スヲマシ
2025-03-24 18:43:23
20842文字
Public 探偵パロ
 

初恋以上思い出未満

師匠探偵の柴さんと助手兼見習い探偵のチヒロくんの探偵パロ
ベースは柴さん(←)チヒロくん片想いの柴チヒです

気まずい二人から話がスタートします
続き要素としてはその程度ですが、前々回「陸にはいられない」https://privatter.me/page/66fbd931eb402 前回「陸で泳ぐには」https://privatter.me/page/67123bc55d665 を読んでいただいた方がスムーズかと思います

※役割のある名無しモブが出てきます

 あれから数日が経った。表面上は何もない。言及もしない。それでもお互いぎこちなくて、上辺だけをなぞるような日々。不満はないが、満足ではない。仕事仲間のような距離感に寂しく思いつつも、柴もチヒロも自分が原因だと思い込んでいるため、打開できずにいた。



     *



 チヒロの作った遅めの昼食を平らげて、柴は午後の作業に戻る前に外の郵便受けを確認しに行く。
 気温は思ったように下がらないが、開けたドアから吹き込んでくる風ばかりはやっと秋らしくなった。寒さに強い柴と違って、チヒロが出ていたとしたら、襟に顔を埋めていたかもしれない。
 見上げると高くなった空にうろこ雲が見える。そういえば、さっきチヒロは早くも洗濯物を入れていた。
 面倒だからと、古くなったつっかけを履く姿は敏腕探偵にしては少々生活感が出過ぎている。
 まあ、見られたところで近所の人や依頼者との関係は揺るがない。むしろチャーミングだと思ってもらえるかもしれない。それ程には柴とチヒロの探偵師弟は評判が良かった。
 満腹感から来るあくびを噛み殺して、タイミングぴったりに来たと思しき配達員から郵便を受け取る。
 なんてことない昼のルーティーンの一つだった。が、
「配達ありがとう……どうしたん?」
 定型的な挨拶をして立ち去ろうとしたものの、訪ねずにはいられなかった。
 配達先の住人と鉢合わせして声をかけられたのにもかかわらず、何のリアクションもなく、ただ突っ立って一点を見つめている。
 見つめる先は、看板。
「ここって探偵事務所なんですか?」
 配達員は柴の方を向いて、問いに問いで返してきた。
 確かにそこには、白黒の飾り気のない文字で『柴探偵事務所』と書かれている。
「せやけど……。ずっとそやで。ここら辺初めてなん?」
 目立つように置いている訳じゃないが、郵便受けの真上に置かれたその看板が連日荷物を届けているのに全く目に入らないことはないだろう。
「柴?聞いたことあるな」
 口元に手を当てる姿は、分かりやすく考えている風だが、眉間に皺を作る柴の方はまるで見ていない。
 視線から言外に思うところがあるのが分かった。珍しい職業に興味を惹かれたというわけではなさそうだ。
 それにしても、『探偵』に用があるのであって、『柴自身』に用がある訳ではないらしい。
「独り言はもっと小さく言い。……有名になりすぎるんは良いことやないかもな」
 この事務所は何も有名になって大金を稼ぐために運営しているのではない。
 その節はあるが、柴達が優秀であるから結果そうなっているだけで、一番の目的は六平国重の事件を調べるためだった。
 有名になることで入ってくる有益な情報は、同時に危険も呼び寄せている。
 もう、それに無理があることと分かっていても、柴は危ないことになるべくチヒロを近づかせたくない。
 柴の思案など知る由もなく、やっとこちらに正面から向き合った配達員は取ってつけた笑顔を浮かべた。
「聞いて欲しいことがあるんですけど」
「依頼?仕事中やろ?今日はずっと在宅やからあとで来るとええよ」
 玄関先で本題に入りそうな勢いについ、止めに入った。
 後方にあるバイクは長時間留まることなんて想定してなかったのだろう。エンジンがかかったままで取り残されている。
「依頼……だと思います。そうですね、六時以降になると思いますが、またお伺いします」
 配達員は自分の職務を思い出したらしく、すぐに身を引いて約束を取り付ける。それに柴が頷いたのを確認して、早足でバイクに向かって行った。
 最後にやっと会話らしい会話になった気がする。
 自由勝手に話すことなんて柴の方が圧倒的に多い。新鮮な驚きと共に、依頼者未満の顔を記憶に焼き付けた。



 事務所の中では昼食の片付けを終えたチヒロがヒナオの持ち込んだ書類とにらめっこしていた。視界に柴を見つけると、寄っていた眉が解かれた。
「おかえりなさい。戻るの少し遅かったですね。何かありましたか」
 小さな異変をきちんと拾うチヒロのことを「さすがやな」と、手放しで褒める。
「配達員とちょうど鉢合わせた。郵便物もいつもよりいっぱい来てたよ」
「そうでしたか」
 ちらりと柴の手元に目をやったものの、大したことではないと判断したのかチヒロは視線を書類に戻す。
 仕事熱心なその様は助手としては模範的だが、柴にはそれが少し寂しい。
 なにせ、今までだったら続いて二言三言雑談していたのに、最近はそれがなくなってしまった。
 理由は明白なので、どうすることも出来ずに終わっていた会話だが、今日は続きがあった。
「それがそれだけやのうて、その配達員が話あるんやって。六時以降に来るはず」
「職業だけ分かっているのは珍しいパターンですね」
 チヒロが書類から顔を上げる。
「うん。終わったら遅なるかもしれないし、夜どっか食べ行く?車出すよ」
 気遣う言葉と一緒に、笑んだ柴がチヒロを見つめていた。
 釣られてチヒロも顔が緩む。
「いいですね。あそこの大通り沿いの店、柴さん行きたがってませんでしたか」
「そんなん覚えてくれてたん?あそこ一回依頼関連で使った時に美味かったからチヒロくんもどうやろ、思うて」
「そういうことだったんですか。ならそこにしましょう」
 事務的な域は出ないが、会話は長く続いた上、夜の楽しみも出来た。



 六時半になってやって来た人物は、ヘルメットを被った仕事中の印象とは違った。
 二十代半ば。チヒロと同じくらいか、平均身長より高く細身で、パーカーにコーデュロイのパンツと随分ラフな格好だ。
 チヒロが予見していたように、あの後天気は下り坂で、まだパラパラと雨が降っていた。傘をさしていても軽い雨が入ってきたのか、短い髪の所々に水滴が付いている。
 それを持っていたタオルで拭って事務所に入って来る姿は、探偵に相談という非日常的な行為に緊張しているように見えた。
 一度来客用ソファに座ったものの、すぐに立ち上がって名刺を差し出す。
「午前中は失礼しました。郵便局で働いている者です」
 差し出された名刺には近くの郵便局の名前が記されている。
 柴たちもお返しに名刺を出し、簡単な自己紹介を添える。
「改めてありがとう。柴登吾です。こっちは助手という体の立派な探偵、チヒロくん」
 ソファのカウチに座った柴がまとめてチヒロの紹介もしてくれた。けれど、柴の見解を挟んだせいで分かりづらい紹介文になっている。
「よろしくお願いします」
 それにチヒロは特に口を挟まず、お辞儀する。それに呼応して相手も頭を下げた。
 訪問者は、探偵と助手の間柄に興味はないのか何も触れて来ない。代わりにもの珍しげに名刺を眺めていた。
 単刀直入に依頼があることを確認すると、真剣な顔で深く頷いた。
「依頼内容は勤務中でも話そうとした辺り、仕事関連ですか?」
 チヒロが切り出す。
 相談も報告も、基本的にチヒロが主だって話を進めることになっている。
 昼間に一度引き下がっているし、事務所に来た様子を見ていても緊急性は低そうだと考えていた。
「そうです。自分は今月……今週の月曜日。今日からですね。ここの事務所も含めて、急きょ新しいエリア担当になったんですが、以前の管轄でほぼ毎日配達していた一軒家の御宅がありまして。その家の小学校低学年ぐらいの男の子が半年くらい前から時々、玄関前に立っているんです」
「それの理由を調べるのが依頼ですか?」
「大雑把に言うとそうです。でも、男の子はランダムにいるわけではなく、水曜日にいるんです」
 途中まで話を聞いている時は、てっきり動機を知りたいのだとばかり思っていた。疑問に思っているのはそこじゃないらしい。
「あれ?時々って言うてへんかった?毎週ではないってこと?」
『水曜日』の発言に引っかかりを覚えた柴が割って入る。
「毎週水曜日なら分かりやすかったんですけど、違うんですよ。一月に一回くらいのペースでいましたね」
 子供がいる日が、それが毎回水曜日ということらしい。
「遊びに行く素振りもなく立っているもんだから、気になって一度、何でここにいるか尋ねたんです。そうしたら『今日が三回目だから』と、だけ」
「その感じだと会うのが三回目という訳ではないんですね?」
「はい。二回目でした。それだけ言って、少しその場に立ち止まっていたんですけど、配達物を受け取って去っていきました」
 会うのが三回目という意味ではないのなら、何が二回あって、何が三回目だったのだろうか。数が分からないような年齢ではない。
 どうしてその場にいるか尋ねられた際の答えが、『三回目』なので意味のない発言とも思えない。
「その他に向こうからのアクションはなかったんですか?」
「一度だけハガキを渡されました。その時も無言か『はい』とかだったと思います。収集員と配達員は本来別なんですが、たまにあることですし、切手も貼ってあったので受け取りました。受け取る際にパッと見えた言葉は『まってます』でした。なので待ってる理由としては誰かからの手紙を待っていると思うんですよね」
 自分なりの答えを持っているから動機について納得しているのか。半年間続けていて、男の子からも動きがあるなら、冗談や気まぐれの類で待っているのではない。
「配達時間は?」
「午後三時ごろです。配達内容やコースで日によって違いますが、その御宅に届けるのは水曜日に限らず毎日それくらいでした。最後にあったのは先週の水曜日です。珍しく、というか多分初めて月に二回会いました。最後だと分かってたんですかね」
 寂しげな表情を浮かべた。たとえ頻度は多くなくとも、見知った顔になった以上、その機会が突然失われるのは本意ではなかったのだろう。
 話したいことはほとんど終わったのか、顔を上げて依頼者本人が今回の依頼を要約してまとめにかかる。
「あの言葉の意味はなんだったのか。なぜ、毎日や毎週ではなく“時々”あそこに立っていたのか。そもそもどうして立っているのか。知りたいんです。管轄が変わってしまい、同じ時間にはいけないので直接調べるのは難しい。それであなた方に頼みたいんです。
 と、言っても、正直その子が元気かどうかだけでもいいです。よろしくお願いします」
 最後の言葉と、それと共に浮かべた笑顔から人柄が伺えた。
 昼のやり取りと同じく、やや一方的に感じるが、結論は出た。
「分かりました。こちらこそよろしくお願いします」



「思ったより早く終わったね」
 いくつか追加の質問と書類のやり取りをして依頼者を見送った後、柴が車に乗せて向かった店は国道沿いのイタリアンだった。
「そうですね。時間を置いたおかげか、物事が整理されてました」
 店内は家族連れからカップル、一人客もいる。賑わう店内にはピザを焼く香ばしい匂い。
 ピザをシェアし、各々スパゲッティを食べた。味は柴から推薦されるだけあって二人とも満足のいく物だった。
 アイスコーヒーを飲む柴の向かいには、ホットコーヒーを片手に硬い表情で考えを巡らせるチヒロがいた。
「その子にとって待つほど大事な手紙が半年届かずにいるんですかね」
「俺はちゃう気がしてるけど、チヒロくんは?」
「俺も違うと思います。ただ、今のところ予想はついてないです」
「そ」
 その言葉を最後に二人の間にあるのは気まずい沈黙。ここ数日度々訪れている。
 それを払拭するようにチヒロが、改めて座り直してテーブルに拳を置くと、柴も釣られて座り直した。
「水曜日しばらく当たってみますか」
「うん。そうしよ」
 頷いた後に、畏まった力をほぐすように柴は伸びをする。
「張り込むか〜聞き込みは家族にも影響出そうやし」
「男の子に何かあれば誰も得しないですし。明日から金曜日までと、毎週水曜日の例の時間前後だけやってみますか」
 柴は頭に入っている予定と照らし合わせる。水曜日にも、今週も急ぎの用事はなかったはずだ。
 一帯の地図を取り出し広げて、教えてもらった家の周辺を指でつつく。
「せやね。ちょうどよく目の前にカフェもあるし。その時間だけなら大して居座らんで済むし。小学校の時間割とか行事とか知りたいけど」
「時間割」
 チヒロが口を挟んだが、続きの言葉はなかった。音の意味を咀嚼して何となく理解したらしい。
 賢い子だ。柴は何か言おうとして止めた。
 その間を悟らせない様、少々おどけた態度をとって提案してみせる。
「薊に頼んでみるか!」
「薊さんもさすがに困るんじゃ」
「こう、警察の力でなんとか……無理か。実際のところ、当てはあるから」
「なら、頼りにしてます」
 時々、沈黙は流れるものの、共通の事柄があるだけ遠かった距離がここ数日で一番近づいた気がした。



 自宅兼事務所に戻ってもチヒロは上の空といった様子。目下、持ち込まれた依頼のことを考えているからだ。
 住まいのソファに座って考え込むその姿を立って見下ろす柴はつい声をかける。
「そんな気負わんでええよ」
 ぽんと置かれた柴の手をチヒロは勢いよく体を捻って避けた。
 避けた先、振り向いた拍子に合ったチヒロの目は動揺が表れていた。チヒロは見開いたその目をすぐに細めて俯きがちに柴から視線を逸らす。
「ごめん。驚かせてもうたね」
「いえ、ビックリして。すみません」
「こちらこそ」
 その激しい反応に柴は驚いていた。
 親しい間柄なら許されるスキンシップの範囲内だ。これくらいの触れ合いは数えきれない程している。拒絶されるほどではない、はずだ。
 けれど、直接体が触れたのはあれ以来かもしれない。
 やってしまったと思ってももう遅い。
 それを意識すると柴はとんでもないことをした気分になった。
 嫌な思い出とカウントされても仕方ないことをしたのだ。ああいった反応をされても受け止めてしかるべき。
 反省する意味も込めてチヒロの顔を見れば、柔く下唇を噛んでいて、耳まで赤かった。
 釣られて高揚する頬を自覚した柴の口角は、ほんの僅かに上がる。
 あー、自惚れそう。でも、多分チヒロくんはこの前のことを覚えてて、恥ずかしがってるだけやから。図々しい思いは消すべきやな。
 好きな人がいるのかチヒロに尋ねたことはない。自分のせいでああなったことへの申し訳なさはあるが、何よりも「いる」と答えられた時に己が平静を保てる自信がないからだ。
 あの日から柴はずっと思っていた。
 この子のかわいいところをもっと見たい。
 独り占めしてしまいたい。
 その欲望が抑えられない。
 もっと触ってみたらどうなるだろう。
 固く結んだその手を握るとか、赤くなった耳に触れるとか、突然キスするとか。
 あの時にあんなことを宣ったくせに、そんなことを思う自分が嫌だった。
 ずっと矛盾した感情がむくむくと湧き上がって仕方ない。
「明日から少し張り込むんやし早よ寝とこう」
 引き摺り出した言葉は邪な心を隠せていただろうか。
 触れると自分の欲望ごと伝わってしまいそうで、今度は触れられなかった。



     *



–––一週目 金曜日–––
「ま、なんとなく分かってたけど下校時間の問題やったね」
 依頼者の話していた家に、見た目の特徴が合致する男の子が三時半ごろ、ランドセルを背負って帰宅するのを近所のカフェから確認する。
 ここは対象の住んでいる家の斜向かいにある雑居ビル。その二階にあるこの店は張り込むにはおあつらえ向きだ。
 今回の依頼に限らず、ここは何度か利用したことがあった。
 それもあって、マスターと顔見知りの柴が依頼内容は伏せて、口添えしてある。今週火曜からの一週間、今後の水曜日の三時前後は窓際の指定席に座らせてもらうことにした。
 二人の他に三人の客と、マスター。絞られた照明で薄暗い店内には常にコーヒーの芳醇な匂いがした。耳馴染みのいいジャズが流れていて、他の客の話し声はほとんど入ってこない。それは逆もしかりだろう。聞き耳を立てられる心配も、立てる必要もない。観葉植物で見えづらくなっている席に通してもらっているため、連日長居しても不審がられることはなかった。
 西陽が入る窓から見える家は、築五年程度か。外壁が流行りの柔らかなクリーム色で塗られている。ポストが設置された門から家までは少し距離があった。依頼者が言うには、男の子は玄関前ではなく、ポストの横に立っているらしい。
 カフェからは他の児童が数人帰宅する様子も見えた。
 風や雲、木々は秋めいても、体温の高さからか、有り余る元気からか、児童の多くは半袖だった。(チヒロの向かいに座る柴も似たようなものだが)
 調査対象は話を聞いて勝手にイメージしていた引っ込み思案な風には見えなかった。
 快活そうな子で、それを裏付けるようにここ一週間毎日どこかのチームの半袖ユニフォームを着ていた。
 そんな元気な子供が、依頼者の配達員の前では受け答えもままならないのがチヒロにはなぜか分からなかった。人見知りと言ってしまえばそれまでだけれど。
 待っている理由さえ分かればその疑問も解消するのだろうか。
 家から視線を外して、手に入れたばかりの時間割と照らし合わせる。
「水曜日だけ終わるのが早いんですね。他の曜日だと配達時間に、あの子は在宅していない」
 二人の間にあるA4の紙のマス目の中には水曜日の六番目以外全てに教科名が入っている。
 つ、と時間割に指を沿わせてから月曜日の柴の言葉を思い出した。
「時間割はどうやって手に入れたんですか」
 上部には小学三年生の文字。その辺で気軽に配っているものではない。
「さすがに薊には頼めんかったから、俺の町内会コミュニティでなんとかしてきた」
 柴の調査力はチヒロのそれを上回っているが、こういった情報網もあるのか。
「すごいですね」
 ピースサインを出した柴にチヒロは素直な感嘆で答えた。
「うん。でも怪しいことに使わないことと、今度地域の催し手伝うことは約束したけどね」
 何事も対価がいる。柴は大袈裟に肩をすくめてみせた。
「色んな話も聞いたよ。駅の近くに新しく蕎麦屋ができるとか、公民館の近くのずっと空き家だったトコに人が引っ越して来たとか、時間できて孫に仕事のこと教えてるとか、事務所の裏手の畑で小学生達が芋掘り大会するとか、子どもが坂道でチャリごと派手に転んだとか、年金の話まで聞いた。あれ他人が聞いてよかったんかな」
 チヒロもいつか参加するかもしれない。集まりの雰囲気だけでも伝わるかと、雑談内容を添えたが、指折り数えた後、形容し難い表情になった。
 いらないことまで伝えてしまった気がする。喜ばしい報告はともかく、トラブルごとは依頼以外で聞きたくないのではないか。
 他に話すべきことはないかと意識を当時に飛ばしていたが、ハッと向かいのチヒロに向き直る。
「チヒロくん、ご近所さんの噂になってたよ。俺にも直接訊かれた。『一緒に住んでるの?』『あのカッコいい男の子誰?』って」
 自分の予想外の出現に少し怪訝な顔をするチヒロ。
「そうなんですか?ここに来て大分経ちますし、挨拶くらいはしてますけど」
「その辺りがちょうどよくミステリアスでええんちゃう?」
「はあ」
 納得していないチヒロから珍しく間の抜けた声が返ってきた。興味もそれほどないといった様子だ。柴は脱線した話を戻す。
「話ずれた、ごめんごめん。依頼者と別の配達員になっても、配達時間は変わらず三時過ぎ。時間割から待つのが水曜日な理由は分かったけどなんで毎週やなかったか、が分からんね。今週の水曜日は三時前細かく言うと二時五十分に自転車でどこかに行ってた」
 変化のない家の前をちらと見る。黒い子供用自転車が玄関横に停められている。水曜日、あれに乗って出て行った。
「友達と遊びに行くのか、あとは何か習い事ですかね。今週だけで断言はできませんけど水曜日は、母親が四時二十分ごろに自転車で出かけて、男の子と約三十分後の四時五十二分に戻ってきました。荷物が減ったり増えた様子はなかったので、偶然会ったというより迎えに行ったと考えるのが自然な気がします」
 今週の男の子とその母親の動向をチヒロがさらう。
「昨日、木曜日に家に帰ってすぐあの子が出かけた時は、携帯ゲームのケースが見えたので遊びに行ったと思うんですけど、帰りが五時でも迎えはなく一人で帰ってきてました。ちなみにその時のカバンは水曜日の物とは別でした」
「習い事なら余計に時々いた理由が分からんようなる。毎週ではない習い事ってこと?依頼者はエリアが変わる直前、つまり先週居った言うてるから、月に一回の周期を考えると一昨日は待ってない日で不思議やない……。細かいことが分かっただけで進展はしてないんかな、コレ」
 予想の域を出ない相談に行き詰まりを感じる。二人して力が抜けて背もたれに体を預けた。
「気分で待ってたようには思えないですからね」
「せやねん。月一回休みの習い事ってことか?」
「習い事ってそういうこともあるんですか」
 表情に変化はなく、質問に温度感もなかった。
 チヒロにとって知らないことだから訊いたにすぎないのだろう。
「週に一回を毎週のとこが多いんちゃうかな。運営の仕方によるけど」
 柴は続きの言葉に迷う。
 これ以上は出過ぎた真似だったとしても尋ねずにはいられなかった。
「チヒロくんはさ、環境的に難しかったかもしれないけど、習い事何かしたかったとかないの?」
「ないですね。父さんが教えてくれたことを覚えるのに精一杯でしたし、それで充分だったので」
 すぐに否定されて柴は拍子抜けする。
 言われてみれば当たり前だ。あの六平国重の技術を教わっていて、それに邁進していたのだ。そのためにあの箱庭のような閉じた世界にいたことをチヒロ自身が一番納得していたはずだから。
 チヒロが気にしていないことを柴が気にしても仕方ない。
「それに柴さんや薊さんが器用で、大概のことは出来て教えてくれたじゃないですか。だから俺は俺で楽しかったですよ」
 少し俯いて微笑む。父親との思い出を話す時チヒロがよくやる仕草。
「え、何か教えたことあった?」
 チヒロの微笑みに思い当たるところが柴になかった。
「一番覚えてるのはけん玉ですね。これは父さんも含めて三人とも上手かったです」
 聞いても柴はピンと来なかったが、その仕草に足る思い出がチヒロにあるならなんでも良かった。
 話をしている内に男の子が携帯ゲーム機を鞄に仕舞いながら家を出るのが見えた。友達の家に遊びに行くのだろう。
 自分たちも、そろそろここを出よう。来週の水曜日も来るのだから。



–––二週目 水曜日–––
「前回とほぼ同じですね」
 二時四十八分に家を出た男の子をカフェから確認する。先週水曜日と同じ青いマチのない薄い布カバン一つ持って、同じ黒い自転車で、同じように南方向に向かって出かけて行った。違うことといえば服の色くらいか。
「一回接触してみる?何の習い事か分かれば他に分かることもあると思うんやケド」
 ここで見ているだけでは、先週以上のことは何も分からないだろう。こちらが動かなければ始まらない。依頼は解決するためにある。
「アリです。先週あの子が在宅していることを確認した後、家の前に子ども用の自転車は一台しかなかった。その年ごろの子はあの家に一人しかいないのはほぼ確実です」
 作戦はもう立てている。
「チヒロくんが接触した方がええかな。おじさんと青年だったら青年の方がええやろ」
「落とし物拾った風装うなら大して変わらないんじゃ?母親がいる時に声かける訳ですし」
「せやけど、チヒロくんの方が目いいし、ね」
 時々、柴はチヒロの観察眼を信頼している口ぶりをいつもする。
 あの人の家を訪問した時からか。いつかの事件からか。父さんを知っているからか。
 押し問答するほどのことでもない。チヒロは承諾してダミーの財布を受けとった。



 午後五時五分、先週より少し遅い時間。親子と反対側から歩いて“何か”からの帰り道の二人に接触する。
 十月に入って、五時前でも辺りは随分暗くなった。コンクリートは昼間の太陽光を元気よく反射していたのが嘘のようで、付いたばかりの街灯を静かに吸い込んでいる。
 電柱の影に隠れるのは、実に探偵らしい仕草だとチヒロはぼんやり思う。
 十メートルほど先から自転車を漕ぐ音と話し声が聞こえる。
 耳を澄ますと今夜のおかずについて何やら話しているようだった。
 反対から歩いて近づく。親子がチヒロの横を通った瞬間、忍ばせていた財布を落とす。チヒロはすぐに振り返る。
「落としましたよ」
 自分が落としたのでは、気づいてもらえない可能性がある。落とした物を拾うことを装って近づく。
 徒歩のチヒロが自転車の親子に追いつくには小走りしなきゃならなかった。
「ありがとうござ……
 声をかけられ、自転車を停めた母親は途中まで言いかけて表情を変えた。念の為鞄の中を確認して、もう一度財布に目を落とす。
 母親の隣に自転車をつけた子供は怪訝そうに、されど無邪気にチヒロの顔を伺う。
「拾ったの?俺のでもないよ」
「すいません。私のでも息子のでもなさそうです」
「そうでしたか。なら、これは自分の方で交番に届けておきます」
「ええ、ありがとうございます」
 今の「ありがとうございます」は声をかけてもらったことに対するお礼か。
 親子とも会釈して去っていった。調査するためといえ、こちらを気遣う仕草に胸が痛んだ。



「柴さん」
 道の先に停めてあった車の助手席のドアは柴の手によって開く。
 回り込んだ柴がチヒロに遅れて乗ってきて声をかける。
「おかえり。どやった?」
 柴から伺ったチヒロの表情からは、収穫があったように見えた。
「ありがとうございます。それなりに暗かったんですけど、街灯があったおかげで割と見えました。男の子はカフェから見た通り、前回、今回の行きと同じで持ち物は青い布のカバン一つでした。先週見たような、他の曜日に遊びに行くと思しき物とは別なので、水曜日の用事用の物かと思います。カバンは薄くて、何か厚みのあるものは入ってはいなかったです。隙間からファイルが見えました。そこから透けてたのは多分、楽譜だと思います。あとは、寒かったのか長袖スウェット着てましたね。自転車も先週と一緒の自転車でした。
 母親の方は小さいハンドバックだけだったので迎えにいくためといった感じでした。こちらも自転車も先週乗っていたものと同じです」
 メモもなしに一気に話すチヒロに柴は随時「ウン」や「そ!」の相槌を打つ。
 ひとしきり報告は終えた。
「さすがやな!ありがとう、お疲れ様。
 楽譜は習い事っぽいなぁ。音楽の授業の可能性もなくもないけど二週間連続で、母親がその時だけ迎えに行って、となると友達と練習の線も薄い気するわ。半年間授業準備を毎週やってるとは考えづらいし。何よりバッグに厚みはなかったってことはリコーダーとかも入れてなさそやし、音楽関係の習い事やろか」
「音楽関連で持ち運びなしのメジャーな習い事といえばピアノですかね」
「せやね。ヒナオちゃんにもこの辺のピアノ教室について聞いた方がいいかもしらん。それが分かったら月に一回待ってた理由分かるんかな。『三回目』の言葉の意味も」
「ですね」
 疑問点がなくなった訳ではないが、カフェでただ見ているより彼の実態に近づいただろう。



–––三週目 水曜日 午前一時半–––
「あのオッサン護衛だけって言うてたやろ」
 柴は悪態づく。日を跨いでしまったが、火曜日、例の見張りの前日仕事は、顔見知りの要人の護衛だった。
 しかし、トラブルが発生し、解放されたのは依頼時に聞いていた予定時刻から三時間オーバー。
 二人が自宅に戻った時にはもう短針はてっぺんを超えていた。
 軽食を摂った夕方から時間が経っていて、帰って一番に夜食を食べた。
 疲れているチヒロに作らせるのも忍びなくて、かといって自分が作ろうとしたらチヒロは止めに入るだろう。そう思って、帰りがけにテイクアウトした物を二人で食べた。
 柴はそれらの片付けを終えて、風呂の順番を待ちながらリビングのソファに座りテレビをザッピングする。この行為に意味はない。けれど、何かしないと寝てしまいそうだった。
 後方のドアが開いて「お待たせしました。次、どうぞ」の声がかかる。
 普段よりも覇気がない。護衛はただでさえ気を張るのに、トラブルがあった上に時間が延びたとあっては、さすがのチヒロも疲れているようだった。
「ちゃんと温まった?明日はあの子のとこ行かなあかんから、俺のことは気にせんと寝とって」
「はい」
 力の籠ってない返事と共に隣に座ったチヒロは、今にも眠りそうに船を漕いでいる。
 ………隣に座ったな。
 眠いのにソファに座ったこと自体も驚いた。
 が、隣に座ったことに何よりも驚く。
 最近のチヒロは柴の近くに来ることを避けていた。
 向かいで座ることは数あれど、隣に来ることはなかった。ここ三週間、車内の狭い空間だけが、そうして並ぶことを許していた。
 ずっと近づいて来なかった猫が側に来てくれたようで嬉しくなったが、柴は一瞬で我に返る。
 寝ぼけているからか?
 冷静になると意識して避けられていたことが確信に変わり、切なさが込み上げてきた。
 ……前に肩を触ってしまった時も思うたけど、やっぱり俺、チヒロくんに触れたいんやな。
 頭では行為の代償として理解しているのに、触ることを許して欲しいと縋ってしまう。
 不誠実な願いは、今の寝不足と疲れで回り切らない頭では暴走しそうで危なっかしい。
 チヒロに触って拒絶されるのは分かっていてもダメージが大きいので避けたいところではあったけれど、この際仕方なかった。
 現実問題、この状況は打破しなければ。明日だって仕事がある。
 肩に手をかけて声を少し大きめにして呼びかけた。
「チヒロく」
「柴さん」
「おお、どしたん?」
 思わぬレスポンス。予想外の展開に肩から手が離れた。
「明日、楽しみ、で。ね」
「うん?」
 言って満足したのか、チヒロは背もたれに頭を預けて寝た。
 寝た……。明日?何かあったかな?
 感覚的な明日は今日、水曜日のことか。
 電話もしくはメールで依頼の話聞くか、男の子の張り込みくらいしかないけどな。
 日付的に明日、木曜日なんて今のとこ事務仕事オンリーやけどどれも楽しみか?
 柴が悩んでる内に三十秒もしないでチヒロはハッと目を覚ました。
「すみません、寝てました。柴さんの言う通り先に寝ますね。おやすみなさい」
「うん、おやすみ……
 ハキハキした様子は眠りかかっていたのが嘘のようだった。さっき口走っていたことは覚えているのだろうか。明日訊いてもいいものだろうか。
 俯き加減で歩くチヒロが確かに寝室に入っていくのを見届けて風呂に入った。



–––三週目 水曜日–––
「『楽しみ』って昨日言うてたけど。なんか他に用あった?大丈夫?」
 指定の席に座ってから、いの一番に柴は尋ねてしまう。
 自分勝手に悩みながら接していたことを隠して訊くのは後ろめたかった。
 それでも、予定を確認し直したとはいえ、万が一他に大事なことがあって、それが抜けているのだとしたらまずい。
 罪悪感があっても伝える他なかった。
 午前の依頼話もイレギュラーはあったとはいえ、楽しいものでもなかった。依頼は浮気調査で、これまたよくある話。イレギュラー部分が多少面白かったとしても予想がつくものじゃない。
 顔を顰めたチヒロが、
「いや、あまり覚えて、ないですね」
 普段からは信じられない程歯切れが悪く否定した。
 柴から目を逸らしてチヒロは思い出す。
 コーヒーカップを自分の方に寄せて、さも飲みたかった様に見せて、落ち着いている風を装う。
 覚えていないのは本当だった。けれど、心当たりがある。
 この一ヶ月近く、徐々に気まずさは抜けていても以前の二人の距離感と変わったことは確かだ。
 柴の横にいて当たり前だったのに、それに対して気持ちが揺らぐ時間が多かった。
 自分のせいで柴さんにあんなことをさせてしまった。その気持ちは本物なのに、気持ち良くなったのも、嬉しかったのも本当だったから。でも、そんなことは伝えられるわけもない。
 複雑な日々の中で調査のために三時付近に落ち着いて共にいられるこの時間は、チヒロの中で特別なものになっていた。
 個室に近い空間で二人きりが保たれているが、程よく他人の存在があり、話の種も通り過ぎる街の人たちが提供してくれる。
 考えずとも簡単に“楽しみ”だったことの予測が自分でついた。
……覚えてないです。変なこと言ってたのならごめんなさい」
 あの夜から、柴に対して隠しごとばかりだ。
「いや、昨日大変やったからね。楽しみな気持ちが今日やなかったとしても、どっかで叶うとええんやけど」
 こちらを気遣った言葉に、
「叶ってますよ」
 の一言が反射的にチヒロから出た。
 まずい。つい口をついてしまったけれど、これなら言ってもおかしくなかっただろうか。
 撤回しようと顔を上げた先に、
「ホンマに?午前のそんな楽しい依頼やった?」
 眉間に皺のよった柴の顔を見て表情が緩む。
 普段は誰よりも物事に敏感な師匠に全く伝わっていないことがやけに面白かった。



 カフェの時計が二時五十五分を指す。
 男の子が帰宅するところは確認しているが、目前の家に変化はない。
「今日まだ出かけへんな」
 言われてチヒロも再度、時計に目をやる。時計は正確で、携帯に表示される時刻とも一致している。
「本当ですね、遅刻とかですかね」
 彼がどれだけ時間に正確かは分からないけれど、そんな日もあるかもしれない。
 そう思って家の前を見ていた。
 三時を一分すぎた時、慌てて男の子は出てきた。
 だが、その手に例のバッグはない。今までこの時間に乗って出ていた相棒の自転車も玄関の横に停まったままだ。
 手ぶらでどこに行くのかと注意して見ていたが、男の子は門の横、ポストの横で立ち止まって動かなかった。
 これは依頼者が言ってた行動じゃないか?
 その姿を二階から見過ごすまいと、二人集中して見る。
 男の子はポスト付近をうろうろしても、その場から遠く離れない。家に戻ることもない。
 すると、三時八分に依頼者ではない配達員が来て、郵便物を受け取った。すると男の子はすぐに家に引っ込んだ。
「今日は習い事行かなかったんですかね?手ぶら……
 チヒロは言いかけて気づいた。
「月に一回じゃなくて三週間に一回なんじゃないですか?」
 思案していた顔を上げれば柴と目が合った。その顔は自分と同じことに気付いた顔だ。
「思た」
「男の子が言っていた『今日が三回目』は、会うのが三回目だったのではなく、『三週目』だから会える」
「前から不思議やった。月に一回『くらい』言うてたのが。毎月第一水曜日とかやったら段々覚えるようになると思うけど、ちゃうから覚えられなかった」
 柴もチヒロも席から少し身を乗り出して答え合わせする。
「ここ半年なら、水曜日が祝日の日もありますし、夏休みも挟むからほぼ月に一回だったとしてもおかしくない。三週間に一回だったことでむしろ不定期に見える。前回、月に二回になったのは依頼者が異動するからだと本人は思ってましたけど、一ヶ月の内に二回待てるのが周期的に先月だっただけ。男の子は人事なんて知るはずもないですし」
「となると、今日が三週間に一回の待っていられる日やった訳か」
 捲し立てるように確認し合った後に、誰もいなくなったポストを二人とも見つめる。
「あの子の望みは叶ったんかな」
 柴の彼を慮る言葉は、哀愁が漂っているようにチヒロには聞こえた。
 どうだろう。待っている理由は未だはっきりしないけれど、家に戻っていくその姿は肩を落としているように見えた。
「まあ、もうちょっと見てよか。これから動く可能性もなくはないから」



 男の子は引っ込んだきり出てこない。
 家にもカフェにも特に変化はなかった。
 店の前を通る人は郊外でゆったりとした場所らしく、急いだ様子はない。男の子の帰宅時間から間を空けて帰ってきていた小学生も半袖はいるが、先々週より割合が落ちたように見える。反対に、一度だけマフラーを巻いた人も通った。風に乗ってくる落ち葉は、西陽に照らされて赤みがかっている。
 雑談も落ち着いて、二人ともそれらをなんとなしに見つめていた。
 紅茶を飲む目安に置かれている砂時計を手持ち無沙汰でひっくり返した柴が呟く。
「この時間、お腹減るね」
 出来るだけ迷惑がかからないように、目立ちすぎないようにと、場所代とは別に食事やドリンクも頼んでいるので、水曜日の昼食はマスター特製のナポリタンが続いている。
 それを食べた後だが、所謂おやつの時間を過ぎた。たしかに小腹が空く頃だ。
 他の食事メニューにはクラブサンドやケーキもある。
「追加で何か食べてますか?俺には気遣わなくていいので」
 メニューは、マスターによってカウンターに下げられている。
 声をかけようかと、チヒロが手を挙げた時にその手首を掴まれた。
「待って。頼まんでええよ」
 二人の間の時が止まる。
 触れられた瞬間、チヒロの心臓が跳ねる。
 三分の一になったアイスコーヒーに溶け切らない氷が押し合ってカランと音を立てる。
 その音で我に返った柴が、驚いたチヒロの顔を見て慌てて手を離した。
「ごめん。追加はええよ」
 その言葉が言い終わる頃には、チヒロは西陽という言い訳も効かないくらい赤くなっていた。
「分かりました。あの」
「うん?」
「柴さんも俺に触っても謝らないで下さい。びっくり、はしますけど、それは俺の問題なので……
「ええの?」
 食い気味に柴が訊く。
「柴さんは俺に不必要に触ったりしないでしょ。声かけてくれた方がこちらの心の準備はできますけど」
 所在なさげにチヒロは机の上に視線を走らせる。
 態度とは反対に声は明瞭で聞き取りやすく、伝えようとする強い意志が乗っていた。
 本音を言えば不必要に触りたいと思っていることは柴といえど、流石に言えなかった。
 代わりに曖昧に答えておく。
「良かった。声かけは……努力する」
 柴の返事に満足したのかチヒロの表情が柔らかくなる。
 一度流れた和やかな空気に柴が割って入った。
「止めた訳だけ話させて。急に掴んだのはホンマに良くなかった、ごめん」
 これは触れたことよりも、やりすぎたことへの謝罪だった。
「今日チヒロくんグラタン作る言うてたやろ?」
 続く発言にチヒロは上手く反応できない。
 確かに今日の朝、残った食材を見た時に思った。自信はないが雑談に混えたかもしれない。
「昨日もそうやったけど、ここのところ忙しくてしっかり時間とれへんかったから。ちゃんと二人でチヒロくんのご飯を万全の状態で食べたいなって。本当にそれだけなんやけど、反射的に止めてもうて……。頼む代わりに、なるかは分からんけど、明日シャルちゃん来るかもしらんからクッキーでも買って帰ろ」
 チヒロは言葉に詰まった。
 二人の時間を特別視していたことが自分だけじゃないことが堪らなく嬉しい。
 何かポジティブな言葉を返そうとしたが、笑むだけで精一杯で強引に
「がんばります」
 の一言のみ引き出した。



 五時まで見張りを続けても男の子は現れなかった。
 今日は習い事がなかったのだろう。



     *



「この地図なに?この辺?」
 翌日、柴の勘は当たって、シャルが遊びに来た。
 前日買った焼き菓子のセットを食べ終えて満足した彼女は、机の上に置かれた丸印付きの地図を見つけて問う。
「あ、置きっぱなしにしとった。近所なん分かるのシャルちゃんすごいな」
「ここのコンビニ、先週の夕方、ヒナオと行ったばっかだから分かるよ!」
 シャルが指差したのは大手チェーンのコンビニエンスストア。
 あの子の家からもさほど遠くない。家の前の道を南にまっすぐ進めば、徒歩十分ほどでそのコンビニに辿り着く。
 丸をつけていたのは男の子の家だけ。この後、自転車で十分以内の周辺ピアノ教室をヒナオから教えてもらい、丸をつける。加えたそれが、この地図は解決に導いてくれるはずだ。
 片付けた地図の前でシャルは一生懸命、チヒロに身振り手振りで伝える。
「コンビニであの漫画のグッズ買ったの。限定だったから、そこの店の」
 漫画とは前々から好きだと言っている侍が出てくるもののことだろう。その頃、宣伝ののぼりを見かけた。
「買おうとしてたらもうあと一個だったけど、私に譲ってくれたの。男の子が」
 微笑ましく話を聞いていたが、二人は引っかかりを覚える。
 "先週"とシャルは話していたけれど、確かそのキャンペーンが始まったのは水曜日だ。
 "夕方"に五時前の時間は含まれるのではないか。
 その日、親子の帰りは、一週前より十五分だけ帰りが遅かった。そういうこともあるだろうと、スルーしたけれど、それにも理由があったのかもしれない。
「その男の子自転車で来てなかったか?」
「う〜ん」
 チヒロの質問にシャルは絵に描いたように頭を抱える。
 数秒悩んで、きつく結んでいた目を開いた。
「来てたかも。お母さんが外で自転車乗って待ってた」
「ありがとう!」
「何が?」
 食い気味な柴の返事にシャルは事態を飲み込めずに面喰らう。
 困惑したその顔と目を合わせてチヒロは訳を話す。
「俺たちへの依頼がお前のお陰で解決に近づいたんだよ。ありがとう」
 チヒロの感謝の言葉にシャルはパッと顔が明るくなる。
「ホント?チヒロの役に立てたならよかった!」
「うん。お礼じゃないが、今度新しく蕎麦屋出来るらしいから行こう」
「行く!私、天ぷらそばがいい!」
 シャルを送ったその足で柴とチヒロはハルハルに向かった。



「ということで、この子知らん!?」
「おじさんうるさいし、勢いヤバ」
 ハルハルに入るや否や、単刀直入、話し始め早々の柴の大声にヒナオは眉を寄せる。
 人避けをしてもらった店内は三人しかいない。大声を出しても柴以外の二人が呆れた顔をして終わった。
「この子なんですけど、シャルの話だと先週、ヒナオさんと一緒に行ったコンビニで見かけた、と」
 差し出す写真と情報、成り行きを聞いて彼女はあっさり頷いた。
「うん。ここで見たね。長袖のスウェット着て、黒い自転車乗ってるこの歳くらいの男の子」
 さっき、シャルと一緒に見た地図には丸印が一つ足されている。
 新たに目印に加えられたそのコンビニを指差し彼女は話した。
「顔をしっかり見た訳じゃないから絶対の自信はないけど、時間と特徴は一緒だし同じ子だと思うよ。先に買い物終わらせてたお母さんぽい人もいたし、カバンの色は青だった気がする。それに、シャルちゃんもここで一緒に見てた訳でしょ。シャルちゃんって記憶力いいから間違いないんじゃないかな」
 シャルが話していたことにヒナオの情報が加算されて、目撃情報があの子の形を帯びていく。
 彼女達はもちろん、ハクリや自分ら周りの人々の記憶力には頭が下がる。
「ありがとうございます。そこまで来たら習い事の帰り道に母親と一緒にこの店に寄ったことは確定ですかね」
「うん。あとはピアノ教室かどうかやけど」
「ピアノ教室ね、聞いてたから調べといたよ。ちょっと待ってて」
 一度、奥に下がったヒナオがメモを持って戻ってきた。
「まずココと、ココ。あとはココ」
 持ってきたそれと照らし合わせて、ヒナオが地図に指をさす。その場所に次々に丸を付けていく。
 それらは、事前に頼んでいたいた通りに、男の子の家を中心に自転車で十分以内の三箇所に散らばった。
 一つは、道を北に行った先にあるもの。進む方角から違う。それにコンビニとは真逆の方向で、帰り道に寄るとすれば、必ずもう一度柴たちが張っていたカフェの前を通らなければならない。ここではない。
 もう一つは、南側ではあるものの、男の子の家から近すぎた。ともすれば徒歩で歩く方が早く着く。ここでもない。
 最後の一つは、自転車で十分以内ギリギリの南に進んだところにある。一番それらしく見えたが、ここは、ピアノをメインに音楽教室として、歌やヴァイオリン。バラエティに富んだ授業内容で、全国規模の展開をしている。そんな大規模な教室が三週間に一回も休みにするかは怪しかった。何よりも、ここは施設の老朽化のため、その場での営業は一ヶ月休みにしていたらしい。ここではないのかもしれない。
「うーん。ピアノ教室じゃないんかな」
「あちゃぁ、違った?でも音楽教室ってこの辺で他に聞いたことないけどな」
 悩むチヒロと柴の横で釣られてヒナオも顎に手を添える。
「俺も聞いたことないですね。全国でやってる規模感ならピアノ以外もやってるでしょうけれど、候補になった店舗自体が閉じていたなら結局同じですよね」
「俺も聞いたことないなあ。ピアノ教室、というかそもそも習い事いう推理の上やからそこから調べ直しか?」
 チヒロの頭の中で何かが尾を引いている。
 習い事のピアノ教室、寄り道のコンビニ……蕎麦屋。
「あ」
 チヒロが珍しく発した意味を持たない声に、柴もヒナオも揃って顔を上げる。
「どしたんチヒロくん」
「柴さん、前、地域の集まりの時に言ってませんでしたか?」
「空き家のこと?あれな……ああ!」
 ピンと来た柴が目を見開く。チヒロの考えを完全に理解したらしい。
 今日は弟子が一歩先をいったようだ。
「何なに?全然読めないんだけど」
 二人のわかり合った視線の横でヒナオは困惑する。
「柴さんが前言っていたんですよ。『孫に仕事のこと教えてる』人がいるって」
 チヒロも柴も説明するためにヒナオの方に向き直る。
「それが?」
「ヒナオちゃんにも話した通り、用事が三週間に一回ないっていうのが前提としてあるんやけど。俺らの予想通りピアノじゃなくても習い事やったとして、三週間に一回休みってちょっと多ない?もちろん絶対ないとは言わんけど、珍しいタイプやと思う」
 指を折り曲げて三を作る柴。推理のやり取りは師弟には手慣れたもので、交互に話を受け持つ。
「教える側に三週間に一回休まないといけない理由があって、それに教わる側が合わせられるとしたら?定期的に病院に行くとかで仕事としては満足にいかない。毎週やる用にはいかないけれど、孫に教える分には申し分ないのなら。ヒナオさんがシャルと見た時にその子は長袖のスウェットを着ていたんですよね?」
 ヒナオは記憶を辿る。尋ねられても、男の子は長袖のスウェット姿でしか再生できない。半袖を見たことがないから想像するのも困難なのだろう。
「うん。着てた」
 頷いたヒナオを見て、探偵たちの顔は確信に変わる。
「行き道を俺が見た時点では半袖でした。あの子の持ち物はヒナオさん達が見たのと同じで、出かけた時も帰ってきた時も、薄い青の布カバンだけ。あの時、迎えに行った母親もハンドバッグ一つで長袖が入る大きさではなかったんです。それなら、出かけた先で着替えが置かれている可能性が高い。普通の習い事ではここまでしないと思います。でも、そこが祖父母の家なら孫の着替えを置いていてもおかしくない」
 ここまで話を聞いたヒナオは確信した顔をして頷く。
「その子の苗字って何?一年前に畳んだ個人のピアノ教室がある」



      *



「ええね。背の高いお姉さんとの初恋」
 カフェから二人の再会を遠目に見ていた柴が溢す。
 ピアノ教室の名前と男の子の苗字は一致した。
 探偵たちは、間に入って二人を引き会わせた。
 “待ってます”の言葉は郵便物などではなく、依頼人自身に当てられた言葉だった。



 柴とチヒロが見下ろす先は、男の子の家のポスト横。
 ずっと見張っていた場所だ。
「“待ってます”の手紙は自分の住所でも書いたんでしょうかね。届ける時に受け取れなくても、何か気づいてもらえるかもしれない」
「うん。でも、あの家に届く手紙は沢山あったらしいから埋もれてしもうたんかな」
 柴がいつになくゆっくり話す。こんな心温まる依頼はなかなかない。
「あの子が家の中でなく、ポストで待っていたのは彼女から受け取るためだったんですかね」
「せやろね。バイクの音に気づいて向かっても投函したら即、次の家に行くやろ。家ん中からやと間に合わないかもしれへん。けど、依頼者が俺んとこ配達しに来た時みたく、家人がすぐ近くにいたら十中八九その人に渡す。受け渡しができひんほどあの子は小さくないし。やから、話聞いた時から郵便物っていうより本命は配達人の方かな、思ってた。少しでもその場にいてほしかった、知り合いたかったんちゃうかな」
 柴の言葉通りといったところか。
 目線を合わせて笑みを浮かべる依頼人に、頬を紅潮させて彼は一生懸命話している。
 柴の言うようにチヒロの目にも、十以上歳の離れた恋模様は眩しく見えた。
 なぜ、思いつかなかったのだろう。
 俺とは違って、依頼人と男の子は男女の二人だ。是非はないが、世間のマジョリティではある。
 自分がそれらと縁遠い人生を歩んできたせいか、その辺りの勘が著しく鈍い。
 もっと経験や見聞があれば柴のように気づけていたかもしれない。当事者になったのが最近のことだからと、言い訳が浮かんで消えた。
 いずれにせよ、
「俺たちがいたことで二人が話す機会を設けられたので良かったです」
 依頼人がこの話を持ち込んでいなければ、二人はすれ違ったまま、会うことも難しかったかもしれない。そんな切ない結末を迎えなかっただけきっといい。
「そこが一番やな。あとは当人達の問題やから」
 窓から見える二人。
 柴の柔らかな表情。
 穏やかな光景の中で『お姉さんとの初恋』の言葉にチヒロの胸がチクリと痛んだ。
「柴さんは初恋って」
「ん?聞きたい?」
「いや……
 気にならないはずがない。
 でも、その口から誰かの名前を聞くのは、たとえ柴の片思いで終わっていたとしても辛い。
 俺には柴さんしかいないのに。
 子供染みたチヒロの独占欲がこれ以上顔を覗かせる前にと、黙ってしまう。
 すると、柴はチヒロの答えに先んじて自嘲した。
「おじさんの恋話なんてええか。あの子も初恋か、恋じゃないかも分からんし。いつか思い出くらいで終わってまうもんかもね」
「そうなんでしょうか」
 男の子の真剣な眼差しは俺と同じに見えた。
 きっとあれは初恋だ。
 あの子も俺も、まだ、思い出には出来ない。