河童の皿箱
2025-04-02 09:11:16
4915文字
Public 旧作
 

青い手

ワゴンと燐廻の三弦猫のお話。



実はあの時はの、恐ろしくて仕方なかったんじゃ」

 炎に似せた光が灯る座敷の片隅。仄暗く、そしてほんのりと赤い光が部屋や主人やわたくしを照らす。街のギラギラとした光とは違い、主人がわたくしの居心地良いようにと設えてくれたのだ。
 部屋の主人でもあるワゴンは、あのきらびやかな舞台での衣装を脱ぎ、作務衣を身に纏っている。わたくしも同じく、気づいた時には来ていた法衣や面紗は普段は主人の命あまりにしゃんとした格好だから寛ぐに寛げないと、代わりに人形師が仕立てた浴衣を着て、寛ぐ様にしている。
 座卓に載せた徳利から、酒を猪口に注いでちびちびと飲む主人とともに、出会いの時を語らっていた。

「恐ろしかった、と?」

「城やれ会場やれ、あちこち走り回って、長い時間移動をして、はぁーやっと休めると三味線の手入れをしたが、それがどっか行っちまうし。それで何処へ行ったか宿を歩きまわりゃあ、するはずもねぇ三味線の音色が聞こえてくるじゃろ。で、ふらーっとそっちに行きゃあ、ホールで三味線がひとりでに鳴っておってな。なんじゃあこりゃと思って良ーく目を凝らして、ようやくおんしが見えたんじゃよ」

「なんだ。じゃあ初めは本当に見えてなかったのですかにゃ」

「おう」

 主人はまるで口を湿らすように、ほんのわずかに酒を飲む。そう大量に飲むでもなく。しかし、光のせいか、気のせいか、それとも少しは酔っているのか、いつもよりも多少、顔が赤い。

「そんでな。もしかしたら食われるかもしれんとは思ったんじゃ。しかしのぉ、音色があまりに寂しそうでなぁ」

「それでわたくしめの後ろに?」

「そうじゃ。とはいえ、お化けに会うなんぞ初めてだった。んで、結局どーすればいいかもわからず耳を傾けるしかできんかった。そうしたら、そっちが話しかけてきたってところじゃな」

「あの時は実に、実に語り口も硬かったですものにゃあ」

「ありゃあしゃあないじゃろ、わしに出来た精一杯の敬語だったんじゃ。癖はそうやすやすたぁ抜けちゃくれねぇ」

「わたくし、貴方様がそうやって話し始めた時は驚いたのでございますよ」

「はは、気が抜けるとどうしてものぉ。爺婆のが出ちまう。これでも標準に寄せてるんじゃが」

 また一口。ふぅと息が漏れれば猪口をことんと置き、主人は青い手のひらをこちらに見せた。

「ほれ、おいで」

 ただ本能のまま、その手に吸いよせられ、頭を差し出す。主人はその青い手で、頭を包み込んだ。

「えぇこじゃなぁ」

 彼の膝に頭を乗せれば、主人はえぇこ、えぇこと言いながら、そっと撫でてくれる。思わず、尻尾がピンと立つ。

「三味線を貰うたと思ったら、猫が化けて出て。わしを食いもせず、こんなにもえぇこ。おんしゃあ貴重な三味線であり、なんともかわいらしい猫であり、なにより、わしの大事な友達じゃよ」

 穏やかな声が、己の中に反響し、喉からつい、ゴロゴロと鳴る。

「のう。化けて出てきてくれてありがとうなぁ」

 主人はただ、穏やかに背を撫でてくれる。
 遺伝子に刻まれた渇望が、満たされていく。
 遥か昔に刻み込まれた痛みが、癒えていく。
 幼き頃の、人に撫でられた思い出が、蘇ってくる。
 すり、すり。ついつい体が動いて、擦り寄ってしまう。けれど彼は、三味線であるわたくし、妖怪であるわたくし、そして、猫であるわたくし全てを受け入れて、そっと撫でてくれる。それのなんと、心地よいことか。



 ここに住むようになってからしばらく。主人と、ともに住んでいる仲間たち皆、何かを作り続ける情熱が常に燃え上がっていると知った。主人と共に三味線を鳴らすこともあれば、能楽師たちがそれに合わせて舞い踊り、人形師は時折混ざっては怪物役として迫力を見せ浮世絵師はそんな景色を紙や空に描く。
 なんとも不可思議な集団であったがこの小さな屋敷は街の様相が様変わりし、あまりに高い塔が立ち並ぶ今でも、わたくしが馴染みやすい文化が残り続けている場所。とはいえ、彼らも珍妙な術か技か、未だわたくしの理解が追い付かぬ会話を繰り広げることが多々あるのだが。

 青い手は静かに、優しく撫でてくれる。返事ではないが、ついつい漏れる喉の鳴りに、主人は嬉しそうに笑ってくれる。かわいいのう、えぇこじゃの、と。ただ猫かわいがりするだけではなく、彼はわたくしの世話をよく焼いてくれる。その度に己は三味線は、美しく磨かれ続けている。

 猫の魂は9つあると人は言う。そんなことはないはずだが、それでもまあこの永い化け猫生。魂のひとつくらいは、そしていくらでも作り出せる音色の一つくらいは、誰かに預けてしまっても良いのかもしれない。その間に彼らの言葉のひとつやふたつ、或いはなぜ主人の手は青いのかと、理解できれば。