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スヲマシ
2024-10-01 20:12:49
37575文字
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探偵パロ
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陸にはいられない
師匠探偵の柴さんと助手兼見習い探偵のチヒロくんの探偵パロ
ベースは柴さん(←)チヒロくん片想いの柴チヒです
ハクリくんが巻き込まれ体質で容疑者の一人になります
※殺人未遂事件が起こります
容疑者だったり名無しのモブがかなり喋ります
キスマークを付ける程度のいかがわしい描写が少しだけあります
ご自身の判断でお読み下さい
「表面上はカップル専用のダンスパーティーで、実態はドラッグ使っての乱交パーティーねえ
……
趣味悪いわー。薊とヒナオちゃん、両方からの依頼やなかったら断ってんで」
現地に向かう道すがら悪態をついた後、柴は依頼の紙を見直してから落とさない様に小さく畳む。
パーティーへの潜入とだけあって柴・チヒロの両名とも正装をしている。
いつもの服装だったら存在しない、ジャケットの内側の胸ポケットに依頼書を深く入れれば、きっと落とすことはないだろう。
柴は自身の頭を触ろうとしてその手を下げる。セットが崩れては困るから。
いつもは後ろにやっているだけの髪を整髪剤で撫で付け、綺麗にまとめていた。大抵跳ねている後ろ髪もどういう訳だかまとまっている。
それを不思議に思ったチヒロが出かける前に尋ねれば、
「コツがあんねん」と、答えになってない答えが返って来た。
たらりと垂れるひと束の前髪だけは平時の柴を思わせる。
「ポリシーやから」変えないそうだ。
チヒロといえば、短髪なのでセットが難しいかと思いきや、柴はものともせずに髪をまとめてみせた。普段と違う分け目を作り、ヘアアイロンで根元を立ち上げる。いやらしくない程度に整髪剤をつけて、正装であることをアピールする。
これにはチヒロも器用なものだな、と素直に感心した。
「聞いたからには見過ごす訳にもいかないですし、がんばりましょう」
日常とは違った服装で、日常と変わらない温度で、チヒロは淡々と決意を口にする。
そんな姿を柴は、満足気に見降ろしていた。
探偵としての心構えへの高さからではない。いや、それも勿論あるが、自分がした彼のコーディネートの完璧さからだ。
家を出る際も移動の時も
「もう分かりました」
チヒロがそう呆れるくらい褒めた程だ。
黒いジャケット・パンツ・ベスト。古き良きスリーピース。ラペルが尖ったデザインをした品のあるそれは喪服とは一線を画す。胸に輝くポケットチーフは濃い朱。ベストに綺麗に収まるネクタイはスーツと違った質感の黒色の中に、目立たない程の細さでアクセントに朱が入っていた。どちらも彼の目を思わせる。
普段の姿からかけ離れぬ色味でありながら、いつもとは醸し出す雰囲気が全く違う。
気品を感じさせるその姿に柴は、何度見ても完璧やな。と、心の中で自画自賛をしたところで、下から見つめられていることに気付く。
そういえば、返事をしていなかった。
「ウン、がんばるけども。危ないやろ、そんなとこ。しかもチヒロくんとカップルて。親子の方が自然やろ」
つらつらと今回の潜入に対する自身の不満をあげてみる。
柴の一番の不満は危険な場所へ向かうこと。
危ない目に遭わせることを柴が、いつも嫌がっていることをチヒロは充分理解していた。
探偵の助手をしているのだから、今更ではないかとチヒロは思うが、何度そこを指摘しても唇を尖らすだけ。親心に近いものがあるのか、念を押す様にいつだって心配する気持ちを伝えて来ないことはなかった。
だから、もうそこには口を出さず、二つ目の不満をチヒロは消しにかかる。
「カップル限定のパーティーに親子がいる方が不自然でしょう。幸いにも性別は問わないものらしいですから」
「せやけどなあ」
まだ納得出来ないらしく、歩き辛いだろうに腕組みをしてみせる。
柴だって歳に見合った正装をしているのに、その姿は男児が駄々をこねる様で、今にも足元にある小さな石を蹴り飛ばしそうだ。
「にしても遠いな。みんな送り迎え付きなんやろな」
上手く抗議を躱せなかった柴は現状の整理をし始める。
確かに、駐車場に車を停め、歩き出してからかなり経つ。
ここはコンテナが積み上がる海辺の倉庫街。
歩き続けても、せいぜいコンテナと倉庫の色が変わるくらいで、面白くも何ともなかった。
人の気配はない。いくら木を隠すなら森といえど、麻薬のパーティーを人目につきやすい場所でやる訳にはいかないだろう。
コンクリートに絶え間なく波が打ち付ける音と、遠くでコンテナを動かす重低音が聞こえる。その音たちが二人だけの世界ではないことを主張していた。
誰とと、言うわけでもないけど、デートには向かへん場所やな。などと柴は思う。
空いた手でジャケットのボタンをいじってしまうのは、歩き続けた熱さからだろうか。
柴の方は、上下とも黒のツーピース。閉じたジャケットの下には平時を思わせるサスペンダーも着けていた。ポケットチーフは紙の色と似たクリーム色。黒の蝶ネクタイには朱のストライプが細く入っており、相方であるチヒロの存在を思わせる。
ともすればコミカルになりそうな服装だったが、そこは本人の魅力で抑え込んでいた。
ベストを着ていない柴の服装は、チヒロよりいくらか涼しく動きやすいのに、それでも堅苦しさを感じるらしい。
「まあ、俺はチヒロくんの護衛やからな」
思い出したように、手遊びを止めて襟を正す。
「護衛って」
助手としては逆だろうと、チヒロは思う。
探偵と助手でありながら、師匠と弟子である二人の不思議な関係は、もう3年以上続いていた。
二人とも武術に長けているが、チヒロは剣技が専門。木刀を持ち込めない今回は、素手の柴の方が圧倒的に強いのだから黙る他ない。
自分の服装を直したついでに、チヒロの服装に乱れがないか確認する柴に
「柴さんもその格好似合ってますよ」そう声がける。
本日、三回目の柴への褒め言葉。着替えた時、家を出る時、今の三回。
もっと褒め言葉のレパートリーがあればいいのに。脳を過った考えが消えるより先に、柴がご機嫌に答える。
「何回もありがとう。おじさん褒めてもなんも出えへんけど、チヒロくんに褒められるんは素直に嬉しいな。俺も似合ってるやろうけど、チヒロくんは自分の想像の何千、何万倍も似合ってんで。俺チョイスやしな!」
自分が発した褒め言葉よりも、いっぱいの褒め言葉が返ってきた。
これ以上の褒め言葉の応酬は幸せだが、これから向かう怪しいパーティーのことが浮かんできて、落差に沈みかねない。
「何万もですか」
「そ!もっと言ってもええくらい」
軽口を叩きながら足を止めずにいれば、ようやくコンテナと倉庫以外の建造物が見えて来た。
利便性以外のための用途がその建物の背後には見える。それでいて、周りの景色から浮きすぎない、倉庫を改装した教会のような不思議な出で立ち。
五階建ての高さと言えば妥当だろうか。
ちょうど陽は暮れたばかりで、外灯のない建物は闇の中に紛れている。
この辺りが子どもの遊び場だったら、度胸試しの定番スポットになったかもしれない。一見すれば綺麗な建物なのに、そんな不気味さがこの建物にはあった。
大きな入り口の扉はゆうに十メートルを越えていて、開けるのすら苦労しそうだが、パーティーの内容が内容だ。開け放しにはしないだろう。
扉の前に立つ。
「じゃあ、話した通り恋人のフリで行くから。いつもより距離近いし、接触するやろけど我慢してな。本当にごめんけど」
小声で早口に伝えれば、チヒロはゆっくり頷いてみせた。
親友の息子。後ろめたい気持ちが柴にないはずがない。
この依頼を聞いた時だって、危険を伴うので助手のチヒロを連れて行かず、一人で行こうとした。
しかし、蓋を開けてみればカップル限定の文字。見ず知らずの女性を連れて行けば、調査が滞りかねない。かといって、柴の知り合いの女性など、怪しい人間か刑事ばかりだった。ヒナオも依頼して来ている以上、この催しに関わるべきではないのだろう。
同伴者によってバレる可能性は少しでも下げたかった。
幸か不幸か、カップルは同性も可だった。
「チヒロくん、本当にごめんやけどコレ
……
」
「いつ言い出してくれるのかと待ってました」
おずおずとチヒロに話を切り出せば、自分が誘われたことに安堵したのか、普段より穏やかな顔になるから、これは敵わない。そう思って、ついて来てもらう事に決めた。
ここまでチヒロを連れて来てしまったからにはもう、ジタバタしない。
「よし!」
柴の言葉と共に、チヒロが子どもの時以来だろうか。
手を繋いで進んだ。
ギィ
———
重さを載せた音がして、扉がゆっくり開いていく。
耳を塞ぎたくなるような、金属特有の不快な音が十秒ほどしてやっと扉は開いた。
奥から恭しくお辞儀をした男が、胡散臭い笑顔を作って出迎える。
歳は五十前後だろうか。左右対称に決まった蝶ネクタイが、どこか鬱陶しかった。
「ようこそ、おいで下さいました。不躾で大変恐縮ですが、招待状はお持ちでしょうか」
「はい」
チヒロはポケットから光沢のある紙を取り出す。
潜入のために薊が用意してくれた物だ。
男は紙を受け取って、まじまじと見る。
「恐れ入ります。はい、確かに」
もう一度丁寧に畳み直して、今開けたばかりといった綺麗な状態で返してきた。
それから、また笑顔を貼り付ける。
「私はここの支配人を勤めております。あいにくですが、一つお願いがありまして
……
」
含んだ言い方に、柴もチヒロも揃って訝しむ。
そんな話は、薊からもヒナオからも聞いていない。
今からやることで済むのだろうか。ここまで来て蜻蛉返りは絶対に避けたかった。
「ここから先の録音・録画、携帯電話の使用を禁止させて頂いております。これを破られた場合、データを消去するのはもちろんのこと、身体検査の後、機器の没収。加えて、退場して頂くだけでなく、今後一切我々の主催するイベントを出禁とさせて頂きます」
支配人は、スッとトランシーバーに似た何かを取り出した。
「このような電波を遮断する物や、会場内には盗聴器なども設置しています」
想定外のお願いは、かなり厳重なものだった。
折りたたみ型の携帯電話が世に広がって久しい。
手元の機器さえあれば、録音も録画も写真撮影だってお手のものだ。それを一切使うなというのだから、やはり怪しい催しなのだろう。
こういった場では、切り抜いた一瞬だけでも証拠になりかねない。疑わしきは罰せず、なんて世では言うが、こうした業界では疑わしきは罰せよ、なのだ。
携帯電話は、ほぼ使えないと見ていい。
「ほんまに?せっかくのパーティーやのに。何も記録に残せんのか」
その場で聞かされた注意事項に不満気なフリをすれば、管理人は頭を下げる。
「申し訳ございません。写真等は会場外でお撮りいただければ。映画館内と思ってお過ごしくださると幸いです」
ものは言いようだ。映画館のような健全さとは程遠いというのに。
「しゃあなし。まあ、ここで取られないだけマシやな」
「はい。良いように受け取って頂けたようで、私どもとしても大変助かります。そもそも何かある訳などございません。セキュリティには万全を期しておりますので」
当然、セキュリティは厳しいだろう。
麻薬を乱用する場で緩い警備をされてはこちらも困惑だ。
呆れそうになりつつ、柴は相槌の代わりに笑顔を見せるが、どんな対応をされても男の笑顔は仮面を貼り付けたように全く動かない。
そんな顔のまま、目だけをギョロギョロと動かして、二人がこの場に相応しい人間かを上から下まで確認していた。
……
どうやらお眼鏡に適ったらしい。
回れ右が如く、規則正しい動きで後ろへと歩み出す支配人。
「では、私に続いて下さい。ざっとですが、場内を案内させて頂きます」
男に着いていけば、後方で扉が閉まる重苦しい音がした。
「あの支配人、年季は入ってるけど雇われやな。何か繋がりが見つかるとええんやけど」
腹話術で口を動かさず、表情を変えず、支配人との距離を保ちながら喋る。近くに人の影はないが万が一のためだ。
繋がりとはチヒロの父、六平国重が巻き込まれた事件のこと。
裏社会の何かの動きによってチヒロの父は殺された。チヒロはそれを探るために柴の元で学んでいるのだから、そのことに少しでも関係ありそうな依頼なら、何だって取りこぼす訳にはいかない。
麻薬を使ったパーティーなんて、市井の人々は関わらないだろう。裏社会の人間たちの出番だ。そうなると、この依頼だって関係ないとは言い切れない。
空振りに終わることも多いが、思いがけないところから情報を得ることもあるのだ。
事件のあったあの日のことを思い出して、チヒロの拳に力が入る。
柔らかいシャツの生地が指に触れて、我に返った。
様子がおかしいと、潜入が悟られては堪らない。
支配人の後に柴と共に続く。
途中で分厚い扉を二回抜ける。三度目の扉を抜けた先には、外観からは想像もつかない、嘘のような光景が広がっていた。
豪華な体育館。いや、客席がダンスホールに変わった劇場と言った方が適切だろうか。
天井まで続く丸い吹き抜け。それを支える大きな柱。外観の通りコンクリで出来ていたが、打ちっぱなしではなく、暖かな色味の塗装でそれをカバーしていた。
期待を裏切らないというべきか、窓は見渡す限り一つもない。生活するための建物でないことは明白だ。
吊るされた巨大なシャンデリアは飾りらしく、目線とほぼ同じ高さにあるはずなのに眩しくも何ともない。中世の踊り場の様なのに、ギラギラと光る照明やバーの雰囲気がチグハグで気持ちが悪かった。
見上げてみれば見たことのない天井画。天使が毒々しい色で描かれ、お世辞にも趣味が良いとは言えない。よく見れば天井画の所々に照明が備え付けられている。じっくり見たい絵ではないけれど、雰囲気を台無しにするには申し分なかった。
自分たちがいるのと同じ階の一階には、円形の廊下が丸い壁に寄り添うような形で手すりとバーカウンターと共に連なっている。すでに何組かカップルが飲んでいて、雰囲気作りに一役買っていた。
「一階はホールを見渡せるバルコニーとバー、地下一階はダンスホールとステージになります。音楽隊は常におり、スタッフはバー周辺を中心に配置しております。クロークをご利用の場合は不便で申し訳ありませんが、それぞれの階の奥にありますのでご活用ください。私とまた会うことはそうそうないかと思いますが、お見かけした際は遠慮なくお声かけください。疑問等がありませんでしたら説明は以上になります。どうぞいってらしゃいませ」
先を促される。最後まで支配人の笑顔は崩れなかった。
とりあえず、と一階のバー周辺に向かう。ホールを見降ろせば、百人はくだらない人々が思い思いに動いていた。
隠れて薬を渡すには持ってこいのこの場も、出来る限り調査したいが、ずっと廊下伝いに歩き回るわけにもいかない。空いている席に腰掛ける。不審がられない程度に視線を動かせば、二人はある一点に目を奪われた。
知っている顔がそこにいたのだ。
「ハクリ!」
「ハクリくん!」
己を呼ぶ声に振り向けば、ただでさえ大きな目をさらに見開く。
見慣れた姿に安堵した様で、子犬を思わせる表情で小走りにこちらへ近づいて来た。
「チヒロに柴さん!」
遠くから見た時はスーツか?参加するのか?と動揺したが、近くで見ると、どうやら違うらしい。周りにチラホラいるスタッフと同じ姿だ。
白い手袋に、高級感はありつつも量産らしい黒いスーツ。この場ならすぐに群衆に紛れられそうな落ち着いた装い。左胸には偽名が書かれた金の名札がキラリと輝く。
頭髪も普段よりキッチリとセットされてはいるが、トレードマークの黒い紐は、いつもと同じように顔の左横で白髪を纏めていた。
「ほんま現場でよう会うね。今夜はどうしたん?」
周りには聞こえない様に注意を払いながら、小声で訊ねる。
「ここには父の命令で来たんです」
釣られて小声になるハクリからは、案の定と言った答えが出てきた。
「また家族の命令か」
「あんまり人様のお家にやいやい言いたないけど、君んとこ大丈夫?」
「正直なところ俺は落ちこぼれで経営に関わってないから
……
」
複雑な家庭環境を溢す。
彼の生家は、黒い繋がりの噂が絶えない財閥の漣家。裏社会に顔が利くのは事実だが、どうやら深入りせずに目立たない様、絶妙な位置を保ってるらしい。
確証はないが、国重の事件とも無関係ではないというのが柴の見立てだ。
それとは別に、ハクリが家のことを肯定している訳ではないのは、これまでの言動から見てとれた。どうにかして彼をあの家から引き離してやりたいが、計画なく動けるような相手ではない。
悔しそうな、切なそうな、形容し難い二人の顔を受け止めてから、ハクリが一番不安に感じていたことを訊ねる。
「それより現場ってことはまた事件!?」
「いや、まだ調べてる段階だ」
「きな臭いんは事実やけどね」
「まじかあ」
ハクリは今日の仕事も無事に終われそうにないと思った。
柴とチヒロ、二人揃った姿に出会った時は、いつもそれ即ち事件。
自分の家が関わっている時点で、普通のパーティーではないだろうとハクリも感じてはいたが、詳細は聞かされていなかった。まだ起きてもいないトラブルのことを考えると、胃がキリキリと痛んだ。
肩を落として俯いてから、はたと気づいて、顔を上げる。
「ところでここにいるってことは二人は付き合って
……
?」
「ちゃうちゃう。さっき言ったみたいに調査のため」
バレることがないよう一層ボリュームを絞って伝える柴と、後ろで意味ありげな表情で頷くチヒロ。
その表情にハクリは密かに引っかかりを覚えた。
なぜそんな表情をするのか。
「なあチヒ
……
」言いかけたところで
「おいそこの!話してないで手動かせ!」ハクリの背中から怒号が飛んで来た。
「っはい!」大声で返事をする。
叫んだ男はそんなことお構いなしに消えていった。
「ごめん、俺そろそろ行かなきゃ」
「ああ。引き止めて悪かった。また顔出すよ」
「時間合いそうだったら帰り送るから、見つけたら声かけてな」
こくこく頷いて、早足で去ったハクリを見送る。
「ハクリが居るならこの階は後回しでいいかもしれませんね。後から話をきけるでしょうから」
「せやね。なら下に降りよか」
二人は一階のバーを後にした。
※
ダンスフロアは想像以上の騒がしさだった。招待状からした上品な気配は微塵もない。
ステージの近くでは音楽隊が確かにジャズを奏でているのに、各所に設置されたステレオからは邦楽にクラシック、ヒップホップとロック、聞こえるだけでもジャンルの全く違う音楽が流れていた。
何を頼りにすればいいか分からない。ただ、喧しいことだけが確か。
それに同調する様に、バーカウンターの廊下の下に取り付けられた照明が自動的に、しかし不規則に、場内をカラフルに照らす。
音楽も、光も、この場に秩序なんてないことを教えてくれる鏡だった。
慣れない眩しさにチヒロは目眩がする。そのふらつく体を柴は受け止める。
「こういうとこ来んの初めてやっけ?」
「実際に来るのは初めてです」
「初にしてはハードなとこ来てもうたな」
ステージ上では露出した女性が妖艶なダンスを踊っていた。それを眺める人もいるが、カップルのパーティーとだけあってほとんどの人は見向きもしない。社交ダンスのような踊りをする者たちもいれば、リズムに乗るだけの軽い踊りをする者、音楽はオマケのように深いキスをしてベタベタとお互いの身体を触り合う者。それだけで気分が悪くなりそうな、統一感のない様子は、これから始まる破茶滅茶を感じさせた。
チカチカとしたサイケデリックな照明が二人を照らす。
チヒロは暗いのに眩しいというこれまで感じたことのない感覚に戸惑うばかりだった。
沢山の人の香水が混ざった匂いに加えて、麻薬なのか、嗅ぎ慣れない甘い香りが漂う室内。
柴は眉を顰め続けるチヒロの様子を長いこと見つめていた。
頭の中には、今朝読んだばかりの新聞が浮かぶ。
明日は関東で雹が降るかもしれないほど不安定な天気らしいこと、二箇所でほぼ同時に起きた銀行での立てこもり事件に、著名な政治家が乗る車が巻き込まれた大きな交通事故、司会者に言い寄られて自殺した人気バラエティ番組のスタッフのこと。
最後のニュースは事件というよりゴシップの類だろうが、人気の番組とだけあって幅広い媒体で取り上げられていた。
それでもその事件は、今の柴の心をざわつかせるには充分だった。
チヒロが言い寄られて断れないとは柴も思わない。この一瞬でその事件の様に追い詰められるとも思わない。
それでも、この少年に隙が全くないとは言い切れなかった。
ここの輩は麻薬を使うことに抵抗を覚えない連中。何かしら強硬手段に出るかもしれない。
何より、どんな経緯があっても、チヒロの赤く澄んだ目が濁ることなど許せるはずがなかった。
ならば、最低限の予防をしなければ。
そう考えると同時に柴の体は動き出していた。チヒロを驚かせてしまうだろうが、きっと許してくれるという甘えから。
決心してチヒロの手を引き、目立たぬよう壁沿いに連れ出す。
腰を柴の方へグッと寄せると周りのカップルに一段と馴染んだ気がした。
「ごめんな」
それだけ呟いて、柴は暗闇の中で白く光るチヒロのネクタイとシャツを下げて、首筋に吸い付いた。
「え?」
味わったことのない甘辛い刺激がチヒロの体を駆け巡った。
すぐ後ろは壁で、両足の間に柴の右足が入れ込まれている。
くすぐったさに身を捩ったが、更に強い力で腰を押さえつけられた。
状況を理解し始めた身体が、興奮をゆっくり、しかし確実に伝えてくる。
足の間に入れられた柴の足までも刺激の一部になっていく。
「んっ
……
!」
チヒロがまずいと思った時には小さく声が漏れた。
なんですか、どうしたんですか、どういうことですか。柴に言いたいことがいくらでもあるはずなのに、声にはならず、混乱したまま脳内で消えては溶けてを繰り返す。
二箇所吸いつかれた頃だろうか。
「っ、しば、さ!」
やっと意味のある言葉が出る。
チヒロの喉に引っかかる声とほぼ同時に、柴の顔がチヒロの身体からパッと離れた。
「急にごめん。けど、これがあれば変な輩に絡まれても基本的にはやり過ごせるはずやから。一応服で隠れる位置にしたけど何かあったらこれ見せ。一人にさせる気はあらへんのやけども。念のため、ね」
チヒロは首元を抑える。
その赤い顔が乱雑な明かりに照らされたのは柴が顔を後ろに向けた時だった。
「にしても治安悪いなー。これは二人の言ってたこと多分ビンゴやな」
チヒロは、先に言ってくださいと言いたかったはずなのに、人生で初めて付けられたキスマークに混乱は納まらないままで、言葉にならない声が空気と混ざって落ちる。
終わった安堵があるはずなのに、何かしら続きを期待してしまった己が恥ずかしかった。
「俺、ちょっと、トイレ行って来ます」
ようやく出たのはこの場から離れる為の言葉だった。
「え?」
チヒロの方へ振り向いた柴と目が合う前に、真向かいにある廊下へと歩み出した。
柴が止める間もなく、スルスルと人混みをぶつかることなく進んでいく。
「ちょ、待て!さっき言ったばかりやろ」
焦っているのだろう。珍しく強い言葉が聞こえたが、チヒロの歩調はむしろ早くなっていった。
体の大きな柴は、人混みを抜けるのに時間がかかる。それをチヒロは理解していた。
廊下に出る時、まだ人混みの中に柴はいた。
チヒロはその姿をチラリと横目で確認して、防音の重いドアを押して廊下に出る。
しっかりと振り返れないのはまだ顔が赤かったから。
廊下は薄暗いものの、ホールとは違い不規則な灯りではなかった。逆光とはいえ、目のいい柴のことだ。赤みがバレないとは限らない。念には念を入れておこう。
柴に何かしらの他意を感じ取られてしまってはいけない。今後のためにもこの関係を崩す訳にはいかないのだ。
ドアが閉まる直前、確かにチヒロがトイレがある方向へ向かっていったのを見て、柴は少し安心する。彼が歩み出した瞬間からずっと目を離さなかったが、どうやら誰かを追っているわけではないようだ。
それにしたって、彼の意外な行動に遅れを取ったことに変わりはない。閉まったばかりのドアを乱暴に開けながら、自分自身に舌打ちをした。
柴の思う通り、チヒロは誰かを追っていた訳でもなければ、どこにも用はない。
ただ火照る顔と身体を落ち着かせたかっただけだった。
「ふーっ」
個室に入り、扉に背を向けて深く息を吐けば、チヒロはようやく一人を実感できた。
トイレなんてピンからキリまであるが、幸いにもここは綺麗にされている。すぐに出たくなる汚臭が漂う室内でなかったことに安心しつつ、感謝した。
けれど、まだ顔は身体中の熱が集まっているように熱い。
先程のことを脳内から切り離すように頭を振る。
首に手を置く。柴がチヒロにキスマークを付けた。その事実が冷静さを奪っていく。
己の手を顔に押しやって、無理矢理熱を冷まそうとするが、手の先まで熱くて何の意味もなかった。
十八歳にもなって、あれだけのことでここまで動揺してどうする。そんな言葉が自分を責めた。
しかし、実際不自然に慌ててしまった以上、そんなことを言っても仕方ない。
父の事件を解決するため、一心不乱にやって来た。恋だってまともにしてこなかったのだから、先程のことは少々刺激が強すぎると思っても仕方ないだろう。
潔癖でないとは言え、普段なら絶対にしないが、扉に体を預けた。予想外の重量に扉はガタンと大きな音を立てた。
その音に反応したのだろう。大理石の床を蹴って近づいてくる足音がする。
チヒロが個室に入って程なくしてトイレの扉を開ける低い音が聞こえていたし、それが誰なのかも理解っていた。
凭れかかった扉を一直線に叩かれる。
「チヒロくん!おる?」
足音の正体は分かっていたといえ、チヒロの肩はどうしてもビクンと跳ねる。
予想通りの聞き慣れた声は、普段より焦りを交えて響いた。
「います。俺はなんでもないです、無事です」
きっと一番心配してた部分を感じ取ってすぐに返せば、
「せやったら良かった」顔を見ずとも分かる程、その声には安堵が含まれていた。
柴は他の人間がいないことを念入りに確かめて話しかける。
「なら俺、手洗い場で待っとるから。何かあったらすぐ言うか、音たてるかしてな」
「はい」
短く返事をすれば遠ざかる足音が聞こえる。
扉を叩かれた衝撃でチヒロの顔の赤みは少し引いた。
じわじわと落ち着いて来て、個室内を見渡せばダストボックスにキラリと光る物が見えた。
すぐに探偵のスイッチが入る。欠かさず持ち歩いている手袋を嵌めて取り出せば、それは注射針だった。
少しだけ残っていた液体は蛍光に近い緑で、日常生活では見ない色味をしていた。
『表面上はカップル専用のダンスパーティーで、実態はドラッグ使っての乱交パーティーねえ
……
』
『にしても治安悪いなー。これは二人の言ってたこと多分ビンゴやな』
柴の言葉が脳内で再生される。
注射針を手早くチャック付きの証拠品袋に入れて、直前まで寄りかかっていた扉を勢いよく開けた。
「柴さん、これ!」
一瞬で、柴はチヒロの服や身体に異変がないかすぐに確認して、それから手に持つ物を見る。
「チヒロくん、大手柄やな!他のも調べよか!」
言い出すや否やトイレ内を進んでいく。
元々調べる気だったのだろう。
手際いい柴を見ていると、探偵としての矜持かさっきまでの赤みは嘘のように引いた。
二人がかりで二十個ある個室を調べれば、計三個の注射針が見つかった。
「薊に渡して調べてもらわな分からんけど、色味からしてインスリンの注射だったり、普通の薬じゃ多分ないやろ」
証拠品を覗き込みながら話す。
「ただ、これは数が少ないし、各々が持ってたドラッグかも分からんね。会場内で配ってる言う薬の方も調べなあかんか
……
」
まだ残る厄介ごとを考えて柴はため息を吐いた。
「そうですね。あの、あと、勝手に一人で行ってすみませんでした」
口ごもって謝れば柴は首を振る。
「俺がボーっとしてたのがあかんかった。逆に一人にして本っ当にごめん」
「そんなことないです。俺は一丁前に柴さんを撒こうとしました」
その発言にふふっと柴は小さく笑った。
「なら俺はまんまとやられてしまった訳やな」
自分が乱したチヒロのネクタイを綺麗に直す。
「うん、完璧。じゃあ戻ろか」
二人とも慌てて歩いたので気付かなかったが、廊下は縦にも横にも広く、隙間なくレンガ色のカーペットが敷かれていた。トイレより更に奥、向こうにはクロークがあると案内がある。
「言うとったけど、こんな奥にクロークあったんや。あんまりこんな所にあるもんやないけどな」
「出入り口付近で立ち止まられたくないからでしょうか」
怪しげなパーティーだ。盗み見られでもしたら溜まったものではない。
「これやったらチヒロくんも木刀持ってきたら良かったんちゃう?」
「預けるんですか?流石に不審がられません?」
「こう、杖とか傘に見える様にしといて、必要な時は抜き出す
……
仕込み杖やな」
柴が細長い形を身振り手振りで表現すれば、チヒロはつい笑顔になる。
「面白そうですね、いいかもしれません」
いつもの二人に戻って話をしていると、マーメイドドレスを着た顔の小さい女性が、一人向こうから歩いて来た。
ネイルパーツだろうか。指先が光る。その光る指はクラッチバッグに揃えて置かれていて品を感じさせた。
薄暗い廊下の遠目からでも、キラキラとドレスのスワロフスキーが光る。
通り過ぎる際、近くで見ると、胸元のホワイトから足元まで水色のグラデーションに染まっている。
その長い裾を器用にいなしながら歩いていくその姿は成程、マーメイドらしかった。
女性は何事もなくすれ違ったが、程なくして陽気な音楽が流れ出す。
立ち止まって振り返れば、数メートル先で音は鳴っている。
数秒で止んだが、画面らしき明かりが見えた。すぐにパチンッと何かを閉める音が微かにして、女性は何事もなかった様に歩き出す。
「着メロでしょうか」
「多分そやろね。使用禁止やし、周りにスタッフが居らんで良かった」
足を止めたはいいものの、彼女に用がある訳ではない。
再度歩き出したところでまたすぐに、
「キャッ」と、小さな悲鳴が聞こえた。
二人して瞬時に振り向く。半歩踏み出して止まる。
ぶつかったのか、男性が女性の腰を掴んで受け止めているのが、薄暗い中で見受けられた。
僅かに話す声が聞こえた後、会釈を交わして男性はチヒロ達の方に、女性は奥へと、お互いの方向へ進んでいく。男性の顔は見えなかったが、特にトラブルといった様子はない。
「問題なさそやな」
ホールに戻れば、騒がしさも眩しく光る照明もそのままだった。
落ち着いた廊下とは景色が一変する。
世界と隔絶するように、後ろで重いドアが音を立てず閉まった。
「せっかくやから踊る?」
柴の話す意味が分からず、チヒロは理解するまで時間を要した。
柴が手を取った自分の手が視界に入って、やっと意識が追いついた。
「いや、俺、踊ったことないですし
…
」
言葉こそ出たものの、動揺からどこかカタコトになる位、混乱は続いていた。
「みんなそんなもんやって。アレが出るまでの潜入やから端っこに留まるよりは自然やと思うよ」
肩を寄せられ、二人の距離はグッと近づく。
チヒロは顔に熱が集まっていくのが分かる。あれだけ不満に思っていたはずの暗さに感謝した。
「みんな人のことなんて見てへんしな」
「柴さんが言うなら」
小声で答える。
その声を確かに聞き届けて、柴はニコリと逆光の中で笑った。
手を繋いだまま一歩踏み出す。次の瞬間には腰を掴まれ、顔も近づく。
赤い顔が彼の視界に入らない様、そっぽを向くと、
「ごめん、やっぱり嫌やった?」と、声をかけられて腰を掴む力が弱まる。
「いや、嫌じゃないっです」
普段のチヒロから想像がつかないほど慌てた声だった。
照れていた癖に離れるのは寂しくて、すぐに縋った。
その行為がどうにもはしたない気がして、時間差でさらに顔が熱くなっていく。
これ以上熱が溜まれば倒れてしまう気さえした。
「なら良かった」
普段見ないような表情で微笑む柴に大人の色気を感じる。
もう暗さなど関係ない程チヒロの顔は赤かったが、柴は何も言ってこなかった。
数歩リズムに乗る様にくっついて揺れるを繰り返したところで、流れていた音楽がピタッと止む。
横にいたはずの柴がチヒロを背中で隠すように前に出た。チヒロの視界は自分より一回りも二回りも大きい背中でいっぱいになる。
長い時間踊らなかったことを安心するような、残念に思うような、二律背反の感情を抱えたまま、その広い背中をぼんやり見ていた。
どこからともなくステージ上に現れた司会者だけにスポットライトが当たる。ダンスパーティーの終わり、つまり余興の終りを告げた。
段取り通りなのか慣れた口調で、ドラッグを彷彿とさせる言葉をチラつかせれば、ガラガラと荷台を引く音が数箇所から聞こえた。
ステージ上の電気が消え、近くの柴はおろか誰の姿も見えなくなった。
そんな暗闇の時間が数十秒あっただろうか。
またステージのライトが司会者に向いてつけば、少しだけ周りが見えるようになる。
瞬間、
ガシャン、ガシャンと何かが割れる音が続いて、ほぼ同時に
「うわあ
——————
」
野太い叫び声がフロアに響いた。
※
計画とは違うことが起きたらしい。
明かりが混乱を示すようにチカチカとついたり消えたりを繰り返した後、場内を精一杯照らした。
まだ暗いが、周囲は十分に見える。
柴たちがいる場所から数メートル離れた場所で、何か起きたようだ。
問題の場所へ二人、急ぎ足で向かう最中に「女性が刺された」「倒れている」と噂話のような声が耳に入る。
現場に着くと、聞こえた噂の通り、女性がナイフで刺され倒れていた。
うつ伏せになり顔は見えなかったが、ドレスから分かる。
倒れていたのは先程すれ違った女性だ。
水色のマーメイドドレスが左脇腹を中心に赤黒い血に染まり、その中でスワロフスキーが場違いに光る。
刺さったままのナイフは、きらりとライトを反射して見せた。
近くに行ったところでこれといった反応はない。
意識がないのか、犯人の名を呟く素振りもなかった。
血だらけの指が微かに動く。
彼女が少なくとも今、ここで生きていることだけは分かった。
上手く息が出来ないらしい。呼吸は浅く、命の瀬戸際に彼女は立たされている。
周りの人々が近づかないように牽制しているものの、衝撃的な光景にチヒロは夢を見ているような非現実的な気持ちになった。
こうした現場に立ち会うのは初めてではないのに。慣れない。いや慣れてはいけない。伝言ゲームのように、思考が飛んでいく。
人々が立ち尽くすその横で、柴はすぐさま救命措置に入った。
「チヒロくん!こん中に医者がいるか聞いてくれ!あと救急車やら警察やら!それに客ら!そこ、動くんやないぞ!」
さすがの柴も焦っているらしく、普段の優しい声音とは全く違う荒げた声になる。
悲鳴以来の大声に、何かが起こったことを察した会場内に緊張が走った。
「はい!」
大きな声を出せば、地に足がついて現実に引き戻された気がする。
周りを見ていた視線を女性の方に戻し、顔を上げれば、近くにいたハクリと目が合う。
「何故ここに」と、いう言葉が出かかって、そんなことは今、大した問題じゃないことに気づく。
「ハクリ!誰もその場を動かないよう見張っててくれ!あと悪いが救急車を!」
ハクリが頷くのを見届けると、チヒロは群衆の方へ振り返る。
「医者、もしくは看護師の人!いますか!?」
大きい声で場内を早足で歩き回れば、尋常じゃない事態を理解したのか、二人が前に進み出た。
それを見るや、付いてくることを確認するより先に声を張る。
「こっちだ!」
二人を件の場所へ案内するべく足を進めた。
ドラッグで倒れる人がいるのだろう。女性は元々設置されていた救護室に運び出される。一命は取り止めたものの、意識は朦朧としていて、病院に早く連れて行くべきことに変わりない。
パーティーは中断された。
ハクリは、頼まれた通り救急車と警察を呼ぼうとしていた。
救急車は無事呼べたが、警察は麻薬使用が明るみに晒されることを阻止せんとする支配人に止められてしまったらしい。
何度かけても、誰がかけても、電波が繋がらないと主張するそれは、一番大事な役目を失った。入場の際にチラつかせていたあの謎の機器の効果だろうか。
予想はしていたが、やはり運営側が敵になった。
救急車の隊員が事件性に気付き、無線か何かで警察を呼んでくれるだろうと柴は楽観視してみる。
幸か不幸かドラッグが使用される前で、ほとんどの人が正気を保っている。
それでも、殺人未遂は初めてだったのだろう。
騒ぎたてこそしないが、異様な空気が場内を包んでいる。
麻薬を使用する気だった癖に、ほとんどが自分達のことを棚に上げて、事件の起きた辺りを野次馬的に眺めていた。
正直、ここまでは事件内容を考えれば、柴達の想定の範囲内だ。クローズド・サークル内に閉じ込められたことを思い出せば、最低限の連絡が取れた分いくらかマシに感じる。
近くにいた男たちはハクリが見張っていたおかげもあり、柴の指示通りその場を動いていない。この状況はむしろ僥倖だ。
想定外だったのは、ハクリが被害者の一番近くにいたこと。
必然的に彼は容疑者になる。
それでも彼は救急車を呼び、柴の言う通り動かなければ、指示された全てに従っていた。
二人の立場を分かっているといえ、その協力的な姿勢がありがたい。
「ごめん、チヒロ」
「ハクリが謝ることなんてない。救急車を呼んでくれて助かった」
目に見えて落ち込むハクリに、チヒロが励ましの言葉をかける。
その後ろで、
「人が刺されてんねん」
電波を遮断し続ける支配人に詰め寄る柴の声が聞こえた。尋問慣れした柴の圧にも負けじと首を振る。
「警察を来させるわけにはいかない!電話は使わせない!そんなこと言うならあなた達がすぐに解決すればいいでしょう!探偵だかなんだか知りませんけど、鍵は閉めてあったので犯人はここからは出られませんし!犯人を見つければ、そいつだけ突き出せば済む話です!」
「えらい度胸やな」
続けてヒステリックに何やら叫ぶ支配人に、ついには柴が折れた。
犯人を捕まえないとここから出してくれそうにない。
自分たちと同じ様に犯人も逃げられないのだから、ここで支配人と押し問答しても仕方ない。
もう関係ないと言わんばかりに柴は髪をグシャりと乱して、気持ちを切り替えた。
麻薬の証拠は、これでもかと言うほどチヒロと共に掴んでいるのだ。時間が経ってもここに集まった連中を一網打尽に出来るだろう。
そうなればもう、残された道は一つだけだと、柴は深く息を吐いて腹を括る。
探偵のスイッチを入れるがごとく、ネクタイを引き抜いて上着を脱ぐ。
パンツの質こそ違うが、遠目に見れば普段の探偵姿と遜色ないシャツ一枚のサスペンダー姿になった。
師匠を背後から見ていたチヒロは師匠と同じようにジャケットを脱いだ。
ワゴンは客が使い出さないよう、刺された女性の近くの物以外は片付けさせた。
支配人はそれすら反対したが、柴が警察に顔が利くことをチラつかせれば渋々引き下がる。
女性がいた辺りを見渡せば、壁を背にして、薬を乗せたワゴン、飲み物を乗せたテーブル、加えて何かの液体と、割れたビンが、女性が倒れていた場所とハクリを含め四人の男を丸く囲う様に、歪んだ形で散らばっていた。
ビンは容器ごと落ちたのか、かなりの量が固い床に弾かれてテラテラと輝く。液体のすぐ近くには注ぎ口やラベル、ビンの形が残ったものも散らばっている。ところどころ床が光るのは床石の素材などではなく、割れた細かいガラス片だった。
柴は頭の中でそれを組み立ててみる。一本では足りない。少なくとも二本以上落ちたのだろう。
同じラベルの物がテーブルにはまだ残っている。散らばる飲み物は白ワインで確定か。
床に飛ぶ液体の中には、血が混じったのか他よりも澱んでいるものもあり、質の違う反射を見せている。女性はとっくに運ばれてもういないのに、倒れたその姿を再度思い出させるほど、それはグロテスクに映った。
座って液体を見ていた柴が立ち上がり、立ち尽くす四人に切り出す。
「今は俺やチヒロくん、医者達の足跡で多少グチャグチャになっとるけど、俺が駆けつけた時には飲み物は乱れなく続いとったし、足跡もあらへんかった」
いつの間に見たのだろうか。
動けずにいた男達に警告を出すかの如く、床を指差す。
「ここ、ボトルも割れて中のワインが散らばっているやろ。けど、今周辺の奴らやアンタらを見たが、裾が濡れてるのは誰もおらん。割れた時に飛び散ったやろし、動くなと言えど逃げんかっただけで、全く身動きしてへん訳ではないやろうけど、この場から抜け出すにはガラス片を踏んで、裾をかなり濡らして出る。もしくは、テーブルかワゴンを音を立てながら動かすしかない」
柴の言う通り、この円を何も踏まず、足元を濡らさず、音を立てずに出入りするのは不可能だろう。
事実、ここを行ったり来たりしたチヒロの足元は濡れ、よく見れば靴にガラス片も刺さっていた。
周囲の人々を一通り見渡して、柴は仕切り直すように咳払いをする。
「うん。もっかい確認したんやけど、やっぱり周りの奴らの足元は濡れてへん。それにガラスを踏んだ跡もない。アンタらも同じく。裾が濡れてるのもガラスを踏んでる靴も、俺たちと医者を除けば誰もおらん。飲み物や破片を踏まずにこん中から出る方法はなさそやから、君ら三
……
やない、四人が容疑者になるね」
自分に言い聞かせる様に頷く。途中でアンタらから君らに言い換え、人数を間違えたのもハクリが容疑者の中にいたからだろう。
「この歪な円の中から出るのに裾を濡らさないとしたら、さっきも言ったように音を立てて出るしかないやろうしな。誰かが立ち去る音も、テーブルやワゴンを動かした音も聞いてへんのやろ?」
容疑者の四人が同時に頷く。全員困惑が見てとれたが、納得はしたのか反論はしてこなかった。
ハクリは自分も容疑者の一人なのを察知して、青い顔で涙を流す。
「俺じゃない、俺じゃないんです
……
!襲われた人のことも全く知らないし、隣の男の人に頼まれて飲み物を運に来ただけなんです!」
探偵達に縋るように首を振る。
その度に涙が重力に引っ張られて、顔はベチャベチャになった。
「分かっとるよ、ハクリくん。君は被害者と面識ないしな」
「柴さん
……
ありがとうございます!」
とはいえ、隣の人の顔も分からない暗闇の中で後ろから刺されている。被害者はもちろん、周囲の人にも犯人は見えていなかった。
面識の有る無しは身の潔白の証明にはならない。
今あるのは、探偵たちからの信頼のみ。
けれど、二人からの信頼以外にも、その場の者は知らない根拠めいたものがあった。
ハクリが容疑者になるのが、初めてではないから。
今回の様に、家から使いっぱしりとして行かされた高級宝石店で、盗難が発生した事件の時も彼は容疑者だった。
もう一つ、漣家の関係する会社のイベントに出席した際に、ハクリとも面識のある女性が襲われる。鈍器で殴られた被害者は幸い軽傷だったが、アリバイのない候補を挙げれば、その中にまたハクリは居た。
どちらも柴達や薊の捜査によって疑いは晴れたが、容疑者扱いはこれで三度目になる。
どの事件だって当然、犯人ではなかった。人格や信頼も勿論あるが、いまさら面識のない女性を理由なく襲うとは誰だって思わないだろう。
ナイフは倒れた女性に刺さったままだった。これでは凶器所持の有無で特定できない。
近くには三十センチはないナイフの鞘と思われる物も近くに落ちていた。鞘がついているのなら簡単に持ち歩くこともできる。
それと一緒に血が染みた紙ナプキンが落ちていた。
これでナイフの柄を包んだのだろう。目の粗い紙だ、指紋が上手く取れるか分からない。最低限の対策はしていたことになる。無差別の犯行ではない。
厨房やその辺から奪った物でもなければ、指紋の対策もしている。相手を決めていたかまでは分からないが、衝動的なものではなく、計画性のある犯行なことは確かだ。
簡単に証拠は見つからへんか。
諦めて柴は立ち上がる。
依頼内容を聞いた時には麻薬の証拠はいくらでも出るだろうと鷹を括っていたが、まさか殺人未遂事件に巻き込まれてしまうとは。
気分転換にと手袋を嵌めてから、チヒロと二人で刺された女性の荷物を遠いクロークへと取り出しに行く。
戻ってきて、一緒に中を調べれば名刺が出てきた。
黒い蝶が描かれ、苗字が書かれていない装飾のラメがついている印刷物は、ビジネスシーンに使える訳がない。
書かれた名前は源氏名だろう。
「店名や印刷の色味、名前からしてキャバクラですかね。本名でもなさそうです」
「せやね」
柴が刑事だった時にこの店名を聞いたことがある。たしか、暴行事件を起こした男の交際相手がそこで働いていて、聞き込みに行ったのだ。
あの場所で働いていたとなれば、この女性と顔見知りはこの場ですら片手で足りなかったかもしれない。それに、この広い場内から容疑者を探し出すのは困難を極めただろう。
不謹慎だが、この円の中で刺されていて助かった。
ハクリを外して、三人の中から犯人を炙り出す。
探偵師弟は目を合わせて頷いた。
※
一人一人部屋に呼び出して事情聴取をしていくことにする。
待たされる他の容疑者が怪しい動きをしないかは、ハクリを含めお互いを監視することで落ち着いた。
ほんの少しだけ冷静になった支配人は、VIPルームを貸してくれた。
赤いソファに、黒光りする室内。仕方ないが真面目な話をする場とは思えなかった。
「あなたは被害者の女性の彼氏。二人でこのパーティーに来た、と」
「そうっす」
事情聴取一人目の、派手で軽薄そうな金髪の男はすらすらと答える。
彼氏を名乗る通り、女性と同じく二十代後半らしい。たしかに年齢はそう遠くないように見える。しかし、自分の彼女が刺されたとは思えないその言動に、思いやりのある人間ではないことが伺えた。
「よく本当のカップルでこんな場所来ましたね」
「まーね。でもアイツはキャバクラ、俺はホスト。そんな仕事同士で健全な付き合いしてる方が珍しいっしょ」
敬語のなってない男は、その界隈の常識だとでも言いたいらしい。足を投げ出してふんぞり返ったその態度は、何もかもを疑わしく感じさせた。
「探偵だかなんだか知らないけど、俺だったら別にこの場じゃなくてもいくらでもやれるし、俺以外が犯人に決まってるでしょ」
いけ好かない態度だが、本人が言ってることも一理ある。
「そうは言っても容疑者を増やすとか、全くメリットがない訳じゃないですから」
「ッチ、そうすっけどね」
チヒロに諭されると不満はあれど納得したのか、舌打ちしつつ同意を示す。
「この会に来るのは今回が初めてですか?」
「いや、二回目。アイツは三回以上来てたみたいっすけど」
「少なくとも一回は、女性が他の誰かと来たってことですか?付き合っているのに?」
「そりゃ喧嘩になったっすよ。でもアイツ、俺の言うこと聞いた試しないから」
お互い自由にやっているのかと思いきや、そこは普通のカップルと変わらないようだ。
「アリバイは、聞いたところで意味ないですね。あそこに居た三
……
四人に聴取している訳ですし。ちなみに廊下で刺された女性と俺たちはすれ違ったんですけど、その事知ってますか?」
「さぁ。何も言わずいなくなってばっかりだから。今日も四六時中一緒にいた訳じゃないっす」
挑発するかのごとく、手をヒラヒラと振って見せる。思い出したのか、最後に形だけ敬語を付け足した。
「あのおっさんが犯人なんじゃないの?『しつこいおじさんの客がいる』とか『最近見張られているような気がする』とか言ってたし」
「ストーカーってことですか」
「多分?おじさんの方は出禁になったつってたからホントなんじゃない?ストーカーは知らないけど」
自分の彼女が危ない目に遭っているのに、何故そんなに他人事なのだろうか。
相手のことを思い合うからその関係は成立するものだろう。
行き場のない感情をチヒロも柴も覚えた。だが、事件と関係ない部分で説教する訳にもいかない。
これ以上訊いても、この関係の希薄さでは何も出ないと判断したのか、柴は目配せしてチヒロに終わりを合図する。
「分かりました。ありがとうございます」
帰りを促す様にチヒロが立ち上がれば、男もつられて立ちあがった。
「あ、ごめん最後に。手袋ってしとる?」
横で立って聞いていた柴がどうしてか帰りを遮る。
「してないっすよ。見れば分かるでしょ」
「ほんまや、ごめんな。ついでにもう一個。お兄さん今日大きいニュースあったらしいんやけど、何か知っとる?」
「あー立てこもり事件?俺も今近い状況っすけどね」
男は皮肉を混じえて答えた。
「ふ、それは確かにそやね。何か詳しいこと知っとる?」
「いや?そういう事件があったことくらいしか」
「そか、犯人全員捕まったらしいで。ご協力ありがとう」
にこりと営業スマイルでお礼を言えば、自分より事件に詳しい柴に困惑しつつ、男は個室を出た。
二人目は三十代前半だろうか。いかにもビジネスマンといった出立ちの、紺のスーツがよく似合う髪をピッシリきめた男だった。
どこにでもいそうなその風貌が、むしろこのパーティーの中では浮いて見える。容疑者というだけで、誰も彼も疑わしく見えてくるのは探偵の性か。
「守秘義務がある職業なので仕事はお教え出来ません。ここへは付き合いのある女性が来たがっていたので来ました。二回目ですね」
「一緒に来た女性は?被害者の方と面識はありますか?」
計画的な事件に見える。
被害者と面識があるかは白の証明にならずとも、大事な要素だ。
「これはオフレコにして欲しいんですが、実は一緒に来た女性も被害者の方と同じ場所で働いてまして。私は一緒に来た女性のファンで、何度かその店に通っているんです。彼女はナンバーワンなので私のことをいいカモとしか思ってないのも理解してますが。被害者の方も同じテーブルに付いてもらったことはあるかもしれませんが、それ以上でも以下でもないです。キャバクラで働く方は記憶力が大事というので覚えられている可能性はありますけどね。事件があった時に彼女がいなかったのは私にとって不運でした。その子は飲み物を取りに行くとか言ってたはずです」
必要のない情報ではないので黙って聞いていたが、よく喋ってくれる。
「一緒にいた女性に確かめましたが、概ね合っています」
確かに裏は取れていた。
「女性にはしつこい客と、ストーカーと思わしき人がついていたらしいですがご存知ですか」
「知る訳ないでしょう。彼女とそんなことを話す間柄ではないんですから」
自分にあらぬ嫌疑がかかっていると思ったのか、顔を顰める。
この二つは誰に詰め寄っても正直に答えることはないだろう。すぐに話題を引っ込めた。
「実は俺たち二人は、ホールの先の廊下で被害者の女性とすれ違っているのですが、何かご存知ですか」
男はさらに険しい顔つきになる。
「俺を疑ってるんですか。でも、もちろん知りませんよ。一緒にいた女性と離れた時間は確かにありましたが、多分、トイレか飲み物取りに行ったんじゃなかったかな?曖昧で申し訳ありませんが」
「そうですか」
内容が薄いように思うが、実際アリバイなんてこんなものだ。
チヒロがお礼と共に帰りを促すと
「犯人、早く捕まえて下さいね」と、笑顔を見せた。
「あ、ごめんちょい待ち。手袋ってしとる?」
男がドアに手をかけたところで柴が止めに入る。
「してないですね、持ってきてすらないです」
自分の両手を柴の方に差し出す。確かに素手のままだ。特に汚れといった怪しい点もない。
「ありがとう。ついでにもう一個。今日何かニュースあったの知ってる?」
「バラエティ番組のスタッフの件ですか?」
「そうそう、気の毒やったよね。その番組の音楽って有名なんやけど歌える?ど忘れしたもんやから、ずっと気になってん」
不思議そうな顔をしながら陽気な音楽を口ずさむ。
どこかで聞いた覚えがある。脳を掠めた違和感をチヒロはたしかに記憶した。
「そうそれ!おおきに、スッキリしたわ」
柴の言葉でまた笑顔を浮かべて、男は部屋を出た。
三人目の男は禿げかけた頭をしきりに触る落ち着きのない男だ。
探偵を信用してないだとか、悪用されたら困るとか、なんとか言って、五十代後半の会社員だけで詳しい職種は話さなかった。
しかし、いざ被害者の女性に話しが及べば、堰を切ったようように語り出す。
「ええ、たしかに私は彼女が好きでした。妻と別れて一緒になろうと言っていたのにずっとそれを突っぱねていたんですよ。彼女はずっと私に夢中だったのに!信じられますか!?けれど、私が見込んだ通り優しい子でして、一緒になれば私に迷惑がかかると。金ならあるから心配しなくていいと話していたのに」
絵に描いたような夜職の人間にハマる客だった。思い込みの強さはいただけない。
「今日ここに来るという話を聞きつけて来ましたが、来る途中に妻に見つかり共に来る羽目になりました。カップル限定だったことを知らなかったので、結果的には妻がいて良かったですが。妻は私の気持ちを正直に話すと、怒ってどこかへ行ってしまいました」
そりゃそうだろうと二人で思って、口に出しそうになったが瀬戸際で我慢した。
「だから一人だったと言う訳ですね?」
「そうです。彼女を心から愛してる私がこんな事件起こす訳ないじゃないですか!絶対に、あの彼氏を自称する男が犯人ですよ!彼女はフリーだと言ってましたから。あのチャラチャラしたヤツが言葉巧みに近づいたんでしょう。可哀想に
……
」
「そうですか」
熱く語る男に上手く言葉を紡げず、相槌だけ打つ。
「あなたも一人でいた時間が多かったようですね」
「女房がどっかに行ってしまったんですから当たり前でしょう。彼氏の方も含めて見張っていなければなりませんでしたし」
話しながら彼氏と認めていたことに気づいていない。
「一つだけ質問を。俺たちは被害者の女性と思わしき人とホールの廊下ですれ違っているのですが、そのことについて何か知っていますか」
「廊下に出たことまでは知ってます。ずっと見ていましたからね。ぶつかったのは知らなかったですけど、きっとトイレに行くのだろうと思いまして。紳士たるものそうした場に着いていかないのは鉄則です」
今までの言動からして紳士も何もないだろうとチヒロは思ったが、それは表情に出ていないだろうか。『しつこいおじさんの客』についてはもう訊かなくていいだろう。
「女性にはストーカーがいたらしいのですが、何かご存知ですか」
「そんな輩がいたんですか!となると、消去法で犯人はあのリーマン風の男で決まりでしょう」
この男は考えが飛躍しがちだ。
部屋を出ることを促すようにチヒロが手を差し出せば立ち上がり、
「とにかく私は犯人じゃありません!あの男たちを捕まえてください!」
最後まで一人、ヒートアップしていた。
その様子を静かに見ていた柴が、これまでの二人と同じく帰る直前に声をかける。
「あ、ちょい待ち。手袋って持って来てる?」
「持ってますよ。まさかこれだけで疑ったりしませんよね?」
柴の質問に語気を強める。
「せえへんせえへん。ちょっとだけ見せてもらえる?」
「仕方ないですね、でも普通の白い手袋ですよ。今回の服装に合うような」
そう言って差し出された紙袋を開ければ、上質そうな白い手袋が顔を出した。
それを裏返したり光に透かしたりしながら、短い時間見て紙袋に戻す。その様子を横からチヒロも見ていた。
「うん、特に問題なさそやね」
「当たり前でしょう。私は犯人じゃないんですから」
「最後にもう一つ!これは事件と関係ないんやけど、今日の大きいニュースって知ってる?今日、朝刊しか見る時間のうて」
何を試してるのかといった顔が男に浮かぶ。が、そこは年の功か、誰よりも素早く答える。
「政治家が事故に巻き込まれたとかいうやつですか?原因も分かっていて、本人も無事だったのに騒ぎすぎなんですよ」
「そんなことあったんや。ありがとう」
お礼を言えば男はドアを乱暴に閉めて出ていった。
最後の聴取はハクリだった。
「ハクリは形式上の聴取になるから、緊張せず話してくれ」
「ありがとう
……
!」
すでにいくらか泣いているハクリにチヒロはティッシュを差し出す。
事件に巻き込まれ続ける彼に労りの心が生まれるのは、友人の立場を差し引いても当然のことだろう。
その労りをティッシュという物理的な形に置き換えられたそれをハクリは受け取った。
「事件の時、あの女性に飲み物を頼まれて届けに来たんだな?」
「そうなんだよ。こんなことになるなんて
……
」
「ハクリくんほんま巻き込まれ体質やなあ。飲み物運んだ時、三人の男達はすでに女性の近くにいた?」
端から疑っていないからか、最初から柴も会話に参加する。
「いたと思うっス。けど、もしかしたらあのおじさんは後から来たかも?俺の次に女性の近くにいたのは
……
金髪の人だったはず。でも電気が付いた時には、俺たちの真ん中に横たわる様に倒れた感じだったから、距離感は正確だったとして関係ないのかな。あやふやでスンマセン」
「そんなことないで。いつもハクリくんの証言には助けてもろてる」
柴の否定の言葉にチヒロも続いて肯定する。
「ワインが割れる過程とかは見たか?」
その質問に、ハクリはギクリと肩を上げる。慎重にその肩を下げて、おそるおそる切り出した。
「
……
言い出せなかったんだけど、実はあの内の一本落としたの俺なんだよね。真っ暗になったのにビックリしてテーブルにぶつかっちゃって
……
。他のボトルも俺が女性のトコに行った時点ではもちろん落ちてなかったから、俺の一本分以外はあの人が倒れた拍子に一緒に落ちたんだと思うけど」
付近にいた人達の証言とも一致する。
毎度のことだが、ハクリは記憶力が良く、彼の言い分と状況が食い違ったことはなかった。
「本当ごめん、捜査の邪魔しちゃったよな」
「そんなことない。むしろハクリが落としたボトルがあったから、これだけ容疑者が絞れたんだ。褒められこそすれど、責められることなんかない」
「せや。大手柄や」
二人の言葉に沈み込んだままだった表情を綻ばせ、キラキラとした眼差しで
「それなら良かった」と、安心する。
「あとは何か事件付近でなにか気づいたことあるか?」
「何かあるかな
……
う〜ん
……
あ!少し低い位置で何かが光ってた!」
これくらい
そう言って立ち上がり、腰より下の自分の足の付け根辺りを示す。
「何かの反射やなく?」
「そういう感じじゃなかったっス。蛍みたいな光っていうか」
「!ありがとう。かなり参考になりそうだ」
「チヒロ達の役に立てたなら良かった!」
ようやく笑顔になって部屋を出ようとする。その後ろ姿を見送るかと思いきや、柴が声をかけた。
「最後にもう一個!今日、全然ニュース見てへんのやけど、何か大きいのあった?ハクリくん知っとる?」
「俺もしっかり見た訳じゃないけど
……
もしかしたら明日、雷が鳴って雹が降るかもって言ってたかな?」
「そうなんや。そりゃ気をつけなあかんな。協力ありがとう!」
チヒロからも柴からもお礼を聞くことができ、安心した笑顔を浮かべたハクリ。つられて笑顔になって、二人して手を振れば、振り返してくれる。
しかし、ドアが閉まる直前に見えた彼は、またも容疑者になることに疲れたのか、浮かない表情をしていた。
落ち込みながらも、自分たち探偵を信じてくれているハクリの為にも早く解決しなければ。
もう一度決意を新たにした。
容疑者たちがいなくなった個室で、柴の方へ向き直ったチヒロは確信した瞳をしていた。
「犯人はあの人で間違いなさそうですね」
「せやね」
「問題は証拠ですかね。あの時あの場にいたことを証明できれば、きっと
……
」
「それはチヒロくんが思ってる通りやし、俺も何とか引き出せそうなんやけど。職業がなあ。誰一人はっきりしたことが分からんのが気にかかるわ」
柴の眉間に皺が入る。事件と直接の関係があるとは思えない事柄に引っかかる柴に、チヒロは首を傾げた。
「そうですか?俺達も安易に探偵とは言えないですし、そういうものじゃないですかね。証拠が関わるというなら話は別ですが、そういう訳でもないですし」
「うん、そやね
……
。事件と関係ないとは思うんやけど、なーんか胸騒ぎがすんねん」
実際に胸を触ってみせてグルグルと回す。こういう時の柴の勘は当たる。険しい顔になったチヒロを見て、柴は慌てて笑顔を作った。
「なーんてな。まあ最後まで気い抜かんと頑張っていこな」
気遣いを汲み取ったチヒロは、
「はい」だけ答える。
その返事にニコリと笑って見せて、思い出したように言い出した。
「あんだけ言っとったけど、ちょっと残念な気持ちもなるね」
「何がですか」
「君との恋人のフリ」
思いがけない言葉に、チヒロはキュッと心臓が締め付けられた感覚がした。喉がゴクリと鳴る。
俺もです。
その言葉がどうしてか言えなかった。
黙ったチヒロに柴は慌てて付け足す。
「いや、ベタベタしたい訳やなくてね!?いや、それも別に悪ないけど!きっともうそんな機会ないやろうから、ね。一生に一度だと思えばすぐ終わったのは
……
」
チヒロの鼓動が早くなっていく。
次に続く言葉によっては立ち直れないかもしれない。自分でも何故か分からないけれど、そう思った。何か願うように、さりとてどこか期待するように、続きを待った。
それとも先に何か言って、柴の言葉を塞いでしまおうか。迷いながら、まるで金魚のように口をパクパクさせてしまう。
柴さんがこちらを見ていなくて良かった。
何も言えないくせに、チヒロはそんなことも考えていた。冷静なのか混乱しているのか、自分でも分からない。
一瞬が永遠の様に感じられる中で、柴が続きを喋り出す。
「うん、勿体無かったかなって思うわけ」
チヒロが思ってたものより遥かに嬉しい言葉が頭上から降って来て、すぐにはリアクションを取れなかった。袖を強く握りながらゆっくり息を吐く。
「俺もそう思います」
これは言えた。
チヒロの回答に柴は柴で安心した表情を見せる。
「良かった。チヒロくんが同じこと思わへんかったらセクハラやった」
「そんなこと思いませんよ」
「せやんな、チヒロくんは優しいからなあ。おじさんになるとその辺の機微分からなくなりがちやから」
まただ。
ことあるごとに柴はチヒロに向かって優しいと言う。
それが彼にとっては心の柔らかいところを指の背で触られている気がして、むず痒くて、居心地が悪い。
「柴さんの方がよっぽど優しいですよ」
チヒロがこうした返答をすれば、柴は毎回、曖昧に切なそうに笑うだけだった。
けれど、チヒロは言わずにはいられない。
またいつもと同じ顔をしてから、あからさまに話題を変えた。
「いや、にしても、せっかく着飾った訳やし。裾、乾いてきたけどワインて。赤じゃないだけマシか。変わらんか。これ、クリーニングで落ちるかな。チヒロくんに似合うスーツなんて星の数程あるけど、一着目って特別やし」
「そんなにはないと思います。でも、俺にとってもこの服は特別になりました」
柴さんが選んでくれたので。
そんな一言が無意識にチヒロの口から出そうになる。
なんだか今日はそうした余計な言葉を口走りそうになりがちだ。
なぜだろうか。
遂にチヒロは真剣に悩み出した。
犯人が解明されたから気が抜けているのか?疑問に思うばかりで答えは出ない。
仕方ないから、チヒロは先に返事をすることにした。
「ワインの汚れもきっと落ちます」
「お、チヒロくんが言うと説得力あるね」
「またこうしたパーティーに来るような機会があればコレを着ますよ」
笑顔を見せたチヒロに対して、一転して柴は険しい顔をした。
「嬉しいんやけど、今回みたいなパーティーにはもう出て欲しくないなあ。悪いんやけど、次があったら俺だけで行くわ」
謝罪の言葉と共に告げられた突然の拒否にチヒロは固まった。
その一言は彼の優しさから出たのだろうか。
もっと頼って欲しい。
そんな言葉が喉まで出かかってやめた。彼に頼れないと思われているとすれば、それはチヒロ自身の問題であるのだから。
自分の暴走を止めてくれるのも、サポートしてくれるのも、
……
国重の事件を一緒に解決へと導けるのもきっと柴だけだ。
未だ痛む胸をスーツの上から手で柔く抑えて、部屋を出る柴を追った。
満を持して推理ショーに入ると言った時、廊下でまたもや見慣れた顔がやって来た。
「久しぶり、チヒロ君」
「薊さん、お久しぶりです」チヒロがペコリと会釈をすれば腕を上げて笑顔で応える。
「やあ、柴。お前も久しぶりだな」
「久しぶりも何もお前が依頼したんやろ」
気やすさからか、柴の抗議は無視された。
「チヒロ君に会えたこと自体は嬉しいけど、こういう現場で会うのはよろしくないね。柴じゃないんだし」
「誰が厄病神や」
柴のツッコミを聞き届けてから、チヒロは一番の疑問をぶつけた。
「どうして薊さんは、刑事なのにここに来れたんですか」
救急車だってまともな住所がないこの場所に来れないと言っていた。
しかも、例の事故現場が近かったようで、現場検証と、それをスクープしようとするマスコミ、野次馬などで道が混んでいて、更に遅れているらしい。
何より、連絡が取れなかったのに彼は何故来れたのだろうか。
「それはなあ、ヒナオちゃんが考えてくれた発明のおかげよ。携帯が主流のこの世の中だから、発想がなかったんだろうけど」
ジャーンと自作の効果音と共に薊が取り出したのは、ポケベルだった。
「これで番号だけ決めとけば、一方的になるかもしれないけど、電波も違う。高確率で連絡が取れるって訳。僕が依頼したくらいだから場所は知っていたしね」
なるほど。一人で徒歩なら、混雑はほとんど関係ない。
先に着くことで探偵たちの動向も把握できるし、口裏合わせや根回しもしておける。
「ポケベルは盲点でした」
後ろで自慢気にうんうんと頷く柴。
そんな柴に薊は振り返る。
「にしても柴〜。何で依頼したのと違う事件に巻き込まれてんだ。せっかく僕らが事件をスピード解決したってのにお前が事件背負って来るなよ」
「スピード解決はおめでとうやけど、事件は俺のせいちゃうやろ!犯人に言うてくれ。依頼された方はバッチリやし、今日の事件の方やったら、これからすぐ捕まえたるから」
落ち着いた様子に薊は拍子抜けした。
「すごい自信だな。両方とも目処はついてるのか?」
「まあ、そやね。な!チヒロくん!」
急に振られたことに驚きつつ、首を縦に振って肯定の意を示す。
「これから色々引き出したるから、ちゃんと記録しとってな」
もう一度現場に戻れば、容疑者四人が静寂の中、睨み合う様に座っていた。ハクリだけが気まずそうに目をグリグリと動かして。
そこに探偵師弟と刑事の薊、支配人が加わる。
全員をぐるっと見渡して、柴は大きい咳払いをして一括した。
「おい、この子が推理ショーするからよく聞いとけよ、お前らマジで」
「助かります」
推理ショーって探偵側が言うものだったか。
疑問に思ったが、師匠の言うことは聞いておこう。
一括の内容からして、今日も推理の場をチヒロに譲るつもりの様だし、最低限柴の顔は立てたい。
「まず、犯行は隣の人すら見えない暗さの中で行われた」
「うんうん、そやったね」
「その暗さの中で人の腹を刺すのは簡単ではない」
「何かしらの対策をしてればいけるかもしらんが、それじゃ目立つしなあ」
「
……
」
黙らない柴の方を見る。
「相槌はいらん?」
「はい」
柴は少しうなだれた。純粋な親切でやってくれていたらしい。
「彼氏だったらベタベタして狙った場所を刺すことも可能かもしれません。けれど、明かりが点いた時に一番近くにいたのはハクリだった」
ハクリの方を向けば、すぐにコクコクと頷く。先程証言したばかりだから、記憶が明解なのだろう。
「ならば考えられるのは、暗くなる直前、彼氏から離れてハクリの方へ飲み物を取りに行こうとしたから。それを止めるのは理由がないと、少し不自然です。近くに他の人達がいたのだから、それを覚えられる可能性だってある」
チヒロは、彼氏の男以外の容疑者を順番に見る。
「正直、そこまでするのはリスキーです。暗闇に乗じることは利があるけれど、次回に持ち越す、別の場で実行するなどして、彼氏ならもっと自然な時を装うことが出来る」
場の空気が変わっていく。
チヒロの推理では彼氏の線は消えた。
本人も早々に犯人候補から外れたことに驚いている。
「ハクリの証言だと蛍のような光が真っ暗になった時に見えたと。高さはちょうど被害者の腹辺り」
チヒロは自身の足の付け根付近を指す。
女性はハイヒールの靴を履いていたけれど、すれ違った時の身長はチヒロより低かったはずだ。チヒロとほぼ同じ身長のハクリの証言とも一致する。
「これはきっと、蛍光塗料を使ったということ。背中の方に付けたのなら気づかれづらい。とはいえ、そこに触れることが必要になる。先ほど言った通り、彼氏ならいつでも付けることができるけれど、今日やる意味はそこまでない」
「おい!犯人は彼氏じゃないって言いたいのか!」
「そうです。できれば落ち着いて聞いて下さい」
容疑者として大事な場面だからだろうか、この中で一番年上の男は案外すぐに退いた。
「彼氏が把握して、店を出禁になる程の『しつこいおじさんの客がいる』と。言動からして、十中八九あなたのことだ」
強く反論してくるかと思いきや、出禁に心当たりがあるのか何も言ってこない。
「それほどうんざりして嫌になる相手がいるとなれば、一緒に来ている相手に一言報告くらいするはず。しかもここは店の近くでもなければ、直接触れることも可能なパーティー。警戒しておくに越したことはない。それなのに、何の言葉もなければ、彼氏から離れている時間もあった。ならば、彼女はあなたに気づいてなかったと考えるべきだ」
男の禿げかけた頭が下がる。その態度は肯定に違いないだろう。
「ここで問題になって来るのは、犯人がいつ蛍光塗料を付けたのか」
皆黙ってチヒロの推理に聞き入っている。
「塗料をつけるためとはいえ、腹を触って来るような怪しい人がいれば、一緒にいたやスタッフに報告されるかもしれない。であれば、どうするか。自然に腹に触れる方法が少なくとも一つある。倒れそうになった彼女を支えること」
柴以外の全員が息を呑んだ。
「人目は出来るだけないほうがいい。会場内の人混みを思えば、俺たちが廊下ですれ違った相手が、必然的に犯人になるでしょう」
「さっき事情聴取で聞いたヤツか」
「そうです。会釈をして通り過ぎたということは、被害者が気づかないだろう二人になる。その点から今話した貴方たち二人は違う」
「確かにな」
早くに容疑者から外れた彼氏は、余裕が出来たのか、相槌を挟む。
「そして、ハクリは俺たちからの信頼はもちろん、全く面識がなかった。無差別に狙うなら可能性はあるが、蛍光塗料を使った手の込んだ事件。その可能性は低い。そして、蛍光塗料について証言した本人。犯人ならそんな自分に不利になりかねない発言はしない。そして容疑者は四人。消去法で被害者とほとんど面識がないと話していたあなたになります」
「言いたいことは分かりました。けれど、そう思わせるためのフェイクかもしれないでしょう」
名指しされた男は、絞り出した声を出す。自分が窮地に立たされていることを示すように、あれだけピッシリと決まっていた髪は乱れていた。
「もちろん可能性はある。けれど、いくら暗かったといえど、俺たちもハクリだったら気づく。それに、ハクリは基本的に一階のバーにいた。地下一階の廊下まではそれなりに距離がある。仕事から五分以上は抜けなきゃいけなくなるはず。そういった休憩や、仕事から離れた時間が事件が起きる直前まで彼になかったのは、他のスタッフに目撃されている。これに関してはケイ
……
薊さん、信頼できる人に確認してもらったので確かです」
この場にいる薊が頷いたのに、容疑者たちは気づいただろうか。
「何より、ハクリはワインを割って逃げ道を塞いでしまった。お陰で俺たちは、すぐに容疑者を絞れた。あれだけ人がいたんだから、普通なら離れて人混みに紛れようとするでしょう。それを自分から潰している。その時点で彼はほとんど容疑者から外れたようなものだ」
「あくまでこの中で俺がすれ違ったヤツの可能性が高いだけでしょ!俺がその時の男だって根拠はあるんですか!」
男はついに立ち上がり熱弁してくる。
「バラエティ番組」
チヒロの言葉の真意が分からず周りは黙り込む。柴と男だけは意味を理解していた。
「今日入った大きなニュースと言えば、立てこもり事件に、大きな交通事故、天気の急変で明日雹が降るかもしれないこと。バラエティ番組は、前から噂になっていたし、もちろん許されることではないけれど、今日の大きなニュースとは言い難い」
「それが何だって言うんですか。そんなの俺が今日のニュースを知らなくて、そのバラエティ番組が好きだったからで終わりでしょ」
チヒロは黙る。バラエティ番組は引っかかりの一つであって、何かを強く示すことはできない。
ふざけるな、意味がわからない、などとブツブツ呟きながら、男は乱れた髪を直そうといじる。
ずっと見ていた柴がついに口を挟んだ。
「ほんなら有名な曲歌ってみ。せっかくやから容疑者の方々や薊もな。分かる人全員で歌おか。俺も歌うから」
意味は分からずとも、この場を仕切っているのは明らかに探偵たち二人だ。
黙ってこの場にいる全員が従う。
柴の「せーの」の合図でチヒロ以外が歌い始めた。
しかし、ワンフレーズも歌わずに、始めの一瞬で決定的な違いが浮き彫りになる。
その中で、犯人と名指しされた男だけが一人陽気な音楽を口ずさみ、男以外はセリフを声に出していた。
それにすぐ気づいたらしく、男は慌てて口を塞ぐ。
「
……
着メロ」
柴の一言に手で口を塞いだまま、憎々しげに彼を睨みつけた。
「せや、この曲は番組内の有名なセリフで始まる。このセリフが番組の名物の一つやから、ほんまに好きであればあるほど、冒頭から始めるやろね。何故か被害者の着メロはサビから入れてたから、セリフを知らなかったり、印象が薄くても無理ないけど」
だからあんな質問を訊いていたのか。チヒロは合点がいった。
「バラエティ番組の事件を挙げたんも、すれ違った時の印象が残ってたからやない?」
男は口から手を離し、悔しそうに拳を握る。
しかし、ここまで上げたのはほとんど状況証拠だ。
そこに逃げ道を見出したらしい。ついに敬語も無くなって、目を充血させながら叫ぶ。
「そんなの証拠にならないだろ!とにかく俺はあの女に近づいてすらいない!」
「今、言いましたね」
薊にアイコンタクトを送ればバッチリと言う代わりに指で丸を作ってみせた。
「確かに今までのは証拠じゃない。けれど、俺たちは見てました。ぶつかった男がバッグを拾うところを」
犯人と名指しされた男がハッとする。
「当然ですよね、高いヒールの靴を履いた女性がよろけてバッグを落としたのならそれを拾うのは必然的にぶつかった相手。そして、貴方は素手だった。蛍光塗料をつけるために」
「そ。だから手袋をしてるか全員に訊いたんは実は意味ない。そこを乗り越えたら、油断して何かしらボロ出すやろ思って訊いただけ」
「使った蛍光塗料は無色無臭で水性の物でしょう。水性の塗料にしておけば簡単に洗い流せるし、刺したあとに血で分からなくなる可能性もある」
男は沈黙したまま。
「液体で水性の塗料は、布手袋をすれば染みてしまう。では、ゴム手袋やビニール手袋をするか?それはこの場では浮いてしまうし、誰かに見られれば印象に残ってしまう。加えて、処分先に困るかもしれないし、内側から指紋を取られかねない。それなら片側の素手につけて、隠しながら歩き、洗い流すのが一番いい」
柴が縦に大きく首を振る。チヒロが活躍しているのが誇らしいようだ。
「この会場内なら背中が少し光ったところでライトか何かの反射だとスルーされるだろうから、真っ暗になった時に確認できればそれでいい。塗料をつけたのは彼女の背中側のくびれあたり。右手にだけ塗料をつけて左手は何もつけていなかった。ぶつかる側さえ決めておけば、彼女がどう歩こうと、自分が見てなかったフリしてぶつかればいい。貴方にとっては運のいいことに、彼女は直前に携帯電話を見ていて本当に前を見ていなかった。余計ぶつかった相手のことを気にかけていなかったんでしょうね」
男は俯いたまま動かない。その姿は肯定しているようなものだった。
「あの廊下の先にあったのはクローク。女性が刺された時にバッグを持っていなかったということは、預けたんでしょう。俺たちがすれ違った時は確かに持っていたから。あなたは『あの女に近付いてすらいない』と言った。それならバッグから指紋が出るのはおかしいですよね?」
チヒロを睨みつけるが、何も言ってこない。
オーディエンスも口を挟まず、黙りこくる。
「けれど、調べたらきっと指紋が出るはず。それに、女性の服からも指紋採取はできなくても、塗料の一部くらいは出てくるでしょうね」
男は膝から崩れ落ちる。
「あの女が悪いんだよ。この俺がテーブルにつかせてやるって声かけたのに
……
それを拒むどころか、あまつさえ無視しやがった。そんなの許せる訳ねぇだろ。携帯に盗聴器仕掛けてたのが仇になったな。あんな低俗な番組俺が見るはずがない」
犯人になるだけあって、考え方が極端だ。
面識がないということは、何度も言ったわけではないのだろう。もし、声かけたのが一度なら、聞こえてなかったかもしれないのに。
自白して、皆に見下ろされたまま一秒も経っただろうか。
急に、犯人は立ち上がり、近くにあったグラスを割る。
刃物の代わりとして持ち出したのだ。
割ったグラスを直で持っているのだから、血がダラダラと手から垂れている。
それでも、そんなことは構わずに、この場で一番恰幅のいい支配人に向かっていく。
「柴さん!」
「させへんよ」
狙いが分かっていたのか、柴は支配人の前に立ちはだかり、目にも止まらぬ速さでグラスを手刀で叩き落とした。
柴のとる行動を分かっていたチヒロは、人質を防ぐことを彼に任せ、男の右の二の腕を掴んだ。
「観念し
……
!」
男は右腕を掴まれたまま、体を捻り、左手の血をチヒロの顔に向かって飛ばす。
それを避けきれなかったチヒロは男の血が目に入る。
その刹那で、男は胸ポケットから試験管を取り出して、中身をチヒロに向かってかけた。
「チヒロくん!」
中身がかかるとほぼ同時に、柴は男を捕まえることよりも先にふらついたチヒロを受け止めた。
薊も並行して男を捕まえ、床に倒れさせ、両手を後ろに回させる。倒れた男はうめき声を上げて、大人しく力を緩めた。
全てが一瞬のことだった。
※
遅れて救急車と警察がやって来た。
被害者の女性は、命を瀬戸際で繋いだ状態で運び出されたので、なんとか助かりそうだと救急隊員が報告してきた。
その頃にはほとんどの客が逃げていたが、名簿は薊に渡してある。後からでも捕まえることは可能だろう。
救急車にチヒロも乗るよう勧めたが、
「何ともないので俺はいいです」と、拒否した。
人質を助けられたからと油断していた、本当になんて言ったらいいか
……
。平謝りし続ける柴をチヒロは否定して、顔を上げるよう促す。
「俺が逆上させたようなものですし、薬を持っていたことも、犯人が科学者だったことも誰も知らなかった。それに、俺が避けれなかった結果なので。柴さんやハクリ、薊さんも周りの人が無事で良かった」
心の底から思っている顔だった。
たしかに、チヒロのお陰で周りへの被害はなかったし、本人がそのことに誰よりも安心している。
「やけど
……
ちゃうな、ともかく君が無事なら良かった。チヒロくんのお陰で助かった、ありがとう」
本当のところ自分の身を大切にして欲しいだとか、優しすぎるだとか、柴は言いたいことが山程あった。
しかし、どれもこれも己の不始末に帰結してしまう。これ以上謝るのは彼も望んでいないと分かるから、黙るしかなかった。
支配人から半ば強引に例のVIPルームを借り、様子を見ることにした。
ギラギラした部屋。事情聴取にも向かないが、看病するにはもっと向いてない。
現時点でチヒロ曰く、体調に変化はないらしい。側から見ても態度や顔色に変化はなかったが、柴は心配で心配で仕方なかった。
「俺もニュースは確認してましたけれど、バラエティ番組なんて見てたんですね」
柴の心配はどこへやら、チヒロは今回の推理の反省会を始める。
「毎回やないけどね。曲が特徴的やったから覚えてた」
柴は切り替えて、師として反省会に参加する。
「そういう記憶力や知見の広さが俺には足りてないですね」
「ん〜どやろね。ホームズも知識を整理することで必要な知識をすぐに引き出せるようにしてる言うてたし、ちひろくんも間違ってないと思うよ。まあ、当時と日々の情報量が違うからどっちが正解とかはないのかもしれんけど。この辺りは難しいところやね」
証拠もしっかり掴んでいたのだから、反省するようなことでもない。そう柴は声かけたかったが、きっとそういうことでもないんだろう。
「そんなチヒロくんにいいニュース!バラエティ番組の件はさっき更新されたニュースを見たら、自殺は誤報やったと。タレントに言い寄られてたのはほんまやから、そいつは降板させられたらしい。同じ番組スタッフ内で病死した人がいたからそれとごっちゃになってたとかなんとか」
わざと明るい空気を作って報告する。
「それはとりあえず一安心ですね」
微笑むチヒロに柴も微笑み返す。
変わりがなさそうで安心した。油断はできないが、現時点では目敏い柴から見ても変化はない。
沈黙が場を支配する。
無闇に話しかけるのも良くないと思いつつ、意識があるかの確認はし続けたい。頷くだけでいいからと前置きして、一方的にチヒロを褒めることにした。
「にしてもスーツ似合うてるな」とか、「今日の推理完璧やったな」とか、挙句には「チヒロくんの料理美味しいから、明日チヒロくんが元気やったら、だし巻き食べたい」とも言った。
けれど、意識がハッキリしているので、一言一言律儀にチヒロも反応した。
「そんなことないです」とか、「穴があった」とか、「わかりました」だとか。
一通り柴が満足いくまで褒め称えたが、その間もチヒロに特に変化はない。むしろ、事件解決の安堵感からか、機嫌がいいようにだって見える。
どうしたものかと悩んでいると、部屋をノックする音がして、入って来たのは制服に着替えた薊だった。
「チヒロくん体調はどう?大丈夫?」
「今のところ何も問題ないです」
「うん、なら良かった。絶対に無理せず、引き続き気をつけて」
安心した笑顔を見せて、チヒロの向かいに腰掛けた。
途端、笑顔を消して声をワントーン落とす。
「調べてみると、チヒロくんにかかった薬は、傷を残すような物ではなさそうだ」
薊の報告に、柴はひとまず安心した。
「ただ、強力な媚薬だったらしい」
「媚薬」
二人、声を揃えて反応する。
頷いてから、薊は続けた。
「何かあった時に薬を売り込む名目で持っていたのか、それで被害者を狙っていたのかは分からない。吐かせると媚薬はすぐに症状が出ると言っていた。これに関してはどこまで信じていいか分からない。ただ、ボディーチェックもしたが、男が解毒薬の類を持っていないことは確か。本人が独自に作っていた物らしくて、成分に関しては正直お手上げだ。ごめん」
「薊さんが謝ることじゃないです」
「最低限、警察からの事情聴取は明日以降に回してもらった。僕としても病院に行くことを薦めたいんだけど」
チヒロは首を振る。戸籍があやふやだからか、ここに関しては頑なだ。
「だと思った。とりあえず、ここに数時間はいられるから様子しっかり見て。いざとなれば、僕が掛け合ってすぐに警察病院に入れるようにしておくから。明日、明後日でも、いつでもいいから元気かどうかだけでも連絡してくれ」
柴に近づいて、チヒロに聞こえないよう
「お前が保護者の立場なんだからしっかりしろよ。チヒロくんは無茶しがちなんだし」
「言われなくても分かっとるわ。明日、明後日は依頼入ってへんし、無理矢理でも休ませるよ」
お互いに念を押した。
チヒロに向き直った薊から柔らかな物腰が消えて、厳しい表情になる。
「六平の事件に関係あるかは
……
まだ分からない」
支配人ですら雇われだったのだから、目に見えていた。
今回も空振りに終わりそうだ。
「それじゃあまた連絡するから」
出て行こうとした薊を引き留めたのはチヒロだ。
「あの、薊さんが言ってたスピード解決した事件って何だったんですか」
「ああ、それ?今日の立てこもり事件、二件ともだよ。半分以上は現行犯で逮捕されたし、両方とも僕らがマークしてた組織だからすぐ見つかった。たまたま同時にことが起きただけで、二つに関連性はないっていうのが現時点での見方。ただ、両方とも麻薬を買う金欲しさに事件を起こしたらしいから、今日のこともきっと役に立つ」
「そりゃ、役に立ててもらわなね」
「そうだといいですね。教えてくれてありがとうございます」
結局、二時間経ってもチヒロの様子は変わらないし、変わる様子もなかった。
耐性があるのか?開発中とかで効力はなかったのか?心配も疑問も残るけれど、何にせよ無事ならいいと妥協した。
少しでも具合が変わったら報告することを約束させて。
会場を出ると、ちょうど警察からの事情聴取を終えたハクリに遭遇した。
「お、グッドタイミングやな」
最初に話していた通り、ハクリを送っていくことにする。
ハクリは車内でも、
「チヒロがカッコ良かった」と、何度も言ってずっと泣いていた。
初めて、柴とチヒロのコンビに出会った事件でも、今日のように彼は容疑者だった。
それをチヒロの推理に救われて以降、彼はチヒロを尊敬していて、推理を見る度に感動を抑えきれないらしく、こうして大号泣している。
これは事件で彼に遭遇する度起きていて、三度目となれば、二人とも慣れつつあった。
常備していたティッシュが足りなくなるのは想定外だったが。
送り届ける頃には、鼻にティッシュを詰めた状態とはいえ、少し落ち着いたらしい。
目に涙を溜めたハクリが、門扉を潜るのを見届けてから探偵たちは帰路につく。
ネクタイを緩めたチヒロの襟元から、鬱血した跡が覗く。
それが目に入ったのか、車を出す前に、右側から手が伸びてくる。柴が眉を下げるのが、暗い車内でも分かった。
もちろんチヒロは気にしていない。
それより首筋を触られることの方が何倍も恥ずかしい。
それでも、その手を振り払うことは出来なかった。
「ごめん。強くつけ過ぎた。思ったより長いこと跡残ってまうかも」
「大丈夫ですよ」
柴さんのことを信頼してて好きなので何でも許せます。
言いかけて、ギリギリで脳がストップをかける。
チヒロは今日こればかりだ。
柴に何やら無意識に好意を伝えようとしては、理性が警鐘を鳴らして口が動かなくなる。
今夜の短い時間でも嬉しかったり、傷ついたり。ジェットコースターのように上下する気持ちに自分のことながら振り回されている。
〈柴のことが好き〉
多分、前からずっとそうだった。
今日一日を通してチヒロは緩やかに柴への気持ちを自覚した。
分かってしまえば、なんてことない恋心だ。
実ることがなくとも、当分の彼の横が自分なのは確信している。
それだけで充分だろう。
気持ちの整理がついた納得からか、疲れからか、どうにも眠かった。襲ってくるまどろみと、隣の運転手に安心して、まぶたが閉じそうになる。
柴といえば、助手席でウトウトするチヒロに珍しいと思いつつ、薬の影響がなさそうな様子に安堵していた。
疲れた体に鞭打って、会場に蔓延していた独特の匂いを落とすべく、各々でシャワーを浴びる。
普段と変わらず金庫や鍵、諸々のチェックを二人でして、
「おやすみなさい」
疲れて、お互い声にならない声をかけて、眠りに着いた。
すぐにチヒロは眠りにつく。
柴は、自分が寝る前にベッドから抜け出し、こっそりとチヒロの額に手を当てる。
帰って来てからも熱を測らせたが、平熱だった。
けれど、彼は体調が悪くても隠そうとする。少し疑っていたが、額から伝わる温度から確かに熱はなさそうだった。
さっきの車内といい、浴びた薬は睡眠薬の類だったのではないか。
疑う柴の視線の先で、チヒロは穏やかな寝息を立てていた。
心配だが、疲れているだけの線もある。
少しの間、柴はチヒロの枕元に立っていたがやはり起きる様子はない。自分が近くにいる気配で安眠を妨害しては本末転倒だ。
暗い中、自分を納得させるよう頷いて、静かに自分のベッドへと戻った。
夜が明けきる前に隣のベッドから荒い息遣いが聞こえてきて、柴は飛び起きる。
「チヒロくん!聞こえるか!」
小さく首を縦に振るのが分かった。胸を苦しげに抑える彼に触れようとすれば、今度は大きく首を横に振る。
意識はギリギリあるが、余裕はなさそうだ。
「っだい、じょ
……
ぶっで、す」
「いや、大丈夫な訳ないやろ!」
肩を掴み、こちらを向かせれば真っ赤な顔が窓から入る微かな灯りに照らされた。
肩を掴まれた衝撃に、
「っ、あ
……
っ」
悲鳴に近いうめき声が柴の耳に届く。
一連の流れで全てを理解した。
男は、嘘をついていた。
嘘は真実の中に混ぜると気付かれづらくなるとはよく言ったものだ。
探偵の癖に大事なこの子を傷つけるそれに気づけなかったことを柴自身が許せなかった。
しかし、自分の葛藤など今はどうでもいい。
媚薬は遅効性だった。
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