いぬみ
2025-03-06 08:30:00
16374文字
Public 逆裁
 

オレと検事が対等になった日

オドキョです。未成立。
いまいち自分の実力に自信が持てない法介が、偶然出会った響也と『対等である』と気づく話。
『ドラマCD:ガリューウエーブ復活ライブ編』の自己補完的な小説です。



 エレベーター前には、ゆったりとしたソファーが並んでいて、自販機が利用者を待っている。三つ並んでいる中、一番端っこでおじいさんが船を漕いでいる以外、客は見えない。そう遅い時間ではないものの、夜だから、だろう。

「おごるよ。何がいいかい?」
……コーヒーで」
「オーケイ」

 話す場所ってここでだろうか、と思っていたら出遅れて、流れるように牙琉検事に奢られた。断るのもどうか、と思ってしまって、そのまま頼んでしまう。コーヒーぐらい、いいだろう、そう思い込ませる。
 ボタンを押すそぶりだけでもなんだか眩しい。スピーディーで、ムダがない。どうしてこう、いちいち、見ているだけでも疲れそうな、ホレボレするような動きをするんだろう。ぼうっと、そんなことを考える。

「はい」と、オレのぶんの缶コーヒーが渡される。牙琉検事も、自分のぶんのコーヒーを持っている。
 受け取って、開けて、一口飲んで。さりげなく、しみじみ、しげしげと牙琉検事を眺める。牙琉検事の飲んでいるコーヒーと、オレの飲んでいるコーヒーは、何もかもが一緒なのに、何一つオレと変わらないはずなのに、なんだか、持つ人が違うだけで、雰囲気さえも変わっているような気がする。

 牙琉検事は、喉仏をこくん、と動かした後に、こちらに向き直って、改めて、話し出した。

 ──ほんのささやかだけれど。
「これは、お礼だよ」

 にこやかな顔とはっきりとした発音は、その言葉が本心であることだけを真摯に伝えてくる。こちらにまっすぐ向かっていく感謝は、唐突で、イヤミなんて感じさせなくて。だからこそ、戸惑った。

「何のですか」

 心当たりが見つからない。オレが検事に、なにか感謝されるようなことをした覚えはなく……改まって向き直られるような出来事も起こっていない、はずだ。

 ──感謝されるようなこと、したっけ。

「結局。この前の裁判の後……ゆっくり話せなかっただろ」
「ああ……

 不思議に思っている中に、牙琉検事は、何への感謝なのかをぼんやりと告げる。その匂わせた言い方だけで、何のことを言っているのかを察することができた。

 オレとこの人が関わった、〝この前の裁判〟なんて、たったひとつだ。あれ以降の今日までに、オレは弁護の依頼に恵まれていないので、残念ながら、すぐに特定することができる。

 裁判員制度の試験的採用。裁判員シュミレーション法廷。そう称され、テレビ放送もされた裁判のことを言っているのだろう。

 あの法廷の検事は牙琉検事で、弁護士はオレだった。被告人は絵瀬まことという女の子で……告発されたのは、牙琉霧人、オレの師匠であり、目の前の男の兄である人物だった。

 告発したのは……オレだ。初法廷のときと同じに。

 そのときのことを、彼は言っているのだろう。初めて会ったときは、兄を蹴落としたことに敵意を向けていた様子だったけれど。二回目の告発の際は、むしろ、彼もオレに協力して、証言してくれた。結果、隠蔽されていた罪が露呈し、見過ごされそうだった危険が防がれた。

「オレは、ただ……弁護士として、仕事をしただけですよ」
「だから、お礼がしたいんじゃないか」

 謙遜じゃなく、本心だ。オレは、ただ与えられた職務を全うしただけで、特別なことは何もしていない。確かめるようにそう告げても、牙琉検事はむしろ顔をほころばせて、こちらにほほえんでくる。
 変な人だ。
 普通に考えたら、被告人を無罪にした上に、身内を牢獄送りにしたオレのことなんて、憎んでもおかしくないのに。検事としても、個人としても。それなのに、彼はむしろ、好意的に関わってくる。

 そういえば、あの日以来だ。検事とこうやって、向き合うのは。

 彼の兄の余罪が……彼が匿っていた疑念の正体が……オレの初法廷での事件の根源が……明らかになった日。色々な意味で、オレたちにとって、忘れられない裁判となった、あの日から、久々の顔合わせだ。

 別に避けていたわけじゃない。たまたま、会う機会がなかっただけで。オレはどうあれあの行動に後悔なんてしていないし、彼もあの結果に納得している。……どころか、満足げにしている。こちらが萎縮してしまうくらいには。

「きみがいないと〝真実〟は暴けなかった。感謝してるんだ。おデコくんがいてくれてよかった……って。そういえば、伝えてなかったよね」

 あの日、牙琉検事は、自分の中の疑念と信頼とせめぎあい、苦しそうな顔を、オレの目の前に晒していた。それが、今日は反対に、どこかスッキリとしたような顔を、オレに向けている。

 オレがいたから、真実が分かったんだと。兄の罪がハッキリしたんだ、と。

 兄の有罪よりも、無罪よりも、何よりも。事件の真相がウヤムヤになることに、彼は苦しんでいた。ハッキリしない結末こそ、彼がもっとも恐れていたことだった。だから、すべてが明かされて、七年間の疑念に決着がついたことは、検事にとって、満足のいく結末なのだろう。
 だから、彼は感謝している。感情よりも何よりも優先している、真実がわかったことを。

 ──それが、オレのおかげだ、と、臆面もなく……
 少なくとも、外見上は。

 嬉しい反面、心苦しい気持ちが、オレの中にのさばった。

 ──むしろ、オレは……

「だから、そのお礼。ホントはディナーでもどうかって思うんだけど。それだったら、予定の擦り合わせがいるし」

 第一印象から変わらないサワヤカな笑みは、今日になって、ホガラカさが増しているような気がする。眩しい笑顔だ。思わず、目を細めてしまう。

 いつが空いてるかな。来週……来月でもいいんだけど、どうだい。ぼくは、日曜日の午後ならだいたい空いてるよ──と、検事はにこやかに話を進める。缶コーヒーに飽き足らず、きっと格式ばってお高いんだろう〝ディナー〟に招く予定を進めようとしている。

「そんな、いいですよ。そこまでしなくて……

 彼の思惑に気づいて、慌てて水を差した。

「これでじゅうぶんです、オレは」

 缶コーヒーを見せびらかして、勢いよく飲み下す。深みのある苦さが喉をかけおちていく。連れて行かれるとして、きっと行ったことも見たこともないような高級店なんだろうな、それでどうせ検事の奢りだか割り勘だかなんだろうな、だったら得だな、なんて甘いことを一瞬考えたオレを非難するような苦味だ。そう、これくらいがちょうどいいんだ、オレには。

……そう?」

 不思議そうな顔をして、検事は引き下がった。物足りなさそうにも、必死なオレに訝しんでいるようにも思える態度だった。

 〝お礼〟に奢られるなんて、なんだかシャクだった。不甲斐ないったらない。

 ──むしろ、オレのほうが、彼に助けられてばかりだったのに。あの場でも……それ以外でも。

 オレひとりだったら、真実なんて見つからなかっただろう。被告人はいわれもない罪を抱えて、真犯人を逃していただろう。

 牙琉検事の告発が……七年前のことについての証言がなければ、牙琉霧人に逃げられていただろう。絵瀬土武六殺害および絵瀬まこと殺人未遂の真相はウヤムヤになったのだろう。

 牙琉検事は、検事としては……弁護士の〝敵〟としては、あまりにもやさしい相手だ。もちろん、気を抜けるような相手ではない。優秀な頭から繰り広げられる論証は隙がないし、こちらの反論のほころびだって見逃さない。

 彼は、弁護士だからといって、無駄に敵意を向けることはないのだ。分け隔てなく、調査の許可や事件の手がかりを与えてくれる。法廷でだって、こちらの推理を否定するばかりではなく、検討し、補足することも多い。……それで何度、立証がスムーズに進んだだろう。

 ふりかえってみれば……法廷に立つ前日から、真犯人を告発するその瞬間まで、お世話になってばかりだ。

 ラーメン屋台殺人事件では、彼からの捜査許可がなければまともな証拠も揃わなかった。法廷で、彼が並奈美波を引き止めなければ、逃げられていた。彼からの助言がなければ、トリックだって思いつかなかった。あのときのオレは……無罪を勝ち取ったのではない。無罪を、勝ち取らせてもらった、のだ。

 ──最後にもう一度、思い出してみることだね。……この二日間で聞いた、すべての〝情報〟を。

 あのときかけられた言葉がなければ、気づかなかった。マフラーを塞がれた車は動かなくなるということと、宇狩輝夫の車のマフラーにはみぬきちゃんのパンツが詰まっていたこと。そこから、屋台の盗難の動機に繋がることに。

 あのとき、オレは……推理を、〝言わされていた〟。検事側として、あまり大きな声で主張できない〝真実〟を、オレの推理を誘導することによって、暴いた。証明した。

 ガリューウエーブのステージで起こった殺人事件でだって、そうだ。彼は、検察官でありながら、こちらに有利な証言を……有利な状況を作ってくれた。ラミロアさんが犯人の声を聞いた〝ムジュン〟が晴れた途端に、彼は、こちらに協力的になってくれた。廊下に落ちていたヘッドセットの電源がオンになっていたら、との仮定に基づいた推理は、牙琉検事の発案だ。

 あの事件の真犯人──眉月大庵の告発だって、彼の協力あってこそだ。牙琉検事が証人として登録していなかったら、手続きはもっと面倒なことになっていただろう。どの事件でも……彼がいなければ、事件の真相は暴くことができなかった。感謝しなければならないのは、なんなら、こちらのほうかもしれない。

 それでも。牙琉検事は、何の作為も嫌味もなく、オレに感謝しているんだろう。まっすぐ、心から、オレに感謝しているんだろう。実際、あの場にいたのはオレで。無罪を勝ち取って……真実を暴いたのは、オレだけど。それは、牙琉検事が、そうさせたようなものなのに。オレじゃなくても、きっと良かったのに。

 だから……見合わないように思ってしまうのだ。牙琉検事がオレに〝感謝〟を向ける、なんて。

 オレはただの弁護士で、一方、相手は優秀な検事なのだ。それ以外に、オレたちを繋ぐものなんてなくて、特別なナニカなんてのもなくて。……牙琉先生という共通点こそあるけれど、彼が牢送りになった今、そんな接点は接点になりえない。

 運も実力のうちと言われれば、そうかもしれない。結局、成し遂げたのはオレだ、と言われればそうだ。けれど、その言葉に甘えることはしたくなかった。運だけじゃなくて、自分だけの力で、立派になりたかった。

 いつかは、この人と並び立てるような、そんな弁護士になれるだろうか。

 きっと、牙琉先生や成歩堂さんを真似るだけでは辿り着けない領域だ。誰かをなぞるのではなく、ただ、オレ自身の実力で、彼の隣に立ちたい──認められたい──そんなことを、あの法廷で願った。

 七年間の差があることも相まって、先が見えない道だ。あきらめはしていない、けれど……道筋がどうしても見えてこない。ゴールだけは、はっきりと分かっているのに。目標は……今、目の前にいるのに。

 目の前の男と対等になりたい。あのとき、相手が身内だろうと、自分の過ちを認めることになろうとも、〝真実〟だけを見据えて、まっすぐと突き進んだ検事に憧れたのだ。張り合う気はないと情報提供だって現場捜査だって惜しまないで、最後には、オレを信じてくれた彼に報いたいのだ。

 そのためには、まず、追いつかないといけないのに。それなのに、弁護の依頼もやってこないし、故障したエアコンと睨み合いドライバーを使って戦う日々だ。……虚しくなる。あとどのくらいの時間で、あとどのくらいの経験で……オレは、この人に追いつくことができるんだろう?

 焦っても変わらないし、事件なんてないほうがいいんだけど。それでも、歯噛みせずにいられなかった。牙琉検事を……目標を目の前にすると、どうしても。

 オレはこんなにも必死に彼を追いかけているのに、彼は平然と、オレに話しかけてきて、オレを気にかけてくる。それに喜んでいいのか分からなかった。その態度こそ、オレが彼よりも実力が劣っている証明のように思えて。侮られているんじゃないのか、悪意こそなくても、見下されているのでは。いやむしろ悪意がないからこそ、そんな残酷なことができるんじゃないのか。……なんて、気にしすぎてしまう。

 ぐび、とまたコーヒーをひとくち飲んで、鬱屈としたような、足踏みするような心地をごまかす。……さっさと飲み切って、お礼の言葉を置いて帰ろう。こんな時間だから、事務所には戻らないで、直帰でいいとメールをもらっている。

 続けて、ふたくち、みくちと飲み下して、缶の中の液体が尽きたときだった。中身がなくなって、よしきた、と、飲み口から唇を離して。ふと、聞こえてきたギターの響きに、気を取られた。

「あ」
「ん?」
「さっきから流れてる……これ、あなたの曲……

 捨てゼリフならぬ捨てお礼をしようとした口は呆然と思ったままを告げて、駆け出そうとした足はそれにつられて、ピタリと止まってしまった。

 〝ガリュー〟の歌声が、スピーカーから流れてくる。これが、目の前の男の声帯から響く音なのだと思うと、なんだか不思議で、なんだか新鮮で、愕然とした気持ちになる。

「ああ。そうだね」

 牙琉検事はオレと同じ方向に……スピーカーに顔を向けた。自分のことでもないのに変な緊張をしているオレとちがって、慣れている様子で。特に驚いた様子もない。こういうとき、彼は、芸能人でもあったのだ、と実感する。

 ……つい、覚えがあって、耳を傾けてしまった。──かっこいい。相変わらず。店のスピーカーで流れるぐらいの音量なら、〝音が苦〟ではない。

「〝ボリュームのツマミがない〟だっけ? 言ってくれたよね」

 そんなことを思っていたら、ちょうど、牙琉検事が、ためいきをつくようにそんなことを言う。

「いつまで根に持ってんですか、うるさいのは事実でしょ」

「音量にこだわってる、っていってほしいね」

 まあ、もうちょっと大きいほうがぼく好みかな、店内BGMだから、これぐらいが限界だとは思うけどね。……なんて続けるので、呆れた。

 オレとしては、これ以上大きくなったら、台無しだと思うけどな。

「ここの店の人も気に入って流してくれてるんだしさ」

 なんて彼は冗談っぽく言う。

 ──まあ、かっこいいもんな。そりゃ、店員さんだってこの曲流すよな。

 心の中だけで、ひとりごつ。

 ──オレだって、曲自体は悪くないと思っている。ただちょっと、大きすぎると、耳にも頭にも響いて、苦しいだけで。適度な音量なら、苦言なんてこぼす必要がなくなるのだ。

 ムダに大きいと、ノイズが混ざって、せっかくの歌声もギターも楽器も雑音になる。それがもったいなくてしかたがない。実際、みぬきちゃんが事務所でCDを垂れ流しているのを、なんだかんだ聞き惚れてしまっていたりする。近所迷惑にならないように、音量を落としているからだ。

 そういうわけで、実のところ、牙琉検事の音楽自体は好きなのだ。だから、有名になるのも、こうして街中で流れることにも、ただ納得する。……まあ、わざわざ訂正はしないけれど。言う機会がないし。言ったところで、検事が喜ぶか分からないし。

 曲の一番が終わって、間奏に入る。ドラムの規則的なリズムに合わせて、優雅にキーボードがハーモニーを鳴らし、ギターが変則的な旋律を奏でて、ベースともうひとつの低いギターがそれを支える。伸びやかな音がかっこよかった。

 ……ふと、彼がミキサーを持ち出して、ミスをしたやつを明らかにしようとしてきたあの日を思い出した。確かに、今流れている音楽には、あの日に見つかった〝ズレ〟がない。カンペキに、そろっている。これが、本来、七夕の日付けに、彼が奏でる予定だった音楽だったのだろう。

 ちらりと牙琉検事の様子を伺う。彼は、何を言うでもなく、ただ、自分の曲を、じっくりと、耳で拾っていた。……ギターとギターが重なる瞬間、どこか遠くを見るように……切なげに、目を細める。

 ガリューウエーブの音楽は、この店内に、日常に、馴染んでいた。買い物の邪魔をするでもなく、かといって、完全に印象に残らないわけでもなく、心地よい響きが、鼓膜の中に残る。全世界の人を魅了する……知らないあいだに住み着く音楽が、そこにある。
 今まで、ガリューウエーブなんてバンド、名前も知らなかった。しかしそれはつまり、日常に、何気なく潜んでいたのだという意味にもなる。気まぐれに曲を聴いてみれば、今までそうと知らなかっただけで、街中で何度も聴いた旋律が、何曲もあった。知らないあいだに、皆の中に染み付くようなメロディーが、そこにあった。

 これを作ったのは、目の前の男なのだ。

 それでいながら、彼は、検察官でもある。どちらかをおろそかにするどころか、どちらも両立させている。どちらも成功させている。そう思うと、なんだか彼が、前以上に、眩しく見えた。

「住む世界がちがうよなあ……

 ──とうてい、追いつけない。追いつくビジョンが見えない。

 そんな弱音を吐いてしまった。小さく、ぽつりと呟かれたそれは、空っぽの缶コーヒーの中に注がれて、そのまま掻き消える、はずだった。

「ん……? なにか、言ったかい?」
「あ……いえ。なんでも」

 ない、と言おうとして、唾を飲む。

「ただ……オレはまだまだだなって、思っただけです」

 ぽろり、と……そんな本音が、堪えきれずに、転がり落ちていった。

 敵わない。追いつけない。そもそも、同じ土俵に立てていない。そんな思いが胸を巣食っている。そんな悔しさは、確かに、上を目指す胆力を生み出している、食らいつく体力の元だけれど。
 それ以前に。目標のスタートラインにすら立てていないのではないか、なんて焦燥感までも、湧き出させる。

「感謝してるって……あなたは言ってくれましたけど。オレは結局、なんにもできてないですよ。成歩堂さんが裁判員制度を手回ししてなかったら、結局、逃げられてたわけですし……牙琉検事が告発してくれてなかったら、事件も分からなかった」

 押さえつけていた不安が。考えてもしょうがないと追いやっていた不信が。隙間を見つけたとばかりにぼろぼろと、重力のままにこぼれおちていく。

 あの法廷で、オレは、何もできていない。証拠だって情報だって、成歩堂さんが調べて、成歩堂さんに渡されたものを、成歩堂さんの代わりに提出したようなものだ。それだって、目の前の検事の行動がなければ、提出の機会もなく、何も成し遂げられていなかっただろう。
 あのときのオレにできることは、せいいっぱいやったつもりだ。結果的に最悪の事態は免れた。それでも……最善策ではなかったような気がしてならない。もっとよくできたのではないか、と。もしもを考えても進まないけれど。

「あの裁判で〝真実〟がわかったのは……あなたの実力です。牙琉検事が、強いからです」

 目の前の人が、その〝もしも〟に見合う人間であるのが。……戦うには、オレなんか、見合わないほど立派な人物であったことが。それに気づいた後に……この人を見ていると苛立つような気持ちになるのが、すべて八つ当たりで、未熟な自分に向けられる歯がゆさの裏返しであるのだとも気づいて。
 それから、ずっと、オレの脳裏には、オレのなるべき弁護士像のそばには、牙琉検事がいた。忘れられなかった。見合いたいと思った、こうなりたいと思った。この人は検事だけれど。だからこそ、オレもこの人の力になりたい、と思った。

 また、この人と一緒に法廷に立ちたい、と。

 今度こそ、オレの実力で、この人と見合う人材になりたい、と。
 そう、有り体にいえば……支えたい、と思った。牙琉検事の進む道と、オレが目指す場所は一緒のような気がして。ならば、オレは、彼と苦難を乗り越えていきたい。

 でも。オレは、まだ、きっと。それに追いついていない。彼に認められているのか、分からない。最悪、見くびられているのかもしれない、なんて思ってしまう。

 実際、彼は、ひとりで立ち直っている。牙琉霧人……実の兄が逮捕されて、七年前の事件の真相が暴かれて。彼は、あの裁判で、徹底的に追い込まれた。テレビでも雑誌でも、センセーショナルに話題にされていたのを、知らないわけではない。……でも、オレは、それに対しては、言葉さえもかけられていない。

 裁判の直後は、危篤状態である被告人のもとに駆けつけるのを優先してしまったし、裁判が終わってしまえば、顔を合わせる機会も見当たらなくなる。流れるテレビや街頭に並ぶ雑誌、毎日届く新聞で彼の名前こそは目に付いたけれど、直接、こうして会うことは、なくなった。今回、偶然に鉢合わせなければ……彼をオレが見つけて、彼がオレに話しかけなければ、こんな機会さえなかっただろう。

 結局具体的な話もなにも聞けなかったこと……彼の核心を支えられなかったことに、負い目がないといったらうそになる。それでも、彼とは〝何度か戦ったことのある弁護士〟というだけのオレには、そんな深層に立ち入る権利があるのかも分からなくて。

 そして……もう、彼は、ひとりでなんとか踏ん張っている。
 助けの手さえも差し伸べられなかったオレに、感謝を示して。

 自己中な考えなのに。何もしなかったのは自分なのに。それに対して、打ちひしがれる思いがある。──オレがいなくてもこの人は……、こんなにも明るく、眩しくて、マッスグだ。

 救いたいなんてオレが思う前に、自分で自分を救って、なんなら、〝感謝〟で、オレを労わってくれる。立派な人だ。すごい人だ。
 ──それに比べて、オレは、まだ……

「オレはまだ、牙琉検事と同じ世界を、見れてない」

 目の前のことに集中してしまって。一生懸命になりすぎてしまって。結局、どれかは取りこぼしてしまう、そんな予感がしてならない。
 いくら支えたい、追いつきたい、と願って、走っても、追いかけても、転んでも、立ち直っても。どうあがいても、背中が見えない。──追いつくビジョンが見えない。目標地点すら、曖昧なのだ。
 それが悔しい。オレには、この人は不相応だと、実感する。
 それは、彼が芸能人だということを差し引いても消えない感覚が一因している。彼がガリューだからとか、有名人だからとか、そういったことは問題ではない。それでも。〝ただの牙琉検事〟と、オレ、では。

「〝住む世界がちがう〟から?」

 はっきりと紡がれて、肩をビクつかせてしまった。……聞き取られていたらしい。その驚きも、あるけれど。

「ちがうよ、それは」

 存外に鋭い声色で、びっくりしたのだ。こちらの内面にずけずけと押し入ろうとしてくるような言葉だった。

「ぼくが住んでるのは……ぼくが見てるのは、きみと同じ〝法曹界〟に決まってるだろ」

 ばっさりと告げる彼の目は、いつになく真剣そのもので。ガリューウエーブの音楽はうるさいと言いのけたときだって絶やさなかった口元の笑みを無くして、まっすぐ、言葉を投げかけてくる。
 目を白黒させているオレに、牙琉検事は、ふう、と息をついて、声をかけてくる。

「おデコくん。きみだけ、なんだよ。ぼくに、あんなふうに噛み付いてきた弁護士は」
「え」
「最後まであきらめないで、真実を目指してくれたのは……ぼくについてきてくれたのは、きみだけさ」
……でも、それは……
「なんでもないコト……ってきみは思ってるんだね。……だから、ぼくは救われたってのに」

 だってそれは、最低限だ。弁護席に立つ以上、真実から目を離さないように、ただ目の前のチャンスにかじりつく姿勢を保てなければ、裁判が不完全なまま終わってしまうから。それだって、最初はあきらめかけたのを、みぬきちゃんに鼓舞された一件から、決意したことなのに。
「それでも、結果的に、成し遂げられているんだろう。それでじゅうぶんさ。そこで、あきらめないという選択をしたのはきみの実力なんだから」
 そんなことを弁解すれば、堂々とした答えが返ってくる。その後に、牙琉検事は、どこか眉を下げて……なにかを思い出しているようなそぶりで、続ける。

「ずっと裏切られつづけてきたんだ。弁護士ってやつに。〝真実〟よりも、〝無罪という結果〟を求める弁護士に……

 しかめる眉と、歪む唇は、ある意味、検事らしくなく、苦々しい表情だった。
 ……結果を求める法廷。法の暗黒時代。本来事件の真実を暴くべき場である法廷の目的がすりかわり、弁護士なら無罪、検事なら有罪をもぎとることを目指すことが是となる。冤罪事件やねつ造疑惑によって、世間では、そんな風潮が、じわじわと広がっている。
 その問題自体は……そもそも序審法廷制度が施行されたときから、懸念されていたことではあるけれど。悪化のきっかけは、成歩堂さんが〝ねつ造証拠〟を使った法廷──牙琉検事の初法廷──だ。
 陥らせた当事者とも言える彼は、そんな歴史を、そんな時代を望んではいない。どころか嫌悪している。それでも、ある種、自分のせいで悪化していく法廷に、逃げ出すこともなく立ちつづけて、今回こそはと願って、毎回絶望していたのだと言う。

「今までの弁護士はね。ぼくがちょっと……〝真実〟を知る手助けをしてやったらね。あたかも、自分だけの手柄だとばかりに、誇ってきたんだよ……自分は勝ったぞ、無罪を取ったんだぞざまあみろって……ただ、ぼくの誘導にしたがってただけなのに……

 過去を思い出すその目は、諦めとも、失望ともいえる色をしていた。
 ──ひとりじゃ、冤罪を生み出してたかもしれないってのにね。
 寂しげに、嘲る。〝弁護士〟の責任に無自覚でいる、勝利しか見えていない、いつぞやの弁護士に向けて。検事に勝ったことに、優越感を抱いた、ダレかに。

「でもきみは、そうじゃなかった。わかったよ。悔しそうに、ぼくを見つめて……自分も負けてられないって、そんな顔をしてた」

 ──検事に、勝ったとき。オレが抱いたのは、悔しさだった。……これじゃあ、勝ったなんて言えない。オレの実力と、胸を張って言えなかった。彼がいなければ、無罪を勝ち取れていたか分からなかったと、本気で思ったから。
 訝しさと、屈辱感と、対抗心を込めた睨みの意図も、この検事にはおみとおし、だったようだ。

「それがどれだけうれしかったか! ……わかるかい?」

 見通した上で……歓喜していた。思ってもみないリアクションで、目を見開く。さっきまで曇っていた牙琉検事の顔は、一転して明るく、輝いていた。

「やっと出会えたって思ったのさ。共鳴した、っていうのかな…………王泥喜法介。ぼくは、きみになら、任せても大丈夫だって思えたんだよ」

 よく通る声だ。ロックシンガーかつ検察官の彼の声は、大きすぎないのによく通る。ただ正確に、人の心に踏み入って、胸を打って、澄んだ音を響かせる。向けてくる信頼が、さっきまで持て余していたはずの感謝が、すうっとオレの中に染み渡っていく。
 ──信じられなかった。
 だって、その言いぶりなら、その内容なら、オレは。検事に、初めて彼と戦った日から、認められていたことになる。見込まれていたことになる。ずいぶん前から、この不安が杞憂だったことに、なる。
 ──信じられないのに、その言葉は、オレの心によく馴染んだ。
 だって、本気なのだ。本気だと、わかるのだ。オレに感謝する感情も。オレをすごいと賞賛する言葉にも。嘘偽りなんてまったく含まれていない。
 七年間の苦しみも、その闇が晴らされる予感に胸を踊らせたことも、期待どおりの姿に心底救われたことも。すべてが全力で、語る目つきにすら、切実さと、必死さに溢れている。
 冗談じゃなく、彼は、オレが〝当たり前〟の弁護士だったからこそ……新人の、未熟さの残る弁護士だったからこそ、希望を見出したのだ。……ほかの弁護士だったら、ダメだった。というよりも、ほかの弁護士に、めぼしい存在がいないに等しかった、と言う。

「もちろんマグレだったってことも考えてたけど。それでも……〝当たり前〟っていうのが大事だったんだ。……〝当たり前〟をわかっている新人が現れるのを、ぼくはずっと待っていたんだ」

 ふっと、牙琉検事は、やわらかくて、このうえなくサワヤカな笑みを向けた。ダレに、なんてわかりきっている。だって……名前だって呼ばれたのだ。

「さらに、きみはそれだけに終わらずに、ぼくがつい目を逸らしてしまった事実……、知らされなかった事実を補って、提示してくれた。そのおかげで、事件の真相がわかった……

 金庫の中の弾丸を、牙琉検事は知らなかった。ラミロアさんが通気口を移動経路にしていたことを、牙琉検事は見落としていた。牙琉霧人がねつ造に関わっていたことから、牙琉検事は、目を逸らしていた。それらを……弁護士であるオレが、法廷に持ち出したから、目を向けることができた、ということ。
 その情報をオレが掴んでいたのは、単なる偶然かもしれない。その推理に行き着いたのは、思いつきに過ぎないのかもしれない。それでも。……オレがいなければそれは生まれなかった。それを彼が拾ってくれなければ、意味がなかった。
「弁護士がいるから検事は推理ができる。検事がいるから弁護士は弁護ができる……。そんな当たり前を、当たり前にやってくれるきみがいてくれるから、ぼくは強くあれたんだよ」
 やるべきことを、正しい手段でやりとおす、そんな〝当然〟を持っているそれだけで、じゅうぶんなのだ、と強く、彼は言う。
 オレがいたから強く立てたんだと、立ち直ることができたのだと、まっすぐに言う。
 ──ただの弁護士と検事だから、近づけないのだと思っていた。
 ──ただの弁護士と検事という関係だから、頼られる権利がないのだ、彼を救えないのだ、と。
 でも、それは間違いで。……弁護士と検事という関係だからこそ、オレは、彼を、救うことができた……
 もうとっくに、彼を、救っていたのだ……

「それをおデコくん自身が知らないでいて、どうするんだい」

 事務所を追われようと、憧れに裏切られようと、手放さなかったこだわりが、それを突き通したからこそ、報われている。……あまりにも都合のいい事実が、胸にのしかかる無力感を、ふわりと持ち上げて、軽くする。

「自信持ちなよ。このぼくがきみを認めてるんだからさ」
「認めて、くれてるんですか」
「モチロン」

 さらりと、彼は言葉を吐く。その言葉がまったくの真実であると、オレは、分かってしまえた。腕輪の力もそうだけれど。どうしてそんなことを訊くのかと言いたげな、そんなことを不安がっていたのかと笑い飛ばすような、サワヤカな笑顔がオレに向けられているから、理解せざるを得ないのだ。

「認めてない相手におごるほど、ぼくは太っ腹じゃないんでね」

 ああ、そうだ。この人は、ライブチケットだって、二割引で払わせた人だ。お金にシビアな一面に、ついこの前、眉をひそめたばかりだ。
 この人は、もうとっくに、分かりやすく、示してくれていたのだ。オレについて、どう思っているのかを。

 対等になりたいと思っていた。追いつきたい、と途方に暮れていた。背中が、見えなかったから。目処がつかなかったから。でも……それは。もう、となりに立っていたから、なのかもしれない。となりに並んでくれたから、なのかもしれない。
 ……灯台もと暗し。そんなことわざを思い出す。目の前ばかりを見すぎずに、ふと横を見てしまえば、〝目標〟はもう、すぐそばにあった……
 俯いてはいけないと前を向いていたのが、仇となっていたのだ。必死すぎて、気づいていなかったのだ。……そう思うと、もはや、笑えてくるまである。

 スピーカーから流れる曲──ラブラブ・ギルティーとかいう曲名だったはずだ──も後半に差しかかる。一番の途中でも聞いた歌詞が繰り返されて、そして、転調する。

 ──風に聞くかむしろおデコくんに聞いておくれよ!

 目を、見張った。こんな歌詞だっただろうか。そういえば、「〝ラブギル〟に新バージョンが出たんですよ」とかみぬきちゃんが言っていたような。これがそうなんだろうか。だとしたら、なんで、オレの名前が……牙琉検事のオレの呼び名が叫ばれているんだ。
 聞きまちがいじゃないんだとしたら。目の前の男が、歌詞にオレのあだ名を入れた、ということなんだろう。……色々、ツッコミどころはある。ふつうに考えたら、肖像権の侵害にあたるかどうかの議論が必要だとかなんとか苦言を思いつくんだけれど。
 ──なぜだか嫌な気はしなかった。勝手に名前を使われているのに。おデコくんに聞いておくれよ、なんていう言葉が、なんだか心地よかった。

『ラブラブ・ギルティーは、そのときのガリューさんを象徴してるんですよ! だから、毎年、歌詞や曲調に、アレンジも加わるんです』

 今年の牙琉検事を象徴する曲に、オレの要素が加わっている、ということが、なんだか……誇らしかった。もう、訝しさなんて感じない。
 頼られている。信頼されている。『聞いておくれよ』というフレーズからして。歌詞に入れてくる行動からして。そんな意図が伝わってきたからだ。
 曲もラスサビに入り、どんどん盛り上がっていく。それにつられるように、胸の高揚感が消えないまま、オレは、牙琉検事に話しかけた。

「この後って、空いてますか」
「え。うん……
「例の、ディナー……今日ってのは、だめですか」

 もう、断る理由はない。お礼を……この人と関わることに、引け目を感じる理由なんてないのだと、わかってしまった。

「だめ……じゃないけど。店、開いてるかな……
「店、オレが選びますよ。けっこう遅くまでやってる、いい店知ってるんで。……高級店じゃないんですけど」
「おデコくんがいいなら」
 断る理由はなくなったものの、あんまり高いものを奢ってもらうのも忍びない。舌に合うかも分からない。食べなれた、近くの定食屋とか、牛丼屋ぐらいのほうが、オレの気が楽だった。
 それでもかまわないと、牙琉検事は気丈に言い放つ。

「ぼくはどこでも、きみについて行くよ」

 大袈裟なセリフだ。見合わないぐらいの。それでも。
 その言葉が〝本気〟なんだろうと、もう、信じてしまえた。
 ツインギターの音が……となりの男の歌声が、オレと並び立って、背中を押してくる。そんなイメージのもと、きっと検事は行ったことないんだろうチェーン店に向かって、オレたちは、歩き出す。
 ──オレは、この人と、一緒に並べている。対等に、歩めている。そんな、しっかりと踏み出していけるような充足感が、オレの胸に溢れていた。となりの相手に負けていられない。この調子で、否、これまで以上に、がんばっていかねばならない。そんな張り合うような気持ちが生まれている。
 立ち止まらずに進んでいく。成長しつづけていく。そんな決意をするのに必要な、晴れやかな気分が、オレの胸に溢れていた。