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to be your blessing

終止符事務所のヒースクリフがシンクレアと一緒にホンルの誕生日をお祝いする話です。


 
 
 事務所に戻った頃、窓の外には淡いオレンジ色が滲み、長く伸びた影が床を這っていた。
 ヒースクリフはホンルの部屋の前で立ち止まり、深く息を吸い込む。
……代表、いるか?」
 扉をノックするのもこんなふうに正面から呼びかけるのも嫌に緊張した。それでも意を決して声をかける。すると慣れ親しんだ間延びした声色で「いますよ」という返事が聞こえてきた。
 ヒースクリフは覚悟を決めて扉を押し開ける。窓辺の机に向かっていたホンルが手元から顔を上げてこちらを見た。
「どうかしましたか?」
「あー……その、何だ。ちょっとだけ付き合っちゃくれねえか」
 ぎこちなくしどろもどろな言い回しにホンルは首をかしげた。何の話だろうと色違いの双眸が問いかけてくる。
 ヒースクリフはちらりと後ろを振り返り、少し遅れて入ってきたシンクレアを一瞥すると。それから少し間を置いて、右手に持った箱をホンルの目の前に掲げた。
「オレ、こういうのよくわかんねえし、アンタが喜ぶかどうかも知らねえけど……
「ちょっと、自分でハードル上げてどうするんですか!」
 すかさずシンクレアが慌てて口を挟んだ。弁明しようにも言葉が出てこない。
 ホンルは未だに要領を得ないのか、きょとんとした顔のままヒースクリフから箱を受け取った。そっと蓋を開けた瞬間、美しい色をした二つの瞳にぱっと光が灯る。
「あ……
 箱の中から顔を出したのは苺とブルーベリーが飾られたロールケーキだった。素朴ながらも、丁寧にチョコレートの細工があしらわれている。それがホンルにとって感銘に値する見目であるかは分からなかったが、ホンルは少しの間箱の中身に釘付けになっていた。
 ヒースクリフはシンクレアの肩に手を置き、短く言う。
「誕生日って聞いたから、コイツと用意したんだ。一緒に食おうぜ」
 その言葉にホンルがぱっと顔を上げる。その頬がふわりと色づいたのをヒースクリフは見逃さなかった。
……僕のために、準備してくれたんですか?」
 ホンルの視線がふたりをゆっくりと行き来し、僅かに目が細められる。綻んだ口元はさまざまな言葉を紡ごうとしていたが、そのどれもが声になることはなかった。
「どうぞ、こっちに座ってください」
 シンクレアがにこにこと誘導するようにホンルの腕を取って、事務室の一角へと歩き出す。彼はあらかじめ取り分けるための皿やナイフ、カトラリーを机の上に用意していたらしい。
 ホンルはテーブルの上にケーキ箱を置き、カウチに腰かけた。その間ヒースクリフがケーキナイフを取り、シンクレアに見守られながら慎重にロールケーキを切り分けていく。その様子をホンルは頬杖をついて見つめ、小さく息をこぼした。
 ぽつりと落ちたその音にヒースクリフとシンクレアが同時に顔を上げる。その表情を見た途端、ヒースクリフはこの後言おうと決めていた言葉を飲み込んだ。ちゃんと喜んでくれたかどうかなど訊くまでもないと分かったからだ。
「代表、嬉しそうですね」
「当たり前じゃないですか」
 シンクレアがからかうように笑うと、ホンルは目を伏せて言う。
「僕の大好きな人たちが僕をお祝いしてくれているんですから。こんなに嬉しいことはありませんよ」
 そう言ってホンルは小さく息をついた。真っ直ぐな言葉が何よりも嬉しいはずなのに、ヒースクリフは気恥ずかしさと安堵で口元が緩みそうになるのを堪えている。良かったですね、とシンクレアがヒースクリフを見やった。
 ホンルは切り分けられたケーキを一口頬張って、満足気に咀嚼する。シンクレアとヒースクリフもまたそれぞれケーキを口に運び、お互いの顔を見て顔を綻ばせた。


     ◆


 事務所の照明は夜の深さに合わせて落とされている。背もたれに体を預けながらくすくすと肩を震わせるホンルに対して、ヒースクリフは声を張り上げる。 
「畜生、もういいだろ!」
「ふふっ」
 テーブルの上には空いたグラスとワインボトルが一本。せっかくならとホンルによって持ち込まれたそれらは舌の上で転がすだけでは勿体無いほど芳醇で、雑味のない素直な甘味をしていた。
 おかげで早々に酔いが回ったシンクレアは机に突っ伏して寝息を立てている。身じろぎした拍子に肩からずり落ちたブランケットを、ホンルが拾い上げた。
「クソ……酒が入った途端何もかもくっちゃべりやがって」
「気を許してくれてるんですよ。そっとしてあげてください」
 ホンルはそっと、落ちたブランケットをシンクレアの背にかけ直した。彼の手の動きにはどこか慈しむような優しさがある。
 テーブルのワインボトルに手を伸ばしたのはヒースクリフだった。濃緑色のそれをホンルの近くに掲げ、顎をくいと持ち上げる。
……ん」
「ふふ、もう一杯付き合ってくれるんですか?」
 ホンルは空になったグラスをヒースクリフに向けた。少しずつ注がれていくワインをぼんやりと眺め、柔らかく目を細める。
「僕がこの事務所を立ち上げたとき」
 手渡されたグラスを指で揺らしながら、ホンルはぽつりと語り出した。
「これが最後だって気持ちで始めたんです。期を逃したら、僕はきっと心を埋めたまま水底を漂うだけの生涯を過ごすだろうから」
 ワインの赤がグラスの内側をゆっくりと伝う。それはまるで、時の流れそのものを映しているようだった。
「それでも……一度でいいから、世の中の仕組みに流されるまま生きるのではなく、流れを利用して生きてみたかった」
 ホンルの声にはどこか昔日の澱のような重さがあった。それでもそれを軽やかに語れるのは今隣にいる人たちのおかげなのだと、ホンルは知っている。
「僕の手で守れる人がいると分かっただけで幸せだったんです。それ以上を求めたことなど無かったのに……あなたたちはこうして、僕の一世一代の選択が間違いでなかったと伝えてくれました」
 語り口が少しずつほつれ、話の順番も論理も崩れ始めている。それでもヒースクリフが口を挟まなかったのは、ホンルが自分の身の上を話すことなど滅多に無いと知っていたからだった。
「つまるところ、僕はあなたたちとあなたたちの居場所を守るためなら何だってできてしまうんです。……凄いと思いませんか?」
「珍しくお喋りだな。酔いが回ったか?」
「あはは」
 何が可笑しいのか、ホンルは誤魔化すように笑って見せる。だがそれが本心であると伝えるように、ホンルの双眸が真っ直ぐにヒースクリフを捉えた。
「あなたが勇気を出してくれたように、僕もあなたに話さなくてはと思ったんですよ」
……そうか」
 ホンルが向けたのはヒースクリフへの最大限の誠意と、感謝の表れだった。その多幸に満ちた優しい眼差しを向けられて初めて、ヒースクリフは何かが報われたと感じられた。
 ヒースクリフはしばらく口を付けていなかったグラスの中身を呷る。肩越しに視線を向けた先でシンクレアがわずかに身じろぎした。
「おふたりとも、なに話してるんですかぁ?」
 眠たげな目をこすりながら、シンクレアはもぞもぞと起き上がる。
「あーあ、起きちまった」
 目の前の人がくすりと笑って、隣の誰かがまた眠たいと呟いて。きっとそれが今ヒースクリフが持ち合わせる幸せの形だった。思わず笑みがこぼれたヒースクリフの顔をホンルが覗き込み、目尻を柔らかく下げる。
「シンクレア、こっちへ来てください」
「んー、なんですかぁ代表」
 シンクレアは言われるがままにホンルの右隣に座る。ヒースクリフが小さく息を吐くと、ホンルがこちらへすっと手を伸ばした。
「あなたもです。ヒースクリフ」
「お、オレもかよ」
 そう言いながらも呼びかけに応じて席を詰めると、ホンルはそっと二人の肩を寄せる。んぶ、という間抜けな声がシンクレアの口から漏れ出たことで、ホンルはふたたび顔をほころばせた。
 よく聞いてください。ホンルは二人の耳元でそっと呟く。
「愛していますよ。二人とも、僕についてきてくれてありがとう」
 その言葉に照れも衒いもない。ただ、心からのまっすぐな感謝がそこにあった。