第十話
変の話
・
羅乃目……紅族。第十九代統領
・
黒骸……紅族。羅乃目の許婚
・
羅神……羅乃目に憑いている黒い狼の
憑守
・
雨庸……黒骸に憑いている白い大蛇の憑守
・
鎌苅トキ時……憑守が見える、
食事処伊呂波二代目店主
・
天河良……通称「死神」。伊呂波のケツ持ちをしている彫り師
・
稲垣儀三郎……良のお隣さん。闇医者
変
……
『ヘン』
『か』わる
『か』える
次々とかわりゆくこと。今までと異なる事象が起きること。など。
普通ではないという意味合いで使われることもあるが、これは「普通」の定義付けから始めなければならないので先が長過ぎる。長々と議論することを望んではいない。諦めておおよそ頭に浮かぶ「変」にまつわる概念を思い浮かべてもらえれば問題ない。申し訳ないがこちらもさほど崇高な姿勢でこの文字を扱っている訳ではない。
さて、現在進行形の話をしたならば多少は過去の話も必要になるだろう。
覚えている?覚えていない?なんの話?どれのこと?なんにせよ共有できるものの積み重ねは、時に武器になる。
事象の断片と感情。
変わり者と、変わりゆく日々と、変化による心配事について。
*
抜ける風に心地のよさを感じられる季節になった太都。花見にはやや遅いが、弁当でも持って外でのんびり飯を食うのはどうかと四人の中で話題にあがるのは当然の流れであった。
予行練習として四人で握り飯を作る会なんかも開かれた。練習する日にそのまま出掛ければいいだなんて、そんな退屈な言葉は慎んでいただこう。事前準備が一番楽しいというのは、どこにでもあり得る事象のひとつなのだ。二度美味しい、楽しい。彼らに水を差す必要はどこにもない。いくらでもいい点を打ち続けて日々を確定していく権利がある。
揃って襷掛けをする四人は、対面式調理場の内側に一列で並んで米と対峙している。多めに炊いた米を四等分にして、それぞれ好きに握る計画だ。中身には梅干しと、良が東町で買ってきた佃煮を用意した。練習にしてはかなり豪勢である。
「わっちね、トキさんのおにぎり好きでやんす」
具なしの丸く小さいおにぎりを延々と量産している羅乃目は、隣で並べられていくトキ時のゆったりとした大きめな三角形のおにぎりに目を輝かせた。
ころころ並ぶおにぎりたち。「これが当たりでやんす」と言って、先ほどひとつだけ梅干しを入れていた。この当たりがどちらの意味で用意されているのか定かではないが、そういった趣向らしい。
「ありがとうな。羅乃目のも食べやすそうでいいな」
「なんとひと口で食べられるから、お行儀が悪くならないでやんすよ」
得意げな羅乃目の頭を優しい目線だけで撫でると、本当ならばもっと手際よく握れる筈のおにぎりをトキ時は周りに合わせて緩やかな手付きで握っていく。
「なんか久々かも、こういうの。わざわざきちんと握り飯作らねーもん」
良は親指についた米粒を舐めとると、完成したおにぎりをまな板の上に並べた。それは小ぶりながらも品のある美しい三角形をした、実にきっちりとした握り飯であった。若い娘が握ったと言われればするりと信じてしまうような、大きな骨ばった男の手から生まれたことを疑うほどの仕上がりである。
「良さんお上手ですね。俺はどうもこういうものの加減がわからなくて」
「なんか黒ずっと握ってっけど大丈夫? 握り終わりがわかんないとか言う?」
良の横で真面目な顔をしている黒骸は、一向にひとつ目を握り終わらない。その大きな手のひらいっぱいに米を握るわけにもいかず、長く綺麗な指は少々持て余されている。
「正直わからない、です
……いくらでも握り込めるというか
……」
「そう言う割に形は綺麗じゃん。今、やめ時、今いま今」
良に促されて黒骸の手から離れたおにぎりは、良の物より大きく、トキ時の物よりは小さい三角形をしており、そして妙に質量を感じさせる影をしている
……等分にされた米の残量と各自握り終えたおにぎりの数を考えると、黒骸のひとつのおにぎりには一体だれだけの米が押し込められているのだろうか。実に食いでがありそうだ、知らずに食べ始めると痛い目に遭いそうではあるが。
個性が溢れる握り飯たちは、その個性故に行儀よく並んでいてもどこか無秩序だ。これをひとつのお重に詰めれば、きっと愉快だろう。
羅乃目は自分の右側に並んでいる三人を見やると、ぶわわっと込み上がる楽しいに頬を緩めた。
「はあー! 楽しみでやんす!!」
楽しみは訪れなかった。
当日の朝に羅乃目がまた熱を出したのだ。
問題なく元気そうにはしていたが「なんか、はさはさするでやんす」と前日の夜にこぼしていたので思い返せば前兆はあった。しかし「はさはさする」が発熱に繋がると誰が思うだろうか。本人もよくわからずに感覚を言語化していただけである。
掘立て小屋の隅でまたしても羅神を抱き抱えて丸くなり、不機嫌そうに鼻を膨らませ、熱で潤んだ瞳で恨めしそうに見上げてくる。
「疲れちまったかなあ、咳とかしてないもんな。吐いたりもしてないし」
「
……何故体調を崩すと私を抱き締めるのか」
「まあまあいつも割とべったりだろ。それに、熱出すとなんだか心細くなるんだよな」トキ時は濡らした手拭いで羅乃目の丸い額を撫でる。「今日は寝てような」
羅神は変な姿勢で身動きが取れなくなるくらいならと、今回は最初から完全に添い寝の体勢に入っている。呆れた様な諦めた様な口調をしているが、紅族の若者など赤子と変わらない。なんだかんだ慣れた態度で毛皮に顔を埋め直す羅乃目を受け入れている。羅乃目に憑く以前にも一体どれだけの紅族を育て、その魂を食ってきたのか。子育てなど文字通り朝飯前、と言ったところか。
「やほー、お熱のおひいさんはここ?」
良が軽い調子で掘立て小屋の戸を開く。無遠慮に上がり込むと流れる様に羅乃目の横に寝転んだ。休日の父親のだらけた姿、とでも表現すればいいだろうか。右半身を下にし、立てた腕で頭を支えている。
「途中で黒と会ったのか?」
「うん。じじいんとこに薬貰いに行ったんだろ? 羅乃目がお熱で今日は延期だって」
寝転ぶ良には一切触れず、さも当たり前かのように会話を続ける。
「知ってるなら話は早いな。残念だが延期だ、今日のは」
「まあ延期ってだけならいいじゃん。失われないよ、お楽しみは。ねー? おひい」
見えない羅神をすり抜けて、良の指先は羅乃目の鼻をつつく。
「もーやめろって」
「はは、ごめんごめん」
不機嫌そうに唸って丸くなり直す姿を見届けると、起き上がってトキ時の隣に腰を下ろした。
「
……久々にちゃんと入ったかも、ここ」
ため息にも似た感嘆の吐息。高くもない天井を見上げて感慨に耽る。羅乃目と黒骸が来るよりも前、ここには良が住んでいた。
「確かに。ふたりで並んでると懐かしいかもな」
「まさかこんなことになるなんてなあー。人も増えちゃったし。賑やか賑やか」
「人と言うか
……まあなんと言うかだけどな」
笑うトキ時に対して、羅神はチラリと視線だけ向けた。
「あーあの時もトラだったっけか。なんだ、結局は人じゃないなあ」
「がおー」ふざけた良が虎の真似をして鳴き、なんとも自然な動きでトキ時の肩に頭を乗せる。「どうもトラでーす」
親友と、紅族と、憑守と。常連客だってそうだ。気が付けば随分と賑やかになった。
「そんでもって死神でーす。なあトキちゃん動物に好かれる体質?」
「どうだろうなあ。猫に手を引っ掻かれたりしてるからなあ」肩に良の頭を乗せたまま、目を閉じた。「本当に、よくできてるよ」
*
二年前。雪深い季節。鎌苅トキ時は勤めていた南町の高級料亭を辞めて、このしみったれた西町の外れに帰ってきていた。
先代の急逝から僅か十二日。早駕籠に大金を握らせて夜通し駆けて帰省すれば、訳もわからないうちにあれよあれよと葬儀と埋葬を終え、その掛けられる声の多さに先代の人望を痛いほどに感じ、またそれを失ったことを突き付けられている。
太都は盆地だ。夏は暑く、冬は雪深い自然に試される土地。例年通りに狂ったように降る雪が先代の埋葬の日だけ何故か晴れていて、空の青と積もった雪の白が美しかったことが、トキ時にはどことなく救いに思えた。
「
…………」
雑多な手続き、遺品の整理、食事処伊呂波の今後、勢いで辞めてきた誰にでも胸を張れる料理人としての輝かしい第一線。トキ時の頭を悩ませる事柄は、今なら売るほど湧き出てくる。
外で深く積もる雪と相まって、がらんとした暗い店内の悲壮感は強まるばかりだ。
「
……」
ため息くらいは出るだろうとわざと口を開けても、結局何も出てこない空洞をぱくぱくさせて持て余す。意味もなく腕を振り上げて、行き場のない感情を何処かに投げつけられないかと壁を見やる。何も飾られていない、空の一輪挿しが当たり前のようにそこに引っ掛かっているだけだった。仮に「何年もろくに帰ってこなかったお前よりも、遥かに先代と店のことを知っているが?」と偉そうな口を叩かれても反論できない。投げる動作さえも出来ずに、ただ重力に負けて定位置につく腕。
鎌苅トキ時は後悔していた。人生で二度目の深い後悔を。
「
……くそ」
上から何か羽織るでもなく、薄着のまま雪の中へ出た。冷たい空気で深呼吸すれば少しは頭が冴えるかと淡い期待を込めて。
静かに、だが確実に積もる大粒の雪に彩られた早朝の西町は嘘のように静かであった。シンとした音が聞こえる、矛盾が順当な表現になる世界。時間帯と天気のせいか、人の気配が全くない。
空を見上げる、容赦なく顔に雪がかかる。
見惚れている、白と白と白に。
息もできずに、しばし立ちすくむ。
ここで初めて、大きく深呼吸。
前方へと流れる白い息を追って、トキ時は宛てもなく雪の中を彷徨った。慣れ親しんだ土地だが、まともにこの町を歩くのは六年振りだ。掠れた記憶と雪でぼやけた町の輪郭は、懐かしさを振り撒いてはくれない。ぼくぼくと雪を踏み締める重い一歩はどこまでも平坦で、しばらく誰も道へ出ていないことを教えてくれる。
このまま振り返らずに歩いたら何処まで行けるのだろうか。何がある? 蜜か。反対側の花びらか。東町か。山は越えられるだろうか。何処にでも行けるようで、案外何処にも行けない。大人になるとはこんなことだったのだろうか。歩みに合わせてぐるぐると不毛な思考が浮かんでは消える。前提として、漠然とした無力感を抱えた時に考え事をするべきではない。
「足つめた」
誰の耳にも届かない独り言。冷たい空気で取り戻されつつある理性は、トキ時の足を店に戻そうとしている。端からはどう見ても不審者だ。そのうえ風邪をひきかねない。
自分でもどんどん馬鹿らしくなってきて、気分転換の意味を十二分に果たしたこの雪中散歩を切り上げる気持ちになった。思いの外歩いてきてしまっていることに気が付いて、自嘲気味に笑いながら振り返る。
ふと視界の端に違和感を覚えた。気がした。目線だけではなく首ごと違和感の先を追う。
雪が変な積もり方をしている道の脇。
「え、は、うわ」
ある程度の距離まで近付くと慌てて駆け寄
……りたいが足が上手く動かない。進む速度は変わらず、気持ちだけ先に転がっていく。
「お、おい、大丈夫か? 生きてるか?」
そこには、血塗れで雪に埋もれる男がいた。
赤と、白。
「ここどこ」
「びっ
……くりしたあ、ああ、ええと、西町、ですけど」
一応は心臓の動いていた男を放っておくなど到底出来ず、あまりの労力に半泣きになりながら(実際ほとんど泣いていたに等しい)なんとか店まで引き摺って帰ってきていた。
今だって、応急処置にでもなればと家中ひっくり返して集めた包帯を甲斐甲斐しく巻いている最中だった。顔の右側を覆う包帯を取り替えようと手を伸ばした瞬間、突然目を開けた男に手を掴まれて、今に至る。
「なんだ、あの世じゃないんだ」
トキ時の手を掴んだまま、残念そうな、掠れた男の声。
「あー、その、西町の飯屋です。伊呂波っていう。そこの奥の、ええと中庭の、小屋です、ここは」
何かを言おうと男が口を開けたが、出てきたのは盛大な咳だけであった。喉の奥を痛めつけて排出される耳障りな空気。それと連動するように、男は酷く苦しみだした。
「あ、あの、多分骨が折れているんだと思います、肋骨、とか? 熱もひどいし。あんた雪に埋まってて、生きてたから連れてきて、それで医者を呼ぼうと思ったんだけど、咄嗟に呼べるような医者が浮かばなくて。すみません、なんか、とりあえずぼろぼろだから応急処置だけでもしておこうかと思って
……」
咳のせいで響く骨折の痛みに悶えている男の背中をさすりながら、トキ時は最低限の状況説明に努める。
「
……た?」
「へ?」
「見た? ここ」
苦悶の表情で胸と腹の間を押さえ、咳のせいで息も絶え絶えといった様子であるにも関わらず、男は顔の包帯の下を見たかどうかを確認してきた。
「いえ
……汚れてるから替えようと思ったんですけど、その時に、起きたので」
数回小さく頷きながら、聞き取りにくい掠れた小さい声で質問を重ねてくる。
「見られた? 俺がここにいることを誰かに」
「いや、多分誰にも見られてないと思います」
「誰かに言った?」
「相手がいないので誰にも」
込み上がる咳を抑えようと声を上擦らせたり、軽い挙動にも痛みで顔を歪めながら、まだ続く。
「医者、結局呼んだ?」
「あ、いえ、呼べてないです」
「じゃあ呼ばなくていい。それで俺はすぐ出て行くから、あんたはなにも見なかったし、なにも知らない。いい?」
「いい? って、そんな体でどうしようってんだあんた」
「関係ないだろ」
起きあがろうとする男は、またしても咳の苦しみと痛みに阻まれて無様に布団へ返される。
「ちょ、ほら、もう! わかった! 誰にも言わないし医者も呼ばないから! とにかくちょっと寝てろってば! 起き上がれない、歩けない、つまりは出ていけない、だろ? 言わない言わない! せめてほら、なんか温かいもの出すからさ。食欲は? お粥くらいなら食べられるか? 出て行くのはそれからでも遅くないって、な?」
動いて熱が上がったのか、もう少しも動けない様子の男は諦めて瞬きで返事をした。
「あっ
……と、あの、一応包帯置いておくので。汚れたままだとよくないと思うんで。もしあの、出来そうだった、ら!」視線を合わせて伝わっていることを確認する。「あと、えーっと、あの、ここで死なれると大変なんで、それは無しで!お願いします!」
そう言い残して、後ろ手で戸を閉め母屋へと向かう。「とんだもの拾っちまったかも」という呟きは心に仕舞い込み、自宅のはずなのにまだどこかよそよそしい土間で襷掛けをした。
ハナから気付いてはいたのだ。全身彫り物だらけで血塗れで雪に埋まっているなんて、ここが北町寄りの西町であることを差っ引いても物騒度指数が高過ぎる。振り切っている。
それでもトキ時には見捨てるような選択肢が出てこなかった。優しくあれ。優しくありたい。手の届く範囲くらいはいい人でいたい。
「俺も大概頑固だよなあ」
父親譲りの頑固さと強引さを遺憾なく発揮した自覚を持ちながら、ああいう手合いはもしかしたら元気になった途端に逆上して刺してくるかも、などという不穏な思考を排除する為に、一心に釜を見つめている。
屋根の上では、雪が強弱を繰り返しながらも降り続いている。とうに日が昇ったはずなのに、この世は青白く暗い。
暗い、暗い。連想して引っ張り出されるトキ時の暗い部分。
いなくなってしまった人は、強い。更新されることなく、いつまでもそこにあり続ける。トキ時は今までの人生でいなくなってしまった人たちを頭に浮かべては、釜の隙間から漏れ出る白湯の気泡が弾けるのを眺める。適度に忘れた方が健全なのだろうと脳内討論に一旦の結末を与えた。
完成した粥と、重傷度合いを考えて用意した重湯を盆に乗せて掘立て小屋へと戻る。そろりと戸を開けると、大人しく寝ている男の姿を捉えられた。起こすのも忍びないが、体力の為にも食べさせた方がいいだろう。
「
…………」
この男、寝ているにしても静か過ぎる。まさか死んだのかと思って慌てて近寄り、胸へ耳を押し付けた。
「
……なに
……」
心音を確認すると同時に、鬱陶しそうに掠れた声が聞こえる。
「っと、よかった〜、あんた静か過ぎて死んだのかと」
「死ぬなって言ったり勝手に殺したり、忙しいなあんた
……そこ痛い、どいて」
「っつぁ! すみません! どきます、どきます」
トキ時はひとりでばたばたと音を立てている。
「ええと、こっちがお粥で、一応重湯も用意したんですけど
……」
「
……重湯」
男は遠慮なのか体力の限界なのか、か細い声を出したかと思うとまた咳き込んで苦しそうに身を捩った。顔の包帯も替えられていない。起き上がるのは困難そうだ。
「俺が後ろから支えますよ、ここで意地張っても仕方ないですから、遠慮しないでください」
大人しく支えられている男の背中は熱のせいでやけに温かく、しなやかな筋肉に覆われていて見た目よりもずっと柔らかかった。
「流石に食べさせられるのは男の自尊心があると思うので
……俺が介抱下手くそで嫌になるかもしれないですけど、ゆっくりで大丈夫ですよ。腹に何か入れましょう」
ゆっくり、と言うよりもじりじりと表現した方がしっくりくるような動きで、男は腕を持ち上げ匙を口元に持ってきた。ひと口。
「
…………うまい」
聞き逃しそうなくらい小さな声。それでも確かにそう呟いた。
時折り咳き込む背中をさすりながら、気長に完食を待つ。
「敬語」
「はひ!?」
「敬語、使わなくていい。気なんて使わないでいいから」
それだけ言うと、また重湯を口に運ぶ。
「あ
……はい。うん、わかった」
妙な時間だった。だが不思議と気まずい訳でも重い訳でもない。
「ごちそうさま」
案外育ちがいいのだろうか、重い頭に負けているのかお辞儀をしているのか判断が難しいところではあるが。
「
……うまかった。なんか、久々」倒れるように横になって深呼吸をする。「ありがとう」
お礼を言われて悪い気はしない。
「どういたしまして」
また咳き込む。この短時間で一体何度見ただろうか、この男の苦悶の表情を。
「なにか今できることあるか?」
「
……あんた、俺のこと知らないの?」
見当違いな返答ではあるが、恐らくはこの質問への回答がなによりも優先されるべき今できることなのだろう。
「んー」
トキ時は今一度まじまじと顔を覗き込んだが、いつどこの記憶からも合致する人物は出てこない。これだけ特徴的な見た目なら、そうそう忘れることもないだろう。
「知らないなあ、あんた有名人なのか?」
「
……北と西なら、まあまあそうかも」
「俺はここ数年南にいて、つい先日こっちに来たんだ。あ! まさかお尋ね者、とか?」
「いや、違うけど」
「ああじゃあ、違うならいいよ」
「
……変な奴」
「俺は鎌苅トキ時っていうんだ、あんたは?」
「俺の名前は知らない方がいい。関わると迷惑かけるだけだから」
「それは
……もう手遅れじゃないか?」
「これ以上はって話。俺のこと誰にも言わない方がいい、てか言わないで。でもごめん、本当に全然動けないから、少し置いて」
「いいぞ。好きなだけいろよ」
「ありがと、少し、寝る
……」
まるで気を失うように瞳を閉じた男は、また死んでいるのかと心配になるくらい静かに眠った。
素人のトキ時が気付けていない負傷を含めた内訳は、左鎖骨ひび、肋骨ひび一箇所、肋骨骨折一本、右足首捻挫、赤紫に変色し腫れた左肩、全身の打撲に伴う痣と斬り傷、などなど、などなど。それに加えて酷い風邪。これを満身創痍と呼ばずになんと呼ぶ。
朝飯を食べ損ねていることを思い出したトキ時は、手のつけられなかった粥を一度釜に戻して残りと合わせる。釜に入ったままの方はまだほのかに温かい。適当にかき混ぜて温度をならした。
悲しくてもつらくても苦しくても腹は減る。なにをするにも結局は腹が減る。食べたくなくても食べなくてはならない場面など掃いて捨てるほどある。その逆よりは圧倒的に幸せなのだろうと理解しつつも、生き物とはどうにも鬱陶しい構造をしている。
眼前の粥は完成から時間が経ってしまっているので味は落ちていく一方だ。食べ頃を過ぎてぶよぶよねちねちした白い流動食。なにかおかずを添える発想も浮かばず、店内の一角で無心で完食される。
この家は食卓というものがない。食事も団欒も、全て店の卓で行われていた。人が集まる場所、そこが一番温かい場所。対面式調理場の内側で、立ったまま簡単に自分の食事を済ませる先代を思い出す。いつも店を見ていた。客が入っていてもいなくても、ずっとそこから、温かい場所を見ていた。その傍らにずっと立っているべきではなかっただろうかという思いが、トキ時の頭から離れない。
この時のトキ時は、いっそ風邪をうつされて寝込んでしまえればいいと考えていた。下手に動けるから駄目なのではないか。思考が停止するくらいの熱に浮かされてしまえれば、一時的な逃避とはいえ現状と、現実と、向き合わなくてもよい口実ができる。
「もっと雪中散歩しとけばよかったんだよな」
あの時はどうしてか冷静になってしまった。
結果として男と出会うことになったのだが。
風邪をひきたいと思う脳みそと並行して、自分が風邪をひいたら誰があの男の看病をするのか、それでは文字通り共倒れだと考える脳みそも働いていた。相反する思考は、トキ時を挟んでそれぞれ仁王立ちしている。
しばらく卓に突っ伏してああだこうだ脳みそに心を傷付けられたりしていたが、思い立って二階から予備の布団を抱えて降ろしてきた。途中で何度も転げ落ちそうになりながら、なんならいっそのこと布団だけ先に階段から滑り落とせばよかったのではと降ろし終えた後に気付いたりしながら。
土間にある
細々とした用具から、竹筒の水筒を探し当てる。不具合がないか確認しながら洗い直し、飲み水を入れた。
一旦は、看病に専念することによって現実逃避する道を選んだらしい。それで風邪をもらったなら、それはそれで。
再び掘立て小屋の戸を開ける。相変わらず死んでいるのかと錯覚する静かな寝姿だが、顔の包帯が新しいものに替えられていた。汚れた包帯は綺麗に畳まれている。
咳と同時に薄く開いた目が合う。
「ちょっと湿気ってるけど予備の布団持ってきた、寒いようなら追加で使ってくれ。あとこれ飲み水な、置いておくから」
男の反応が薄いので、ほぼ無意識にその額へ手を当てる。
「うわ、また熱上がってるんじゃないか?」
ぼんやりとした瞳は間違いなくトキ時を捉えているが、目線が合っているとは思えなかった。その向こうか、はたまた手前か、別の何かを見ているかの様だ。どこからどう見ても心配になる。
「風邪の熱と、あとあれか、傷が熱を持つ、とか? 医者は駄目でも薬くらい買ってくるか。つらそうにして適当にごほごほ言ってりゃあ出して貰えるだろ」
微かに動いた男の唇は、なにも伝えてこない。
「体の傷の方も何か塗った方がいいよな。待ってろよ、買い出し行ってくるから。えっと、今は一応朝の範疇なんだ。昼過ぎにたまご酒でも用意するから寝てろよな」
ドタバタとトキ時は掘立て小屋を後にする。
男の口の中で「
……変な奴」と呟かれていた。
三日程度では男の熱も下がらず、初日と変わらない光景が掘立て小屋の中に広がっていた。
トキ時がつらそうにして適当にごほごほして買ってきた薬は、意味がないとは言わないまでもさほど効果を実感できていなかった。適当な演技で貰ったので弱い薬だったのだろうか。
「あんた隈がひどいなあ、咳と痛みでろくに眠れてないだろ? 薬がもっと効けばいいんだけどな」
「
……隈は元から。寝るの下手くそなんだ」
「難儀だなあ。そしたら寝る頃に白湯持ってくるよ、体が温まった方が眠れるんだ。十の駄目が、八の駄目になるかもしれないからな」
そう言いながらトキ時は男の腕の包帯を変えている。清潔に保つ方がいいだろうと、体を拭くついでに毎日甲斐甲斐しく交換しているのだ。
「体の包帯も交換するからな。起きあがらせるぞ。ゆっくりな」
「
……俺が言うことじゃないけど、あんたこんなに俺に構ってていいの?」
「ああ、いいんだ。こっちの身勝手なことを言わせてもらうと、正直なところ俺もかなり気が紛れて助かってる」
「
……そう。お互い助かってるなら、いいか」
一週間もすれば、男の熱は平常なものに戻っていた。しかし咳は残り続け、確実に体力を削りながら外傷の治りを遅らせている。起き上がれる時間は増えたものの、苦しそうに眉間に皺を寄せている時間は減っていない。
「なあ、あんたのこと『トラ』って呼んでいいか?」
トキ時は軽めの食事をお盆に乗せて掘立て小屋に登場するなり、こんなことを口にした。
「なんで」
「いやー呼べる名前がないと不便なんだよ」
「
……別にいいけど、なんでトラ」
布団の横へお盆を置き、なんとなく向き合うふたり。
「んーなんとなくあんた猫っぽいんだよな。でもタマって雰囲気じゃないし、かと言って犬っぽくないし」
顎に指を添え、いたって真面目な顔でトキ時は提案しているのだ。
「それに背中に虎が入ってるだろ? トラも猫だしいいかなと思ってさ」
「ネコって」男は眉を下げて吹き出すように笑った。「いってぇ
……笑わせないでよ、猫ね、そういうつもりじゃないのはわかるけど、意味わかって使ってる?」
「?」
傷に響かないように笑いを抑えているが、そこに咳も混ざり混んで男はひとりでしっちゃかめっちゃかになってしまった。
「な、なんだよ、そんなに面白いこと言ったか?」
腑に落ちない顔で背中をさするトキ時を見て、男はまた笑いそうになっている。
「違う、違うよ、ごめん」深呼吸を挟んで、笑いと咳で乱れた呼吸を整える。「猫か、いいよ、好きにして、置いてもらってるのはこっちだし。好きだからわざわざ背中に入れてるわけだし。たった今からトラだよ、俺の名前」
この男、改めトラ。トラが少し砕けた様子になり笑顔を見せたのは、これが出会ってから初めてのことであった。
そろそろひと月が見えてきた頃、掘立て小屋を覗くとトラが部屋の僅かな出っ張りに指を掛けて懸垂をしていた。滲む汗から回数を重ねた後だと推察できる。
「もうそんなに動いて大丈夫なのか?」
頻度はぐっと減ったが、トラの咳は相変わらずしぶとく残っていた。時たまひどく咳き込んで涙目になっている姿を見つけては、トキ時が慌てて背中をさすって水分を摂らせている。
「腕の方は平気」手を離して、床へ足をつける。「こっちの方はまだ痛くて駄目なんだけど、安静にって言われても体が鈍るのは避けたいし、持て余した性欲をいい感じに発散しないと。こういうのは運動に限る」
「せっ
……」
トラは相変わらず痛むあばらの辺りをさすりながらトキ時へ半歩近付き、トキ時は顔を赤くして半歩後ずさる。
「なに、童貞? だとしても自分でやるっしょ」トラは人差し指と親指で輪を作って一度上下に動かした。「ちゃんと抜いてる? あんまり溜めとくと使い物にならなくなるよ」
「どっ、ばっ、別に違うからな! いたからな彼女!!」
「へえ、ごめんごめん。過去形ってことはー、最近溜まってない? よければ極楽みせてやっけど」
「いい、いいです! ない!! 俺は女の子が好きだから!!」
「気が変わったら言ってよ。俺すげー上手いから。手っ取り早く前で抜いてやるのもいいけど、せっかくだから丁寧に後ろ慣らすところから始めてあ、げ、る」
「遠慮します!!」
内容は下世話で最低だが、トキ時とトラは軽口を叩ける様になってきていた。
特に教え合った訳ではないが、会話と見た目からなんとなく同年代だと感じ取っているのだ。決して気が合う訳ではないが、なんとなくお互いに居心地は悪くないのだろう。凸凹は比較的上手く噛み合っている様子だ。
ひとしきり笑うと、突然トラが顔を歪めてあばらの辺りを押さえてしゃがみ込む。
「おい」
運動のそれとは明らかに違う汗が滲みだした。
「やっぱりまだ動いたら駄目だったんだ。ほら、布団に戻れって」
トキ時は肩を抱くように支えてトラを布団に転がし直す。
「
……とっとと出ていかないと迷惑じゃん」
情けない表情を隠すように、トラは右の手の甲側を顔にあてている。見るなよ、とでも言いたげに。
「そんなことねえよ、大丈夫だから。気にせず療養しろってば」
「
…………」
どこからともなく嫌な沈黙が流れ込む。
じわり、ざわり。染みのような、影のような嫌な沈黙の気配。
「トラに聞いておきたいことがあるんだ」
沈黙の流入を防いだトキ時のひと声は、ずっと機会を伺っていたような緊張感を纏っていた。
トラは右手を少しずらしてきちんと視線をトキ時に向ける。
「なに?」
「一番最初に『あの世じゃないのか』って言ってたろ。だから、その
……死にたかったのかなって、思ってて、それで」
視線を外してしばし言葉を探している。本当はとっくに決まっていて脳内で何度も練習した言葉を、あたかも今作り上げているかのような表情をして、時間を稼いでいる。
意を決して、目を合わせた。
「迷惑だったかなって。助けたことが」
トラの瞳が僅かに揺れたように見えた。
「
……確かに死んでもいいとは思ってた。でも死にたかったかって聞かれると、正直違う、かな。生きるのが嫌だったのかも、わかんない。全部どうでもよかった」
「ここから出て行って、改めて死のうとか
……考えてるわけじゃないよな?」
「それはない、かな。まあこの体で北町彷徨いてたら結果として死にそうだけど。ちゃんとあんたには感謝してるよ」
顔から緊張が抜けたトキ時は、「ああ、そっか、よかった、うん、うん」と小さく呟くと「死なれたら嫌だから、まだうちに居てもらわないとな!」とにっこり付け足した。
つられて気の抜けたトラも、なんとなく口角が緩む。
「なあトラは強そうなのに、なんであんなにぼろぼろだったんだ?」
気が緩んだついでに勢いで聞きにくい質問を重ねることにしたらしい。実にずけずけいく。明らかに自尊心を傷付けそうな質問は控えるべきではないだろうか。
「ああ、んー、なんつーか
……自暴自棄」
「
……自暴自棄とは違うけど、なんかどうしようもなく駄目だーってなった時はとりあえずあったかくて美味い物を腹一杯食うといいぞ。それから考えたり悩んだりするのがいい。なにをするにもまずは腹を満たすんだ。受け売りだけどな!」
受け売りを受け売りながら、トキ時はこの言葉を他でもない自分が実行できていないことに気が付いていた。仕上げに砕いた己の心をふりかけて、悲しみと憤りと喪失感と無力感の味がする飯を食っている。
「食欲もあるし、ちゃんと起き上がれるんだろ? 咳もきっともう移るようなもんじゃないだろうし、今日からは一緒に飯を食おう。精がつくように夕飯は豪勢にするからな!」
トキ時の目の下には、うっすらと隈ができ始めている。
それぞれの理由で、精がつく夕飯を食べるべき男たち。
ひと月と半分くらい過ぎた頃。
トラはどうやら人との物理的距離感が近い性質らしい。誰とでもという訳ではないだろうが、少なくともトキ時への距離はこの期間でかなり近いものになっていた。気紛れに寄ってきて食事をねだる。なんとなく猫っぽいというトキ時の評価はあながち的外れでもなかったらしい。
対面式調理場の中でトキ時の斜め後ろにぴたりとつけ、今は少し違う話題を振ってきている。
「なあ、彫り物興味ない? 俺彫り師なんだ。どう? 好きなの入れるよ」
「彫り物かあー、痛そうだし俺には必要ないかなあ」
トキ時はその近い距離をなんとも思っていない様子で受け入れている。トラを
虎とでも思っているのだろう。この彫り物だらけで顔に包帯を巻いた筋肉質の得体の知れない大男を。警戒心というものはないのだろうか。いや、そもそもそんなものがあったならば半分泣きながら苦労して引き摺って連れ帰っては来ない。
「じゃあやっぱ俺と寝ようよ。別にあんたが相手だったら俺が女役でもいいし。ね?」
「それは前にも断っただろ? 案外しつこいな」
笑顔で顔を覗き込んで放たれた誘いは、心理的に冷たく突き放されてしまった。トラは不満そうに口を結んで一歩離れる。
「だって俺は
……墨が彫れることと、閨事がすげえ上手いことと、あとは喧嘩が強いくらいしかないよ、返せるもの。命を救ってもらった対価なんてとんでもないもの、一体なにで払ったらいい。どう恩を返せばいい。なにをしたらいい。なにをして欲しい」
少しだけ駄々をこねるような声色。まるで言葉だけで縋りついてくるような。
「墨は彫らないし、女の子が好きだからあんたとは寝ないし、暴力は嫌いだな」
「俺には他にないんだってば」
「俺は別に見返りが欲しかった訳じゃない。ただ大雪の中意味わからねえ時間に意味わからねえ場所をうろうろ散歩して、気を紛らわせようとしてたらあんたを見つけただけだ。生きてたから、死なせたくなかっただけだ」
「意味わかんねえ、なんにしたって優しすぎ。なにかさせてよ。貰ってばっかりなんだってば。こういう時どうしたらいい」
「それを失敗してる俺に聞くなよ」
「
……失敗してんの?」
「そうだよ、そう。もう大失敗だ。ああそうだ、もう、なんだ、そうだ、俺の話を聞いてくれよ。とりあえずそれでいいから、なにも言わなくていいから。聞いてくれよ、頼むよ」
縋る者が、入れ替わった瞬間であった。
トキ時はふらふらと対面式調理場から出て、目の前にある無造作に積み上げられた予備の椅子をひとつひったくり、力無く座った。
「
……わかった。なに?」
恩返しの一環になるならと、トラもそれに倣う。正面につけるのも躊躇われて、少し離れて横並びに座った。
「俺は南町の料亭で働いてたんだ。それで、戻って来てこの店を継ぐつもりだった。継ぐつもりだったからこそ、俺が立派な料理人になることが一番大切だと思ってた。修行して立派な料理人になって帰って来れば
……だから、全然帰ってなかった、ここに。先代に胸張って自慢してもらえる存在になりたかったんだ、だから南町で立派に働いて、帰ってきてここを継ぐのが、一番
……」
前後や背景を知らないトラは話がよく見えないままではあったが、ひと言も、一音も、聞き逃さないよう真剣に耳を傾けている。
「十五の時からだから六年か。手紙は出してたし、そりゃあたまに帰ってきてた。たまに、本当にたまに。とにかく仕事も楽しかったんだ。夢中で
……でも同時にこれが一番孝行できる道だと信じてた」
南町、料亭、料理人、継ぐ、孝行、夢中、帰らなかった。単語を整理しながら耳を傾け、なんとなく背景を想像する。
「後悔してる。胸が悪いのを隠されてたんだ、体調が優れないから危ないかもしれないって連絡じゃなくて、死んだって連絡が突然来た。確かに高齢ではあったんだ。でもそんな、まさか、急に。どうして
……俺に言うなって、周りの奴らにも言ってたらしい。心配かけたくないからって、こんな店より南町で働ける方がきっと俺の為になるからって
……!」
ぼんやりと光のない瞳で前方を見ていたトキ時が、勢いよくトラの方へ向く。
「俺はこの店を継ぐ為に南町で修行してたんだ、本当だ。継ぐんだ、信じてくれ」
「う、うん
……」
圧倒されていた。
トキ時の口は言葉の止め方を忘れてしまったらしい。次々に、ぼろぼろと、床に落ちていく。それでいてどうにか理性的であろうともがく姿はなんとも痛々しい。誰にも言えなかった後悔と懺悔を吐き切るつもりでいる。
「でもさ、俺は本当に救いようがなくて
……向こうで付き合ってた子に、言ってなかったんだ。いつか西町に帰ること」
ふっと、不気味に口角が上がった。目は笑っていない。自嘲している。己を心の底から軽蔑している顔。
「その子とは本気だった、祝言をあげるつもりでいた。でも言ってなかった、言えなかったんだ。きっと西町の外れで小さな飯屋になるなんて言ったら、全部壊れると思った。最低だろ? 馬鹿でクズなんだよ俺は。でも継ぐのは本当の本気で、彼女との祝言も本当の本気で
……俺は、最低なんだ」
「あんたの飯、美味いよ、全部。俺が今まで食べた中で一番美味い。これだけ腕を磨いて帰ってこようと思ってたんなら、きっと嬉しいと思う
……こんな言葉、気休めにもならないだろうけど」
トラはなにも言わなくていいと言われていたものの、なにかを言わなくてはならないと感じていた。恩人が今にも後悔と自責の念でとり殺されそうになっている。
「悪い、こんな、ごめん」
「浅い間柄だからこそ話せる深いこともあるよ。俺はこの話をわざわざ誰かに言ったりしないし、あんたを決して馬鹿にしないし、そもそも馬鹿だともクズだとも思わない。聡明で真っ直ぐないい男だよ」
気休めは届いただろうか。届いていないから、まだ壊れたように言葉が溢れてくるのか。
「
……当然、彼女はついてこなかった。当たり前だよな。結局は高級料亭で働く俺が好きだったんだーなんて、そんな冷たいことは言わないけどさ。今後の生活とか、西町の存在自体を考えて、当たり前の結論を出されたんだ。彼女のことは本気で悲しいけど、先代にもっとお礼を言いたかったとか、もっと帰ってきて色々教えてもらえばよかったとか。そもそも南町に修行なんて出ないでずっとここで隣に居たらよかったとか、そっちの方が遥かに圧倒的で、圧倒的すぎて。俺は
……彼女のことはそんなに好きじゃなかったんじゃないかって、思ってきて
……」
「あんたの中に優先順位があった、んじゃない? 一番を決めることは別に悪いことじゃないし、他人が口出し出来るもんでもないよ」
「一番か、一番なあ
……一番の先代にあんなにたくさん貰ってたのに、俺はなにひとつ返せてない
…………なあ俺どうしたらよかったんだ? 返す相手が死んでるんだ
……あああもう駄目だ!! 全部駄目なんだ!! だから言ったろ? あんたの看病に専念してると気が紛れて助かるって。そうだよ! そんな現実逃避みたいなことの為に助けたんだ! あんたのこと!」
頭を抱えて声を荒けるトキ時と、不明瞭ながらも繋がる話。少なくともトキ時にとっては全て繋がっていて意味と理由があった。それの結果が、今である。
「
……例えあんたがこの件で断罪されたいと願っていたとしても、俺はそんなことしない。あんたは最低でもなんでもない。だってあんたがいなかったら俺はあのまま死んでた訳で。あんたが意味わからない時間に意味わからない場所を彷徨いてたおかげなんだろ? そうやって悔やんで現実逃避してたから俺が今生きてる。俺は間違いなく、あんたに救われてる
……そんで、優しい。あんたは、心配になるくらい」
トラはトキ時の様子を伺っている。まだ続きがあるのならば遮らないつもりで気を張っているが、どうやら一度出し切った様子だった。
「俺はまだこんなだし、もうしばらくここで厄介になる。その間、変わらずにあんたを誘い続ける。あんたの気が変わってくれたら一番わかりやすくていいんだけど、断り続けてもいい。あんたが俺の恩人である限り、俺は俺の知ってるやり方で誠意を見せたい。だからあんたも、今までみたいに都合よく俺に構って現実逃避しててよ」
「もうそろそろ」と言うトラを引き留め引き留め、奇妙な同棲生活はかれこれ三ヶ月になろうとしていた。
出て行く機会を失っているだけで、トラはもうすっかり回復していたし、筋肉に相当な負荷をかけて鍛練もしている。鈍っていた体の感覚は取り戻されつつあった。
トキ時はまだ店を開けていなかった。
そんなある日。
「おい、お前が店主か?」
「え、あ
……はい、そうです、けど」
突然の来訪者の問いは、語尾に「多分」とでも付け足しそうなくらいに、自分の立場が曖昧だという事実をトキ時に思い出させた。
「おいおいおいおい、みかじめ料を三ヶ月も滞納しておいて? 俺にそんな対応あり? 大丈夫? 自分の立場わかってる?」
「えっ?!」
「舐めてんの? 状況把握できてる?」
「え、その
……なにがなんだか」
いかにも悪そうな男は馬鹿にするような態度を取りながら店内へずかずかと入って来る。
「っぷー! あーあー可哀想なお前に説明してあげようかな、俺ってば優しー! お前らもそう思うだろ?」
その言葉を合図に後から後から似たような人相の男が八人も入ってきた。この時既にトキ時の顔は真っ青である。明らかに穏やかではない。そしてなにも心当たりがない。
俺らはこのチンケな店のケツ持ちをしている浅沼組で〜す! そしてこの俺が組長の浅沼で〜す! みかじめ料を滞納してやがるからわざわざ出向いて来てやってんだよわかったかこのダボ!!」
「うわ、ひっ、ごごごめんなさい!!」
「ごめんなさいじゃねえだろ!! 出せよ金をよお! 誰のおかげでここに店構えてられると思ってんだよ!!」
「あっ、の、おいくらですか」
「三千両」
軽い様子で手のひらを上に向けて突き出し、さあ払えと言わんばかりに浅沼はトキ時へ一歩近づいた。
「さ、ぜッ?! さ、三ヶ月分ですよね?! そんな大金
……」
「そんな大金払えないってぇ?! 払ってなけりゃあ利子がつくだろうがよ!! 馬鹿が!!」
「そんな」
「払えねえってんならよお、こっちも当然それ相応の対応があるってもんだよなあ?!」
浅沼は前に出していた手を返して手近な卓を思い切り拳で叩いた。
トキ時は怯えて肩をすくめる。
「す、すみません! で、でも今すぐにそんな大金用意できないです」
「ああ? じゃあどうすんだ? あー優しいから選ばせてやろうかなー?! 死ぬまで労働するか玩具代わりに嬲り殺されるのはどっちがいい」
到底払えない大金と到底受け入れ難い提案に、全身から嫌な汗が止まらない。このままだと殺される。
この店の後ろにヤクザ者がついているとは夢にも思っていなかったトキ時は、死を感じて脳内で人生が走馬灯のように駆け巡っている。走馬灯ついでに幼少期にこの店の後ろにそんな影があったかどうかを探ってみたが、隠されていたのか幼くてわからなかったのか、そんなものを見つけることはできなかった。
西町で商売をするのならば、確かに後ろに誰もいない方が珍しい。冷静に考えれば脳みそに違和感として引っかかってきそうな事柄も、この三ヶ月間では全て見落とし滑り落ちていっていた。
脇から出る汗が不快に二の腕を伝った。
背中の汗は帯まで届いて着物に染み込んだ。
寒くもないのに、今にも奥歯がガチガチ鳴りそうになる。
「
……っぷー! そんなに怖がんなよ! 悪い悪い! 嘘! 嘘うそウソ!」
あまりにも追い詰められたトキ時の姿を見て、浅沼は表現をころっと変えていたずらっぽく笑っている。全然可愛くないので正直やめてもらいたい。
「は
……え?」
「そんなにビビるなよ、悪かったって、そりゃあ滞納してたら脅かすくらいはするだろうよ慈善事業じゃねえんだからよ。ってなわけでこの店貰うからな。滞納したら店で支払う約束になってるもんなあ」
「ええ?!?!?!」
トキ時は腹の底から声が出た。
「え?! 店?! そんな、ここ俺の家なんですけど」
「おいおいおいおい、おい。てめえの立場わかってんのかってさっきも聞いたよなあ?約束守ってねえのはそっちだろうが!! タマ取られねえだけありがたいと思え!! 優しいだろうがよ俺はよお!! いいんだぜ? お前をバラしてからこの店貰うってひと手間増えるだけだからよお!」
「そ、そんな約束知らなかったんです、お金は待ってくださ
……」
「そんなヌルいこと言える立場じゃねえこと、思い知らせてやらねえと駄目みてえだな!」
浅沼が合図をすると、背後で今か今かと待ち侘びていた八人の男たちが殴りかかってきた。
「うわあああ!」
──その時。
「なにを大騒ぎしているのですか。これでは盗み聞きするつもりがなくても筒抜けですよ」
「んだてめえ、ッ気持ち悪い野郎だな」
「
……!」
土間からトラが出てきたのだ。顔だけでなく全身を包帯でぐるぐる巻きにして、頭巾のように布まで被っている。出ているのは左の目玉だけ
……そして妙に高くて丁寧な声色にわざと変えている。
「ああ、これですか? 三年前の南町の大火、勿論ご存知でしょう? あれですよ。命だけは助かったのですが、これが本当に命だけ。見ますか? これの下」
「チッ、見せんな! 気色悪い」
「失礼しました、私は彼の友人です。彼は南町に居ましたから、休暇を使ってこうして会いに来ているのです。私は
例繰方の末席の末席の末席を汚す者とでも言いましょうか。こんな体なもので調査にも出向かせてもらえないのです。記録の保存が主な仕事でございますから、湿ってカビの生えた本当につまらない小物でございます」
例繰方とは、奉行所の役職のひとつである。男たちは殺気立って身構えた。
「嫌ですね、勘違いなさらないでください。私はあなた方の諍いに口を挟むつもりはございません。ただ、曲がりなりにも奉行所勤めの身でございます。そういったお約束ごとにはきちんと書類を用意しているのではありませんか? それを確認させてもらいたいのです。まさか口約束だけだなんて、昨今そんな前時代的なこともありませんでしょう? 双方同意でお約束されているならば私は一切口出しいたしません。ええ、到底口出し出来ることではございません、成立しているのですから。でもそちら様が勝手に騒ぎ立てているのであれば
……僅かに残る正義心と友への情で上へ報告を入れざるを得ないのです。この私の微妙な立場、ご理解いただけますでしょう?」
トラはやや早口で畳み掛けるように話している。まるで浅沼に口を挟ませないように。
「悪い話ではないでしょう? 明日の同じ時間にこちらへいらしてください。そしてお見せください、私に、書類を。たったそれだけでよいのです。たったそれだけで」
包帯の隙間から覗く目玉が、ほんの少し下弦の月のように弧を描く。
「みかじめ料を未納にされたうえに、騒ぎを大きくして下手に奉行所に話を持っていかれれば面倒なことになりませんか? それは、そちらのご職業としても少々恥ずかしいことなのではありませんか? 見せるだけですよ。私に。たった、それだけです」
「
…………行くぞ、野郎ども。明日だな、持ってきてやるよキッチリ揃えてなあ! 首洗って待ってろ! ビビって逃げるんじゃねえぞ!」
「お待ちしております。また、明日」
唖然としているトキ時の額から汗が流れる。
男たちの気配が完全に消えた頃、トラは口を開いた。
「行ったか
……どうするにしても、時間稼ぎにはなったかな。あーあいつらが馬鹿でよかったー、適当にそれっぽい言葉を小難しい雰囲気で並べて捲し立てたら絶対丸め込めると思ったんだよね。成功成功」
窮屈だったのか、手始めに腕の包帯から外し始めている。
まだ状況が飲み込めていないトキ時は、乱暴に閉められた為に反動で少し開いていた戸を端まで閉めながら、唇を薄く開いている。
「大丈夫?」
「あっ、ええと
……」戸を閉めるという日常の動作で、僅かに落ち着きを取り戻す。「なんであんな奴らと先代が
……」
「浅沼んところは立派な親父が最近おっ死んじまってな、目先の金儲けにしか頭の働かねえカスみてえな息子に代替わりしてんの。そんでこの店もちょうど代替わりで残念なことに引き継ぎができてない
……都合がいい、目ぇ付けられたな」
それでもまだ上の空の様子で、トキ時は額の汗を拭った。今度は急速に冷えていく感覚が襲う。冷静になっていく脳みそと体。目線だけ店の中を泳がせた後、最終的にそれをトラに合わせる。
「一応言っておくと、浅沼の先代はヤクザ者としては義理堅くて筋の通った男だった。それにここいらで商売するのに後ろに誰もいないのは心許ない。それならあり得る話だとは思うけど?」
「
…………」
「確認だけど、あんたはこの店をどうしたい」
「え」
「南町にいたんだろ? いっそここを手放して戻る方が利口と言えば、そう」
この店を継ぐ為に南町で修行を積んでいたトキ時は、未だに店を開けていない。あの言葉を信じていないわけではないだろうが、選択肢として利口な方も提示するべきだと判断したのだろう。
「俺は
……」
合わせた目をさっと逸らして、閉じる。薄く浮かんだ眉間の皺は、己で決めた道を進むことへの迷いにも似ていた。眉間を断絶する皺、継ぐ為に帰ってきた店をいつまでも開けない自分自身。
耳を塞いで目を閉じて形をやめてうずくまっていた。それはどろどろなのかふわふわなのか。わざと手放していた自分を今一度抱きしめ直す。
まだ戻れる。
長い沈黙はふたりの男を断絶しなかった。答えを催促せずに口を閉じてじっと待つトラ。
「俺は
……」迷いながら開かれたかに思われた口は、そこで一度動きを止める。次の言葉は決まりきっているはずだ。それでも口に出すという行為は時に勇気を必要とする。
「俺はここで伊呂波を続ける。継ぐんだ。俺がそう決めた。その為に帰ってきたんだ。あいつらに店は渡さない。あいつらと交渉する。痛い目に遭うかもしれないけど、金はなんとしても待ってもらう」
あの時の縋るような目でも、力無く言い訳に塗れた目でもない。自分の意思を込めた真っ直ぐな瞳に光が宿っている。現実逃避を辞めた瞳。
「
……わかった。上手くいく保証はないけど俺に策がある。乗る?」
「乗る!」
場違いなくらいに大変よい返事である。
「
……そしたら、一旦俺を信用して。別に人柄とか人間としてとか、そういうことじゃなくて。俺が今からこの店を守る為にする行動に対して、信用して」
「他に頼れる奴がいないんだ。あんたを丸ごと信用も信頼もするよ」
「さっきはあんなに情けない声あげてたくせに。びびりなんだか肝が座ってんだか、本当に変な奴」
トラは店主でもないのに、手のひらでどうぞと指し示してトキ時を適当な椅子へ座らせた。
「さっきは適当言ったけど、あいつらとの間に正式に書面で約束ごとを交わしてる可能性は?」
そして自身も向かい合って座る。
「それはわからないんだ本当に、念の為に探してみる。書類関係はそんなあちこちに仕舞われていないだろうから」
「お願い。多分向こうさんはそんなものなかったとしても偽物作って持ってくるとは思うけど。割印が捺されてるようなやつ一応探しておいて」
「で、でも本当に書類が出てきて約束がきちんと交わされていたらどうするんだ? まさか見放すのか?」
「まっさか。決定的な言いがかりをつける為だったとはいえ、みかじめ料を三ヶ月分も未納にされてるうえに督促しなかったってのはヤクザ者には沽券に関わる。それとあいつらの内外と上層部からの評判の悪さを突く。あとは多少のでっち上げ」
「でっち上げ?」
「そ。
至勢会系大竹組傘下浅沼組。至勢会系なら顔が効くもんでね。大黒組の方と懇ろなんだけどあそこはお互いそれほど仲が悪いわけじゃないし
……まあやるだけやってみる。大竹の親分が乗ってくれるかは博打」
「あんた、なにを
……」
「任せろよ、俺に」
言われた通りに家中ひっくり返して書類を探したが、そんなものはどこからも出てくることはなかった。口約束か、はたまた浅沼組のケツ持ち自体がでまかせなのか。
念の為に店から出ず、もし浅沼組の輩が乗り込んで来たらどうしようかと、少々生きた心地がしないままにトキ時は夜を明かした。
「お待たせ。なにもなかった?」
全身包帯では目立ちすぎるので、布で目深に顔を隠したトラが帰ってきた。久々に店の外へ堂々と出て行ったので、そのまま帰ってこない可能性も十分にあり得たが律儀に帰ってきた。
「よかった、なにもない、なにも、大丈夫だ。それから書類もなかった。もしかしたらそもそもこの店の後ろに浅沼組はいないのかもしれない」
「ああ、確かにそういう可能性もある、か。まあなんにせよ今日で全部解決」トラは懐から一枚の紙を取り出す。「この店に出入りしている業者と仕入れ先、あんたがまとめてくれたこの紙に不足がなければ今後も取引続けて問題なさそう。変に息がかかってるところは後々やっかいだから」
「あ、ありがとう」
「あいつらが来てどうなるかわからないから、あんたは隠れてて。あー、入り口の戸くらいは、壊しちゃう、かも」
「ええ?! 壊すなよ! なんでだよ!!」
「いや気を付けるって、あいつらが閉めたりしなければ大丈夫だって、上手くやるって」
守るはずの店の破壊宣言にトキ時は盛大にツッコミを入れた。
「これから守ろうって場所だぞ?! なんでそうなるんだよ!!」
「ごめんて、最大限努力するって。でも最終的には拳がものをいうじゃん? ほらそろそろ時間だから奥に隠れてて」
「交渉だぞ?! 拳はものいわないからな! 暴力はよくない!」
「はいはい、よくないよくない。知ってる知ってる。危ないから出てきちゃ駄目〜」
「危ない?! こ、交渉だろ?!」
全く緊張感のないトラはへらへらしながらトキ時の背中をぐいぐい押して奥へ引っ込ませると、変装用に包帯を巻き始めた。何故こんなにこの家に包帯があるのかというと、「毎日交換するし洗い替えで必要だろう」と、トキ時が多めに買って用意していたからだ。そのおかげで傷は清潔に保たれ、そして今は変装にも使えるというお釣りがくるおまけ付き。思いもよらないところで役に立つものである。
身支度を終えたトラは店を壊さない為か、通りに出て浅沼組を待ち構えることにしたらしい。
道の向こうから浅沼を筆頭に男たちがぞろぞろと歩いてくる。人数はきっかり九人、本日も全員揃っての来店である。威嚇のつもりなのか、やたらと白鞘の匕首やら短刀やらをチャカチャカとチラつかせて歩いている。むしろ自分の弱さを主張していることに気が付いていない。トラは包帯の下で鼻で笑った。
「おうおう店の外でお出迎えとはなあ」
「ご足労お掛けしました。少しでもお手間を省こうと、こうして店の外でお待ちしていた次第でごさいます」
頃合いを見計らうとトラは深々と礼をして、自然な流れで浅沼ご一行の足を止めさせた。お互いの間合いの外であろう位置に。
「店主はどうしたよ」
「あなた方にご面倒をかけているのは私です。私さえいれば筋は通っているのではありませんか? むしろひとりなのにビビって逃げなかったことを褒めていただきたいですね」
トラは世間話をするかのような軽い口調で笑う。
「チッ。脳みそまで焼けちまってやがる。ほらよ、こいつを見せれば文句ねえんだろうが」
浅沼は忌々しそうに懐から折り畳まれた紙を一枚取り出すと突き出してきた。やや離れた位置からでもわかるほどにその紙は真新しく、急拵えで用意した偽物だと直ぐにわかる。
「拝見します」微笑みを崩さずに(左の目玉しか見えていないが)、トラは近づいて両手で紙を受け取った。「ほほう、これはこれは」
いかにも内容を確認していますよ、と言いたげに「ふむ」だとか「ほう」だとかを呟きながら、ごく自然な動きで再び間合いの外に出るまで後ろに下がった。
「
……はい、しかと確認しました」
「じゃあもう文句はねえだろ、真っ当に仕事させてもらおうじゃねえか」
浅沼の返却を催促する手を無視してトラは顔の高さまで書類を持ってくると、躊躇いもなくそれを縦に割いた。
「なッ?! てンめえ!!」
青筋立てたおっかない顔には見向きもせず、そのままどんどん小さく割いていき、最後はパッと宙に紙吹雪を降らせた。
「まあまあ、お待ちくださいよ」
「?!」
トラは声色を変えるのを辞め、包帯を手際よく解いていく。
「さて問題です」両腕の包帯を地面に落とし、脚に巻いていた包帯も解く。「お前らが喧嘩を売っていたのは
……」
被っていた布をするりと外し、器用に顔の右半分を覆う包帯を残して他の部分を露わにする。
「いったい誰だったでしょうか?」
彫り物だらけの顔に不敵な笑みを浮かべ、着物の右袖を抜いた下から覗くは桜吹雪。その姿まさしく。
「ッ死神
……?!」
「ご名答〜おめでとさん」
無邪気に拍手をして浅沼を称賛する。いや、明らかに邪気と悪意を含んだ最低の拍手だ。
「まさか本当に気付いてないとはね。あー馬鹿でよかったー」
「てめえ死んだんじゃなかったのかよ」
「笑わせる。死神を連れていく死神なんて、あの世のどこ探してもいないだろうな」
「つうかよ、なんでんなことしてやがる。なんでここに居る!」
「害虫駆除」
浅沼の眉間がぴくりと動いた。
「
……でもよお、いいのかー? 俺たちに手を出して。仮にも至勢会系の傘下なんだぜ? 丸ごと相手するってか?」
「あれ、知らない? お前らはもう大竹組の傘下じゃねえって。そろそろ離縁状が方々に届いてる頃かな」
「はあ?!」
「俺は死んでないし、お前らは孤立無援。嫌だねえ情報に疎いのは。ってなわけで」
トラは自分の首元で手刀を素早く動かして首を斬る表現をする。つまりは死刑ないし、私刑宣告というわけだ。
「り、離縁なんてどうせでまかせだろ?! なんなんだ! 意味がわからねえ!! なにもかも!! なんだってんだ!! なにが起きてやがる!!」
「いいよわかんなくて、馬鹿なんだから。でも離縁される心当たりが全くないわけじゃないっしょ、もっと考えて行動しないと。そんで泣こうが喚こうがお前らはここで最後」
「クッソ! 馬鹿はてめえだ! 多勢に無勢! てめえひとりに俺たちが負けるはずがねえ! こっちは九人いるんだぞ! 武器もある!!」
「へえ、どうかな? じゃあ試してみよっか」
全く動じず余裕綽々の態度が気に入らない浅沼は、果実のように顔を真っ赤にして憤怒して叫ぶ。
「クソッ! やっちまえ!! お前ら!!」
浅沼の構成員が各々武器を構えて距離を詰めてきた。
「肩慣らしには丁度いい」
それでもまだ余裕の構えで肩の力を抜いて立つ。
「遊ぼうぜ?」
統率が取れているのかいないのか、揃って猪のように突っ込んでくる男たちの初撃を軽くかわして分散させた。
その内のひとりが片足を軸にして最短で切り返してきた。思いの外見どころがある。
それでもトラの敵ではない。逆に間合いを急激に詰めて怯ませると、ニッと笑って金的をお見舞いする。ゴッという実に嫌な音がした。
「あっは、使いもんにならなくなったらごめん」
白目で崩れ落ちる男の背後からもうひとり飛び出してくるので受け流し、自身の背後に迫っていた男にそのままの勢いでぶつけて同士討ちさせる。
「刃物持ってる時、ダマになるなって言われない?」
あっという間に三人倒れて、男たちが一度間合いを取り直した。おい誰がいく? とでも言いたそうに横目で合図を送り合う。
「つまんねえの。ま、久々だし、必要以上に派手に暴れちゃおっかな」
横軸で回転しながら勢いをつけ、巻き込むように蹴り倒す。
則宙と側転で攻撃を避け、途中で抜き身の鞘を拾って流れるように攻撃に移る。
体勢を低くして間合いを詰めてくる男の頭上を、軽く飛び越えて避ける。
トラの喧嘩(あえてこう表現している)はまるで曲芸のようにしなやかで、軽やかで、なにかの演目を見せられているかのようだった。しかしそれでいて打撃は重く芯がある。攻守は緩急がついており、動き続けているので間合いが探りにくく仕掛けにくい。特にこだわりがないのか、拳に蹴り、果ては倒れ込んだ男に拾った鞘に刀に
……とにかくなんでも使いこなしている。全てが自分の延長であり、自分が全ての延長であるかのように。これはさすがに言い過ぎか、とにかく非常に器用だ。
「
…………な、なにが起きてるんだ」
それをこっそり見ていたのはトキ時。
静かな店内、騒がしい店の外。不審に思って細く開けた戸の隙間から前の通りを覗くのは当然の行為であろう。言わばここは特等席である。
「ぜ、全然わからねえ」
トラのしなやかで美しい演目も、素人で目の慣れていないトキ時にしてみれば一種の奇術のようにも見える。
「ああっ、ぼ、暴力反対!」「ひっ、痛い痛い!」「避けろ後ろ!」独り言をもらしながら観戦をしている。あまりに一方的な展開なので、思わず浅沼の構成員を応援してしまった。
あれよあれと、立っているのはトラと浅沼だけになってしまった。
「こ、交渉って言ったのに
……!」
これはトキ時の本心である。
大声で喚きながら匕首を構える浅沼を一度手のひらを向けて制し、手にしていた空の鞘の為に誰かの匕首を拾ってくる。目星をつけていたのか運よく合ったのか、それはキチリと収まった。
最後は互いに真剣勝負ということか。
剥き身で構える浅沼と、鞘に収めた匕首の柄に手を添えるトラ。
トキ時が瞬きをした瞬間、動いたように見えた。おそらくはトラが。そう見えた。
確かめるように息を吐く頃には、もうその場に立っているのはトラだけになっていた。
「ぜんぜんわからなかった
……」
トラは匕首を地面に捨てると隙間のトキ時と目を合わせる。覗いていることに気が付いていたらしい。
「もう大丈夫。全部終わり」
その言葉に釣られてのろのろと戸の隙間を指を入れて開口部を広げると、トキ時はふらりと一歩店の外で足を出した。
「出ない方がいいよ」トラは抜いていた右袖に腕を通す。「あんまり見るもんじゃない。まあ急所外してるから一応生きてると思うけど」
事もなさげにそう言って、軽く腕の柔軟をする。
「あんたは一体
……」
その問いに真っ直ぐ答えようとトラは柔軟していた姿勢を正し、トキ時と目を合わせた。
「俺の名前は天河良。泣く子も黙る北町の死神様とは俺のこと」
「しにがみ
……」
◇
時は少々遡る。
手短にいく。今回の道程はさして重要ではない。
太都内某所、大竹組拠点。
「なんだって?」
「二回も言わせないでよ、大竹の旦那。俺はとーっても個人的な理由で浅沼組を潰したいから、協力してほしいって言ってんの」
「馬鹿言うな。死んだかと思ってた面が急に出てきたと思ったら
……寝言は寝て言え。仮に死神だったとしてもただじゃあ済まさねえぞ」
「本当に?
……浅沼がさあ、邪魔だと思ってる顔してるよ? 先代が死んでから内外からの評判最悪じゃん。いる? あいつら。切るに切れないだけのお荷物を都合よく捨てられるいい機会だよ? それに協力って言っても、『なにもしない』をしてくれればいい。知らんぷり、無視。あ、離縁状だけは用意しておいてほしい」
「
…………」
「あいつらが起こした面倒ごとを思い出してよ、結局はあんたが話をまとめる為にあれこれ手を尽くして
……代替わりしてから何回あった? いつまでもそんなのやってらんないでしょ? 先代の支持者をどんどん制裁していって今はたったの九人。願ってもない潰し時じゃん?だから、『俺は浅沼組があんたに反旗を翻そうとしている情報を掴んだ。それを確かめる為に死を装って三ヶ月も姿を消した。そして機は熟した』。みたいな脚本でどう?」
「
……脚本てことは事実無根だろうがよ。そもそもうちより大黒と懇ろのお前がなんでわざわざんなことしてんだって話になる」
「その辺の細かい辻褄合わせは上手いことやっておいてよ。そもそもさあ、場末の小さい店からもみかじめ料を取ってこられない能無し役立たずの三下が傘下にいたら、大竹組そのものの評判も落ちるよ? 格も品もなにもかも下がるかなあ、よく考えて。そちらさんは手間を取ることも手を汚すこともなく邪魔な浅沼を切り捨てられる
……お咎めなしでいてくれるなら、もちろん俺は見返りなんていらない。こんなにいい機会、二度とないと思うんだけど。逃す?」
◇
「
……さて。三ヶ月分の宿と飯代くらいにはなったかな。ふっかけられた金は用意しなくていいし、店もちゃんとあんたの物。じゃあ、ありがとう。もう会わないかな、いやここは北に近いからすれ違ったりはするか。最後まで誘いに乗ってくれなくて残念
……あーっと、そろそろこいつらを回収しにおっかない顔の人たちがたくさん来るけど、大丈夫だから。店に入って知らん顔してて」軽くお辞儀をすると、片足に体重をかける立ち方に変える。妙に色気のある腰が曲線を描く。「まあ、じゃあ、さよなら。本当にありがとう」
名残惜しさなど微塵も出さずに、天河良は北町へ向かって歩き出してしまった。途中、地面に転がっている誰かの体を邪魔そうに蹴る。
「ま、待てよ!」
「なに?」
返事こそしてくるが振り返ってはもらえない。死神様は本来の住む世界へ帰って行く。日常を重ねていればまず交わらなかった線が、踵を返して帰って行くだけ。
「ここいらで商売するのに後ろに誰もいなかったら心許ないだろ! お前がなれよ! 俺の後ろ! 立てよ!」トキ時は目一杯息を吸い込んで、目をぎゅっとつぶって精一杯の大声を出す。「喧嘩!! 強いんだろ!!」
振り向いた良は、見惚れるくらい優しい笑顔を返して来た。
「本当に変な奴!」
かくして、死んだと噂されていた北町の死神様はこの一件で見事に
北町に返り咲き、方々へのお礼参りに勤しむ傍ら、食事処伊呂波のケツ持ちを始めたのである。
北町での良といったら、三面六臂の阿修羅像も真っ青になる八面六臂の大活躍。北町の死神様としての地位は、失踪前よりも遥かに確固たるものへと瞬く間に変わっていった。
*
「
……なんかその後の方が大変だったな」
「そう?」
ほんのひと時の回想。同じものを思い出せる友情と共有の再確認。
「喧嘩みたいなことも結構あった気がする。初対面で三ヶ月一緒に暮らしてるよりも物理的な距離ができた後の方が揉めるんだから、変な話だよな」
「えー? そうだっけえ?」
「なんというか、こう、お互いの気の使い方が変わったというか、関係性が変わったというか」
羅乃目が寝返りをうって仰向けになった。
「あー、まあね。トキ時も店開けるぞーってばたついてたし。俺もここのケツ持つ為に色々と筋通さないとって奔走してたっけな。お互い忙しかったかも。ま、何事も最初は上手くいかないもんでしょ」
羅乃目の腕から解放された羅神は一度起き上がると、前脚を伸ばして背骨を反らせた。そのまま出ていくのかと思いきや、再び羅乃目の横に伏せて添い寝を始める。
「先代のこと、勝手にお前の父親かじいさんだと思い込んでたなあ」
「そういうところはなーんにも説明しなかったもんな!」
なぜかニッと満面の笑みを向けるトキ時。どことなくいたずらっぽくもある。
「まあ別にそこはいいんだけど。だってお前にとっては似たようなもんだろ? んで今はどう? 上手くいってる? 色々と大丈夫そ?」
「雑だなあ、どういう聞き方だよ」トキ時は笑いながら羅乃目の肩に布団をかけ直す。「ああでも、こういうのがきっと、幸せなんだろうなって、思う。お前もいるしな」
「よかった。実は俺も今、結構幸せ
……きっと先代も喜んでるんじゃない?」
その後、弱めの解熱薬だけ用意して貰うつもりだった黒骸に背負われて儀三郎がやってきた。「結局は患者見て用意するのが一番じゃからな。わしを舐めてもらっては困る。凄腕の闇医者じゃぞ」とのこと。正直意味がわからないが、とにかく羅乃目が心配だったらしい。この闇医者様は羅乃目を妙に気に入っていて、自分の孫かなにかだと思っている節がある。
「あーあー、可哀想にのう」
儀三郎は診る相手を気分で選ぶという決定的な欠点があるものの、目眩も風邪も火傷も骨折も刀傷もはみ出た内臓もなんでも診てくれる腕利きだ。しかも北町の医者らしく外傷の経緯は確認するが、理由は決して聞いてこない。ちなみに診療の支払いは一律で美味い酒である。量は要相談。
「ほらもう、じじい帰んなよ。新作描けたの? 酒だけじゃあ腹膨れないよ。死ぬほど長生きしてやるんでしょ」
実は儀三郎、表向きは肉筆画専門の浮世絵師なのだ。基本的には描いた絵を版元へ持ち込んだり書物屋へ売った金で生活している。ごく稀に襖絵を描きに他所へ出向いたりするらしいが、あくまでも稀中の稀であり、もう何年もそんなことはないらしい。
「うるっさいのう、わかっとる! 帰るぞ死神! 荷物が重くて面倒だからわしごと背負え!」
「ええー? もう、しょーがないなあ。自分で歩いた方が長生きするよ?」
口を尖らせつつも、良は素直に儀三郎を背負って北町へ帰って行った。
「
……なんだか嵐みたいなんだよな、儀三郎のじいさんは」
見送る背中に手を振りながら、トキ時がぽろりと言葉を落とした。
「妙なジイサンだよなァ!」
「あはは、面白い人ではあるよな。今度先代の墓参りに誘うかな、うん」
突然割り込んできた雨庸を受け流しつつ、腕をふにゃりと半端に下ろす。人間に見えないものとの会話は控えるべきだが、今のトキ時の言葉なら独り言としても成り立っているし、隣には黒骸が立っている。今回は店の外で話しかけた雨庸が悪い。
「あの、トキ時さん」
隣で並んで見送っていた黒骸が、思い詰めた表情で綺麗な形の眉を歪ませている。
「どうした? あ、俺外で雨庸と」
「羅乃目のことです」
やや食い気味に発せられた愛しい者の名前は、うっかりしたトキ時の気付きを瞬時に覆い隠した。
「最初は環境の変化が影響していると思っていましたけれど、羅乃目がこんなに短期間で熱を出すだなんて、変です。体調を崩すようなことはなかったんです」
過去形で締めくくられた黒骸の言葉に、トキ時がつけ足す。
「太都に来るまでは?」
「
……そうです」
「ここに来る前は
……っと、詮索するわけじゃないんだけど、えーと、ふたりはずっと山にいたのか? その、ええと
……ずっと」
「
……いえ、さすがに子どもふたりで生きていけるほどこの世は優しくなかったですからね。運よく見世物の旅一座に拾ってもらって、芸を覚えて。あ、結構上手くやっていました。特殊な人間の集まりだったんです、人間に爪弾きにされるような、差別される、そちら側の。俺が十七の時に脱退して、そこからはふたりで山暮らしです。たまに必要に駆られて人里に降りていましたけど」
「そっか、教えてくれてありがとうな」
「いえ
……」
「人、というより人間か。羅乃目の負担になっちまってるのかもしれないよな。人間がたくさんいるここでの生活が。ついていけてないのかも。知恵熱みたいなもんだと考えてたんだけど」
「
……なるほど、そういう視点が
……その前に羅神に確認してみないことには、ですね。俺だけ心配して空回りしているわけにはいかないですよね。ああ、すみません、口に出して少し冷静になってきました」
「それは私にもわからないぞ」
当たり前のように閉められた伊呂波の戸板から羅神がぬるっと顔を出す。
一応は店の外なので視線だけで返事をした。トキ時は内心かなり驚いたらしい、顔が少し引き攣っている。
「羅乃目はここでの生活の不平や不満を一切私に話してこないからな。体調面も、命に関わるもの以外は我々にも感じ取ることはできない。長年共にあることによって積み上げたものから、ある程度は推測できるがな」
「オメエ推測とか言ってる場合かよ、なんでひとりで出てきてんだァー? 羅乃目を見といてやれよなァ」
「黒骸を呼びに来たのだ、羅乃目が呼んでいるぞ。いや、呼ぶというよりは寝惚けて求めていると言った方が正しい。早く行ってやれ、私はお役御免だ」
するりと店へ足を向ける黒骸。
「待ってくれ、あのさ、ごめん、もうひとつ」
「なんですか?」
羅乃目が呼んでいるというのに引き止められた彼は、ほんの少し言葉尻に素っ気なさが混じっていた。これはこんな時に呼び止めるトキ時が悪い。
「その、羅乃目の心は
……十二年前で止まっちまってるのか?」
「
……と言いますと」
「羅乃目の本質が十七歳じゃないのはわかってるけど、だったとしても、随分と子どもらしい雰囲気だから
……なんだか不安に、なって
……」
「羅乃目は確かに私が求めるよりも遥かに幼い言動をとっている。だがあれは言わば『性格』だろうな。時折り驚くほど凛として聡明だ、やはり私を憑けるだけはある。つまり、心配などしなくていい。肉体だけの話ではないからな。心身ともに十から十二歳程度の成熟しかしておらず、そこに追加して性格が絡んでいるだけだ」
「
……ええ、そうです、大丈夫です、
俺たちは」
「そっか
……よかった。羅乃目の体調のことだけどさ、俺も気を付けて見るようにするよ。案外食欲の増減とかでわかったりもするからな。ごめんな、引き止めて、行ってやれ」
「いえ、ありがとうございます」
そう微笑むと黒骸は足早に店内を抜けて土間の奥へと消えて行く。トキ時は開けっぱなしにされた戸をひょいとくぐり、特になにか目的を持たずに一旦手近な椅子へ腰掛けようとした。
「これは独り言だ」
羅神が目線を合わせずに、しかし大きめの声でそう前置きをする。座り損ねたトキ時は椅子を引き出そうとしていた手を体の横へ戻し、独り言を傾聴する姿勢に入った。
なにが始まるというのだろうか。
「どうやら羅乃目自身で想定しているより遥かに多くの負担が心身に掛かっている、おそらく。少なくとも変化に対応し切れていないことは事実だ。
ここに来てからあり得ないことばかりだからな」
あり得ないこと。以前黒骸も口にしていた「自分の正体を知っている人間に優しくされること」。そしてそれに対する期待と不安、疑い、信用、安心、懸念、葛藤、後ろめたさ
……その中で揉みくちゃにされながら人間が、否、鎌苅トキ時と天河良が大切と思えるようになってしまっているということ。
そしてこの希望を手にするべきではなかったのではないかという、己が紅族であるが故に付き纏う絶対的な罪悪感。
「羅乃目は黒骸に弱みを見せたがらない。それは羅乃目が紅族の統領だからだ。誰よりも強くあるべきだと思っている。ああ見えて常に気を張っていた。確かにそれは間違いではないのだが」
「張って、いた」
「
……お前はどうやらそういったものを突破する力でも持っているようだな、獣に好かれる自覚はないか?」
「え、いや、えっと」
「羅乃目はあの日から黒骸の前では一切泣いたことがない。子どものように駄々は捏ねるが、本質的な迷いや弱音のようなものは吐かなくなった。それはおそらく羅乃目が統領で、黒骸が導き守るべき対象だからであろう。ふたりだけでいると、その関係性が固定されて間に入れる者がいない。心から想い合っている許婚同士でもあるが、紅族の統領とそれに婿入りする男としての構図は仮に地の果てまで行っても覆ることはない。黒骸は黒骸で、自分が年長者かつ男であるという自負があるからな、思っている以上にあそこは針の先端にも似た繊細な均衡の上に成り立っている。結論、変化は悪いものだけとは限らないが、いささか手に余る様子ではある。いや、全ては憶測に過ぎないな。変化と順応がなければ我々は滅びの一途だが
……ふむ、健康で長生きさせなければならないからな、私もささやかな変化を見落とさないよう注意を払うとするか」
わざとらしく締めくくった羅神は鼻をフンと鳴らすとトキ時を一瞥し、「以上、独り言だ」と残して土間の奥へ消えていった。
「
…………」
匂いを覚えたと言って笑っている羅乃目、守ると言ってくれた羅乃目、手をするりと取って繋いで歩く羅乃目、守ってくれた羅乃目、大好きな甘味をみんなで囲んで大喜びの羅乃目。
「
……良に勘違いしてたことを訂正しておかないとな」
全ては人間に対する負の感情の上に矛盾しながら立っている。
「
……なんで俺には憑守が見えて聞こえるんだろう」
*
変わっていくものと、変われないものと、変わってしまったもの。どの結果が正しいかを議論するのは不毛である。
嗚呼、あの時と今は違うのですね。
嗚呼、変わらずにいてくれたのですね。
背中を預けているあの日の相手が、今も同じとは限らない。気が付けば、あの日の幻に縋っている可能性すらある。心の支えはいつだって独りよがりである可能性を孕んでいる、なんたる悲劇か。
ならば時々確認し合うといい。擦り合わせは定期的に必要なのだ。対話をする勇気を、持っていればの話ではあるが。
次話