三角リョヲヘイ
2025-04-06 12:47:41
21104文字
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月に鎮め/本編小説、第九話

現在進行形の話

境界線を無くしたい。線引きをして安心したい。
意図せずに背中で語るお兄さん。今日は僕の妹を紹介します?


第九話
現在進行形の話



羅乃目らのめ……紅族。第十九代統領
黒骸くろむくろ……紅族。羅乃目の許婚
羅神らじん……羅乃目に憑いている黒い狼の憑守つきかみ
雨庸うよう……黒骸に憑いている白い大蛇の憑守
鎌苅トキ時かまかりときじ……憑守が見える、食事処伊呂波しょくじどころいろは二代目店主
天河良あまかわりょう……通称「死神」。伊呂波のケツ持ちをしている彫り師





 忘れたいのに、どうにも忘れられないことはないだろうか。普段はころっと忘れているのに、ふとした瞬間に思い出したり。常に脳裏に居座り続けられてしまったり。様々あるだろう。
 「忘れたいのに」という前置詞が付くことから察するに、大抵は嫌な記憶や悲しい記憶、それに紐づくあれやこれである可能性が高い。忘れた方が楽になれる、幸せになれる……
 人生は容易くない。経験こそ深みだろうか? いや無垢こそが美しいのだろうか? 刻み込まれた傷は、どこに置いておけばいいのか? 無傷のふりは、いつまで貫けるものなのか?
 悩み悩んでも結局は、置き場がわからずに連れて行くしかないのだ。あれも、それも、これも。
 忘れて、思い出して。また忘れて。でもずっと共にある。
 巡り巡って。
 ずっと。


     *

 
 ここは北町のはずれ、死神様の暮らす華鉄はながね長屋。大家が華鉄家の御息女なのだ、だから華鉄長屋。名前など覚えなくても問題がない、大抵の奴らは「北町の死神様が住んでいる長屋」として認識している。北町の住人といえど近づきたくない奇人変人ばかりが暮らし、そして大家の評判もすこぶる悪い、広さと安さが取り柄の最低な長屋である。
 その最奥の一室では、夜も明けたというのに「もう一回する?」「じゃああたし今度は上になろうかな」「えー?下で乱れてるの可愛いよ」「ばーか」などという男女の睦まじい会話が囁かれていた。
「んじゃ、延長戦」
 良は女の上に覆い被さると、焦らすように女の下腹部に指を這わせる。女も艶っぽい期待に満ちた瞳を向けている。
 さて、というところで。
──どんどんどんどん
 長屋の戸を激しく叩く音に中断される。しっとりとした雰囲気は、卵の殻のようにぱっかりと割れて急速に霧散していく。
…………
「アレ。出なくていいの?」
「えー? こんな時間に来るなんてろくな奴じゃねえだろうし、無視無視」
 こんな時間に来た奴も、こんな時間に延長戦をおっ始めようとしている奴に言われたくないだろう。怒っていい。
 もう一度体勢を整え直す。
──どんどんどんどん
……出れば?」
…………
──どんどんどんどん
 諦めない来訪者に、額に怒りの模様を浮かべながら良は勢いをつけて起き上がった。やはり割れた卵は元に戻らないのだ。
「さすがに全裸はやめなよ」
 背中で女がそう笑うので、とりあえず脱ぎ散らかした着物を引っ掴んで羽織る。羽織るだけで帯は締めないし、なんなら前も全開である。
「あーくそ!」「いいとこで! 水差しやがって!」「せっかくのもんが!」「萎えちまうだろうが!」
 据え膳食う直前でお預けをくらっているので、少々荒っぽくなっている。一歩進むごとに悪態を吐き、最後の「が!」と同時に戸を勢いよく開いた。
「羅乃目?! なにしてんの?!」
…………
 戸の向こうには、俯いているのに頬が膨れているのが察せられる程、明らかに不機嫌で拗ねた様子の羅乃目が立っていた。
 全くもって想定外の存在の登場に、流石の良もやや混乱している。
 刹那の間に「羅乃目は十から十二歳くらい」というトキ時の言葉を思い出すと、(肉体的には、という前置きはこの時すっかり忘れている。余談だが結局は精神も同じ程度の成熟速度なのではないかと良は思っている。ちなみにこの時は忘れている。)とっ散らかっている着物の襟先を片手で、しかも最小限の動きで器用に手繰り寄せるとぎゅっと掴んで裸体をさり気なく隠した。
 良は自分の肉体に自信を持っている。どこに出しても恥ずかしくない、誰に見られても恥ずかしくない。休戦状態の息子も、臨戦態勢の息子も。例え全裸であっても堂々として態度は変わらないし、全て剥き出しのまま喧嘩だってできる、顔以外は。だが隠した。これは大人から子どもへの配慮なのである。そう、配慮。
「え? 本当にどうした? なに? なにしてんの?」
 羅乃目は下駄の歯の角を地面に当てて、ぐりぐりと円を描いている。この子ども、絵に描いたように拗ねている。
「え、てかひとり? なんで? こんな朝早くに?」
…………で」
「なに?」
……家出」
 普段の彼女からは想像もできないくらいに小さく発せられたそれの意味を理解するのに、刹那の百倍程の時間を有した。
……北町に家出はおすすめしないなあ」
 ようやく平時の態度を取り戻した良は、一旦状況を整理しようと言葉を並べる。
「黒は?」「トキ時は?」「ふたりが心配してない?」「今日は早起きしたんだなあ」「一番最初にここへ来たの?」「変な奴に絡まれなかった?」「怪我とかしてない?」「うち朝ごはん出ないよ?」「あー、ほら、隣のじじいんところは?」「あー……
 どの問いにもむくれて無言を貫く羅乃目に、遂に良は折れる。
「わかった、わかったわかった。俺の負け。おいで、中に全裸のねーちゃんいるけど」
 開けた戸を体で塞ぐようにしていた良は、半身になって隙間を空け、手で中へ促す。
 羅乃目は無言のままお辞儀をして中へ入った。
「誰? この子も一緒にやるの? 三人?」
「やらないやらない、この子はー、えぇー……妹。そう妹だからやらない」
 単純に「友人」と呼称しないのは、良にとっての女性の友人という意味合いを誤って受け取られることを忌避しているのだろう。
「あはは、妹なんていたんだ? 可愛い。他に家族は?」
 全裸のねーちゃんもその意味を汲んだうえで話に乗っているようだ。笑いながら適当に合わせてくる。
「いたいた。あとはー、母さんと兄貴と弟もいる。いるいる家族、全然いる」
 半笑いで交わされるふたりの会話を聞いているのかいないのか、羅乃目は部屋の隅で膝を抱えて座り込むと、その膝の間に額を押し当ててもう一段階小さく収まった。
「本当にごめん、今日は終わり。埋め合わせは絶対するからさ」「いいよ、別に。今日も十分よかったし。てか軽く体拭いていい? 次はいつ?」「もちろん。じゃあ今夜同じ時間は? 今夜ってか明日の早朝? 次こそ二回と言わず満足するまで可愛がるよ」「わかった、じゃあ楽しみにしてる」
 唇が重なりそうな距離で埋め合わせの予定を立てる大人。
 子どもは膝を抱えた体勢のまま畳に寝転がって壁側に顔を向けてしまった。わかりやすい拗ねの体勢。掃除が行き届いた綺麗な部屋は、どこで急に寝転がろうと問題がないのでありがたい。羅神が誰にも聞こえないのをいいことに「まったく、いい加減にしろ。威厳はどうした」と羅乃目に小言を漏らしている。
 大人たちは一旦、拗ねまんじゅうを放って、互いに身支度を整えることに専念した。最低限の尊厳を守れるだけの支度を手早く済ませると、女は良の頬に軽く唇を寄せて明るい様子で帰っていった。もう既に「同じ時間」に思いを馳せているのかもしれない。多少の待てはいい調味料になるのだ、多分。
 いつも通りの服装になった良は、羅乃目の顔を覗き込もうと壁に前腕を当てて体を折り曲げる。表情はわからないが、ぷっくりとした頬は確認できた。ひとまずは羅乃目の頭側に胡座をかいて壁に背中を預ける。
「えー? もう、おひいどうしたの? 黒?」
「んー」
「トキ時?」
「んーん」
 二種類聞いて初めてわかったが、どうやら最初の「んー」が肯定で、後の「んーん」が否定らしい。字面で見れば違いは明白になるだろうが、この唸りながら拗ねながら嫌になりながら返答している音を聞き分けるのは至難の業である。
 良は、「こいつは骨が折れそうだ」と喉元まで出かかったのを押し込め、なんとか状況を聞き出そうと苦心する。そしてこういう場合に憑守と会話ができれば楽なのかと、見えも聞こえもしない神(の分霊と獣の魂を混ぜ合わせた存在)を思うのであった。
「黒が悪いの?」
「んー」
「えーっと、なにか壊した? なくした?」
「んん」
「えー……約束を破ったとか?」
「ん」
 しばらく悪戦苦闘していると、羅神が目に余ると強めに叱ったのか、羅乃目はぽつぽつ話し始めるようになった。
 まとめるとこうだ。
 羅乃目ご贔屓の甘味処、きさき庵。ここは年に一度だけ「春の詰め合わせ箱」という、単品購入よりもはるかにお買い得になる客の心をがっちり掴んだ商品を販売するのだ。しかも人気の定番商品だけでなく、この詰め合わせの為だけの限定商品もしっかり入っている。きさき庵の限定商品が美味しくないわけがない。大切なのでもう一度言うが、年に一度だけ、春だけである。しかも限定百箱、ひと家族様おひとつ限り。
 この詰め合わせを買おうと毎年開店前から長蛇の列ができると耳にした羅乃目は、いつもよりかなり早起きをして、黒骸とふたりで買いに行こうと約束をしていた。ところが今朝、どれだけ起こしても起きない黒骸に痺れを切らし、遂には「黒のばか!」と言って出てきてしまった。黒骸が朝に弱くてなかなか起きられないのはわかっていたけれど、もうどうにもこうにも許せなくなってしまったらしい。
 ちなみにトキ時にも事情を説明しないでひとりで出てきたそうだ、彼もまだ眠りの中の時間である。
「へーえ、なるほど。そんで俺のとこ来たの」
 発端はわかったが、それでいて店の列には並ばず、何故か北町まで家出してきたというのだからどうにも腑に落ちない。
「そしたらそろそろ血相変えた黒が迎えに来るんじゃない? おひいが家出する場所なんていくつもないっしょ」
「多分来ないでやんす。黒はお店に行って列に並ぶと思う」
「そしたら羅乃目も並びに行かないとじゃん?」
「んー……
 つい怒ってしまう程に手に入れたかった物の為の行列に並ぶのが面倒になっただとか、黒骸に押し付けようだとか、そういう考えではなさそうだ。
 羅乃目側から回答をもらえなければ、良は受け身に徹するしかない。それとなく表情を読み取れないかと首の角度を微調整するが徒労に終わった。彼女はすぐ丸くなってしまう。
 ほんのり換気した方がいいのではという気持ちになってくる、慌ただしい朝とは無縁のぼんやりとした膠着状態の長屋で、羅乃目は小さく唸りだした。怒りが収まらないのか、なにかを言いたいのか、己の行動を悔やんでいるのか、はたまた全部か。
 手持ち無沙汰の良はなんとなく羅乃目の頭をぽんぽん撫でた。優しく叩いた、の方が正しい表現かもしれない。声は掛けないけれど、無視はしてないぞという主張にも取れる。実際、なにも言わずに隣にいてくれればいいだけの時もあるのだ、生き物には。
 しばらくして気が済んだのか、唸るのをやめた羅乃目がぽつりと呟いた。
「死神怒んない?」
「なに?」
「誰かひとりに決めないでやんすか?」
……どうかな、前にいたっちゃいたけど。急にどっか行っちゃってさ、今はもう生きてるのか死んでるのかもわかんない」
 怒るか否かの返答を前に、羅乃目は質問を重ねてきた。彼はそれに怒らず答える、勤めて明るく、普段と変わらず。多少へらへらした雰囲気さえも感じる程に。覆い隠すように。
「さみしい?」
「そう、かな。もうよくわかんないな。でもあいつがいた頃も今と全然変わらないよ。毎日違う子と楽しく遊んでたし、向こうも同じようなもんだったから、お互い様かな」
「死神の一番だった?」
 意識しているのかどうか、一歩ずつ確実に深部へ近づく羅乃目の問いは良から少しずつ軽い態度を消していった。壁から背を離し、前のめりで少しだけ丸くなる。
「一番と言うより、『絶対』だった、かな。でも好きなのは俺だけだったのかも。あっちは……なんだったんだろう」
 ため息と共に紡がれる言葉はひどく繊細だったが、深く沈み込まないように、良はなんとか自分を保っていた。それでも有耶無耶にせず、誤魔化さず、回答してくれている。
「だから羅乃目も、思ってることはちゃんと口に出しな。いなくなってから後悔することになるよ、俺みたいに」
「後悔してるでやんすか?」
「そりゃあもう」伏せていた目を上げて、へらりと笑う。「ばかみたいに」
 膝を抱えたまま畳に転がっていた羅乃目は良の顔を見て起き上がると、隣に座って背中をさすり始めた。
「えー、なに?」
 普段以上に軽く返答をする良など気にもせず、彼女は真剣な瞳で背中をさすっている。
「死神、さみしそう」
……羅乃目は優しいな」
「トキさんには負けるでやんす」
 一般的には優しいと言ってきた相手を持ち上げる回答になりがちだが、迷わずここでトキ時の名前を出したのが彼女らしいといえばらしい。それはそうだ、トキ時よりも優しい人間は他にいないのだ。羅乃目にとっても、良にとっても。
「あいつの優しさには誰も敵わないって」
「うん」
 しばらくふたりで、さすりさすられ合った。羅乃目は力加減が上手だ。柔らかい手で優しくさすっている。間違っても力任せに摩擦熱をおこして、笑いが起きてしまうような状況にはならない。
 良も黙って優しさを受け入れている。思い出しているのかもしれない、急にどこかへ行ってしまった己の絶対を。
 境界線がなくなって、ぐるぐる混ぜて、同じになれたら、失わずにいられるのだろうか。溺れるように求めても、肌を合わせるだけでは何ひとつ解決しないことを思い知らされる。約束ではなく保証がほしい。絶対がほしい。あの時も、今も。
 良が少しだけ微笑んだように見えて、羅乃目は手を止め、次に話したかった話題を取り出す。
「この前死神が、人攫いは危ないから気をつけなきゃだめってちゃんと言ってくれたのに、わっち上手くできなかったでやんす」
「あれは狙われて計画的に待ち伏せまでされてたんだから仕方ない。結果的にみんな無事でよかったよ」
「トキさんも危ない目に遭わせちゃったでやんす」
「でも羅乃目が守ってくれただろ? 俺の大事なトキちゃん守ってくれて嬉しいよ」
 この言葉を受けて、羅乃目はなにか言いたそうに一度小さく口を開き、また閉じる。眉も不安そうに揺れ動く。その変化を見逃さなかった良は自分の言葉を重ねるのをやめた。
「ねえ死神……大事って、どっからどこまでを言ってもいいの?」
 神妙な面持ちで、丁寧に、しっかりと良の目を見て問うてきた。彼女は今日これを聞きに来たのかもしれない。「言っていい」ではなく「言ってもいい」かを問うている。まるで他からの許可を求めているかのように。
「具体的には?」
「んと、人間は全部どうでもよくて全然好きくないけど、トキさんは嫌いじゃないかもしれない」
「ほお」
 思い詰めた表情の羅乃目を見て、良はここで自分の名前が挙がらないことを茶化すなんて野暮な真似はせず、真面目な顔で相槌を打った。
「今まで美味しいものとか好きなものとか、ひとりじめしたいものって、黒としか半分こしたことなくて、自分のそういうものを分け合えるのが大事な気持ちの基準なのかなって思って。トキさん大事だし、守るって決めたし、でもトキさんは人間で。わっちは殺されるなら先に殺すし、別に人間に酷いことしてもいいのに、トキさんが人間を殺すなら俺も殺すのかって言ってて……そんなことしたくないのに。でもトキさんは人間でしょ? 人間なんて全部どうでもいいのに、トキさんは違くて。なんかちょっとわかんなくなって」
「うんうん」
 良はここでトキ時のやらかしました宣言を思い出す。命の大切さを説こうとしてしまったりしたりした、だったか。前後の会話も流れもわからなかったうえに普段の態度に全く出ていなかったので、羅乃目側へ探りを入れるのを保留にしていたことをやや後悔する。それがきっかけになっていたのだろうか、彼女なりにかなり悩んでいそうだ。単純な人間関係というよりも「紅族」と「人間」という分類分けができてしまうのが、されてしまうのが、この話をややこしくしている。
「それで、もしかしたら、美味しいものをみんなで分けたり半分こにしたら、なにかわかるかなって思って」
「うん」
「前に、黒とトキさんにおまんじゅうを買って帰ったこともあるんだけど」
「うん」
「あの時に美味しそうにしてくれたの嬉しかった気がして。でも大事を確かめる為にやったことじゃなかったから、わからないなと思って。それに半分こにしたわけでもないし、だから、きさき庵の春の詰め合わせ箱がきっとすごく丁度いいと思って、絶対美味しいから、絶対買いたくて、でも黒が起きなくって」
「そしたら羅乃目がひとりで買いに行くって選択肢も出てきたんじゃない?」
「黒は全部の中で一番だから、一緒に行きたかったでやんす」
「そっか」
「だから、怒っちゃった……
 羅乃目なりの大事の確かめ方。
 不確かで曖昧なそれをなんとか掴みたい。
 誰も教えてくれなかった忌むべき人間との関係の築き方。
「黒だけが大事だったら、こんなこと考えなくてもいいのに。今までこんなこと考える必要もなかったのに。わっちには黒だけでよかったのに」
「大事の範囲の話、黒にも聞いた?」
「聞いてない……あんまり、だめかなって。多分、わかんないけど。なんか、これ、黒には聞けないかも」
…………
 誰かに聞いていいのかすらわからない、それ。
……羅乃目はトキ時のことなんて呼ぶ?」
「トキさん」
「他の知らない人のことは?」
「人間?」
「じゃあ、とりあえずはそこで区別しちゃっていいんじゃん? トキ時はトキ時で、その他の人間は人間。大事の範囲は羅乃目が自分で決めていいんだよ」
 この言葉を受けて、羅乃目は目を丸くし、口を「わ」の形にした。その手があるのか、という顔だ。
「少しは役に立った?」にっと笑うと良は一度伸びをして壁に背中をつける。「それから、怒っちゃったことはちゃんと黒に謝んないと駄目。朝起きなかった黒も悪いけど、羅乃目の考えを知らないのにそんなに怒ることだったかなって、一回考えてみな。いなくなって心配してるだろうし。話すのは大切」
……ん」
 唇を少しだけ尖らせて、羅乃目は何度も小さく頷いた。
 これで万事解決。仕事もあるしそろそろご帰宅願おうというところであるが、羅乃目はなかなか帰りたがらない。膝を抱え直して、「んと、まだちょっと、黒と会えないかもでやんす」乙女心とは、どうもややこしい。
「はあ、あー、まあ、いいか。今日は飛び込みが無ければ、図案の打ち合わせと色抜けしてきた箇所の入れ直しだけだし」良は頭に入っている今日の予定を引っ張り出す。「いい子にしててよ? 絶対に邪魔しないこと」
「はあい」
 早々に帰すことを諦めた良は、羅乃目に社会科見学させることにした。うっかりしていたが、この男、いつ寝たのか?
 朝ごはん出ないよと言っていたが、前日に手に入れていたのか冷えた焼き芋を半分に割って羅乃目に差し出す。
「ほら、腹ごしらえ」
「ありがと」
 羅乃目はきちんとお礼が言える。言おうと思った相手にだけ。
「羅乃目が大事だから、俺の朝ごはん分けちゃう」
「えへへ」羅乃目はひと口齧ってしっかりと飲み込むと、真面目な顔でこう付け加えた。「でも死神は匂い全然覚えられないから困るでやんす」
「匂いぃ?」
 羅乃目式友好宣言の文言がなんなのか、良はまだ知らない。
 きさき庵の開店まで、まだ二刻以上。

 
 良は本日最初の客を迎える準備を始めた。図案の打ち合わせと言っていた通り、見本用として用意してある色々な図案の描かれた紙を題材ごとにまとめていく。物によっては紙を何枚か繋ぎ合わせて大きな一枚にしている。実際の大きさに準じていた方が想像がしやすいということか。
「すごい! これ全部死神が描いたやつでやんすか?」
「そだよー」
「上手!!」
「へへ、ありがと」
 本職なのだから当たり前といえば当たり前なのだが、羅乃目からの真っ直ぐな褒め言葉に悪い気はしない。けらけら笑いながらお礼を伝える。
 龍、虎、鳳凰、化け鯉、生首、鬼、般若、狛犬、などなど……一枚に一体ずつ主張の強い作品が並ぶ。そこに合わせる小物や額の入れ方などの好みを聞き取り、その場で簡単に描いて構想を詰め、清書したものを後日見せて確定するらしい。この方法を取るのは比較的珍しく、たいていの客は大まかな題材だけ決めて後は死神様にお任せが多いのだという。自分が一生背負うものをお任せできる程、してもいい程、彫り師としての天河良は腕と実績と信頼がある。
 実際、「誰某に施術してもらった」という事実は界隈で一定の意味を持ち、人気彫り師の看板入りの彫り物は、飲みの席でなくとも自慢話の種になり得るのだ。
「おひいも入れる? 安くしとくよ」
「痛そうだからやでやんす」羅乃目は、ぬ、と眉間に皺を寄せる。「ねえ狼はないでやんすか?」
「お、お、か、みー、はないかも。今度見本用に描いとこうかな」
 資料をまとめた和綴の束をいくつか引っ張っては戻す。
「そっちは出さないでやんすか?」
「こっちにまとめてある冊子のは少し絵が古いんだ。そっちの紙が比較的新しいやつ。欲しがってる完成図に似た雰囲気のがあったらこっちも出すよ。最初から色々出しすぎると、かえって決まんないの」
「ふうん」
 知人に教えてもらったと緊張でがちがちになりながら打ち合わせに来た男は、約束していた時間を目一杯使って、なんとか狛犬と牡丹を合わせた図案に決めて帰っていった。神経質そうな男だったが、死神様の後ろから終始少女が覗き込んでいることを気にする余裕はなかった様だ。実際言及もしてこなかった。羅乃目は言われた通りにとてもいい子にしていたので、幽霊か何かだと思われていたのかもしれない。
「すげー緊張してたな。ありゃあ彫る時も大変そう……見栄張りたいご職業には見えねえし、単なるお洒落とかかな。まあ金貰えればこっちはなんでもいいけど」
 彫り師は広げていた資料を棚に戻しながら当日を憂うのであった。決定案の参考にした見本だけは仕舞い込まずに別に避けておく。
「大変なの?」
「大変なのー。緊張で体が強張ってるとこっちもやりにくいし、ああいう奴は痛すぎて無理〜とか泣きごと言って途中でやめたりもすんの」悪戯っぽく笑うと、こう続けた。「そうだ。当日はおひいが横で手ぇ繋いであげててよ。ちょっとはましになるかも」
「やでやんす」
「ひえー即答! あっはは冗談だって、女同伴なんて知れたら恥ずかしくて表歩けなくなっちまう」
 とんでもなく険しい顔で拒否する羅乃目を見て、良はしばらく笑いを引きずっている。
「そんな顔、ひい、ははは、しないでよ、冗談だから、ふふ、ごめんって」
「そんなに痛いでやんすか?」
……はあ、ふふ……ふう。んー、まあ彫り師こっち側の腕と彫る場所によるよ。基本的には内側にいけばいく程痛い」
「うちがわ」
「そう。あとは当然、本人の痛み耐性次第かな」
 良は自分の首、二の腕の内側、脇の下辺りをぽんぽん叩いて内側を教えてくれている。手近な箇所を教えているだけで、正直「内側」にはもっと色々な部位が含まれるし、閨事の前戯で触れ合うような辺りは馬鹿のように痛い。ざっくりくくると、快感を得られる場所は敏感なのだ。ちなみに足の裏も痛い。というよりも針で体を刺して皮下に色を入れているのだからどこもかしこも当たり前に痛いことを忘れないで頂きたい。どこがより痛いか、である。
 良の胸割り桜吹雪の額彫りは乳首周りにかかるまでの大きさで入っているので、若かりし日の彼はあまりの痛みでそれなりに後悔したそうな。『だって、でかく入ってた方がかっこいいじゃん!ここまで入れたらもう後戻りできねえ!』
「ふうん」
 ふたり目の客は、色抜けしてきている箇所の手直しだ。諸肌脱いで現れた既に完成している上半身の彫り物は、水面に見立てたミキリとアセヌキの間を鯉が泳ぎ、透かし彫りを用いた紅葉が舞い踊る。ヤクザ者の見栄張り用とは違った、どこか芸術的な印象が強い彫り物である。
 どこそこが気になる、ほうほう、あとはここの色味が……という事前やり取りの隙間を、羅乃目はなんとなく遠巻きに眺めている。先程よりもいい意味で緊張感があり、いかにも真剣に仕事をしていますという死神を拝めるのは面白く、また邪魔をしたくないという気持ちも抱いていた。部屋が広いと邪魔せずに見ていられるからとてもいい、とも思っている。
 それでも気配は消さず、今のうちに適宜存在感の主張はしていく。いないと思っていたなにかが突然出てきては客も驚いて体を動かしてしまうだろう。これは羅乃目なりの配慮だ。客への、ではなく良への。
「誰だその娘っこは、仕事場に女はいかがなもんかね」
「あー、ちょっと妹が出てきてて。悪さはしないんで気にしないで」
「うん、わっち悪さはしないでやんす。いい子にしてる」
 まるで人慣れしている妖の自己紹介のようだ。
 今日の良は、羅乃目を自分の妹で通すつもりらしい。面倒な説明も、死神様の女友だちという単語の持つ特殊な意味も全てすっ飛ばして、ひと言で全てを解決してくれる。実際のところ正確ささえ無視すれば、ふたりの関係性を表すのにこれ以上的確で手短な説明もないのだ。腹もタネも違えば、なんなら種族も違うのだが。
「なんだそうか。どれ、もっと近くで見てもいいぞ」
 いかにもな雰囲気で胡座をかき、少々腹の出ている四十代半ばくらいに見える客は、大人の余裕たっぷりといった様子で羅乃目を手招きをする。
「わ、内側にも入ってる……
 単純に興味があったのか素直に近寄った羅乃目は、覚えたての痛い場所を思い出しながら客の脇の下へと繋がる彫り物を眺めていた。
「内側? ああ、脇の下はあまり入れないかもな」
 短い言葉と状況から察したのか、良よりも先に客の男が反応を見せる。「ご自慢の彫り物について語りたいおじさん」の可能性は否定できない。
「ふふん気になるか? よし、いいだろう! 特別に見せてやろう、俺の隠し彫りを!」
 語りたいおじさんは得意げに右腕を上げて脇の下を見せつけてきた。最初と口調も少し変わっている。素はどちらかなどと考えている暇ではない、意味がない行動であるならばご遠慮願いたい、ご開帳、おじさんの脇の下。
「見えるか? 普段は近しい相手にしか見せない特別な場所だぞ!」
「わ」
 語りたいおじさんの脇の下には腋毛に阻まれながらも、金銀財宝に打ち出の小槌、しまいには鯛のお頭付きまで彫ってあることが確認できた。
 見せつけるだけ見せつけて大変満足そうにしているおじさんに代わって、良が羅乃目に説明を始める。おじさんは語りたいのかそうじゃないのか、はっきりして頂きたい。
「こういうのを隠し彫りって言って、脇とか、それこそ股だとか、普段は人に見せない場所に彫るの。他の場所に入ってる柄に関係なく、縁起物を彫ることが多いかな。ここはかなり痛いよ」
「へえーすごいでやんす」
「そうだろう! いいだろう! ここは遊び心が大事な場所なんだよ、実は色を……
「はい、じゃあ色入れ直してくんで腕下げて。というか横になってくださーい」
 興奮気味に鼻息を荒くしていた語りたいおじさんは、無情にも良に腕を下げられ一旦大人しくなった。語るだけなら、なにもうら若い娘に脇の下を見せつけ続ける必要はないのだ。いそいそとうつ伏せになる。
 良も諸肌脱いで身軽になると、傍に用意していたのみを手に取る。
 鑿とは、竹や木材で出来た長い棒の先に何本も針をくくり付けたものである。この針の部分へ顔料を纏わせ、皮膚へ刺して色を入れるのだ。
 羅乃目はその道具の禍々しさと、初めて全容が顕になった良の背中へ交互に釘付けになっている。「虎と、花と、月!」と言いたい気持ちをぐっと押し込めて、仕事の邪魔をしないように間合いを見定めながら、それでもぎりぎりの位置まで近付いた。
 前屈みになって客の肌へ鑿を突く良の背中は、静かに腕の動きと連動する。当然それに伴ってしなやかに動く虎の姿は、つい指先で触れたくなる、なんとも美しい姿に見えた。
 ほぼ同じ場所へ三四回鑿を突いては溢れた顔料を拭い、少しずつ作業を進めていく。既に完成している作品の手直しなのでわかりやすい変化はないが、まるで儀式のように粛々と進むそれは見ていて全く飽きない。鑿の先だけでなく、洗練された良の挙動の一つひとつを含めて飽きないのだ。
「かっこいい」
 思わず口から飛び出したごく小さな感嘆は、集中している良の耳には届かなかった様だ。顔まで覗き込めないが、間違いなく真剣な眼差しで向き合っているのだろう。
 適度に張り詰めた空気と、艶っぽい虎。
 出し惜しみしない職人仕事。
「言われたところは直したよ。あとは全体を見て直したとこだけ浮かないように調整する」
 施術中は大人しくしていた語りたいおじさんは、「嫁の名前が紅葉だからこの絵にしてもらった」「紅葉に魅せられてる俺は鯉ってわけよ、恋だな」「娘が葵ってんで、字は違うけど隠し彫りの珊瑚をあえて青色にしてもらってよ」「やっぱり彫り物は死神に限る」「でも嫁さんに娘連れて逃げられちまってなあ彫り物これだけが拠り所になっちまって。もう迎えに行ける立場じゃないからな、せめてと思って、本来なら必要もないのにこうしてまめに手をかけてるのさ」などなど、その他諸々を一通り羅乃目に語って帰っていった。人間模様も色とりどり。
「すごい! 死神すごいでやんす! トキさんはご飯作る時にいつもにこにこほわほわしてるから、ぐって集中してスッてなってる死神かっこよかったでやんす」
「へへへー、ありがと」
 集中していた名残りを感じさせつつ、朗らかに笑みを浮かべる良は道具を片付けることを一時放棄して、しばし休憩に入った。煙草盆を引き寄せて、優雅に一服。煙管片手に瞳を閉じ、少しずつ仕事に合わせられていた意識を元に戻す。煙草とは別で、細く深呼吸をしていることも伺える。
「これ痛そう、針何本もある」
「危ないしばっちいから触んないよ」手を引っ込めた羅乃目を確認して、一度煙を味わう。「鑿は今日みたいな時は一本で済むけど、普段は一二刻くらい作業して三本くらい消費するんだ。使い回しもできないし。それもぜーんぶ手作り」
「痛いのに」
「うん?」
「痛いのになんで死神はたくさん彫り物が入ってるんでやんすか?」
「えー? そりゃあもう好きだからに決まってるっしょ」
「痛いのが?」
「あはは違う違う、彫り物が」
「うーん、ちょっとまだわかんないでやんす」
「まー好だからってのが大前提なんだけど……んー。羅乃目はさ、トキ時を初めて見た時なんて思った?」
「トキさん? 眉毛がどんってしてて鼻がばーんてしててまろやかな顔してるって思ったでやんすよ。食べたら美味しそうかも。わっちら人間食べたりしないけど」
「いい例えじゃん、確かに食べたら美味しそうかも。じゃあ俺は?」
「んと、桜がばーんてしてる人間だなって思ったでやんすよ。顔はよくわかんなかったかも」
「うん、まあそういうこと」
「そういうこと?」
「そ」煙管をカンッと灰落としに打つ。「さあて片付けるかな。そういえば黒のお迎え来ないなあ、俺はそろそろ飯食いに伊呂波行くけど?」
 気が付けば太陽は真上を通り過ぎ、あとは滑り落ちるのみである。少し遅いが昼飯時。

 
 連れ立って歩くふたりの現在位置はまだ北町だ。晴れた日中だというのにどこか辛気臭くて殺伐としていて、どうしてか空気が悪い。日陰者ばかりが集まると、お天道様は意味を成さないのだろうか。死体こそ回収されているが、明らかにそこで何かあったとわからせられる赤い地面。回収されそびれた千切れた指。一本隣の通りに真新しい死体があることを、羅乃目は臭いで気が付いている。常に自分よりも弱いカモを探す悪人どもの巣窟。潰し合う度に濃度の上がる蠱毒。法が通じない町。自分の身は自分で守る一択の町、北町。
 それでも、死神様が通れば大抵の相手は道を譲る。全方位を睨みつけながらわかりやすくガラの悪そうな歩き方をする雑魚の寄せ集めも、なんてことない普段の視線を向けるだけで蜘蛛の子を散らすかの如く。喧嘩を売ってはいけない相手もわからない潜りは、己の寿命を縮めるだけだ。
「おーい死神〜! 今日こそは地面に接吻してこの世とおさらばしてもらうぜ!」
「畜生! また違う女連れて歩きやがって!」
「死んでもらうからな!」
 見るからに悪そうだが、系統に統一感のない男三人組が道を塞いできた。口ぶりからして、しょっちゅうちょっかいを掛けてきているのだろう。
「また〜? いい加減やめなって。いつ手が滑って殺しちまうかわかんねえよ」
「馬鹿にすんじゃねえぞ! くっそ! 本当にいつも違う女連れてやがって! 信じられねえ! お前のせいで女に捨てられてんのに、その女をまたお前が捨てるたぁ何事だってんだよ!!」
「何事だってんだよ!!」
「羨ましいなド畜生!!」
 どうやら死神様に女を寝取られた被害者男性の会らしい。被害者が三人で収まるわけがないので、何度も挑戦してくる気骨ある奴らの可能性がある。それかよほど女に惚れていたか。
「人のもんにわざわざ手ぇ出す趣味はねえよ。向こうから言い寄ってきて同意の上でやってんだから文句ねえだろ?」
「あるだろ!」
「ないない。ていうかふたつ訂正していい? 今日の連れは妹。それと俺は捨ててないよ、そもそも拾ってないから。まあでもどの子も口揃えて言ってたな? 下手くそすぎて演技する気にもならねえって。そりゃあ上手な男の方が好かれるのは自然の摂理じゃん。あーあみんな可愛かったな、こんなの初めてーって、俺の下で乱れる姿」
「くっそー!! 今日こそ! ぶっ殺す!」
「はいはい。全員で来る? それともひとりずつ?」
 道の真ん中で騒いでいる姿を聞きつけて、「死神が喧嘩だ」「死神が喧嘩するぞ」と伝言が広まっている。ある者は巻き込まれまいとその場を離れ、またある者は仲間を連れて野次馬に。「賭けようぜ」「三人なんかじゃ相手にならねえだろ」「全員死神に賭けたら意味ねえ」「どうせ無駄だ、死神が負けるとこ見たことねえもん」「まあいいじゃねえの余興だ余興」「だから賭けにならねえっつってんだろ」
 その会話が耳に入ったのか、良は相手を含めた周囲に投げかける。
「おいおい、たった三人じゃあ俺の相手にならないから賭けが成立しねえってよ。誰かいる? ひとりじゃ度胸なくて仕掛けてこられない雑魚。今なら向こうの加勢に入っていいぜ。盛り上がっていこうじゃねーの」
 この男、全方位に喧嘩を売っている。片足に体重を乗せてなんとも色気のある姿勢を保ちつつ、人差し指で「来い来い」と挑発しているのだ。
 野次馬のひとりが「嬢ちゃん離れてな、巻き添えで顔に傷がついたらコトだろ」と声を掛けて後ろに下がらせた。羅乃目はむしろ加勢するつもりでいたのだが、良が余裕綽々といった態度なので黙ったまま引いた。興味があったのだ、死神様がどう戦うのか。今日の羅乃目は色々なものに興味深々だ。
「ちっくしょー!!」
 まず左端の男が仕掛けてきた。短刀の鞘を投げ捨て突きを繰り出してくる。良はそれを涼しい顔のままひらりふらりと避ける。観客を喜ばせようとでもしているのか、途中で片手バク転をしたり側宙を混ぜて喧嘩を彩る。そのうち飽きたのか適当な頃合いで足を引っ掛けて男をつんのめらせると、体勢を崩した鳩尾に体重をかけた拳を一発。
「単調は駄目」
 次は右端の男だ。短刀を力任せに振り回してくる。良は不敵に笑いながら懐から手拭いを取り出し器用に巻き付けて短刀を絡め取り、そのまま弾いて男の手から落とす。素手で空振りしていることに気が付いた男は動きを止めて自身の空になった右手を見つめる。引き攣った笑みで「え、えへへ。あのー」見逃してくれませんかねえ? と言いたげな雰囲気を断ち切って、笑顔で顔面に拳をぶち込む。
「力任せは論外」
 卑怯にも後ろから刺しにきた三人目の男は、直前で目標を見失う。良が瞬時にしゃがみ込んだのだ。一拍遅れた男の顎へ、しゃがんだ勢いを殺さずに反動で立ち上がりながら後ろ蹴りを入れる。
「そこ、的外れで全然よくない」
 あっという間に三人は地面に接吻した。だが誰ひとり死んではいない、痛そうに唸りながら地べたを転がっている。そうは起き上がってこられないだろう。
 良は最初の男が投げ捨てた短刀の鞘を爪先で蹴り上げて手中に収めると、そのまま人差し指の先に立てた。
「もっと上手い奴いない?」
 その後もひとりじゃ度胸がなくて仕掛けてこられない雑魚を何人か地面と仲良しにさせる。最初の三人よりも歯応えがない。彩る気にもなれず、あっという間に終わらせた。
「はーい、今日は終わり。じゃあな」
 片手をひらひらさせながら転がる男たちを背にしてその場を後にする。いい運動になりました、といった雰囲気だ。羅乃目も野次馬の列から抜け出て後を追う。
「すごい! 死神強いでやんす! 踊るみたいだった! ねえでもなんで殺さなかったの?」
「無駄な殺生は避けましょう、ってね。まあ殺されるなら先に殺すけど。あいつらは雑魚だしそんな度胸ないし。手を汚す価値ないよ」
「でもあいつらは殺す! って言って武器も持ってたでやんすよ」
「あれは単に語彙力が乏しいの。女と金と酒と殺す! しか言えないの。可愛いもんだよ」
「うーん?」
「まあ、あれはいつものって感じ。もっと本当におっかない奴らも仕掛けて来るよ。俺を殺せば箔が付くんだってさ。迷惑しちゃう」
「仕事中に邪魔されたりしないでやんすか?」
「前にあったよ。でも仕事の邪魔なんて御法度じゃん? ブチ切れてそいつらの関係者から親族まで全員ぐちゃぐちゃにして町中に晒してやったら、それから暗黙の了解で仕事中は変なことされなくなった。無法者には無法者なりの掟があるわけよ」
「わあ……
「職人の邪魔しちゃあいけねえよ。譲れないところは譲らなくていいの」
「じゃあ死神はなんで死神なんでやんすか?」
「えー? そりゃあ……」ゆっくりと瞬きをして、開いた瞳を意味ありげに細めた。「強いから」
 ふいに強くなった風がふたりの髪を揺らす。
 長い前髪が舞い上がっても、しっかりと巻かれた包帯が邪魔をして、良の顔の右半分は見えなかった。

 
「雨庸に聞いたぞー? 羅乃目。約束していた時間よりもかなり早くに起こしてたらしいな。それで起きないからって怒って出ていくのは、ちょっと違うんじゃないか?」
 伊呂波に到着したふたりを迎えたのは、トキ時だけであった。
 開口一番にしっかりとお説教を挟む。良と語ったことにより、トキ時の中で一段深く関係性を受け止められるようになったらしい。そこはかとなく以前よりも落ち着きがあるように見受けられる。仮にひとりで持ちきれなくても、ふたりで持てばいいのだ。そして今のところ上手に抱えられそうな予感がしている。
「まあまあそれも羅乃目なりに事情があんの」
「ちゃんと反省してるでやんす。ちゃんと黒に謝る。トキさんもごめんなさい、いなくなって」
「俺はいいよ。また怪我するようなことになってたらどうしようかと思ったけど、なんともないみたいだしな」
 トキ時はため息とはまた違った、安堵を混ぜ合わせた息を鼻から吐く。
「黒なあ、どこまで行っちまったんだろうなあ。一回昼頃に帰ってきてたんだよ。でもまた出て行って。てっきり合流なりなんなり出来てると思ってたんだけどなあ」
 羅乃目はばつが悪そうに口をきつく結ぶ。
 花ちゃんが選んだ花が、行儀よく羅乃目を見ている。赤みの強い紫や、白、桃色の花びらのサクラソウ。そろそろ新しいものへ交換にやって来る筈だ、次は桜の小枝だろうか。料理を邪魔しないようにあまり香りの強くないものを選んでくれるが、どうしたって男臭い店内は多少花の香りが漂っていてもいいくらいだ。とはいえ、店内で花を飾っている場所は二ヶ所しかない。しかも一輪挿し程度の大きさの陶器を壁に直接引っ掛けている。ちなみに飾りたい花にこの陶器が合わないと、花ちゃんが勝手に別の陶器を持ち込んで花と一緒に交換していたりもする。厚意かと思いきや、請求書に謎の項目でほんのり割り増しされているのが逆に花ちゃんのいいところである。
「黒、会いたいな」
 まだちょっと会えないと言っていたのが嘘のようだ。離れ難い存在というものは、確かにある。
 壁に掛けられたサクラソウとは違い、羅乃目は自分の足で歩いて行くことができる。黒骸を探しに出るべきであろうか。羅乃目の動物情報網と嗅覚と運と勘を使えば、黒骸を見つけるのにそう時間はかからないであろう。
「大丈夫だ、待ってれば帰って来るよ。黒の帰る場所はここだからな。入れ違いにでもなったらことだろ」
 トキ時は朝炊いた冷えた米をおにぎりにしてくれた。刻んだ沢庵が混ぜ込んである。トキ時の握るおにぎりは三角形でふっくらとしていて、とても大きい。
 店で買うこともあるが、ぬか漬け以外の漬け物もいくつかトキ時が手作りをしている。その他の漬け物に対して、ぬか漬けまでの愛情を持っているかはわからないところだ。基本的に手をかける作業は嫌いではないのだろう。手間がかかる程愛おしさを感じる性格らしい。
「!」
 食べ終わる頃、羅乃目の鼻が黒骸の匂いを察知した。終始落ち着かない様子だったので、匂いを探りながらおにぎりを齧っていたのだろう。
「く、黒が帰って来るでやんす! どうしよ、どうしよ」
 会いたかった筈なのに、どんな顔で会えばいいのか。意味もなくトキ時と良の間を何度も行ったり来たりして慌てている。
「普通にしてればいいんだって。んで、ちゃんと話して謝んの」
「黒、怒ってるかも」
「だとしたら余計に話すべきっしょ? 羅乃目は謝りたいと思ってることを伝えなきゃ」
「う、うん」
 トキ時は微笑みながら聞いている。自分が口を出さなくとも問題なさそうだと判断したのだ。
 羅乃目は緊張した面持ちで伊呂波の戸を見つめる。ふたりもつられて見つめる。耳を澄ますと、足音が聞こえてくる距離にまで近づいた。
 戸に手が掛かった。カタ、と音がする。
 僅か開いた戸の隙間から、俯いて顔色の悪い黒骸が見えた。
「黒!!」
 戸を半分開いたあたりで、まさかいるとは思っていない羅乃目の声に驚いて上がった肩と手と戸が連動しガタンと大きな音を立てた。
……羅乃目」
 縋る様な安堵の瞳、やっと見つけた愛しい一番。
「黒……黒、ごめん、ごめんなさい。起こすの早かったし、出て行っちゃったし。ごめんなさい」
 大股で店内に入った黒骸は、手にしていた風呂敷包みを二番卓に置くと、無言で羅乃目を抱きしめた。
「ごめん。謝るのは俺だよ。楽しみにしていたのに本当にごめんね」
 体を離して見つめ合う。お互いにまだ笑顔にはなれない。
「てっきりふたりは合流できてると思ってたんだ。こんな時間までどこまで探しに行ってたんだ?」
 場の空気を滞らせまいと、トキ時が質問を投げかける。
「ああ……ひとりで並んでいるかもと思って一番初めにきさき庵に走りました。列にはいなかったんですが、もう既に二十人は並んでいたので離れるわけにはいかないと思って大人しく待ったんです。あの時間はつらかったですね。買った後に一旦は伊呂波に戻りました。でも帰っていないとのことで、どこかふらふら散歩をしているかもと思ってまた外に出て探し回ったんですが見つからなくて。そこである程度まで近付いていたので思い切って西町通りまで行ってみたんです、朔介さんと朔太郎がいるので会いに行っていないかと。そしたらそこははずれで。それから西町まで戻って来て、花ちゃんに会ったので見かけていないか聞いたんですがこれもはずれ。それなら良さんのところへ行っているかと思ったら長屋は空で、お隣の儀三郎さんもはずれ。もしや万が一と思ってイタルさんのところもお邪魔しましたが、そこもはずれ……
 黒骸は羅乃目を探して三千里、いや右往左往していた様だ。
「羅乃目の行き先の可能性がこんなにあることに驚きました。山に入った可能性が高いとも思ったのですが、山で羅乃目を見つけるのは至難の業なので……恥ずかしながら再度伊呂波に戻って来たところです」
「動物に色々聞いたらもっと早く見つけられたんじゃないか? 羅乃目はここいらの動物とかなり仲良しだろ? 情報は得られやすいと思ってたんだが」
「いえ、あの、それはそうなんですが、今回は絶対に俺だけの力で見つけなければ意味がないと思ったんです。でも結果失敗してしまいました」黒骸は力無く微笑むと、羅乃目に向き合った。「羅乃目も、見つけられなくてごめんね」
「違う、わっちがだめだったでやんすよ。黒は悪くない」
「羅乃目がそう思っているんだとしても、謝らせて」
 羅乃目は神妙な面持ちで口をきゅっと閉じると、黒骸の胸辺りに頭突きをして額を擦り付けた。乱れていく前髪が妙に愛おしい。最後に顔を押し付けて肺いっぱいになるまで黒骸の匂いを嗅ぎ、満足すると満面の笑みで離れた。半日離れていた分を補充した様だ。
 乱れた前髪は、黒骸が長い指先で丁寧に整える。整えてもらうまでが一連の流れなのだろう、羅乃目は目を閉じて顔をやや上に向け、黒骸が整え終わるのを待っている。
 額を擦り付ける前と後で、確実に思考というか目的というのか、そういったものが変わっているのが見てとれる。まあでも、これで解決の判を捺してもよさそうだ。
 そのまま羅乃目は黒骸の袖を引っ張って伊呂波の隅へ連れて行く。こそこそとなにをしているのかと思えば、真新しい白い箱迫から春の詰め合わせ箱代を出して黒骸へ押し付けている。受け取り渋る手を押し除け、押し除け、直接お金を懐へ押し込む。弾みで落ちた分は袖口に押し込み直す。観念したのか、笑いながらふたりで元の位置まで戻ってきた。
「あのね! これ、みんなで食べたいでやんす!」
 質素なもくに、きさき庵の屋号と桜の花びらの焼印が入った一段重箱。そっと蓋を外せば、一面に敷き詰められた饅頭、大福、団子、羊羹、上生菓子、すあま、彩りに小さな落雁も散っている。黒骸が抱えたまま走り回っていたので全体的に向かって左に(これは各々覗き込んでいる位置による)寄ってはいるものの、目立った崩れはない。むしろ全ての菓子たちが仲良く寄り添っているようにも見える。頬を寄せ合って少し形を変えている大福の愛しいこと。
「こいつは美味そうだな。存在を知ってはいたけど、並んで買ったことなかったからなあ」
 畑は多少違うが、同じ料理人。この和菓子をこしらえた職人にトキ時は敬意を抱いているのが語感から伝わってくる。
「羅乃目はどれが食べたいの?」
 詰め合わせの菓子たちは、四個ずつだなんてありがたい数は入っていない。
「んと、みんなから選んでいいでやんすよ」
「ほんと? じゃあ俺これもらっちゃお」
 良がひょいと大福を摘んで悪戯っぽく唇に寄せ、羅乃目に視線を送る。にこ、と、にこ、の視線を合わせる。むふ、にも近い。
「これ美味しそうでやんすよ、トキさん」
「え? じゃあ、お言葉に甘えて貰おうかな」
「黒はね、これが美味しいと思うでやんす」
「ふふ、じゃあ頂こうかな。ありがとう」
「お、うまこれ。おひいも食べな」
「そうだお茶淹れたらよかったな。今から淹れるか」
「わっちがする! まかして!」
 むふむふしながら羅乃目は土間に消えて行く。
「羅乃目、なんかあったのか?」
「えぇ? んー、ご機嫌みたいよ。お前と一緒」
「お前と一緒」に心当たりのあるトキ時は、緩やかに眉と目尻を下げた。いい末広がりだ。
「結局は良さんに一日預かってもらうことになってしまいましたね。ありがとうございました」
 黒骸は良へ頭を下げる。
「やめやめ。いいよ、全然。朝一はちっと驚いたけど。周囲には俺の妹で通しといたから変な噂も立たねえと思うし」
「妹って、お前なあ」
「ははは……さっきも言いましたけど、羅乃目が行くかもしれない場所が思ったよりもあって。なんだか不思議な気持ちです」
「寂しい?」
「さび、しい、ですか?そうですね、そうかもしれません……少し」
 綺麗な形の眉毛を情けなさそうに緩やかに歪ませた。
 ふたりだけだった世界に新しい花が咲くようになってきている、春だからだろうか。あたたかな彩りとなるのか、余計な装飾となるのかはまだわからない。
「お茶でやんすよ!」
 得意げな顔でお茶を用意した羅乃目は、その後もてきぱきと菓子将軍をする。
「美味しい! 黒、これひと口あげる!」「死神それ美味しい?」「あのね、トキさん……これあげる!」
 羅乃目は大事を確かめられているだろうか。終始笑顔で三人を見ては、菓子をひと口齧ってまた笑顔になる。
 隙間を埋める様に二本入っている団子串は、見るからにそれぞれ味が違う。ひとつは定番商品の焼いて甘辛い醤油を塗った素朴なもの。もうひとつは限定品の、桜色をした団子である。
 どっちの団子を誰が食べるかがなんとなく決まらず、結局一本の串に四つ刺さった団子を、ひとりひとつずつ食べることにした。ひとつ口に入れて、隣へ串を回していく。行儀がいいとはとても言えないが、これ程までに愉快な食べ方もないだろう。
 隣へ、前へと手渡されていき、四角の軌道を描く団子串。いやあえて、無理矢理にでも、円を描くと表現させでもらおう。
 ひとまずはこれでいいのだ。足場はようやく形になってきた。
「はー、びっくりしちゃった。ここのはいつ食べても美味いんだけど、今日は特に美味かった」
「死神も?! わっちもいつもより美味しかったと思う!!」
「俺もとっても美味しかったよ。買えてよかった」
「羅乃目、食い物はな、一緒に食べる相手も大切なんだ。嫌いな奴と食って美味い飯なんてないんだぞ」
「わ……
 羅乃目の瞳がぱっと光った。
 好きだから、美味しいんだ。
 ひとりじめしたい物を分け合えて、尚且つ美味しい。
 この線引きは、少なくとも今は間違っていないかもしれない。
 大事の範囲は、自分で決めていい。
「ねえ、この箱わっちに頂戴! 宝物入れにするでやんす!」


     *


 開いた幕の上目一杯まで高く組まれ、ようやく完成の見えてきた足場。これから築く建築物は、どの様なものになるだろうか。上手くいかなくても、また足場から手直しをすればいい。押し固められて土台は堅牢なものになっているだろう。手直しをして組み直して、本体に手を入れて……ひとりでは無理だとしても、美味い飯を食える相手がいれば問題はないだろう。何度でもやり直してもいい相手が見つかれば、怖いものはない。
 心は同じかわからない。だが、始まったのだ。
 予感の日は昇る。
 春の夜明けだ。



























 境界線を失うことへの渇望と、線引きをすることで得られる安心感。
 重さに耐えられなくなって手放したくても、ただ連れて歩くしかない。あの時からずっと、変わらずに。
 連れ回して、引きずり回して、ぼろ切れのようにすり減って、いつかなくなることを願う。
 




次話

第十話、変の話