寒いときになど、そのひたすら大きな体躯をまるくちぢこめて眠りに就いているムゲンの姿には、やはりどこかに野生の気配の名残があると思う――ネハンがこの星屑の街でかれのそんな姿を目にする都度、薬を選る手やカルテを記すペン先をしばし止めるのが常だった。眺め、見飽きない。たとえば、季節の移り変わりを感じるように――或いは、その鈍色の片目にいっぱいに差す日差しに、それでもいっしんに目を凝らすように。
きょうのかれはうつぶせにうずくまる姿勢で、冬ごもりの獣のようにたっぷりと重ねた布団や毛布のおかげできっと寒くはないだろう。それでも気になって触れてみた肩は、ちょうどそこからはみ出しているあたりだ。
「ん、……ネハン?」
「すまない。驚かせたか」
『大きな家』の一室であるムゲンの部屋の、たくさんマットレスを重ねて、それを『ベッド』と呼んでいるあたり。用意された枕とクッションはふたり分。空の枕を卵を温めるように抱え込んでいるあいだに、ついつい寝落ちてしまったものだろう。
「ううん、ムゲンへいき。でも、ネハンて、つめたい、すこし……ムゲン、ネハンぶんおふとん、あたたかい、した! はい、どうぞ」
そう意気込んで、巨躯のドラフのてのひらが布団をはぐって手招きする。確かに、星屑の街の共同浴場から帰ってくるまでのあいだに、若いエルーンの指先はすこし冷えてしまっていた。
苦笑と、むじゃきな忍び笑いがそっと重なる。少しばかりの冷気を纏った痩せた体が、つくりあげられた布団の隙間に滑り込む。星屑の街の子どもたちの多くがそうであるように、入浴をすませたふたりの髪やからだからは同じ石鹸の、清潔なにおいがする。
居心地のよい姿勢を探してしばらくもぞもぞと動いていた頭が、やがてたくましい腕のくぼみにおさまった――布団の下からひょこりとはねた獣の耳を、その荒びた指先でそっと撫でつけてやり、ムゲンはにっこりする。まるでちぐはぐな二人であるのに、ふたりでいるのにあつらえたようにぴったりと収まる位置があるのだった。
◇◇◇
このようにしてふたりで夜を過ごすことも、いつしかすっかり当たり前のような事柄になってしまった。
たとえば、書物の難しい綴りを教えてやること。
たとえば、深手を負ったかれの傷を手当してやること。
そうして、たとえば同じ寝台で枕を分け合い、聖夜の訪れをともに待つこと。
時とともに雪が路に残った足跡を白く覆い隠してしまうように、ネハンには、もはやそうでなかった頃に戻れるかどうか、自分でもわからない。そしてかつての故郷のように、今の生活がふいに奪われ、永久に喪われてしまったとしたら、自分は果たして、この胸の虚無に灯る、ここの生活で培われたわずかな良心めいたあかりを、吹き消さずにいられるだろうか。――
「ネハン。さむい? もっとくっつく、よいおもう」
心配げにのぞき込む大ぶりの瞳に、彼は陥りかけた暗い思考から我に返った。
「そう……だな」
寝台に座り直したドラフの、大きな腕に抱え込まれた姿勢――そこから、ひたりと胸と胸を合わせれば、その胸郭に息づく確かな鼓動にほっとする。暗く寒く茫洋とした未来への危惧が、体温に溶けていくようだった。ムゲンが彼の骨張った背中をそっと撫でて、幸福そうな吐息をつく。
かつてたったひとり島にいた頃は、何かを壊す以外のなにひとつ知らぬ手指だった。だからあの頃、巨躯のドラフは時折姿を見せるこの若いエルーンに触れようとするとき、いつもおっかなびっくりで、おどおどとした表情を見せたものだった。……
「……ムゲン、ひとり、さむい。でも、ネハンいる、ムゲン、あたたかい、わかる。……とてもふしぎ。どうして?」
深閑とした森や、遙かな高地の岩角。名前すら忘れ去られた島でかれが塒や食餌を求めてさまよい歩いた、幾つもの夜々。体と角が大きくなるにつれ、かれの足音だけで、獣らさえもひそんでしまった。幾つもの夜々を越え、誰のぬくもりも知らずに過ごしてきたかれは、この子どもたちばかりの街でようやく、問いを発することができるのだ。
「そうか? お前の体温は高い方だと思うが――それも比較対象がないと、本人にはわからないもの、かもしれないな……どうして、か。個として比べないとわからないものもある、と言えばいいのか。……」
ちょっと言いよどんだネハンの不自由な片手を、巨大な手がそっとつつみこむ。寒さに縮こまっていた血流がゆっくりとあたたまって、こわばりをなくしていくのがわかる。今のムゲンは、誰の手に触れても痛みを与えることはないだろう――そこに、いかに強大な力を秘めているのだとしても。それはかれが懸命な努力で学んだ、かれだけの成果だ。
「こ。こ、……たとえば、なに?」
「個は……個人、というか、個別、というか。ひとがそうである状態、というか……」
ムゲンのことばにふいを突かれて、ネハンはちょっと口ごもった。つたない言葉に大人の悟性が見え隠れする質問を、いまのかれは、時折する。それはネハンの記憶力をもってしても即座に答えかねることが、時折ある。
「うぅん、むずかしい……あ。でも、べつべつだから、ネハン、ムゲンあたたかい、わかる。それと、ムゲン、ネハンて、あたたかいなるおてつだい、も、できる。とてもすてき!」
「ああ。――お前がそう思うのなら、そうなのだろう」
「そう……うれしい! ネハン、もっとあたたかいなる、よいおもう」
ぎゅう、と力強く抱きすくめられて、加減はされて苦しくはないが、この状況となれば二十一歳の若いエルーンなりに、思うところも少々ある。
「ムゲン、……ムゲン、待て。」
「あ! ごめんなさい。ネハン、くるしい? だいじょぶ……?」
『待て』はおよそ出会ったはじめごろに彼が覚えさせた言葉で、その効き目はいまも確かなものだった。
ころんと寝転がった胸の上に腹這いになるように転がされ、今までより呼吸がずっと楽になる――それでいて、今互いの間に空いたばかりのわずかな隙間が、なんともいえずものたりない。我ながら、身勝手なものだった。気遣うようにそっと狼の耳先を撫でつけられ、若いエルーンは、ふ、とやわらかく笑みこぼした。
「、大丈夫だ。――ああお前は、お前の方こそ、あたたかいな」
「えへへ。よかった! ムゲン、あたたかい。ネハン、おやくだつできる、しあわせ。ネハン、あたたかい。ムゲン、しあわせ。――」
「大袈裟だな。俺は、そんなに暖かくはないだろう……」
「うぅん。ネハン、あたたかい、おしえるくれた。それに、あたたかい、ネハン、げんきいきる、わかる。……それ、ムゲンしあわせ。ずっと。ずっと……」
巨躯のドラフの拙いことばは、眠気のせいか、ふわふわと綿雲のように頼りない輪郭だった。それでも、獣の耳のうちがわまで熱い、若い血潮がのぼるのがわかる。
「お前は……まったく」
お前は、まったく。
この言葉で、何をどう誤魔化せたのかは自分でもわからない。わからないなりに、不自由な手も不器用に扱いながら、どうにか身体を動かすことはできる。
痩せた指先が、くろがねの前髪をくすぐり、そっと撫でる。ふれあった皮膚に、かすかに冷たい感触が残った。
「もう、寝ろ。――いい夢を」
「あ。ふふ、ふふふ! あいさつ、ありがと、ネハン。ムゲン、おやすみあいさつ、すき!」
「そうか。……他には?」
「あいさつ、たくさんおぼえるした。おやすみ、おはよう、またあした。――ありがと、おねがい、さよなら。えっと、それから、おげんき? いる、してほしい。……」
「どうかお元気で、とした方がいいだろうな、そこは」
「うぅん、あいさつ、ことば、たくさんある。――ネハン、あす、おしえるよい? ムゲンおぼえるしたい。ちゃんと!」
「ああ、構わない。――それで、ムゲン、お前の一番好きなあいさつは何だ?」
眠りに就く前の、他愛ないじゃれあい。
冷たかったエルーンの手も荒びたドラフのてのひらにそっと握られて、それでネハンは、自分の身体がぽかぽかと、春の野の土のようにぬくまっていることを知る。
「ん――……ぜんぶ、たいせつ。ネハンが、ムゲンに、おしえるくれた。でもムゲン、ネハンいうあいさつ、とくべつだいじ、ある。……『おやすみ』」
かつて、何度も、同じことばを繰り返し口にした。
だから、このあいさつは、野生の時代を生きてきた獣のくちびるに、一番馴染む。うす暗くさみしい寝台の眠りのかたわらに寄り添って、死体のような温度の手を握りながら。それでもそれを口にするのはムゲンにとって、かけがえのない、大事なことだった。この、辛くさみしい魂に、よい夢が訪れますように。
「そうか……そう言えば、俺も、お前にしたいあいさつがあるな……」
ネハンは、ちょっと視線を外して顔をそらした。すっかり安穏と巨大な胸に身を置いておいては、ほとんど意味などないのだが。
「えー。なに? ネハンすきあいさつ、ムゲンもする、したい。おしえる、おねがい!」
「っ、……明日、教える。もう寝ろ」
頑是無い子どもに言い聞かせるときのようで、まるで違う。どこか熱の籠もったしぐさで、彼は不器用に朴訥な顔立ちの輪郭を辿った。
「あす、お前に、きっと言うだろう。……だから、今は、『おやすみ』。」
かすれた、そして、ひどく甘い声音になった――自分のくちびるがそんな声を出すことに、ネハンは自分自身でも、少し驚く。はたして今までずっと、自分は彼を相手に、こんな声を出していたものだろうか?――
――そっと屈み込んだ影が、巨大な角の影に隠れて、見えなくなった。びっくりしたように角の影が揺れた。
「えっと、ネハン。いまの……」
「『挨拶』だ。つづきは、明日、起きたら、お前に言う」
「――! そっか! おやすみ、ネハン!」
巨躯のドラフは明日の楽しみにむじゃきに笑みこぼし、かたわらの若いエルーンとくっついて、獣のようにまるくなる。互いの瞼の上に、柔らかな眠気が降りてくる。
◇◇◇
他愛ない約束を果たすために、何度でも眠りから目覚めたいと思う。あの長い長い、悔悟と諦念にみちた眠りの果てで、それでもお前の名を呼んだときのように。
次の朝、きっと自分は、目覚めたときに言うだろう。
おはよう。
――お前がいてくれて、よかった。
わずかな星の光を瞳に灯し合うように出会ったあの頃から、暗く寒く寂しい眠りがはびこる時代を経て、因果つらなる空の下でもう、どちらも、ひとりきりではない。
いつもそればかりが、かれらの夜の底でほんとうのこと。
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