つきのせ さぶろく
2025-06-26 18:55:39
2008文字
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After the procession.

【弊社の探索者SS】小野寺烏兎|⏳ ネタバレのないSS


 まるで長い夢を見ていたかのように、意識が急速に浮上していくような感覚で目を開いた。まさに目を覚ましたと表現するべき事象だったが、目覚めとするには少々、いや、かなり異質な状況だ。ここは近所のカフェレストランで、4人掛けの席を家族3人で利用している真っ最中だった。向かいの席で娘が嬉しそうに切り分けられていくフレンチトーストを眺めている。妻がナイフとフォークで柔らかいパンを切り取っている。添えられたバニラアイスがゆっくりゆっくりさらに広がっていた。
「フランスパンなのにこんなにやわやわになるの?」
「そうよ、ミルクとたまごのお風呂にゆーっくり浸かったからね」
「みうもきってみたいよー」
「あら……、じゃあ、お箸の手がナイフで、お椀の方がフォークね。……そうそう、美兎ちゃん上手だよ」
 先の丸いナイフが、慎重にパンの中へ沈んでいく。ゆるゆるとナイフの先が顔を出して、割れた隙間に溶けたアイスが流れ込む。切り取られた小さな一切れはフォークで貫かれて、力無くその命運を受け入れていた。娘の目がいっそう煌めいている。これほどまでに幸せなことがあるだろうか。
「美兎、おいしい?」
「おいし!」
「そうか、よかったなあ」
 少し湯気の減ったコーヒーを啜る。苦味の奥に潜む酸味は、覚えている一部始終を少しだけ引っ張り出してくる。
 この年に何回あるかわからない穏やかな時間が来るたびに、生きなければいけないと安直に思うばかりだ。生きる理由などこのくらい簡単でいいのかもしれない。妻と娘が健在であるためにはこの世界が健全であるべきだが、その健全のために自分を蔑ろにすることはかえって妻子に悪影響だ。全てを投げ打ってでも悪に挑む、というのは立派なことかもしれないが、全てを投げ打つ覚悟などそうできるものでもない。幸せを知っているから、いつまでも恐ろしいのだ。今が失われることが。
 さほど店舗は広くないこのカフェレストランは、比べるのであれば大衆向けに近く、かといってデートで選ぶとしてもある程度格好のつく、そんな場所だ。僕らのような家族連れはもちろん、初々しい二人組や楽しそうな若いグループ、祖母と孫の席だってある。オレンジで目に優しい照明と、漂うコーヒー豆の香りと澄んだ空気のようなピアノの音で、昂っていた神経もきっと安らかになるはずだ。
「ねえ、あなた。……異動したら、少しは時間ができるのかしら」
「そうやね、きっと。上は手放したくない言うかもしれんけども」
「そうよね。美兎も、大きくなったとはいえまだ2年生が終わる頃だもの」
「2年生、か。それでも早いわ、いつのまにかお迎えが要らんようになってなあ。まさに最後とは知らぬ最後が過ぎてゆくってことやね」
 本当に、思い出そうにも思い出せない。最後に美兎を迎えに行ったのはいつだったのだろうか。時は無限の体感を与えるが、その実態は有限である。過ぎてしまった時間は、手に入らなかったワンシーンだと言うのに喪失感をもたらす。そしてこれが、ある種の無力感にもなっていく。
 妻はミルクティーを口に含んだ。横目で見守る娘の頬をナプキンで優しく拭って、アイスのためのスプーンを差し出している。スプーンの銀色が、カフェテラスから差し込む陽光を反射して僕の目を刺すように照らした。
「ぱぱ、どーぞ!」
 銀の匙がふいにこちらへ向けられた。液体に近いバニラアイスが、小さい手によって差し出されているのだ。少し身を乗り出してそれを受け入れると、子供は「おいしいでしょー」とはにかんだ。冷たい甘さがすぐに温かいものに変わっていく。
「おいしいねえ。ありがとう美兎ちゃん」
 時間の喪失は空白だ。その時得られなくても、今改めて得られたのなら、空白には色がつく。溶けるバター、もしくは蒲公英の花びらのような色彩が、親子の空白に温かな記憶を留め置いている。美兎はきっと、この時間を積み重ねてまた大きくなっていくのだろう。それなら僕は、知らないままでいいのだろうか。
「美兎ちゃん、パパあんまり家に帰ってなくてごめんなあ」
「ぱぱおしごとでしょー、ぱぱがいるからみんなあんしん、なの!」
 きゅうっと肌が柔くつねられるような感触。頬の辺りが少しだけ熱い。僕が知っているよりも、娘は成長の階段を登っているらしい。我が娘ながら誇らしささえある。
「そやけど、パパやっぱりママと美兎ちゃんを大事にしたいなあって」
 もはや面映い言葉だ。妻も眉尻を下げて少し笑っている。
 夏の終わり頃から延々と腹の中で渦を巻いていた考えが、ようやく綺麗にまとまったような気がした。仲間よりも何よりも、僕には大切にしたいものがいる。