ロンド
10210文字
Public くにぐに
 

渇きを癒して

目次
1、人間香×吸血鬼アイスでクラスメイトな話。
2、α香×Ωアイスで番になった後の話。


求むるは仄かなかおり/オメガバーズパロ


 朝目覚めると、身体が重くてだるかった。そのうえ身体が内側から熱い。暑苦しい布団をはぎ、這うようにベッドから手を伸ばした体温計で測った結果は三十八度二分で、もはやお決まりの周期とはわかっていてもうんざりした。
 ひとまずスマートフォンのチャットアプリを立ち上げる。兄はもう先に起き出してキッチンにいるころだ。
 電話をかけるとすぐ繋がった。
『おはよう。でえじか』
「熱でた」
『ん。水と飯だな』
「ありがとう」
 通話を切ってほどなくしてアイスの部屋の前で物音がした。こんこん、とドアを叩かれ、返事をするとドアが背中で押して開けられる。念入りにマスクをしたノルがトレイを持って現れ、布団を抱きかかえるように丸まっているアイスをうかがう。
 机に朝食とペットボトルの水を置いたノルがアイスの髪を撫でる。そんなささいな刺激にも身体は震えた。なかなか合う薬が見つからなくてこの不快な周期には寝たきりでうめいていた最初のころよりはずっとましだが、ノルの冷えた手すらも肌があわだつのはいつまで経ってもいやな感覚だった。
「今回は食欲はあんべな?」
「うん」
「大学は」
「昨日メールした」
「お兄ちゃんは仕事行ってくるすけ」
「うん。あっち行ってて」
「ん、したばって、あいつは」
 定期的にΩのヒートが来て、それを抑えるための薬の副作用で発熱するアイスと応対するにあたって、万が一にそなえてβの抑制剤を常飲しているノルは、平坦な声で訊ねる。
 間があった。
 ヒート中のΩの匂いが充満しているだろう部屋にノルがためらいなく入ってこれる最大の理由を思い、アイスは布団に顔をうずめるようにふるふると首を振った。
「云わない。いつも数日じっとしてたらなんとかなるんだから。心配させたくないから、云わない」
……ん」
 アイスの意志を尊重したというよりは、実のところ一生ものの契約をアイスが勝手に決めてしまったという点であまりよくは思っていないノルは、それならいいと頷いた。兄のその淡白なところにアイスはほのかに救われたように感じる。きっと弱っているせいだ。
「無理はすんでね。必要なもんあっだらあんこさ呼べ」
 部屋を出ていくノルをアイスは視線で追いかけて、無常にもドアは閉じられる。こらえていた涙がぽとりとシーツに染みた。
 あとは波に揺られるように熱っぽい身体でアイスはうつらうつらを繰り返した。ペットボトルの水を少しずつ飲み、ノルが置いて行ったサンドイッチをかじり、薬を飲み、また眠る。眠っている間は身体の疼きを感じにくくなる。いまアイスが使用している抑制剤は効き目がそうとう強く、精を吐き出さなくてもよくなるが、風邪と錯覚するような身体の内側の震えはなかなか収まりにくい。
 何度目かにアイスが浅い眠りから目覚めたときには夕方になりかかっていた。ずっと閉めっぱなしだったカーテンの隙間から赤い光が差し込んでいる。ぼんやりと手持ち無沙汰にアイスがスマートフォンを見ると、ノルから着信とショートメッセージが入っていた。
 残業する。すまない。
 わかった、とアイスはおざなりな返信を打つ。どちらにせよノルにはもう何もしてもらうことがない。ある程度周期が推測できるので、抑制剤はきちんと用意してあるし、冷蔵庫には冷凍食品がちゃんと入っているのをアイスは知っている。あとは一人でじっと波が引くのを待つばかり。
 我慢すればいいだけだと、経験則でわかるほど繰り返しているのだ。兄が心配することなんかない。
「はぁ……
 吐いた息が熱っぽくてそれだけでもいやになってきた。布団から抜け出して薄いブランケットを引き寄せる。布団よりも温度が低くひんやりしていてほっとして、自然と匂いを嗅いだ。自分では混じってしまってわからないが、強烈な匂いを放っているにちがいない。
 ――番だけに効くというΩのヒートのフェロモンが。
 思い出さないようにと努めていたはずの番が恋しくなってしまい、アイスは頭から振り払う。
 アイスの恋人はきっといまは仕事中だ。同じ高校にこそ通っていたがアイスが大学に、彼はもともとバイトをしていた親戚の店で働いている。正式に番になったといえども、アイスの後見人のノルはさっそくの二人暮らしの水入らずを許さなかったので、アイスが卒業するまではと保留にされている。
 ノルの条件を呑んだのは、大学費用を出してもらえなくなるかもしれないと危うんだのもあったが、ほんとうは――Ω性に翻弄される情けない姿を見せるのに、アイスがまだ躊躇していたからだった。
 番を求めたい身体と、番には呆れられたくない精神の、矛盾するような衝動に引き裂かれそうになる。ヒートには個人差が激しく、抑制剤さえ飲めばけろっとしているようなΩもいれば、飲んでも一週間以上体調を崩し続けて結局性を抑えられなくなるような重い症状を持つΩもいる。アイスはどちらかと云えば重い方で、しかし数日寝込む程度で済むからと、Ω性を盾にするのは嫌だった。恋人にはよく効く薬が開発されたから最近は平気だと説明していて、高校卒業以来の進路が離れたのをいいことに、まだばれていない。
 番の恋人に会いたくて、会いたくてたまらなくなり、アイスはいよいよ身代わりのパンダのぬいぐるみにすがりついた。

     *

「ただいま……
 ついに念願の一人暮らしが叶ったのはほんの数か月前。本音は番となった恋人との二人暮らしを望んでいたが、相手がまだ学生であることを理由に話し合ったうえで断念したので、いまのところは誰に邪魔されることのない生活を謳歌している。
 けれども、早朝から駆り出されて疲れ切った香にはマイホームに帰宅しても睡眠欲が勝っていた。シャワーを浴びて、持って帰ってきた唐揚げ弁当を食べるくらいはしたいが、はたしてまぶたが耐えきれるかどうか。
 靴を飛ばすように脱いだとき、鼻を甘ったるい匂いがくすぐった。香はまばたきをした。菓子の甘さというよりは、ハーブティーのような、蜂蜜に似た、惹かれる匂いがふわふわとさまよっている。
 原因に思い至ると一気に覚醒して、香は弁当も廊下に置いてまずシャワールームに直行した。急なαの本能に震える手で即効性の抑制剤を追加で飲み、それからワンルームに引き返した。こけそうに滑る靴下も脱ぎ散らかし、大股の数歩でドアの前に立つ。落ち着くためにひと呼吸をしてドアを開けた。
 蜜蜂を誘うような甘い匂いがむんと強くなる。直前まで眠たかったはずの頭がくらりときて、香はつばを飲み込んだ。
 灯りをつけていない暗い室内にこんもりした影が浮かび上がっている。
 キッチンと反対側、乱れたベッドの上には、大きな猫じみた人影が丸くなっていた。周囲には香が洗濯後しまっておいたりそこらに引っかけておいたりした服が、クロワッサンのような形状で積まれている。それからバスタオルが何枚も。見回すと、服をしまっていたはずのプラスチックケースは半開きになっていた。そこから出したのだろうと検討がついた。
 香はそうっと忍び足で近づき、彼を見下ろした。恋人のアイスはベッドの中央に身体を縮めて、香の枕を横抱きに顔をうずめ、すうすうと寝息を立てていた。
 留守中に無言で訪ねて、部屋を散らかして、洗濯物もそうでないものもごちゃまぜにしてベッドで眠りこけているような大胆な――いっそ身勝手ともいえる行動をアイスがするとは思ってはいなかった香は信じられないような気持ちで、しかしどうあっても見逃せないようなフェロモンに納得はする。
 ヒート中だ。しかも重度の。強めの抑制剤を飲んでいるから大丈夫というアイスの言葉を疑いもなく信じ込んでいただけに、香はラットではなしに胸が痛いように思った。
「アイス?」
 部屋の灯りをつけ、急に明るくなった視界にまばたきをして香はアイスのそばに膝をつく。熱を出したように真っ赤にほてっている頬を撫でるとぴくりと身じろぎをする。番同士は相手の気配がわかるというが、まさに香が帰ってきたことに反応したように、ふるりと睫毛が震えた。
……んん……
「マジ、どうしちゃった的な。こんな……
 言葉尻が続かず、いっそう誘惑してくる、むせかえるような匂いに香の鳥肌が立つ。もしαの抑制剤を使用していなければ、我を忘れてしまっていたかもしれない。必死に欲を押さえつけ、香は顔を寄せた。
 とろんと惚けている眼は、寝起きのせいか潤んでいる。ぱちぱちと香を見つめ、ふっと安心しきったように、めったになくとろけそうな笑みをこぼした。
 たまらず唇の端にキスを落とし、さすがにこれ以上のことをするのは気が引けて、香は理性を総動員して顔を上げる。
 アイスが頬に添えられていた香の手に指をからめ、すんと鼻をならす。指を遊ばせるのは好きにさせておいて、香はあらためてベッドの端に腰を下ろした。落ち着こうとすいた髪は汗ではりついていて熱く、病人のようだった。
 それからアイスがここにいるわけを考えた。アイスの兄がわざわざ送ってくれたのか。それともアイスが自力で来たのか。たしかに香の自宅はアイスの家から徒歩圏内だがけっこうな距離がある、番がいればほとんど他人にはわからなくなるとはいえ、ヒート真っ盛りに匂いを振りまきながら来たのだと思うと恐ろしいように思えた。詳しく訊ねようにも、アイスはぼうっとしていて喋りがおぼつかない。正確なところを聞き出すのは後にしようと香はあきらめ、ベッドに散らばる服を見やった。
 思い当たる節はあって、なるべく落ち着いて聞こえるように話しかけてみる。
「さみしくなって巣を作りにきてくれた的な?」
「ん、……香がいないから、パンダの……
「ぬいぐるみ? あげたのけっこう前だと思うんすけど。匂いついてたかー……
 シャツを引っ張るアイスにつられて、香は倒れ込むようにベッドに転がる。シングルベッドは二人で寝ると狭いうえにいまは巣ができている。折り重なるように身体をくっつけると、巣は一部崩れて床に落ちてしまったが、アイスはいちばん欲しいものを手に入れたとばかりに香の胸にしがみついて匂いを探る。いまさらながら、着替えもしていないことに気づいて香は赤面した。
「シャワー浴びてきてもいい?」
「やだ」
「俺、帰ってきたばかりで汗くさい的な」
「いいから」
 アイスが堪えるような深呼吸をして、もぞもぞと動く。こんなに素直に甘えるアイスはめずらしくて離れがたく、香も横向きになってアイスの背中に腕を回すと、香好みの甘いフェロモンが濃くなった。熱が移るようにじわじわと内側に溜まり始めていた欲求が番の誘いに喜んでしまっていて、香はなるべくアイスにそうと気づかれないようにゆっくりと息をする。アイスはヒートのせいで、しかも番がそばにいることで薬すら効きが悪いのか理性がまともに働いていない。後のことを思うと、香までも本能に身を任せるわけにはいかなかった。
「あー……喉がかわく感じ……
 さっき飲んだ抑制剤が効いてきて、胸の中の熱はそのままに猛烈な眠気が襲いかかってくる。もともと香は眠たかったし、アイスもまたヒートの余韻で正気に覚醒しそうもない。きっとこれでいいと、香はアイスを抱きしめたまま夢に身を投じた。