「組頭。」
「うん。あれ、伊作くんの声だった。」
枝葉を揺らしながら木々の間を縫う。夕暮れの林、所要を済ませた帰りを二人で移動する最中だった。遠く、悲鳴が聞こえたことを確かめ合う。
「寄られますか。」
「悪いね。あの子を送ってくから、お前は戻っていて。明日の昼には戻る。」
は、と応えてもらって、押都と別れる。此処から忍術学園に送るのならば1〜2刻で済みそうな算段はつくが、少し予感があって時間を長く取った。声のした方を探る。
う、う、とくぐもった声が続く。近くなる。まだ鬱蒼とした林で、ふと血の匂いを嗅ぎ取る。近場では領地を取り合う合戦があり、あの子が手当をして回っているのは想像に難くない。きっと怪我人がないかを見回っていて、こっちにきただけだ。
……では、あの悲鳴は?
嫌な想像をして、それを振り払うように足を早める。
そうしてほどなく見つけた伊作くんの声は、大柄の男に組み敷かれて、黒く濡れた地面の真ん中にあった。もう動かない男の背を大事そうに抱いて、ぼうっと宙を見ている。瞬きをした。この子には息がある。
もう白いところが無いくらいに山伏服が赤黒く染まっていて、ざわざわと鳥肌が立つ。人の死なんて数えられないほど通り過ぎていったのに、咄嗟の声がけが喉から出ないほどに心が冷えていく。
わざと足音を立てながら近寄ると、伊作くんの視線がこちらに向いて、あ、ざっと、さん、あの、と、ぽろぽろ言葉が出てきた。話せる、意思疎通がある、そのことにひどく安心して、すぐにめらめらと怒りが湧いてきた。
蹴り飛ばしたい気持ちを抑えて、伊作くんの上に重なった男を掴み上げる。だらんと生気のない身体を横に転がすと、その男はざっくりと胸下が縦に切れて、はらわたがずるずるとはみ出していた。袴は半分脱げて陰部も出ていて、性的に襲おうとしたのだろうということが改めてわかる。
「
……今しがた、逝きました。」
伊作くんへ目をやると、仰向けで身体を伸ばしたまま、衿合わせを正しているところだった。
あっさり言ったような声を出しているけれど手が震えていて、これは、どういう状態なのか読みにくい。
この子が殺したのか?
死にかけの男に覆い被さられたのか?
「怪我ないの。」
どちらか読みあぐねたまま、伊作くんに話しかける。
「僕は、平気なんですが、
……このままだと門で、小松田さんが腰抜かしそう
……」
途切れがちに言いながら半身を起こして立ち上がろうとする伊作くんは、支えについた腕が脱力して、地面に転がり直しただけになった。
「
……今はお前が、腰抜けてるね。」
「そう、みたいです
……」
少しほっとした顔になったのを見て、此方も気が抜ける。
「その山伏服、これだけ汚れてはもう誤魔化しが効かないよ。うちにある服をあげるから、私邸に行こう。」
「すみません、助かります」
近くには笈が置かれていて、突然襲われたというよりは、治療のために近付いてこうなったのだろうとわかる。
「笈のほかには荷物ないの?」
「はい。」
笈は左肩に引っ掛けて、伊作くんを横抱きに抱え上げる。
「汚れちゃいます
……」
申し訳なさそうに言いながら、深く息を吐いて伊作くんは私の胸に横顔を擦り寄せた。
「良いんだよ。」
何の問題もない。
今更だもの。
*
陽も落ち切って、目的地近くへ着く頃には林は暗闇に包まれていた。
私邸を拠点に桂男の術がてら生活しているタソガレドキ忍軍OBの二人が、庭先に入った途端に殺気を向けてきて嬉しくなる。OBといえど何も衰えていない。大袈裟に砂利を踏み鳴らして、灯明を向けさせる。
「昆。それにイサクくんか。」
「お湯、空いてる?」
ああ、と頷いて、灯明皿を片手に先導してくれる。離れの湯治場までの飛び石がゆらめく炎に照らされて、ほっと、もう一つ気が抜ける。
「イサクくん、どうしたの。その出血は彼のもの?」
湯治場、脱衣所の灯明を点けながら問う声に、ふっと笑いが込み上げてくる。うら若い名医を、稚い顔を、心配そうに探る声だ。
「息子のことを話すときみたいな声だ。」
「揶揄わないの。でも大丈夫なんだね。」
腕の中で伊作くんは、疲れた様子で眠っていた。まだ血の通ったはらわたを、彼は戻そうとしたのか、引き出したのか。どちらにせよ、血の海に浸って肌も髪もべったりと脂じみている。
脱衣所を通り抜けて、浴室へ入る。灯明を置いてもらって、暗がりがゆらめく光に照らされる。ここまでついてくれたOBは、ふう、と小さく息を吐いて湯治場を出て行った。
偶然に湧いた温泉を引いた湯治場。泉質を気に入って整えたここは、いつも湯気と水音に満ちている。湯船から溢れたお湯は玉砂利で固めたすのこ敷の床に流れて、側溝を伝って小川へ向かう。
爛れやかぶれ、乾燥、皮膚の弱った時に効く、少し沁みる塩気を含んだ掛け流しの源泉。薪で沸かし直さなくても、すぐに浸かれることも気に入っていた。OBたちも、半分は此処での湯治のために住まわせている。
すのこに伊作くんを降ろして汚れた服を脱がしにかかる。頭巾を外すとまだ滴るほど血液を含んでいて、白木のすのこが赤黒く染みてゆく。腰紐を解こうとして、ふっと瞼が開く。
「ごめん、脱がせるよ。」
どこか不安そうに表情が曇って、俯く。左腕を下に、横向きに身体を捩る。手に力が入らないようで、腰紐へ伊作くんは手を伸ばしたけれど脱ぎ始めない。
腰紐の結び目は出鱈目な固結びで、少し難儀してそれを解いた。前を開くと、中は裸だった。
気にしていない風を装って、首裏に腕を差し入れて、さっさと袖から腕を抜かせる。手甲を外す。脚絆を外す。棒手裏剣がちゃりちゃりと落ちた。草鞋を解く。
裸にした伊作くんの鳩尾が、まだ赤黒い痣になっているのが見える。手桶で足先からお湯をかける。
一杯。
二杯。
「雑渡さん」
視線を、声のした方に上げる。
「あなたも、血だらけでしょう。一緒に湯治をしましょう。」
力なく、疲れた顔で微笑んでいる。
この子を抱えてきて、もちろんタソガレドキ忍服も血だらけだ。けれど先ずは伊作くんを血みどろの感触から解放したくて、OBに頼むでもなく、無心で着衣を剥いてしまった。
そのことに気がついて、溜め息が出る、次いで笑ってしまう。
「そうだね。私も入ろうかな。見苦しいけど、大目に見てくれる?」
「肌の具合を、看ましょう
……」
伊作くんが半身を起こす。私はその場に尻をついて、足を右に揃えて崩した。
顔が近くなって、ふと饐えた臭いを感じる。酸味、腐敗感に似た、胸にくるにおい
……
「お前、戻した?」
「僕は吐いてません。」
僕は
……。はあ、と溜め息をついて、手桶で頭からお湯を1杯被せる。ざばーっとお湯が髪をくぐる。すのこを流れゆく湯色は茶けている。
「あの男に吐かれて、頭から被ったってこと?」
伊作くんはされるままお湯を被って、目元や口を手で撫で洗い、水気を払う。
「押し倒されて、口を吸われて、その最中です。」
「最低すぎる
……。飲んでそうだし、お前も吐いておいたら。感染症になりそう。」
「出るかなあ。ここって固形物も流していいんですか?」
浴室の奥を指さす。すのこが終わった先の側溝は外に出ていて、そこを示す。
「ちょっと吐くくらいならそこにいいよ。」
「じゃあ、失礼します。」
真っ裸のままふらっと立ち上がった伊作くんは、引き込んでいる温泉のさら湯を両手に受けてごくごくと飲み、浴室の奥に行って一頻り吐いた。すんなりしていて上手い。口を濯いで、一息つく。手慣れている。
それを眺めながら、私は忍服を脱いでゆく。頭巾を取り、袴の後ろ紐と前紐を解き、上衣を脱ぐ。
戻ってきた伊作くんが洟を垂らしているので、手桶にお湯を汲む。
「洟かみな。手鼻して。」
言われるまま鼻をかんだ伊作くんの手を、すのこの外に示す。手桶のお湯をかけてやる。両手を擦り合わせて、お湯が流れ落ちてゆく。
「落ち着いてきました。桶、貸してください。」
どうぞ、と渡す。視線も手元もはっきりしている。落ち着くのが早い。学舎の集団生活ならばもっと優しい性格に育っているかと思っていたけれど、なかなか肝が据わっている。
伊作くんは頭からお湯を被って、後頭部を丁寧に手櫛で梳いていく。それを眺めながら、私は自分の着衣を取り払い、包帯を解いてゆく。腕も、脚も、胸も、頭も。褌も解いて裸になる。伊作くんを伝わって染み込んだ血液が、ぺたぺたと肌に残っている。
「背中、流します。」
手桶で私にお湯をかけてくれる。うなじから背中に。右肩から右胸に。左肩から左胸に。鳩尾から下腹部に。お湯が身体に行き渡るようにかけてもらう。私はそこを摩りながら、不快感を流し落としてゆく。
「ありがとう。」
ふと視線を上げると、伊作くんの視線は私の横顔を観察していたようで、すぐに目が合った。
「お湯、浸かろうか。」
「あ、ええと
……」
ひとつ言い淀んだが、ふっと表情を緩めて続ける。
「雑渡さん、浸かってください。僕は流すだけで大丈夫です。」
伊作くんの手が不安げに下腹部に当てられているのに、私はこれをあまり気にしなかった。
「一緒に湯治を、って、お前が言ったでしょ。」
伊作くんは顔色を曇らせて、手桶に並々のお湯を汲み、浴室の隅へじりじり後ずさる。
ぶちゅ、と濡れ音がして
「あ、 わ、あ、あの、あっち、向い」
言い切らず、とぽっと太腿に、ふくらはぎに、ほとんど落下する速度で液が流れ落ちる。へたっとしゃがみ込む伊作くんは、青い顔で肩から背中側に手桶のお湯を流し掛ける。
今流れ落ちたものが揺蕩って、側溝へ流れてゆく。何かに例えるなら半熟卵の白身で、気が重くなる。
「おいで。」
「あの、ごめ ごめんなさい、お風呂で、僕、あの
……」
「そこも洗おう。見せてごらん。」
聞こえなかったのかも、と感じるような沈黙で、伊作くんは固まっている。手を伸ばして、伊作くんの左手首を掴む。優しく引っ張ると、膝でよたよたとこちらに歩いてくれる。
「ぼ、 く、あの、今、よごれ、あっ」
ぐるぐる混乱した様子で言葉を選んでいる。
「あの人の、あの、そ、走馬灯が、お小姓さ 、だっ、 た、みた、いで
……」
瞳が揺れている。
「あの、 おなか、 もう」
唇がふやっと歪む。
「もう、縫っても
……」
きゅっと鼻先に皺が集まる。
「間に あわな
……」
掴んだ左手首をぐっと引き寄せる。胸元にべちゃっと伊作くんが頽れて、その身体を両腕に抱く。
「あれだけ大きく切れてたら、どんな名医でも間に合わないよ。」
手桶でお湯を汲んでは、伊作くんの背に、腰に、流し掛ける。
「だから、お前が気に病むことじゃない。」
伊作くんは私の胸板におでこをつけて、苦しそうに呼吸している。
「お前ねぇ
……」
もう一杯、流し掛ける。
「減っちゃうよ。」
応えない。
「減って、無くなっちゃう。無くなったら死んでしまう。涙も、汁も、胃液も、もとは血だよ。」
「
……血
……?」
反応されて、少し可笑しくなってしまう。この子は、こんなに思い詰めて苦しんでいても、生命の知見には鋼を寄せた磁石のように惹かれてしまう。
「身体から出る液体はみんな血が元になってるんだよ。お前は与え過ぎているし、もらわなすぎる。」
顔をゆっくり上げて、私と間近に目が合う。
「お前、目方はどのくらい?」
「15貫くらいです。」
暗算する。
「なら、1升も失うとお前は死ぬ。
思ったより、少ないでしょ。」
沈黙が流れる。いっしょう、と、伊作くんの唇が動く。
「血を抜きながら脈を見て、確認した。大きい桶を置いて、
……思ったよりすぐ死んでしまうんだ、人って。」
「でも、
……僕は、差し伸べたい、今痛んでいる人に、今喪われる人に、僕は
……」
これは、信念だ。言葉が完成していないだけで、この子が頑なになるだけの何かがある。
ただ、こんなに頑なになると思わなかった。私が初めて救われた日、死んでいる者も確かに居たのに今よりもずっと落ち着いていた。助かる者のなかで外傷の大きく見える者からせっせと世話していた。
死がそこに迫る瀬戸際、「負傷者」であるのみを理由に手を延べる姿は誇張なく菩薩だった。
気力を取り戻した兵士が刀を取れば、ここが一番の死地になる、そんな場所で
この子は疑いを一糸と纏わず、浄らかに微笑んでいた。
矛盾している。
私も、この子も。
「痛んでいて救える人ならまだいいよ。でも喪われていく人は、返してはくれない。与えるばかりではお前が減るよという話。」
「あの、ごめんなさ
……」
不意に、怯えた声色になる。私は怒ったつもりも叱ったつもりも無い。
違和感の端っこを掴んだ気がした。この子は、人を尊敬しない訳じゃない。愛情もある。優しさもある。勇気もある。ただ、大きく穴が空いたところがあって、それは丸でも四角でもなく、グニャグニャに歪んでいる。
「お前、何に謝っているの?」
「
……ぼ、くは
ものわかり、悪くて
選ばれないと、だめで
その ために あげないと」
揺れている。何か心理的な傷がある。この子の生傷が、歪んだ穴がそこにある。
「何を、あげるのかな」
あ、と小さく声を出して、私の胸に伊作くんがおでこをつける。伊作くんの手が、肋骨へ、脇腹へ、骨盤へ降りてゆく。
手首を掴んで、止めさせた。
「何を
……」
「あの、使って、ください。僕、減らない丈夫な 穴 な ので
……」
ぐっと引き寄せて強く抱き締めた。
穴
……
強く見えていたけれど違う。そういうふうに振る舞っている。この子の健康を思うなら、忍なんて、忍術学園なんて向いてない。房中術を知りたいなんて言われた時は何かと思ったし、指南した日は随分色に向いている子だと思ったが、本当は傷付いていた。
色は向き不向きがある。ある程度素直に生きられる人格なら、向いていなければ嫌悪感を示せる。無理だと判断できる。好ましければ「したい」と判断するし、嫌なら「したくない」と示せる。
素直に生きられない人格だと難しい。色は、それだけなら致命的な外傷にはなりにくい。動物的な本能で、普通の交際相手同士なら血が出れば中断する。
ただ、擦り切れる程度で見えないところが傷むことはある。何より尊厳に関わってくる。それを我慢できてしまう。「我慢できた」という成功体験を誤解して、深みに嵌ってゆく。
「上下関係」や「金銭関係」があると厄介で、目的があって手段としているのなら自分に軸を持たなければいけない。生活や報酬を対価にされて、相手に優位に握られてしまうと、「仕方なく」「我慢して」「提供」することになる。
教員とはしないようなことを言っていた。
正しい判断だと思う。教員の贔屓、なあなあの判断、子供たちの未熟な恋心に備えたものだろう。タソガレドキでも色事を指南する時に搾取とならない格好であることを指示している。監督をつける場合もあるし、隊で「その日」を握る。
先輩で、悪いように伊作くんを使っている者がいる?今は最高学年だから、OB?
でなければ、友人、兄弟、
親
……?保護者?
「使わないよ。私はそれ、欲しくない。」
緩めた腕の中を覗く。顔を上げた伊作くんの瞳が、ぷっと涙で満ちて、ころっと雫を溢す。
ぐっと抱き上げて、湯船に入る。掛け湯をたくさんしたから、二人入っても然程あふれなかった。
伊作くんはおとなしく一緒に浸かってくれたけれど、ぼうっとして心がここにない様子で、されるまま静かにしている。長方形の湯船に向き合う格好で、足を対角線に伸ばす。
「
……僕、
……あんまり、魅力 ないでしょうか
……」
「あるよ。優しくて、人懐っこくて、よく相手を見ている。」
揺れる湯面をじっと見ている。屈折して歪む灯明一つのあかりの元で、私の身体を観察している。
「でも、前も、抱いてもらえませんでした。今だって
……」
「私が異性愛しか考えない男かも、ということは考えないの?」
伊作くんは俯いている。
「お寺では、
……女性にうつつを抜かしてはいけないと習いましたし、忍は、三禁がありますし、
……妻帯の方でも、陰間を呼ぶとか、小姓を連れてるとか、普通です。」
ポツポツ真面目に話す伊作くんはさっきよりも落ち着いて見えた。学園ではなくて、寺での教育?この子は苗字に寺が入っているし、孤児なのか?学生だから、学びの延長で寺を訪問することもあるだろうか。
「同級生もみんなそうしている?」
「
……いいえ
……」
色は選択できるものの認識はあるようだ。それで尚、相手の機嫌を取るために閨を捧げなければいけないという、思い込みがある。自分に損失があったとしても、病人、怪我人を救いたいという想いと
……同じ強度でその考えがあるように見える。
「腹が切れたあの人を、穏やかに見送りたかった?」
「はい。熱い、もう死ぬ、お前は長く生きろと、ずっとうなされていました。」
はっきりと言いながら、膝を抱えて、伊作くんは湯面を見つめている。湯面はとぽとぽと絶え間なく流れ落ちるさら湯に、小さく波立っている。灯明の炎が細波を暖色にきらめかせている。
「そうして僕の服をむしりながら引き倒されたので、僕は温かい内臓が垂れ出てくるのを戻しながら、旦那様、と呼びました。」
ぼうっと目を細めて、湯面に手のひらを出して観察している。
「救うことは、いけないことでしょうか?」
「お前が、切り売りしてまですることでないと思う。この世には、淘汰だってあるんだよ。」
む
……と言い淀んで、不機嫌なツリ目を私に向ける。
「救う力がある者が救わなければ
……」
「
……私はあの日、手を延べるべき可哀想な存在だった?」
ひどく傷付いた表情がほんの一瞬見えた。
「
……傷は膿んで熱感もあって、状態が悪かった。」
「そうだね。合戦場で、怪我が悪化して何日目だったか、
……熱病になると予感した。」
「だから
……」
「救うと、お前はどうなるの?」
ぱちっと瞬いて、私の目を見て伊作くんが硬直する。
「費用をかけて、手をかけて、お前は何を得ているの?」
学びと言ってくれ。
「得るためにしていません。僕は救いたいから救っているんです。」
眩暈がした。
そうしてこの子はそれが正しいと、本当に信じている。
人が人を救うには、救う者の方に根本的な余裕が要る。
みそっかすの貧乏学生が時間と身体をどうして捧げようと思うのか。社会の中にある相対的な自分をわかっていない。守られる立場であると気付いていない。
救うことを
捧げることを
それが義務で責務だと、信じ込んでいる。
不運と自分で口にするが、周りに言われたからだ。だからふわふわしている。おまじないみたいなものだ。きっとそう思っていない。自分を“与える側”だと信じている。
だから
……、与えようとする。
不運と自己評価しながら、与える限度に気付かない。
そのうち奪われ始めても、気付かない。
「伊作くん。」
医療者は、報酬が無いとき、どんな心算で血に向き合うのだろう。金創を診るのは僧侶や寺社の出自のものが多い。穢れへ向き合う根本があるのだと思っているが、信仰だけで破綻なく継続できるものだろうか。寺社という後ろ盾があり、信仰で得た資金があればいい。
この子は、個人に「信仰」されるつもりでいるのだろうか。そうは見えない。
出来ることを「やらない」ということが後ろ髪を引くのもわかりはする。
今目の前で崖から転げ落ちそうな人がいたら、咄嗟に手を延べるだろう。見逃せば、「見殺しにした」と感じる場合もあるだろう。
「まぐわう、ってどう書くか知ってる?」
「目が、合う、です。」
だからと言って、成人の男が機嫌を損ねていたら身体を捧げるのは違う。
性欲なんて放っておいたって死なない。
陰部をいじくり回すのを諦めたって「見殺し」にはならない。
では、死の間際、愛する小姓と見間違えられて押し倒されたとして
身体を開くのは、救いなのか?
断ることで、「見殺しにした」気持ちになるだろうか?
どうしてそんなに、自分を与えようとするのか、
この子の思考が、まだわからない。
「解剖したことある?」
「人体は、ありません。」
落ち着いて答えている。私の瞳を見ている。もう興味を持っている。
「特別に薄いなと思った皮の話を教えてあげる。一番薄い皮。血と外界を隔たるはざま。」
無意識か、少し身を乗り出している。
「目だよ。まぶたも、目玉も、相当薄い。」
「目
……、あっ」
もう私の言わんとしていることを、きっと想像している。
「命のある肉体を、物理的には血の詰まった袋だと思っていた頃があってね。ヒトとか家畜とか関係なく。それと同時に、どうしたら的確にことを進められるかというのにこだわっていて、解剖をしたことがあって。」
きらっと瞳に炎が映る。
「きっと視線を合わせることからきているけど、性的に交わることを、人体の一番薄い場所を合わせると表すの、私はすごく面白いなと思った。」
「
……はい。面白いです。僕もそう思う
……」
もっと聞きたい、と表情が語っている。いつもの調子だ。私も気が弛む。
「2番目に薄いと思ったのは、舌かな。」
「内蔵ではないんですか?」
「私もそう思った。でも胃も腸もかなりしっかりしてるんだよ。水分が多くて傷付きやすくはあるんだけど。」
ぺろっと舌を出す伊作くんを見て、つい笑ってしまう。
「見たいの?」
つっと舌を出して見せる。伊作くんはすぐに身体を寄せてきて、間近に私の舌を観察する。標準より長い舌。上背もある分、この子が知っている人体より私は何もかも大きいだろう。
真剣に見つめられる。この子のこういう所が、面白いと本当に思う。
「触っていいよ。」
「いいんですか?」
明るく問い返しながら、私がもう一度舌を出すとすぐに触り始める。ざらざらの表面を撫でて、舌の淵をなぞる。裏側を見ようとめくる仕草をするので、見せる。
だんだん可笑しくなってくる。舌を見せるのを中断して笑い出すと、伊作くんはきょとんとしてしまう。
こんなに訳がわからないのに、私はこの子がどうしようもなく光って見える。小さな灯明の炎を吸って、薄暗い浴室の闇を、やわらかな月夜のように照らしてしまう。
「あの、」
「ふっ、
……なに?もっと触る?」
「僕の目に、舌を当ててみたくて」
何を言われた?と、停止してしまう。舌を
……目に?
「目玉を舐めてほしい、ってこと?」
伊作くんは控えめに頷く。自分のちょっとした傷を自分で舐めることはあるが、目玉を他人が舐めるのはいいことなのか?砂粒ひとつ入ったって赤くなったり沁みたりするのに。
少し答えるのを溜めてみたものの、伊作くんは私の答えを待っている。
「
……そう、です。」
可笑しい。
面白い。
顔が笑ってしまう。
「
……いいよ。」
伊作くんは本当に嬉しそうに、目元を細めて表情を綻ばせる。
「いいんですか?本当に?」
「変な子だね、お前。ほんとにそう思うよ。」
さら湯の引き入れ口に顔を寄せる。滴る温泉を口で受けて濯ぐ。湯船の外に吐き出す。塩味が、舌の両端にじんわり滲む。
湯船の底に座り直す。私の左脚を伊作くんは膝立ちで跨ぐ。右手で、伊作くんの左頬に触れる。顎の骨格はしっかりしているが、まだ細い。
頭蓋骨の全体像も、骨がまだ柔らかいんじゃないかと錯覚する。皮膚が柔らかくて薄い。肌理が、細かい。
産まれてまだ十年と少し、と、思ってしまう。村の子供達が育つのと重ねてしまう。自分の子や孫を愛おしそうに眺める部下、OBたち。この子がモチャモチャした赤ん坊だった姿も、ありありと思い浮かぶ。
「軽く、目を閉じて。」
「はい
……」
伊作くんの両手は湯船の縁に添えられている。それを、私の首筋に導く。目を閉じたまま距離感が伝わるように、触れさせる。
伊作くんの左瞼に唇を当てる。微かな反応があるが、構わずに舌を出す。睫毛がぴんとしていて、舌先にぷつぷつする。目頭から目尻に向けてなぞる。目頭から、目尻へ、つろっと舌先で、もう一度。もう一度。
舐められることに慣れたようで、薄く瞼が開く。睫毛を眼球側に押し込んでしまわないように、白目の位置を想像して舌先を押し当てる。
ぽんと丸く圧のある質感。こわごわ瞼が開いてゆく。目尻側を下から上に舐め上げる。
「
……ん、ぅ
……」
伊作くんの呼吸が、少し乱れる。
ほんのり塩気がして舌先が潤む。涙の味がする。引っ込めずに、まだ舐める。私の首筋に添えられた伊作くんの手が、指先が、わずかに強張る。
「まなこ の
……まんなかも」
乱れた息で言葉を途切れさせながら、伊作くんがねだる。瞼の縁が、時折震える。私は答えずに、右手親指を伊作くんの左目の下に伸ばして、下瞼が閉じられないようにおさえる。
湯面に沈めていた左腕をじゃぶっと上げて、伊作くんの頭を捉える。滴る音が、湯が、私の左腕から伊作くんの首へ、肩へ流れ落ちる。
後頭部から回した左腕で囲って、手は伊作くんの眉へ伸ばす。しっかり抱いて、上瞼も中指で開かせる。黒目を塞ぐように、舌を平たく当てる。
私で塞がれた伊作くんは、腕の中で固まって、細く息をしている。そこに集中して、ひとつの悲鳴も上げず、初めての感触を確かめている。
「な めて、
……こすって、くだ さ」
舐め上げて、舌裏を当てた。裏筋で下睫毛を撫で付けた。涙の味がする。舌表を平たく使ってまた舐め上げる。裏面でくすぐる。三度ほど繰り返して、舌も右手も左手もそっと離す。腕を緩めて伊作くんの顔を見ると、ゆっくりまばたきを繰り返して、宙を見ていた。
右目は涙で濡れそぼって、右頬にはいくつもの筋がきらめいている。
私に吸われてこぼれなかった左目の涙が、ようやく伊作くんの左頬に伝う。
安心した、と、言葉に出さなくてもわかるくらい、
伊作くんは穏やかな表情で微笑んだ。
「感触、確認できた?」
「はい
……」
ぽうっとして、伊作くんの浮いていた腰が私の太腿に降りる。その感触に視線が行って、湯中のゆらめきに伊作くんの勃起が見える。
「伊作くんは、もう少し髪を流しておいで。私は脱いだ服を片付けるよ。」
「雑渡さん。」
遮るように言うので、伊作くんの目を見る。なんだろう、と様子を見る。ぺろ、と舌を見せて、しまって、
「舌、見せてください。」
また変なおねだりをする。
「あんまり長湯すると、のぼせちゃうよ。」
答えて、べっと舌を見せる。
私のその舌の表面を、とろっと柔らかな伊作くんの舌が舐め上げた。
「
……何。」
不意打ちに驚いた感情と、今度は何を考えてこんなことをしたのかと不思議な気持ちで問う。
「僕の、一番と、二番に薄いところ、どんなでしたか?」
……物理的な興味?
私の気を惹こうとしている?
何も考えていない?
「どうもしないよ。丸いのと柔らかいの。」
伊作くんを太腿の上から押し退けて立ち上がる。お互いに真っ裸でいるのには慣れたけれど、流石に勃起してしまった伊作くんはその状態で追ってこないだろう。
脱衣所からタライを一つとってきて、衣類を一つずつ絞ってそこに放り込んでゆく。
作業を眺める伊作くんは、まだぽうっとしている。ただ、男の血を被って呆然としていた林での表情ではなく、穏やかで眠たげな様子だ。
すのこに放っていた服を一通り絞って、タライがいっぱいになる。私の服と伊作くんの服が詰まったそれを脱衣所に置く。
「着るものと拭くもの出しておくよ。ちゃんと身繕いして出ておいで。」
「何から何まで
……、すみません。」
月明かりの注ぐ浴室で、濡れ髪を垂らして、伊作くんが私を見ている。
救護所で会った時とも、日頃の医務室の顔とも違う、うっとりと甘い微笑み。
「いいんだよ。」
今更だもの。
浴室を出て、引き戸を閉める。脱衣所で水分を拭き、長着を羽織る。腰紐を結く。
あの子に貸す服は、なるべく優しい色がいい。
灯明の灯りの中で、「桜鼠色」と言われて買った長着を取る。
手拭いを何枚かとって、籠に長着と帯と合わせて入れておく。気兼ねなく身繕いできるよう、脱衣所を出た。
あの子が出てきたら、髪を拭いてやって、学園まで月明かりを散歩がてら送ろう。
欲しいけれど、まだ、元の場所に戻しておこう。
もっと実って、もっと学んで、もっと自覚しておいで。
透明で掴めないまま、私を灼き尽くす
気取らない綺羅星。