つきのせ さぶろく
2025-05-30 22:22:53
5100文字
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見つめる光

【境目卓SS】🐚🎥|ペイルブルーの視線【ネタバレなし】


 雪がちらつく年の瀬に、1つのニュースが駆け巡った。
 水卜汰緒無期限の活動休止のお知らせ。それは数日間インターネットや世間のお茶の間を騒がせていた。今まで不祥事らしい不祥事すらなかったこと、そして本人の口からは語られない休止理由。それら全てが憶測を加速させ、行き場のないファンの不安と衝撃をかき立てていた。当然そんな状況で彼の身内に何もないわけがなく、情報を求めるマスコミは少しでも何か掴めないかと親兄弟を追いかけ続けるわけで。途方もない疲労と暗黒立ち込める脳内はさながらライトの消えた舞台袖だろう。
 それは年が明けてから数日が経ってからだった。グレーのスウェットにダウンジャケットという簡単な格好で、ようやく俺は早朝の誰もいない事務所に顔を出した。しかし、全てが予測通りとは行かなかった。事務所には一人だけ人間がいたのだ。
「宇海」
 長いまつ毛の奥に隠れていた瞳がこちらを捉え、瞬き一回分の沈黙が流れた。
……スミカ」
 釣鐘スミカ、この劇団の看板俳優だ。絶対に届かない領域の人間であり、俺が長い間見つめている光だ。
「家、帰れてんの?」
「昨日まではネカフェに泊まってた。ここに来たのは、PC取りに」
 スミカがなるほどなと腕を組んだ。寒い廊下で上着も着ていない彼は、きっと自主練習で訪れていたのだと容易に想像できる。
「そりゃ俺の家まであいつらが来るわけだ」
 それた視線の間に明らかな不機嫌が読み取れた。思わず息が止まって、無意識にカバンを持つ手を握りしめる。
「お前の、……お前の家まで、来てんのか」
 強張っていた足がすぐに前に出てしまった。詰め寄るようにスミカの顔を覗くと、不機嫌そうな顔はそのままだが視線だけが戻ってくる。
「なーんか、同じ大学出身で現所属も同じ、そんで年末の公演も話題になったろ。だから何か知ってんじゃないかってまあ、ゴミに等しい残党がのこのこやって来たってわけ」
……何でそうなるんだよ」
「知らない。ていうか知ってても言うかよ。丁重にお断りしてお帰りいただきました」
 しかめ面に付随する刺々しい声色が廊下に落ちる。また視線が逸れた。
「悪かったな。……近いうちに姉からできる範囲で説明がある。だから、そのうち来なくなるはずだ」
 スミカの視線が逸れたのを合図に下を向いてしまった。俺の身の回りに起きたものは全て事実だ。たとえ俺自身が認めていなくても、周りの人間が認めてしまっている。水卜汰緒が目を覚まさないことを。廊下は差し込む朝日を反射していた。外では太陽が少しずつ顔を上げているのだ。俺は今その陽光を背中に感じていて、目の前にはぽっかりと黒い影がある。
「なんでお前が謝んのさ。謝るべきはゴミ残党どもの方だろ」
 苛立ちはそのままだが、少しだけスミカの言葉の棘が丸くなっている気がした。背中を太陽の光が引き続き白く焼いている。霞がかる思考は聞いて欲しい言葉たちの手綱をうまく握ることはできなかった。
……兄の影響力を考えたら、もっと早く公にすべきだった。そうすれば、お前のとこには来なかっただろ」
 息が苦しい。首の後ろが妙に緊張して、それに呼応するように喉奥が締め付けられるような感覚だ。このぼんやりとした呼吸困難に抗いたくて、自分の前に落ちている影を睨むように見下ろした。ただし、その抵抗も虚しく言葉たちはなおも飛び出していく。今までマスコミには話さなかった、話せなかったもの全てが、釣鐘スミカの目の前に並べられていく。
「でも、俺だって、信じられないんだ。言葉を選んで、真実を隠して、それで、顔も知らない奴らを納得させようなんて、すぐできるわけない」
 世間に話せない理由のほとんどがこの本音だ。きっとこれは、誰もが簡単に理解できることではないのだろうと、少量の異常を理解してしまった自分は冷静に感じていた。くしゃりとダウンジャケットが嗄れた音を鳴らして、その皺に染みる影が濃くなった。スミカはまた顔を顰めていたが、こちらを見ることはない。
……誰も信じたくねえだろ、そんなの」
 スミカの鋭い視線に曝された時計は、正確な時を刻んでいるだけだ。いくらか時間はたっているが、それでもまだ朝と呼ぶに相応しい時間。いまだに俺とスミカ以外、劇団の玄関を潜る者はいない。がしがしと頭を掻いた後、スミカは手近な稽古場への扉に手をかけた。
「入れよ」
 いくらか重厚な扉をゆっくりと開けると、そこに留まっていた冷気がゆらりと顔を出す。誰の気配も感じないのに、広い稽古場に入ってようやく2人きりになれたような感覚が訪れる。
……1つ、訂正」
 少しずつ細切れに息をする。そうしてやっと、ゆっくり言葉を並べていく。
「信じたくないのは、さ、……おにい、……水卜汰緒が活動休止になったってことじゃない」
 2人の喉が鳴った。
……多分、見たんだ。あれ」
 たまらず言葉を飲み込もうと口を塞いでしまった。迷う目線はもはやどこにも安息を見出せていない。つんと強張っていたはずの朝の静けさが、じっとりと醜い色を混ぜ込まれて嫌な粘度となって体にまとわりついていく。それはもちろん、スミカにも伝染したらしい。
「あれ、って……
 まとわりつく空気が2人の喉を締め上げた。歪な色をした記憶が脳を過ぎっていくその瞬間を、黙って耐えるだけの時間は1秒にも満たなかった。だというのに、長い長い時間が過ぎたような脳疲労が2人にのしかかっている。
 スミカは背を丸めて顔を覆っている。見たことがあるものは二度と見たことがない頃には戻らない。知ってしまったことは知らないことにはできなくなる。フラッシュバックという人間が抱く無意識の爆弾は、いつスイッチが押されるのかわからない。この不便さはどうして取り除かれないのだろうか。思い出したくもないものを忘れられないのはなぜだろうか。それは、きっとあれがそういうものだからだろう。一つの経験を共有する俺たちの間にはすでに、暗黙の諦めのようなものがあった。
……病院、行ったらさ、眠ってた。点滴されてて、安静にしてるって」
 この暗黙の中では視線が通らない。お互いに伏せられた目は、今はありもしないものを記憶の中で見続けている。
「兄の顔は、安らかなんて言えなかった。……それもそうだろうな」
 記憶がやっと通り過ぎて、海馬の箱の奥底に沈んでいく。ようやく酸素を求めるように上を向いて、部屋に残る冷たい空気を目一杯吸った。
「俺にはわかるよ。兄は見たんだ、あの、舞台の」
「それ以上言うな」
 ピシャリと叩きつけるようなスミカの声が稽古室に響いた。いまだ顔を伏せる彼の方はかすかに震えている。
「ああクソ、……わかってるよ、嘘じゃないんだから。あれも」
 上がる心拍数は耳奥でいつまでもカウントを続けている。ようやく泡立っていた脳髄が凪を得て、稽古場の壁にもたれる2人は同じ1人の顔を思い出していた。
「なんで、なんで汰緒さんまでッ……
 脳の反射はそれが嘘であってほしいと願っているらしく、今にも喉奥から溢れそうなほど感情が渦巻いている。それでも、冷静なままの俺の意識はこれが嘘でないことなどわかりきっていた。ベッドに横たわる実兄の姿をありありと思い出せるからだ。それを振り払うべく食いしばる歯の隙間からかろうじて息を吸い込んだ。スミカは項垂れたまま嘘ではない理由を探し続けている。
「俺は、さ」
 吸い込んだ息をゆっくりと吐いた。肺に燻る黒煙をどうにか排出したかったのだ。
「水卜汰緒が死んだとは、思ってない」
 これは希望的観測であり錯覚の一つである。それでも、今は全てを受け入れることが困難だとしても、眠りの先には目覚めがあると信じていたかった。
「いつか、目を覚ますその時まで。……俺は、待つんだ」
 だから、と膝を抱えているスミカに視線を向けた。俺は1枚のA4用紙をカバンから取り出して目の前に広げて見せた。これは芸名変更の手続き書類だ。これが受理されれば、三浦宇海は水卜宇海になる。
……変えんだな」
「こっちが本名だし。それに、この姓は俺個人を見てもらうには目立ちすぎてた」
 水卜姓はあまりにも人の目に触れ続けてきたものだ。日陰でぼんやりと立っている自分には冠することのできない、美しい装飾品のように思えるほど。それくらい、兄もまた眩しい存在だった。
「でもさ、俺は水卜汰緒が忘れられてほしくないんだ。兄もまた、俺の光だから。俺が弟だって世間に公表したら、まあ話題にはなるだろ」
 スミカが何かを言いたそうに口を開いたように見えたが、それはすぐに細く閉じて長い息だけが吐き出されていた。
「それで良いって顔してんな」
「実際兄の代役の打診があった。この間のインタビューの影響かもな」
「はは、お前が汰緒さんの代役ね。……ふふ」
 頬を支えていた手が笑う釣鐘の口元を隠していた。細まった目を飾る長いまつ毛に朝日が薄く反射している。
「想像できねえな、なんか」
……できないよな。やっぱり」
「んだよ、急に自信ない顔しやがってさ。できないのは想像だけ。宇海は俺の想像、超えられるだろ」
「想像を超える?」
「そ、お前は俺の内側にないもの持ってんだから」
 元気を出せと言いたいのか、こづくようにスミカの肩が触れた。
「俺は俺、宇海は宇海。見えてるもんも違うだろ」
 夜空に星が見え始めるように、心の中にひとつ、またひとつと明かりが灯されていく。でも、今俺の目は期待というスポットライトで眩んでしまっている。眩んだ瞳では星の光なんて拾えない。
「違うんだ、俺は俺だけの問題にできなくなったんだ。……水卜汰緒にかかってた期待を、俺が越えなきゃいけない」
 言えない重圧に耐えかねて顔を伏せようとした。視界の端で伸びる手を捉えたのも同じタイミングだった。
「ばーか、らしくねえな」
 下を向いていた顔が強制的に前を向いた。凛とした瞳に自分の姿が映っているのがわかって、押しつぶされそうな頬がじわりと温かくなる。
「お前が周りのこと気にしてんの初めて見たかも」
「そうだろうな。……俺にとって、他人の目なんてどうだってよかったよ。前までは」
「汰緒さんの代わり、うまくやんなきゃいけないとか考えてんだろ」
「そりゃあ、まあ。水卜を名乗る以上俺の活動は俺だけのものじゃなくなる。それが俺のやりたいことであって、やらなきゃいけないこと」
「水卜汰緒を忘れないために、ね」
 ゆっくりとスミカの手が頬から離れた。隙間で生まれた温度の残骸が少し照れくさくて、俺はかき消すように頬をさすった。スミカは首をぐるりと回して大きいため息をつく。
……それでも、お前はお前だよ。宇海」
 釣鐘スミカはまさに星みたいな人間だ。どんなに暗くても灯り続ける、そこへ辿り着きたくなる明かり。俺が今まで、最前線で見つめていた光だ。
「水卜と三浦ね。……宇海はさ、ひとつだけじゃないよな。俺とは違う」
「お前は1人の天才として確立してる。代わりはいないんだよ」
「でもさあ、それって俺が死んだらなんも残んないじゃん」
「は、いや、なんでそうなる」
「俺しかできないってのは、最初はいいけど最後がないんだよ。俺は誰かに渡せるバトンがなくて、俺が存在していないと成り立たないの」
 気がつけば朝日はもう昼間の太陽になりかわろうとしていた。そのおかげか、凍るような冷たさを含んでいた空気も少しだけ溶けているような、冬の朝とは言えない匂いがする。
「宇海は代わりなんかじゃないよ。正しくは、汰緒さんのバトンを受け取った人間。俺はそう思ってる」
 玄関の方で数人の人の声がした。地面を擦る足音も聞こえる。ようやくこの劇団にも熱気が入り込んでくる頃合いだ。
「なあ」
 立ち上がったスミカの背中に声をかける。振り向いた瞳と視線が重なった。
「バトン。それはいつか返せると思う?」
「返せるよ、宇海がずっと握ってんだから」
 この一番星の輝きは、痛くも熱くも冷たくもない。ただひたすらに、そのまま光を見つめていたいと思える、唯一無二の明かりだった。
 スミカの言葉になんと返しただろうか。水卜宇海は、きっとその言葉を他の誰にも言わないだろう。