者で二冊貸すから、返却の時に好みを聞かせてほしい。今回は初だから一冊分の値段でいい、そこから更に特別価格でお値引き。どうかな」
「ええ、ではそれで」
羅乃目と違ってわかりやすい好みの提示に、この貸本屋は胸を撫で下ろしたに違いない。わざわざ西町まで営業に来て成果なしでは目も当てられないだろう。
黒骸は財布を取りに掘立て小屋へ一度引っ込んだ。
「さて
……」
桃雄は羅乃目に向き直る。思った以上に手強い相手であると、貸本屋魂に火がついた。が。
「これ、どんなんでやんすか?」
本の山を二つに分けたおかげで先ほどまで見えていなかった本の表紙が顕になっている。表紙の文字は『血殺仕置人 上』
「けっさつ、しおきにん?」
どの辺りが彼女の琴線に触れたのか定かではないが、どうやら気になるらしい。『血殺仕置人 上』。
「これは耄碌のふりをする凄腕の浪人と生真面目で実直な若い侍が訳あって手を組み、法で捌けない悪人をばったばったと斬り伏せる、情け無用でお堅い雰囲気の大人の渋ーい物語だよ。確かにこれも大人気ではあるんだが
……それこそ私くらいの年代の親父ウケが非常によくて、その、お嬢さんの年代に刺さるかどうかは難しい、な
……」
あらすじを語った以降の口調は、どんどん渋いものになっていった。彼の脳内では、もっと幅広い世代に受け入れやすくて面白い冒険譚をひとつ浮かべている。男ふたりの珍道中から物語は大きく転がり、なんとこの国を救う冒険に
……? という内容の連作物だ。
「ふうん。じゃあこれにするでやんす」
羅乃目は白い箱迫型の財布を取り出した。それ自体がお気に入りなのと、急に散歩に行きたくなった際にそのまま外に出られるので、大抵は財布を持ったままでいる。
「いや、その、きっと他にある! お嬢さんの好みの本は!」
「でもつまんなかった本より面白そうでやんすよ」
「いや、これよりもおすすめしたい本が
……」
「わっち勘も運もいいでやんすよ。絶対これだって気がする」
羅乃目はもう『血殺仕置人 上』を手に持ってにこにこしている。
「
……いや」
そうこうしている間になにも知らない黒骸が微笑みながら戻ってきた。
「お待たせしました。羅乃目は決まった?」
「うん」
「じゃあまとめて払っちゃうよ」
「
……そのぉ」
結局、桃雄は押し負ける形で黒骸と同様に羅乃目にも二冊貸した。気を取り直すように咳払いをするとこう続ける。
「まだこちらもそれぞれの好みを把握できてないから三回目までは特別価格で貸し出しするよ、これは全員共通でね。そうそう、差し支えなければ名前を教えてほしい。顧客の好みを把握したものを整理することにしか使わないから妙な心配は御無用だ」
「俺は黒骸です」
「わっち羅乃目でやんす」
また来ると告げて桃雄は店を後にした。本来であれば店主としてもうひとりここで生活している旨を伝えると、「新規顧客獲得の可能性!」と芝居掛かった口調となんとも形容し難い決め顔で放ったことが印象に残り過ぎて、他が既に霞み始めている。
そういえば、書物が大好きで作家になりたかったが長年芽が出ず、様々な書物を読んで研究していくうちにそれをまとめた資料がわかりやすいと界隈で話題になってしまい、知識を活かせるならと貸本屋の道を歩み出したという内容の話をしていた。趣味と実益を兼ねた天職。今でも趣味で書いていて、顧客に貸す本に紛れ込ませられないか虎視眈々と狙っているとも笑いながら話していた。
「変な人間だったな!オレぁそんなに嫌いじゃねえ感じだったけどよ。面白いっつーの?」
「人間はみんな変だし、滑稽という意味で言えばみんな面白いよ」
雨庸の感想に、黒骸はなんとも辛辣な言葉を寄せる。どちらも当然の如く本心で言っているので、妙な重さや嫌味の湿っぽさはひとつもない。
「ヘッ、まあそう言うなよな。でもよ、毛の生え方は最高だったろ?」
黒骸は「それが禁句なのは俺でもわかるよ」とは言わずに、「とても
……個性的だったね」と人間の話を一旦締め括った。
羅乃目は早速借りた本を捲り始めていて話を聞いていない。集中している顔付きだ、これは本当に聞いていないだろう。
『血殺仕置人 上』
もう一冊貸してもらった桃雄おすすめの冒険譚にはハナから興味がなさそうだ。
どういうわけか直感で彼女の琴線に触れた本の内容を探るべく羅神も本を覗き込んでいる。憑守は伊達に長い年月存在しているわけではない、文字を読むのはお手のものだ。
「
……俺はもう少し詰碁をしようかな」
その晩。夜目で見渡す掘立て小屋の内部。
寝巻きに着替えて床に就く直前。
「久々に、本当に俺たちふたりだけだよ」
黒骸は羅乃目の長い髪をゆるく編んでいた。
「ね」
耳元で囁きながらも手は止めない。
その長い髪が、邪魔にならないように。
「
…………」
羅乃目は唇を尖らせ思案顔だったが、髪から黒骸の手を外させると編まれた髪を解き始めた。
「明日の朝にトキさんのぬか床混ぜなきゃだからだめでやんす」
「
……」
黒骸の表情は仄かに陰りを見せるが、羅乃目は自身の髪をまとめ直していて顔を見ていなかった。仮に見つめていたとしても、この暗がりで細かな機微を拾えたかどうかは疑問である。
「だって一日中だもん。それともちょっと?」
「
……じゃあ」
せっかく巡ってきた好機を逃すわけにはいかない。黒骸はそう簡単に引く簡単な男ではないのだ。隠すつもりもないがこの男、結構かなり実にしつこい。『何が、何を、何に』というわけではない。基本的に全方向に対して根底にあるのはこの姿勢である。
羅乃目を後ろから抱き締めて、再度耳元で囁く。
「明日の朝ぬか床混ぜたら、その後は全部俺に頂戴」
「ぜんぶー?」
「そう。全部。一日中」
「んえー? んふふ」
この攻防戦でさえも戯れのひとつなのだろう。理由があって今夜は断りこそしたが、羅乃目だって満更ではない。今も腕の中で気の抜けた笑顔をしながら体を左右に揺らしている。
「ぜーんぶ、欲しいな。羅乃目」
「えー? えへへ」
羅乃目は体の向きを変えると、黒骸の首元に自身の額をぐりぐりと押し付けた。
「むふ」
そして流れるように今度は鼻を黒骸の頬に押し付けると、照れている姿を隠す為に布団へと潜り込んで丸くなる。
これは『了承』の意味と受け取って問題ないだろう。単純な力比べで捩じ伏せられてしまうのは黒骸の方なのだ、そして羅乃目は嫌なことを甘んじて受け入れる控えめな性格ではない。なんと言っても紅族の統領様だ。明日の予定が今決まった。
「ふふ。ほら駄目だよ羅乃目、前髪が変な寝癖になっちゃう」
前髪を整えようと、黒骸も布団へ潜り込んでくる。羅乃目は「きゃー」などと柄にもなく適当に騒いで、まだ照れの残る心を誤魔化そうとふざけて抵抗している。
前髪を直した流れで、その夜ふたりは触れるだけの口づけをしてから眠った。
翌々日。
「
……わっち、どんどん上手になってきたかもしれないでやんす」
簡単な朝食を済ませた後、羅乃目はまだぬかのついた右腕を天に向かって誇らしげに突き上げて自身の有能さをこれでもかと主張してきている。
「これならトキ時さんも安心だね」
漬物樽を覗き込む黒骸は、珍しく着物の襟をしっかり合わせて肌が見えないように着付けていた。
トキ時が良と共に旅行に出てから三日目になる。
「やあ、死神はここに居るかい?」
店の方からねっとりとして耳に残る声が聞こえてきた。顔を見ずとも来訪者の見当がつく。羅乃目に手を洗うように促し、黒骸がひとりで暖簾をくぐって出ていく。
「こんにちはイタルさん。珍しいですね」
食事処伊呂波の遅い朝をまたほんの少し遅くした今朝は、もう昼の挨拶を交わしてもおおよそ差し支えのない時間帯に入っていた。
「やあ、こんにちは。死神の友だち」
「あ、骨の人間でやんす。こんにちは」
遅れて出てきた羅乃目は、イタルのことをこう呼ぶことにしたらしい。羅神が「流石にそれは止めろ」と怒っているので、おそらく次は名前で呼ぶだろう。
「こんにちは、死神の友だち。ほらお前たちもご挨拶なさい」
イタルは羅乃目からの『骨の人間』呼びなど気にも留めず懐から頭蓋骨をふたつも取り出した。小ぶりなものと、成人のものと思しき頭蓋。一体どうやってその懐に入っていたのか。今日は腰に鉈を下げてはいなかった。
「こんにちは。ご丁寧にありがとうございます」
「こんにちはー」
「うんうん上手に挨拶できたね。お父さんは誇らしいよ。うん、本当だとも」
「良さんにご用ですか? 実は当店の店主とふたりで南町へ旅行に出ているんです。帰りは明日か明後日頃かと思うんですが、急ぎでしょうか」
一度羅乃目を探しに単独で長屋へ訪問しているからか、ふたりは難なく意思疎通が出来ている。イタルも黒骸に向かって話している様子だ。
「急ぎ、でもないんだけどねえ。いや実はねえ長屋に新入りが来たんだよ、
陣次の隣にね。ああ陣次って言うのは俺のお隣さんでねえ、死神の斜向かいの。つまりは空いていた死神のお向かいさんが入ったのさ」
「それの連絡に?」
「いやね、単なる新入りならいいんだけどねえ。『無銘』だなんて名乗って、刀ぶら下げて、そりゃあもうおっかない顔をしているのさ。そうそう、ムメイっていうのは名無しじゃあないよ、刀の銘が無いってやつさ」
「ほほう」
「そいつがまあ四六時中殺気立ってて、たまったもんじゃあないんだよ。俺の家族もみんな怖がってしまってねえ」
「おや、それは困りましたね」
黒骸はイタル宅で見た頭蓋骨で埋め尽くされた壁を頭に思い浮かべている。それに対して特段なにかを感じてはいない。
「だろう? しかも無銘は人攫いの組織について嗅ぎ回っているんだよ。俺にも聞いてきて、そんなもの知るはずもないのに。ああ、もう、あの長屋は変な輩ばかりで本当に参ってしまうねえ」
よよよ、とでも効果音をつけられそうな体勢で額に手の甲を当てている。綺麗な長い黒髪がゆったりと肩から滑り落ちた。これは完全に自分を棚に上げている。大量の頭蓋骨と家族ごっこをして生活をする変な輩筆頭の要イタル。普段は腰から鉈をぶら下げている要イタル。生きている人間には無害な要イタル。
「陣次はまるで無銘に興味がないみたいでねえ、俺の話なんて上の空さ。儀三郎もてんでお話にならなくてね、死神に愚痴を聞いてもらおうと思っていただけなんだよ。死神は平気で何日も長屋を空けたりするからねえ、困ってしまうよ。でも君たちにこうして聞いてもらったね、目的を達成したよ」
イタルは常に上がっている口角をもう一段階上げて目を細めた。生っ白くて眉毛のない彼の表情は人間と言うよりも、どことなく爬虫類のそれを彷彿とさせる。
「それはよかったです」
「家族団欒のついでに寄ったんだよ。この前会った後に聞いたんだ、死神の友だちはここの人たちだってねえ。さて、そろそろ行こうか。今日はいい散歩日和だからね。美味しい物を食べようねえ。なにがいいかな? お父さんがなんでも買ってあげようね」
後半は頭蓋骨に話しかけながら、「子どもが急かすんだ、すまないね」という意味を込めて、イタルとしては最上級に優しい笑顔と会釈をふたりに残して満足げに店を出て行った。
「オレ様としたことが忘れてたぜ。あの貸本屋よりもアイツの方が圧倒的に面白えな」
雨庸はさも当然のように日を跨いで話題を続けてくる。黒骸は瞬時に繋がりを理解しつつも、薄い唇の前に人差し指を立てて、「人間の話は終わり」を伝えていた。
雨庸の見立てでは、黒骸はイタルに比較的友好的である。羅乃目の基準を借りてくるならば『零』に当たると推測される。黒骸は人間に対して常に負の感情を煮え滾らせて生活しているが、それが同じ人間から爪弾きにされ差別される側の存在相手であると若干緩むのだ。自覚の有無は不明なものの、黒骸は北町の日陰で生活しているどうしようもない輩の方が、俗に言うまともな人間よりも遥かに付き合いやすい。
「すみません、ひとりです。お腹にたまるおすすめください」
イタルが帰ったかと思えば、また別の男が店に入ってきた。三十代後半程度に見える。どうにも今日は妙に忙しない。
少し長めの柔らかい癖毛で左目を隠した背の高い男は便利屋の依頼ではなく、口ぶりからしてここを営業中の飯屋だと思い込んで入店していた。しかも背後に長い棒を持っている。木刀をより長くした物、とでも表現すれば伝わるだろうか。長さを完璧に把握しているのだろう、何処にもぶつけることなく実に無駄のない動きだ。それは明らかに武器になりうる代物であるが、新しくこの辺りを仕切ることにするつもりで意気揚々と来店する潜りのお上りさんではなさそうだ。
「あれ
……ここはご飯屋さん、だよね?」
反応が悪いふたりを交互に見ながら、男は心配そうに語尾を持ち上げた。目付きは猛禽類の如き鋭さでありつつも、己の人相の鋭さを理解した上でそれを優しさで覆い隠そうとする努力が滲み出ている。
「ええ、一応そうなんですが
……」
「わっちら今は休業中でやんすよ、外に紙貼ってある」
「え」
男は体を残して右足だけ店の外へ大きく踏み込むと、戸に貼ってある紙を確認した。
「本当だ
……さっき人が出てきてたから営業中だと、思っちゃった、な
……」
男は恥ずかしそうに口元を手で覆うと、「待ってね、ごめん、ため息だけ吐かせてほしい」と言って盛大なため息を漏らした。
「いやあ、申し訳ない。このため息は自分への戒めだからどうか気にしないで。腹ぺこなのにこの時間帯だと何処もやってなくて
……」
「西町で昼間も営業している店は確かに少ないですね、ここは夜の町ですから。知らずに来たということは、この辺りの方ではありませんね」
「ああうん、そうなんだ。僕は東町で槍術道場の師範代なんてやらせてもらってるよ」
男は「槍術」と発する時に長い棒を軽く持ち上げた。
「槍術って槍でやんすね! それなんの棒かと思ってたでやんすよ」
「これは稽古で使う槍だよ。剣術で木刀を使うだろう? あれの槍版だと思って貰えればいいかな」
「東町の槍術道場の師範代が、わざわざ槍片手に西町の外れまで何用でしょう?」
「お、いいね。僕を警戒している顔だ」男は何故か嬉しそうな表情を見せると、「ごめん座ってもいい?」と聞くなり許可の前に三卓の椅子に腰掛けた。
「僕は
鹿角善平。東町にある
皇流って言う槍術道場の師範代だよ。今は門下生の勧誘に来ているんだ」
「こんな場所へ?」
「こんな場所だからだよ。ほら、西町はちょっと悪い若者がたくさん居るだろう? 僕は背が高くて目つきが悪くてすぐ喧嘩を吹っかけられるから、僕に負けたら体験入門だけでもいいからしてくれって言って、色んな子を負かして歩いてるんだ。それで今日はたまたまこっちの花びらに来てるわけだよ。昼時に来るのは初めてで
……」
この善平という男、さらりととんでもないことを言い出すではないか。
「それはまた荒っぽい
……その手口で門下生は増えましたか?」
「そうだね、負かした数は覚えてないけど。体験に来てくれたのが五人、そこから定着してくれたのがふたり。いやあ槍術って剣術よりも人気がなくてね、この人数でも増えれば万々歳なんだ」
最終的に叩き出された『ふたり』が多いのか少ないのかは判断しかねる。
鋭い瞳を柔らかく弧の形に変えながら、善平は左目に掛かる前髪を少し横へ流した。どうやら目や顔を隠している前髪ではないらしい。この男、思いの外笑うと優しい顔付きになる。
「ここで生活している人の前で言うのもあれだけど
……こういう土地で悪いことに加担するしか生きていく選択肢がない若者って、その環境を打破して選択肢をあげるといい場合もあるんだ。自分より強い大人がいて、その大人がちゃんと向き合う。それで前向きに道場に通ってくれるけど、結局周りの悪友に力尽くで引き戻されちゃう子も居る
……門下生を増やして道場を大きくして、寝食の面倒も丸っと見てあげたいんだよね、それを必要としている子にはさ」
「そういう人間を、立派って言うんでやんすか?」
「いやいや立派なんて、そんな大層なものじゃないよ、本当に。これは単なる僕の自己満足だね。槍術を通して心身共に健やかにーってね。僕がそうだったから。なんて、こんなに語っちゃって恥ずか
……」
──ぐうぅぅぅ
営業中と勘違いしての来店、ついやってしまった自分語り。このふたつだけでも致命傷であったのに、たった今ここに腹の音が盛大に鳴るが書き加えられた。
「
……ごめんちょっと、もう一回ため息吐いてもいい?」
善平は自身で丁寧に積み上げてしまった恥ずかしいを、一回のため息で清算しようと試みている。
「はあ
…………はあ」
地面に向かって結局二回吐き出されたため息。そしてどうやら清算は無理だったらしい。小さくもう一度ため息を吐きながら前髪を無造作に左手でかき上げた。
羅乃目は内心、この人間面白いなと思い始めている。
「わっちら料理人じゃないでやんすけど、なんか食べる? お金取れるご飯にはならないでやんすけど、最近おにぎりたくさん練習したからきっといい感じになるでやんす」
「いいの? それは助かるなあ、ちゃんとお金は払うよ」
トキ時ならばそうするだろう、という思考で羅乃目は動いていた。
「トキさんの漬け物使ってもいいと思う?」
「いいんじゃないかな。使った理由を聞いたらトキ時さんもきっと喜ぶよ」
それを聞くが早いか、彼女は土間へと消えて行った。
店内には黒骸と善平が残される。
「さて、君は僕のどの辺をそんなに警戒してるのかな」
「そう見えますか?」
「見えるよ。あの子の為かな? それとも自分の為?」善平は隠し事など無いと主張したいのか、今一度前髪を手のひらでかき上げて顔と額を出す。「僕から何を察知したのかわからないけど、本当になんでもないおじさんだよ。そりゃあちょっと強いかもしれないけど、槍があれば。でもそれだけだね」
黒骸は善平の向かいの椅子に座った。卓の下に両足を収めず、左足を外へ出していつでも動ける姿勢を保っている。
「じゃあ僕が警戒するに値しない駄目人間っぽい話題をしようかな。僕はこの国の北端の生まれでね、そりゃあもうなんにも無くて、一年中大体雪なんだ。これはちょっと言い過ぎかな、でも本当に雪しかない土地。皇流ってのは槍術としてはかなり大規模な流派でね、まさかの北端の過疎地にも道場の支部があってさ。子どもの頃はてんで興味がなかったし、それこそ暇を持て余して悪さばっかりしてたよ」ここで善平は黒骸に微笑み掛けた。「そんなある日にね、来たんだよ総本山の当主が。名誉段持ちの強くて怖い人たちが。各地の支部の視察にさ。そこで僕は思い知るわけだ、強い大人にこてんぱんにされて、しっかりと説教されることの大切さをね」
善平は頬杖をついてにこにこと笑いながら黒骸の瞳を覗き込んでくる。つまりはこの体験が、今この男を動かしている原点なのであろう。
「大事な駄目話はね、ここからだよ。大人になった僕は北端支部で一番強くなった。負け無し、さてさてまたちょっと退屈になってきたそんな頃、都合よく来るんだよね、総本山の視察が。そこで運命の出会いをする。強くて怖い人たちに混ざって若い女の子が居たんだ。いや〜、一目惚れって本当にあるんだね。その子は総本山の跡取り娘で、強いのなんのって吃驚しちゃったよ。それで負けたんだ、僕。一回り以上若い女の子相手に。油断してたのもあるかもしれないけど」
「お待たせしました〜でやんす」
話の腰を折りながら、羅乃目が土間から出てきた。手には握り飯を乗せた皿を持っている。
「わあ、ありがとう。美味しそうだね、ふたつもいいの?」
「体が大きいとお腹空くのかと思って。これね前にトキさんが作ってくれたのと同じにしてみたでやんす。美味しかったから」
羅乃目が用意したのは刻んだ沢庵を混ぜ込んだ握り飯だ。行儀よくふたつ並んでいる。
「トキさんって、ここの店主で、料理がとっても上手でやんすよ」
「そうなんだ、ありがとう。頂きます」
善平は合わせた手を離してひと口目に齧り付くと、また笑顔になった。基本的な気性は穏やかと見た。
咀嚼し終えると、ふた口目ではなく話の続きの為に再び口を開く。
「それでその負かされた女の子が忘れられなくてさ、何年も燻ってたんだけど。都会に出た方が強い相手も居るかもって思って、いやこれは正直後付けかな
……とにかく三年くらい前に太都に来たんだよ。そしたらさあ、聞いてよ!」
善平は突然椅子から腰を上げて前のめりで黒骸に向かって顔の距離を詰めた。
「はあ、なんでしょう」
「可愛かったし僕とは歳が離れているからさあ、全然そんな、まああわよくばみたいな気持ちは多分にあったんだけど
……その子、婿貰ってて。しかも僕と同じ年の、同じ道場の、癖毛で背が高くて強い奴
……そりゃあ向こうの方が目つきも性格も柔らかいかもしれないけど要素だけを並べたら僕と同じ属性の
……」
「ああ
……」
ここまで長々と語られていた駄目話の終着点がようやく見えた。
「そいつも今師範代してるんだよね。僕と同じ。やってられないじゃない? いや僕も大人だからいいんだけど。いいんだけど。試合したら五分五分って感じで実力が拮抗しているのもなんか悔しい。いっそ僕なんてけちょんけちょんにしてくれたらいいのに」
そこまで告げると、善平は椅子に腰を下ろして握り飯を口に運ぶことに集中し始めた。大柄の男の大きなひと口はあっという間に握り飯を腹に収めてしまう。
「ご馳走様でした」両手を合わせて一瞬目を閉じる。「
……だからさ、こんなしょっぱい失恋したどうしようもない男なんて、警戒するに値しないよ。僕は僕の出来ることと思うやり方で道場に貢献するしかないから、そうしてるだけ。まあずっとふたりがいる道場にいるのもなんか僕の心が勝手に上手くいかない時もあるからそういう時に大義名分で外を出歩けるのは本当に都合がいいというかなんと言うかそもそもあのふたりって人前だと夫婦に見えないくらいサラッとしててなんなら彼女はあいつより僕の方が仲がいいんじゃないかって錯覚する時もあるんだけど蓋を開けたらずっと新婚みたいに熱いからこれがまた僕の心を静かに抉る要因でもあり
…………はい、ご清聴ありがとうございました」
後半、小声で早口になりながらも語りは終了した。初対面でこの吐露は大人としてどうなのだろうか。
「その
……元気出してください」
「急に警戒解いて同情してこないでよ。これだから若い子は怖いんだもんなあ。この話は内緒だからね? 他言無用。僕の始まる前に終わった恋」
話の見えない羅乃目はきょとんとした表情をしているが、なんとなくふたりの雰囲気がよくなったことを感じて口を出さなかった。
実際のところ黒骸の態度が完全に軟化したとは言い難い。しかし初対面でこれだけ晒してくる人間を必要以上に警戒する必要はないと判断したのだろう、これは一種の誠意の見せ方であると受け取った。一応の誠意を持って対応されれば、少なくとも表面上の誠意はきっちり用意する。
「おにぎり美味しかった、ありがとう。お代はおいくらかな」
「お金取れないでやんすよ」
「そうは言ってもお米代とか人件費とかあるだろうし。ご厚意に甘えるだけじゃあ申し訳ないよ」
「では俺たちの仕事を宣伝してくれませんか?」
「仕事? このお店の?」
「ええ、店の宣伝もありますがもうひとつ」
並行性を辿りそうであった支払い問題に早々に終止符を打つべく、黒骸は会話に入ってきた。
「俺たちはふたりで便利屋を営んでいます。依頼内容によっては当然お断りするのですが、日常のちょっと困ったですとか、人手が欲しい時などは是非ご相談ください。迷い猫探しから買い物代行、蔵の掃除まで、なんなりと」
「へえ面白いね、便利屋さんか。わかった。そしたら僕も困った時にはまた相談しにお邪魔するよ。宣伝も欠かさずにしよう」
「トキさんの作る伊呂波のご飯はとっても美味しいから、またちゃんと夜に来るといいでやんすよ」
「是非また来るよ。ええと、ふたりの名前は? 聞いてもいいかな」
「わっち羅乃目でやんす」
「俺は黒骸です。大抵は『黒』と呼ばれています」
「羅乃目ちゃんと、黒くんだね。そしてここは伊呂波、と。ああそうだ、本当にありがとう、また来るよ」
そうして善平はまた槍を何処にもぶつけずに、朗らかな笑顔を残してしなやかに退店して行った。
「たくさん話す人間でやんしたね。内容はちゃんと聞いてなかったけど、話してるのは土間でも聞こえてた」
「わざとたくさん話してくれたんだ。ねえ、太都に来たの三年くらい前だって」
「って言ってたでやんすね」
「羅乃目は気にならない?」
「全部の人間に聞いて回れないから、気にし過ぎるのはやめたでやんす」
「でも可能性自体は高かったよ。なんなら恋敵側はそうかもしれない
……あの人間が参加していたとしたら、おにぎりを出したことを後悔したかもしれない」
椅子に座る黒骸と、立ったままの羅乃目。普段とは目線の高さが入れ替わっている。やや見上げる黒骸と、目線を合わせずに斜め上を眺める羅乃目。
「
……違かったから、後悔してないでやんすよ」
「
……それもそうだね、よかった」
翌日、便利屋へ依頼が入った。
どこで噂を聞きつけたのか、いかにも幸の薄そうな婦人は、物を大切に長く使うの域を越えかかっている擦り切れた着物を纏い、疲れ切った表情をしている。それでも愛おしそうに握りしめてきた簪は、彼女と不釣り合いなくらい豪華で美しかった。
「これを届ければいいんでやんすね?」
蜜で働く愛娘の、誕生日のお祝いに。簪を。
「ええ
……そう、そうです。そういうのもお願いできる?」
蜜。お上公認の遊廓。そこで働く娘。やつれた母。
「別にいいでやんすよ」
借金のかたで売ったか、口減らしで売ったか。
「黒が行くよりわっちが行った方がいいでやんすね」
今更合わせる顔など無いだろう。
それでも娘を想う母はの思いは娘の目にどう映るのか。
提示額から一銭も上乗せされていない代金を押し付けるように払うと、母は逃げるように店を後にした。
「本当に行くのか? 昔蜜に売った娘の誕生祝いを届けに。とばっちりに遭うのが目に見えるがな」
羅神の言葉はもっともである。
「でもお金受け取っちゃったし。別に届けるだけでやんすから。散歩のついででやんす。お天気だし」
「本当は俺が行きたいんだけど
……」
「男のオメエが行ったら絶対ぇ話がややこしくなるからやめとけ! ンなことオレにでもわかる!」
心配そうな黒骸に背中を見送られながら、羅乃目は軽い気持ちで蜜まで散歩、もとい届け物の仕事に出た。
「いい感じの石ないかな」
羅乃目は黒い碁石代わりに使える『いい感じの石』を常日頃から探して歩いている。とは言え仮にも花街の道の真ん中に、そうそう石は落ちていない。もちろん神社仏閣お屋敷等々の玉砂利を拾ってくるなどという無粋な真似もしないので、大抵は河原方面か山へぐっと近付けた時に拾ってくるのだ。河原は水で削られた石ばかりなので打率が高い。しかし単なる『いい感じの石』から『碁石に使えそうな石』となると一段と範囲が狭まるので、最近はあまり出会えていないのが実態である。
「本当に行くのか? どうせ確かめに来ないのなら適当に小間物屋に売ってしまってもいいだろう」
羅神は羅乃目が蜜に行くことをそれとなく拒んでいる様子だ。羅乃目は子どもではないが子どもだ、そしてそれと同時に子どもだが子どもではない。微妙な成長と成熟度の華奢な体と脳みそに、あの濃密な中心部の空気が悪影響を与えかねない。
「ちゃんと行くでやんすー、仕事はきっちりこなすでやんすー」羅乃目は歩を緩めない。「夜じゃないし、きっと昼見世してるお店もそんなに多くないでやんしょ?だいじょぶだいじょぶ」
「また私娼にでも間違えられたら面倒だろう」
「そしたら違うって言ったらいいでやんす、だいじょぶ」
「はあ
……『大丈夫』だろうが」
西町の中心に座する蜜。陸の孤島。ぐるりとその周りを幅広のお堀で囲まれている為に、四方向から伸びる橋を使って渡る以外に道がない。
遊女の逃亡防止と、この地が特別であるという演出。いっそ悪趣味だと言える装飾を施された赤い橋と赤い門。わかりやすく門番こそ立っていないが、独自の自警団を有しており、常に蜜全体を見張っているとかいないとか。
「下手に目立つ行動は避けるように」
羅神からの忠告を胸に、羅乃目は普段の散歩と変わらない足取りで赤い橋を渡る。渡りながら、婦人に渡された店の名前と簡単な地図の走り書きを確かめた。
「賽の目屋
……」
「博徒しか来ないのか、その店は」
心底呆れ返った羅神の声色は長い付き合いのなかでもあまり耳馴染みの無いもので、羅乃目を少しだけ愉快な気持ちにさせる。これを聞けただけでも歩いてきた甲斐があったというものだ。
「仲介屋も挟まずに直接身売りとはいい度胸だね、いくら欲しいんだい。田舎に金を送るなら手数料は天引きするからね」
賽の目屋の敷居をくぐってから浴びせられた第一声でこれである。
「肌艶はいいが
……華奢だねえー、揉ませるところも無さそうじゃないか。生娘じゃないだろう? 金額は腕前次第だね。だがどう転んでも高くはならないよ。その年で一から仕込むなんて年季が明けちまうからね」
先ほどから羅乃目を品定めしている中年の
内儀は、口を挟ませない圧を掛けながら舐め回すような目つきをしている。しかしそんな人間は羅乃目の敵ではない。
「違うでやんす。届け物の仕事」
「なにが違うって言うんだい、若い女がひとりで来る場所じゃないんだよ此処は。今更怖気付いても無駄だよ」
「だから届け物でやんす!
明夜って人間に届け物!」
昼見世をしていない賽の目屋の玄関口で内儀が女と騒いでいる。何事かと短い休憩と自由時間を割いて身支度の整っていない遊女たちが、遠慮がちに顔を出し始めた。
「ねえ、明夜っていないでやんすか?」
羅乃目は内儀など相手にせず、顔を出した遊女たちに声をかける。
「明夜」「明夜いる?」「明ちゃん呼んどいで」「明夜は?」「あんた行きな」「あの子まだ寝てなかった?」
遊女たちは内儀の前でやりにくいのか、それでも小声で囁き合うとその内のひとりが奥へ引っ込んだ。おそらく彼女たちにとっても物珍しいのだ、昼間とは言え、届け物だと言って単身で女郎屋に乗り込んでくる年若い羅乃目のことが。
内儀はわかりやすく舌打ちをしたが、もう羅乃目の相手をすることは辞めたらしい。険しい顔で帳簿らしき冊子に目を通している。
「あたしに届け物? あんた誰?」
思いの外早く登場した明夜は羅乃目とそう年の変わらない若い娘に見えたが、疲れ切っているのか文字通り気怠げにやって来た。健全な青少年であれば目のやり場に困るほどにだらしない着物。実は様子を見に来た遊女たちの格好も似たり寄ったりである。同姓しかいない閉鎖空間とは、少々だらしなくなりやすいらしい。
「はいこれ。お母さん? からでやんす。誕生日のお祝いとかなんとか」
明夜は「お母さん」の単語で眉間に皺を寄せながらも、突き出された手から品物を受け取る。訝しげに包みの中を改めた。中から転がり出たのは、繊細な蒔絵細工を施された簪。
「ちゃんと届けたでやんすよ。じゃあわっちはこ
……」
「これ、売っぱらってあたしの売上げの足しにして」
明夜はこともあろうか内儀へ向かって簪を投げて寄越す。
「ちょ、っと
……急に投げるんじゃないよ」
「これだけ目撃者がいれば知らぬ存ぜぬは通らないでしょ? ちゃんと帳簿につけておいてよね」
「フン、生意気だね。わかったよ、全く。ちょっと、若衆誰でもいいから呼んどいで。蒔絵の小物はそれなりの値になるだろうよ」
届けるという仕事はきっちりこなしたので、その後の品物がどうなろうが羅乃目が口出し出来るものではない。それでもなんとなく、もやりとした感情が心に影を落とす。横で羅神が「だから言っただろう、小間物屋にでも売ってしまえと」とぼやいている。長居は無用と悟ると、無言のまま踵を返して外を目指した。お辞儀はしなかった。
「ねえあんた、ちょっと待って」
「わっちでやんすか?」
「他に誰がいるのよ、ねえちょっと話そ」
明夜は適当に履き物を履いて羅乃目の横へ並ぶと、指先で外へと促した。
「ちょっとあんた何処行くつもりだい!」
「庭だよ庭! あたしだって
蜂に目付けられたくないんだから、庭なら問題ないでしょ。ほら行こう」
「んえ」
乗り気ではなかったものの、肩を叩かれたのでそのまま着いて行くことにした。その時は、このまま文句のひとつでも言ってやろうと思っていたかもしれない。
「なんで届け物なんて頼まれてんの?」「そもそもあんた誰?」「いくつ? あたしと年変わらなさそう」
狭くはない庭へ出る道すがら(とは言え大した歩数ではない)、明夜は羅乃目の顔も向かずに背中のまま矢継ぎ早に質問を投げかけた。庭に出るとそのまま飛び石を無視して石燈籠に肘をつけ、体重を掛けてようやく振り返る。
「単純に気になるんだよね、あんたは蜜の外の人間でしょ?」
羅乃目は飛び石の隙間を埋める苔の間に下駄の歯を差して、話を聞いていないふりをしていた。
「ほらあ、答えてよ!」
「
……わっちは羅乃目。西町で食事処伊呂波の手伝いしながら便利屋してるでやんす。ここに物を届けに来たのは便利屋にそういう依頼が来たから
……十七歳でやんす」
変に拒むより素直に答えた方が楽だと判断して、質問された項目を頭に浮かべ直しながらひとつずつ答えていく。
「うわ、同い年じゃない、年下かと思ったのに。あんたの両親は?」
「
……もういないでやんすよ」
だから母親から贈り物がある明夜のことが少し羨ましいのかもしれない。わからない。人間が羨ましいのは、羅乃目にとってあまりいい感情ではない。
「そっか
……それもあたしと一緒だね」
「依頼してきた人間、母親っぽかったでやんすけど」
「可愛い娘を五歳でこんな場所に売るなんてさ、親って呼べる? しかも今更贈り物とか。どんな顔したらいいのよ。あたしもう客取らされて二年になるんだよ? 贈り物する金があるなら売るなよ、娘をよお。いっそ身請けでもしてみろってんだ。チクショウ。売っておいて未練がましく贈り物なんて
……こんな笑い話ある?」
答えに迷っていると、明夜は特に気にした様子もなく続きを話し始めた。
「あんたは親がいなくても体売らずに済んでるっぽいからいいじゃない。そんな顔しなくていいよ」
「どんな顔でやんすか」
「なーんか、『その話、悲しくてきゅーっとしちゃいます!』 みたいな顔。ごめんね、やめよ。別に虐めようと思って引き留めたんじゃないし、同情して欲しいとか微塵もないし」
羅乃目は飛び石の隙間を、下駄の歯で静かに掘り返している。苔が剥がれて湿った茶色が剥き出しになる。
「便利屋ってさ、何してくれるの? お金払えばなんでもしてくれる?」
「なんでもはしないでやんすよ。簡単なことだけ。猫探したり、代わりに買い物行ったり、蔵の掃除したり、物届けたり」
「簡単
……」明夜は言葉を反芻すると、ぱっと表情を明るくした。「じゃあ、あたしの依頼聞いてよ」
「依頼? なんでやんすか?」
明夜は目を輝かせて距離を詰めて来た。羅乃目も特に避けたりせず、こっそりと掘り返した土を下駄の歯で押し固めた。緑と茶が混ざっているので、残念ながら犯行は隠せていない。
「話して欲しいの、外のこと」
「そと?」
「蜜の外の話! 聞きたい! 聞かせてよ!」
依頼してくるその瞳があまりに輝いていて悲壮感などひとつも感じさせないものだから、羅乃目は少々面食らった。堀の外を妬む為に聞きたいのではなく、純粋に知りたいから聞きたい。こことは違う世界の話を。きっと輝いているはずの外の話を。
「あ、えと
……」
「ああそっか、依頼にはお金いるよね。どうしよう、正直お金は大事なんだよね。でも誤解しないで、それでも聞きたいの。お願い」
「
……お金って言うか、わっち太都に来たの最近だから、そんなに詳しくないでんすよ」
「太都の外から来たの?! もっといいじゃん! 山を越えたの? 海は見たことある?」
明夜の態度に不思議とどんどん絆されていった羅乃目は一度唇をきゅっと結ぶと、その後は普段通りの態度と口調に変化した。
「わっち見世物の旅一座にいたから、色んなところ行ったでやんすよ。山はたくさん越えたし、海も見たことある」
「いーなー!」明夜は何かを思いついた顔になった。「せっかくだからお茶でも淹れちゃおうかな。客に貰った珍しいお菓子もあるよ、ねえ甘いの好き?」
「大好きでやんす!」
「じゃあ決まり。ほら、みんなもせっかくだから来ちゃいなよ。独り占めしようなんて思ってないから」
明夜のひと声で、隠れきれてないが本人は隠れているつもりだった遊女たちがわらわらと出て来た。四人いる。おそらく皆、年が近い。
「待ってて、わたしのお菓子も持ってくる」「ねえ備品のよりいい茶葉があるよ」「あなたも十七歳なの?」「いいなー、蜜の外」
思い思いの言葉を述べながら、あっという間に縁側にはお茶の席が設けられた。彼女たちの短い短い自由時間の、その大切な一部を切り取って。
「皆んなあたしと同じような境遇なの。ちなみに同い年だよ。変な奴はいないから大丈夫」
「あんたが一番変だってば」
「ちょっと、それ心外〜」
思い返せば、羅乃目は年の近い同性と接する機会があまりないままここまで成長していた。これは、もしかすると楽しいかもしれない。
「もっと、ぎすぎすしてると思ってたでやんす。人間関係とか」
「まあね、そりゃあ客取られたりしたら揉めるけど。狭い世界で生きてるからね、一緒に居て楽しい時はなるべく一緒に楽しくしてようって決めたの、あたしたち。ここで終わらねえぞってね。この仲良しが気に食わない姉さん方も多いけど、知ったこっちゃないっての」
「身請けで一抜けても恨みっこなし!」
「それはちょっと恨む〜」
きゃあきゃあと楽しげな声。きっと箸が転がっても面白い年頃。つられて羅乃目も笑う。これは今まで知らなかった種類の面白さだ。
「聞かせてよ、蜜の外の話!」
「んと、じゃあ、そうでやんすね
……」
短い短い、とても短い楽しい時間を過ごして、彼女たちは夜見世の準備を急げと叫ぶ
鎗手の声に捲し立てられて解散する運びとなった。
「お願い! また来て! 客に貰った珍しいお菓子取っておくから! きっと、きっとだからね!」
無情にも鎗手に引っ張られていく明夜は、最後の最後まで羅乃目にそう叫んでいた。それを肩の下程度の高さで曖昧に手を振って応える。
また来ていいものかわからないから。
「結局、外の話をした分の金は受け取っていないな」
「別に」いらない、と続けようとする羅乃目は背後に気配を感じて言葉を口内に留めた。
自然な流れで振り返る。
「
……たまにならいいよ」
内儀だ。
「でもたまにだからね。勘違いするんじゃないよ」
忌々しげな表情の割に言葉はさほど武装されておらず、内儀と言うよりも『保護者』のそれであった。
「変な時に来たら追い返すからね」
それだけ告げると、私は忙しいんだよと言いたげに「ほら、とっとと支度しなあんたら! 今日もたんまり稼いでもらうからね! 働きな!」と手を叩いて廊下の角を曲がり、すぐに姿は見えなくなった。
にわかに騒がしくなった店内では、もう誰も部外者を気に留めず気に掛けず。
内儀が残した態度の真意を測りかねたが、羅乃目は誰に対してでもなく、軽くお辞儀をしてから賽の目屋を後にした。
騒がしくなったのは賽の目屋だけではない、蜜はこれからが本番だ。どの店も客を受け入れる支度に右往左往している。毎日のことであろうに、そうも手間取るようなものなのだろうか。
帰りの道程を追う目線の先で、格子の中の少女と目が合った。まだ夜見世が始まる時間ではない。ただ準備の一環か用を言いつけられたのか、かがみ込んで何かをしている
……ばちりと合った視線の奥、少女の大きな瞳は驚くほど空虚で、ほんの一瞬格子の外にいる羅乃目を妬ましく思うような色がちらついた。
「
…………」
すぐに少女側から逸らされた視線は、ぶつかる先を失って宙を舞う。
あの少女が客を取る年齢かどうかは、羅乃目にはよくわからなかった。
すっと息を吸う。あの格子の中と地続きで、広義としては同じ空間の空気を。
息を吐く。
羅乃目は
蜜がどういう場所かを知っている。
もう一度吸う。
少なくとも一般的に形式として提示されているものは
理解している。
「あらあらあらあらあら? おめめじゃないの、どうしたのこんな場所で会うなんて! ひとり? 危ないじゃない、お仕事?」
「ぴょ」
突然馴染みのある声で話し掛けられた羅乃目は、驚いて変な鳴き声をあげてしまった。徐々に増えてきた往来の数の前では、気配云々の察知は正直なところ難しい、悪意のあるもの以外は。
「わっちお仕事でやんした。花ちゃんこそ、こんなとこでもお花売ってるでやんすか?」
声の主である権左(否、花ちゃん。以下、いや以後、花ちゃん)は、いつもの天秤とは違い、大きな籠を背負っている。
「今日はね、売るんじゃないの。わたし蜜のいくつかのお店で花を活けさせてもらってるのよ。今日はそっちなの、帰り道。おめめも帰りかしら? 一緒に行きましょう」
「うん」
花ちゃんは大柄ではあるものの、比較的小股で上品に歩く。羅乃目はその速さに合わせて歩幅ではなく歩調を緩めた。
「なんで蜜の中でお花活けてるでやんすか?」
「わたしね、花道をお勉強していたの。前にね、前。大好きだったんだけど、結局は家元と反りが合わなくて修める前に辞めてしまったから、本当はこんなことしていちゃ怒られちゃうんでしょうけどね」
声だけは優しく笑っている花ちゃんは、困ったように眉を末広がりにした。眉の下げ方が何処となくトキ時に似ている。
「なんで。怒られちゃうかもしれないのに?」
語尾に続く文言を端折って、羅乃目はそのトキ時に似た笑い方をする顔を見上げた。
「そう、そうね
……じゃあ帰りがてら聞いてもらえるかしら、わたしのお話」
「うん」
羅乃目の元気な返事を確認すると、花ちゃんは話し始めた。いつもの早口ではなく、ひとつひとつ丁寧に。
「そうね、これはわたしが最大限できるお礼と言うか、恩返しみたいなものなのだけど」
不透明な導入で始まった話は、心地のよい柔らかい低音で紡がれていく。
「全部わたしの持論なんだけどね、西町というか、花びらの部分は全部影になっているの。蜜で、女の子たちがああやって、痛いくらいに輝いていてくれているから」花ちゃんは体の前で両手の指を絡ませる。「別に彼女たちが好き好んで輝いていてくれているわけじゃないのはわかっているのよ。でも、どうしたって外からは、その光を求めて人がやって来る。皆んな蜜にしか興味がないから、そう、それこそ花びらで花を売っているのが男か女かなんて誰も気にしないの」
花ちゃんは何を見るわけでもなく、軽く道を振り返る。
「光が強ければ強いほど影も濃いの。真っ暗。だから西町って人によってはとても過ごしやすいの。わたしみたいな人には特に。治安は心配だけどね」
「花ちゃんは、西町以外だと過ごしにくいでやんすか?」
「そうね、東町だと少しね」
蜜とそれ以外を隔てる赤い門までやって来た。そろそろ行燈に火が灯る。この世の明かりを一点に集めたかのように眩い、蜜の門。まだ静かにぼやけたそれの下を、早くも蜜へとやって来る男たちに逆らうように潜って行く。
「わたしってほら、可愛いものが好きなの。ただそれだけなんだけど、なかなか、ね。嫌なことも多いの」
「なんででやんすか? 別に花ちゃんは花ちゃんだと思う」
「そうねえ、なんでかしらねえーもう。でもわたしだってずっと黙ってるわけじゃないのよ。あんまり酷いとね、わざとお尻でぶつかってやるの『あら、ごめんあそばせ』ってね」
「人間て、他の人間のことそんなに気になるでやんすね」
「
……そうね。困っちゃうわね」
橋の途中。ここが日常と非日常の通過点。
彼岸と此岸。
「だからね、輝いていてくれてありがとうって。わたしが勝手にそう思ってるだけだけど。あの子たちが居るから、わたしはあの子たちが作ってくれた影の中で、自分を曲げないで生きていけるの。だから、だからね、お礼なのよ。綺麗なお花を見て、少しでも気が紛れたら嬉しいなって、思ってるの」
日常への到達点。羅乃目は蜜を振り返る。
花ちゃんもつられて、今一度振り返った。
「花ちゃんの家は東町なんでやんしょ?」
「ええそうよ。でも、そろそろ暗くなってくるから伊呂波まで一緒に帰りましょう」
「わっちひとりでも平気でやんすよ」
「わたしが駄目なの」
そう微笑むと、羅乃目よりも先に伊呂波の方角へ歩み始める。
「?」
花ちゃんの小さな二歩を、羅乃目は大きな一歩で追いついた。
「花ちゃんて、いつから伊呂波にお花飾りに来てくれてるでやんすか?」
「そうね、トキ時ちゃんの言葉を借りるなら『先代の頃』からね。でもこの話はまた今度にしましょう。わたしばっかり話しちゃったもの。ねえ、おめめのお話も聞かせてくれる?」
そうして他愛の無い近況を語り合いながら、花ちゃんは伊呂波の前まで共に歩いて来てくれた。トキ時が旅行で不在と聞くと、「また居る時にちゃんと顔を出すわね」と籠の底から牡丹を一輪取って羅乃目の髪の毛に刺し、最後は満面の笑みと早口で話を締め括って東町へと帰って行く。
「別に帰りひとりで大丈夫だったのに」
「
……優しさだろうな、あの男の」
羅乃目は何かを言いたげに唇に力を入れたり、また緩めたりを繰り返している。適当な頃合いを見計らって、羅神は話しやすい状況を作った。
「どうした。早く店に入ればいいだろう」
「うん
……んと、単なる感想でやんすけど」羅乃目は髪から牡丹を抜き取ると、指先で茎をくるくると回して眺める。「それだけの意味しかないでやんすけど」
何やら言い出しにくい話題であるらしい。
赤みの強い牡丹の花びらは、羅乃目によく似合っていた。
「人間も人間で、色々あって、色々大変でやんすね」
努めて平たい態度で、花を回す指を止めずに言い切った。それぞれの立場には、それぞれの『大変』がある。
「
……この世に生を受けた生き物は種族も人種も問わず、そうだろうな。色々あって、色々大変。その点は平等だろう、おそらくは」
あえて親身になり過ぎず、かと言って突き放しもせず。
「あまり考え過ぎるな。また熱を出すぞ」
「ん」
羅乃目が戸を開ける前に、羅神は鼻先から店内へと消えて行った。
その晩の羅乃目は貰った牡丹を押し花にしようと紙で包んで重しを乗せ、黒骸のあらゆる場所に額を擦り付けて前髪を乱し、黒骸の腕と手と呼ばれる部位を余すことなく甘噛みし尽くしては唸り、最終的に黒骸の寝巻きと腹の隙間に頭を突っ込んで、眠った。
黒骸も、「どうしたの、今日は甘えん坊だね」と少しも困っていない様子で全てを受け入れ、彼女の後頭部と肩の辺りを撫でたり優しく叩いたりしながら眠りを促した。
そして羅乃目は眠りに着いた後に人知れず発熱し、そして朝目が覚める前に、解熱した。
身に覚えのない倦怠感を体の奥に残して、また一日が始まる。
翌日、トキ時は良と共に伊呂波へと帰って来た。土産と、土産話をたくさん持って。
お互いの数日間を語って盛り上がっている羅乃目とトキ時を横目に、黒骸は良へ「イタルさんからの情報です。どうやら空きだった長屋のお向かいさんに新入りが入ったらしいですよ」と簡単に耳打ちをする。「なに、イタル来たの? 珍し」などと、新入りよりもイタルの行動に意識が向いていた。
「じゃーん! これがお土産の目玉商品だ!」
ここでトキ時は四人で揃いの土産を用意していた。桜の木でできた根付け。直径一寸(約三センチメートル)程度の小さなまん丸である。饅頭根付けのように潰れた形になっていない、手のひらに収まる小さなまん丸である。大切なことは二回述べる。
「えーこっちが黒で、こっちが羅乃目だな」
全て同じまん丸かと思いきや、誰それ用という買い方をしているらしい。それもそのはず。
「あ! 『ら』ってなってるでやんす!」
「そうなんだよ、平仮名一文字を無料で焼印してくれるんだ。いいだろ。俺たちもお揃いなんだ」
そう、球体の根付けの中央には控えめな大きさで平仮名が一文字焼き込まれていた。
トキ時と良は既に本来の用途で利用して持ち帰って来たようだ。それぞれ帯に挟んで小銭入れをぶらさげていたそれを外してふたりに見せる。
「木目がいいやつにするーとか言って、結構選ぶの時間かかったんだから。トキちゃんが拘りだしたら大変よ?」
『と』と『り』に並ぶ『ら』と『く』。
「いいだろ別にー。それに可愛いだろ、これ」
「まあね、そこは否定しない。トキ時の審美眼は信頼してる。なにせ俺を選ぶくらいだし?」
「語弊しかないな」
「並ぶともっと可愛いでやんす」
「いいですね、使い込むと味が出てきそうで」
他にも日持ちする食材だとか、干菓子だとか。
「これは羅乃目にお土産だ」
トキ時はそっと羅乃目を自身の隣まで呼び寄せると、まるで赤子でも見せるかのように、優しく丁寧に包みを解いた。
「曲げわっぱ。羅乃目専用のお弁当箱だ。美味い弁当作ってやるから、これ持って山に遊びに行っていいぞ」
「わ!」
羅乃目はトキ時と曲げわっぱを交互に見て、これ以上ないくらいに瞳を輝かせている。嬉しいの上限突破で瞳の色が変わってしまいそうだ。
「曲げわっぱは使い終わったらしっかり手入れをして、きっちり乾燥させないと駄目なんだ、乾燥には時間が掛かる。つまり毎日使うってわけにはいかない。わかるか?」
「うん!」
羅乃目が人間と生活することで抱えている重荷を、少しでも発散させてやれる方法をトキ時なりに考えたのだ。きっと人間が居ない場所で思い切り自由に過ごすのがいいだろう。行っておいでと言葉を添えられたならば、心置きなく過ごせるはずだ。「でも、曲げわっぱの手入れの為にも都度ちゃんと帰ってこないと駄目だからな、それから毎日も(心配だから)駄目だぞ」という心の声付きで。
「よかったね、おひい」
「えへへ」
それからトキ時は黒骸の為に買ってきた栗の碁笥を取り出した。
「こっちは黒のお土産だ。あんなにちゃんと碁に向き合ってるしな。いつまでも間に合わせの巾着袋に石を入れてるってのは勿体無い。あんまり上物でもないし碁盤と雰囲気は揃わないけど
……きっと今よりずっと楽しくなるはずだ。道具って大事なんだ」
「それにあれっしょ。『きっと先代も喜ぶ』でしょ」
「そりゃあ喜ぶだろ! なんなら俺が嬉しいからな」
包みの口を解いて中が見えるようにしながら、しっかりと黒骸の両手で受け取らせる。
「こんなにいい物を
……」
少年は言葉に詰まる、はにかむ、見間違い程度に控え目に頬を染める。
「ありがとうございます」
羅乃目は、牡丹の押し花をあまり綺麗には作れなかった。
それでも歪な押し花を、宝物入れにしている木箱へと仕舞い込んだ。
蓋を閉める。暗闇の中の押し花。
──暗転。
*
ここに道標を立てる。
ここが明確な分岐点であったと、記す為に。
次話