shirajira
2025-05-18 16:15:53
26517文字
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8月新刊の導入

8月に出す予定の、やりたいことリストをやることになった、セフレスタートしないビマヨダの導入部分です。えっここから本当にビマヨダになるんですか!?と書いてて不安になってきたので外出しします……応援よろしくお願いします💪
どういう話かわかるところまで載せてます。導入に時間をかけすぎている。

 意識が急に浮上して、引きずられるようにして目を開けた。どうも自分は気を失っていたらしい。
 目前に向けられたものが何かを確認するより先に、反射で叩き落とす。床に転がったものに目をやれば、マジックペンだった。
「チッ、起きたか。暇潰しにビーマの眉を繋げてやろう作戦失敗だ。ふむ……お前、惜しいことをしたな? 男前になるチャンスを逃したぞ? しかしわし様は寛大な王子、もう一度チャンスを与えてやってもいい。さあ目を瞑れ」
「何でまだ誤魔化せると思えるんだよ。面の皮厚すぎだろ」
 寝起きから浴びるようなトンチキではない。思いながら体を起こし、どこかもやがかかったようにぼんやりとする頭を振って、はたとビーマは辺りを見回した。
……おい、ここどこだ」
 一言で表現するなら、そこは部屋だった。ビーマが寝転がっていたらしい革張りのソファーの他に、ビーマが手を広げてもはみ出なさそうな、大きなベッドが置いてある。他には鏡台、チェスト、書き物机に、クローゼット。ソファーの前にはローテーブルもあった。置かれた花瓶には、ガラスの花がいくつも挿してある。
 アンティーク調の調度品に合わせるようなシーリングライトは花の形をしたライトが七つぶらさがっているというもので、今は四つだけが光っている。だが、明るさはちょうどいいくらいだった。
 窓が一つあるのを見つけて駆け寄る。何も見えなかった。外が夜なわけではない。そこにはただ闇が広がっている。窓は開けようとしても開かなかった。殴りつけてもビクともしない。
 そして何よりおかしいのが、ドアがなかった。ドアはなく、窓は開かず。ではどうやって、自分たちはこの部屋に入ったのだ。
 部屋の中にドゥリーヨダナ以外の人影はない。部屋に置いてある数々の品は調和が撮れており、物も品もよかったが、ドゥリーヨダナの趣味とは少し異なるような気がした。
「んん? 何だお前。寝ぼけておるのか? それとも何かのジョークか? 全然面白くないぞ。クッション没収というやつだな」
 先ほどまでビーマが寝転がっていたソファーに腰かけてふんぞり返っているドゥリーヨダナに、ビーマは詰め寄った。
「寝ぼけているだと? どういうことだ。これは、お前の企みじゃあねえのか」
……おい、マジなのか? 何も覚えてないのか? 今までのことも? たった一眠りしただけで?」
 向けられた困惑顔に、少し冷静になる。ドゥリーヨダナという男はとにかくわかりやすい。悪事を行ってもすぐとぼけようとはするが、それがまたふざけているのかというくらい、わざとらしくなってしまうような男なのだ。
 この部屋はドゥリーヨダナの企みによるものではない。確信したところで、頭の中のもやが急に晴れたような心地になる。目まぐるしさすら感じられる情報の奔流が押し寄せてきて、ビーマは眉根を寄せた。
 どうして、たった一時と言え忘れていたのだろう。そう思うような記憶ばかりだ。この部屋のせいなのか。
……待て。思い出してきた」
「そうか? ……なら語ってみろ。わし様が答え合わせしてやるから」
「お前相手ってのが不安だが、仕方ねえ。思い違いがあるといけねえからな」
「おい、どういう意味だ! この最強かつ美しく賢いわし様だぞ!? 一人で百人力、最高の兄と名高いわし様だぞ!? 何で不安になる! 感じるべきは頼もしさだろうが!」
「今お前に嘘つかれても、俺に判断できるかわからねえからな……
「人を嘘つき呼ばわりするな! そりゃあまあ、ちょこっと大袈裟に物を言ったり、嘘は言ってない勘違いする方が悪い! というギリギリを攻めてみたりはするが、無用な嘘はつかんとも。後で辻褄合わせをするのが面倒だからな」
「そういうところが信用ならねえんだよ」
 くだらないやり取りをしているうちに、段々落ち着いてきた。ゆっくり息を吸い、吐く。よし、と意識を切り替えて、ビーマはソファーの真ん中に座っているドゥリーヨダナを押しやるように、その隣に腰を下ろした。ドゥリーヨダナが喚く。
「おい何だ押すな! 森育ちだろ床にでも座ってろ!」
「これ三人掛けのソファーだろ。一人で占領すんな」
 不服そうなドゥリーヨダナをよそに無理矢理腰を落ち着けて、それからビーマはここに至るまでを振り返った。
「まず、俺はカルデアに召喚されたサーヴァントだ。クラスはランサー。カルデアでは主に料理人として、食堂勤めをしていた」
 ドゥリーヨダナの顔をちらりと見る。特に否定の言葉はない辺り、ここまでの認識は合っているらしい。念のため、更に踏み込む。
「ドゥリーヨダナ。お前は俺より三日前にバーサーカークラスで召喚されて、主に戦闘要員として周回に駆り出されてたよな。なんだっけか、三ターン周回とかいう戦法を取らされてるんだったか?」
 尋ねた途端、ドゥリーヨダナが眉尻を下げ口をへの字にした。
「嫌なことを思い出させるな! あの地獄の周回祭りのことは極力考えたくない……そもそもわし様は酷使されているのではなく頼られ、重用されておるのだ。つまりビーマよりわし様の方が上! 宝具を打つためにマスターに令呪を切られた回数はどう考えたってわし様の方が多い! はい証明終わり!」
「そうはならねえだろ。……とにかく、俺とお前はカルデアに召喚され、何の因果か同じ陣営で肩を並べることになったわけだ」
 話しているうちにどんどん頭がはっきりしてきた。ドゥリーヨダナの発言からするに、自分の記憶がおかしくなっているということもなさそうだ。あとはどうしてこんなところにいるのか、その認識が合っているかを確認すればいいだろう。
「マスターが浮気者のせいでな。まったく、わし様というものがありながら……
 ぶつぶつと文句を言うドゥリーヨダナの横顔を、ビーマは眺めた。くるくるとよく変わる表情も声音も、やかましい。だが見ていて飽きないし、遠くからでもつい目を向けてしまう。
 だから、手を伸ばしてもいいかと思った。もっと近くで見たいと、ここでならそれも許されるのではないかと、そんなことを思う自分を、良しとすることにした。
 その結果、恋人という関係になるとは思っていなかったけれど。友人になるには互いの間に色々ありすぎたし、かといって好敵手では、望んだほど近くにいられない。よって、恋人。
 ドゥリーヨダナに対して抱いている感情が恋かと言われると甚だ疑問ではあるが、理屈ではなく理論にも欠ける衝動的な欲、それを受け入れる器という点では、恋人という関係は、なるほどしっくりきた。
 とは言え、恋人と言ってもキスもセックスもまだしていない。何だったら手もろくに繋いだことがない。清い関係だ。それでも別に問題なかった。望んだのは生前とは異なる関係であって、恋人という関係を求めたわけではない。
 でも、キスくらいは、そろそろしてもいいんじゃないだろうか。せっかく恋人になったんだし、試してみたっていいだろう。そういう方向に、走ってみたって。いや、さすがに手を繋ぐのが先か?
……何だ? 人の顔をじろじろと」
 眉を跳ね上げた顔を向けられて、今じゃないな、と思い直した。
 まずはこの部屋のことだ。
「何でもねえ。……それより、チェックはあといくつだ?」
 それだけで、何のことかわかったのだろう。ドゥリーヨダナがローテーブルの上を顎でしゃくった。指し示したのは――花瓶だ。ビーマの指先程度の大きさの花弁を持つガラスの花が、いくつも挿さり、照明を反射して誇らしげに輝いている。
「四本増えたから、あと四十八だ。まったく、ようやく折り返しだぞ。いい加減飽きてきた」
 うんざりした声でドゥリーヨダナが言う。意外な思いでビーマはドゥリーヨダナを見つめた。
「飽きる? やらされてるのは毎回違うことで、しかもお前がやりたいこともやれてるのに?」
「やりたいことと言ってもな、自分の意思でやるからいいのであって、強制されるのは違うだろ。鍛練を始めるより先に、何で鍛練しないんだと言われると、途端にやる気が失せるではないか。あれと一緒だな。やらされた途端に意思ではなく義務になる」
 そもそも無意識でのことも含まれてるから、自分のやりたいことをやれているという感覚もあまりない。ドゥリーヨダナが続ける。確かに、とビーマはガラスの花を見つめた。
 偽物の花は語らず、枯れず。時が止まったかのように変わらず、ただそこにあった。


 このわけのわからない部屋にビーマがドゥリーヨダナと共に入れられたのは、特異点修正のためにマスターのレイシフトに同行した際のことだった。
 ビーマ、エリザベート・バートリー、太公望。そしてドゥリーヨダナ。レイシフト適性のあるサーヴァントはそれなりにいたらしいが、今回選ばれたのはその面々だった。
 正式発表前に「ドゥリーヨダナと一緒でいいんだよね?」とわざわざ確認され、ビーマは苦笑したものだ。心遣いはありがたいが、マスターの武器であるサーヴァントの身にするような気遣いではないだろう。
 レイシフト先は二十世紀末の日本の地方都市で、マスターが生まれるより少し前の時代だったらしい。きょろきょろと辺りを見回しながら、お母さんの写真で見た髪型や服の人がたくさんいる、とマスターは少し楽しそうだった。
 そこでは道行く人が、皆熱心に手帳を開いては、何か書き込んでいた。何をしているのだと聞けば、こう答えが返ってきた。
 やりたいことリストだ。このリストにあるものを全てやりとげなければ、先には進めない。
 誰に聞いても、概ね同じ答えだった。だと言うのに誰一人として、先に進めないとはどういうことか、答えられなかった。
 町の外もこうなのかと思いビーマがひとっ走りしてみれば、町の外には出れなかった。何度出ようとしても、また町の中に戻されてしまう。何らかの魔術的影響――聖杯が関わっている可能性が高い。
「やりたいことリストの中身をクリアすれば、聖杯に辿りつけるってことかな?」
 考え込むマスターに、「やりたいことリストって、この間ビショーネが見せてくれたやつかしら?」とエリザベートが小首を傾げた。
「やってみたいことをいくつも書いて、やれたことにはチェックをつけていくのよね! ビショーネは百個書いたって言ってたけど」
「百個かあ……ドゥリーヨダナなら一瞬で埋まりそう」
「おいどういう意味だマスター。……褒め言葉か? 褒め言葉だな? 己の欲望を自覚しているわし様は内省がきちんとできていて大人で憧れる、そういう意味だな? ふふん、お前もわし様を見習うといい」
 悦に入るドゥリーヨダナを無視して、太公望が話を進める。
「どのみち、手がかりらしい手がかりも他にありません。ではまずはやりたいことリストとやらを手に入れるとしましょうか」
「どこで手に入るのかな?」
「手分けして聞いて回るしかないですね」
 そうしたわけで、エリザベートをマスターの護衛に残し、男三人でそれぞれ話を聞いて回ることになった。
「こういう汗水かくような仕事は下っ端がやることであって、わし様のような高貴な王子がこなすような仕事ではないのに……
「うるせえやつだな。口だけは達者なんだ、とっとと聞き出してこいよ。得意だろうが、そういうの」
「ふん、言われんでもいの一番に情報をマスターに持ち帰り、誰が最優のサーヴァントか見せつけてやるわ。……というか何同じ方向に来とるんだ! 手分けする意味ないだろ! お前はそっちの薄汚い路地裏でドブネズミにでも聞き込みをしていろ! しっしっ!」
 ドゥリーヨダナが指差した路地に、ビーマは目を向けた。これといって深い理由はない。ただドゥリーヨダナがそちらを指差したから、それだけだった。
 路地裏に吸い込まれるようにして、風が後ろから吹いてくるのを感じた。
……おい、トンチキ王子」
「誰がトンチキだ誰が! ……ん?」
 ビーマの視線の先に気づいたドゥリーヨダナが、やかましい口を閉じた。
 路地裏の奥には、扉が一つあった。飾りけののない木製の扉は、非常階段や剥き出しの配線とはまるで不釣り合いで、しかもその後ろには何もないように見える。
……怪しすぎだろ。おいビーマ、お前ちょっと尊い犠牲とやらになってこい。骨は拾わんが、安否についてマスターに報告くらいはしてやるから」
「ああ? お前が行くなら着いていってやってもいいぜ」
「だからそれでは意味がないと……おい、待て、何かあの扉、近づいてきてないか?」
 見れば遠くにあったはずの扉が、今や目の前にあった。ビーマは咄嗟にドゥリーヨダナの首根っこを掴みその場を離れようとし――
「うおっ急に何をする! わし様の首をへし折ろうというのか!?」
「馬鹿、暴れるんじゃ――
 ドゥリーヨダナが暴れたものだから、体勢を崩して扉に向かって二人してもつれながら倒れこんだ。
「うおおおおおお!?」
 ぶつかる、と思った途端に、扉が開いた。同時に目映いばかりの光に包まれ、思わず目を瞑る。
 そうして、気づいたら、この部屋にいた。入り口も出口もない。ビーマが自慢の腕力で壁を殴っても、ドゥリーヨダナが棍棒を蹴り飛ばしてぶつけてみても、部屋の壁も家具も、少しも傷付かなかった。
「お前のせいだぞ、ビーマ! お前がわし様のことを巻き込むから!」
「てめえが暴れなきゃ、あの場から逃げられたんだよ。俺一人のせいにするんじゃねえ」
「うぐぐ……素直にごめんなさいができんのかお前は!」
 顔を赤くしているドゥリーヨダナを無視して、ビーマは己の両手を見下ろした。何かデバフがかかっている感覚はない。最低限マスターとパスは繋がっている。だが、連絡手段がない。パスを使った念話を試みてはみたが、うまくいかなかった。
 この部屋自体に何かがある。もしかしたら、特異点解消の手がかりが、あるかもしれない。
 ならむしろ、都合がいいというものだ。元々手がかりを探していたのだから。虎穴に入らずんばなんとやら、だ。
 よし、と拳を握るビーマとは裏腹に、ドゥリーヨダナは落ちつかなげに行ったり来たりを繰り返していた。じろりと目を向けられる。
「わし様がいなくなって心細さにマスターが泣いてるかもしれんしな、早くここを出るぞ」
「早くここを出るっていうのには賛成だが、出る算段はあるのかよ?」
「ふん、わし様はお前と違って賢さも持ち合わせているからな。そんなもんすぐに見つけてみけるわい。まったく、せめて一緒に閉じ込められたのが太公望の方であれば、全部丸投げできたのに……
 ぶつぶつ言いながら、引き出しを開けたりベッドの下を覗き込んだりと不審な動きをするドゥリーヨダナに、ビーマは尋ねた。
「何してんだ?」
「こういうのはなあ、どこかに脱出のためのヒントが隠されておるものなのだ。脱出ゲームとか言ってな」
 聞けばカルナと一緒にガネーシャ神たちゲーム部の面々と遊んだのだと言う。ビーマは呆れた。
「遊びじゃねえんだぞ、そんなもんあるわけ――
「ん? おい、これ、やりたいことリストとやらじゃないか?」
 鏡台の引き出しから、ドゥリーヨダナが小さなノートを取り出した。こちらに向けられたそれには確かに、「やりたいことリスト」と書かれている。大きさも見た目も、町を歩いていた者が持っていたものとそっくりだった。
「ふふーん! さすがわし様。パーンダヴァとは違うのだ、パーンダヴァとは! もう聖杯の手がかりを見つけてしまった。これにはマスターもわし様に気前よくリソースを献上することだろう……ぶっちゃけ限界まで強化されてるしこれ以上のリソースは不要だが、価値あるものというのはそれだけで欲しくなるからな……
「やりたいことリストを手に入れたのはいいが、どうやってマスターのところに持っていくんだよ。ここから出る術がねえ」
 悦に入っているドゥリーヨダナにビーマがそう声を掛ければ、ムッとした顔が返ってきた。
「おい人の喜びに水を差すな! そこはさすがドゥリーヨダナ様、まずは一歩前進ですね、だろうが! まったくこれだから森育ちは空気が読めんで困る……
 ぶつぶつ文句を言いながら、ドゥリーヨダナがノートを開いた。すぐに「ん?」と眉を跳ね上げる。
「何だ、もう何か書いてあるではないか。使用済みの中古品か……
 ビーマも横から覗き込む。チェックは一つもついていないようだった。とりあえずリストの一番上に目をやる。
「なになに……? 『南の島でバカンスがしたい』……?」
 読み上げた途端、視界が白く染まった。
 またか。眩しさに目を閉じながら、ビーマは咄嗟にドゥリーヨダナの腕を掴んだ。ここでドゥリーヨダナとまで引き離されては、たまったものではない。
 こんなでもこの男は大事な――
 ぐん、と勢いよく引っ張られる感覚に、ドゥリーヨダナの腕を掴む手に力が入る。反対の方の手に槍を顕現させようとした、その瞬間。
…………は?」
 ドゥリーヨダナの間抜けな声に、ビーマは目を開けた。
 そこには青い空に白い砂浜、さんさんと降り注ぐ陽光、寄せては返す波の音、そんなものが広がっていた。
 絵に描いたような、南の島――の概念のような風景である。後ろを振り返ってみれば、ホテルらしい建物が遠くにいくつか見えた。海の方には観光客らしい人影も見える。
「ハワトリア、か……?」
 いつだったか、カルデアの面々がこぞって訪れたリゾート地の名を、ドゥリーヨダナが口にした。
「そのようだな。どういうことかはわからんが。……ん? おい、ドゥリーヨダナ。お前、やりたいことリストはどうした?」
「あ?」
 ドゥリーヨダナはまったくの手ぶらだった。ビーマの認識では、ドゥリーヨダナは見つけたばかりのやりたいことリストをこれ見よがしに持っていたはずである。
「な、ない!? わし様のやりたいことリストが!」
「見つけたのはお前でも、あれは別にお前のじゃねえだろ。……落としたのか?」
「そんなはずは……
 パタパタと忙しなくドーティを叩いたり、帯の隙間を確認しているドゥリーヨダナの顔色は、若干悪い。特異点の手がかりを見つけたと、あれだけ有頂天になっていたのだ、それをもうなくしたとなれば、そういう顔にもなるのかもしれなかった。
「ない、ない、マジでない! クソッまさかスリか!? このわし様から盗もうとは、許せん!」
「お前が落としただけじゃねえのか。いもしねえ犯人を作り出すなよ」
「どこで落とすと言うんだ、わし様しっかりこの手に持ってたし、そもそも一歩も動いとらん! 何か知らんが南の島に来てるけども!」
 不機嫌を隠しもせず、顔を赤くし眉をつり上げているドゥリーヨダナの相手をするのは面倒だった。確かにせっかく得た手がかりを失ったのは惜しいことだが、ないならないで仕方ないのだ、まずはここがどこか、どうすればマスターの元に戻れるかを調査するべきだろう。
 ビーマがそう告げようとした、その時。
 真後ろから、声がした。
「よく来た。本当に、よく来た」
 筋肉に緊張が走る。声を掛けられるまで、その存在に全く気付かなかった。
 緊張感のない会話をしていたとしても自分たちは戦士だ。得体の知れぬ敵地で警戒を解くなんてことはしない。だというのに。
 振り返る。敵はどんな姿だ。危険なやつか。それとも対話が可能なのか。少しでも多くの情報を得ようし、目をやり――
…………カルナ?」
 色という色をどこかに置き忘れてきたかのような白い肌に白い髪に、作り物めいた顔立ちに埋められた、冷々としたアイスブルーの瞳。それは生前ビーマが相対し、カルデアでは同じランサークラスのサーヴァントとして肩を並べることになった、英霊カルナに他ならなかった。
 しかしながらカルナはランサーの姿ではなく、セイバーの――ボクサー霊基の姿をしていた。燦々と輝く太陽の下の黒フード姿は見ているだけで暑苦しい。
 何故カルナがここにいるのか。カルデアに召喚されたカルナとは違う、野良のサーヴァントか。どのみちカルナであれば、ドゥリーヨダナがうまいこと対応するであろう。思いながらビーマはドゥリーヨダナに目をやったが、ドゥリーヨダナは眉根を寄せてカルナを見つめていた。
……お前、カルナではないな」
「何だと?」
 思わずドゥリーヨダナとカルナを交互に見やる。どこからどう見ても、カルナに見えた。纏う気配も太陽神のものだ。少なくともビーマはそう感じている。
 だが、ドゥリーヨダナの言葉にカルナは頷いた。
「よくわかったな。そうだ、オレはお前たちの知るカルナではない。お前たちの記憶の中のカルナの姿を借りているにすぎん。……気配までそっくりお前たちの中のカルナを反映しているはずだが、何故わかった?」
「わし様たちの知るカルナ……ということは、わし様の中のカルナだけでなく、ビーマの中のカルナまでごちゃ混ぜになっとるな? だからだろう」
 わし様を前にしたカルナは、そんな景気の悪い面はせんからな。したり顔でドゥリーヨダナは言うが、ビーマには違いが全くわからなかった。生前、そしてカルデアでドゥリーヨダナとつるんでいる時のカルナと、同じに見える。
「俺にはよくわからんが……お前がカルナでないとして、じゃあ誰だ? 何が目的で俺たちに声を掛けた。俺たちが吸い込まれたあの部屋、それから突然飛ばされたこの南の島に、お前は関係してるのか?」
 ビーマの問いに、カルナ――他に呼び方もない――は、よく通る声で淡々と答えた。
「一つずつ答えよう。まずオレの正体だが――お前たちの言葉で言う超次元意識というやつだ」
「超次元意識ぃ? 何だそれは」
 胡散臭いものでも見たように、ドゥリーヨダナが顔をしかめる。気にした素振りもなく、カルナが続けた。
「オレはお前たちと違い生命ではない。どこにでもいるし、どこにもいない。本来名前はないし、姿形や言葉も持たん。だからお前たちと接触するために、お前たちの記憶の中で一番オレに馴染む姿を借りた」
「んー、神や化生とは違うのか?」
「違う。超次元意識だ。オレには信仰も恐怖も向けられん。ただそこにあり、そしてないのがオレだ」
……おーい、誰か、そうだな、オタクの人を連れてきてくれ。黒髭とかガネーシャ神とか刑部姫とかあの辺りのやつ。それでこいつの言葉を翻訳してくれ。得意だろ、あいつらこういうの」
 投げやりな声を上げるドゥリーヨダナの態度はふざけてはいたが、ビーマもだいたい同じ気分だった。何を言っているのかさっぱりわからない。
「ム。難しかったか? ふむ、それなら仕方ない。本質からは遠ざかるが、よりシンプルな言葉を使うとしよう」
 一呼吸置いて、カルナが言い放った。
「オレは聖杯の妖精さんだ」
「聖杯の」
「妖精さん」
 思わずドゥリーヨダナとアイコンタクトを取り合う。お前こいつの言ってることわかるか? いや全然。
 お前カルナと仲いいだろ、お前が話せ。はぁ? こいつはカルナの姿をしているだけであって、カルナではなかろう! お前が行け!
 埒が明かない。仕方なくビーマは口を開いた。
「あー……超次元意識? 聖杯の妖精? どう呼べばいいのかわからんが……
「超次元意識も、聖杯の妖精さんも、オレの名前ではない。お前たちとて、サーヴァントという名前ではないだろう」
…………じゃあ、何と呼べばいい。お前の名前は?」
「話を聞いていなかったのか? オレには名がない」
 ビーマは早くもうんざりしてきた。カルナも大概だったが、この超次元意識、聖杯の妖精さんとやらは更に会話に苦労する。
 口を閉じたビーマに対し、超次元意識はじっと次の言葉を待っているようだった。待たれたって困るのだが。思っていると、それまで黙っていたドゥリーヨダナが口を挟んできた。
「そういうことなら、わし様が呼び名をつけてやろう。ありがたく思え」
「ほう。どんな呼び名だ」
「お前はカルナのふりをしている。演じていると言ってもいい。だから、ヴァルニカルナというのはどうだ? どうだ、わし様のセンス! 洒落ておるだろう!」
 サンスクリット語で仮面を意味するヴァルニカーと、カルナを組み合わせた造語だろう。センスの良し悪しはともかく、こちら側から見た相手のことをうまく言い表してはいる。
「ヴァルニカルナ。……ふむ、不思議だ。妙に引き締まる心地がする。裸だったところに服を着たような……。悪くない。ああ、悪くない」
「気に入ったか? 気に入ったな? ではヴァルニカルナよ、質問に答えてもらおう。お前がこの特異点の原因か?」
「そうだ」
 あっさり返ってきた是の言葉に、ドゥリーヨダナの顔に緊張が走ったのがわかった。ビーマもすぐに戦闘に移行できるよう身構えながら、すぐに緊張を覆い隠したドゥリーヨダナの横顔を眺める。
「ふむ。……お前、聖杯の妖精さんということは、お前を倒せば聖杯が手に入るということか?」
「いや。聖杯の妖精さんというのはあくまでお前たちにわかるように言っただけで、オレの本体が聖杯なわけではない。だが、聖杯はオレのところにある」
 今はないが。付け足されて、ドゥリーヨダナが肩の力を抜いたのが、ビーマにはわかった。もしヴァルニカルナが聖杯を持っているのであれば、襲って奪い取るつもりだったのかもしれない。
「わし様たちに聖杯を渡すつもりはあるか?」
「ああ。お前たちがオレの望みを叶えさえすれば。……そのために、オレはお前たちをここに呼んだ」
「何をすりゃあいい」
 ビーマが口を挟むと、ヴァルニカルナは瞳だけをビーマに向けてきた。その視線に先ほどまではなかった、険のようなものを感じて、ビーマはおやと思う。
……乗り気なようなら結構だ。では聞くがいい、オレがお前たちを招いた理由を」
 やっぱりというか何というか、ヴァルニカルナの語ることは難解だった。内容自体が難解なわけではない。ただあまりに抽象的な表現が多く、何を語っているのか、そもそもの内容が掴みにくい。
 ビーマは早々に匙を投げ、会話のほとんどをドゥリーヨダナに任せた。不思議とヴァルニカルナは、ビーマよりもドゥリーヨダナに友好的なように見えた。姿がカルナだから、そう見えるだけだろうか。それとも、ドゥリーヨダナが名前をつけたものだから、それで懐いているのだろうか。
 生前、あの運命的とも言える御前試合の後。野良から拾われたばかりの犬のようなカルナを堂々と王宮内で連れ歩き、あれこれとドゥリーヨダナが世話してやっているのを見た時のことを思い出す。不愉快と呼ぶほどではないが、思わず眉間に皺を寄せてしまうような、けれどもただ見ることしかできない、不甲斐なさにも似た心地。
……つまり、お前はそこらのヨワヨワ一般ピーポーが、やりたいことリストにチェックをつけるのに夢中になって、やりたいことをやることではなく、チェックをつけることが目的になっているのが面白くない、と」
 少し意識を過去にやっている間に、いつの間にかドゥリーヨダナが話をまとめに入っていた。ヴァルニカルナが頷く。
「ああ。オレは人の願いというものに興味があった。たくさんの願いを、それを叶えた人間がどんな顔をするか、知りたかった」
「それでとにかく実例を集めるために、やりたいことリストをやらなければならない特異点を作ったと。で、思っていたものと得られたものが違ったものだから、代わりにわし様たちにもそのやりたいことリストをやってほしくて、わざわざ別の空間に呼び寄せたと。……何でわし様たちだけ? マスターはどうした」
「あれは置かれた環境が特殊すぎる」
 簡潔な答えに、悪意のようなものは感じられなかった。ドゥリーヨダナは「ふぅん」と視線を流し、それからぼそりと「ま、あれは却って酷ということもあるか」と呟いた。
「マスター抜きということだが、仕方ない。わし様はカルデアに召喚されたサーヴァント。お前の要望に応え、聖杯を手に入れ凱旋しようではないか! で? まずは何をすればいいんだ? やりたいことリストとやらを埋めればいいのか?」
「その必要はない。もう、お前たちの願いは把握している」
 ヴァルニカルナが懐から何かを取り出した。あっとドゥリーヨダナが声を上げる。
「それ! わし様が見つけたやりたいことリストではないか!」
「一人だけのはずが二人になってしまったのは誤算だったが、だからこそやり遂げられるものというのもあろう。――お前たち二人のやりたいこと、合わせて百個、やり遂げて見せろ。そうしたら、聖杯はくれてやろう」
「俺たち二人のやりたいこと? それがそのリストに書いてあるっていうのか」
 南の島でバカンスがしたい。チラリと見えた文言を思い出す。自分はそんなことを思った記憶もないから、恐らくあれはドゥリーヨダナのやりたいことだろう。他に一体何が書いてあるのか。ろくでもないことが書いてなければいいのだが。
「わし様のやりたいことはともかく、ビーマのやりたいことなんて、どうせ『カレー食べたい』『ラーメン食べたい』『焼肉食べたい』とかだろ。想像しただけで腹が破裂しそう。うげー。まあいい、とにかくまずは確認を」
 ドゥリーヨダナがヴァルニカルナの持つやりたいことリストに手を伸ばした。ひょいとヴァルニカルナがやりたいことリストをドゥリーヨダナから遠ざける。ドゥリーヨダナが手を伸ばす。ヴァルニカルナが遠ざける。そんな動きを三回ほど繰り返した後に、ドゥリーヨダナが喚いた。
「おい、とっとと寄越せ!」
「それはできん。リストがあれば、お前たちは他の者と同様、リストを埋めることに躍起になるだろう。お前たちはやりたいことリストなしで、やりたいことをやるといい。それができるように、この空間はできている」
……つまり、俺たちはヒントなしで、そのリストに書かれていることをやらなきゃならねえってことか?」
 やりたいことリストを懐にしまっているヴァルニカルナにビーマが尋ねると、「そうだ」とヴァルニカルナは頷いた。
「何も難しい話ではあるまい。元々の願いは、お前たちの中にあるのだから。意識しているか、していないか。覚えているか、いないか。そこまでは保証ができないが」
 ビーマは顔を顰めた。無意識かつ記憶にないような、ちょっとした願いまで入っているとなれば、事はそう簡単ではないだろう。
「とは言えオレも鬼ではない。チュートリアルをやってやる。……そこでアイスが売っているな? 好きなものを買ってくるといい。なに、金は心配ない。払おうと思えば、そこに出てくる」
 指差された先を見れば、確かに菫色の看板が鮮やかな、アイスキャンディ屋がある。ビーマはドゥリーヨダナと顔を見合わせた。どちらともなく歩き出し、店の中へと入る。
「いらっしゃいませ」
……スカサハ・スカディ?」
 見知った顔に、ビーマが思わずその名を呼ぶと、カウンターの向こうの店員――とある異聞帯の女王は小首を傾げた。
……? お客様、注文は何にしましょうか。当店のアイスキャンディは余分な物は一切使っておらぬ。材料は氷と、ほんの少しの魔力だけ。子らに食べさせても安全だし、健康志向のニーズにも応えている」
 まるで他人のように話すスカディの様子に、ビーマは困惑した。オルタのアルジュナと同様、この女王もまた、カルデアの特殊な環境でなければ召喚されないはずである。つまり、野良のサーヴァントではない。だというのに、まるで初対面のようだ。
「彼女はお前たちの知る彼女ではない。オレ同様、この世界の人物はお前たちの記憶の中から姿を借りている」
 いつの間にか後ろにいたヴァルニカルナがそう言って、「買わないのか?」と小首を傾げた。どうにも調子が狂う。
「んー……味が特に書いておらんが、色はたくさんあるな? どれが何味だ?」
 ドゥリーヨダナの問いに、スカディが答えた。
「色は味と関係ない。お前は何味が食べたい?」
「そうだな、ぶどう味の気分だ。いや待て、わし様あれがいい、シャインマスカット! 高級フルーツなのだろう? わし様にぴったりだ」
「シャインマスカット。ふむ。好きな色は?」
「金だな」
「ではこれを」
 スカディが差し出してきたのは、形こそアイスキャンディだったが、色がアイスキャンディらしからぬものだった。何せ金色をしている。食べ物がしていい色ではない。
……これ食い物かあ? 金の延べ棒とか言われた方がまだ納得できるが……
「注文通りのものを出したのに、食べる前からクレームか? いいから食べてみるといい、お客様。溶けてしまう」
 ドゥリーヨダナは往生際悪くしばらくアイスキャンディを眺めていたが、諦めたのか、いかにもおっかなびっくりという様子でアイスにかじりついた。途端、その目が見開かれる。
「うまい! 本当にマスカットの味がする! どうなっとるんだ!」
「ふふ。企業秘密だ。さて、そちらのお客様は?」
「俺か? ……そうだな、味は桃で、色は……赤がいいな」
 うまそうにアイスキャンディをぺろぺろ舐めているドゥリーヨダナの舌をじっと見ていたことに気付いて、ビーマは目を逸らした。すぐに「どうぞ」と赤く透き通るようなアイスキャンディを差し出される。
「色だけ見ればいちご味やスイカ味ってとこだが…………おお、本当に桃の味がする」
 ビーマが瞬きをしていると、スカディが「気に入ってくれてよかった」と微笑んだ。
「さて、お会計は二本で八アルポンドだ」
 金のことをすっかり忘れていた。固まるビーマとドゥリーヨダナに、ヴァルニカルナが言った。
「過程が不要であれば、必要なものはそこにあるはずだ」
 どういう意味だ。ビーマが問うより先に、ドゥリーヨダナが「おっ!」と声を上げた。かと思えば、どこから出したのか、アルポンド紙幣を手に持っている。
「店員よ、お代はこれでいいか?」
「ああ、確かに。……またのお越しを、お待ちしています」
 何だかわからないが、無銭飲食にはならなかったらしい。店の外に出る。日陰を見つけて、ビーマはドゥリーヨダナに声を掛けた。
「向こうで食べようぜ」
「うむ」
 二人して建物の裏手にできた日陰に入り、ぺろぺろとアイスキャンディを舐める。ビーマは海の方を見た。日差しはきついが、澄み渡った空は見ているだけで気分が良くなる。吹く風も気持ちいい。
 こういうのも、悪くねえな。思いながらドゥリーヨダナの方を見れば、目が合った。何か言われるかと思いきや、慌てたように目を逸らされる。
「しかし……これのどこがチュートリアルなんだ? というかヴァルニカルナのやつはどこに行ったんだ」
 食べ終わったらしいアイスキャンディの棒を所在なさげにぶらぶらさせながら、ドゥリーヨダナがキョロキョロし始めた。言われてみれば、いつの間にか黒フードの姿がない。
「この世界は作り物で、見知った顔があっても本人じゃねえってのを説明したかったのかもな」
 言って、ビーマは最後の一口を口の中で溶かし、ごくんと飲み込んだ。
 ピロリロリーン。突如、間抜けな電子音が鳴り響いた。ドゥリーヨダナにも聞こえたらしい。「何だ今の音」と眉を跳ね上げている。
「今のはお前たちがやりたいことリストの一つをクリアした音だ」
「うおっヴァルニカルナ! 今までどこにいた!?」
 ぬっと現れたヴァルニカルナは表情一つ変えず、「言っただろう、オレはどこにでもいるし、どこにもいない。ただお前たちを見ている」とドゥリーヨダナの方を見た。そしてすっと何かを差し出した。
……何だこれは」
「チェックをつけるのもやりたいことリストの醍醐味だ。だがお前たちにはリストは渡せん。なので代わりに、お前たちがやりたいことリストの項目をクリアする度に、これをやろう」
 それはガラスでできた、二本の花だった。花弁から茎、葉まで全てガラスでできたそれは、随分繊細なように見えた。うっかり壊してしまいそうだ。
「ここで渡しても邪魔だろうからな。今回はこうやって見せてやるが、次からは控え室の花瓶に挿しておいてやる」
 ビーマの懸念を先回りするようにヴァルニカルナが言って、花を懐にしまう。ビーマは尋ねた。
「控え室? 何か休憩所でもあるのか?」
「最初にお前たちがいた部屋、あそこが控え室だ。この世界はお前たちのやりたいことが叶えられるように作られてはいるが、舞台はその度に変わる。オレにも準備が必要だからな。その間は、あの部屋で待ってもらうことになる」
……つまり、それぞれの世界で叶えられるやりたいことリストの項目をクリアしたら次に行ける……ということか? まあずっと南の国と言うのも、それはそれで飽きるからなあ」
 しかしまるでテレビゲームのようだな。ドゥリーヨダナがぼやいて、それから「ところで」とヴァルニカルナを見下ろした。
「さっきお前はわし様たちに花を二本見せたな? ということは、わし様たちは二つ、やりたいことをクリアした。そういうことだな?」
「そうだ」
「一つは恐らく、『アイスを食べたい』とかだろ。どうせビーマのやつの願いに違いない。そうだな?」
「その問いに答える必要性をオレは感じない。答えはお前たち自身が知っているはずだからだ」
 ヴァルニカルナの答えに、ドゥリーヨダナは当てが外れたような顔をした。どうせ食い意地が張っているだのなんだの、ビーマを馬鹿にするつもりだったのだろう。ビーマは言ってやった。
……ってことは、ドゥリーヨダナ、お前の願いかもしれねえってわけだ。そういやお前、この間ガキどもがスカディに氷菓子をもらってるのを羨ましそうに眺めて――
「はぁ~? 違いますぅわし様は麗しく高貴な美女に王族の礼儀として声を掛けるタイミングを伺っていただけですぅ~! まあ、声を掛けようとした途端、横から現れたピンク髪の女王に脇腹に肘入れられたんだが……おっかない女が多すぎる……
 遠い目になってぶつぶつと呟くドゥリーヨダナを尻目に、ビーマはヴァルニカルナに声を掛けた。
「花が二つってことは、もう一つ何か俺たちはやりたいことをやれたってことだよな? それは何だ? まさか買い物か?」
 振り返っても、特別なことは何一つしていない。アイスキャンディを買って食べた。それだけだ。
 聖杯を手に入れるには、百個のやりたいことをクリアしないとならない。しかもそのやりたいことというのは、ビーマとドゥリーヨダナ、それぞれのものが入り混じっている上に、無意識のものや記憶にないものまであるという。
 アイスキャンディを買って食べた。たったそれだけの短い行動の合間に、無意識のやりたいことが含まれていたとして、それは一体、どんなものだろうか。
「もう一つか。もう一つは、『一緒に食事がしたい』というものだ」
「は」
 あまりに素朴で簡単すぎる『やりたいこと』だ。だが、特定の相手を対象とした願いは、途端に難易度が上がり、切実なものを帯びる。
 それはどちらのやりたいことだったのか。聞いたところでヴァルニカルナは答えてはくれないだろう。案の定、ヴァルニカルナは「今回はチュートリアルだったから教えてやったが、次からは自分たちで考えるといい」と淡々と口にするだけだった。
「さて。これでお前たちにも為すべきことがよくわかっただろう。それではグッドラック(地獄で会おう)」
 言うが早いか、すうっとヴァルニカルナの姿が消えた。ドゥリーヨダナが大声を上げる。
「あ、おいこら! 今不吉なルビ振らんかったか!? おーい! 戻ってこい!」
 子供のように地団駄を踏むドゥリーヨダナの顔は真っ赤だ。その理由は一体何に対してなのか――考えかけて、ビーマはやめた。藪蛇というものだ。
「とにかく、残り九十八ってわけだな。先は長い。無駄な時間は過ごしてらんねえぞ」
 ビーマがそう口にすると、ドゥリーヨダナは地団駄を踏むのをやめ、苛立ちをそのまま残した顔を向けてきた。
「ふん。お前に言われんでも、わかっておるわい。とっととやることやって、聖杯を手に入れるぞ! そうと決まったらまずは――水着を買うぞ!」
「は? 何でだよ」
 疑問を口にした途端、にやりとドゥリーヨダナが笑みを浮かべた。でかでかと得意気と書いてあるような笑みである。
「そんなもん海で遊ぶために決まっておろう! いいか、欲望を解放させるのが苦手ないい子ちゃんのパーンダヴァと違い、わし様は楽しむのも楽しませるのも得意な王子! いいからここはわし様の言う通りにしろ、とっととやりたいことをやっていくぞ!」
 のしのしと勇ましい象のように、ドゥリーヨダナが日陰から日向へと出て行く。その後を追いながら、確かにしばらくドゥリーヨダナに任せた方がいいかもしれんとビーマは思った。
 少なくともドゥリーヨダナのやりたいことをクリアすれば、半分――果たして百個のうち、ビーマとドゥリーヨダナのやりたいことの割合が半々なのかどうかは疑問だが――はクリアできるはずだ。
 やりたいこと、か。ビーマはアイスキャンディの棒をゴミ箱に投げ入れているドゥリーヨダナの背を見ながら、考えた。
 果たして俺のやりたいことは、何だろうか。マスターのために戦うこと、料理を作ってたくさんのやつを腹いっぱいにしてやること、うまいものを食べて腹いっぱいになること。どれもわざわざやりたいことリストに書かれるようなことかと言われると、違うように思う。こんなに漠然としていない、もっと具体的なことがリストには上げられているだろう。
 大概のことは、やりたいと思ったらやってしまっている。そもそもビーマはドゥリーヨダナほど強欲ではないのだ。ひょっとしたらやりたいことリストの大半は、ビーマではなくドゥリーヨダナのものかもしれない。それであれば、自分は別の角度からの解決方法を探ってみるのも一つの手段だろう。
「かと言って、別行動は却って非効率か……?」
 アイスを食べたい。一緒に食事がしたい。前者は一人でもクリアできるが、後者は二人揃っていなければクリアできない。そういうものも、対象に含まれている。
「おーい! 何ノロノロしとるんだ! あっちに店があるようだから、とっとと行くぞ! しかし金には困らんというのはいいな。ついでだから服もバカンス仕様にして……
 立ち止まってビーマが追いつくのを待っているドゥリーヨダナは、別行動なんて考えてもいないようだった。まあいいか、とビーマは一旦考えを保留にすることにした。
 こんな状況だからだろうか、当たり前のように、ビーマと行動するつもりでいるドゥリーヨダナ。おかしな気分だが、悪くない。
 ドゥリーヨダナと二人で、一つの目的のために過ごす。やらなければいけないことはやりたいことなのだから、そう物騒なものもないだろう。そう思えば、これも得難い機会なのかもしれなかった。
 そう思ってしまったので。ビーマは「おう、悪い」と軽く口にして、ドゥリーヨダナの元に駆け寄った。


 最初の南の島は良かった。何か目についたことをすれば、三回に二回はやりたいことを完遂したことを告げる電子音が鳴った。海ではバナナボートに乗ったしサーフィンもしたし、パラソルの下で昼寝もした。屋台でホットドッグを食べ、夜はバーベキューもした。ホテルは最上階スイートだ。ドゥリーヨダナは「普段なら適当な物件を買うところだが、たまにはこういうのもいい」と高層階の景色にご満悦だった。
 風が気持ちよかったので、夜の散歩をして。そうしたら花火が上がるのが見えて。こういうのは酒を片手に見るのがいいと、その辺のコンビニで安酒を買って、二人で酒を片手に並んで花火を見た。翌日はドゥリーヨダナの買い物に付き合いつつ、ビーマは目についた料理を食べまくった。間抜けな電子音はもはや聞き飽きてしまうほどで、環境音の一つに成り下がっていた。
 そんな日々を五日ほど続けていたら、突然最初にいた部屋――ヴァルニカルナが控え室と呼んでいた、アンティーク調の家具が置かれた部屋にいた。何の前触れもなかった。
……俺のマラサダがねえ」
 さっきまで食べていたおやつが消えてしまった。空っぽの手をビーマが見つめていると、ドゥリーヨダナがいかにも呆れたと言わんばかりの声を出した。
「お前あれだけ食べてたのに、まだ食べたりんかったのか? わし様は見てるだけで胸やけしてたぞ……あんなもん二十個も三十個もよく食べれるな」
「ふわふわでいくらでも食べれそうって、お前も言ってたじゃねえか。ま、最初だけだったが」
「一つはぺろっといけたんだがなー。二つ目の三口分くらいで飽きたわ。……ん? おい、これがわし様たちがクリアしたやりたいことの数というやつか?」
 ドゥリーヨダナが花瓶を持ち上げた。中にはガラスの花がいくつも挿さっている。
「ひぃ、ふぅ、みぃ……全部で二十八本あるな」
「てことは、あと七十二個か。このペースなら、案外すぐに聖杯を手に入れられるかもしれねえ」
 だが、そう簡単には行かぬものである。
 しばらく控え室で、既にクリアした二十八のやりたいこととは一体何だったのか、どちらのやりたいことだったのかを二人で話していると、最初と同じく突然視界が白く染まって、また知らない場所にいた。
 そこはキャンプ場だった。少し離れたところにコテージもあり、川や湖もある。ドゥリーヨダナは風で葉を揺らす木々を見るなり、「これはわし様じゃなくてお前の趣味だろう」と言ったし、実際ビーマもそう思った。少なくとも、ドゥリーヨダナの趣味とは思えない。
 なので今度は、ビーマが主体になって動くことにした。川で魚を釣って料理し、夜には星を見上げた。山登りのようなこともしたし、焚火は火起こしからやった。やりたいように、やろうと思ったことを、ただやった。
 しかしやりたいこと達成を知らせる電子音は、ほとんど鳴らなかった。南の島では三回に二回は鳴っていたものが、三回に一回になった。
「お前、他にやりたいことはないのか? あるだろう何か。わざわざこんな世界が用意されるくらいなんだから。森で熊と相撲を取りたいとか、そういうやつでもあるんじゃないのか?」
 明らかにペースが落ちていることに焦りを感じたのか、ドゥリーヨダナが「クマ出没注意!」の看板を見ながらそんなことを言ってきたが、ビーマとしてはそんな妙なことをやりたいと思ったことはない。だがドゥリーヨダナはそう思わないらしかった。
「お前自身が忘れとるだけで、やってみたいと思ったことがあったかもしれんだろ。ほら、金時のやつが確かそういう武勇伝を持っておっただろうが。それを聞かされて、自分も熊を二つ折りにしたい、と思ったのではないか? いかにも筋肉馬鹿のお前らしい。ほれ、早くその辺の熊を素手でボコしてこい」
「金時は熊を二つ折りにはしてねえだろ。つか、勝手に俺のやりたいことを決めるんじゃねえ」
 とは言え他にやることもないので、ビーマは早朝の森を歩き回り、都合よく出くわした熊を背負い投げした。途端、ピロリロリーン、と間抜けな音が聞こえたので、ビーマは逃げていく熊の尻を眺めながら、脱力し、同時にこれは長丁場になるぞとうんざりした。
 無意識のこと、一瞬思っただけでとっくに忘れてしまったこと。そんなものまで含まれているとなれば、これはもう手当たり次第に試してみるしかない。
 それから敢えてコテージから出て野宿をしてみたり、裸で湖に入ってみたりと、色々と試した。二人でやらなければ意味のないことかもしれないし、ビーマではなくドゥリーヨダナのやりたいことに引っかかる可能性もあるだろうと、ドゥリーヨダナを無理やり道連れにしてみたが、音は鳴ったり鳴らなかったりした。少なくとも野宿では鳴らなかったが、湖では鳴った。
 そうして五日ほど過ごし、また唐突に控え室に戻された。川で水切りをしている最中のことだったので、控え室に戻されたと気付いた途端、ドゥリーヨダナは大声を上げた。
「おい! 今わし様が勝ってたのに!」
「何言ってんだ、俺の投げた石の方が跳ねてただろうが」
「いーや! あのままだったらわし様の石の方が多く跳ねてたはずだ! 選んだ石、効かせたスナップ、全てが完璧の一投だったのだぞ! さてはお前、負けるのが嫌で何かここに戻されるような小細工を……
「するわけねえだろ。つか、できるならもっと早くやってたぜ」
 自然は好きだ。山も、森も。都にはない豊かさがそこにはある。とは言えそれは一年間を通しての話で、たった数日でそう目まぐるしく何かが変わるわけでもない。自然の中では人の時間感覚は先を急ぎすぎている。南の国と違って、早々にやれることは思いつく限りやり尽くしてしまっていた。もし好きなタイミングで次の舞台に移れるのなら、ビーマはとっくにそうしていた。
「花は……増えたのは十四本か……。まあ、まだ二つ目の舞台だし、おまけに森だったからな。次はもっと欲望が満たしやすいところがいい。何だったらもう一度南の島でもいいな」
 最初が二十八個だったものだから、ペースダウンしたという思いが否めない。とは言えドゥリーヨダナの言う通り、場所がよくなかった。次はもっとサクサク行くかもしれない。
 そう思ったと言うのに、次の世界は砂漠にある街で、ここでは六個しかやりたいことをクリアできなかった。その次の先ほどまでいたところは、寂れた温泉宿だった。増えたガラスの花は、たったの四本。
 はっきり言って、非常に芳しくない状態である。控え室に戻された途端、ビーマもドゥリーヨダナも黙り込んでしまったほどだ。
 この調子を引きずるのはよくない。かと言って、何か気晴らしできるようなものは、ほとんどなかった。それこそお互いに話をするか、昼寝でもするか。そのくらいだ。
 そうしたわけで昼寝から目覚めた今。いささかすっきりした頭で、これからどうするのがいいかビーマは考えた。
「さすがに、何でも闇雲にやればいいってもんじゃねえかもしれねえな」
「そうは言っても、手掛かりはほとんどないようなものだぞ? だいたい、無意識のものや記憶にないものも含まれているといのはずるすぎじゃないか? 本当はわし様は一度もそんなことを望んでいやしないのに、当然のように知らんものをねじ込まれていたとして、気づきようがないだろうが」
「そこはヴァルニカルナを信じるしかねえな。……無意識だろうが記憶になかろうが、俺たちがやりたいことであることに変わりはない。逆に言えば、どう考えてもやりたいと思わねえことは最初から除外すりゃあいい」
「どう考えてもやりたいと思わないことぉ? 例えば?」
「俺は絶対にダイエットはやりたいとは思わねえな」
「キリッとした顔で言うことか、それ。心配せんでも、誰もお前に食事制限なんて求めんわ」
 ビーマは真面目に答えたと言うのに、ドゥリーヨダナは噴き出した。屈託のない笑みだった。思わずビーマが言い返す言葉を失ったほどに。
「どう考えてもやりたいと思わないこと、なあ。わし様の益にならんことは当然したくない……最初から負けが決まっておる勝負も嫌だ……
 花瓶から一本ガラスの花を手に取ったドゥリーヨダナが、ペンまわしの要領でくるくると回す。かと思えば、ぴたりと花を回すのをやめた。
「そう言えばお前、気づいているか? やりたいことには二種類あるようだということを?」
「二種類?」
「おっその様子だと気付いてはおらなんだようだな? それも仕方ないか、お前は所詮筋肉自慢の戦馬鹿。最強の戦士でありながら、智将でもあるわし様とは視座が違うというやつだな」
 ここぞとばかりにビーマを下げ自らを上げる発言をするドゥリーヨダナに呆れながら、ビーマは「何でもいいから、説明しろよ。何だ二種類って」と話の先を促した。
「うむ。まずヴァルニカルナの説明によれば、わし様たちがヴァルニカルナの作った世界でクリアできる『やりたいこと』を全てクリアすれば、一度この控え室を経由して、次の世界に行けるという話だったな」
「ああ」
「最初の南の国で言えば、『アイスを食べたい』辺りがそうか? 少なくともあの願いはその次のキャンプ場では叶えるのが難しかった。……だが、あの時同時にクリアした、『一緒に食事がしたい』はどうだ? あれは別に、キャンプ場でも砂漠の街でも、温泉宿でもよかった。実際、何度も一緒に食事をしたしな」
 ドゥリーヨダナはビーマを大食いの食い意地張った馬鹿とでも思っているのかもしれないが、ドゥリーヨダナもなかなかに健啖家である。目についた食べ物は二人揃って口にしていた。やりたいことかもしれないを口実に様々な物が食べられるという点では、この特異点は悪くなかった。
「その世界……ステージと言った方がいいのか? そこでしかクリアできないやりたいことの他に、環境を選ばないやりたいこと、この二つがある、というわけだ」
 ピースの形にした指を、ハサミのようにドゥリーヨダナが開いたり閉じたりする。
「割合がどの程度か知らんが、この環境を選ばない『やりたいこと』をとっとと片付けてしまうのが手だろう。そうでないといつまでも終わらん。というか、それを理由につまらん世界に閉じ込められたりしたら最悪すぎるぞ」
「環境を選ばない、やりたいこと、なあ」
 ビーマは未だピースの形を取っている、ドゥリーヨダナの手を見た。節くれだった手。ビーマと同じくらい大きな手は確かに男の手であったが、はりがあり、なかなか握り心地も良さそうだった。膝の上に放り出されている、ピースを作っているのとは逆の手を見る。
 そういや、手を繋ごうかと思ってたんだった。本当にしたいのはキスだけど、まずは手だ。握るところから始めよう。
 いいよな、だってこいつとは恋人なんだし。やりたいと思ったことは、どんどん試すべきだ。
 思った時にはもう、ビーマはドゥリーヨダナの手を握っていた。「は?」と間の抜けた声に顔を上げれば、ぽかんとした顔で、ドゥリーヨダナが握られた手を見ていた。
「おい、何だビーマ。この手は。まさか暴れる機会がなくてフラストレーションが溜まりに溜まった挙句、手慰みにわし様の手をバキバキに折ろうとかそういう……
「何でそうなるんだよ。俺はただ、お前の手を握りたいと思ったから、そうしただけだ」
 ドゥリーヨダナは変な顔をしていた。顔を赤くし、頬を引きつらせている。照れているのだろうか。すぐ恥をかいたと騒ぐドゥリーヨダナである。しかし自分たち以外にここには誰にもいないのだから――ヴァルニカルナには見られているのかもしれないが――構わないであろう。ビーマがそう口にしようとした途端。
 ピロリロリーン。間の抜けた電子音が、どこからともなく鳴り響いた。
「おっ、この控え室でも、やりたいこと認定されるのか」
 ならばここでの過ごし方も、今までとは変わってくるというものだ。カラン、と軽やかな音がして目をやれば、ガラスの花もちゃんと一本増えている。
「これであと四十七個か」
…………おい」
 声を掛けられて目をやれば、顔を赤くしたままのドゥリーヨダナがいた。
「何だよ?」
……何で、わし様の手を握りたかったんだ?」
「あん?」
「お、おかしいだろ、お前が、こんな……
 珍しく、ドゥリーヨダナの声は小さかった。小さいと言うより、掠れて揺れている。そよ風一つで飛ばされてしまいそうな声音だった。
「別におかしくねえだろ」
 こいつ、意外と照れ屋なんだな。てっきりドヤ顔でさすがわし様、手すら魅力的だとかそういうことを言うのかと思っていた。思いながら、ビーマは答えた。
「恋人と触れ合いたいと、そう思っただけだ。別に普通のことだろ?」
 ドゥリーヨダナがあんぐりと口を開けた。呆然としているようにも見える。端的に言えば隙だらけに見えた。
 これ、この流れでキスもできるんじゃねえか? いきなり口は無理でも、頬くらいなら、まあ、いけるだろう。
 思って、ビーマはドゥリーヨダナに顔を寄せようとした。だが、口付けることは叶わなかった。
 視界が白く染まる。次の世界の準備ができたらしい。
 残念だが、機会はこれからもあるだろう。まずは次の世界に集中することだ。
 せめてもと、握っていた手を更に強く握る。振り払われることのないそれが、心を熱くした。

   ★

 ビーマの様子がおかしい。ドゥリーヨダナは飲んでいたバニラシェイクをテーブルに置いた。
「もうこれ飽きたから、やる」
「おう。……なんだ、ほとんど残ってなかったじゃねえか」
 ジュゴ、という凄まじい音と共に、シェイクの残りが一瞬でビーマの胃袋へと消えた。すぐに容器をテーブルの端に置いて、ビーマが食事を続ける。
 山のように積まれていたハンバーガーは、残り五個にまで減っている。そろそろビーマの食事も終わるだろう。ドゥリーヨダナはぼんやり窓の外を眺めた。
 シミュレーターで訪れたことのある世界だった。マスターの祖国にある都市の一区画、新宿と呼ばれる街は、多くの人で賑わっている。雨が降っているからだろう、色とりどりの傘が揺れる様子は、花畑のようでもあった。
 ここでは何をしてみるか。マスターが話していた、カラオケとやらに行ってみるのもいいし、映画館で映画を観てみるのもいいだろう。もしかしたら話を聞いた時に、やってみたいと思ったかもしれんからな。雨が去るまでの時間潰しとして入ったハンバーガーショップでドゥリーヨダナがそう提案すると、ビーマははにかんだ。
「それ、マスターの時代のデートの定番ってやつだろ? 楽しみだな」
 おかしすぎる。ドゥリーヨダナは思う。
 それはこの世界に来る直前、控え室にいた頃からそうだった。ビーマの様子がおかしいのだ。思い出したくもないことだが、考えないわけにもいかないので、仕方なくドゥリーヨダナは記憶を振り返る。
 どうもビーマは、自分とドゥリーヨダナは恋人だと、そう思っているらしいのである。
 そんな事実はない。少なくともドゥリーヨダナに、そのような記憶はなかった。