夕凪

5月に出る予定の銛イサヒス
尻叩きのために一部を掲載します


 
 
 イサンは初めから、この航海が利益を生むためのものではないと知っていた。
「食わねえのか」
 目の前に座る人は確かにそう言った、とイサンは思った。思案に暮れた脳が彼の言葉を認識し拾い上げるまでの間に、その人は再び口を開く。
「メシ」
 今度こそイサンは正面に座るヒースクリフと目を合わせた。ヒースクリフは既に食事し始めていたらしく、こちらをじっと見つめたまま頻りに口を動かしていた。
「あ、ああ……すまぬ、今……
 イサンはテーブルの上に固定されていた腕を持ち上げる。気まずさと恥ずかしさで視線を食事の方へと移してしまった。きっとヒースクリフはスプーンを持ったまま放心していた自分を訝しんだに違いない。
 食卓にはクラムチャウダーが並んだ。特別な食事ではない。船の上ではよく食べられるごく一般的なメニューだ。現にヒースクリフは初め物珍しそうな顔で口にしていたが、こうして黙々と食べ進めている辺り当時の感動はとうに薄れてしまっているらしい。
 食に対する拘りが薄い自覚はあったが、今日はそれ以上に気が進まなかった。スプーンで具材を掬い取り口に含む。咀嚼して嚥下したら同じようにスプーンで掬って舌の上に乗せる。ぼんやりとその動作を繰り返して皿の中身の体積を減らしていく。
 呼吸の数を確かめるのと同じ要領だ。何気ない日常の動作をルーティーンに落とし込むことに集中して、頭の隅に居座る深憂から気を逸らす。
……何、考えてる」
 だがそれは、目の前でこちらを窺うヒースクリフには不自然に映ったらしい。イサンは小さく声を上げヒースクリフを見やる。
「なにとは」
「顔、変だ。疲れてるのか」
「いや……
 そう問われてイサンは咄嗟に首を振った。愚かにも胸の奥で芽吹き始めてしまった疑念を他の船員に悟られ、伝播させてはならないと強く信じていた。いかなる時も命が失われかねない太湖の上。地続きの退路が無い事実上の閉鎖空間には、各々の道徳と理性の上に成り立った秩序が築かれている。それをあえて搔き乱すことが如何に軽率な行いであるか、イサンは重々承知していた。
 イサンが口を噤んだことで生まれた数秒の空白は、ヒースクリフが違和感を覚えるに値するものだったらしい。沈黙につられてヒースクリフもまた夕餉を食べ進める手を止めている。
 言いたいことがあって言葉を探している最中なのか、ただこちらの様子を窺っているだけなのかは分からなかったが、お互いに口を閉ざしたことで会話は打ち切られてしまった。気まずさから、イサンの指は無意識に首元を掻く。
……少々、風に当たりゆく」
 沈黙に耐えかねたイサンはわざとらしく咳払うと、それだけを言い残して席を立った。
 考え事をしながら人と話すことは得意ではない。加えて、相手に気を遣わせていると分かったときほど忍びないときは無いと思っていた。船の中でもそれなりの立場を与えられている自負があるからこそ、尚更。

 イサンが赴いたのは船尾のデッキだった。日暮が近いのか、空の色は橙に染まりつつある。穏やかな海域を進んでいると分かったイサンは、久方ぶりの凪を味わうべく甲板を歩いた。
 舵をとる二等航海士へ軽く会釈をし、甲板より一段上――プープ・デッキへ乗り上げる。船頭がある方へ目を向ければ見知った船員の顔が窺えた。
 ピークォド号には鯨を討つ銛使いやイサンのような航海士だけでなく、大工や料理番、船医など様々な役割の人間が乗り合わせている。イサンのように海で生きてきた人ばかりではなく、皆それぞれの事情で集まっていることを承知していた。
 金を稼ぎ成し遂げたいことがある者がいる。家族を食わせたい者がいる。ただ海に憧れて、次の船旅を望む者がいる。無論出身も違えば文化も常識も異なったが、そんな何かの巡り合わせで同じ船に乗ることになった仲間たちを、イサンは指揮する立場としても同胞としても大切にしたいと考えていた。
 それがこの船の船長であるイシュメールとの軋轢を生む種になり得ると気付いたのは、航海が始まってしばらく経った後のことだった。イシュメールの目的は鯨油が生む利益などではなく、己の片脚を食い千切った赤い鯨の討伐ただひとつだ。彼女の鯨に対する執念はイサンの想像を大きく上回っていた。

 人は分かりやすいものが好きだ。それぞれの事象を白と黒に塗り分けるだけで、人はそれらを理解できたような錯覚に陥る。己を善、鯨を悪としたイシュメールのやり方は単純で分かりやすい。
 さらに彼女にはそれを押し通すだけの魅力があった。凛々しく強かで聡明。実力も武勇伝も持ち合わせている。
 加えて、持ち前の知力と弁舌の巧さが説得力を持たせ、船員は次第に船長イシュメールこそが正であると盲信する。まさしくカリスマと呼称するに相応しい。
 赤い鯨というシンボルに対する強烈な憎悪を以てしてこの船の秩序は築き上げられた。イシュメールはきっとやり遂げるのだろう。持ち得る全ての手段を余すことなく使い果たし、同胞の屍で冥府魔道を舗装するのだ。
 それを分かっていながらも、イサンは諦観することを選んでいた。結局のところ自分もまたイシュメールに魅了された者の一人でしかなかったのだ。そうでなかったとしても、彼女に残されているはずの良心に賭けるのだと自己欺瞞に勤しんでいては何も変わらない。

 水面を覗けば情けなく悲嘆に暮れた己の顔が見つめ返してくる。鏡写しの自分が波に呑まれ、その輪郭が解けては寄り集まる様子をぼんやりと眺めていると、背後から粗暴な足音が近づいてきた。
 振り返った先にいたのはヒースクリフだった。口元を引き結んだままイサンが立つデッキへと歩を進めている。そして、彼の右手と左手は見覚えのある木製の器がひとつずつ握られていた。
「ヒースクリフ君、それ……いかでここに」
 イサンはまごつきながらも口を開く。他者へ強い関心を抱く様子を見せなかったことから、ヒースクリフがこちら側へ踏み込んでくる性質ではないと考えていた。それに食器を、しかも二人分も手にしていることも全くの想定外だった。
 面食らった様子のイサンを見たヒースクリフは僅かに眉をひそめて目を逸らすと、一言も話すことなくイサンの隣に腰かけた。
 イサンは徐に視線を落とす。己の足元で遠くを見つめるヒースクリフの、陽光に晒されて赤みを増した皮膚の色を見ようとした。だが否応にも目を引いたのは全身に張り巡らされた夥しい数の刺青だ。ヒースクリフの姿を覆い隠すような、グロテスクにも映るそれにイサンの目は奪われていた。
……話、途中だった」
 ヒースクリフはイサンが示した興味の矛先を知らぬまま独り言ちる。端的な抗議に息を詰まらせ、イサンはさらに狼狽えた。
「す、すまぬ……
 こちらを睨むヒースクリフを前にイサンは弱々しく謝罪を口にする。自分は彼の言葉を待たずに、逃げるように席を立ってしまった。何より、彼が示した心遣いを無碍にしてしまったことが悔やまれる。
「怒ってない」
 だがはっきりとした否定が返ってきたことで、イサンは無意識に逸らしていた視線を再びヒースクリフへ向けた。こちらを窺うヒースクリフの目がじっとりと細められる。
「眩しい、だけ」
 ヒースクリフはそう言葉を続けると、目線だけでイサンに座るよう促した。イサンの背後には地平線へ沈み込む西日が射している。
 イサンはヒースクリフに従って甲板に座り込んだ。ヒースクリフの顔を影が覆ったことで幾らかましになったのか、顰められていた顔は大人しいものへと変わっていた。
「あそこで食うの、落ち着かねえ。うるさい、だろ」
 ヒースクリフが呟く。同意を求められているようだったが、イサンは首を横に振った。
「いや、私は好ましく思う。皆の顔を見つつ食え、嬉しいとさえ思えり」
 そのように答えつつ、イサンは自分が好きな食堂の情景を瞼の裏に浮かべる。食事の時間がある程度決まっていることから、船員が一堂に会しやすいのが食堂であった。
 食堂での過ごし方は様々だ。黙々と食事する者もいれば複数人で集まって騒ぐ者もいる。トランプで賭け事を楽しんだり故郷に残した家族の話をしたり、料理番に変わり映えしないメニューに対する文句を溢したり。集まる船員の人数に比例して賑わう食堂の雑踏に耳を傾けるのも、イサンは好きだった。
 一等航海士という肩書きを持つ以上、イサンの周りには人が集まりやすかった。生活指導や戦闘訓練もまたイサンの仕事だ。船内のトラブルを未然に防ぎながらも、鯨獲りで命を落とす船員を少しでも減らしたい。イサンの行動理念は概ねこの通りだった。
「私は少々騒がしき処こそ落ち着くめり」
 瞼を開いて言葉を続けたイサンを、ヒースクリフは静かに見つめている。
「お前」
 ふと、ヒースクリフが口を開く。少しの間彼の唇は薄く開かれていたが、彼の口からすぐに言葉が出てくることはなかった。僅かに視線が下がったことで、彼が返答に用いる言葉を拾い集めている最中なのだと悟る。
「数えてる。人数。いつも」
 ぽつぽつと紡がれ始めた言葉を、イサンはひとつずつ手にとって確かめるようにして耳を傾けた。
「毎日、全員と話して……確かめてる。失くしちまってないか」
 思いがけず核心を突かれたことで、イサンは目を見開く。違ったかとヒースクリフが問うたが、返事をすることができなかった。
 それは密かに執心していたイサンだけの習慣だった。初めは誰も欠けることがないようにという祈りから。次第に欠けた者の顔を忘れることへの危懼が加わり、いつしか欠けた頭数を把握する慣例の意味を持ち始めたことで、イサンは船員ひとりひとりの影を追いながら一日を過ごす癖がついていた。
 誰に見抜かれたところで構わなかったが、それを最初に指摘するのがヒースクリフだったことはイサンにとって意外なものだった。自分がヒースクリフという人間の多くを誤解していたと知ると同時に、彼が思った以上に人をよく見ていたのだと知った。
 ヒースクリフは驚き硬直するイサンへ、ずいと器を突き付けた。紫色をした虹彩が真っ直ぐこちらに向けられ、言葉をなくしてしまう。
「食わねえと、死ぬ。船長は、命令してない。死ぬことを」
 吹き抜けた海風でヒースクリフの髪が揺れ、装飾品はチカチカと陽光を反射した。
 差し出された器を手に取ってイサンは小さく微笑む。満足したのか、ヒースクリフは自分の食器を手に取って食事を再開した。
「ヒースクリフ君。もしや、私を元気付けんとせりや?」
 嬉しさから冗談半分に問いかければ、うるせえと無愛嬌に吐き捨てられる。
「料理番のヤツ、急かしてる。皿は自分で洗えって」
「う……そはむつかしかし」
 眉間に皺を寄せて腕を組む料理番の顔が浮かび、イサンは苦い顔をした。皿二枚の回収が遅れた分だけ料理番は台所に留まることになり、他の仕事につかえることは想像に難くない。ヒースクリフに倣い、イサンもまた食事に手を付け始めた。
 すっかり冷めてしまったクラムチャウダーは舌触りが重たく、とろみが落ちている。しかし隣で同じものを食べているヒースクリフがいることで、不思議と食堂にいたときよりも拒否感は無かった。

「そなたも既に、船のよすぎには慣れたようなり」
 こちらの内面を暴かれたのであれば、次は相手の内側を暴きたくなるのは自然な流れだ。ヒースクリフは銛打ちの経験も無ければ航海の経験も無かったのだという。彼が船に馴染めているか気掛かりではあったが、何よりもヒースクリフへの興味からイサンは敢えて先輩風を吹かすことに決めた。
「ああ。まあ、慣れた」
「そなたは船長の勧誘で来たりと聞けど、それはまことかね?」
 イサンの問いかけにヒースクリフはこくりと頷く。
「船長、オレを拾った。恩人だ。報いなきゃ、ならない」
 ヒースクリフは神妙な面持ちで呟く。捕鯨船の乗組員になる経緯は様々だが、それらは大きく二分できるとイサンは考えていた。自ら望んで乗船する者と、他の選択肢を選べなかった者。イサンはヒースクリフを後者へカテゴライズした。
 事実、比較的新参の船員は公にできない過去や込み入った事情を抱えている者が多く、その誰もがイシュメールに尽くそうとしていた。
 船長は死ぬことを命令していない。ヒースクリフが話した言葉を胸の内で反芻する。彼はとりわけ忠誠の意が強い船員であるとイサンは認識していた。
 しかし、一人でも多くの船員を地上に帰すことが自分の責務だ。例えイシュメールの目指す方向が自分の願うそれとは異なっていたとしても、誰も死なぬようにと願うことが是であるのなら、今はそれでいい。
……さりや」
 頭の上でカモメが鳴いている。夜が来る前に巣へ戻るところだろうか。鳥、とヒースクリフが呟く声が聞こえた。
 隣を見れば、ヒースクリフは顔を上げて空を飛ぶカモメを目で追っていた。こうして見ると、彼が思いの外幼い顔立ちをしていたことに気が付く。歳はさほど変わらないか、自分より若いのかもしれないと思った。
 ふとヒースクリフは空になった器を置いて徐に立ち上がる。西日へ向けて進んでいくカモメの影を辿るように、ヒースクリフは舷檣(げんしょう)の方へ歩いて行った。
 イサンは遅れて立ち上がり、手すりに肘を置く。隣には夕陽に照らされたヒースクリフの姿があった。彼は一度こちらを横目で見たが、すぐに水平線の向こうに目線を戻す。
……夕焼け。よく見える。ここから」
 ぽつ、と小さく呟く声が聞こえたことで、イサンはヒースクリフの視線の先にあるものを辿った。太陽はまさに今、水平線の下へ沈み込もうとしている。強烈な夕陽色が網膜に焼き付いて、イサンは思わず目を細めた。
 ざっと潮風が吹き抜け、ヒースクリフの髪飾りが擦れ合う音が鳴る。
「オレの故郷、いつも雲がかってた。……知らなかった、橙色」
 オレンジ色に染まっていた空は次第に紫がかり、間もなく夜になろうとしていた。その移り変わりすらヒースクリフを虜にするようで、菫色の瞳の中には暖かい光が浮かんでいた。
 イサンにとっては道端に咲く野花のように、既に見慣れてしまった光景のひとつだ。
 しかし、誰かが大事そうに摘み取って差し出したそれを改めて手にすると、その野花が持つ固有の美しさが目新しく感じられるのだと知った。
「夕焼けや恋しき?」
 その瞳を覗き込めば、ヒースクリフはイサンの方を向いて静かに頷く。久しぶりに目が合った、とイサンは思った。
「夕焼け、来ると、夜も来る。合図だから」
 夕陽の灯りを取り込んだ双眼がイサンを捉えている。たどたどしくその理由を口にしたヒースクリフは頬を陽光で赤く染めながらも、好きなものを語るにはどこか似つかわしくない、憂いを帯びた瞳を向けていた。