夢篠
2025-06-29 11:10:48
2975文字
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口吸いしないと出られない部屋

両片想いの娘と変な部屋に入れられた山本陣内


ふと気付くと、どこか不思議な空間に立っていた。直前に、何をしていたのか思い出せない。何か、妖術でも使われたのかと辺りを見回すが、そこには引き戸が一つあるだけだった。開けろ、という事なのだろうか。戸の向こうの気配を探るも、そこには誰もいないように感じた。取り敢えず、現状を把握するために、戸を引いてみる。向こう側にはやはり誰もいなかった。が、もうひとつ隣の部屋の戸が見えた。そして向こう側にもうひとつ、引き戸があった。向こう側には、気配がひとつ。それは知っている者の気配だった。

ナマエ!」

引き戸の向こうから困惑顔のナマエが現れたのは私の声と同時だった。私の存在を視認したナマエの唇が明らかに震えたのが見えた。まるで、私がここにいる事に絶望しているかのような。

「ぁ、じ、んない、さま……

蒼白な顔で私から隠れるように視線を逸らすナマエの様子を訝しく思う。彼女の様子がいつもと違うのは明らかだ。いつも見ているから、分かる。彼女は何か、とても怖れているというか、戸惑っている。おかしな空間にいる事に動揺している以上の何かを、彼女は感じている。近寄ろうとしたら、怖れるような悲鳴と共に距離を取られた。何かが、おかしい。いつもと違う、という不安が私の怖れを加速させる。

ナマエ?大丈夫か?」

「ぁ、い、いえ……、その、」

「何かあったのか?」

私の視線から逃れるように顔を背けたナマエに今度は有無を言わせず近寄る。顔を覗き込もうとすると今度こそ本当に拒絶の声と共に肩を押された。何かがおかしい。今まで、ナマエが私にそのような態度を取ったことがなかった。

「っ、何があった?」

胸が痛く高鳴る。好いた娘の異変に私はこれ程までに動揺するのだと思った。私は、ナマエを好いている。

いつからかは覚えていない。それでも彼女の柔らかな笑みを見る度に、心が休まるのを感じた。愛らしい顔が曇るのは見過ごせない。ナマエの頬に手を滑らせる。怖れるように目を閉じたナマエの手の内に握り締める文が見えた。

「これは?」

「あ、だめ……っ!」

ナマエの手の内から文を取る。彼女は取り返そうと手を伸ばしたけれどそれよりも、私がそれを読み取る方が早かった。目を、疑った。

「く、口、吸い……?出られない?」

そこにはたった一言、「口吸いしないと出られない部屋」と書かれていた。混乱著しいのは私もナマエも同じだろう。出られない。口吸いしないと。ナマエと。

「外に出るための戸は、あれか?」

「あ、え、ええ……。そのよう、です……

震える声と指で戸を指差すナマエをその場に留め置いて、戸に近付く。押しても引いても、蹴り上げても、それはビクともしなかった。背後でナマエが不安そうに震えている気配がした。ナマエを気遣うのが先かともう一度彼女に近付く。これがどういう絡繰りかは分からない。だが悪意の気は感じ取れず、敵の妖術の類でもなさそうだ。そうなると、最低な思考なのかも知れないが、もしかしたらこれは、非常な僥倖なのではないか、とちら、と思った。

「大丈夫だ。ナマエは私が護るから。必ず、帰れる」

「じん、ない、さま……

怖々と私に身を寄せるナマエの身体を抱く。彼女の身体が震えている。落ち着かせるようにその背を撫で続けると少しずつ彼女の呼吸がゆっくりとなるのを感じる。ふと、私たちの顔の距離の近さに視線が泳いだ。ナマエの柔らかそうな唇に視線が行くのを抑えられない。

ナマエの事が好きだった。驕りではなくナマエもまた、私の事を好いてくれていると思っていた。だから、これはとても、非常に僥倖なのではないかと。

いまいち、決め手に欠ける関係性だった。想い合っていて、後はそれを言葉にするだけの気もしたけれど、それでいてあと少し、何かが足りない。踏ん切りがつかない。何か決定的な、何かが起きれば或いは。そう思っていた矢先だった。だから僥倖だと思った。

ナマエが持っていたこれは、何処で拾ったんだ?」

「ぁ、え、っと、気付いたら隣の部屋で、手に持っていて、それで、っ」

かあ、と赤くなる頬を隠すように俯くナマエは愛らしい。柔らかい髪に触れて、顔に掛かっていたそれを耳に掛ける。ナマエが怖々と目を瞑るのを良い事に、親指で頬を撫でた。これで想いが通ずるのなら。

「その、良いか?」

自分から、ぞっとするくらい甘い声が出たのが信じられない。試す価値くらいはあるだろう。もしこの部屋を出られたら、これを足掛かりにまた攻め方を変えるだけだ。出られなくても、ナマエと二人きりでいられる時間が伸びたと思おう。

真っ赤な顔のナマエの顎に触れて上向かせる。「じ、んないさま……っ」とぎゅうと目を閉じたナマエの声には涙が混じっていた。……怖がっている。

ため息を吐いた。

「え、ぁ、じ、陣内さま……?」

距離を取った私に怪訝な顔のナマエがいた。もう一度大きくため息を吐いて、それから両手で強く自らの頬を叩いた。大きな音にまた、ナマエが私の名を焦ったように呼んだ。

「陣内さま!?何を……!」

「済まない……

「え、あ、なんの、こと?っひゃ、」

ナマエの手首を掴んで、腕の中に引き入れる。小さな身体を強く抱く。触れ合った所からナマエの胸の鼓動が感じられる。その身体も酷く熱くて、彼女の感情を感じさせた。

「陣内さま……?」

「済まない。……卑怯な私を許してほしい」

「え、どういう、」

「おかしな部屋を口実に、ナマエの気持ちを無視して事を進めようとした。……ナマエの事を、好いているから」

ナマエの肩が揺れる。彼女の髪から覗く耳がとても赤いのが見える。愛おしさが募って彼女を強く抱く。

「好きだ。だから、想いを遂げるためにこんなおかしな絡繰りにも縋った。卑怯な私を許して欲しい」

そろそろと彼女のなだらかな背中を撫でる。ナマエの手が私の背中に回るのを感じた。

「陣内さま、」

背中の装束を握られて、私の胸許に彼女が顔を擦り寄せる。胸許で彼女が何か呟いた。耳を澄ます。胸が引き絞られる。

「わたしも、すき、です……、陣内さまの、こと……

ぎゅうと絞られた胸が痛い。誤魔化すようにナマエを強く抱いた。彼女の顔を覗き込む。恥じ入るような顔を隠そうとするのを引き留める。額同士を合わせて見詰め合う。綺羅綺羅と輝く美しい瞳が私を見ていた。

ナマエ、その、良いか」

……はい、」

触れるだけの口吸いは児戯にも等しい。それなのに胸が掴まれるように苦しい。何度か触れ合わせていたら、出口と思われる戸から音がした。きっと開錠でもされたのだろう。それでもまだ、ここにいたいと思った。きっとナマエも同じだ。私の袖に縋るナマエの指の力は先ほどまでよりももっとずっと、強かった。