望月 鏡翠
2025-06-02 01:06:03
4330文字
Public 世界観共有
 

回転

世界観共有/ダーリンランデヴー!


 AM 6:00 家を出る。
 目を覚ますために二十分のウォーキングをして、職場に到着する。
 店に着いたらシャッターを半開きにして、店内に入る。全開にするとclosedの札を読めない自称客が、強盗よろしく珈琲を強請っていく可能性があるからだ。
 倉庫の鍵も開き、昨日バックヤードに運び入れられたままになっている荷物の計上をするところから仕事は始まる。
 器具の清掃がされているかを確かめて、マシンを立ち上げていく。温まるのに時間がかかるものは優先的に。
 その間に、ドーナツやスコーンの準備をする。大抵は冷凍の生地をオーブンで焼けばいいだけだ。
 AM 8:00 開店。
 通勤のビジネスマンが主な利用客。
 昼時にもう一度混むが夕方になったら翌日の準備をして閉店する。
 週五で店のオープンから昼過ぎまでの時間を埋めるのが私の仕事だった。客は毎日入れ替わるが、やることに変わり映えはない。憤りとやりがいは、常に等量でやってきて、今のところ収支のバランスは崩れていない。
 PM 3:00 退勤。
 まだ日が高いうちに解放されるから、遊んで帰るくらいの余力はある。帰ったら、家のことを片付けて、眠りにつく。
 真夜中になる前に眠りにつく。
 そのルーティンを繰り返す。
 日常に皹を入れたのはAg:47の車だった。私は彼らがAg:47の職員であることを、その会話から推察した。
 私のような仕事をしているものは、しばしば透明になる。そこにいることを認識されず、密談の背景として設置される舞台装置となる。
 きっとたくさんの主人公が朝どこかに出かけていく前に、ここに立ち寄ったに違いない。
 私がスパイだったなら、あるいはこの街に蔓延る悪人の一人なら、きっと優秀だっただろう。
 オルドポルターで悪事を企む人間は一度この仕事を経験するべきだ。そうしたらもう少し人手不足も解消する。
 彼らがコーヒーを買いに来ることは度々あった。
 コーヒーショップは治安維持に関わるものが、店頭に立ち寄ることを推奨している。犯罪に対する抑止力のためだ。
 彼らがダーリンでないのなら、という但し書きはつくものの、客としては大歓迎だ。
 彼らはさしてうまくもないだろうコーヒーを注文する。
 そのつもりでカップを用意して、しかし注文はいつまで経ってもされなかった。端末を見ながら苛立った様子で車を振り返っている。
 そこには彼の同僚がいる。路上駐車の対策で運転手を車に残したままにしているのだ。しかし、今日に限って注文が決まらないらしい。
「何が気に入らないんだ」
 と小声で、電話口に呟いている。
 彼が苛立とうと仕事が滞ろうと、私には関係がない。ただレジカウンターの前を塞がないでいてくれればそれで良かった。
 電話に向かって、本人に決めさせろと詰る声が聞こえる。
「メニュー表を借りる」
 借りて良いとはいっていないが、幸いその横暴に対応できるように予備のメニュー表は店頭に用意してあった。
 他の客を捌きながら、店の外に横付けしてある車を横目で見――それは店の動線を塞ぐからなるべく避けて欲しい行為だったが、注意したことは一度もない――どうやら車内にもう一人いるらしいことを推測した。
 その三人目が、彼らの行動をイレギュラーにしたらしい。
 十五分ほどそのまま話し込んでいた。忙しい時間において、それは永遠に近い時間で戻ってくる頃には、私は彼らの存在を忘れていた。ようやく彼らは店内にメニューを返しに来た。
「ホットコーヒー二つ。Lサイズと」
 それはいつもの注文だ。
「シナモンドーナツと」
 未知がやってきた。
「グリーンティー」
「すみません、ドーナツは今品切れで」
 もう一人のスタッフの手が空かないと、揚げ物をしている時間はない。開店前の朝一番に仕込んだフードメニューで、乗り切らなければいけないのだ。ドーナツはもうない。時間ができたら揚げ直してメニューに復活するから、いちいち完売の札を付けてない。
 もう少し決定が早かったら、残っていただろうに。
 スーツの男が浮かべた苦悶の顔を、私が浮かべさせている。悪いことをしたわけではないが、公の敵になった気分だった。
 助けを求める顔で、車を見た。彼らはおそらく職務上の同僚で、何かがあったということは、目配せだけで伝わるのだろう。
「あげればできるので、五分くらい待っていただければ」
 その瞬間の救われた顔。
 一体、ドーナツを求めたのはどんな暴君だったというのだろう。
「ああ、それで、頼む」
 私はAg:47職員の威圧感でレジを塞ぎ、もう一人にコーヒーメーカーの操作を丸投げして、油にドーナツを投げ込んだ。
 その隙にホットコーヒーとグリーンティを用意することも忘れない。
 客を待たせる手段さえあれば、ドーナツの用意はそれほどの労力ではない。ただそれよりも急を要する目の前の仕事がたくさんあるというだけだ。
 上がったドーナツがまだ熱々なうちにシナモンシュガーを振りかける。
 車まで持って行ってくれと言われて、ここはカフェではないという言葉を飲み込んだ。
 コーヒースタンドだ。スタッフはカウンターのこちら側にいて、給仕はいない。
 何をしているのかと思えば、領収証の発行で揉めているらしい。会計を分けたいとかなんとか。確かに長引きそうだ。
 どうせレジも止まっている。仕方がないから私は熱々のドーナツとコーヒーとグリーンティーを持って、車に向かった。
 コーヒーは運転席に。右手と左手で受け取り、両手が塞がった男は顎で後ろを指差した。鍵は空いているのだろうか。
 車のドアを開く。
 ドーナツとグリーンティー。砂糖の個数はわからなかったので、適当に角砂糖を二つ添えておいた。
 そこにいたのは、女だった。
 退屈そうに外を眺めていて、ドーナツが届くまでの間にその存在に空いたように見えた。彼女の機嫌を直すためにこれを用意されたとして、もう甘いものの魔法は効力を失っている。
 細く吐き出したため息と物憂げに伏せた瞼がそれを物語っていた。
 だが甘い砂糖とシナモンの匂いが車内に届いた瞬間に、彼女の視線はこちらを向いた。
「シナモンドーナツとグリーンティーです」
 ジュワジュワとまだ油が小声で呟くそれを、彼女は驚いた猫のように目を丸くして見つめ、車の座席を一つ奥に詰めた。
 それはこちらのドアから人が乗り込んで来るときにする動きだったが、私はそこに乗る予定はない。
 あるいは想像もしない存在から逃げたのかもしれない。
 空いた席に、ホルダーを置いた。
「ごきげんよう。良い一日を」
 それはマニュアル通りのセリフで意味などなかったが、彼女はそれに応じて微笑んだ。
「ごきげんよう」
 心臓の輪郭が、焦げつく音がした。
 こんな美しい人は見たことがなかった。
 だから笑顔が社交辞令であっても構わない。
「気にいっていただければ、明日も揚げたてを用意します」
 そっとドアを閉める。
 入れ違いに、職員が戻ってきた。領収書の件は片付いたらしい。車に乗り込むとき彼らが囁き交わした言葉が聞こえた。
「会わせて良かったのか?」
「大丈夫だろう。女同士だ」
 私はその瞬間、透明ではなかった。
 ずっと日常の背景にいる置物から、急に表舞台に押し出された。いや引き寄せられたのかもしれない。
 私のルーティンは、瓦解した。
 あの車内の女性は誰なのか。どうしてシナモンドーナツを頼んだのか。私に運ばせたのはなんの因果なのか。そのことを考えるようになっていた。
 偶然? いや、そんなことはないはずだ。
 スーツを着ていなかった彼女の存在は、要人か、研究員か、それともダーリンなのか。
 AM 5:30 目を覚ます。
 彼女は何者なのか、考える。
 スーツを身につける前の新人職員。
 ランデヴー現象の解明に心血を注ぐ研究員。
 それともやはり……。ここで思考は停止して、朝が私を街へ送り出す。
 AM 6:00 家を出る。
 今日は来てくれるだろうかと考える。揚げたてのドーナツは、果たして彼女のお気に召しただろうか。
 来たら、一体どうするのかを考える。
 単なる背景に過ぎなかった私がカウンターを出て、店を出て車のドアを開けた意味を考える。
 あれは象徴的な行為だったのではないか。彼女は婉曲にその意図を私に伝えて、助けを求めていたのではないか。
 誰なのかは、わからない。名前も知らない。
 しかし悪い人には見えなかった。
 AM 8:00 開店。
 いつもより多めにドーナツを揚げる。
 生地の輪郭がじゃわじゃわと音を立てている。彼女はあのドーナツを食べただろうか。
 PM 3:00 退勤。
 何も手につかないまま帰宅した。彼女はこなかった。もしかしたら、あの職員に止められているのかもしれない。
 歪んだままの一日が、一回転する。
 寝返りを繰り返すだけの夜を越え、夜が明ける。
 AM 5:30 目を覚ます。
 一体いつになったらまた会うことができるのかと考える。
 もしかして二度とこないのかもしれないと頭をよぎるたびに、ではなぜ彼女が私の目の前に現れたのかを考える。
 何の意味もなく回転していく日常を過ごすのか。もう二度とカウンターの向こう側にいくこともなく、ここでコーヒーを入れ続けるのか。
 頭が爆発しそうになるほどの空転し続ける日々のあと、ついにその瞬間が訪れた。
 あの車が止まった。
 私は後部座席を確認した。
 あの二人は、きっとホットコーヒーを頼むだろう。コーヒーの苦味の中に、薬を混ぜ込む。
 日々を空転させている間、ずっと考えていたのだ。
 私は背景であり、透明であった。であれば、彼らに危害を加えるなど簡単なことだったのだ。職員が気を失い、車は動かなくなる。
 私は、運転席の窓から手を差し入れて、邪魔なスーツの男を退かし、ロックを外してドアを開けた。
「どうしたの」
 彼女にそう問われて、言葉に詰まった。ここから先をどうするのか、それを考えていなかったのだ。
「あなたの……
 その先を考える。
「名前を知りたかった」
「可昕」
「わかりました」
 私は満足した。
 意味のない日々から抜け出し、目的地に辿り着いた。
 そこから先を想像する力は私にはなく、ここから先にやりたいことは何もなかったのだ。