Public 🚌
 

to be your blessing

終止符事務所のヒースクリフがシンクレアと一緒にホンルの誕生日をお祝いする話です。

 
 
 時刻は午後二時。閑古鳥が鳴く事務所の中、一人銃弾の勘定をしていたヒースクリフに声が掛かった。
 欠伸を噛みしめながら振り返れば、にこやかに手を振るホンルの姿がある。彼の背後から覗く人影に目を向ければ、気まずそうに俯きながらもこちらを窺うシンクレアと目が合った。
「すみません、少しの間彼を任せてもいいですか?」
 ホンルはシンクレアの両肩に手を置いて一歩前へ踏み出した。シンクレアの手にはホンルが愛読している情報誌が握られている。依頼と依頼の間に生まれたインターバルを利用して、ホンルはシンクレアに簡単な事務作業を引き継がせようとしていたはずだった。
「出かけるのか?」
「いえ、実家から連絡がありまして。長くなりそうなので席を外してもらったんです」
 ヒースクリフは今しがた睨みを利かせていた帳簿を手に取って大袈裟に仰いで見せる。
「構わねえよ。どうせ暇だし」
「そろそろあなたにも営業をかけてもらいましょうか」
「オレが? 冗談だろ」
 呆れたヒースクリフはホンルの言葉を一蹴したが、ホンルはただ小さく微笑むだけで何も言わず、シンクレアをカウチに座らせた。
 よろしくお願いしますね、とホンルは事務室を後にする。ドアが閉まる音がした途端、隣に腰かけたシンクレアが大きく息を吐いた。比較的小柄なシンクレアの両肩からへろりと力が抜けていくのを見て、ヒースクリフは口を開く。
「何だよ。なんかあったのか?」
「だって、代表の御実家ですよ? ちょっと会話してるところを聞くだけで息が詰まるというか……
 シンクレアは再び溜息を溢す。ホンルの実家というのは、不本意ながらも終止符事務所の資金源だ。その緊張感にはヒースクリフも覚えがある。
 この事務所で働き始めてまだ日が浅い頃の話だ。己の手で赤を出した日の夜、その穴埋めを無心するホンルの姿を垣間見たことがあった。
 受話器を片手に談笑するホンルは楽しげな声さえ上げていたものの、その表情は誂えられたような微笑のままぴくりとも動かない。相手の出方を探りながらカードを切るように進む会話はヒースクリフに、ホンルと実家の関係を瞬時に理解させた。
 ふと、壁を見つめていた翡翠色の瞳がヒースクリフを捉える。その瞳は硝子のような無機質さを孕んでいるように見えた。だがホンルはヒースクリフの方を見やると人形のような端麗な微笑から一変、驚いたように目を見開く。すると整った形の目尻に皺が寄ったと思えば、途端にその顔をくしゃりと歪めて笑ってみせるのだった。
 交渉を終えたホンルに事務室へと呼ばれたヒースクリフは、時折ケタケタと笑い声を上げる彼にあらゆる慰めの言葉をかけられ続けた。よほど酷い面をしていたらしくお咎めは無かったが、それがかえってヒースクリフの心を締め付けたのだった。
 そんな苦々しい記憶が蘇ってヒースクリフはぎゅっと顔をしかめる。
……にしても、向こうさんから連絡が来るのは珍しいな」
「ああ、お誕生日祝いですって」
 シンクレアは何気ない様子で返事をする。だがそれはヒースクリフにとって全く予期しない内容だった。
「誕生日……?」
 ヒースクリフは今しがた耳にした単語をそのまま繰り返す。
「誕生日って、代表のか?」
「えっ、知らなかったんですか?」
 そんなヒースクリフの返事もまたシンクレアにとって意外な反応だったらしく、彼もまた頻りに目をぱちくりさせていた。
「し、知らねえ。聞かされてねえし」
「そうでしたか……
 シンクレアは曖昧に頷く。ヒースクリフはふと、自身について思い返してみた。そもそも自分の誕生日がいつなのかも定かではなかった。生まれた日を祝われた記憶も無ければ、パーティだの祝い事だの馬鹿みたいなイベントで良い思いをしたことも無い。だから、そういうものはすべて人生の脇に追いやっていけばいいと思っていた。
 けれど今、そのツケが一度に回ってきたような妙な落ち着かなさが心の奥に芽生えている。
……なあ、やっぱこういうのちゃんとした方が良いよな」
 唐突に投げかけられた輪郭の無い問いに対して、シンクレアはうーんと律儀に唸る。
「せっかくですし、何かを渡すのはどうでしょうか? 代表、喜ぶと思いますよ」
 喜ぶ。シンクレアが口にした言葉が胸に残り、気付けばヒースクリフはカウチから立ち上がっていた。頭ではよく分からない。けれど何もしないままでいる方がよっぽど落ち着かない気がした。シンクレアは引き止める言葉をかけることはせず、ただ小さく頷いてヒースクリフを見送った。

 そうして勢いのまま事務所を飛び出したはいいものの、ヒースクリフに贈り物を買う店の当てなど無かった。誰かのために何かを選ぼうとするのは初めてだ。気まぐれに覗いてみた服飾店は品揃えこそ悪くはなかったが、目についたものを頭の中でホンルにあてがうとその装飾品はかえって異質さを醸し出し、あまつさえホンルという人間を台無しにする蛇足に成り下がる。
 形に残らないものを選ぼうと食べ物や酒に目を向けてみたが、いくらホンルと共にした食卓を思い返したところでフックになる出来事がひとつも浮かばない。彼が食の好みを口にしたことなどあっただろうか、と恐ろしい想像をしてしまうほどに、記憶の中のホンルは常に同じような表情を浮かべ、にこやかにこちらを見つめていた。
 自分が今何をしようとしているのか、何を探すべきなのか、少しずつ揺らぎ始めている。あてどなく裏路地を徘徊する中、ヒースクリフの顔には少しずつ影が差していった。
「クソッ、どうすりゃいいんだよ……
 その後もあらゆる店を転々としてみたものの、手に取った何もかもがホンルには不釣り合いに見えた。出口のない迷路を延々と歩かされているようで、募る焦燥感は次第に苛立ちへと変わっていく。
 ホンルは何も持たないヒースクリフに銃と役割を与えた。暗闇の中を藻掻くように暴れることしかできなかったヒースクリフに教育と訓練の機会を与えた。次第にそれはヒースクリフの支柱となり、揺るぎない武器となった。ヒースクリフが役割に見合う働きをすれば対価を与えた。成果をあげれば賛辞を、しくじれば喝を与えた。それはヒースクリフに自尊心を与えた。ホンルはヒースクリフへ与えることを惜しまなかった。
 だが自分はどうだ。立派な職も身なりも彼がいなければ得ることなどできなかったはずなのに、たかが記念日の贈り物ひとつまともに選び出すこともできない。アイツは何が好きで、何を欲しいと思っている? もし間違えたら? 見当違いなものを渡して失望させてしまうかもしれない。
 ヒースクリフの心は自ずと沈んでいく。心臓が冷たい石のように重くなり、地の底へ落ちていくような感覚だった。どうせオレなんかが何やったって、と悪態が口を突いて出る。
……やめだ、やめ」
 ヒースクリフは己に言い聞かせるように呟き、踵を返す。変な気を起こすんじゃなかった。こんな思いをするくらいなら初めから何かを渡そうなどと考えるべきではなかったのだ。
 逃げ隠れるように通りを引き返してヒースクリフの歩幅は少しずつ広がっていく。地面を睨みつけながら歩いていたせいか、曲がり角に差し掛かった辺りで人とぶつかった。
「ああっ、すみません!」
 相手は体勢を崩してよろめきか細い悲鳴を上げている。思わず舌打ちをした。
……なんだ、ヒースクリフさんじゃないですか」
 だがぶつかった相手の声色に覚えがあり、ヒースクリフは顔を上げる。そこには怪訝そうにこちらを見つめるシンクレアの姿があった。帰りですかと問われたが、ヒースクリフは黙って視線を逸らす。今口を利けば胸の内で膨らむ嫌な感情を吐き出してしまいそうだった。どうか気付いてくれるなとヒースクリフは踵を返す。
「あれ、手ぶらなんですね」
 だがその祈りも虚しく、シンクレアは何も持たないヒースクリフを見て首を傾げた。
「てっきりプレゼントを買って戻るのかと……
 シンクレアの些細な一言が蓋をしていた感情に針を突き立てる。指摘されたくなかったものを指された。その羞恥と苛立ちが一緒くたになって、一気に血が上った。
「そんなん……アイツが喜ぶようなモンをオレが渡せるわけねえだろ!?」
 条件反射によって吐き出されたのは怒声だった。胸の奥に溜まっていた何かが破裂するように飛び出す。思考よりも先に感情が口を動かしていた。
「うわっ! 僕に当たらないでくださいよ!」
……ッ、うるせえ!」
 理不尽な暴言に対する抗議が飛んで来たが、ヒースクリフはなおもシンクレアに噛みつく。こんな反応は子供じみていると分かっていたが、なけなしの自尊心が傷付くことが耐えられなかった。
 ヒースクリフは苛立ちを堪えようと深く息を吐き、右手で頭を掻き毟る。ホンルはヒースクリフが何も言わずとも様々なものを与えてくれた。欲しいと思ったものを口にすれば、それは勿論のこと。将来を見越して必要になると判断されたものは先回りして与えられた。当たり前のようにされてきたことを同じように返すことができないもどかしさと、己の気の利かなさが腹立たしい。
「だって……オレ、代表のことなんも知らねえ……
 感情の昂ぶりを持て余し唇の裏側を噛み締める。自分自身に対する落胆から、気がつけばヒースクリフは自身の顔を両手で覆っていた。
 そんな彼の様子をシンクレアは口を開けて見つめている。普段の威勢の良さは鳴りを潜め、すっかり小さくなってしまった哀れな同僚に困惑することしかできずにいた。彼の沸点の低さは承知していたが、こうなっては手の施しようが無い。
 一体何がヒースクリフの心を折ったのか、シンクレアには理解できなかった。事務所に所属してから日が浅いなりに、お互いを大切に思う彼らの様子を見聞きしている。少なくともシンクレアには彼らの間にある強固な繋がりが見えていた。第一、ホンルはプレゼントの中身ひとつで機嫌を損なう人ではないとヒースクリフ自身が分かっているはずなのに。その人となりを知っていて今更何を怯えることがあるのだろうか。
 様々な想像を頭の中で泳がせたが、優先しなくてはならないのは目の前で今にも膝を抱えてしまいそうな同僚のケアだ。可哀想なくらいしょげてしまったヒースクリフに、シンクレアは恐る恐る打開策を提言することに決めた。
「その……僕、これから洋菓子を買いに行こうと思うんです」
 その言葉が自分に向けられたものだと気が付くまでに、少し時間がかかった。ヒースクリフは手の隙間から相手を覗き込み、戸惑いながらも顔を上げる。
……菓子?」
「はい。このところ代表はデスクワークが多いみたいですから、ちょっとした息抜きになればいいかなって」
 そう言ってシンクレアはヒースクリフの腕に触れた。ただそこに在るだけの柔らかな重みがヒースクリフの強張った肩から少しずつ力を奪っていく。
「一緒に行きましょう。だからそんな泣きそうな顔しないでください」
 情けなさと苛立ちと恥ずかしさでぐちゃぐちゃになった胸の奥に、シンクレアの言葉は不思議なくらい静かに染み込んできた。
……怒鳴って悪かった」
「今更ですよ」
 ヒースクリフはほんの僅かに身を寄せる。顔を見られるのが嫌ですぐに距離を置いたが、シンクレアが困ったように笑うのを見て僅かに肩の力が抜けた気がした。

 日が傾き始めた空の元、ヒースクリフはシンクレアに導かれるまま街路を歩く。歩幅は自然とシンクレアのそれに合わせて落ち着いたものになり、二つ分の足音は次第に重なっていった。
「アイツ物持ち良さそうだし、そもそも無駄に質の良いモンばっか持ってるし……何渡しても今更って感じがするだろ?」
 道すがらヒースクリフがこぼした愚痴にシンクレアは苦い顔をして頷く。
「ヒースクリフさんからの贈り物ならなんでも喜びそうですけどね」
「そういうのが一番困んだよ……
 ここです、と指し示されたのは外壁をミントグリーンに塗装した洋菓子店だった。ショーウィンドウから陳列されたケーキが垣間見える。
 少しの間店内の様子を窺っていたヒースクリフだったが、シンクレアによって急かすように腕を引かれ扉の向こうへ足を踏み入れる。
 扉をくぐると甘やかな香りが鼻腔をくすぐった。内装は白い木材を基調としていて、ところどころにパステルカラーの装飾が施されている。背の低い棚の上には動物の形を柔らかく模した焼き菓子や宝石のようなゼリーがぎっしりと並んでいて、店内の壁には童話の挿絵のようなイラストが飾られていた。
 どことなく居心地の悪さを感じて萎縮する。だが、ふと横目で見たシンクレアもまた視線を泳がせていた。
「なんだ、慣れてるんじゃないのかよ」
「そんなわけないじゃないですか……一人じゃ絶対入りませんよ」
 そう首を横に振ったシンクレアはショーケースの前で腕を組み始める。彼の視線の先には苺のショートケーキやティラミス、メロンのタルトといった色とりどりのケーキが並んでいた。
「どうぞ。選んでください」
「おっ、オレかよ」
「当たり前でしょう? 僕より付き合い長いんですから」
 そう言い伏せられて反論する余地もなく、ヒースクリフはショーケースを覗き込む。チョコレート、モンブラン、柑橘のタルト。目移りしながらもどれにも決めきれずに視線をさまよわせる。華やかなケーキたちの光景に思わず息を呑んだ。
 甘さと彩りが目に押し寄せてきて、本音を言えば何がどう違うのかもはっきりとは分からない。だが、そのひとつひとつが誰かのためにあるような佇まいをしているように感じられて、選ぶという行為そのものに不意打ちのような緊張を覚えた。
 そのとき、ショーケースの奥に置かれたロールケーキがふと目に留まった。苺やブルーベリーの鮮やかな彩りが施され、丸ごと一本で並ぶそれは他のケーキとは違う存在感を放っている。
 一人では持て余すそれが、誰かと分け合う前提で作られているのだと気づいたとき、胸の奥が不意に揺れた。それを伝えたときのホンルの表情が頭に浮かんで、脳が冴えるような感覚を覚える。気が付けば「これがいい」という声が口から零れ落ちていた。
 その言葉を聞いたシンクレアがヒースクリフに問いかける。
「決まりましたか?」
「ああ。多分、こういうのが良いんだと思う」
 ヒースクリフはロールケーキを指さすとシンクレアに視線を向ける。シンクレアはショーケースを覗き込むと、ヒースクリフが選んだそれをじっと見つめる。それからすぐに頷いて「これにしましょう」と笑った。ヒースクリフは無意識に口角を緩める。
 注文を終えたあと、包装を待つあいだにふと窓の外を見る。少しずつ色を帯びる陽光が昼間の雑踏を柔らかく染めていた。
 二人の足音がまた重なりながら事務所のある方角へと帰っていく。店の外壁と同じミントグリーンのケーキ箱はずっしりと重く、心許ないはずの今日を少しだけ確かなものにしていた。