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冬の霜、真昼の空/へべれけリンゴの酔狂(丁+諾)

ドラウグデンとエルクノルの話。

冬の霜、真昼の空


 フィヨルドに這うように広がる針葉樹の森が、霜のエルクの住処だった。四つの季節が回るうちの霜が解け消えるころから霜が降りるころまで、エルクはフィヨルドが切り出した天然の洞窟に眠る。
 フィヨルドを覆う森の奥深く、自然に削られた岩の洞窟で、霜のエルクはまぶたを開けた。洞窟はいさぎよい涼しさでひたされていた。灯りはないので真っ暗だったが、極夜にも見通す眼は夜目が効く。エルクは伸びをすると大あくびをかみ殺した。風の精が通りすがりに挨拶をして去っていって、エルクは寝起きのおっくうさで手を振って応える。妖精とも森の動物とも顔見知りではあるが、冬を好む生き物の性で、エルクはそれほど他者と交流を持たない。
 目覚めの季節がやってきた。天上から冷たい氷のつぶが音もなく降り積もり、地上の緑はひとときの休息にしのび隠れる。エルクは何をするでもなく、冬の間は気がおもむくままに森をさまよう。凍える風に背を押されるように、踏みしめる霜の悲鳴に耳を澄ますように。
 森と洞窟の境界は眠りの前に大岩で塞いでいた。エルクの力であれば大岩を押し倒し、外へ出ることができる。
 よ……と、エルクはひと息に大岩を蹴った。白くまばゆいばかりの光が差し込んできてエルクは眼を細め、光の隙間はゆっくりと広がった。
「う、おおおおおおおおお――⁉」
 とっさにエルクは耳をぴんと立てた。森の昼差す銀世界に、妖精でも獣でもない、エルクと少しだけ似た、けれどもエルクと同じではない、ヒトの子のような異分子が飛び上がった。
「おおおおおおおうおめえの住処だったんけえ! でも外に人がおるかどうかは確認しでくんちょ!」
 ヒトの子は血の赤をまとっていた。赤は獣たちの色だ。よく見るとヒトの子はヒトらしくも赤いジャケットを着込んで、ヤギのような角を生やしている。そしてよく喋る。訊いてもいないのに、森の外の海辺の町からやってきて寄り道の散歩がてら森の苔に足跡をつけエルクの洞窟前にたどり着きフィヨルドを望む景色を観ながら弁当を食べようとしたことまで一息に喋った。
――そりゃまー俺だってここで飯食おうとしどったの悪りぃんだけんどらそっだら黙り込まねぐっても、……おめえ聞いてんのけ? 言葉わがっか?」
……うぜえ」
「へ?」
「誰の赦しを得で俺の森さ踏み入っでんのか……覚悟ばできてんだろうな?」
 エルクは押し倒した岩に乗り上げる。ぱきりと薄く張った氷がひび割れた。風が枯れ葉を巻き上げる。ヒトの子がエルクの背後に浮かび上がる大きな影を見上げて、口端に笑いを乗せたまま青ざめるがもう遅い。木々はささやき、エルクの呼び声に応じて無謀な侵入者の退路を封じる。
 森を荒らす不届き者には処罰あるべし。それも霜のエルクの秘密の住処を知ったならば尚のこと。生かしてはおけぬ。
「なんだぁヤル気けぇ! そっちゃがら手ぇ出すなら俺も容赦はしねえ! なんなら俺ば倒しでも第二第三の俺が――ぐぼっ」
「よぐ吠えんべな」
 エルクの飛び蹴りが腹に直撃して大木まで吹っ飛ぶもヒトの子はむっくり起き上がる。剛脚に反してふわりと霜の地面に降り立ったエルクは首をひねった。ヒトの子はたいていエルクの蹴りで胸を潰せば息絶えるほど弱いはずなのに。
 怪我ひとつ負っているように見えないヒトの子は、立ち上がるとどこに隠し持っていたのか鉄の斧を掲げる。エルクもまた拳を固めた。
「うおおおおおお負けねえ――! ドラウグアタッークッ!」
 エルクに向かって猪突猛進に走り出したヒトの子は、勇猛に斧を振り上げるも――地面に落ちていた籠につまずいてすっ転んだ。つんざくような悲鳴が森に反響する。エルクは耳を両手でふさいだ。崖に住まう鳥がばさばさと気の抜けた羽音を立てて飛び立っていった。
「痛えよー……なしてこっだとこに籠が……あー! 俺の昼メシ!」
……メシ」
「あ、おめえまさか腹ひっだのか?」
 ヒトの子はうずくまって籠の中をあさり、ひょいと紙に包んだものを取り出す。くん、とエルクは鼻を動かした。エルクはふだん、朝の露や氷の粒や、あるいはリスが埋めていった木の実などをときどき口にするが、ヒトの子が手に持っているものは、かすかに格別ないい匂いがした。
 ヒトの子が一瞬前と切り替わり、からりと笑い、エルクに包みを差し出している。
「半分分けてやっぺ!」
 エルクは匂いに釣られるように一歩前に踏み出した。そろりそろりと警戒をまとわせて近づくエルクをヒトの子は辛抱強く待った。触れられるような距離になると、包みの匂いをすんすんと嗅ぐ。小麦とすえた魚と草とミルク、あとは変わった蜜の匂いだ。
 自然と紙包みを受け取ろうとして、エルクは戸惑った。このヒトの子は住処を荒らした侵入者だ。餌付けされるなど、森を守護する精霊の風上にもおけない。
 ヒトの子はうん? と首をかしげた。
「見たことねえんけ? これはサンドイッチっつうんだっぺ。具はサーモンとレタスとクリームチーズ! うんめえぞ!」
 ヒトの子は紙を広げて見せる。両手で掴む大きさの小麦の匂いのかたまりに具材が挟んであった。転がったせいか中心が潰れて具材がはみ出ていた。籠にはもうひとつひしゃげた同じものが入っている。
 サンドイッチをエルクの手に強引に押しつけ、ヒトの子はどっしりと冷たい地面に腰を下ろすともうひとつのサンドイッチを取り出して、おもむろに端にかぶりついた。もぐもぐと咀嚼する姿をエルクはぼんやりと眺める。一口を飲み込んで、ヒトの子はウインクした。
「な? だいじだっぺ。おあぎなんしょ」
……
 エルクも隣に座り込み、ヒトの子の真似をして牙を立てた。
 はむ、はむ、と無言でほおばる。飲み込む。エルクの圧力で掴んでいる部分が潰れる。耳がぴくぴくと跳ねる。
 匂いが強い。魚の味が口に広がる。ときどき舌がぴりっと痺れる。
 エルクがまたたく間に喰らい尽くすと、ヒトの子は自分のサンドイッチを手に、膝を立ててエルクを見つめていた。無性に隠れたくなりたいような感情が湧いてきて、エルクはもぞもぞと頭を揺らした。角の飾りがしゃらしゃらと鳴る。
「美味がへ?」
……した、しびれる」
「んだんだ、バターとマスタード塗ってんだ……苦手け? んだら今度は入んねえやつ持っでくっか」
 あたりまえのように次を強調したヒトの子に、エルクはぱちくりと瞠目する。ヒトの子は森を畏れる生き物だ。火を操り、森を切り開き、海を渡り、繁栄してゆく。森の死と引き換えに。
 さらさらと風の精が笑っている。雪の精もほおを撫でた。木々も沈黙してふたたび森を開いている。ヒトの子はまるで気にした風がなく、エルクとサンドイッチを見比べて、力まかせに半分ちぎった。
「よんど腹ひっでだんだなぁ。こんだけな」
 ぽろぽろこぼれそうなサンドイッチの切れ端をエルクは食べた。すっかりなくなってしまうと、すうすうと隙間風を吹かせていた腹がほんのりと温かいような心地がする。生まれてこのかた冬をさだめられた霜のエルクは凍えるような冷たさしか知らなかった。
……なぁ」
「おおぅ名乗ってもいねがったっぺな! 俺はヴァイキングのドラウグ! 生前の名前は……忘れちった! ドラウグでえがっぺ」
「死んでんのけおめは」
「うんと昔にな。でも別に悲観することねがっぺ。いまは船の時代でもねぇがら自転車手に入れて町でウーバーやってっぺ」
「ふーん」
「んで、おめは?」
 元ヒトの子のドラウグが眼を輝かせて迫る。暑苦しい。溶けてしまいそうだ。そう思いながらも、勝手に口は動いていた。
……霜のエルク……
 がばっと両手を掴まれる。ぎゅうぎゅうと握る手はドラウグの雰囲気と裏腹にひんやりと冷たく、思いの外に心地よい。
「そーけ! 霜のエルクけ!」
 ふとエルクはドラウグの瞳に見知らぬ季節の真昼の空を見た。きっとよく晴れた日はこんな色だろうとひそかに胸に収め、ドラウグのハグを躱した。