冬灯夜
2025-03-29 17:14:16
2688文字
Public ルミナリア
 

三月にはパンがある

ルミナリア ガスリゼ
ガスパルの誕生日とパンを用意するリゼットの話
※三月に色々あったというのは全部捏造です

 焼き立てのパンの香りがした。

 ここはイーディス騎士学校の食堂近く。そんな香りがしてもおかしくないが、夕食の盛りは過ぎた時間なのが少しばかり不思議ではあった。
 立ち止まって嗅いでみる。いい香りだ。パンは時間が経っても美味いが、焼き立ての香りはやはり心が浮き立つ。食堂で供されているならば、手に入れたい所だが――
……こういう時ばかりは間のいい奴だな、お前は」
 やや低めの女の声。何故か呆れたような調子のそれは、幼馴染みのものに相違なく。
「よう、リゼット……ってそれ」
 リゼットの抱えた紙袋からはパンの頭が覗いていて、そこからほかほかの香りが立ち上っている。
「まあいい。用を終わらせたら来い。私は先に戻ってる」
 リゼットが親指で示した先は、あいつの住処がある方向。言うだけ言って、俺の返事も待たずにリゼットはさっさと歩いて行った。
 どうせ来るんだろうと思われてるな、これは。そのつもりはあったけど。
 それにしてもリゼットが夕飯時にパンを買うなんて珍しい。酒のつまみで済ませることも多いくせに。そもそもこの時間に焼き立てなんて――と、ここまで考えてようやく気が付いた。
「そういやもう三月入ってたな……
 忘れていたわけでも、忘れようと努めていたわけでもないのだが、人の動きが激しい時期となると『お仕事』もまあ増えること増えること。そんな合間を縫って騎士学校までやって来たのである。
 などと言い訳ともつかない何かを内心で並べつつ、食堂で残り物でも包んでもらうことにした。せっかく焼き立てなのだから冷める前に食べたい。リゼットが、毎年用意してくれているパン。
 俺の誕生日が近い、三月に入ったばかりの夜だった。


 リゼットの部屋に入ると、切られた食パンとバゲットがテーブルに運ばれていた。
「赤ある?」
「ああ」
 ワイングラスを出していたリゼットに声を掛けると、すぐにワイン棚から一本が抜き出された。俺はパンの合間に食堂の料理を並べていく。わざわざ軽く炙って温め直してくれたヴルストに、余った総菜の詰め合わせだ。ヴルストをメインに据えるなら赤が合うだろう。リゼットはフローンの油と塩をそれぞれ小皿に出して端に置き、ワインのコルクを開けてグラスに注いだ。
 席について、いただきます。互いにグラスを目線の高さに持ち上げてから、軽く口をつけた。リゼットは一息で半分を飲み、グラスを置く。
「結構いいヤツなんじゃねえの、これ」
「それなりだな」
 少なくとも安酒の香りじゃないな、という程度は分かる。そして早速バゲットの方をそのまま一口。まだほんのりと温かい。
 ゆっくり噛み締めていると、リゼットは真っ直ぐにこちらを見遣った。
「誕生日、おめでとう」
……おう。ありがとな」
 何度同じことをしても、されても、どこか気恥ずかしくて物言いはぶっきらぼうになる。
「日付が違うのは当日にいないお前が悪い」
「分かってるって」
 リゼットも同じらしく、一息に残りのグラスを干した。ワインボトルを取って注いでやる。……見えたラベルは思ってたより『それなり』の位が上というか、それなりというよりそこそこのお値段するヤツなんだが! それをそんな豪快にお前! ちょっぴり慄きつつも、自分では手を出さない範囲の酒なのでありがたく頂いておくことにする。
 料理にも手を出しつつ、言葉少なにパンを食べる。
「うまい」
「パンなら何でもいいからな、お前は」
 しみじみと呟いたのに、全く失礼な。
 俺がマイシュから戻ってきてからは、リゼットは毎年この時期、パンを用意している。
 ――リゼットが毎年、自分で焼いてくれている。
 リゼットはそうと言わないけれど。気付いたのは二、三年が経ってからだった。当日に来れるとは限らないから、そんな時は揚げたり乾かしたりと日持ちのするようにしてまで。
 三月のこの時期は、色々あった。俺にとってもリゼットにとっても。俺達の故郷にまつわる出来事は重く、手足を鈍らせ、叫び出したいのに声が出ないような想いが蟠って伸し掛かる。
 そんな時に誕生日など、どんな顔をすればいいかも分からくなった。元より祝われることも殆どなかったのだから、そのまま忘れ去ってしまったってよかった。
 なのに、リゼットは必ず、パンを焼く。
 おめでとう、と口にする。
 俺の大好きなものを、俺が初めてもらった想いの形を、必ずくれる。
 だから俺は、俺が生まれたという日を、決して忘れることはない。
「別に俺だって何でもいいわけじゃないんだぜ?」
「どうだか。毎年うまいと言うだろう」
「だってうまいし」
「ほらな」
「ちゃんと味の違いとか分かってるっつーの」
 一年目の少し歪なパン。二年目の水分が抜け過ぎたパン。三年目のやや甘味が強かったパン。四年目、五年目……全部覚えてる。
「今年の、軽めで爽やかな感じだな」
「パン種を変えたらしい。普通より長持ちするやつだとか」
「へえ」
 リゼットは相変わらず素知らぬ態度で言う。まるでどこぞのパン屋で買ってきたかのような言い草だ。
 そんな風にリゼットが手ずから焼いたことを言わないから、俺もそれを口にしたことはない。
 代わりとばかりに並べられたパンを次々放り込む。頬張っていると、自然と口元が緩んでいく。
「もっといいパンなんか幾らでもあるだろうに」
 ぽつりとリゼットは呟いて、パンの切れ端をつまんだ。
 そりゃあそうだ。毎日焼いてる本職の方が上手に決まってる。
 でも。
「俺は、こいつが一番好きだよ」
 リゼットの目を見つめながら、告げる。
 他の誰でもないお前が、俺の為にしてくれることが。この言葉を唯一自分に許せる日が。
 一瞬揺れた雪雲のような瞳は、よくよく見ると薄っすらと紫がかっている。暫しその色をじっと見ていると、時が止まったような――止まってしまってもいいのにとさえ思う。
 やがてリゼットは静かに視線を外して、ワイングラスを傾けた。
……そうか」
「そうだよ」
 リゼットの小さな相槌に返して、パンとワインを飲み込む。
 残ったパンはまた手を加えて渡してくれるのだろう。それをちびちびと口にする度、俺の生を肯定してくれる人のことを噛み締める。約束の一つも出来やしないから、俺もまたお前の生を肯定しているのだと、六月には伝えに来よう。
 約束も言える言葉もなく、それでも互いに伝わることだけは信じて。
 今はただ、リゼットの目の前で穏やかにパンを味わった。