2025-03-16 07:28:47
14838文字
Public 小説(pixiv公開済)
 

チョコレート・ハニー

味覚のないフォークの千斗社長に、チョコレートをあげたいと願うコンビニ店員百瀬くん。
ケーキである自分の「血」が、千斗にとってチョコレートの味に近いと知り……。
※作中に実際の怪我・流血はありません。ほのぼのイチャラブです。

ケーキバース(pixpedia/ケーキバース)なつきあってるユキモモ(シャチョコン)のバレンタイン話。
コンビニくん(春原百瀬20歳)=ケーキ、社長(折笠千斗27歳)=フォーク。

以前書いた長編と同じ世界線ですが、話は独立していますので、単体でも読めると思います。
⇒『マーブリング・マーブル』 https://privatter.me/page/66e6dbf8adecd
※告白から恋人になるまで。こちらはシリアス、微量の流血・受傷描写有り。ご注意下さい。

 とろりとろけ、まろり沁み込む、Bitter & Sweet。
 二度とふたたび、彼が楽しむことはできない味。
 それを、あげられるとしたら。

 ☆     ☆     ☆

――チョコレート、かな」


 きっかけというか、思いつきの出どころとなったのは、千斗と百瀬の出逢いの場であり、いまは貴重なオンラインデートの場にもなっている、いつものFPSゲームでの会話だった。
『Momoくん、いま、音楽聴いてる?』
 対戦後、ひと息つきながらボイスチャットで感想戦をしていて、ふと気がついたように千斗が言った。
「あ、すみません! 拾っちゃってます? ちょっと音量下げますね」
 アパート住まいの百瀬にとって、夜半過ぎの音声通話は気を遣うものだ。そこで、会話が長くなるときは低めのボリュームで後ろに音楽を流し、喋る声の基準にしていた。
 人の声というものは、夜の静寂に案外と通りやすい。恋人同士の親密な会話になっても、歌に紛れて聞き取られないように、という意図もある。
『いや、構わないよ。その曲、あれでしょう。物語仕立てになっているっていう、例のアイドルデュオの新曲』
 例の、という言葉に、少しの含みがあった。
「そうです。……オレたちと同じ、ケーキとフォークの二人組の」
 通常の味覚を喪失してしまった人間、フォーク。
 そのフォークが唯一、味を感じることができる人間、ケーキ。
 人間が人間に味を感じるという背徳、そして時に起こる猟奇な事件から、それらの体質であっても隠す者が多い中にあって、このアイドルデュオは先ごろ自分たちがケーキとフォークであることを公表した。それでも不動の人気を保っており、多くのケーキたち、フォークたちを勇気づけている。
『フォークとケーキが、吸血鬼の物語を……血を糧とする者の歌を歌うなんて、挑戦的というか、いっそクレイジーだよね』
 呆れているのか、感嘆しているのか。どちらともつかない、ほんのりと苦笑の滲む声音だった。自分自身がフォークでありつつ、社長として事業でもケーキとフォークに関わる千斗としては、さまざまに思うところがあるのだろう。
 かくいう百瀬はケーキの身の上だが、千斗とはまた別の点において、気になっていることがあった。
「この曲を聴くと、いつも思うんですけど」
『うん?』
 ゲーム画面上のYukiのアバターが、促すように首を傾ける。
「ケーキの血って、どんな味がするのかなって。オレの血もやっぱり甘く感じるもの? なのかな?」
 モニタの中で、Yukiが肩をすくめた。細かい仕草のエモートもすっかり使いこなせるようになったなあ、などと親心めいた感慨に浸っていると、嗜めるような千斗の声が耳に届いた。
『あのね。そういうの、煽ってるのと同じだからね。ゲーム越しだから良いけれど、リアルで会っていて、その気になった僕が喉笛に噛みついたりしたらどうするの』
 千斗さんなら大丈夫、と言いかけて口をつぐむ。YukiとMomoはお互い唯一無二の相棒であり、千斗と百瀬は想い想われる恋人同士だ。だが、一方的な信頼を押しつけるのは違うだろう。
 かわりに、気楽な調子を心がけつつ、こう言ってみた。
「だって、前にオレの味をいくつか教えてくれたじゃないですか。だからこれも気になっちゃって」
 フォークである千斗は、ケーキである百瀬に、味を感じる。唇と唇をあわせたとき、肌に舌を這わせたとき、それから、……まあ、いろいろと。
 ある日のこと、深いキスを交わした後、百瀬の口の端から零れた唾液を、千斗が長い舌でぺろりと舐めとった。そんな仕草すらスマートで、格好良くて。思わず見惚れてしまったのをごまかすために、舐めちゃうくらい美味しいの、いったいどんな味がするの、と聞いてみたら。

 ――純粋な甘さだけをあつめた花の蜜。はちみつを透きとおらせたような。

 千斗の言葉で具体的な味わいを教えられて、なぜだろう、不思議と胸が高鳴った。それでもっと聞きたくなって、言い渋る千斗から、百瀬の味の所感を何種類か引き出した。
 唾液は、透きとおったはちみつ。
 涙は、さらり溶ける生クリーム。
 汗は、コーティングした水あめ。
 肌を舐めたときには、ナパージュの塗られたフルーツムースの表面を舌でなぞっているような食感と風味があるという。
「オレが口の中を切っちゃったこと、あったじゃない」
 キスをした拍子に、千斗が百瀬の舌に傷を作ってしまったことが過去にあった。と、いうことは。
「知ってるんでしょ、オレの血のあじ」
 教えて欲しいな、知りたい、ねえ、聞かせて。おねだりのように言葉を重ねると、千斗は観念したように小さく息を吐き、不承不承といった様子ながら答えてくれた。
――チョコレート、かな。カラメルチョコレート。甘いは甘いのだけれど、あまりにも濃厚で、苦みと錯覚するような。そして芳醇さと、どことない香ばしさがある』
 色からの連想もあるかも、と付け足された。赤からの赤褐色、茶褐色。あるいは乾いた血の色か。
 捉えかた次第では剣呑なイメージにも繋がりそうなのに、百瀬の味を語る千斗の声と言葉は美しく、優しく、それでいてどこか艶めいて聞こえ、身体の奥がじわりと熱くなる。
「チョコレート味……ふうん……チョコレートかぁ」
『そんな、しみじみと言わないで……
 くぐもった声は、怒っているというわけではなさそうだったが、ただひたすらに居心地が悪そうだった。つられて百瀬もなんだか気恥ずかしく、そして、申し訳ない気持ちがじわじわと湧き上がってくる。百瀬に怪我をさせてしまったことを気に病み、幾度となく謝ってくれた千斗に、狡くて無神経な揺さぶりをしてしまった。
 ごめん、と百瀬は謝り、いいよ、と千斗は笑って許してくれて。
 このときの会話はそれで終わったのだった。

 しかし、二月十四日を前にして、百瀬は真剣に考え始めた。
 己の血を味わってもらう方法を。

 ☆     ☆     ☆

 寒風の只中に立春を経て、街がピンクとブラウンに彩られる頃。
 ふたりのプレイするゲームでも、バレンタインの期間限定イベントが始まろうとしていた。
……とまあ、配布のスペシャルログボを取り逃さないようにするのと、期間内にデュオマッチをやることだけ忘れないで」
 今年が初めての参加となるYukiに、先輩プレイヤーのMomoとして、いつものようにボイスチャットでレクチャーをする。といっても、攻略要素のほぼ無いシーズナルイベントゆえに、ほとんど雑談のようなものだった。
『バレンタインイベントだけど、チョコレートがモチーフではないんだ?』
「そうですね。毎年こんな感じです。開発元は北米だから、バレンタインとチョコは結びつかないらしくて」
 ワールドワイドなオンラインゲームだ。日本で独自の発展を遂げたチョコレートギフトの文化は取り入れられていない。バレンタインは、広い意味での親愛をテーマに、ハートをあしらった武器スキンの配布や、デュオマッチへの参加でかわいらしい勲章が取得できるなど、ライト層も楽しめる気軽なイベントとなっている。
「武器スキンはハートのエフェクトつき。見た目はすごく楽しいけど、環境によっては読み込みにラグが生じたり、あと普通に目立つんでハイドがほぼ無理ゲになっちゃうから気をつけて。勲章のデュオマッチは、普段ソロでプレイしている人が即席のタッグを組んで参加してくるから、期間中はカオスになりがち」
『へえ。それはそれで面白そうかも』
「うん。セオリーが通じなくて展開が新鮮だし、デュオが主戦場のオレたちには、すっごい稼ぎ時になると思う!」
 勢い込んで言うと、ヘッドホンの向こう、千斗の笑う気配がした。
『なるほどね。決算期前だけど、僕もできるだけログインするように頑張るよ。賑やかに遊べそうなイベントで良かった。チョコレートが関わらないのも気楽でいいな』
……そ、うだね」
 なにげなく付け足されたであろう最後の言葉に、つと胸を衝かれた。
 食べ物、ことに甘いものが絡む行事やイベントは、ケーキには警戒心を、フォークには疎外感を抱かせてしまう。ケーキへの偏見、フォークへの差別、そしてバックラッシュ。逆に過度な配慮が問題視されるケースもあり、話は一筋縄ではいかない。
 千斗は自立した大人であり、強い意志で己を律するフォークだ。自分の葛藤にはとうに折り合いをつけ、俯瞰的な視点に立っているがゆえに、当たり前のこととして語ってしまえるのだろう。むしろ気楽だと。それが百瀬には、心のどこか、すきま風が吹き抜けるように淋しかった。
 けれど、そこで思い出したのだ。いつかの会話、千斗の言葉で語られた味のことを。

 ――カラメルチョコレート。
 ――甘い甘い、苦みと錯覚するほどに濃厚で、芳醇な。

 百瀬ならば、百瀬だけは、千斗にチョコレートを贈ることができる。

 ☆     ☆     ☆

 二月十四日、バレンタインデーの夜。
 百瀬は、千斗を自分の部屋に招待した。

 フォークである千斗は、外での食事を楽しむことが難しい。そこで、記念日や誕生日など何かしら特別な日には、飲み物と食べ物を買い込んで、どちらかの部屋でくつろぐ自宅デートがふたりの定番となっていた。千斗のマンションであればデパ地下やホテルのデリカテッセン、百瀬のアパートの場合はネットのデリバリーやお取り寄せグルメを楽しむことが多い。
 今日はピザをデリバリーする予定でいる。飲み物は手作りで、こっちが本命だ。
 キッチンで準備を始めたところに、チャイムが鳴った。千斗は合鍵を持っている。入って、と声をかけると、玄関のサムターンがカチャンと回り、ドアが開いた。
「千斗さん、いらっしゃい! ごめん、ちょうどいまキッチンを散らかしたところで、手が離せなくって」
「ううん。合鍵で百瀬の部屋に入るの、久しぶりでなんだか楽しかった。どうも、お招きにあずかりまして」
 緩い挨拶を交わした後、どちらからともなく目と目を合わせて、はにかむように笑いあう。

 ふたり想いが通じてから、本名のファーストネームで呼びあうようになった。
 ただし、ゲーム内では、たとえプライベートフィールドでのチャットだとしてもプレイヤー名を使う。公人として雑誌などのメディアへの露出の多い折笠社長と、ゲーム界隈でそこそこ名の通っているランカー常連のMomoだ。しかも、ふたりともにフォークであること、ケーキであることをカミングアウトしている。ネットリテラシーの基本を踏まえつつ、慎重にならざるを得ない。
 かわりに、リアルで顔を合わせたら、いちばん最初に互いの名前を声に出して呼ぶのが、いつからか暗黙の習慣になっていた。
 YukiとMomoから、千斗と百瀬。
 ここからは、恋人同士の時間が始まるのだと。

 靴を脱いだ千斗が、シンク横の調理スペースに目を向けて、うん、とひとつ頷く。
 玄関を上がればそこが廊下兼キッチンの1Kアパートだ。積み上げた材料は隠しようもない。特段、隠しているわけでもないが。今日のプランについては、ひとつの企みを除き、あらかじめ伝えてある。
「被ってなさそうで良かった。これ、おみやげというか、材料の差し入れ」
 渡された袋の中には、黒い化粧箱が入っていた。蓋を開けると、白いネットにひと粒ずつ包まれて、つやつやと輝く苺が行儀よく並んでいる。
「入れるフルーツは種類も量も多いほうが楽しいかな、と思って。赤ワインで作るって聞いてたから、苺にしてみたけど、どうかな」
「あ、ありがとう……ぴったりだと思う……
 この苺に、近所の酒販店で適当に買ってきた赤ワインを注いでも、許されるものだろうか。あやしみ悩みつつ、狭いキッチンを振り返る。
 林檎にオレンジ、冷凍のブルーベリー。お手頃価格の赤ワインと上白糖。初めて買ったシナモンスティック。真ん中に鎮座するのは、大きめのガラスピッチャー。

 今夜のデートのメインは、自家製のサングリアパーティー。それが、百瀬の提案したバレンタインの過ごし方だった。

 ×     ×     ×

 どうすれば千斗にチョコレートの味、すなわち百瀬の血を贈ることができるか。

 本物のチョコレートのように、あげます、ありがとう、で済んだなら、話は早いのだが。過去の些細な傷を、ずっと気にかけてくれる人だ。百瀬が自傷し血を流すなど、決して良しとはしないだろう。
 であれば、故意とは悟られぬまま、やむを得ないような流れで、千斗が百瀬の血を口にする場面を作らなければならない。
「どんな状況だよ、それ……
 採血。供血。給血。流血。物騒な単語だらけになったブラウザの検索履歴を眺めながら、部屋でひとり頭を抱えた。
 さらなる難点は、ケーキの体液の特性として、身体の外に出ると急激に味が落ちてしまうことだ。どのように味が変化するものか、フォークならざる身の百瀬には見当がつかないが、もしやチョコレートの風味を失ってしまうのだとしたら元も子もない。つまり、流れた血液を即座に千斗の口に入れなければならない。そんな方法があるものだろうか。
 考えに考え抜いた末、ひとつのプランを立てた。

 姉の本棚にあった少女漫画のワンシーン。だいぶ昔に読んだそれが、閃きのヒントとなった。
 無器用なヒロインが、恋人を招いて手作りの料理を振る舞おうと計画する。調理中、うっかり包丁で切ってしまったヒロインの人差し指を、恋人が咄嗟に手に取って口に含む。キッチンに滴り落ちないように血を舐め取り、深く咥えながらヒロインの瞳をじっと見つめ、それから――
 続きの展開を思い出し、ひとり赤面して、ぶんぶんとかぶりを振った。邪念はひとまず横に置き、脳内でシミュレートしてみる。
 バレンタイン当日、千斗を部屋に招き、料理をする。包丁で指先を切り、慌てふためいて千斗に助けを求める。血の流れる指を差し出したら、きっと手に取ってくれる。口に含んでくれるかどうかは、ちょっとした賭けになるけれど、そこで百瀬がひと押しすれば良い。もったいない、せっかくなので、とかなんとか。
……うん」
 悪くない、というか、じゅうぶんに実現可能なシナリオではなかろうか。

 次なるお題は、作る料理の選択だ。
 どうせならバレンタインらしいメニューにしたい。しかし料理スキルには自信がないし、そもそもフォークの千斗に凝った手料理を出すのもどうかと思える。飲食の際、彼が好んで口にするものといえば、味覚がなくても弾ける泡の感覚が楽しめる炭酸飲料くらいのものだ。
「包丁を使って作る炭酸って、何……?」
 ぼやくように言って、ふと思い出した。
 以前、千斗に連れて行ってもらったバルで飲んだサングリア。カットフルーツがたくさん入った、華やかで美しいフレーバードワイン。
 飲み慣れぬ赤ワインに少しずつ口をつける百瀬を見て、千斗が言った。これを炭酸で割っても美味しいよ、と。付け加えて、事前の漬け込みは酒税法違反となる可能性があるため、行き届いた店ではオーダー後にフルーツをカットしている、という豆知識も教えてくれた。
 作り置き不可ゆえに直前の作業が必須、かつ、刃物の使用が不可欠。百瀬の企み――ちょっとしたアクシデントで、故意ではなく自然に、偶然に、千斗がチョコレートを味わう――の条件に、ジャストフィットだ。
 千斗が部屋に来たら、果物を切り、ついでに指を切り、チョコレートを味わってもらう。カットしたフルーツにワインを注いでサングリアを作り、炭酸で割って振る舞う。あとはピザと、ついでにサイドメニューのサラダでもデリバリーすれば、充実のメニューに彩りも美しく、わりと洒落た趣向になるのではなかろうか。
 当日の段取りとイメージがはっきりとした像を結んだ。なかなかの名案だ、と自画自賛しつつ、部屋でひとりぐっと拳を握りしめる。高揚した気持ちのまま、レシピの検索と必要な器具のリストアップに取りかかり、ぽいぽいとカートに放り込んでいった。

 そうして、万全を期して今日という日を迎えた。
 恋人に血を飲ませよう、という思いつきがまず狂気じみていて、洒落た趣向どころの話ではない。とは、思い至らぬままに。

 ×     ×     ×

 百瀬の隣に立った千斗は、シャツの袖を折って捲り上げ、丁寧な手つきでオレンジを洗っている。
「ひとりで座って待つより、隣で手伝わせて欲しいな」
 微笑みながらそんなふうに言われたら、断る理由はなく。むしろ渡りに船とも思えた。血が出ちゃった、と居室に駆け込むより、傍らに立つ千斗に指を差し出すほうが、ずっとさりげなくスムーズだろう。
 シンク前の狭いスペースを分けあって、果物を洗う。時おり触れる肩がくすぐったくて、ふたり並んでキッチンに立っているのが照れくさくて、頬がむずむずする。が、浮かれている場合ではない。ここが勝負どころだ。
 調理スペースに出しておいたペティナイフを鞘から抜き、しっかりと握りしめる。この企みのためにネット通販したもので、使うのは今日が初めてだ。きちんと洗い、念のため熱湯をかけて消毒してある。
 隣の千斗に緊張を悟られないよう、なにげない動きを心がけつつ、洗い終わっている林檎へと手を伸ばす。
「林檎の皮、剥くの?」
「え、えっ、あ、はいっ! 剥きます!」
 不意に話しかけられ、跳ねた声と心臓をごまかすために、やたらと威勢よく答えてしまった。カランの水を止め、オレンジを拭きながら、千斗が苦笑する。
「刃物を持ってるときに話しかけてごめんね。サングリアにするなら、赤が映えそうだから、皮つきのまま入れるのもいいかもって思ったんだ」
「そっか、なるほど。じゃあ、切るのだけ」
 林檎をまな板の上に置き、左手で支えて持ちながら、見えない角度に置いた指の位置をそっと調節する。皮剥きの際に誤ったふりをして手を滑らせるつもりだったが、カットの勢いが余って指まで切ってしまった、という方向でも問題はないだろう。
 果肉にペティナイフをあて、狙いを定めたそのとき。千斗のてのひらが、ふわりと覆い被さった。
「千斗さん?」
「ちょっと待って。良かったらこれ、使ってみて」
 そう言って、足元に置いていた荷物から何かを取り出す。銀光りするステンレス製の、調理器具のようだった。八分割にされた放射型で、どこか花芯と花びらを思わせる形をしている。
……抜き型? ですか?」
「アップルカッター。こうやって、押し込むと、ほら」
 千斗が百瀬の手から林檎を取り、まな板の上に置く。両脇のハンドルの部分を持ち、真上からステンレスの刃をぐっと強く押し込んだ。ぱらり、と花びらがほどけるように、林檎が八等分にカットされる。真ん中の花芯を思わせた場所には、種の入った芯だけが残った。
「えっすごい、面白い! こんな便利な道具があるんだ。……でも、千斗さん、料理とかあんまりしないですよね?」
「実家が飲食業だから。小さい頃、店のキッチンに転がっているこういう調理器具で遊んで、怒られたり取り上げられたりしていたんだよね」
「わあ……
 林檎とアップルカッターを手に持って遊ぶ、小さい千斗。怒られて泣いたり、取り上げられてぐずったりしたのだろうか。ほのぼのとした気持ちになっていると、千斗がまた荷物を探っている。
「せっかくの機会だし、他にもいろいろと持ってきてみたから、使ってみない?」
 その言葉とともに手品のように取り出されたのは、大小さまざま、形もさまざまな、フルーツカッターとデコレーター、スライサーの数々だった。

 オレンジはスライサーで輪切り、いくつかは飾り切りに。おもたせの苺は、専用の小さな苺カッターで四つ割りに。
 ざくっとした切れ味の爽快感に手を叩き、カットを終えて花開くフルーツの美しさに見惚れる。千斗と並んで立って果物を切り、手に取っては出来栄えを眺めて、お互いに褒めたり喜んだり。単なる作業のはずが、思いがけず楽しいひとときとなった。
「そっちの苺も終わった? そろそろピッチャーに入れていこうか」
「はい! これで全部で、す……
 無心の作業から、はっと我に返る。見回せば、用意した果物たちは綺麗にカットされ、ボウルに山盛りになっていた。隅には、未使用のまま押しやられたペティナイフが所在なげに転がっている。
 そう。『切る』べきものを、すべて切り終わってしまった。ただひとつ――百瀬の指を除いて。
「どうかした?」
 固まってしまった百瀬に、千斗が首を傾げる。
「いえ、……すごく早く終わったなあって、びっくりしちゃって」
「あっという間だったね。作業の呼吸が合っていたからかな。ピッチャーに移したら、砂糖をまぶそう」
 切り刻まれた色鮮やかなフルーツに、純白の砂糖がさらさらと振りかけられる。名案のはずだった計画が、崩れ去る音のようだった。


 サングリアパーティーそのものは、大正解で大成功だった。
 フルーツが詰め込まれたピッチャーをローテーブルに運び、ふたりでかわるがわる膝立ちになって赤ワインを注いだ。香る果実にひたひたとルビー色の液体が染み込んでいく様は芳しくも美しく、潰えた計画に落ち込んでいたはずの百瀬も思わず見惚れ、気分がぐっと上がった。
 シナモンスティックを入れ、くるくるとかき混ぜた後に、たっぷりのフルーツと一緒にレードルですくいグラスに取る。シャクシャクとした歯触りの林檎、透かせるほどに薄くスライスされたオレンジ、氷がわりにひんやりと半解凍のブルーベリー。千斗の持ってきた苺は小さく四つ割りにされて、ハートの半分のようにも見え、かわいらしさを添えていた。
 ワインの渋味と砂糖の甘味、果実の爽やかな酸味。千斗のためにと用意した炭酸で割ったら、なおのこと飲み心地がよくて、デリバリーしたピザと一緒に、いくらでも胃に流し込めてしまいそうだった。
 サングリアのグラスを傾けながら、千斗は、フルーツカッターにまつわる幼い頃の思い出話をしてくれた。思わぬところで聞けた「千斗くん」のエピソードのかわいらしさと、少し照れながら語る「千斗さん」のまた違う意味でのかわいらしさを行ったり来たり、多幸感に溺れそうになる。瞳を輝かせて聞き入る百瀬を、語る千斗も嬉しそうに、ずっと見つめていた。視線が絡みあい、溶けあって、笑みが零れる。楽しくて、しあわせな、ふたりの夜。

 ――しかし、である。
 目的は果たせぬままだ。千斗へのバレンタインチョコレート(の味)という、今日なればこその贈り物。諦めてしまうわけにはいかない。

 ひっそりと、意志を固めた。
 プランBに移行する。

 ☆     ☆     ☆

 グラスをテーブルに置き、そっと押しやった。座ったままもぞもぞと動いて、千斗の近くへと擦り寄り、ぐらりと倒れ込む。
「おっと、大丈夫? 酔った?」
「んん……だいじょうぶ」
 千斗の肩に頭をもたれかけさせながら、ふにゃふにゃとおぼつかない声を出した。意図したよりも身体も声もふらついていて、実際、少しばかり飲みすぎているような気がしないでもない。ならばいっそ酔った勢いということで、迷いも照れも振り切ってしまおう。いや、噛み切ってしまおう。こっそりと舌で歯をなぞり、八重歯の尖りを確かめた。

 プランBこと、最終手段。
 唇を噛み切り、血を滲ませつつ千斗にキスをする。
 口移しのチョコレートだ。

 実のところ、このバレンタイン計画にあたって、最初に考えついた方法である。単純にして明快、小細工も小道具も必要なし、百瀬の身ひとつで実行が可能。いいことずくめだ。
 だが、他の策を採用し、こちらをプランBとしたことには理由があった。口の中の傷が、千斗に以前の怪我のことを連想させてしまうのではないかという危惧がひとつ。そしてもうひとつ、百瀬自身の問題がある。
 けれどもう迷っている場合ではない。時計を見れば、じき日付が変わる。二月十四日が終わってしまう。

 覚悟を決めて、身体を千斗の肩にぴったりと寄り添わせた。ゆっくりと顔を上げ、上目遣いに見つめる。千斗は酒に強い。いつもと変わらぬ涼やかな顔に、酔いの色は見えず、ただ少し困惑したような、微苦笑めいた淡い笑みだけが浮かんでいた。
 こんな顔も、かっこいいな、きれいだな。
 表情の意味するところなど考えずに、なんのてらいもなくそう思ったから、やっぱりかなり酔っているのかもしれなかった。
 少しずつ、少しずつ顔を近づけていく。キスのはずみに、酔ってよろけたふりをして唇を噛み切ろう。そう決めて、歯の間に下唇を挟み込み、力を入れようとしたとき。
 千斗がわずかに身じろぎをして、顔をそらした。かわり、押しとどめるように、眼前にてのひらをひろげられる。
「駄目だよ、百瀬」
 長い指がぴんと一本立てられ、ふに、と百瀬の唇を塞ぐ。
「だあめ」
 甘く優しい、恋人の声。けれど、確固たる口調だった。
 頭のてっぺんから冷水を浴びせられたような気がした。己の顔が青ざめ、それから頬が熱く、紅くなるのがはっきりとわかった。何を止められた。何をしようとした。
 身を強張らせ、凍りついてしまった百瀬を見て、千斗が困ったように微笑む。
「百瀬が傷つくのは、いやだよ。怪我をしたら、キスは禁止にするからね。ちょっぴり残念だけど」
「なんで……なんで、知って、だって、今日は……いつから……?」
 千斗は小さく肩をすくめ、実は、と前置きをして、問いに答えた。
「サングリアを作ると聞いたときに」
「え」
「連想で閃いちゃった。サングリアはスペイン語で、出血や瀉血といった血を流すことを意味する言葉だから。まさかとは思いつつ、日付が日付だし、百瀬のことだし」
 知らなかった。サングリアであれだけレシピを検索したのに、いや、むしろレシピを探すのに集中していたからこそ、名前の由来なんて気にもとめていなかった。
「本当に行動を起こすようなら、それとなく止めようと思っていたんだけれど。ごめん、先にはっきりと言えば良かったね。駄目だよ、って。林檎を手に取ったときの様子を見て、あ、本気だ、って焦っちゃって、伝えるタイミングを逃してしまった」
 キッチンで隣に立っての作業。皮つきのままの林檎。アップルカッター。
 すべては、目論みを見透かされていたがゆえに。

 悄然として俯く百瀬の背中を、千斗の大きなてのひらがゆっくりとさする。
「ごめんね。そして、ありがとう。僕にチョコレートを味わわせようとしてくれて。その気持ちはすごく嬉しい。でも、僕はやっぱり、百瀬にはひとすじだって傷ついて欲しくない。それと……
 言葉がそこで止まり、言い淀む。目を上げて問いかけると、小さな苦笑とともに、謝らないって約束して、と言った。意図はわからぬながら百瀬が頷くと、いまいちど口を開いてくれた。
「昔から、血のにおいは苦手で。フォークとしての嗜食欲も、血のにおいに触れると萎んでしまうんだ」
「あ……
 今さら、思い当たる。
 千斗がつけた百瀬の傷。そんなものよりもずっと以前に、彼の親友が多量の出血を伴う大怪我をし、その後、音信不通となった事件があった。時を経て再会は叶ったものの、千斗にとっては人生が変わるほどに大きな、辛い事件だったことは間違いない。
 自分の頭を殴りつけてやりたかった。千斗の苦しみも、心の傷痕も見ないふりをして、血の味を、においを、押しつけようとした。
「ご、……
 ごめんなさい、と危うく言いかけた口を押さえる。この上、ついさっきの約束まで破るわけにはいかない。
……でも、オレは、だ、だって」
 ただ千斗にチョコレートを味わって欲しかった。喜んで欲しかった。
 なのに何故こんな、本末転倒なことになってしまったのだろう。

 ――違う。
 そうではない。もとから、違ったのだ。いま、はっきりとわかってしまった。

 冬色に沈む街を彩る、暖かなピンクとブラウン。ウインドウを横目で眺めるたび、あるいは、バイト先のコンビニで季節の棚に小さなギフトボックスを並べながら、心の奥底で欲しがっていた。
 欲しがられたかったのだ。千斗に。
「だって、だってオレ、チョコレート、チョコを……オレを、ゆきとさんに、あげたかったん、っだぁ……
 たどたどしく言葉を連ねるうち、気がつけば涙が溢れ出していた。
 自分だけのエゴで、ケーキである身を利用し、フォークの千斗をコントロールしようとした浅ましさが、身悶えするほどに恥ずかしく、苦しい。けれど悲しく思う気持ちすら傲慢で、謝ることは赦してもらえなくて。あげく、子どもみたいに泣き出して千斗を困らせている。最低だ。
 この涙だって、千斗が食べてくれたら、欲しがってくれたら、と心のどこかでうっすらと思ってしまっている。そうやって歓心を得ようとしてる。
 涙でぼやけた視界の隅で、千斗が動いた。傍らに置いた荷物を探っている。
 アップルカッター、フルーツデコレーター。手品みたいに、魔法みたいに、今度は何が出てくるのだろう。
――これも、タイミングを逃しちゃってたんだけど」
 そろりと差し出されたものは、リボンのかかった小さな箱だった。
 落ち着いたブラウンの、レザーのような質感の紙箱に、金の箔で押されたブランドロゴ。斜めがけに結ばれた、濃いピンクのリボン。
 千斗の長い指が、そっとリボンの端を持って引き、蓋を持ち上げる。レースのようなグラシン紙と、柔らかくしなるペーパークッションに守られて、黒檀色をしたショコラの粒がつややかに並んでいた。
 バレンタイン・チョコレート・ボックス。
「あげたかったんだ。僕も、ね」
 そう言って千斗は微笑んだ。感情を揺らす百瀬に戸惑うでもなく、呆れるでもなく、ただゆったりと頬を緩めている。不思議と稚気の漂う表情に毒気を抜かれ、知らず涙が止まった。
 食べてみて、と促され、宝石のような粒をひとつ、指でつまむ。涙の余韻でまだ幽かに震えている唇の隙間から、そっと口に入れた。
 ふんわりとかかったパウダーが舌に散る。すうと鼻に抜けていくカカオのほろ苦さに混じって、どことなく感じる香ばしさは、ピスタチオの風味だろうか。プラリネがほどけるにつれ、練り込まれた洋酒の気配が存在感を増し、喉の奥をほわりとあたためる。心まで甘く静める魔法のようなボンボンショコラだった。
「いつもデリを買っているホテル。あそこのパティスリーのものだけど、どうかな。美味しい?」
……美味し、です。甘くて、なか、とろとろで」
 溶けかけのチョコレートを口のなかにとどめたまま、もごもごと答えると、千斗は目を細め、含むように笑った。
「そう、気に入ったなら良かった。……僕にも味見させてくれる?」
「あ、はい、どうぞ。溶けやすいので、気をつけて」
 頷いた千斗が、手を伸ばした。チョコレートの箱ではなく、百瀬へと。顎を掴まれ、ぐいと引き寄せられる。
 瞬きする間もない。笑んだままの口が、わずかに開いた百瀬の唇に覆いかぶさった。
……っあ、え、……?」
 チョコが、まだ。言いかけた言葉も息ごと吸われる。目を白黒させているあいだに舌が割り込んできて、チョコレートでどろどろの口のなかをねっとりと掻き混ぜた。溶けかけのプラリネを百瀬の舌に押しつけ、ねぶり、まぶしつけるように絡めていく。
「んっ、ん、んぅ……
 舌が、チョコレートが、熱く溶けてしまいそう。千斗の舌。千斗のチョコレート。どちらの味、何の味? わからない。熱くて、甘くて。なにもわからなくなる。
 隅から隅まで余すところなくしゃぶり尽くされ、舐め溶かされて、ようやっと解放された。と思ったところへ、とどめのように、口の端から零れた唾液を舐めあげられる。
……ほんとだ。甘くて、とろとろ」
 それから百瀬の顔を見て、艶然と笑った。
「そして、溶けやすい」
「っゆ、千斗さ、ん……
 まだ息を弾ませ、美しい笑みを茫然と見つめる。甘さで舌が、キスで身体じゅうが、痺れていた。
 千斗のキスは、深く熱く、それでいて優しくて、なのに激しくて。いくたび繰り返しても慣れず、乱されてしまう。そもそも、千斗とのキスに慣れる日なんて来るのだろうか。される身でこれだし、ましてや自分からするなんてことは。

 プランBをプランBとしたもうひとつの理由が、これだった。
 千斗のキスで、だめになってしまう自分。そのキスを、百瀬から仕掛けなければならない。

 キスも、……も。与えられ、享けるだけの身に甘えて、ぐずぐずと踏み出せない己が情けない。胸の上に手を当て、はぁ、と息をつく。
 ふと、舌を出し、口のまわりをちろりと舐めた。目を伏せて、千斗が舐め取ったあとをなぞる。ほんのちょっとだけ、チョコレートの味が残っているような気がした。
 深いため息が聞こえて、顔を上げる。手で顔を覆った千斗が、なにか呟いていた。
……これも、あれも、無自覚なんだから、本当に」
「千斗さん?」
 また顔をぐっと寄せられて、今度はついばむようなバード・キス。唇が一瞬だけ触れて離れ、けれど視線は据えたままじっと覗き込んで、千斗は言った。
「さっきね。チョコレートなのに、はちみつの味がした。僕にとっては、どんなチョコレートよりも甘くて、特別な、はちみつ味のチョコレートだった」
「はちみつ……
 透きとおったはちみつ。千斗が言い表した、百瀬の唾液の味。
「ハニー・チョコレート……いや、チョコレート・ハニーかな。僕のチョコレート・ハニー」
 くっくっと笑う。妙に上機嫌だ。と、言うよりも。
「これ、いいね。いいかも。どうかな、僕のハニー?」
「は、ハニー……!? は、っげほ、っは、はぁあ……
 聞き慣れない言い慣れない言葉に、盛大にむせた。千斗が笑いながら背中をさすってくれる。
 おかしい。テンションが。千斗の様子が。顔には出さずとも、よほど酔っているのだろうか。それとも、ひょっとしたら、ひょっとしなくても。
 化粧箱入りの苺。並んで立ったキッチン。とりどりのフルーツカッター。千斗くんのエピソード。
 突然、すとんと心に落ちた。

 この人、浮かれてる。
 とんでもなく、浮かれてる。

 振り返れば、今夜の始まりからずっと、千斗は浮かれていたのだ。不慣れな手つきでサングリアを作ろうとしたことの意味も、百瀬が千斗にキスをしようとしたことの意味も。全部全部知っていて、嬉しがり、楽しがり、浮かれていた。
「あー、もう……もう、千斗さんってば」
 がっくりと力が抜けた。さんざん考えたり、悩んだり、泣いたり、何をしたんだろう、何をしていたんだろう。
「え、なに? 僕、なにかした?」
……なにも!」
 自棄のように叫んで、手もとの箱からチョコレートをひとつ掴み、ぽんと口に放り込んだ。
 テーブルからグラスを取って口に含み、チョコレートと一緒に噛み潰す。プラリネクリームが溢れて赤ワインと混じり、どろりと甘酸っぱい味が口のなかを満たした。
 唇をぎゅっと結び、睨むほどに強く見つめたあと、膝立ちになって千斗の肩に手を置く。そのまま顔を近づけて、唇をあわせた。
 不意打ちに千斗の目が丸くなるのを見て、少しだけ溜飲が下がる。さっきの仕返しのように、サングリアに浸されたチョコレートを流し込んでやった。
 百瀬にとっては、チョコレートの味。千斗にとっては、はちみつの味。
 混ざりあって、チョコレート・ハニーだ。ちらりとそう思い、唇をあわせたまま、喉を震わせて笑う。すると千斗の戸惑いが伝わってきて、なおのこと笑ってしまう。
 千斗の腕がゆっくりと百瀬の腰に回されて、次第に強く、熱く、抱きしめられた。その熱に溶かされるように膝が崩れ、千斗の首にしがみつく。やっぱりちょっと飲みすぎたし、酔いすぎた。
 百瀬が繰り返すキスも、千斗から繰り返されるキスも、すべては、酔いのせいにしてしまおう。サングリアのせい。チョコレートのせい。

 はちみつ味のチョコレートに酔い、チョコレート味のはちみつに酔う。
 あまやかな酔いに身をまかせるバレンタインの夜が、これから始まる。



   〈Fin〉