2025-03-22 13:47:51
10801文字
Public 二次創作:全般
 

託して、どうか幸せに

過去作「よいから覚めてもまた言わせて」のスピンオフとなりますが、この作品単体でも楽しんで読めます!!
同一世界観の別ルート的な作品です。

【必読】注意事項【読んでね】


本作品は、UTAU音源キャラクター『凶街モルテ』の二次創作作品です。キャラクター設定に一個人の解釈や捏造が多数含まれます。
死体や血などの暴力表現・ホラー表現を含みます。
同性間の性的な接触の示唆を含みます。(所謂BL要素を含みます。直接的な描写はありません)

全年齢向けですが、過激な表現が苦手な方は閲覧をご遠慮ください。

25.03.29 誤字を修正しました。



 待ち合わせ直前のすり合わせを確認し、メッセージアプリのタブを閉じる。
 すると、さっきまで見ていたブラウザの画面が表示される。それもスワイプして消そうとして……スマホの持ち主は少し固まった。
 よくあるチェーンのステーキハウスの中で、一人きり何やら逡巡する。外は蒸し暑く、拭き切らない汗がべったりとシャツを張り付かせた。
『そろそろつく』
 すると画面上部、メッセージアプリのアイコンと共に現れたその言葉。
 持ち主の人間は、ブラウザを消すことなくマナーモードに切り替えた。


***


 人喰いの亡霊が、丸い鉄板に盛り付けられたステーキランチに舌鼓を打っている。

 口先に持ってきた切れ端を嗅げば、牛肉の焼ける香ばしい匂いと、ソースのどこか甘いコクのある香りが鼻腔に満ちて、それを口に運ぶ期待を高める。
 ナイフとフォークの摩耗した木製の持ち手の感触すら心地よく、彼は口を大きく開けてステーキを頬張った。
 噛んだ瞬間、肉汁が溢れ出す。そうして噛むほどにきめ細やかな繊維の一つ一つが味わいを増し、脂身はとろけて、ニンニクやソースとも混じり合い原始的な喜びを呼び覚ます。
「うまっ」
 彼の喉からわずかに声が溢れた。こくり、と喉仏が躍動して、肉の塊を内側に流し込む。
 霊力で構成された歪な人の身は肉厚なステーキを飲み込み、ジューシーな牛肉を内側へ取り込んでいく。亡霊は人と同じように栄養を取る必要があるのか——は定かではないが、ただ肉の旨みを、熱々の温度を感じとるだけで、心も洗われるような気持ちだった。
……はぁ」
 それでも、今日は。
 せっかくの美味しい食事を前に、喉の奥から重いため息を吐き出す。
……ときどき夢を見るんだ」
 人喰いの亡霊『凶街モルテ』は、ナイフとフォークを置いた。

 テーブルの向かい席に置かれた鉄板はまだジュワジュワと音を立て、モルテのよりも少し小ぶりなステーキが余熱によって焼かれている。それをちまちまと口に運んでいるのが、モルテをステーキハウスで待っていた人間なのだ。
 ちなみに呼び出したのはモルテの方だが、呼び出しといて遅刻するのは日常茶飯事だった。閑話休題。

 人間は、モルテと同様にフォークを置いて、相席している亡霊をじっと注視する。
 長い前髪、ヘンテコな帽子、ボロボロのシャツや人外らしい右腕はいつも通り。でもなにかが違う……と自問自答し、あぁ、表情だ。と気づく。
 そこでモルテはまたポツポツ呟きだした。
「ここ最近おんなじ夢ばかりだ。おまけに内容も酷い……"父と子"を殺す夢だ。どうしたもんか……
 人間は一瞬ぎょっとする。内容の物騒さもそうだが、普段と打って変わって憂鬱な声色が心をひどく揺さぶった。
「あ〜、流石に俺一人で抱えるには重いわぁ、誰か聞いてくれねぇかなぁ。特にメンタル図太くて何言われても『ふーん……』って感じの澄ましたツラしてそうな性別不明の人間とか良いかもなぁ?どうかなぁ?」
 ——って、どしたん話聞こか待ちかよ。てかモルテ、自分に対してわりと失礼じゃないか?——と人間は思ったが、実際『ふーん……』って感じの澄ましたツラで黙って聞いていたのだった。
「まぁ、たまには俺の話を聞くのも良いだろ?頼むよ〜」
 ……それでも、人間は嫌とは思わなかった。
 それどころか、自分を頼ったとも取れるその口ぶりは甘味のようだった。それは人間の脳や身体の中枢に溶けて染み渡り、やがて熱を持つ。
 頼られている。
 それはなによりも……ステーキを食う喜びよりも人間に効いた。そうして、人間はモルテの頼みを承諾した。
 ——自分を支えにしてくれるなら、存分にこの頭を使ってくれ——
 とは、流石に恥ずかしくて口にしなかった。

「ありがとな!じゃあ……
 モルテはかたわらの鉄製のコップを傾ける。コップの縁に光がくるりと反射し、そこに口をつけて冷たい水を飲む。けぷ、と軽く曖気が出て、モルテは張りのあるソファの背に体を預けた。
 昼下がり、真夏のステーキハウスという舞台で、亡霊は夢を語りだした。


***


 あー、……コホン。
 そうだなぁ、夢の最初から順に見えたものを話そうか。ちょっと長いかもだけど、まぁ何個も何個も夢の話するよりは短いだろ?


 夢ん中で俺は、ある青年の視点になってそこに立っている。別に鏡とかで確認するわけじゃないけど、今自分が誰なのかって理解してんだよ。夢ってそういうとこあるだろ?
 青年が立っているのは、ある平屋建ての一軒家の庭。飛び石を踏み込む感覚は柔らかく、どこかふわふわしている。
 すると突然、玄関が開いた。
「あぁ、——!来てくれてありがとう!嬉しいよ……!」
 夢の中だからか、音はこもって聴こえるが、その声色は快活で喜びに溢れているのがわかる。
 開いた玄関から青年を出迎えたそいつは……そいつも青年なんだよな。じゃあ『あの男』って言っとくか。あの男は、丸っこい眼鏡の向こうの目を輝かせて、ぱあっと明るい笑顔で歓迎した。早く早く!と言いながら手のひらがこちらに伸びて……肩にも触れず空を掴んだ。なぜかあの男は気まずそうに「ごめんね」って謝ってきた。
 青年は、招き入れられるまま家の中に足を踏み入れた。辺りをキョロキョロ見回しながら家の中を進む。電気をつけてないのか、薄暗かった。
 和室やダイニングを横目に、家の奥へと進んでいく……ところで場面が飛んだ。
 夢ん中だからか、結構繋がりなく話が進むんだよな……。ダレなくていいっちゃいいが。


 次の場面は、綺麗に整頓された、自室って感じの部屋。
 あの男はベッドの上に膝抱えて座り込んでて、青年はカーペットの上に寝転がって漫画を読んでいたな。
「なぁ、これ続きの巻買ってないの?」
 と、視点主である俺の喉から青年の声がする。あの男は「あぁ、まだなんだ。ごめんね」なんて困ったように笑った。そんなことで謝んなくてもいいのにな。
 まぁ……そんな感じで二人はだらだら部屋の中で過ごしていて……ん、なんだ?
 ——そいつらは友達なのかって?
 ……まぁそうだな。初めて会ったときは青年の方からナンパして奢らせたけど、運良く向こうと気が合ったって感じで……なんだその目は。ナンパはそういう目的ばかりじゃねぇと俺が全てを代表して言うぞ!!俺なんてこの前ジョッキ何個も積み上げてる糸目の女の呑みざまにウケて声かけたけどあっさり断られたしエピソード間違えたなこれ。
 すまん脱線した。話を戻すぞ!!!!

 なんかおかしい、と思ったのはそのあたりからだ。あの男がソワソワしだしたんだ。自分の部屋だろうに妙に居心地悪そうでさ。
 そもそもあの男から家に呼んだのに何も言わないのが謎だって話だが……青年は自分から声をかけたみたいだ。
「どうした?腹でも痛いか?」
 そう言われ、あの男の肩が跳ねた気がしたが、違う違う、と首を振って否定される。
 あの男は目を伏せ、眼鏡を掛け直し、ベッドから足を下ろして腰掛ける姿勢になる。漫画から顔を上げた青年と、視線が一瞬かち合う。
……今日って、時間あるって言ってたよね」
 と、あの男が言う。
「そう言ったろ?なんだ、やっぱどっか行きたいのか!」
 青年はヘラヘラと笑う。
 あの男は押し黙って……。ぎゅっと結んだ口元が、息を取り込むように開いて、その唇が震えていた。

「あのときの、こと。覚えてる?」

 すると視界が瞬いて、次々とイメージが切り替わった。夢の中にいるのに、白昼夢を見ているような感じだった。


 ……誰かの葬式。棺の上で花に囲まれたデカい写真に映ってるのは、妙齢の女。

 並ぶ豪華な精進料理。視点の主は手当たり次第飯と酒に手をつけていて、横目には親戚に囲まれる若い男——あの男だ。
「叔母さんのことは——」とか「小さい頃はよく——」みたいな言葉が聞こえたが、それくらいだ。

 式場を出て、火葬も済んで、黒い車があの男と父親らしきヤツを自宅に送り届けた。
 あの男の父親はクソ酔ったまま息子を放って自室で眠りこけていた。男は和室で喪服のまま座り込む。着替えもせず、ただ、呆然とそこにいた。

 そこに、青年が現れた。

 この白昼夢も青年の視点らしい。あの男がこちらを驚いたような怪訝なような目で見上げたのが見えたからな。
 青年もなぜか喪服を着ていて——若干着崩していたけど——あの男に何やら話しかける。神妙さのかけらもなく、ただくだらないことを言ってるようで、あの男も死んだような顔をしていたのが、少しずつ生気を取り戻していく。
 和室の畳の上に座り込んで、青年とあの男はしばらく話し込んでいた。
 すると、あの男の強張った顔が歪んだ。くしゃくしゃになっていった。

——さんは、僕の花————を見てみたかったと言って、死にました」
「僕は——だ。それを思うと、叔母さんのことすら僕は怖くて、怖くなってしまって——ッ!」

 肩が震えている。己の全てを吐き出す。シャツの下に隠していたネックレスを引っ張り出して握り込む。ネックレスには指輪を通していて、母親か……『叔母さん』の形見なんだろうと俺は思う。
 そして、あいつ、あ、あの男は……ブワッと泣き出して、青年に飛びかかってきた。

 視界がひっくり返った。茶色い木目の天井と……和室のあの、上の出っ張り?に引っ掛けられた、式場で見たような写真。それに映ってる知らないジジイとババアがこっちを見下ろしていて、流石にちょっと気まずい。
 ……人が死んだ後だってのに胸元や首筋に顔を埋めやがって……どんな意味で耳まで赤くなってんのかしらねぇけど……青年は戸惑いながらもあの男の背を摩った。

 俺らしくもない感想だが、なにかを生み出すような熱いひと時だったと思う。


 ……
 すると突然そのイメージが止んで、夢の中の元の場面に戻る。そして目の前であの男が、あのときのように赤い頬をしてこちらを見つめている。

 ……要するに、好きってことだな!


***


「おっと……ステーキが冷めちまう」
 と言ってモルテは最後の一切れを口に放り込んだ。
 すると人間の耳にシュウウ……と弱まった鉄板の音が戻り、現実に意識を引き戻される。昼飯時を過ぎたが店内にはまだ人の気があり、遠くから団体客の笑い声が聞こえた。
 モルテはまた水を一口。亡霊の体の中へ正常な水分が染み込んで、グラスを置けば中の氷がカランと軽快な音を立てる。
「ふぅ……まぁ、お前でもなんとなく察せるだろ?」
 モルテにしては珍しく歯切れが悪かった。人間の方も、おとなしく話を聞いてはいるが、定まらない視線と眉間の皺が気まずさを物語っている。
 やがて人間は言葉を紡いだ。それは簡潔な質問だった。
……あくまで夢の話だ、想像するしかない」
 モルテも簡潔に答える。
「なんせ、あの青年はずーっと訳がわからないって顔してたもんな。自分があの男をどう思ってたのか……友達以上の何かがあったのかどうかも……
 まぁ、とモルテは話を続ける。
「告白を断りはしなかったな。なんでだろ?自分を好いてくれるなら好きになってみようとか?俺は割とそのタイプ……なんだその白けた目は!」
 淡々と事実を言ったかと思えば疑問を感じ、堂々と言い張ったと思えばプンスコと憤慨する。モルテは人喰い亡霊という恐ろしい存在でありながら、ころころと表情を変える。
 そしてそれは、目の前の人間と対照的だった。この人間は会話を通じてずっと、強張った顔を崩さないのだ。
 血が通っているはずなのに、死人のような表情でモルテの話を聞いている。
「しかし、恋とか愛とかの話を嫌うお前が青年の気持ちについて聞くなんてな。そんなに気になるところあったのか?」
 ドキッ、と人間の心臓が跳ねる。半分くらいは思い当たる節があるのか……微妙にモルテから視線を外しながら——別に、といった曖昧な回答をする。
「ふぅん」
 モルテもそれ以上は聞かない。そしてまた水を飲む——コップの中は空になったらしく、モルテは水を注ぐ。

 また、夢の話に戻って来る。


***


 そろそろ話の続きだ。えぇと、青年が告白されてOKしたとこまで言ったんだったな。

 あの男は青年の言葉を聞くと、少しポカンとして、その後潤んだ目を伏せた。口元が少しニヤけていたのが隠せてなくて、そしてまた手を伸ばして今度は青年の手を握った。

 まぁ……それで……えぇと……くふっ。
 あー、はは、あはははは!
 ……いや、なに、急に夢ん中でそんな場面になったからさぁ、笑えてくんだわ!だってこんな昼から話すようなことじゃないし、昼からするようなことでもないだろ?胸焼けしちゃうな!
 ん……まぁ言える範囲で言うなら、お互い必死そうだったって感じか?向こうはともかく、青年の方だってどうすりゃいいのこれ……ってなってたのが興が乗ってきてさ。
 あー、思ったよりも言いづらいな、これ。いや俺関係ないけど。青年の話だけど。……まぁ、少なくともあんときは青年も雰囲気に飲まれかけたけど。

 でも。
 やっぱ、おかしい、って思ってしまったんだ。

 青年はあの男を軽く突き飛ばした。そして、目を丸くするあの男に向かって、言い放つ。
「玄関に出てた靴は二足。お前のお気に入りのスニーカーと、俺があまり見たことないサンダル」
「お前は親父と二人暮らしだろ?親父さんに挨拶しようと和室やリビングを見回したが、見当たらない。この家に2階はないし、このクソ暑い日にブーツや革靴を出すのも考えにくい」
「なにより、なんで。さっきから風呂場の方チラチラ見てんだ?なぁ。俺を……その、そういうふうにしておいて、よそ見とかないんじゃないか?」
 推理としては粗はあるが、痛いところを突くのには成功したらしい。
 あの男は途端に真顔になって、青年を連れて部屋を出ようとした。
 早く、と一言だけ言葉にしていた。


 部屋を出ると、場面は脱衣所へと移り変わる。洗濯機や洗面台の置かれた狭い空間だったが、夢の中なら息苦しさもなく、その場に立ち込める重い空気を客観的に感じとれる。
 部屋や廊下よりも暗く、ガラス戸の向こうからの光が四角く際立っている。青年の背後にいたあの男が前に出て、風呂場のガラス戸を開けた。
 風呂場の中で、あの男が"それ"に向かって手を指し示す。

 それは青白いマネキンに見えた。汚れた沼にマネキンが捨てられているような、そんな非現実的な光景。
 ……そりゃ俺は物騒なのも見慣れてるけどよ……青年にとっては友達?の家の風呂場で、そんなもの見るとは思わないだろ。
 沼じゃなくて湯を張った浴槽に沈むそれは、骨みたいに痩せた腕を縁にかけ、俯いた顔が汚れた湯の中に沈んで表情が見えない。見えないほうがいいのかもしれない、とも俺は思う。
 あの男はそれに目を向けたまま、なんでもないように話しだす。
「父さんにおまえや僕自身のことを話した。ダメだった。あの人の価値観じゃ、おまえも僕もこの世に存在しないと同然らしい……
 嫌に冷たく聞こえた。青年は「だから、やったのか?」と問う。
……偶然なんだ。父が昼風呂に入ってしばらくして、ゴボゴボと異音がしたのを聞いたんだ。……直接手にかけたわけじゃない」
「だったら俺じゃなくて救急車を呼べよ」
「呼ばなかった。足がすくんで、僕は脱衣所に座りこんだ。頭の中で父が僕に今まで言ってきたことが蘇って……だからかな、ずっとその音を聞いていた。ただ、じっと、何もせずに……その音が止んで、この家の中で一人きりになるまで……
 あの男が俯く。風呂場に差し込む陽光が逆光となり、あの男の表情を読めなくさせる。
 青年は淡々と問う。
……俺に、これを処理させたいのか?」
 するとあの男は押し黙る。なんとか言えよと詰めても「どうしたらいいのかわからない」ってさ。
 意味がわからなかった。
 だってそうだろ?普通死体の近くであんな……好きとかそういうの言ったりしないだろ。なんでだ?って青年は思って……真っ先に思いついたのが、共犯者として利用しようとしてたかもしれないって理由だった。
 だから、吐き捨ててしまった。
「この俺が、あんなことでいいように使える存在だって思われるなんて、随分みくびられたな」って。

 あぁ……忘れられねぇ。あの瞬間のあの男の顔!
……逃げるつもりかな?」
 あいつは正面に向き直ってこちらを覗き込む。揺れる瞳から光が消え、瞳孔がぐっと広がっていた。
「多様性がうたわれる世界で、実際にそれと直面して受け入れられる人間がどれほどいる?僕にとってはおまえがどんな思惑であれ僕を認めてくれたことが何よりも嬉しくて、あぁ……僕の幸せはおまえなしではあり得ない……と強く思ったんだ」
 そんないっぺんに喋るな!と俺は思うが、あの男は止まらない。
「先祖代々そうしてきたように普通に結婚して普通に子供を設けるだなんて、僕らには必要ないかもしれないけど……『僕らならなんとかなる』んだから、僕はここで立ち止まるわけにはいかない……
「さっきも聞いたぞそれ……意味はわからないけど……。じゃなくてさぁ、俺は死体の処理なんて——!」
 青年も血が昇っているようだった。……はは、すれ違ってんな。
「そんなのどうでもいい!!ねぇ、おまえがいいんだよ。このさい僕を蔑んでも構わないから、どうか、今すぐこの地獄から救い出して……!」
 そういうあいつの光の消えた目が、涙で煌めきを取り戻していた。

 そして、縋るような、強制するような、そんな力がこもった手で、青年の肩を掴んだ。

「触んな!!」

 お、——青年は、その手を振り払って…….あの男を突き飛ばした。

 ……決してか弱くはない、ちゃんと男の肉体なのに、あんな簡単に壁に叩きつけてしまえるんだ……と、どこかぼんやりする脳内で理解した。
 重く殴りつけたような音が嫌に響いて、あの男は鏡に凭れながらズルズルと崩れ落ちた。手足からは力が抜けて、言葉にならない呻きが漏れる。呆然と立ち尽くす青年が、ハッとしてあいつに手を伸ばそうとした。
 すると突然、あいつの体がビクンと跳ねる。
 口元を抑えようとする手が間に合う前に、その口からゴボッと黒いものが噴き出した。
 血、にしては量がおかしい。だけどその黒さ……てらてらと赤く光るそれはどう見ても……
「あ、あぁ"……
 そして、ついに塊が飛び出した。

 あの男の熱が、風呂場の水気と血の海に奪われていく。血に塗れ、流した涙もすぐに赤く染まっていく。手はだらんと投げ出され……だが。
 その手は、軋むように震えながらも、吐き出した"それ"に伸びた。

「あな、たに、このこを」

 途切れた言葉、焦点の合わない目。なのに、声色には慈しむような響きがあって、なによりその表情は、不気味なほどに穏やかだった。

「は……?」
 なぜだか悪寒がした。けれど、あの男に導かれるように、己の足元を見た。

 吐き出された黒い塊は、到底人型と思えないそれは……確かに生命のように脈を打っていた。

 ——ゾッとした。青年だけじゃない、"俺"自身もだ。何度も見た夢なのに、毎回ここで背筋が凍りつく。
 だって、この塊——バケモノは、確かに俺を"見ている"。俺を"知っている"んだ。

 青年が叫ぶよりも前、ねち、と僅かに音を立てて、そいつは。

 おンぎゃあ

 そいつは一言だけ、泣いた。


***


「まぁ、そのバケモノはすぐに青年に踏み潰されたけどな」
 そう、モルテは言い放った。名残惜しそうに付け合わせの野菜や残りのソースをフォークで掬いながら、人間に目も合わせずに。
 モルテのフォークが僅かに鉄を引っ掻く音だけが二人の間に響く。肉の焼ける音はもう聞こえない。
 昼飯時を過ぎたせいか、店内の客が減っている。団体客の笑い声も止んでいて、音が遠い空間は未だ夢の中にいるような心地だが——背に張り付いたシャツの不快感によって、ここが現実だと知らしめられる。

 人間は変わらず硬い表情のまま、呆然とモルテを見つめている。モルテはそれを確認しても尚、ペラペラと話を続ける。いつものようにニヤニヤした笑顔を湛えたまま。
「だって、あの場には肉が二人分もある。それに手ェつけられたら、ちっちゃいバケモノも成長して青年の手に負えなくなるかも……まぁアレに関しては運が良かったよ。まだ虫みたいなもんだったし——
 ——やめて。
 と、人間は言った。言ってから、しまったと思った……が、モルテは特に気を悪くした様子はない。むしろいつものニヤニヤ笑いを引っ込めて、少し神妙な顔をしている。……それが余計に辛い、と渇いた唇ごと食いしばる痛みで思い知る。
「ん……まぁ、言いすぎたかもな。あのバケモノは、命と呼ぶには歪だったが……せめて次はちゃんと産まれて来るのを願うしかないな」
 人喰いが願っていいのかわからんが、なんてモルテは自嘲する。
 それでバケモノの話は終わった。

 人間も、食欲がないままなんとかステーキを胃に押し込んだ。そろそろ解散か……と人間が思ったときのことだ。
「あぁそうだ。人として生きてるお前に聞きたいんだけどさ……見殺しって、罪になるのか?」
 その問いに戸惑う隙もなく、モルテは話を続ける。
「あいつのことだけじゃない。通報した後、救急車があいつとあいつの親父を病院に連れてったが……驚いたことに、あいつはまだ生きてた!重体だったけどな。あ、親父は普通に死んでたぞ。だから、俺、あ、青年は、自分が殺しかけた相手が起きるのを待つ羽目になった」
 モルテの口がやけに回りだす。肉と水しか口にしてないはずなのに、熱に浮かされたように矢継ぎ早に言葉が紡がれる。
「一瞬、このまま目を覚ますな、と思ってしまったんだ。勝手だよな。あいつの親父のときと違って、……突き飛ばさなきゃこんなことにはならなかったのに……あぁ」
 テーブルに肘をついて、顔の半分を骨の手が覆う。
……罪だと思えば罪なんだろうが……殺人罪とか、そういう『罪状』がつくのかどうか。誰しも法で裁かれる権利を持つ人間にとっては、罪状がつくってどんだけしんどいだろうか……あいつもそうなら……あのとき頼みたかったのは処理じゃなくて……
 いや、違う。……と、モルテは首を振って、髪が揺れた。
「聞きたいのはこんなことじゃない。そもそも罪だってなんだって、俺、青年の方がよっぽど……あぁ」
 そうか。と、顔を上げた。

「他人の罪を問う資格がないくせに、あいつには裏切られたくなかったんだな」

 その顔は、ごく普通の青年らしい顔だった。

……結局あいつは目を覚まさなかった。俺は悲しいと同時に……ホッとしたんだ。父も子も、そのまた父子も居なくなって、もうこれで終わりなんだって。……なのに」
 ガン!と、コップをテーブルに叩きつける音。席の近くを通ったカップルがこちらを一瞬見て、すぐに通り過ぎる。
「まだこんな夢を見る!そのせいで全然忘れられないんだ……!人が死ぬ夢自体は珍しくはねぇ、人喰いやってんなら当然の報いだが……これは、こんなのは……俺そのものを蝕む"悪夢"だ」
 人間は自分自身の頭も痛むまま、モルテの名前を呼ぶ。……その後に言葉は、続かない。
……あぁ、まぁ、でも。話したらちょっと楽になったかもな、勝手に背負わせたお前には悪いが——
 ありがとな、と、モルテはごく自然に笑った。
 それを見てしまうと、人間はもう何も言う気になれなかった。


***


 人間は一人、道路沿いの歩道を進む。陽が傾いて、焼けるような太陽が人間の背を焼いている。ステーキハウスのクーラーで冷やして渇いたシャツの背に、またじっとりと汗が滲んでいく。

 モルテは、店を出て早々にどこかへと飛んでいった。どうせまた別の町へフラフラ遊びに行ってるか、また違う誰かにちょっかいでもかけに行ってるのか……

 ——なにやってんだろう。

 歩みを止める。
 それは、一度思って仕舞えば中々抜け出せなくて、その場から動けないほどに強固に、人間の心を支配する。
 人間は、モルテが好きだ、とはっきり自覚していた。
 その『好き』は、あの男がモルテにぶつけたようなグロテスクなものではない……と人間は思っていた。
 そう、だから自分は、モルテをあんな目に遭わせない。利用なんてするわけない。結婚はともかく子供や家庭とかの『幸せ』なんてクソ喰らえだ。周りからなんと言われようとひたむきにモルテを想えば、モルテにあんな悪夢を見せることなんてない……!!

 本当に?

 あの男の告白が、モルテへの想いが全て嘘だとは、性愛を解さない人間にもそうは思えなかった。それなら当事者かもしれないモルテは当然気づいているだろう。だからこそ今でも夢に見ているのだ。
 そんなモルテの心に、人間の想いは、この気持ちが届く余地はあるのか?

 それならいっそ、この想いを死ぬまで隠し通して「友達』のままでいた方が、お互いにとって一番幸せなんじゃないか?

 例えそれが、人間だけが一生嘘をつき続ける……という地獄だとしても。


 ***


 道路を車が走り去っていく。歩道側にポツンと立ちすくむ人間の姿にドライバーは若干気味悪く思うものの、飛び出す様子もないと分かれば関心を失って走り去る。
 人間は、しばらくそうしていたのち、スマホをゆっくりと取り出す。

 待ち合わせの前に見ていた、『婚約指輪』の購入ページ。

 そのブラウザのタブを消去し、人間はようやく歩くのを再開した。