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(4)
・・・
「誕生日おめでとう」
唐突にそう言われ、エムリックは危うくマグカップを落としそうになった。
確かに今日は誕生日だが、ルークにそのことを言った記憶はなかった。記憶にないだけで言っていたとか?
衝撃を受けて固まっているエムリックを後目に、ルークはのんびりとエスプレッソマシンを操作している。芳ばしいコーヒーの香りが漂い、ルークが振り返る。彼は唖然としているエムリックを見て状況を察したのか、口角を少しあげて笑った。
「ウィキペディアに個人情報が載ってたぞ。有名人は大変だな」
出版社からいくつか自著を出したことがあるし、専門分野ではそれなりに有名だと自負している。しかしまさかネット上に生年月日まで載せられているなんて思いもしなかった。生年月日
――そこまで考えてエムリックはほんのすこし頬を上気させた。
ルークはキッチンテーブルにコーヒーと、二人分の朝食を並べている。どこもおかしな点はない。だが、とエムリックは内心身悶えた。
いままで直接言ってこなかった年齢が、ばれてしまった!
ルークはいまいくつだろう。
彼はこうして同居していてなお、徹底した秘密主義者だった。年齢どころか本名すら教えてくれない。エムリックが留守にしている日中に何をしているのかも
――携帯電話のGPSによると大抵家に居て(おそらく映画を見ている)たまにルカニスのカフェか近所のスーパーに出かけているようだが
――職業がなにかもはぐらかし続けるのだ。動画配信サービスの履歴から、彼が流行りの恋愛ドラマから古いSF映画まで幅広い作品を観ているということだけはわかっていた。
歳に関しては飲酒も喫煙も堂々としているところから二十一歳にはなっているだろうが、外見だけだとそれ以上の年齢だとは思えなかった。だとしたら今日で五十二歳になる自分とは三十以上歳の差があることになる。本当の年齢をルークに言わなければそこまで歳の差があるとは思われないかもしれない、と卑怯な考えをしていたせいで彼の顔を見るのが怖かった。
そんなエムリックの心境などつゆ知らず、ルークはサラダを咀嚼している。彼は意外にも好き嫌いがなく、エムリックが作ったものはすべて平らげてくれる。失敗したものも美味しいと言って食べるので、もしかすると味覚が鈍いだけかもしれないが。
「今日は俺が夕食を作るから、ちゃんと早く帰って来てくれよ」
「ダーリン、料理なんてできたのか?」
「
……失敗したらテイクアウトになるかもな」
「よければ手伝う
――」
「大丈夫!」
きっぱりと断られ、エムリックは自身もサラダを口に運んだ。ルークは明らかに上機嫌で、ふたりの間にある年齢という名の深い溝のことなど気づいてすらいないようだった。出逢った頃は「じいさん」呼びだったというのに、こんなにも優しくされるようになるなんて思いもしなかった。
年齢も本名も職業まで謎の多い恋人だが、それでもいいかとエムリックは納得する。すくなくとも彼からエムリックと呼ばれ、微笑みかけられるだけで充分にしあわせだ。
「ありがとう、ルーク。絶対に早く帰ってくる」
ルークは照れたように笑った。
・・・
底冷えする寒さだというのにエムリックはヨハナを寒風吹きすさぶ屋外へ連れ出して、いつものカフェに駆け込んだ。席に着く前からべらべらと喋り倒すものだから、食前の飲み物が到着するより早くヨハナはエムリックの本日の一大イベントがなにかを知らされた。
「誕生日に手料理なんて、ものすごくロマンチックだ!」
「家庭的ではあるわね」
「ワインかなにか買って帰った方がいいだろうか。それとも花束とか」
「ヴォルカリン、自分の誕生日なんだからもう少し冷静になれないの?普通に帰ればいいでしょう。気取りすぎよ」
「でもなにかしないとがっかりされるかもしれない。家で誕生日祝いをしてもらう時はなにが必要になると思う?そもそも早く帰ってきてくれと言われたがいつも通りの時間でいいのかもわからない。早退すべきか?それに
……」
「黙って。コーヒーくらい飲ませなさい」
湯気のたつカップを持ち、彼女はやっと一息つく。校内からここまでずっとエムリックの止まらないお喋りに付き合っていたのだ。こんな男がどうして生徒たちに人気なのかまったくわからない。それにうんと年下の愛人がいることも理解不能だ。
落ち着きのない友人に、ヨハナはほとほと呆れていた。昔は誕生日になると、やれパーティーだクラブだ、特別なサロンだとヨハナを朝まで引っ張って派手に遊び回っていたものだ。さすがにこの歳になるとそこまで常識外れの騒ぎ方はしなくなったが、恋人と甘い夜を過ごすのだと浮かれきっている姿を見せられるのはうんざりする。いい加減に落ち着きなさいよと言いたくなるのも致し方あるまい。
ヨハナからすると、エムリックはいくつになっても恋に恋をしているだけにしか見えなかった。恋人を大事にしないわけではないが、いつからか端から未来を見据えた付き合いをしなくなった。破局前提というか、飽き性というか。情熱的に燃え上がりさっさと燃え尽きるか、相手に逃げられるかのどちらかだ。恋多き男といえば聞こえはいいが、ようはただの尻軽なのである。
そんなエムリックが傍目にも執着している相手に、ヨハナは同情しつつあった。若い頃にも何度かそういう相手がいたが、上手くいったためしがない。同棲を始めたと休暇明けに聞かされた時はさすがのヨハナも心底驚いたくらいだ。
「普通に過ごせばいいわよ。いつも通りに帰って食事をして、大げさじゃない程度に感謝すればいい」
「本当に?」
「ついでにあなたが愛してるとでも言えば相手も満足するでしょうね。花束より効果的で安上がり」
「わかった。ありがとう、ヨハナ」
エムリックが笑う。
この笑顔を見て、愛をささやかれて、それでも彼を捨てるようならいまの恋人も見る目がなかったというだけだ。同情と嫉妬が混ざったような、もの悲しい気持ちが胸を満たす。ヨハナには一生ささやかれない言葉を捧げられる青年が、なんだか少しばかり憎かった。
とはいえ、壊れた水栓のようにお喋りを続けるエムリックと過ごしている間に感傷的な気持ちは消え去り、ヨハナはやはり彼の愛人に深く同情するのだった。
親友のアドバイスを参考に、エムリックはできるだけ自然体で帰宅しようと決心した。
だが帰り道の花屋で、寒さ厳しいこの季節に懸命に咲いている花を見てしまっては買う以外に選択の余地はなかった。そのうえ菓子店から漂ってくる甘い香りは花束に添えるのにぴったりだった。そういえば菓子店の隣のパン屋はとても美味しいと同僚から聞いたことがある。パンといえばチーズもいくつか買い足しておこう。
そんなわけで墓地を通り抜け、庭を横切り、玄関を叩いたエムリックの両腕には溢れんばかりのお土産が抱えられていた。
大げさじゃない程度に感謝すればいいのよ。
ヨハナの声が頭に反響する。わかっているとも、でもこれくらいなら大げさにはならないだろう?
「おかえり、エム
――リック?」
暖かな空気が全身を撫でる。キッチンミトンをはめたルークは目を見開き、エムリックを室内に招き入れた。
「すごい量の土産だな」
「ちょっとしたプレゼントだ」
「誕生日の人にちょっとしたプレゼントをもらうなんて思わなかったけど。ありがとう、エムリック」
荷物を半分ずつ持ち、ふたりでキッチンへ向かう。料理はすでにテーブルに並べられ、芳ばしい香りが湯気と共に立ちのぼっている。野菜のポットパイに、そら豆のコロッケ、シーザーサラダ、それからルーク秘蔵のシャトー・マルゴーが今日の主賓を待っていた。
失敗したらテイクアウトになると言っていたが、どうやら大成功したようだ。このあたりのテイクアウトはもっと油っぽいし、菜食者用のポットパイの販売はしていない。ルークの意外な才能にエムリックは素直に驚いた。それもそのはず、ここに住み始めてから一度もルークは料理らしい料理をしてこなかったし、そもそも彼の冷蔵庫には碌な食材が入っていなかったのである。主食だってあのおぞましいシリアルバーと、味気ないオートミールだったのだ。
「パイが冷めるぞ。早くシャワーを浴びてきてくれ」
エムリックが買ってきたパンとチーズをいそいそと皿に盛りつけながら、ルークは突っ立っているエムリックをバスルームに追い立てた。
手作り料理で誕生日を祝ってもらうなんていつぶりだろうか。
クラーケン印のシャンプーをたっぷり頭に塗りつけながら、エムリックは記憶をたどってみた。十年以上前に付き合っていた美術教諭の女性が料理好きだったはずだ。彼女と付き合ったのがちょうどこのくらいの時期で、高級レストラン並の食事を振る舞ってもらった覚えがある。
なにを食べたかはあまり覚えていないがあの時は
――食事の味よりも、外の寒さすら溶かすほどの熱い夜を過ごしたことの方が鮮烈に記憶に残っている。今日はどうだろう。
ルークと肌を重ねてから数日経つが、彼の方からその手の話はいっさい振ってこない。ベッドで抱き合って寝ていても下半身に触るようなこともなかった。彼は本当に勃起不全のようだから、無理に行為に及ぶのはよくないだろう。たとえ体を繋ぐのがあの一回だけになったとしても。
じんわりと下腹部に燃えさかる炎が灯る。エムリックは年甲斐もなく肉欲に反応する自身を恥じ入った。だが、収めずに食事を摂るわけにもいかない。
濡れたタイルと水しぶきに額を押しつけて、泡立つ手で熱を包み込んだ。
・・・
「素晴らしい食事をありがとう、ルーク!」
エムリックのはしゃぐ声にルークは得意げな笑みを浮かべる。今日の成功は初心者でも作れるように丁寧なレシピを書いてくれたルカニスのおかげだ。しかし、わざわざここでルカニスの名を出すほど無粋ではない。ルークはただ喜ぶエムリックを目に焼きつけた。
こんなに喜ぶなら、たまには料理を作ってもいいかもしれないと思う。自分ひとりのために料理をするのは非効率にしか思えないが、エムリックのためならこれくらいの手間をかけても惜しくはなかった。
「改めて誕生日おめでとう、エムリック」
「ああ、ありがとう。とても嬉しいよ」
「それで、プレゼントはこれだ」
「バースデーカード?」
シンプルな二つ折りのカードを手渡され、エムリックは首をかしげる。開けるように促すとエムリックは驚き、ルークをじっと見つめた。
カードの内側にはただ一言「俺からのプレゼントだ。ひとつだけ質問に答える」と書かれている。
できるだけ興奮しすぎないように深呼吸しながら、エムリックはメッセージを脳内で反芻した。ひとつだけ。本名を訊くか、それともエムリックをどれほど愛してくれているか教えてほしいとねだるべきか。訊きたいことなんて山ほどあるのに、答えてくれるのはそのなかのひとつだけだ。
それにしても、相変わらずルークの字は個性的だ。利き手を骨折した画家が慣れぬ手で筆を持ち、必死にサインを描いたように見える。ものすごく下手くそというわけではないが、絶対にルークの字だとわかる独特な跳ね上がり方をしている。このバースデーカードもクリスマスカードと一緒に保管しておこう、とエムリックは胸に決めた。
ワインを一口含み、酒精の力を借りてエムリックはプレゼントを受け取ろうと勇気を振り絞った。
「きみの生年月日が知りたい」
「そんな質問でいいのか?他の質問に変えてもいいんだぞ」
「その質問でいい」
ルークが渋々といった様子で答えを口にする。エムリックは慌てて近くにあったチラシと適当なペンを掴んで書きつけた。
「待て、先週誕生日だったのか!」
「うん」
「どうして教えてくれなかったんだ、ダーリン」
「忘れてた」
愕然とする。この世の中に自分の誕生日をすっかり忘れる人間が存在するなんて、エムリックには到底信じられなかった。誕生日ほど特別で大切な日はないというのに。
だが目の前の最愛の人は本当に自身の誕生記念日を忘却していたらしく、友人から届いた祝いのメッセージでやっと思い出したという。そのメッセージを見たのも届いてから数日後のことで、いまさら言う必要もないだろうと判断したのだった。
「それで歳は、二十六?本当に?」
「嘘をつく必要なんかないだろ。今年で二十六だ。もしがっかりしたなら
……」
「がっかりなんてしない、むしろ嬉しいくらいだ。もっと若いかと思っていたからな」
「エムリック、あんた、学生が好きなんじゃなかったのか」
「なんだって?」
互いの認識に齟齬があったと瞬時に悟り、ふたりは押し黙った。ルークはエムリックのことを未成年好きのとんでもない節操なしだと勘違いしていて、エムリックはルークを成人直後の未熟な青年だと思い込んでいたのである。
いままでルークが頑なに年齢を教えてくれなかったのは、自分が二十代半ばだと知られたくなかったからなのか?
エムリックは目元を押さえ、笑い出しそうになるのをこらえた。変態扱いされていたことよりも、ルークが自分の気を惹くために年齢を伏せようとしていたことが嬉しくてしかたがない。つまりルークはずいぶんと前から、エムリックを好きでいてくれたのだ。そしていまも変わらずに。
「いいか、ディアレスト。私はいままで一度も生徒と付き合ったことも寝たこともないぞ。それにきみが学生じゃなくてよかったと思ってる。愛することが罪になっても諦めきれないだろうから」
「
――前から思ってたけど、恥ずかしげもなくよくそんなこと言えるよな」
聞いてるこっちのほうが恥ずかしい、と呟いてルークはサラダを口いっぱいに頬張った。瞳がすこし潤んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
エムリックは微笑みを隠さず、すっかりくつろいだ気分でルークを眺めた。年齢を聞いたものの二十六歳には見えない。それでも実感がすこしずつ染み渡っていく。
歳の差はいまだに大きいがエムリックが考えていたほど悲惨ではなかった。たかだか四、五歳程度の差ではあるが彼にとっては巨人の一歩より大きいのである。
「来年はルークの誕生日もお祝いしないとな」
「いいよ別に。どうせまた忘れてるだろうし」
「私が覚えておくから問題ない」
「
……ありがとう」
もごもごと礼を言い、ルークはバッカスもかくやという勢いでワインを飲み干した。しかもすぐにワインをなみなみと注いでいる。高級ワインも彼の前では形無しである。高いブドウジュースくらいにしか思われてなさそうだ。
エムリックはルークとは対照的に、緩慢に舌でワインを転がし味わう。実際のところ、味わっているのは恋人の挙動なのだが本人にはばれていない。ルークは照れると身振りや言動が大げさになる。そういうところが子供っぽくて好きだ。子供っぽいのが好きなんて、いままでの自分なら思いもしなかっただろう。
自分らしくないと言えば、もしルークが未成年だったとしても、彼に言ったとおり愛することを諦められなかったはずだ。成人するまで待つ努力ができたかどうかすら怪しいものだ。こんなに愛おしいと思う人に、触れずにいるのはほとんど拷問に近い。
小さなキッチンテーブルに身を乗り出し、エムリックはルークに口づけた。
互いの視線が交わる。唇が離れた瞬間、エムリックがささやく。
「目を閉じて」
言われるがままにルークは従順にまぶたを閉じた。エムリックが席を立つ音が聞こえ、熱い指先が頬から首筋をなでつける。薄く目を開けるとエムリックは笑い、優しく手のひらで瞳を覆った。
見えない唇が咥内をむさぼるのをただ感じる。くすぐったいような、頭のてっぺんが痺れるような奇妙な感覚がする。どんどん体が熱くなる。珍しく酔ったのかもしれない、とルークは思った。キスなんていつもしているのに、こんなになるなんておかしい。
エムリックの手がルークのセーターを掴む。思考の片隅で食べ損ねたチョコレートケーキがちらついたが、ルークは促されるままに両手を挙げた。着古したセーターよ、さらば。
シャツのボタンが手早く外され、胸に湿った感触がした。ルークはケーキが食べたかったがエムリックはルークを食べたかったらしい。こんなことになるならプレゼントは自分だとか言って、過激な下着でもつければよかったか。まあ、そんな恥ずかしい真似は頼まれてもしないのだが。
「ルーク」
「ん?」
「よければ寝室に
……」
今日はお互いに酔ってるのかもしれない。
そういうことにしておこうとルークは結論づけ、まぶたを閉じたままエムリックの顔を探り当てた。両手で頬を挟み、適当な場所にキスをする。
「連れていってくれ、エムリック」
片付けは起きてからでもいいだろう。
「ルーク、愛している」
数秒後に聞き取りにくい声で「俺も」と言われ、エムリックは締まりのない笑みを向けた。
つづく。
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