彼方
2025-05-16 06:58:52
12066文字
Public お題箱より
 

【008】Carpe diem 〜カルぺ・ディエム〜(全年齢)

#毎月20日は兎赤の日 ハッシュタグ投稿合わせのSS として書きました
海を見に行く大人兎赤(一人称赤葦目線・最後は木兎目線)
なにかありそうで、なんでもない一日の話
お題箱の投稿をベースにアレンジを加えたものとなっています

なおいただいたお題の詳細とタイトルの由来は本文最後に記載しています

「明日はちょっとだけ遠出したいから、これぐらいにしとこうね」
 木兎さんがシーズンオフに入って少しだけ心に余裕のある平日の休み。普段なかなか会えない俺たちは久々のセックスだと俺の意識が飛ぶまでヤることが多いのに、その夜はいつもと違った。明日ものんびりできるからもうちょっと抱いてくれてもいいのにと思わなくはなかったが、口の端からワクワクを隠しきれない顔をしている木兎さんを見て、俺は素直に頷くことにした。
……まあ、木兎さんがそう言うのなら」
「せっかく珍しく2日まるまる一緒に居られる休みだしさ、海行こ海」
「はぁ」
 やっぱり。何かを企んでいる顔だなとは思ったけど、海かあ……。会社と担当している先生のところと自宅と木兎さんのところを行き来するだけの生活を長く続けていると、海という単語を聞いてもあまり現実味が無い。東京にも一応海はあるけれど、別に特別な感じはしないしな。
「なんで海なんです?」
「んー、なんとなく!」
「なんとなくって、そんな」
 なんとなくで出先を決めるなんて、木兎さんらしいっちゃらしい。まあスマホもあるし下調べ無しでもなんとかなるか……事後の疲れで頭がうまく動かない。グッタリする俺を甲斐甲斐しく世話しながら、木兎さんは寝落ちしそうになる俺の顔を覗き込んだ。
「赤葦はいつも難しく考えすぎなんだよね。なんとなく海が見たい日があってもいいじゃん」
 ニカっと笑って木兎さんは俺の頭をゆっくり撫でた。難しく考えすぎってなんなんだよとは思う、でも木兎さんの言うことは当たらずとも遠からずで俺は黙るしかなかった。
「だから、このままゆっくり寝て明日はちゃんと起きてね」
……ふぁい」
 フンフンとご機嫌で洗面所に向かう木兎さんの鼻歌を聞きながら、俺はとろり心地の良い眠りの淵に吸い込まれていった。

 ◆◆◆

「赤葦起きて、海行くよ!」
「ん……ぉはよ、ざいます」
 ルーティンであるロードワークから帰ってきた木兎さんに揺さぶられて、俺は起きざるをえなかった。正直まだ寝ていたかったけど、たしか木兎さんは少し遠出したいって言ってたな。俺はてっきり神戸か明石海峡大橋から淡路島あたりかと思ってたんだけど、そうじゃないんだろうか。
「とりあえず顔洗って歯磨いて着替えてね。朝ごはんはコンビニでおにぎり買っておいたから車で食べて。ほらほら〜」
「えっと、はい」
 促されるままに洗面所で顔を洗って髭を剃り、髪を整えて歯を磨いた。少し伸びてきた髪の寝癖はとりあえず直せるだけ直して、洗濯機の上に置かれた着替えに袖を通す。いつもより少しだけカジュアルなテイストでコーディネートされたそれは、格好に構わない俺への最大限の気遣いなんだろうけれど……良い歳の大人が全身彼コーデってどうなんだろうな。
 美人でセンスが良い年上のお姉さんが二人いる木兎さんの服のチョイスはとても信頼できる。それに全身量販店コーディネートで平気な俺に、木兎さんのお姉さんたちはわざわざ俺に似合うものを選んでことあるごとに服を贈ってくれる。それがいつの間にか木兎さんの家にストックされていき、こうやって時々木兎さんコーディネートとして出てくるのだった。
 ファッションに疎い俺でも知ってる有名ブランドの服から、似合うと思ったからとよく見る量販店の服まで。木兎家のひとは俺のことを着飾るのがお好きなようで、木兎さんの大阪の家には俺専用のクローゼットがあるぐらいになっていた。
「あかーし、着替えた?」
「はい、なんかすみません」
「俺はもう準備できてるから、先に車行ってるね」
 キャップにサングラス姿の木兎さんも、休日らしくラフな格好だ。体のラインに綺麗に添うゆるっとしたTシャツに、動きやすそうなパンツは俺のよりもちょっといかついデザイン。鞄は持たないひとだから、スマホと財布だけ持ってどこまでも行ってしまう。初夏の気まぐれなお出かけって感じのコーディネート。
「俺もすぐ追いかけます」
 くるくると車のキーリングを弄りながら先に行ってしまった木兎さんに遅れないように、俺は自分の支度を続ける。
 肌触りの良いリネンのシャツに、くるぶし丈のパンツ。シャツはたぶん初めて着るやつだから、俺が知らない間に新しく追加されたのかもしれない。靴はいつも散歩に使ってる歩きやすい靴にして、両手が空くようにボディバッグを選ぶ。念のため適当な袋に洗面所の棚からタオルを放り込んで、キッチンからビニール袋を何枚か。クローゼットから替えの靴下を引っ掴んで、戸締りをして家を出た。

「はい、これとこれ」
 少し後から助手席に乗り込んだ俺にポイポイとおにぎりを渡して、木兎さんは車を発進させた。
「いただきます」
 もらったコンビニおにぎりのビニールを剥きながら、俺はまだ車どおりの少ない朝の街を眺めた。ここを木兎さんの車で走るのは、最終の新幹線に乗る俺を新大阪駅に迎えに来てもらって帰ってくる時のことが多い。夜の眠りについた街はどこか無機質で道ゆく車のライトを見ることしかないけれど、朝の街はなんとなくこれから動き出すぞという雰囲気があってなんか良い。
 部活の朝練に行くであろうバス停の学生さんに、配送のトラック。コンビニの前でコーヒーを飲んでいるサラリーマンに、自分を重ねて苦笑いが込み上げる。どこの街でも見かけるそんな光景がとても愛おしく感じられるのは、俺の隣で木兎さんが運転しているからだろうか。
「おにぎり、鮭とおかかにしちゃったけどよかった?」
「どっちも好きなんで大丈夫です」
「ほんとはおに宮のが良かったんだけど、行けなくてさ」
「気持ちはちゃんと伝わってますから。また一緒に食べに行きましょう」
 おにぎりを二つ食べてペットボトルのお茶で一息ついた。車はいつの間にか高速に入っている。通勤ラッシュの始まった都市高速を避けるルート設定のようで、ナビの案内で車はすいすいと高速道路を走り続けた。
「休憩はもうちょっと先がいいんだけど、トイレとかあったら言ってね」
「了解です」
 特になにか音楽が流れるでもなく、FMが小さい音でかかるだけの車内。ラジオのパーソナリティの関西弁の間に時々差し込まれる交通情報がすごく通勤時間ぽくて、平日に遊びに行こうとしている俺たちだけが非日常みたいだ。
「ごめん、お茶もらってもいい?」
「はい、どうぞ」
 道案内が出来ない俺は、ドライバーの木兎さんにお茶を渡したり時々振られた話に相槌を打つぐらい。特に会話がない時はぼんやりと助手席から外を見るフリをしながら、運転する木兎さんの横顔をチラチラ眺めている。
 サングラスに隠れている瞳はまっすぐ進行方向を向いていて、スッと通った鼻筋に形の良い唇。ラジオから流れる曲に合わせてハミングする木兎さんの声に耳を傾けて、追越車線を巧みに使いながら遅いトラックを追い抜く運転に見惚れたり。ああ、なんだかすごく久しぶりに試合以外の木兎さんを見ている気がする。
「早く出たつもりだったけど、やっぱりトラック増えてきちゃったなあ」
「平日ですし、お仕事の方の方が多いから仕方ないですよ」
「まあね」
 所属チームが決まってすぐ免許を取った木兎さんに遅れること一年とすこし、俺も一応免許は取った。就活で忙しくなる前に取っておいた方がいいと言う木葉さんのアドバイス通り最短で運転資格は得たものの、一人暮らしで時々実家で運転させてもらうぐらいしか機会はなかった。就職してからはすっかりペーパードライバーになってしまったから、正直車のことには疎い。
 でも木兎さんがこの車を買う時、俺はカタログ比較から実車を見にディーラーを回ったり、なんなら契約の時までほぼ全てに立ち会った。木兎さん曰く『赤葦も乗るんだから、二人で決めないとダメ』なんだそうで。まだ駆け出しだった木兎さんとなんとか時間を合わせて二人で選んだ車は、少し背伸びをした中型の国産SUV。予算がギリギリでお年玉の貯金まで引っ張り出してきた木兎さんのエピソードは、今でもテッパンの飲み会ネタらしい。
 俺が運転席に座ることはたぶん無いけれど『この車の助手席は赤葦専用だから』と宣言されて悪い気はしない。それを嬉しいと思えるぐらいの心の余裕ができたことは、たぶん良いことなんだと思う。そんなどうでもいいことをつらつら考えながら木兎さんの顔を見ていると、ふと運転する木兎さんの口角が上がった。
「赤葦、俺のこと見過ぎ」
「んんっふ!」
 チラ見してたの、バレてる……。運転している時の木兎さんはそんなに喋らないから、油断してた。照れ隠しに飲んだお茶が気管に入って盛大に咽せた俺を横目に、車はするするっとサービスエリアに入った。ナイスタイミング。
「トイレ行ったら、ちょっとだけ売店とか見てみる? なんか美味しそうなもんあったら買ってみたい」
「ずいぶん遠くまで来ましたね。おにぎり食べたはずなのに……俺もう腹減りました」
「俺も俺も! こういうとこでしか食べられないなにか、あったらいいなあ」
 木兎さんはフロントにバサリと日除けのシェードを広げて、サングラスを外した。形のいい鼻があらわになって、シートベルトの軛をを逃れた体がゆっくりと俺の方に寄せられる。
「あ、」
「ふふ」
 ほんの一瞬だけ俺の頬に触れた唇は、水分不足で乾いていた。
「ダメですよ、木兎さん」
「隠したから大丈夫。喉乾いた、行こ」
 颯爽と車を降りてサングラスをかけ直す姿は、お世辞抜きにしても惚れた欲目を抜いてもすごく格好が良い。キャップを深く被ったぐらいではそのオーラは隠しきれなくて、もし休日だったら完全に身バレしていたに違いない──今日が平日で良かった。
「ちょ、木兎さん!」
 さっさと歩き出す木兎さんを慌てて追いかける俺の後ろで、SUVのロックがかかる音がした。


 俺たちはサービスエリアで買った黒豆パンを齧りつつ、車はさらに北を目指した。ここまで来たら流石に運転しない俺でもだいたいどこを目指しているかはわかる。木兎さんの言う『海』は日本海側を指していた。てっきり近場の神戸や明石あたりをイメージしていた俺は、長くなっていく木兎さんの運転時間にハラハラした。いくらオフシーズンに入ったからといって、練習はそれなりにあるし仕事もある。長距離運転で疲れが溜まることは望ましくない。運転を交代しようにもペーパードライバーの俺じゃ役に立たないし、かといって今さら引き返すわけにもいかないし。
 隣でだんだん口数が少なくなっていく俺をチラッと見て、木兎さんはなんとものんびりした声で『大丈夫だよ』なんて言う。なにがどう大丈夫なのか言わないあたりズルいなと思いつつ、俺は木兎さんの隣で彼のサポートに徹した。
 のんびりした街並みを通り抜けて、車は県境の田舎道を走り続ける。気まぐれに開けた窓から吹き込む風が大阪よりもひんやりしている気がするのは、たぶん俺の気のせいだと思うけど。
「そろそろかなあ」
 ハンドルを握る木兎さんがスンと鼻を鳴らして呟いた。途中の道なりに〝海水浴場〟の看板が見えていたから、目的地はもうすぐらしい。俺にもわかる、風に混じる潮の匂い。
「見て見て、あかーし! うみ!」
「うわ……ぁ、って木兎さんは前見ててください!」
「あ、ごめん」
 海に気を取られる木兎さんを諌めたものの、俺自身も久しぶりに見る海の風景に心を奪われる。民家の隙間からチラチラ見える海は、俺が知っている海よりもずっと荒々しい。今まで見てきた東京や神奈川の海は比較的穏やかな内海だけど、外海である日本海側は〝海感〟が強いのかもしれなかった。
「もうちょっと先に公園があるんだって。とりあえずそこで休憩ね」
「了解です」
 海水浴にはまだ少し早いからか、人はそんなに多くない。無事に車を停めた俺たちは、のんびり散策がてら海岸に向かって歩き出した。
「海だなあ……
「海ですねえ……
 打ち寄せる波の音が想像以上に大きくてびっくりする。車から見た海が荒々しいと感じたのは間違いではなかったらしい。砂浜から続く展望スポットはちょっとした登りで、歩いているうちにだんだん無言になってしまう。
「赤葦、ほら」
……すみません、ちょっと息が」
 前を行く木兎さんから伸ばされた手を素直に取れたのは、幸いにも他に人がいなかったから。ぐっと力強く手を引っぱってもらいながら、社畜の俺とプロスポーツ選手の木兎さんは一歩ずつ地面を踏んで歩いている。
「運動不足なんじゃないの?」
「こちとらデスクワークの社畜なんスよ……プロ選手と一緒にしないでいただきたい」
「シャチクがなんぼのもんじゃい」
「あはは……なんですかそれ」
「ツムツムの真似!」
 ぜえぜえ息を切らす俺を笑いながら、木兎さんは繋いだ手に力を込める。誰か来ないかヒヤヒヤしたけど、ここにいるのは俺たち二人だけだ。自分からもギュッと握り返したら、少し照れたみたいに木兎さんがキャップを被り直した。
「ほらもうちょっと、頑張れ赤葦」
「がん、ばって、ますって、もう」
 木々の間を抜けたところに、展望台があった。そこから見える海は広くてとても深い色をしていて、ただひたすら打ち寄せる波の音だけが聞こえる。
 不意に濃い潮の香りがツンと鼻を刺激して、違うところまで刺激されてしまいそうになる。
「これぐらいで息切れしてちゃ、ダメー」
「大変申し訳なく思っております、はい」
「すげー、シャチクのセリフだ!」
「そりゃもう……社畜ですから」
 歳の差、遠距離、仕事、住む世界の違い、何よりも男同士。たくさんのしがらみが俺たちを俺たちを縛ろうとするけれど、その度にこのひとは自らの手でそれを振り払おうとした。それは今でも続いているし、たぶんこれからも続くだろう。
「でもこの景色見たら全部どうでも良くなっちゃうなあ」
「たしかに、そうですね」
 アラサーの男が二人して手を繋いで見る海は、どこまでも海だった。初夏の陽気に少し汗ばんだ手を繋ぎ直して、俺たちは同じ方を向いて同じ海を見る。海はどこで見ても海のはずなのに、雰囲気が違うだけで別物みたいだ。
「こっちの海は、ちょっと怖いです」
「向こうの海は、なんかもっとキラキラしてたっけな」
 夏の終わり、高校生活最初で最後の海デートは隣県の海水浴場だった。営業を終えた海の家を眺めながらふざけて走り回った砂浜は、もうちょっと色に満ちていた気もする。
「でも俺は、こっちの方が好きかもしれません」
「俺もだよ」
 繋いだ手から伝わる熱と脈が、俺たちは共に生きているんだという実感をくれる。エネルギーの塊みたいな、太陽みたいなひと。付き合い続ける中で辛い時苦しい時何度この手に助けられたか、もう覚えていない。俺はこの手がとても大きくて温かいことを知っているから、それだけで良い。
「海に来るとやっぱり〝海は広いな大きいな〟って歌を思い出しちゃいます」
「月が上るし日も上る、だっけ?」
「日はしずむんですよ……木兎さん。前も言いましたけど」
「まだ上ってるじゃん」
「そういう問題ではなく」
 あの時もした、他愛もない会話。この話にオチなんてないし、これから続く日々にもずっとオチなんてつかない。月は上るし、日は沈む。オチのない毎日を繰り返したその先にあるのが何なのかを知るころ、俺たちはいったい何をしているんだろう。
「赤葦、また難しい顔してる」
 そう言われて顔を上げると、日差しを背にした木兎さんが屈託のない表情で笑っている。いつだって俺に力をくれるこの笑顔を、俺はずっと大切にしていたい。心の奥から顔をのぞかせた甘酸っぱい思い出をいったん傍にどけて、俺は現実に戻った。
「腹が減ったんです……上ったんで」
「たしかに」
 そう、DKだっておっさんだって運動をしたら腹が減るんだ。展望台を上り切ってやっと呼吸が落ち着いたかと思ったら、今度は腹の虫が主張をし始める。食欲に導かれるままに、今度は俺の方から木兎さんの手を引いた。
「さっきの黒豆パンは消化されたんで、次行きましょう」
「おう、俺海鮮丼が食いたい」
「いいですね、海鮮丼。今日は特別に大盛りまでオッケーです」
「ただしご飯は少なめで、だろ?」
 美味しいもののことを考えながら戻る道は、心も足取りも軽くなる。途中ですれ違う人がいても、木兎さんはずっと俺の手を離そうとはしなかった。

◆◆◆

 すっかり海鮮丼の口になっていた俺たちは、停めた車の中でさっそく近所のお店を検索した。そして上位に出てきた地元の食堂に、開店時間と同時に飛び込んだ。
「おお……
「うまそう!」
 メニューを眺めて迷いに迷った海鮮丼、大盛りを諦めて三種類の海鮮丼を二人でシェアすることで手を打った。海のそばで食べるというその空気だけで3倍ぐらい美味しく感じるのは俺だけだろうか。
「あかーし見て、このエビ頭んとこの味噌がすごい」
「こっちの鯛の漬けも美味いっす」
 最初は味について話しながら食べてたのに、だんだん二人とも口数が減っていって、最後は無言でがっついていた。木兎さんはスポーツ選手なので肉も魚も野菜も栄養士さんのアドバイスを参考に満遍なく食べるけど、俺は不規則な生活のせいでちゃんとした魚料理は久しぶりだ。作り置きもレンチンしやすい肉料理になりがちだし、たまには木兎さんちでも魚料理を出すべきだろうか。
「美味しい時の赤葦の顔、見てて楽しいな」
「それ、昔俺がなんか食ってる時によく言ってましたよね」
 あの時ほどは食べられなくなったものの、平均的な成人男性よりも体格の良い俺はそこそこ食べる。典型的な運動部男子だった高校生の頃は、それこそ一日5食ぐらい食べていたはずだ。木兎さんが卒業したあとの一年間は食べる量が少し減ってしまって、好きなひとと一緒に食べるとより美味しくなるんだって実感したこともあったっけな。
「おにぎり食べる時の赤葦、ほっぺたがリスみたいなの。知ってた?」
「それはあまり知りたくなかったです」
 最後の一切れをゆっくり味わう俺をニコニコ眺めながら、先に食べ終わった木兎さんはお茶を啜っている。あの頃みたいに早食いはしなくなったし、食後はきちんとお箸を揃える。食べる量はコントロールしているし、食べるものにも当然気を遣っている。大人になるって、そういうこと。
「なんかさー、腹一杯になったら動きたくならない? 砂浜降りて歩こうよ」
 前言撤回、まだ全然子供だった。
 海沿いの食堂は目の前がちょうど海水浴場で、一面に白い砂浜が広がっている。夏は海水浴客で賑わうそうで、この食堂も夏になると海の家も兼ねるんだとか。
「いいですけど、ちょっとだけですよ」
「やった〜! じゃ行こ、あかあし」
 
 会計を済ませて車に戻って、後部座席に放り投げていた袋を引っ掴んで木兎さんを追いかける。砂浜に降りた木兎さんはあっという間にボトムを膝までまくり上げて、靴下と靴を脱いで素足になると海に向かって走り出した。
「変わらないなあ、ちっとも」
 ジャージを放り投げていたあの頃と、根っこのところは変わってない。無邪気で天真爛漫で自由奔放、そして破天荒でもある。変わったのは、それ相応に大人になったところぐらいだ。少年の心を持ったまま大人になったのはいいとして、まあ中身は木兎さんだから海には入っちゃうんだけども。
「足元気をつけてくださいね!」
「あかーしもおいでよ!」
 手前にきちんと揃えて脱がれた靴の中にはそれぞれ靴下がちょこんとのっている。ほら、そういうところ。ポイポイ放り投げなくなったぶん、ちゃんと普通の大人になったよな。
 木兎さんの靴と自分の靴をビニール袋に入れて、念のため砂からちょっとだけ離れたところに置いて、俺は水際ではしゃぐ木兎さんの背中を追った。
「なんか水、色が違う!」
「ほんとだ、なんか深い色ですね」
 砂にキュッと足が沈む感触に、いつまでたっても慣れない。ビーチバレーってこんなところでやるんだなあ、なんて思いながらおそるおそる水に足を浸す。
「うわ」
「あはは、まだ冷てえな」
 俺より先に足を水に浸していた木兎さんが俺の反応を見て笑った。初夏とはいえ泳ぐにはまだ早いんだ、そりゃ冷たくて当然だろう。
「ちょ、水あんま上まで飛ばさないでくださいよ! 濡れたら着替えはありませんからね」
「わかったー!」
 バシャバシャと水を蹴りつつ、キャップのつばをひっくり返した木兎さんは満面の笑みで俺を見る。どこまでも明るいその表情に、つられるみたいに俺の顔も自然と笑顔になっていく。水面に落ちる初夏の日差しは真夏のそれよりもまだ穏やかで、下手をしたら木兎さんの笑顔の方が眩しいかもしれない。
「十年ぶりの、海デートだ!」
「覚えてたんすね」
「あれ一回だけだったからな」
 思い出補正も含めて、周りの景色がキラキラ輝いて見えた高校時代の真夏の海デートもたしかにすごく楽しかった。終わりかけの夏がすごく惜しくて、いつまでも終わらなければいいのにと思ったあの頃。
「もう大人だから、来ようと思ったら遠くまででも来れただろ?」
「俺が運転代われたら、もっと楽だったんですけど」
「いいの! 俺は運転するの好きだから。それに運転してたら赤葦が俺のことずっと見てくれるもん」
 こういうことを、ごくごく自然に言うんだこのひとは……俺専用の助手席といい、ずっと見てくれる発言といい。その言葉がどれだけ俺を喜ばせるのか、たぶん本能的にわかってる。そういうひとだから。
「同じ質問になりますけど、なんで海だったのか聞いてもいいですか?」
 打ち寄せる波と冴えわたる青空をバックに水遊びに興じる木兎さんは、あれから十年の年を重ねてもまったく色褪せていない。さらに輝きを増している気さえする。俺が心を奪われたスターは、いまも変わらずスターのままだ。
「んー、赤葦と一緒にまた海が見たかったから。だからきっかけはほんと〝ただなんとなく〟だったんだよ」
「でもなんとなくにしては、色々下調べしてたみたいですし」
 行き当たりばったりにしては、ルート設定が出来すぎていた。昔から遠出とか旅行とかはずっと俺が調べて予約をしてきたし、木兎さんはそれに乗っかることがほとんどだった。だからどうして? の思いが消えないでいた。
「思い出したんだよね、俺と赤葦が付き合い出したのってちょうど今ぐらいの時期だったなって。そんで楽しかったデートってどこだったかな〜って考えて、二人で行った海が楽しかったから海にしよ! って思った」
 ほらまたこうやってこのひとは俺を喜ばせることを言う……同じ思い出を共有してきた十年に少し足りないぐらいの期間で、楽しかったことが一緒だったのがこんなにも嬉しいと思える。でもそれを〝なんとなく〟で片づけてしまうあたり、木兎さんらしい。直情径行にもほどがある。
「あ、でも一応行き先とかはキャプテンに相談した。ちょっと遠くでオススメの海ありますか〜って」
「そんなザックリした聞き方で、よく明暗さんが教えてくれましたね?」
〝なんとなく〟と言いつつ、一応準備はしたんだな。MSBYの頼れる兄貴分、キャプテンの明暗さんには普段から何かと世話になっている。木兎さんを通じて俺も面識はあるけれど、木兎さんが突拍子もないことをしでかして迷惑をかけていないか時々確認したい衝動に駆られてしまう。
「静かなとこがいい、って言ったらびっくりされた」
「でしょうね」
 たしかにMSBYのある大阪から近い海だと、移動は楽だけれどたぶんのんびりは出来なさそうだ。関西からそこそこ遠くて静かな海、こっち側なら間違いない。さすがはキャプテン。
「東京でも大阪でもないところでデートするのも、たまにはいいでしょ?」
「そう、ですね」
 刷毛で群青を塗りたくったような空と、同じ色をした海。俺たち二人以外はほとんど人の気配の無い砂浜は、繰り返す波の音で満ちている。
「俺はお前とだったらどこにいても楽しいから、家の中でも車の中でも全然いいんだけど」
 木兎さんがパシャっと水を蹴るたびに、周りにキラキラのエフェクトが飛んでるみたいに錯覚しそうになった。海ってなんでこんなに、感傷的になってしまうんだろう。
「こういう〝なんかありそうで、なんでもない〟みたいなの、もっとしようぜ」
「ふはっ……なんですかそれ。わけわかんないっすよ」
「俺も! 自分で言っといてよくわかんねえ〜」
 わけがわからない、と二人してただただ笑った。難しいことも時々あるけれど、俺たちはこうやってなんでもない日を一つずつ重ねていく。これまでも、これからも。
「赤葦、」
「はい、木兎さん」
「また来ような、一緒に」
 あの時も、木兎さんはそう言った──俺はたったいまそのことを思い出した。子どもの口約束だったそれを十年越しに回収するなんて、ほんとどこまでカッコいいんですかアンタってひとは。
「はい。また来ましょう、二人で一緒に」
 夏の海辺で交わした約束を回収した俺たちは、初夏の海でまた新しい約束を交わしたのだった。

 ◇◇◇

「あかあし、トイレ大丈夫……って、寝ちゃったよ」
 砂まみれの足を綺麗にするのにちょっと手こずったけど、赤葦がタオルを持ってきてくれたおかげでなんとかなった。久々の海にテンションが上がってはしゃぎすぎたのか、助手席の赤葦はすやすや寝息を立てている。
「混み始める前にサッサと帰るかあ」
 キャプテンからは飛び込みで泊まれそうな民宿とかも教えてもらったけど、起こすのも可哀想だしうちに帰った方が良さそうだ。ゆっくりと傾いていく日差しが赤葦に当たらないように、そっとサンバイザーをおろして自分はサングラスをかける。運転中は赤葦の顔が見えないのが残念だけど、今日は一日赤葦が俺のことを見てくれてたからいっか。
 赤葦と付き合い出して十年ぐらい。学年が一つ違うだけでなにかとすれ違うことの多かった俺たちは、長い付き合いのわりにそんな遠出をしたことがなかった。それでも大学生の頃はまだ温泉に行ったりテーマパークに行ったりも出来たけど、社会人になったらそうもいかない。しかも東京と大阪の遠距離恋愛になってしまった。なんとかして赤葦と二人きりで過ごす時間を増やしたくて、俺は車を買うことにした。
 新幹線で大阪に来る赤葦を新大阪駅まで迎えに行くためってのもあったけど、車だと誰にも邪魔されることなく二人きりになれる。家で二人で過ごすのにプラスして、迎えに行って帰ってくる間も二人きりでいられるから。
 それと車を買って気がついたことがある。赤葦は運転中の俺のことを、ものすごく見てるんだ。最初のころはまだ運転に慣れてなくて、集中してたからわからなかった。それがいつだったかな、信号待ちでふと助手席を見たら、すごく幸せそうな顔で俺を見る赤葦とバッチリ目が合った。
 バレた! みたいな顔で顔を真っ赤にして慌ててそっぽ向いちゃった赤葦、可愛かったなあ。それからもチラチラ視線が飛んでくるのに気づいてるけど、俺はあえて知らんぷりをすることにしてる。今日もたくさん、見てくれてたな俺のこと。
「次は、どこの海にしようか」
 車の揺れのせいで時々ううんと小さなうめき声をあげる赤葦にそう問いかけても、答えは返ってこない。昨日はちゃんと加減したけど、やっぱり眠かったから疲れちゃったのかも。今日はちゃんと寝てもらって、明日は一日中ベッドの上で過ごしてもいいな。
「晩ごはんまでには、起きてねあかあし」
 キュルキュル鳴る腹の虫をペットボトルのお茶でごまかして、俺は追越車線に入るためにハンドルを切った。大阪に戻ったら、お気に入りのごはん屋さんで日替わり定食を食べながら〝今日は楽しかったね〟って話すのもいい。それともちょっと回り道をしておに宮に寄るのもいいな。
 すごく特別なことはないけれど、今日が二人の中でちょっと楽しかった一日になるように。
 俺は赤葦の隣で安全運転を続けるのだった。

 2025.5.16

 

Carpe diem カルぺ・ディエム

 ラテン語の「日を摘め」が転じて「今日を楽しめ」になったそうな