クギ
2025-04-17 07:26:13
12480文字
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外から来た男

信一から見た、洛軍が城砦の住民に受け入れられるまでのお話。

この話を掲載した『外から来た男』は完売しました。
お手に取ってくださった皆様、ありがとうございました。

 ※カップリング設定はありません。
 ※映画設定準拠、原作未読。
 (肩書き等設定のみ、一部原作より流用しています)
 ※時代背景、城砦の見取りなどはウェブで調べた
  付け焼き刃の知識ですので、粗があります。



 香港にあって、三不菅の地として名高い九龍城砦。
 東洋の魔窟とも呼ばれるそこは、無計画に濫造されたペンシルビル群から成り立つ、スラム街だ。さほど大きくはない城砦の敷地の中、詰め込むだけ詰め込まれ、ひしめきあう建造物の数は、優に五百を越える。
 大小さまざまなそれらが、一つの巨大な塊となって出来上がったこの街は、奥に進めば進むほど、日の光は遠ざかる。昼日中にあっても、灯りが必要なほどに暗い城砦内部は、加えて、風通しも良いとはいいがたかった。空気は常にどこか湿りけを帯び、じっとりと肌にまとわり付くのだ。
 それだけで、すでに住環境としては、なかなか厳しいもののある九龍城砦だったが、難はこれだけにとどまらない。
 城砦内部の造りは、複雑怪奇を極めていた。
 無秩序な街の作りゆえに、まるで血管のように、街の隅々まで広がり、乱雑に入り組んだ通路。上へ上へと建て増しされた建物の群れ、その高低差。つながっていない階段。見えているのにたどり着けない場所。枚挙にいとまがない。
 たとえ城砦の住人であったとしても、その生活圏から一歩出てしまえば、無事に戻ってくることは至難の業だろう。城砦の内部は、それほどまでに複雑で、迷路のようだった。
 城砦の住環境を、更に厳しくしている最後にして最大の要因は、この地が三不管とされていること──すなわち、行政の手が入りづらいことにあった。
 上下水道の整備やゴミの撤去、警官による警邏など、滞れば城外へ影響のある事柄に関しては、辛うじて行政サービスが行われてはいた。しかし、所詮は法の手の及ばぬ街でのことだ。今なお成長を続け、建物も人口も膨れ上がる城砦において、需要に対するサービスの供給は、焼け石に水程度の効果しかない。
 結果、水は足りず、ゴミは溜まり、淀む空気には独特の匂いがしていた。ライフラインの違法な引き込みは随所で行われ、電気や電話線、下水道のパイプ、果てはテレビ用のアンテナケーブルまで、あらゆる線や管は束となって、通路の天井を覆い隠した。その光景は、さながら、頭上を流れる川のようであった。
 ことほど左様に、人が住むには、おおよそ適した場所ではないだろう街、それが九龍城砦だった。
 それでも、そんな環境であっても、城砦へ人は集まり続けた。
 なぜならここが、法の目の届かぬ場所だからだ。
 理由は、それだけで充分だった。
 抱える事情は千差万別ながら、外には住めぬ者たち──中には好んで住む者もいる──が、ここに居を構えた。法に阻まれ持てぬ店や病院を、ここでならと開く者たちが大勢いた。
 そんな無法地帯の中で、一番の恩恵を受けていたのは、黒社会のヤクザ者たちだろう。違法な薬物売買や賭博、売春などはヤクザたちのシノギとなり、彼らの懐を潤していた。
 では、さぞ城砦の治安は悪いのではないかと問われれば、そうとも言い切れないのが、当地の事情の複雑なところだった。
 公の助けがない土地柄、城砦の住民たちは互助の精神が強い。
 これはカタギ、ヤクザ隔てなく共有されている価値観だ。その上で、彼らはお互いの領分を侵さず、裏表の密接な関係となって、共存をしてきたのである。
 もちろん、治安の悪い場所も、あるにはある。だが、一線を越えなければ、カタギの身に危険が及ぶことは、あまりない。その点からすれば、城砦は案外、治安の悪い場所ではなかったのだ。
 そんなカタギとヤクザ、両者の関係性を語る中で、欠かすことのできない集団が、城砦には存在していた。

 その名を、九龍城砦福祉委員会という。
 城砦の住民たちにより運営される、民間の互助組織である。

 福祉と名を掲げるだけあり、彼らの活動の主目的は、日々寄せられる住民たちからの困りごとを、解決していくことにあった。
 委員会への相談内容は、多岐に渡る。
 住居の風水の見立てや、求職者への仕事の斡旋など、生活に直結する重要なものから、やれ水場を一時間独占して離れないやつがいるだの、やれ下着を盗む不届者がいるだの、そんなことまでと言いたくなるような、住民同士の瑣末な揉めごとまで。
 持ち込まれる諸問題に、時には助言を行い、時には仲裁役を買って出て、コミュニティの運営を円滑に進める。それが、福祉委員会の役割であった。
 表向きは、そうされている。
 そう、飽くまでも、表向きは。
 では、委員会の裏の役割とは、何であるのか。
 むしろ、委員会の成り立ちから考えれば、こちらの役割の方が、本来のものだろう。
 彼らが担っているのは、城砦の治安維持であった。
 どうしてそれが、裏の役割とされているのか。
 そもそも九龍城砦は、その全体が、ある大物が仕切る幇──日本語で言うところのヤクザの『組』に相当する──の縄張りとなっていた。俗にシマ、と呼ばれるものだ。
 ヤクザのシマで行われる、治安の維持。その実態が、どういう類のものなのかは、言わずとも分かろうという話で。
 だからこその、裏の役割だった。
 福祉委員会は、主管を筆頭に、城砦に根差す幇の関係者が名を連ねている組織でもある。つまりは元より、決して潔白な集団ではないのだ。
 とはいえ、彼らの裏の顔は、特段、秘されているわけでもなかった。それどころか、城砦内には公然のこととして、知れ渡っている事実であった。
 カタギの住民たちは、よく分かっていた。
 委員会により成されている黒社会へ向けた治安の維持が、引いては、誰の安全につながるのかということを。
 そして城砦に住まうヤクザ者たちも、よく分かっていた。
 カタギが安全に過ごし日常生活を送ることが、引いては、誰の益につながるのかということを。
 持ちつ持たれつ、切っても切れぬヤクザとカタギの関係性。
 その間に立って活動することこそが、九龍城砦福祉委員会の存在意義であった。

 そのようにして保たれていた城砦の平穏に、一つの石が投げ込まれたのは、数日前のことだった。

  *****

 数多名付けられた九龍城砦の通路の中でも、名の知れた通りである龍城路を、三人の男が連れ立って歩いていた。
 三十手前ほどの年齢だろうか。若く見える彼らの風体は、総じて良い物だった。特に、先頭に立つ一人は、ひときわ小洒落た格好をしている──こんなスラムの通りに、そぐわないほどに。
 きっと、城砦の外であれば、なんてことのない、ありふれた雰囲気の男たちだろう。それがかえって、この場における彼らの異質さを、際立たせていた。
 気安い空気をまとった三人組は、慣れた足取りのまま龍城路を端まで歩き、右へと角を折れる。そのまま先に進めば、右手に比較的大きな、別の通りが姿を現した。彼らはそれを認めるや、躊躇うことなくそちらへと、進む方向を変えた。
 三人が向かう先には、光明街がある。
 光明とは名ばかり、日中、一切日の届かぬこの区画では、灯りを点けねば過ごすことができない。街灯は充分に数がなく、薄暗い通路には娼婦たちが客引きに立ち、阿片窟には中毒者が入り浸っていた。城砦内でも、治安としては宜しくない部類の場所だろう。
 そんな所ではあったが、三人組はひるみもせずに、光明街の中を進んでいた。周囲をうかがう彼らの眼差しに、物珍しさはない。むしろどこか、点検しているような風情が感じられた。
 道すがら、彼らは時折、娼婦たちから声を掛けられていた。
 逆に、彼らが、彼女たちへ声を掛けることも。
 会話の中身といえば、軽い挨拶や世間話の類いで、彼らが顔馴染みの間柄らしいことは、簡単に察することができた。しかし、どうも、商売女とその客、とは関係が違うようでもある。
 やがて三人組は、ある娼館前で足を止めた。
 正確にいうならば、一人が歩みを止めたために、残り二人がそれに倣い、続いて足を止めた格好だ。娼館前で最初に立ち止まったのは、あの、一番小洒落た姿をした男だった。
 彼は、入り口に立っていた年嵩の娼婦と、二言、三言と会話を交わしている。
 話の内容は、やはり世間話が主だった。
 調子はどうだ、変わりはないか。厄介ごとがあれば遠慮なく言うといい。声音こそ気楽なものだったが、彼の口振りは、一般人のそれではなかった。客などではない。娼婦たちよりも、明らかに目上である者の、それ。
「じゃあまた、なんかあったら教えてくれ」
 ひとしきり雑談をしたのち、会話を切り上げた男は、また、三人連れ立って歩きはじめた。
「たまには遊びに来てちょうだいね。信哥も!」
 遠ざかる三人の背に、見送る娼婦が声を投げる。
 信哥──信お兄さん──と呼ばれた先頭を行く男は、振り返らない。けれども、無視もしなかった。
 男は右腕を高く掲げると、その掌をひらひらと、娼婦へ振って見せたのだった。


 娼婦から、信哥と呼ばれた男の名は、藍信一といった。
 彼の持つ肩書は、二つある。
 一つは、九龍城砦福祉委員会、副主管。
 そして、もう一つの肩書きは、城砦を取り仕切る幇、龍城幇の頭馬──すなわち、若頭であった。
 龍城第一刀の異名も拝するこの男は、黒社会に身を置く、ヤクザ者なのだ。
 とはいえ、いくつもある大仰な呼び名に反して、当の信一自身の趣は、実にさっぱりとして、気軽いものだった。
 信一は、色男だ。
 彼は少し垂れ目の、人好きのする顔立ちをしていた。身なりはあかぬけており、パーマの当てられた髪は、ふわふわと揺れている。
 今時の、どこにでもいるような、若者の姿。知らぬ人間なら、言われなければ、まさか信一が龍城幇の頭馬であるなどと、夢にも思わないだろう。
 だが、事実、彼はそうなのだ。
 だからこうして、今日も信一は、己の職責を果たしていた。
 彼は城砦を、足取り軽やかに巡る。愛想の良い笑顔を浮かべ、我らがシマに異常はないかと、その黒い双眸を光らせながら。


 信一と舎弟二人の三人組は、光明街を抜けると、その足を老人街へ向けようとしていた。
 彼らが角を曲がろうとした、その時のこと。
 角からこちらに、折れてくる一つの人影が現れた。

 ──おっ。

 信一が、人影の正体に気付いて瞠目するのと、背後の舎弟たちから、アッだの、ゲェだの、うめき声が漏れたのは、ほぼ同時のことだった。
 角から現れたのは、坊主頭に髭を生やし、薄汚れた格好をした一人の男であった。
 くたびれた黒のタンクトップに、ぼろぼろの黄色いスウェット地のズボンを履いたその男は、浅黒く日焼けした肌の上、右肩から二の腕に掛けて、広く巻かれた包帯が目を引いた。彼が両手に一つずつ携えているのは、ガスボンベだ。
 人足らしいこの坊主頭は、信一たちをチラリと一瞥しながら、彼らがもと来た方向である光明街へと、足早に去っていった。

 ──おーおー、精が出るな。あの怪我で、もうあれだけ。

 坊主頭の怪我の治りが早い。
 彼はもう、動き回っている。
 人伝に、そんな話は信一の耳にも入っていた。だが、実際にその姿を目の当たりにすると、彼は感心して、坊主頭の男に見入ってしまった。
 信一の傍らでは、遠ざかる男の後ろ姿へ向かって、舎弟たちが悪態をついている。

 ──まあ、こいつらの気持ちも分からんでもない。

 彼はやれやれと納得をすると、気を取り直した。
「おい、行くぞ」
 未だ、恨み言が止まらぬ舎弟たちに声を掛けると、信一は再び、老人街へと向かって歩きだした。


 信一と坊主頭には、面識があった。
 そも、彼らの出会いは、最悪だったと言っていい。
 数日前のことだ。城砦の平穏に投げ込まれた、一つの石。その元凶こそ、かの坊主頭の男だったのだ。
 外からやって来たこの男、流儀も弁えず突然に、黒社会の領分に片足を突っ込んできた。挙げ句あろうことか、信一を筆頭とする若いヤクザたちを相手取って、大立ち回りまで演じてみせた。
 追われた坊主頭は、最終的に逃げ込んだ先で、大いなる不幸に見舞われることとなるのだが、そこは信一の失点も絡む込み入った話になる。ここでは割愛するとしよう。
 紆余曲折あり、大怪我を負った坊主頭は、加えて借金まで背負う羽目になってしまった。
 仕事が欲しいと言った男へ、世話をしてやったのは信一だった。
 怪我のこともある、働くならまずは軽作業からがよかろう。そう考えた末に彼は、カタギの馴染みが営んでいる、つみれ屋と叉焼屋の仕事を、男へと紹介していた。
 信一が世話したのは、その二軒だけ。
 そう、二軒だけなのだ。
 それが、たった数日のうちに、男は仕事を増やしていた。信一が一切預かり知らぬところで、自力で、職を。それも、力仕事だという。
 念の為と付けていた見張りからの報告に、信一は耳を疑った。
 あの坊主頭、養生という言葉を知らないのだろうか。
 まあ、あいつを追いつめた側である自分が、言えた義理ではないのだが。いや、それならば、突如やってきて大暴れしたあの男を、心配してやる義理だって、自分にはまったくないのだが。
 それにしたって、なぁ、と。
 なんとも複雑な心地に襲われた信一のもとへ、時を同じくしてもたらされたのが、男の怪我の治りが早いという話だった。


「やあ、じいさん。変わりはないか?」
「最近、腰が痛くてなぁ……
 信一たち一行の歩みは、老人街を抜け、その先にある老人中心の敷地へと至っていた。
 その名のとおり、老人たちのために設けられたこの施設は、老人街と名付けられた区画の、由来となっている場所だ。
 老人中心は、城砦が高層化する以前からあった施設で、城砦はこの一帯を囲むように、上へ上へとその背を伸ばした。そのため、ここは城砦でも一階に相当する土地にありながら、頭上が覆われておらず、比較的日当たりの良い場所となっている。
 卓を外に持ち出し、囲碁に興じる老人たちへ声を掛けながら、信一は、先ほど目にした坊主頭の姿を、思い返していた。
 
 ──あいつ、もう動きに問題はなかった。

 信一の胸中に、警戒心がじわりとにじんだ。
 彼の脳裏に過る、数日前の記憶。
 あの晩、信一は坊主頭と、一対一でやりあっていた。彼らの実力は拮抗し、信一だけではあの男を、取り押さえることができなかった。
 男の腕っぷしは、かなりのものだ。
 あいつは果たして、このまま、大人しくしているつもりなのだろうか。仕事を紹介した時こそ殊勝な態度はしていたが、あれが芝居でないと、なぜ言いきれる。
 信一が抱いた警戒心は、半ば反射的なものだった。
 城砦を仕切る立場として、想定されるリスクは考えておかねばならない。
 開けた場所で一服と、信一は足を止め、煙草に火を点けた。

 ──……ま、そんな感じのやつでもなかったけどな。

 ヤクザとしての立場が、にわかに信一に警戒心を持たせたわけだが、彼自身の男への印象は、実は、そう悪くもなかった。
 ギラついた目で拳を振るう男の姿は、まさに手負の獣だった。
 しかし、落ち着きを取り戻したあとの男の印象は、まったく違うものとなった。
 男は朴訥として、思いの外、素直な人間だった。本当にあの、瞳をらんらんとさせ、暴れていた獣と、同一人物なのかと疑いたくなるほどに。そう、信一には感じられた。
 だからこそ、男は油麻地のヤクザに騙され、城砦へ逃げ込むことになったのだろう。騙された方が悪い世界ではあるが、聞けば男はカタギであり、国外から渡ってきた密航者であるという。ならば、こちらの世情には疎い筈だ。同情の余地はあった。
 それに、と信一は考えを巡らせた。口元で、煙草の火が揺れる。

 ──あいつ、多分お人好しだよなぁ。

 信一から紹介された仕事場へ、男は疑いもせずに現れたと聞く。
 ヤクザに騙されたことが原因で、あの男はここへ来た。また騙されるかも知れないとは、考えなかったのだろうか。これがお人好しと言わずして、なんとする。いやもちろん、信一には騙す気など、さらさらなかったのだが。
 はぁ……と、吐いた煙が空へと昇るのを、信一はぼんやり眺めていた。
 恐らくはもう、あの坊主頭に害はない。念のため、もうしばらく監視は続けるが、それもほどなく必要なくなるだろう。
 それが、龍城幇の頭馬として、信一が下した判断だった。

  *****

 信一の予想通り、坊主頭は真面目に働いているようだった。
 紹介した店主たちからの評判も概ねよく──叉焼屋の親父は覚えがいまいちだと嘆いていたが──また、更に仕事も増やしているらしい。それは、坊主頭が着実に、城砦内で信用を積みあげている、証左でもあった。
 そもそも、最初にあの男が、信一の知らぬところで仕事を増やした時点で、その兆候はあったのだ。
 どんな輩が潜んでいるかも分からぬ城砦で、職を得るには一定の信用がいる。いきなり面識もない店へ飛び込んで、何か仕事を寄越せと言ったところで、つまみだされるのがオチだろう。
 だから、坊主頭が仕事を増やすには、まず口利きがいった筈だ。
 誰が口利きするのかといえば、この場合、最初に紹介した店の店主たちしかない。
 口利きをするにあたって、店主からの相談は特になかった。
 実は、信一は店へ男を紹介する際、男が城砦へやってきた詳細を伏せ、ワケありだとだけ伝えていた。自分たち相手に大立ち回りをした男だなどと告げれば、いらぬ心配を掛けてしまうからだ。
 そうして迎えられた店で、男は数日のうちに信用を得た。店主たちに警戒されることもなく、口利きをわざわざ、信一に相談される ことにもならずに。
 店主たちは坊主頭を、信用できると判断したのだ。
 そして今や、男の働きぶりとその評判は、城砦の端々で聞かれるようになった。行動範囲が広がった男は、呼ばれれば、城砦のあちこちに出向いているらしい。仕事中のその姿を、信一が見かけることも、徐々に増えていった。
 あの大立ち回りの日から、もう随分と経つ。
 男の見張りも外して久しい。これならばもう、お互いに安泰だ、そう考えていた信一のもとへ、ある日、妙な話がもたらされた。


「は? あいつ、まだあんなトコにいんの?」
「はい……
 その話を持ち帰ったのは、定期巡回を終えた当番の一人だった。
 いつぞやに、光明街辺りで坊主頭と出くわした際、悪態をついていた、あの舎弟のうちの一人でもある。
 彼は、見回った城砦の様子を、信一へ大まかに伝え終えると、ちなみに、気になったんですが……と、なんとも困ったような顔をして、信一へある報告を追加で上げた。
 七記冰室の定位置で、帳簿へ日課の記帳──彼は龍城幇の金庫番でもある──を行っていた信一は、思わず舎弟に聞き返していた。
 我らが九龍城砦は、どうせ今日も平和に違いない。だからと、報告を半ば聞き流し、生返事をしていた信一にとって、舎弟が最後に告げた話は寝耳に水であった。

 曰く、坊主頭が、まだひさしの上で寝起きしている、と。

 ひさしとは、あのひさしである。建物の窓や、入り口に取りつけられる、傾斜の付いた小屋根。のき、とも呼ばれる、あの。
 ビルの集合体である城砦の壁面には、至るところに、窓があり、ひさしが存在している。中には、人ひとり乗っても、問題ないほどの大きさや、強度の物もあった。そんな、数あるひさしのうちの一つを、あの男は寝床にしていたのだ。それも、それなりに高層部分に取りつけられているひさしを、である。
 坊主頭が、妙な場所を住み処にしていること自体は、信一も把握していた。それは、男が城砦にやって来た当初に聞いた話で、てっきり、金がないための、一時的な仮宿だと思っていたのだが──まさか違うのだろうか。
 その働きぶりを、伝え聞いているから分かる。男の稼ぎを考えれば、もうとっくに、安い部屋でも借りていると思っていたのに。
……
「あいつ、大丈夫なんでしょうかね……
 思わぬ報告に、しばし言葉を失くしていた信一の前で、舎弟がぽつりとつぶやいた。見るからに、心配そうにしている。あの日、坊主頭に悪態をついていた姿が、嘘のようだった。
 人の口に戸は立てられぬ。
 城砦内に坊主頭の評判が広まるにつれ、共に知られるようになったのが、あの男の身の上話だった。
 それは最初こそ、ごく限られた人間しか知らぬ話だったが、なにも、そのうちの一人であった信一が、吹聴したわけではない。真面目な坊主頭のことだ。聞かれれば隠さずに答えているのだろう。
 坊主頭は、ベトナムからの密航者だ。
 広東語を話しはするが、生まれも育ちもベトナムらしく、それだけで容易に、男の身の上を察することができた。
 ベトナム華僑と、それに連なる人々の苦難は、広く知られているところだ。香港においては、増加するベトナムからの難民問題もあり、必ずしも良い顔をされる存在ではなかったが、個人と個人の付き合いともなれば、話は別である。
 歳の頃から、あの男の人生が、その大半を戦火にさらされていたことは明白だった。戦争が終結したあとには、更に別の戦争が起こり、迫害もあった。
 想像を絶する苦境から、命からがら海を渡ってきた同胞。その気質は穏やかで優しく、健気な働き者でもある。
 こうなると、もはや、男に悪感情を持つ方が難しい。
 ある日突然紛れこんだ余所者を、城砦の住人たちは、すっかり好意的に受け入れていた。
 加えて、城砦のヤクザ連中は、坊主頭の強さを身を以て知っていた。そんな強い男が、油麻地の、あのいけ好かないヤクザ連中に騙されて、ここへ逃げ込んできたことも。
 案外、城砦のカタギよりもヤクザ者の方が、今となっては坊主頭に一目置いているかも知れなかった。
 黒社会の人間は単純に、腕っぷしの強い人間が好きなのだ。男の来歴を知ったのだろう、悪態をついていた舎弟ですら、男を気に掛けているのだから、その気に入られぶりは相当なものだ。
 そして、信一自身もまた、あの男を憎からず思っていた。
「なんかあいつ、噂では、いっつも光酥餅食ってて、ろくに食事もしてないみたいですし……
 舎弟が、更なる気掛かりな話をこぼす。
 光酥餅とは、小麦粉と粉ミルク、卵、砂糖だけで作られた、昔ながらのおやつだ。素朴な味わいをしており、信一も日常的に口にする菓子だが、決して食事の代わりになるようなものではなかった。
「うーん……
 信一の記帳する手は、すっかり止まってしまっていた。
 坊主頭が、堅実に金を稼ぎ、貯めようとしていることは、傍目にもうかがえた。
 しかし、それで身体を壊したり、住み処から落ちて死んだりされても、信一としては面白くない。あの男には、健やかに過ごしてもらわなければ。まだ借金も残っていることだし、とは、建前だったが。
 舎弟たちから坊主頭への敵意が、すっかり消えた今であれば、やりようもある。男に何かしらの世話を焼いても、下からの反発は出ないだろう。
 とはいえ、坊主頭の処遇を決めたのは、信一のボス──つまりは龍城幇のトップ、龍頭──である龍捲風だ。信一の一存で、その決定へ手を加えることはできない。
……大佬に相談してみるわ」
 思案の末に、信一は決めた。
 兄貴分の寛大な言葉に、舎弟の表情がパッと明るくなる。
 それを目にした信一は、苦笑するしかない。まったく、あの坊主頭も好かれたもんだよな、と。

  *****

「大佬、なんですかその顔」
「いや……あの坊主頭も、随分好かれたもんだなと思ってな」
……あ!? 俺じゃないですって! 若いの! 若いのが心配だって言うから……!」
……ん、そういうことにしといてやろう」

  *****

 かくして、坊主頭は今、七記冰室にて九龍城砦名物の叉焼飯を、勢いよくかきこんでいる。
 男は、信一のボスである龍捲風直々に招かれ、ここへ来ていた。
 目の前に出された叉焼飯──龍捲風のおごりだ──を、最初こそ警戒していた坊主頭だったが、うつわを持ち上げ観察し、香りを嗅いで、恐る恐ると一口くちに含んだところで、その目の色が面白いほどに変わった。
 貪り食うという表現に、ここまで相応しい食べ方もない。それほどの勢いで、男は叉焼飯をかき込んでいた。口元に、米粒が散らばるのも構わずに。
 そんな坊主頭の姿を、信一は、日課の記帳をしながら遠目に眺めていた。まるで、懐かなかった野良犬が、尻尾を振っているようではないか。男の変化が微笑ましく感じられて、信一の頬は思わずゆるんでしまった。

 ──そうだそうだ、ここの叉焼飯は美味いだろう。

 美しく照りの入った叉焼、鼻をくすぐる八角の香り。食べればタレの甘辛さが口いっぱいに広がって、米を食べる手が止まらなくなる。
 分かるぞその気持ち。お前は趣味の良いやつじゃないか。
 自分の好むものが、人にも好まれている光景を見るのは、実際嬉しいものだ。坊主頭の様子に、信一は内心大いに満足しながら、その目を帳簿へと戻した。
 しばらくの間、龍捲風と坊主頭は、なにやら話しこんでいたのだのが、やがて。
「信一」
 龍捲風から、信一に声が掛かった。
「はい」
「上を使えるようにしてやれ」
 ボスからの指示に、信一は笑顔で腰を上げた。彼は、手近に控えていた舎弟の一人へ声を掛けると、冰室裏からつながる半階上の物置へと、足取り軽く向かう。
 龍捲風は坊主頭へ、ひさしに代わり、この場所を与えることに決めたのだ。
 普段、あまり人の踏み込まぬ物置は雑然としていたが、ひさしよりも雨風はしのげるし、なにより落ちて死ぬ心配はない。住み処にこだわりはないのだろう坊主頭にとって、龍捲風からの申し出は、きっと悪い話ではあるまい。
 幸い、ここにはビーチベッドがあることを、信一は知っていた。
 彼は、荷物の山に埋もれていたベッドを掘り起こすと、舎弟と共に、周囲を軽く片付けてやった。
 だんだんと、物置に、人ひとりが過ごせる空間が出来ていく。
 これくらいの広さがあれば、当座の生活に、困ることはないだろう。あの男は、私物らしい私物も、持っていないようだったし──と、そこで、ふと、信一はあることに思い至った。

 ──そういえば、あいつ……

……こんなもんで良いだろ。あいつ呼んできてやれ」
「了解です」
 準備が整うと、信一は舎弟を下に降ろし、自身は自室へと足を向けた。
 七記冰室の天井は吹き抜け、といえば聞こえは良いが、単純に、上の階の床が、雑にぶち抜かれた状態になっている。
 吹き抜けの外周には、部屋が設けられ──壁もなく、冰室を見下ろせるような、部屋もどきだが──半階上がると、今片づけた物置がある。
 物置脇の階段から更に半階分上がり、その反対側へ、吹き抜け沿いの通路をぐるりと回りこんだ先にあるのが、信一の自室だった。
 部屋に入るや、彼は私服の詰まった箪笥を、慌ただしく漁りはじめた。
 坊主頭は、私物らしい私物を持っていない。そう、持っていないのだろう、替えの服の一着も。信一が見かける男の姿は、いつだって同じ服を着ていた。
 
 ──これと、これと、それからこれも。それに……

 箪笥の奥から、信一は手早く、着古した服や、自身に合わなかった服を引っぱり出す。
 男と自分の背丈は、似たようなものだ。お互い、極端に太っても痩せてもいない。多少のサイズ違いはなんとかなる。仮に窮屈だったったとしても、布は伸びる。
 適当に見繕った服を持ち、信一が物置に戻ると、そこには坊主頭が所在なさげにたたずんでいた。
 男は物珍しそうに、辺りを見回している。
 そんな、しげしげと眺めるような場所でもないだろうに。
 坊主頭の様子に思わず苦笑すると、信一は男へ、おい、と声を掛けた。
「よかったら、着ろ」
 畳まれ、重ねられた服が、坊主頭の空っぽの腕へと、受け渡される。突然のことに、男は困惑しているようだった。
 そんな坊主頭の姿には構わず、それから、と信一は付け加えた。
「何か、他に必要なものがあったら言えよ」
 信一にとって、坊主頭は今や身内のようなものになった。
 あの最初の不幸な行き違いから、男は自分自身の力で、城砦のカタギ、ヤクザ、双方の住民に受け入れられてきた。だからこそ、龍捲風も動いのだ。
 信一のボスは、男にめしを食わせてやり、そして、新たな居場所を与えもした。
 城砦を仕切るトップ自らが、世話を焼くということ。それはつまり、男が城砦の住民として、認められた証に他ならない。ならば部下である信一も、ボスに倣って男の世話をしてやるのは、当然の筋である──とは、口実で。
 本音を言えば、信一自身も、坊主頭のことは気掛かりだった。それゆえに、大義名分を手に入れた信一にとって、今の状況は渡りに船なのだ。
……いや、充分だ」
 ようやく、坊主頭がたどたどしい返事を寄越した。自分が信一に世話を焼かれているのだと、遅ればせながら気付いたらしい。
 まあ、その反応は分からんでもない。
 信一もまさか、自身がここまで、お互いに殺し合った男の世話を焼くことになるとは、思ってもみなかった。とはいえ、充分だと言うならば、これ以上、ここで無理に何かを押しつけることもあるまい。
 坊主頭の返事に応じ、ならばと、信一はゆっくりときびすを返して──そこで、大事なことを彼は思い出した。
 信一は振り向き、坊主頭へと尋ねた。
「そうだ、名前。なんて呼べばいい。いつまでも『坊主頭』のままで良いか?」
 信一は、坊主頭の名前を知っていた。
 だがそれが、本当に本名なのか、それとも他に何か呼ばれたい名前があるのか、ついぞ彼には聞く機会がなかった。
 どうせなら、信一はそれを、本人の口から改めて聞きたかった。
 間を置いて、やや硬い声音が、信一の問い掛けに応える。

……陳洛軍だ」

 そう名乗った坊主頭──洛軍。
 いきなりのことに、さてはお前警戒してる? と、信一はちょっと笑ってしまった。

 ──うん、そうだよな。知ってる名前だ。

 やっぱり、それで良いんだな、洛軍。
 彼の名乗りを受け取った信一は、了解したとばかり一つうなずくと、今度こそ本当に物置をあとにする。
 冰室へと戻る信一の心は、何故だか妙に、晴れやかだった。

<外から来た男/了>