三角リョヲヘイ
2025-03-16 15:00:07
18782文字
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月に鎮め/本編小説、第七話

人攫いの話、後編

春の嵐が連れてきた、あなたとわたしのわだかまり。
ついて離れて、まるで水面の花弁の様。

第七話
人攫いの話、後編




 
 腕を見つけたのは羅乃目だった。
 断面云々の話以前に全体的に傷みが進行しているそれは、春の嵐で遠路はるばる運ばれて来た物なのか、はたまた食事処伊呂波の前にわざわざ置かれた物なのかの判断が難しい状態であった。なんとなく店の脇道に落ちていただけのようにも見える。昨今の巷を震え上がらせている件なのか。もしかしたら単に事故的な要因の産物である可能性もまだ否定はできない。
 まるでいい感じの枝を見つけた犬のように平然とそれを拾い上げると、方角としては北町へ向かって思いっきり投げた。晴れ渡った爽やかな空の下、それは元が何であるのかわからないくらいに美しい放物線をえがいて遠のいて行く。
「あ、今なんか投げてただろ。なんだー? 危ないだろ?」
 ちょうど投げ終えた姿勢の背中を視界に捉えたトキ時は、伊呂波の戸から顔を出したところだ。何を投げたのか、何が落ちていたのかはわかっていない。
「実にいい感じの枝でやんした……
 感慨深そうに、ゆっくりと何度も頷く様子を見てすっかりそれを信じ込むと、「まあいいか。とりあえず手は洗うんだぞ」と言ってまた引っ込んだ。
 青い空から人間の腕が降ってくる現場に立ち会うなんて、是非とも辞退したいものである。鳥だってそんなものと並走していたら驚きだろう。
「あー閉じこもってる間に思いつけばよかったんだよな、暇つぶしにもなっただろうし……っと、この辺で見かけた気がするんだけどなあ」
「おひいの暇つぶしにはならなかったっしょ。あの体力のあり余り方、一桁年齢の子どものそれ」
 春の嵐が去っていったというのに、いつもの四人のうち三人は食事処伊呂波の二階へわらわら集まっている。そのうちに羅乃目も言いつけ通りに手を洗ってから上がってきた。
 儀三郎はというと、「わしは風呂に入りに行く!」と言って天候が回復してきた途中で早々に引き上げていってしまった。髪もまとめるし髭も毎日剃る、着物はぼろだがかなり綺麗好きな老人らしい。ここで誤解しないでいただきたい、残った四人はずぼらでも不潔でもない。部屋は掃除で綺麗に保つし、風呂屋にもしっかり通っている。ただ天候が回復に向かっていて東の空が明るくなってきたからと言って、まだ小雨が降る屋外へ出て風呂屋を目指すという暴挙に出なかっただけだ。あの老人には、自身を整えようとしていること自体に意味があるのかもしれない。
「北町の風呂屋はどこも絶対的中立なんだ。あの中にはどんな揉めごとも面倒ごとも持ち込めねえ。なんなら南町よりも安全なんじゃない? 手が出せないからって四六時中居座ってる奴もいるくらい」
 二階はトキ時の生活空間になっている。一階の土間にある細くて急な階段を上がり、板張りの廊下のような空間を挟んだ先の襖を開けると、六畳の部屋が二間あるのだ。手前と奥の部屋は襖で仕切ることが可能だが、奥の部屋へ行くには手前の部屋の中を通過する必要がある為、どちらの部屋の住人もなかなか落ち着けない仕様なのである。幼少期のトキ時は手前の部屋を宛てがわれていたが先の理由により、年頃を迎える頃に先代が物置きに使っていた掘立て小屋を知り合いの大工に頼んで居住空間に改装し、代わりに物置きに詰め込んでいたあれこれを手前の部屋に苦労して持ってきて詰め込み直したのだ。もちろん通路は確保して。
 今は先代が使っていた奥の部屋をトキ時がそのまま使い、手前が物置き状態というわけだ。
 四人が居るのは、手前の物置き部屋。
「なに探してるでやんすか?」
「碁盤と碁石だってさ。おひいもそっち探して」
「あったと思うんだよなー。確か打ってた、先代が。常連客とかと。多分」
「なんだかすみません」
「気にするなよ。せっかくあるなら使った方が先代も喜ぶってもんだ」
 そう、四人は先代がどこかにしまい込んだはずの碁盤と碁石を探している。
 物置き部屋はその名の通りの機能を果たし、なかなかに物が多い。物をあまり持たない文化であるとは思えないほどに。これは元から物置き部屋に置いてあった物に加えて、トキ時が先代の遺品を手放せず、ほぼそのまま残していることも理由のひとつだ。
「まさか黒がしっかり囲碁にはまるとはなあ」
「なに、仕事だっけ。あの変な話の」
「そうです。あ、いやその……負けっぱなしが悔しくて」
 本当の理由か、照れ隠しに取ってつけた誤魔化しか。とにかく黒骸は囲碁に真剣に取り組むようになっていた。
「知識が乏しすぎて戦略としてのあちらからの『誘い』に気付けないんです。そもそも気付けないから乗らないんですが。結局自分が意識できている狭い範囲だけに集中して気付く間もなくあれよあれよと惨敗続きで」
「んで、せめて勝てなくても鼻を明かせる程度の打ち方は身につけたい、って感じ?」
「そうですね。かなり懇切丁寧に打ち方を教えてもらっている自覚はあるので、せっかくなら復習しておきたいですし、詰碁の本も古本屋に幾つかあるのは確認済みです。教え甲斐があると思われていた方が仕事も続くかなと」
「ほーん。まあ色々言ってっけど、ハマっちまったわけだな、囲碁。俺も打てるから相手になるよ」
「本当ですか?」身近に対戦相手がいることにぱっと喜んでしまったが、慌てて顔を元に戻す。「あ、いえ……ああ、もう、駄目ですね。はまりました。対戦よろしくお願いします。まだ素人以下ですが」
「へへ。俺も将棋の方が得意だから多分そんなに強くねえと思うけど。いいじゃん。楽しんでこうぜ」
「はーいじゃあ、ふたりとも手を動かしてけー? 碁盤と碁石が見つからないんじゃ意味ないぞ」
 すっかり手が止まってしまっているふたりを、トキ時が手をぱんぱんと叩きながら促す。まずは見つけなければお話にならない。
「ん。碁盤てこの板でやんすか?」羅乃目が着古した着物と本の束の隙間から、木の板の角をつまんでずるりと引っ張り出した。「あっちで見たのと全然違うでやんす。薄くて脚がない」
 最低限の厚みをもった簡素な板。縦横十九本の線がところどころ掠れている。トキ時が先代の遺品を移動させるより前からここにあったのだ。年季の入ったそれは、久々に外に出されて戸惑っているようにも見えた。相手がいなくなってしまったのか、はたまたひとりで黙々と詰碁をするのが嫌になったのか。それでも手放されなかったくすんだ盤面を指でなぞっては、なんとなく過去に思いを馳せる。
 その後、上に乗っかっていたぼろの着物に挟まれた碁石を見つけた。碁笥には入っておらず、それぞれを大きめの巾着袋に無造作に詰めてあった。じゃりじゃり音が鳴るのが気に入ったのか、意味もなく羅乃目が幾つか握りしめて弄んでいる。
「これあれだな、数えるまでもなく黒い石の数が少ないな。これでも打てるのか?」
 羅乃目の手の中の石を考えても、目で見てわかる程明らかに黒い石が少ない。この言葉を受けて、羅乃目はその柔らかい手から黒い石を三個、巾着袋にそっと戻した。
「見てわかるくらい? そんなにない?」
「黒いのないなら、わっちがいいの持ってるでやんすよ」
 戻した石のことではないらしい、得意げな顔で懐から箱迫型の財布を取り出した。平たい紙入れとは異なりある程度の厚みと強度がある。これは彼女自身が西町の小間物屋で見繕った品だ。白い無地のちりめんの端を赤く縁取り、表面には桜の刺繍が施されていて、赤色の可愛らしい房飾りもついている。ちなみにぼったくられそうになったが、なんとなく値段交渉をしたら通常価格の範囲内程度の金額で買えたそうな。腐っても流行りの最先端西町、なかなか上等そうな品だ。
「はい」
「なんだ? 石持ってるのか?」
 手を握って突き出してくるので、トキ時が手のひらで受け止める。
 そこに転がってきたのは、つるつるして綺麗な黒っぽくて丸っこい「ただの石ころ」であった。しかも二個もある。
「お、いいの持ってるじゃーん。少し大きいけど十分っしょ。使わせてもらお」
 良は手のひらからひとつつまみ上げると、矯めつ眇めつして少し眩しそうにしている。もちろん物理的に眩しいのではない。綺麗な石をつい拾っては財布にしまい込んでいる羅乃目の行動そのものが眩しいのだ。そしてここぞ、と思った際に惜しげもなく放出してくる頓着のなさも。
 ただの石ころにしては限りなく綺麗で、碁石にしては果てしなく不恰好で少々大きいそれを足して、黒い碁石は合計で百五十三個になった。白は百八十個揃っているのに、何故ここまで黒い石だけ紛失しているのか。
「全部使うなんて稀だから、多分これだけあれば大丈夫。あとは適当に都度考えよ」
「またよさそうないい石があったら拾ってくるでやんす」
「ありがとう羅乃目、大事に使うね」
 その後、試しに一丁と行われた対局で、黒骸は良に完敗した。いや惨敗というと彼の自尊心が傷つく可能性を考慮している。つまりは散々であった。
「黒に十九路盤はまだ早いんじゃねえかな。広すぎてまだどこにも集中できない感じ。だから九路盤で練習してみるのもいいかも、マス目が少ないから初心者の入門向け。九路盤は手に入りにくいだろうし、単なる十九路盤への足掛かりだから、とりあえずでよければ紙に縦横九ずつ線を引いたの用意してやるよ」
 つるつるして綺麗で丸っこくて黒っぽいただの石ころが、「ええ、ええ、私は碁石です」と胸を張って盤上に乗っかっていた。君が勝ちを飾れる日は、まだ少しかかりそうだ。


「羅乃目、これが終わったら行こうな」
「はーやーくー」
 羅乃目が急かすのをものともせず、トキ時が土間の真ん中でぬか床を丁寧に混ぜている。ふたつある漬物樽は雨の日も風の日も毎日かかさず手をかけられており、その味は優しく深みを増していっている。まあ室内に置いてあるのでどんな悪天候であっても、穏やかな顔でぬか床を丁寧に混ぜるトキ時を観察することができる。
 春の嵐で有耶無耶になっていた、羅乃目の新しい一本下駄を受け取りに行くのだ。予定していた日よりもかなり遅くなってしまったが、まあ向こうも理由を察せるだろうし、なにより料金は支払い済みなのだ、文句は言われないだろう。
 ふたりで連れ立って歩く。
 反対側の花びらまで出るのでそれなりの距離がある。欲しいのは普通の履き物ではないので、東町へ出るよりも西町の店の方が場所柄的に融通が効くかと思っての判断だ。最短距離を求めるなら蜜の中を突っ切って行った方が近いが、そこに用事がないとはいえ羅乃目とふたりで蜜を歩くことに抵抗があるトキ時は、やや遠回りしてまで花びら沿いを通る予定でいる。勿論最初に買いに行った際もそうだった。
 ちなみにひとりの時で急いでいれば、蜜を突っ切ることもあるらしい。誰とも目を合わせず、俯きがちで足早に通り過ぎれば、ああ近道しているだけかと向こうも気付く。蜜を近道代わりに使うのは西町の住人だけだ、金づるにならないことは百も承知というわけである。
「ねえトキさん」
「なんだ?」
「えーっと」話しかけておきながら、なんとも歯切れの悪い様子で小首を傾げている。しばしひとりで唸ったかと思うと、意を決したように勢いよく顔を見上げてくる。
「あのね、わっち、トキさんの匂いね、覚えたでやんすよ」
「おー? おう、ありがとう、な?」
「えへへ」
 お礼を言いつつも、言葉の意味が飲み込めないトキ時の笑顔には疑問符が大量に浮かんでいる。はにかんだかと思ったらぴょこぴょこ歩調を早めて背中になってしまった羅乃目の態度からして、悪い意味ではないことは理解できるが。
 助けを求めてちらりと羅神へ視線を送ると、無い肩をすくめて「私も知らん。だが友好の証明だろう、受け取っておけ」などと適当に受け流されてしまった。
 鼻が効くと、人間とは違う愛情表現みたいなものがある、のか? と自分なりに納得をしようと試みている途中で、追加の情報が加わった。
「過去にその台詞を吐いたのは、黒骸に対してだけだからな」
「!」
 なんとなく、ふと足が止まった。
 それはつまり、重大な言葉だったのではないか。
 重大な。
 夜の賑わいとはまた違った種類の賑わいが、日中の西町に溢れている。その真ん中で、突然足を止め、自分の手のひらを見つめている男。
…………
 少しずつ背中が離れて行く、外出時には手を繋ぐ令を出されている少女。隣を歩いていた者が視界から消えても、特段気にせず歩き続ける少女。
……羅乃目!」
 立ち止まり振り返る背中。
 揺れる薄墨と赤い髪紐。
 髪紐の先に付いている鈴の中に石は入っておらず、動き回っても音は鳴らない。
「はぐれるぞ」
 トキ時は左手を差し出した。
 それは手のひらを上に向けたものではなく、自分の体に向けたままであった。手を取りにいくではなく、相手に自分の手を取ってもらう姿勢。
 その手のまま、立ち止まった羅乃目に向かって歩き出す。隣に並ぶまで近づくと、当然のように羅乃目はするりと手を取ってきた。ひとりはふたりになって、止まらずに歩き続ける。
 指を絡めるような繋ぎ方でも、羅乃目が振り解けないようにする握り方でもなく、ただ手のひらを重ねて握り合う。
「トキさんの手分厚い。黒と全然違うでやんす」
「そうだなあ、まあそうだよな。はぐれてまた何かあったら黒に合わせる顔がないからな。今日はひとりで走り出すの禁止な」
「はあい」
 羅乃目は確かめるように、握る手に何度か軽く力を入れた。力加減の調節は得意なのだ。にぎにぎ、にぎにぎ。
 トキ時は内心ほっとしていた。拒否されることも当然想定していたし、そうなる可能性の方が高いと思っていた。ただ、羅乃目側から明確な歩み寄りがあった今、責任を持ってこの少女の隣にいるべきだと、そう強く感じた。感じていた。
「トキさんはね、わっちが守ってあげる」
 昨今の西町周辺の治安を思ってか、唐突な羅乃目からの申し出にトキ時は苦笑混じりでこう返す。
「俺はそんなに」危ない目には……と続けようとしている脳みそと並行して、彼の頭では己の過去を振り返る脳みそが動いていた。鎌苅トキ時二十三歳、北町の死神様絡みで誘拐されること過去二年内に二回、そして痛い目や危ない目に遭うこと数知れず……
……そうだな。羅乃目にお願いするよ。任せたからな」
「うん! まかして」
 羅乃目が守ってくれると言うのなら、お言葉に甘えるべきだ。そうしよう。なにかある度に、まるでこの世の終わりのような今にも死にそうな顔をして、悲しげに自分を突き放そうとしてくる親友を見なくて済むのなら。
「羅乃目は強いもんな」
「そうでやんすよ」
 そうしてしばらくの間、どちらがともなく繋いだ手を軽く振って歩いた。「どこまでも」は行けなくとも、もう少し先の履き物屋までは行ける。行けるところまでで、いいのだ。多分。
 本日の一番の予定である、履き物屋でのやり取りはあっという間に済んだ。
「これ本当にお嬢ちゃんが履くのかい? 履くのかい。いやね、言われた通りに作ったよ勿論そりゃあこちとら職人でね、これでおまんま食ってるからね。注文通りだよ。いやね、あんまりない注文だからね、こんなに重くするのは、うん。ああ似合ってるね、いい色だろう? 質が悪いとその朱の発色が悪くてね。うん。ああーそんなに飛び跳ねるのかい? ああー、そう、うん。ちょっと驚いてるだけだよ、うん。また何かあったらおいで。お嬢ちゃんのことは忘れないだろうからね。次また来てくれたらまけるよ」
 職人の男は完成した下駄を取りに来ない羅乃目を、いたずらで注文したのではないかと思っていたらしい。代金は前払いで受け取っているので店としての損失は無いが、とても日常使いするような代物ではない下駄を持て余していた矢先に来店があって、安心したそうな。
 今度は帰りの道すがら。トキ時と目線が合うほどにしっかりと上げ底された羅乃目は、行きよりも遥かにご機嫌な様子で歩く。
 手はまた、柔らかく握られている。
「トキさんって、伊呂波の子じゃなかったでやんすね」
 今日の羅乃目の話はやや唐突に始まる。本人の中で前置きがしっかり存在するのだろうが、気を抜くとそこをすっ飛ばしてしまうのか、気持ちが先走ってしまうのか、今日はそういう気分なのか。
「ん? ああ、俺は養子なんだ。小さい頃に両親は死んじまって。親戚中をたらい回しにされて。最終的に限りなく他人に近い親戚なのか、親戚に近い他人なのか……先代が引き取ってくれたんだ」
 この唐突っぷりにもう慣れたのか、トキ時は難なく会話を進められている。やはり五歳児相手だと思っている方が円滑に進むのかもしれない。
「死神も知らなかったの? ちょっとびっくりした顔してたでやんす」
「あー言ってなかった、かも。あいつが忘れるとは思えないからな。別に隠してるわけじゃないんだけどな、わざわざ言うことでもないし。北も西も、多かれ少なかれ問題を抱えている奴が多いからな。本人が聞いてほしがってない限りは過去を詮索したりしないのが暗黙の了解って感じで」
「さみしい?」
「うーん、どうだろうな。今でも生きていたらどうだったかなーとは、たまに思うよ。親父とお袋に大事にされてた自覚はあるし、先代も不器用なりにかなり俺によくしてくれたから……親父がふたりいるって感覚に近いな。傍目には不遇に見えたかもしれないけど、甘えたい時に甘えられない、みたいな子ども時代じゃなかったのは、ありがたかった」ふと言葉を切った。続きを出そうと唇は開いたままぼんやりと空を仰ぐ。「時間が経って大人になって、色んなことに整理がついて、今はあんまり寂しいみたいなことは思わないかも、なあ」
 不確かな語尾で一旦話を締める。空を見上げたままだ。そこに答えが書いてあればいいのに、そんなものは勿論ない。当然、雲の形がみるみる変わって亡き両親と先代の顔に見えてくることもない。
「まあでも、両親が死ななかったら先代には引き取られなかったし、そうすると良や、それこそ羅乃目と黒にも出会わなかったからな。そう考えると、まあ、人生はよくできてるなと思うよ」
「よくできてる?」
「そう」
 それは噛み締めるような、自分に言い聞かせるような、抱きしめるような、しっとりとした語感だった。
「よくできてる」
「じゃあわっちも、よくできてるって思っとこ」
 なんとなく、ふたりで目を合わせて「よくできている」ことを確かめ合った。それが何かを掴めるのには、まだ早いかもしれない。でもそう思っておくと少しだけ心が軽くなれる気がした。呪文に近い。だがそれで十分。
……!」
 ふと視線を前に戻した羅乃目が、道の異変に気付いた。何人かの男が、明らかにこちらを見ている、物陰から。
「待ち伏せされていたのか?」
 同じく異変に気が付いた羅神が、警戒して歩を止めた。
 羅乃目はトキ時との手をゆっくり解いて、ひとりで前に出る。
 トキ時は何が起こっているのか把握できずに、戸惑いから足を止めた。
…………
 物陰にいた男たちは、羅乃目に存在を察知されたことを察すると誰からともなく道へ出てきた。
「お前が食事処伊呂波の羅乃目だな?」
 男の数は、いちにい……四人。みな一様に頭巾を被り目から下を布で隠し、人相が分からない。どう考えても穏やかに済みそうもない。
「お前ら誰でやんすか」
 黙秘を肯定と受け取ったのか、道の真ん中の男が話しかけてくる。
「あんたご指名でね。先日の獲物があんたを自分と同じ目に遭わせてほしいって、命乞いじゃなくてそういう懇願されたもんで。女じゃなかったけど、新規顧客の開拓に一役買ってくれたし、面白いから叶えてやろうってすんぽうさ」
 男の話で全てを理解したトキ時がさっと青ざめて口を右手で覆った。
 おそらく、蝶。
「あんたに尾行が通用しないのは調査済みでね、店まで行ってもよかったんだが……まあ攫うのに店の奴ら皆殺しにしたら贈り物の意味がなくなっちまうからな。追いかけられないなら待つまでよ」
 贈り物……つまりこいつらはただの人攫いの一団ではなく、最近巷を騒がせている件の人攫いということ。
「トキさん!」
「まあまあ待ちなって」
 逃げよう、と叫ぼうと勢いよく振り返った羅乃目の目に入ってきたのは……
「ら、羅乃目……
 身動きが取れないように後ろから左腕で押さえ込まれ、右手に持った匕首を首に突き付けられているトキ時の姿だった。良があの日、半分ふざけて始めた茶番と同じ構図。背後から来た五人目の存在を見落としていた。
「大人しくしとけよ、お互いに。寿命は少しでも長い方がいいだろ?」
 ひたと突き付けられた刃は、簡単に自分の首を切り裂ける。この事実だけでトキ時は震え上がった。自分の窮地も、羅乃目の足手纏いになっていることも、お蝶の末路も、全てを思ってただ震えるしかなかった。
「トキ時、目を瞑れ」
「!?」
 他の人間には聞こえない声に反応して、咄嗟にぎゅっと目を瞑る。
 右頬に、一陣の風が吹いた。
 羅乃目はほぼ予備動作なしで、膝を曲げて体を小さくするように飛び上がる。
 トキ時の目の高さまで膝がくると、背中を丸めた体勢のまま、そこから体を半身に捻りつつ左脚を勢いよく前方に繰り出す。
 器用にトキ時の頭を避けて、後ろで密着している男の顔面を下駄の歯を切先にして思い切り蹴り抜いた。 ──ゴッ!!
 先ほどおろしたばかりの新品の朱い一本下駄の歯は、無慈悲に男の鼻先を捉えてそのままめり込む。
 羅乃目の重さが二十貫以上、そこに筋力由来の速さが加わり、下駄の硬さも加わる。力と重さを携えた下駄の歯という小さな面積は、凶器となって頭蓋を砕き、脳みそをゆすった。
 もう二度と立ち上がれないことに気付く間もなく、男は後頭部で地面を粗く削りながら後方へ滑っていく。
 蹴り出した脚を軸にそのままトキ時の右側へ着地すると、勢いのまま手を取った。
「トキさん走って!」
「うわあ?!」
 ほとんど引き摺られる勢いでトキ時は羅乃目に手を引かれ、文字通り飛ぶように走っている。
 何が起きているのか把握するよりも前段階。
 後ろで男たちの声が聞こえる。
「振り返らないで」
 後方に持って行かれていた意識が、前方の羅乃目に戻る。足にも力を入れなければ。地に着いていない足。もつれて転ぶわけにはいかない。
「わっちが抱っこした方が早いけど、一回止まってる時間ないかも!」
「は、走る! 大丈夫だ!」
 羅乃目は尾行を撒くのと同じ要領で細かく角を曲がり、あえて人混みに突っ込んでいく。しかし相手も玄人だ、おおよそ取るであろう行動を予想されているのか上手くいかない。
「逃げ切れない」と口の中だけで発音すると、ほんの少し時間が稼げればいいと判断し、羅乃目は路地裏に並んだ木製の樽の間に体を滑り込ませた。トキ時の息はもう限界近くに上がっている。
「捕まろう。ふたりで」
「ほ、本気か?!」
 突拍子もない提案に、当たり前の反応を示す。息を整える暇もない。
「本気でやんす。あいつらわっちだけが狙いみたいだから本当はトキさんを逃がしてあげたいんだけど、店の名前と、多分場所も割れてるし、顔を見られたとか難癖つけられて間違いなく消される。追っ手を全員潰すのもきっとできるけど、そんなことちまちまするくらいならあいつらの拠点に乗り込んで丸ごとやっちゃった方がいい」
「待て待て、さらっととんでもないこと言ってる自覚あるか?」
「だって他にいい考えあるでやんすか? 今だけ逃げたって全然無駄でやんすよ。だったら問題は根本から解決しないと。それに」羅乃目は髪の毛をくるくると巻いて乱れないようにだんご状にまとめる。「大元を潰したら、もう変な人攫いはいなくなる」
 同意を求めるような目線で見上げてくるその目は、どうにも覆せそうにない。
「人攫いはたくさんいるけど、少なくともひとついなくなるでやんすよ」
……それをやるのが羅乃目である必要はあるのか? 相手が何人いるのかわからないんだぞ」
「死神が、あいつらの存在を噂程度でしか把握できないって言ってた。わっちは死神がなんで死神なのかあんまりわかんないけど、そう呼ばれるくらい凄い人間なんでやんしょ? そういう人間はきっと自分の情報網を持ってると思う。だって知らないことは弱いことだから。でもわかんないって、言ってた。正義の味方も悪人もそこに辿り着くのが難しいんなら、攫われた奴が内側からやるのが一番いい」丸くなって羅神の背中を撫でる。「羅神は黒を連れて来て。多分もう伊呂波に帰ってきてる。見つかるようなら死神もいた方がいいかもしれない」
「そうだな、わかった」
「待てよ、どこに連れて行かれるのかわかったもんじゃないんだぞ。そもそも危険すぎる。俺は賛成したわけじゃないからな」
「私は何処に行ったとしても羅乃目の居場所を察知できる。羅乃目から私は出来ないがな。便利だろう」
「そういう話じゃ……
「大丈夫、トキさんはわっちが守る。今は他に案が浮かばないでやんす。わっちを信じて。絶対なんとかするから」
 その後、逃げ回り疲れたふりをして男たちの前にふらりと顔を出した。事実、トキ時は限界のように見える。ハナからトキ時と一緒に逃げ切るのは土台無理な話ではあったのだ。
「てめえよくも」
 男からの拳を、羅乃目は甘んじて頬で受け止める。避けた方が話が面倒だからだ。既に手遅れであることは否めないが、なるべく弱そうなふりをする。さっきはあくまでも不意をつけただけ……という体で。
「気持ちはわかるが顔はやめとけ、商品だろ」「結局最後はバラすじゃねえか、多少色がついてても誰も気にしねえよ」「楽しみは本番に取っとけよ。今から削るな」「なあこいつよく見なくてもガキじゃねえかよ」「いるだろ?幼児趣味のいつものあいつがよ」「幼児って程じゃねえだろうが」「まあいいだろ細かいことは、我々はおこぼれに預かれればそれで」
「今やっちまうわけにはいかねえ。連れて行くまでが仕事だ」
 後ろ手に縛られた羅乃目とトキ時は、男たちに挟まれるように何処かへ連れて行かれる。
 抱えられそうになったが「自分で歩く」と拒否して、しおらしく大人しくを徹底している。羅乃目の重さをここで知られしまうのはうまくない。
 西も北も、人通りはある。人目はある。誰も気になどしないのだ、関わりたくない。連れて行かれる側が騒ぎ立てていないのがまた状況の不可思議さを濃くしているが、それ自体は特段珍しい光景でもない。明日は我が身の可能性を常に念頭に置くべきだ。日常は思いの外危険と隣り合わせなのだから。
 この最低な御一行が足を止めたのは北町にある家屋のひとつ。家屋といっても打ち捨てられているように見受けられる。なんらかの抗争の結果だろうか、辺り一帯はひと昔前はそれなりに栄えていたであろう形跡だけ残されていた。元々道幅を広く取られている区画なのだろう、建物同士は距離がある。潜伏でも悪事への利用でも、なんにで利用してくださいと言わんばかり。
 中に入れば、そこはがらんどう。こういう場所は擬態的な意味で生活感を用意しておくべきではないだろうか。
 よく見れば中央の畳に取っ手が付いている。
「この下がね、お楽しみ会場ってこと」
 しゃがみ込んで畳をコツコツと叩き、薄ら笑いを浮かべているのが布越しでもわかる。
「ご開帳」
 暗く口を開けたそこは、なるほどどうやら下へ向かって階段がある。どれだけの深さと広さがあるのかわからない。
「さて、じゃあお天道様に別れを告げな。もうここを降りたらそれまでだからよ。おおっとこいつは失礼、もう室内に入っちまってるなあ。じゃあお別れ会は無しってことで。あー野郎は本当はいらないんだが、まああれだ、絶望を身内に見せつけながらってのもこれまた人気でね。観客がいた方が盛り上がるって性分の客も多いのさ。だからもう少し生きられる、おめでとうよ」
 無言で耐えていたトキ時が、いよいよ嘔吐しそうな顔色になっている。それを視界の隅で捉えた羅乃目は、自分を掴んでいた男を体当たりで外して身軽になった。
 縛られた手を輪のようにして、後ろ飛びで膝を抱えて飛び越える。これで縛られたままだが腕が前にきた。着地で生じた屈伸の反動を利用して飛び上がると、一番近くの男の側頭部を足の甲で蹴り飛ばす。首が妙な方向を向いて崩れ落ちると動かなくなった。
 次いでいち早く反応を見せて切り掛かってきた刀を白刃取りすると、手で挟んだまま勢いよく右に揺らす。男はその力強さに驚いて体勢を崩し、がら空きになった右側頭部を目掛けてまたしても蹴りを入れる。が、狙いがやや外れて首に当たった。嫌な音がして相手が動かなくなる結果だけは変わらない。
 落ちた匕首で器用に手の縄を切ると、右足を軸にして半回転し、トキ時から手を離した三人目と向かい合う。男の視界から外れるように瞬時に体勢を低くして急接近する。握りしめた左の拳で鳩尾を打ち、苦しがって前のめりになる男の顎を右拳で砕き、仰向けに倒れた首目掛けて足を踏み抜く。
 四人目は応援を求めてか、慌てたように階下に降りて行く。
 あまりの早業に、なにがなんだかわからず、トキ時の吐き気は一旦引っ込む。羅乃目が手の縄を切りに近寄ってきた。
「トキさんはこれ持って、そこ、端っこ。ぎゅってなってて。わっちが戻って来るまで絶対目を閉じてて、耳もあんまり聞こえない方がいいかもしれない」
 羅乃目はやや放心状態のトキ時に鞘へ戻した匕首を持たせ、着物を引っ張って部屋の隅へぐいぐいと押し込む。押し込む場所などないというのに。
「小さくなって!」
「あ、ああ、わかったわかった……
「まだ明るいから、きっと外から人は来ないでやんす!たぶん! 勘! わっちの勘はよく当たるでやんす!」
「お、おう……
「絶対だいじょぶでやんすよ! 待ってて!」
 部屋の角に背中をつけて膝を曲げ、足の間に匕首を挟んで膝と一緒に抱えている姿勢にされたトキ時は、満面の笑みで肩を押さえつけてくる羅乃目に圧倒されて、つられて笑う。
 笑っている場合ではないのに。
 笑える精神状態ではないのに。
「小さくなってっ! 戻って来るまでそのまま!」
 軽やかに階下へ降りていった羅乃目の頭頂部はあっという間に見えなくなり、がらんどうの部屋でひとりきりにされている。いや、正確に言うと他に死体が三人分。なるべく見ないように顔を膝に深くうずめた。
 しばらくすると、抱き抱えていた匕首がカタカタと鳴りだした。
 脳内で状況を整理して、己の置かれた状況を理解して、今し方なにが起こったのかを把握して。恐怖で震えるトキ時に合わせて、カタカタ、カタカタとそれはずっと鳴っていた。
 














  





 


 
「トキ時! おいトキ時!」
 どのくらい時間が経ったのか、トキ時は親友の声と肩を揺さぶられる衝撃で我に返った。
「トキ時さん! 羅乃目は?!」
 慌てふためいている黒骸が割り込んできて、トキ時の肩を掴んで揺すり起こす。羅乃目との約束を守っている彼は目を閉じて匕首と膝を抱え直そうと抵抗している。
「だ! 駄目だ! 俺は! 羅乃目が戻って来るまで目を閉じて小さくなってないと!!」
「なに言ってやがる! 俺だ! トキ時!」
 寄ってたかって、まるでトキ時をいじめているかのような構図を作り出している男性陣の背後から、何も知らない羅乃目がひょっこり顔を出した。
「あれ、みんないる」
「羅乃目!!」
 きょとんとした目の彼女に向かって黒骸が走る。走ると言っても、一歩二歩。
 額を怪我したのか、顔は派手に血で塗れている。頬は切れ、鼻血も出している。右手で左腕を押さえた姿勢の羅乃目を、黒骸はそのまま強く抱きしめた。
「一緒にいられなくてごめん……
「ちょっと疲れたでやんす」
 体が固まってしまったトキ時は、良に引っ張り上げてもらう分出遅れた。
「羅乃目……!」
「んむ。トキさん平気?」
「俺は、大丈夫、大丈夫だ。羅乃目が守ってくれたから」
 トキ時は黒骸ごと羅乃目を抱きしめた。
 着物が黒くて気が付かなかったが、たっぷりと血を含んで重くなっていた。体温や肌の艶とは異なるじっとりとした感触が伝わる。
「ごめん、ちょっと離れて、ほら」良は野郎ふたりの肩を叩いて引き剥がす。「羅乃目どこ怪我した? 見せて。応急処置程度なら出来るようにちょっと持ってきたから」
 肩にかけていた風呂敷から包帯と貝殻に塗り固められた止血薬を取り出す。
「顔拭こ」綺麗な手拭いで羅乃目の顔を拭きながら聞く。「どこが痛い?」
「んー……
「興奮してるとわかりにくいかな。じゃあ顔から手当てするから、段々痛くなってきたところがあったら教えて。座ろうか」
 羅乃目は小上がりに腰掛けて、くるくると纏めていた長い髪の毛を下ろした。纏めていたおかげで血で染まっていない、綺麗な薄墨色の手入れの行き届いた髪。
 良は土間で中腰になり、彼女をよく観察しながら額の傷へ薬を塗っている。額の怪我はどうにも派手に出血してしまう。思ったよりも浅く小さい傷に若干の安堵を覚えつつも、そこまで窺い知れない状況にある引き剥がしたふたりがおろおろしているのを背中で感じていた。
「腕痛い」
「左? 押さえてたな。着物が切れてる」
「あと、んと……疲れた」
 羅乃目がひと言発するごとに、左に黒骸、右にトキ時がぴったりと座ってくる。
「他はどう?」
「んー、全部、ちょっと痛いかも」
「羅乃目の命を脅かす負傷は無い。緊張と疲れから全身の筋肉が軋んでいるのだろう」
 憑守は憑いている紅族の命の危険を感じ取れる。どうやら致命的なものを取りこぼしているということはなさそうだ。黒骸がそれを良に伝えた。
 良は慣れた手つきで応急処置を進めていく。左右の野郎どもが近すぎて少々邪魔そうにしているが、文句は言わない。羅乃目を安心させようとしているのだろうか、やや微笑んでいるようにも見える。
 不思議な時間だ。死体が転がっている最低な借景の中で、不釣り合いに寄り添っている四人の生き物が妙に暖かく見えた。
 そんな幻めいたまやかしに浸る間もなく良は羅乃目の応急処置を終えると、最後に膝の上で行儀よく握りしめられている彼女の両手を取って二回とんとんと上下に揺らした。
「はい、終わり」
 その合図を受けると、羅乃目は左側にいる黒骸の肩へころんと体重をかける。
「羅乃目、儀三郎のじじいの家、ここからの方角わかる? 自分で歩けそう?」
「うん。わかる。ちょっと痛いけどだいじょぶ」
「じゃあトキ時と行って」そしてトキ時の胸を拳で軽く叩いた。「お前も一応診てもらえ」
「えあ、おう」
「診察代はツケとけ、俺がいい酒を見繕って後で渡しとく。迎えに行くからそのままじじいんとこで待たせてもらうか、別に俺ん家上がり込んでていいから」
「おう……
「悪いが黒は居残り組」良は体重をかけていた足を左右入れ替える。「俺たちは、後始末」

 
 背中を黒骸と良に見送られて、ふたりは儀三郎のいる長屋を目指している。
 返り血を浴びて負傷した少女と青年の組み合わせは、例えここが北町だとしても少々異質であった。現に流れで防御の甘い布陣になっているにも関わらず、ある程度の距離を歩いた今も、絡まれたり理不尽な暴力を受けることもなかった。
 少しだけ離れて歩くふたり。横並びで歩調は合わせているが、間に人ひとり分の距離がある。
「痛いか? おぶろうか?」
「んーん。平気。歩く」
「そうか……
 じんわりと重苦しい空気の隙間から、なんとか心という名の手を伸ばす。おっかなびっくり伸ばした手は、行き場をなくしてゆっくりと下された。

 
「はあ、どうすっかな。燃やすか、手っ取り早く、何もかも。燃えてくれるといいんだけど」
 半分以上独り言のようにぶつぶつ言いながら、良は眉間を押さえて俯いている。脳内で様々な想定を走らせているのだ。
「気は進まねえけど、ちゃんと下の偵察に行かないとな」
「生存者の救出ですか?」
……いや」体勢は変えず、重そうにやや大きめに空気を吸い込む。「仮に攫われた女がいて、生きてても、口封じの為にここで殺す」
 息を吐き切ると同時に、苦しそうに最後の音を出し切った。
「あの血、見ただろ? 明らかに返り血。刃物なんて持ってない筈なのに。つまり打撃系だけで倒したわけじゃねえ、あの手力なら人体を引き千切ったりもできるだろ? 心得がなくても奪った刀で力任せに両断できるだろ? 羅乃目の握力はどの程度? 両手で押さえ込んだら頭蓋骨は砕ける?……人間離れな挙動をしていた可能性は否定できねえ。羅乃目が階下でどんな風にどれだけ暴れたかわからねえ今、目撃者は誰ひとりとして逃すわけにはいかない」
 そして自嘲気味に、こう続けた。
「トキ時を守るだけなら口封じする必要ねえんだけどな。守るものが増えると苦労する……まだいると決まったわけじゃねえけど、女の顔を見るとどうも、鈍りそうで」
 両の腕で守れるものの数は限られている。許容量の上限を超えてしまえば、指先をするりと抜けて、それはどこかへ消えていく。
「そうまでして、羅乃目の正体を隠そうとしてくれているんですか」
「そう……そりゃそう。だってトキ時を守ってくれたからな、恩は恩で返す。ふたりのことも上手く誤魔化す。今後も」
……ありがとうございます。では偵察の件は俺に任せてください。生存者でなければ何を見れば?」
……この正面玄関が潰れた時に詰まないように、別の出入り口がある筈だ、酸素を供給する通気口とは別に。気付いてるだろ? ここから誰も逃げ出してこねえ、気配もねえ。つまりは誰も動けないか、別の場所から逃げてるか、だ。そこから誰かを逃してたら意味がないからな、どこに繋がっているかも確認しねえと」ここでようやく、押さえていた眉間から指を離す。「あとは広さ」
 彼の読み取りにくいそれでもわかるほど、表情の険しさは変わらない。
「わかりました。では雨庸に任せます。肉眼よりも雨庸に任せた方が遥かに信頼が置ける」
「手段は任せる。頼んでる側の俺に口出しする権利ないから。欲しいのは正確な結果」

 
「殺したのか?……みんな」
……生きてないと思う」
 羅乃目とトキ時の間には、ぬるり、どろりと、重い沈黙が流れる。羅神はふたりの視界に入らないようにしているのか、いくぶんか後方を歩いていた。
……人間もさ、生まれ変われるけど、前世の記憶なんて無いし、俺だって何かの生まれ変わりかもしれないけど、じゃあ前世の時に『来世に期待して』って考えてたかどうかもわからない。そもそも本当に生まれ変われるのか、生まれ変わってきたのかわからない、勝手に俺たちはそう思ってるだけで」トキ時は頭を掻いた。「ああくそ、なんて言ったらいいのかわからないな。ええと」
「人間は殺しちゃいけないって話でやんすか?」
…………」直球の問いは、匕首よりも鋭くトキ時を刺す。「……そう、かもな」
「殺さないとこっちが死ぬのに?」
 羅乃目からの問いは努めて冷静な温度に感じられた。怒っているのだろうか、起これば怒るほど静かになる彼女の性質をトキ時は知っていただろうか。
「人間はわっちらを殺していいのに、わっちらは人間を殺しちゃいけない意味がわからないでやんす」
 羅乃目の言う「わっちら」が、紅族を指すのか、現状のこのふたりを指すのか判断できなかった。
「人間だって、駄目だ……いいわけがない。命が一番大切なんだ。誰だって、なんだって」
「わっち殺されるなら、その前に殺す」ずっと前方だけを見ていた羅乃目が、トキ時に顔ごと視線を向ける。「人間はわっちらに酷いことをした。だからわっちらも人間に酷いことをして、いい」
 あまりにも真っ直ぐで、歪で、力強い、彼女の思考回路の根源的部分。仇を憎むのは自然の摂理。人間側の自業自得に過ぎない。
「人間は殺してもいい。だって始めたのは人間からだから」
「じゃあ俺も殺すか? 俺だって人間だぞ」
「トキさんは人間だけど、酷いことしてない、から、けど……ええと」
 彼女の頭と胸の奥でごくごく小さく芽生えていた靄のような輪郭のない感情を、その言葉は的確に穿ってきた。着物の袖を落ち着かない様子でこねくり回している。
……わかんない、トキさんは人間だけど、したくないって、思う……なんでこんなに全部難しいんだろ。人間なんて全部どうでもいいのに。大事って、どこからどこまでのことを言っていいの? 人間は全部全然好きくないけど、トキさんは嫌いじゃない、死神もかもって、思ってる」
 行き場のない問いかけは緩やかに地面へ落ちて、土に染み込んで、誰も答えを教えてくれない。相変わらず袖をこねくり回しながら、自分の中に感じる矛盾を外へ追いやろうとしている。
 言い出した張本人であるトキ時の方が、遥かに後悔したような難しい表情をしていた。
「だって、トキさんのこと守るって、決めたよ」

 
「雨庸が戻ってきました」
「俺待ちだった? 悪い悪い」
 この場所を燃やす為の準備をすると言って、しばし離れていた良が戻ってきた。
 三人の死体は手持ち無沙汰だった黒骸が階下に向かって投げ入れたので、名残はあれどまた随分とすっきりした屋内に戻っている。これが普通か。死体など無いに越したことはないのだから。
「縄、ですか?」
「そう、油を纏わせた縄を張り巡らせて満遍なく燃やせないかと思って。もしくは絶対燃やし尽くしたい場所に置くとか。通気口から酸素がくるなら、途中で変に自然鎮火したりしないとは思うけど」
「なるほど。では結論から言うと、別の出入り口はありました。でも、おそらく羅乃目が壊して塞いでいます。壊す前に何人か出ている可能性は否定できませんが、破壊後はとても人間が通れるものではなくなっていました。何処へ繋がっているのかも把握していますので、ここを燃やし始めたら俺はそっちへ行きます。動物がいれば聞き込みもできますし、足跡が新しければ後を追います」
「わかった、助かる」
「広さとしては伊呂波三個分ないくらい、といったところです。降りてすぐが一番開けた空間になっていて、他は比較的狭く区切られています。壁は石で補強されている部分もありましたが基本は土壁でしたので、燃えるものだけ燃え尽きれば、下手に延焼することはないと思います。縄は俺が這わせてきますので、良さんは降りなくて結構です」
…………
「あの、変な気遣いや、まして嫌味でもないですからね。雨庸の案内を付けて俺が行く方が遥かに効率的であるというだけで」
「わかってる……ありがとうな。とっとと済ませよう」
 まだなにか言いたいことが残っているのか、黒骸はじっと良を見つめてくる。
「なに?」
「血で汚れているそうですが、顧客名簿があるそうです。回収しますか?」
……一揆の血判状よりタチ悪そうだな。いいよ、そのまま燃やそう。今客が入ってたかどうかわからねえが、結局は死亡者名簿になるだけだ。従業員も客も、ここに今いなかった奴らは燃えかす見たら散って行くだろ。それ使ってゆする気もねえし」
「誰かが事業を引き継ぐ可能性は」
……そこまでは俺らの範疇じゃない。正義の味方じゃねえんだ。この先でまた交わるなら、その時はその時」

 
「汚れちゃった」
 思い出したかのように懐から取り出した箱迫を見つめて、羅乃目はぽつりとこぼす。
「白くない方がいいのかな。黒とか赤とか」
 血だかなんだか、それからその他諸々のせいですっかり可愛らしさを失ってしまったそれは、大人しく華奢な手に収まっている。房飾りはほつれながらもかろうじてぶら下がったままではあるが、毛先が毛羽立って薄汚れていた。ぷつりと取れてしまうのは時間の問題だろう。
……買いに行こう。また、白いやつ。可愛いもんな、白いの。俺が買ってやるよ。それで、それが汚れたらまた新しいやつを買いに行こう」
「んん」
 否定とも肯定とも取れない羅乃目の鼻の奥が鳴る音を境にして、トキ時の声色に変化があった。
……俺、護身用に懐刀を持ってるんだ。ずっと、いつも。常に、肌身離さず。今も、持ってるんだ。でも怖くて出せた試しがなくて。俺にもっと勇気があったら、羅乃目にあんなことさせずに済んだのかなって、少し、思ってた。ごめんな」
 着物の胸元を握りしめ、一度深く深呼吸し、己を整える。
「守ってくれて本当にありがとうな」
 そう言いながら、また同じように羅乃目に手を伸ばした。少し震えている手を。
……ん」
 またするりと、その手を握る。

 
「世間的には、トキ時と羅乃目に手を出されたから俺が出てきたっていう構図に持っていける……こういうのを手柄って思うタチ?」
「いえ、全く。それよりも、裁かれたりしませんか?」
「なに。北町のあれこれは太都の、というかこの国の、か……法じゃ裁けねえよ。ここは太都にして太都にあらず。この国にしてこの国にあらず。てめえの身はてめえで守るの一択」
「乱暴でわかりやすくて、助かりますね」
「トキ時には……内緒」

 
     *


 愛の果て、執着の果て。成れの果て?
 少なくともひとつの最果てはご覧にいただいた。さて、いかがだったであろうか。
 執着が引き起こした己の終幕。
 執着が巻き込んだ他人のあれそれ。
 人の振り見て我が振り直せ?
 直す頃にはあの世行き?
 愛と執着の違い(あるいは近似)については、今回は結論が出なかったということで締め括らせてもらいたい。
 全く別のわだかまりの種だけ残して、春の嵐は過ぎ去って行った。
 見えるものを信じたい、見えないものに縋りたい。
 日常は続かない。
 神はこんなに近くにいる筈なのに。
 
 



次話

第八話、役割の話