かいえ
2025-04-25 22:00:07
16408文字
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【蘭武】Once Upon a Time in Tokyo ④

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16,408文字
武道が戻って来た未来は、武道以外がみんな幸せ(最終軸の職業についている)で、26歳の武道と仲良くしている人はいない世界だった
Twitterに載せたお話に加筆修正したもの
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 バイトの後、名前の件も、伊藤が泣いていた件も、堅気の人じゃない疑惑の件も、何もかも棚に上げてしまい、武道は伊藤と予定通り食事を共にした。
 今夜の伊藤も、やはりサングラスを掛けて視聴ルームから出てきて、食事の途中までサングラスを外さなかった。
 昨日までの自分は知らなかったが、今夜の武道は伊藤がサングラスをする理由を知っていたし、サングラスで覆われた目元に涙の痕跡があるのを分かっていた。そういう次第で、気にしないでおこうと思っても、視線が勝手にサングラスの奥を覗こうとしてしまっていた。その度に、気まずくなって武道は慌てて目を逸らして、タクシーの窓の外とか、お店のメニューとか、机の上に置かれた酒の瓶などを見ているフリをする羽目になったのだった。
 今夜の食事は、蕗の薹などの春野菜をふんだんに使用した懐石料理だった。勿論、懐石料理なという一品ずつ出される料理を、武道が食べるのは初めての事だった。しかも「先付けです」と運ばれてきた料理は、仲居によって細かく説明があるのだから驚いてしまう。一生懸命に耳を傾けたが、あまりにも沢山の食材の名前と調理方法などを一度に聞かされ、しかも耳慣れない単語が多すぎて、頭の中に留める事は出来そうも無かった。
 繊細に盛られた美しい料理は、どれも食べた事の無いものばかりで、武道はおっかなびっくり箸を付けた。
 料理の合間に、伊藤に勧められた高そうな日本酒を飲んだが、いつものように酔う事は出来なかった。それは、心の奥にある名札問題が、武道の意識を緩ませてはくれなかったというのもあるし、先ほど店長に「少しは気をつけた方がいいよ」という忠告の言葉が、重石のように武道の心に沈み込んでいたというのもあった。
 目の前に座る伊藤は、とても穏やかな表情で酒を飲んでいた。サングラスは外されていたから、その類まれなる美貌が店内の仄かな灯かりに照らされて輝いて見える。
 改めてじっくり伊藤の顔を見ていると、どうしてこんな人が自分を食事に誘っているのか分からなくなってきた。伊藤は何もかもがスマートで、洗練されている。武道を誘わなくても一緒に食事をしたいと思う女性は沢山いる筈だった。
 ふと、伊藤が武道のフルネームを知っていたのは、もしかしたら、故意に近付く為に予め調べていたからなのかもと思ってヒヤリとしてしまった。
 武道はタイムリープをするようになってから、ずっと目に見えない敵と対峙してきた。過去に行き、想定した敵と戦い、キーとなるだろう出来事を改変して未来に戻るという事を繰り返しながら、自分の求める未来を探して来た。それは、とてつもなく壮大で、何をする事が正解か分からないという雲をつかむような話で、いつも周囲の状況に神経を尖らせ、少しの変化にも気を付けていた。
 そんな武道が、これまで何も考えずに伊藤の誘いに乗って来たのは、伊藤はふらりと店に入って来ただけの只の客だと思っていたし、その伊藤が武道を誘ったのは、たまたまその場のノリにしか見えず、特段気にする必要が無い事柄だと思っていたからだ。それに、武道がいるこの未来は、全ての懸念事項が解決している世界だった。武道が救いたかった仲間たちは、全員漏れなく平穏に暮らしているのだ。その上、武道と仲間たちとは、縁がすっぱり切れた状態だったから、たとえ武道がこの世界で悪い人間と繋がったとしても、もう仲間たちに悪影響など与えないくらいの外側の立ち位置に武道は居た。
 従って、この先、武道が誰と交流しようが付き合おうが、問題は起きないだろうと高を括っていた。だから、特に疑問も持たず、伊藤と名乗る謎の人物と食事をしたり、LINEのやり取りをしていたりしたのだ。
 けれども、もし伊藤が何か意図を持って武道に近付いてきていたとしたら、話は変わってきてしまう。
「水菓子でございます」
 悶々と考え事をしながらの食事は終わり、おしながきの最後に記されていた「水菓子」が武道の前に、そっと置かれた。「水菓子」とは、一体どんなデザートだろうと武道はおしながきを見た時から思っていたのだけれど、目の前にあるのは、ガラス製の器に置かれたいたのは、花咲カットされたゴールデンマンゴーだった。「水菓子」という単語のイメージから、何となくぷるぷるした透明なゼリーのようなものが出されるだろうと思っていたので、「水菓子」の正体が果物だった事に驚きを隠せなかった。
 格子状に切られたゴールデンマンゴーをフォークですくい口に運ぶと、甘みとほのかな酸味がマッチしたまろやかな味わいが口の中いっぱいに広がる。マンゴーは武道にとって身近な果物では無かったので、今まで口にした事は無かったのだけれど、こんなに美味しいのなら、もっと早く食べてみれば良かったと思う程だった。
「懐石料理ではね、加工して作る甘い食べ物が『菓子』で果実類の事を『水菓子』と呼ぶんだよ」
 武道が不可解な表情を浮かべていた事で察した伊藤が、簡単に「水菓子」の説明をしてきた。
「そうなんですね。オレ、てっきりゼリーとか水ようかんみたいなもんが出てくるんだと思っていました」
「まぁ確かにそう思うかもね。知らなかったら、オレもそう思うし」
 武道が「ですよね」と、相槌を打つように笑うと、伊藤は「ようやく笑ってくれたね」と言って、綺麗に口角を上げて微笑むから、武道は咄嗟に目を逸らしてしまった。心
心臓がばくばくして、どうにも堪らない気持ちにさせられたのだ。それは伊藤の笑みから目を逸らしても治まってくれなかった。自分に優しくしてくれている伊藤を疑っている事が疚しかったのか、伊藤の笑みが素敵すぎて直視出来なかったのか、自分でも判断が付きかねていた。ただ、自分が伊藤にしている態度が、言い訳が出来ないくらい不自然だという事だけは分かっていた。
 伊藤が途轍もなく危険な相手だと、武道の経験値がアラームを鳴らしている。伊藤は誰をも惹きつける大人の男の魅力を兼ね備えていた。武道が強く惹きつけられているのもそれが理由だ。
 危険なのは分かっていた。
 それでも、伊藤はこの世界で唯一武道と交流してくれる人間だった。きっと、伊藤とは距離を置いた方が身の為だと頭では分かっているのに、伊藤に誘われれば付いて行ってしまう自分がいた。
 武道は伊藤を自分の内側、つまり、マイキーやドラケンと同じ、仲間の位置に入れつつあったのだ。
 否、もう入れた後かも知れなかった。
 その事が何を意味するのか、現段階では分からなかった。ただ、漠然とした不安が、そこにあるだけだった。
 その微妙な武道の心の動きを、機微に敏い伊藤が気づかない訳が無かった。そもそも、今夜の武道は挙動不審が過ぎていたというのもある。
 会計が終わり、一緒に店の外に出た後「もう一軒行かない?」と、初めて伊藤から二軒目に誘われた事で、伊藤に不審がられているのだと、武道は確信したのだ。


 伊藤にタクシーで連れて来られた場所は、六本木駅の近くにある八階建ての建物で、スナック系のテナントが入っていたビルだった。大きな通りに面しているには、ビルの周囲に人の姿は無く、入り口前は降り積もった雪もそのままの状態で放置されていた。ビルの店舗はどこも営業している様子は無くひっそりと静まり返り、よく見ればコンクリートの壁面は至る所にヒビが入った状態で、寂れているというよりは廃墟のような有様だった。その証拠に、ビルの入り口には、立ち入り禁止の看板が下がったロープが張ってあり、来るものを拒んでいる。けれども、伊藤は全く気にする様子も無く、立ち入り禁止のロープを軽々と跨ぎ、その先に行ってしまったから、武道は唖然として立ち止まった。 伊藤と一緒にこの人気のない廃墟のようなビルに足を踏み入れる事に武道は躊躇したのだ。
 勤務中に店長から言われた「どう見たって、あっちの筋の人にしか見えないよね?」という言葉が、武道の足を止めていた。そして「プライベートでも会うなら気をつけた方が良いんじゃない」という店長の忠告と、知り得ない筈の武道の下の名前を伊藤が知っていて、しかも、その件で嘘を付かれた事が、武道を無意識に怖気付かせていた。
確かに、伊藤は普通の人では無いのは間違いないだろう。店長が疑っているヤクザではないと、武道は思っているのだが、それでも、脛に傷を持つ人間には違いないと感じていた。伊藤の持つ煌びやかな外見に見え隠れする仄暗い何かが、陽の下を堂々と歩けない人間特有の空気を醸し出していたのだ。
 伊藤がどのような人物で、どんな仕事をしているのかも全く分からない状況で、この如何にも事件が起こりそうな、古びて人気のないビルに一緒に足を踏み入れるなんて、命が惜しかったらする訳が無かった。
 ロープの先をゆっくりと歩いていた伊藤が立ち止まった。自分の後を着いてこない武道に気が付いたに違いなかった。武道の喉が自然とごくりと鳴った。この先の展開を考えて、頭の中が珍しくフル回転していた。踵を返し走って、人通りの多い場所まで逃げるか、何とか会話で穏便にかわす方法を取るかと考える。
 けれども、武道を振り返った伊藤は不機嫌になるどころか「おいで」と、蠱惑的に微笑んだから、武道の心臓は不用意に跳ね上がった。とても嫌だと言える空気などそこには無く、伊藤から逃れる術など、当の昔に失っていた事を思い知った。
 結局、武道は伊藤の後を追ってしまった。「おいで」と言われた瞬間、武道の足は勝手に動いていたのだ。笑える事に、意思が付いていったのはその後だった。人気のない場所で二人っきりになる事を怖いと思ったくせに、伊藤からの誘いには抗えなかったのだ。自分でもどうかしていると武道は思う。きっと、店長がこの場に居たら「そういうとこ」と言って怒るに違いなかった。
 武道は引っ掛けて転ばないように、慎重にロープを跨いだ。伊藤は軽々と跨いでいたというのに、武道はぎりぎり跨げた高さで、立ち入り禁止の札が背後でゆらゆらと揺れているのが分かる。自動的に足の長さを伊藤と比較されたみたいになって、何となく気分が悪い。
 その様子に笑いを噛み殺している伊藤の隣に武道が立つと、当たり前のように肩を抱かれた。途端に、伊藤の付けている甘い柑橘系の香水の香りが漂ってきた。
 親愛の情を示されたのと同時に、逃げられなくされたともいえて、武道の心中は複雑だった。伊藤は武道に対しての態度を変えてはいない。今も武道に隠れてこっそり笑っているのが、密着している身体の境界線が揺れるから分かってしまう。だから、変化したのは武道の方だと、穿った見方をしている事を咎められているようで気まずい。
 ロープの先にある階段を数段上った先には、両開きの重厚な扉があった。伊藤はズボンのポケットから出した鍵で、その扉を開けて店内に武道を連れて行った。
 店内は真っ暗だった。営業していないのだから、施錠されていた店内に灯かりが付いて無いのは当たり前なのだけれど、暗闇というものは、どうしたって人間を不安にさせる最もなものだ。それが廃墟のような古びたビルの中の話となれば、より尚更で恐ろしさが増して感じる。なけなしの生存本能が悲鳴を上げて、逃げろとがなっている。武道はいつの間にか、しっかりと奥歯を噛み締めていた。酷い目に合わされたり、殺されたりする事が怖い訳では無くて、伊藤に裏切られるのが怖いのだ。この一人ぼっちの孤独な世界で、伊藤だけが武道の唯一の友人だった。肩に回された腕は質量があり温かく、武道がすっかり忘れていたこの感触を思い出させてくれたのも伊藤なのだ。
 伊藤は武道の肩に回していない方の腕を壁に伸ばしていた。スイッチを探すような仕草に、武道は少しだけ緊張が解れるのを感じた。伊藤が武道に何か仕掛ける気があるなら、扉を開けた直後にする筈だろうし、悪い仲間がいるとしたら、既に襲われてなければおかしかったからだ。
そう考え直し少し落ち着いてきた武道は、自分がとても上等な毛足の長い絨毯の上に立っている事に気が付いた。周囲は真っ暗で何も見えないが、靴底に感じるふっくらとした柔らかい感触で分かったのだ、。
 伊藤の指先が入口付近にある電気のスイッチを探し出したようで、カチリという古臭い音と共に、周囲が華やかな光に浮かび上がった。
 最初に武道の目を惹いたのは、天井から吊るされた巨大な真鍮製のシャンデリアだった。中央部分から四方八方に伸びたアームに付けられた無数の雫型のクリスタルが、蝋燭を模した光によってきらきらと反射して輝いている。シャンデリアの下はダンスホールになっていて、その空間を囲むようにソファとローテーブルが置かれていた。
 伊藤と武道が立っている入り口付近左手には、重厚なバーカウンターがあり、背後の棚にはいかにも高そうな洋酒のボトルがずらりと並んでいて壮観だ。洋酒のボトルネックにはクリスタル素材のボトルオーナータグが金の鎖で付けられたままになっていて、そこだけが、この店が今も営業しているように見える唯一のものだった。
 武道の目に映る何もかもが昭和の匂いがする場所だった。クラシカルなインテリアと空間が、父母が青春時代を過ごしたであろうあの時代だと、武道に強く主張していた。それは、今ではあまり見かけない、モスグリーンの別珍の布張りのソファや、綺麗な曲線で作られたローテーブルの、経年で熟成され赤みが和らいだ、マホガニー製の脚が醸し出しているものだ。
「ここは?」
「クラブだったところ。って言っても、現代のクラブじゃねぇぞ? 古き良き昔のクラブな? 紳士淑女の社交場みたいなやつ。今はもう営業してないんだけど、買い取って隠れ家にしてる。売り手が見つかって手を離れるまでの間だけな」
 確かに店内は少し埃っぽく、長い間使用していない感じがした。
「隠れ家ですか?」
「そう、一人で酒が飲みたくなったら、ここに来てんの。オレの秘密の隠れ家だから、連れて来たのはタケミチが初めてだよ」
 フッと目を細めて武道を見る伊藤は、この世のものとは思えないくらい麗しく、そして、恐ろしく魅力的に武道の目に映った。夜の店特有の隠微さを含む照明の下で、伊藤の美貌はいつもより際立ってより美しく見える。これが映画の中の一場面で、武道が主人公だったとしたら、伊藤の正体はきっと吸血鬼のような人外か、悪魔に違いないと思うくらい魂を鷲掴みされたような感覚に陥っていた。
 伊藤は壁際に置かれたチェストの上に飾ってあったレコードを手に取った。それから、正方形の厚紙で出来たレコードジャケットから白いビニールで保護された黒いレコードを取り出した。レコードジャケットには「テネシーワルツ」とカタカナで書かれていたが、武道が知らない曲だったし、レコードという存在は映像などから見て知っていたが、現物を見るのはこれが初めての事だった。
 伊藤は同じくチェストの上に置いてあるレコードプレイヤーの電源を入れ、透明なプラスチック製のダストカバーを開けると、慣れた手つきでターンテーブルの上にレコードをセットした。人差し指に小鳥でも乗せるような仕草でトーンアームを移動させ、針を回っているレコードの縁にそっと置く。すると、アナログで再生される独特な温かみのある音がフロアに流れ出した。普段CDで聴いているクリアな音とは全然違う音に驚き、武道は耳を澄まして聴いた。
「ワルツ、踊れる?」
 耳慣れない単語に、一瞬、伊藤に何を聞かれたか分からなくて、武道は小首を傾げた。
「ワルツ。ほら、ずんちゃっちゃの三拍子のやつ」
「え? 踊れませんけど?」
 突然何を言い出すのかと、武道は驚きつつ即答した。ワルツを踊れる人なんて、武道の周囲には一人もいなかった。ワルツは紳士淑女のダンスというイメージだ。勿論、ワルツという社交ダンスがある事くらいは知っているし、武道が小学生の頃流行った映画の「Shall we ダンス?」だってちゃんと観ていたから知っていた。
「Shall we ダンス?」とは、生活に不満はないが、心が満たされない中年男性が、車窓から見えるダンス教室の講師に憧れて、家族に内緒で社交ダンスを習うという、日本アカデミー賞を始め数々の賞を受賞したロマンティックコメディの名作と評価の高い邦画だ。
 映画の中で、中年男性がワルツの足の運びに四苦八苦していたから、ワルツというものが、見ているよりもかなり難しいダンスで、基礎も知らずに踊れるものでは無いという事を知っていた。何度も血の滲むような練習をして、ようやく習得できるものなのだ。
 それを伊藤が踊れる事に、武道は意外だと思うと同時に、今まで見ていたものを本当はちゃんと見えていなかった時の衝撃を密かに受けていた。それは、視聴ルームで肩を震わせて泣いていた伊藤を見た時と同じ類のものだった。
「じゃあ、チークは踊れる?」
「踊れません!」
 武道はやっぱり即答した。男女が抱き合う様にして踊るチークを恋愛偏差値ゼロの武道が踊れる訳が無い。
「じゃあ、おどろっか」
 伊藤は武道の返事を聞き流してにっこりと笑う。
「伊藤さん、聞いてます? オレ、そんなの踊れないですって」
 ワルツとかチークとかではなくても、武道はダンス全般が踊れなかった。音感が無いのか不器用なのか、ともかくダンスというダンスは苦手だった。盆踊りだって怪しいレベルなのだ。
「ダイジョウブ。タケミチは、オレに身体預けてればいーよ」
 そう言って差し出された手は、相手が拒否する事を全く想定していない自信たっぷりなもので、気圧された武道は仕方なく、伊藤に自身の右手を預ける事になった。伊藤の手が触れたと思った瞬間、すぐに甲を包むように優しくそっと握られて、武道はドキリとさせられてしまった。
 初めて触れる伊藤の手は、さらりとして冷たかった。戸惑う武道を他所に、伊藤の右手が武道の腰の上あたりに置かれ、ぐっと身体を引き寄せられる。そうして、しっかり向かい合ったお互いの身体が、相手に触れそうで触れない距離になった。行き場のない武道の左手が、ホールドアップした位置で固まっていた。
「その手はオレの胸の辺りに置くといーよ」
 クスリと笑って伊藤が言ったから、武道は「あはい」と、言われるがまま、そっと伊藤の胸元に手を置いた。すると、伊藤にもっと引寄せられて、武道の顔の前には伊藤の胸元が迫っていた。少し動けば武道の鼻先が当たりそうなくらい近い位置で、胸から下は完全に密着していたし、伊藤の放つ甘い香りが鼻先を掠めて、相手を意識せざるを得ない。「じゃあ、おどろっか」と、甘く耳元で囁かれた後、伊藤は軽やかに音楽に乗り、踊りながらダンスホールに武道を連れ出した。シャンデリアの真下まで行き止まった伊藤は、その場で左右に緩く身体を動かし始めた。武道は戸惑いながらも伊藤の動きに身を任せ、足をぎこちなく動かすしかない。サックスが奏でるメロディラインは郷愁を呼び起こし、英語の歌詞で意味は分からないけど、切ない内容の歌詞だというのは何となく分かる。
「この曲、好きなんですか?」
 伊藤に手を握られてたまま密着して踊っている事がどうにも照れくさくて、武道は質問して気を紛らわした。
「オレのじーさんが好きだったんだよね」
「そうなんですか」
「たまにさ、こうやってダンスにも付き合わされた。紳士たるもの、社交ダンスくらい踊れないとダメだとか言って。本当は自分が踊りたかったんじゃないかと思うけど。だって、オレに女性パートさせてたからね。社交ダンスくらい踊れなきゃとか言っておいて、女性パートを躍らせるなんて意味なくね?」
 そう言いながら、伊藤は男性パートもしっかり踊れるに違いなかった。
「ダンスが踊れるおじいさんって凄いですね」
「そう?」
「なんか、外国の人みたいっス」
「普通の日本人だったけどな」
「じゃあ、お洒落な人だ」
「そうだな。お洒落な人だったな」
 昔を懐かしむような伊藤の声に誘われて見上げると、優しく武道を見る伊藤と目が合って、心臓が悲鳴を上げた。そして、その柔らかいラベンダー色の瞳に、息が止まりそうになる。
「どうしてチークダンスって言うと思う?」
 近くで見ると伊藤は武道より二十センチは背が高かった。従って、伊藤と目を合すには、武道はかなり無理して顔を上げなくていけなかった。
「わ分かりません
「頬と頬をくっつけて踊るから。ほら、こんな風に」
 伊藤は頭を下げて、武道の左頬に自分の左頬をそっと押し付けて来た。予想していなかった伊藤の行動に、武道の心臓が飛び出しそうなくらい跳ね上がった。
「ディスコはさ、大抵爆音で最新のヒットナンバーを流してるだろ?」
 だろ? と知っている事を前提に聞かれても、ディスコになど行った事が無い武道には分からない話だった。けれども、話を折る程でもないのでスルーする。
「じーさんが言うには、一日数回だけスローな曲が流れたんだって。その時は、フロアにいる気に入った女に声をかけて踊ったんだと。見知らぬ男女がこんな風に密着して踊ったの。役得だと思わねぇ?」
「そ そう なんですね
 武道はどうにもならないくらい動揺していた。
 自分の頬に伊藤の頬が触れている事に眩暈がした。頬をすり付けられて感じる伊藤の肌の感触と体温は、武道の身体をぞくぞくとさせていた。
「さっきは変なとこ見せて悪かったね」
「え?」
「泣いているとこ、見せただろ? 驚いたよな?」
「あ
 武道が視聴ルームで結果的に覗き見をした事が、伊藤にバレていたのだとギョッとした。武道のした行為は明らかにプライバシー侵害にほかならない。しかも、武道は自分のした事を棚に上げ、伊藤の事をあれこれ疑ったりもしたのだ。それなのに、伊藤から逆に謝られてしまったのだから、武道は後ろめたさでいっぱいになった。
「一つ下の弟がいたんだけどね
 伊藤は普段と同じ声のトーンで話を始めたが、過去形で話している事に、武道はすぐに気が付いてしまった。だから、その先は、話を聞くまでも無かった。伊藤は武道が予想した通りに「死んじゃったんだよね」と、言葉を続けた。
「弟はあいつは映画が好きでね。でも、オレは全く興味が無くて、一度も一緒に観た事が無かった。だから、タケミチの店に視聴ルームがあったから、観てみようかと思ったんだよね。でも、あいつが何を好んで観ていたかも分からないから、何を選んだら良いのか分からなくて。で、どうせなら、面白くて笑える映画でも観ようかと思ったんだけど、全然笑えなかった
 伊藤が泣いていた理由の切なさに、自分の事のように胸が締め付けられて、武道は目をきつくぎゅっと閉じた。
「オレね、ひどい兄貴だったと思うんだよね。気分屋だからさ、いつでも好きな時に弟に当たってた。でもさ、あいつはオレに怒っても、いつもすぐに許してくれてさ。本当にいいヤツだったんだなのに、自分だけ二十代で死ぬなんてズルいししかも、永遠に二十代なんだぜ? オレは三十代になってんのにさホント、そういう要領だけは良いんだからイヤになるよ
 告白するように話す伊藤の表情は、武道からはまるで見えない。伊藤の声は穏やか過ぎて、この悲痛な内容の話をどんな顔で話しているか、武道には想像もつかなかった。
「オレはいつだって死ぬのなんて怖くなかった。死んでも生きてても、どうでも良いと思ってた。面白おかしく過ごしてきたから、いつ死んだって後悔しないとさえ思っていたんだそれなのにさ、あいつがいないだけで、こんなに苦しくて、悲しくて、寂しくて、やり切れないんだ。あいつは、ずっと無茶ばかりするオレに着いて来てくれたから、これからも、ずっとオレの横にいると思っていたから、いない事にまるで慣れなくてあいつに会いたくて話したくてでも何処にもいなくて気が狂いそうになる殺されるべきはオレの方だったのに」
 殺されるという言葉に、武道は目を見開いた。伊藤のやるせなさは、武道も味わった事があるものだったからだ。
どこの世界線でも、橘日向も殺された。
 だから、大切な人を殺されて奪われる辛さを、武道には手に取るように理解できた。伊藤の胸に開いてしまった虚無の空洞は、武道の胸にあったものと同じだ。伊藤と状況は違うが、昔の仲間の輪から弾かれて、かつての盟友をテレビ画面からしか見る事が叶わない武道は、死んだ弟と会えなくて話す事すら出来ない伊藤と境遇が似ていた。
 堪らなくなって、武道は伊藤の胸に置いていた手を、伊藤の背中に回し精一杯の力で抱きしめた。伊藤の方が武道の何倍も強いのだろうけど、その時の伊藤は武道に取って守ってあげたい人だった。そして、一人じゃないと伝えたくて、出来るだけ強く抱きしめた。
 伊藤は驚いたみたいで、一瞬、身体を強張らせたが、直ぐに何も言わず抱き返して来た。その腕の力は強く、その胸元は厚くて、涙が出そうなくらい温かかった。
「死んだらダメですよ?」
 何故だか、それを伊藤に言わなくてはと武道は思った。
「なんで? これ以上生きている意味、あるかな?」
 そして、伊藤の返答を聞いて、やっぱり言って良かったのだと確信した。
 伊藤は武道に危害を加えるどころか、自身が死にそうになっているのだ。この世界に絶望して、消えたくなっているのだ。そうした負の気持ちもまた、武道には良く分かる馴染み深いものだった。武道もこの世界の自分の立ち位置に絶望して、消えてしまいたいと思う事があるからだ。
「ありますよ。『死んで花実が咲くものか』って、言うじゃないですか」
 だから、武道の言葉は、伊藤に声を掛けているようで、その実、自分自分自身に向かって言い聞かせているようでもあった。
「でも、笑えない。全然笑えない
「何言ってんっスか! 伊藤さん、オレの事を笑ったじゃないですか。それに、オレ、もっと笑える映画を探しますよ? あ、、もし良かったらお勧めの映画もあります。きと その中に弟さんが観た映画もあると思いますよ?」
「竜胆の?」
「りんどう?」
「弟の名前、竜胆って言うの。花の名前なんだ」
「綺麗な名前ですね」
「オレも花の名前」
「へ?」
「ホントは『蘭』って言うの。偽名使ってごめん」
 そんな恐ろしい事を、面と向かって告白されると、どう返して良いか分からなくなる。免許証を偽造したと言っているのだ。それだけで会員規約違反だ。それどころか犯罪行為なのだ。
「びっくりした?」
 伊藤の胸の中で小さく頷くと「だよな」と、伊藤は言った。それから「オレ、すげぇヤバイ人なんだ」と、あっけらかんと言い放った。
「自分でヤバイ人って言う人、初めてです
「そっか。イヤ?」
「いえ、そんなに
「じゃあ、これからも会ってくれる?」
「良いですよ」
 その時どうして「良いですよ」なんて答えたのを、後から思い出してどうかしていると思った。けれども、偽名を使っていて、自分で自分をヤバイ人とか言う、普通じゃなく美形で危険な魅力を巻き散らす男に、武道はまた会いたいと思ってしまったのだから仕方が無かった。