第六話
人攫いの話、前編
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羅乃目……紅族。第十九代統領
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黒骸……紅族。羅乃目の許婚
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羅神……羅乃目に憑いている黒い狼の
憑守
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雨庸……黒骸に憑いている白い大蛇の憑守
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鎌苅トキ時……憑守が見える、
食事処伊呂波二代目店主
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天河良……通称「死神」。伊呂波のケツ持ちをしている彫り師
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笹垣飛丸……笹垣家三男。女性装趣味がある
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郡司直助……飛丸のお目付け役
つい執着してしまうことはあるだろうか。好きだから大切だからという理由と経緯で対象に執着をみせることは、生き物としてはままある現象だろう。しかしそんなつもりはないのに知らず知らずのうちに執着してしまったらどうだろうか。妙にこだわってしまい、それ以外を跳ね除ける程に、第三者に「最近少し変だ」と言われる程に、ある種嫌悪を感じていたそれに、自分でも意味がわからないまま手に負えない事態に陥っていたら
……。
嫌っている対象者がいたとしよう。嫌いな相手の存在をまるで無いかのように平然と振る舞える性格ならまだいい。だがやることなす事全てに文句が言いたくて、相手の一挙手一挙動をやたらと細かく観察してしまう性格に心当たりはないだろうか。お察しの通り後者は執着である。
嫌悪故の執着、愛故の執着。では愛と執着の違いはなにか? 情と執着の違いはなにか? 愛の向こう側に執着があるのか? 執着の到達点が愛に名を変えるのか? 愛は善か? 執着は悪か?
愛しています、愛しています、愛しています。
ともあれ、己を律することができなければ身を滅ぼす結果が訪れても、文句は言えないのである。
*
春の嵐。
季語よろしく、実に荒々しく春を告げるそれは突風と大雨、そして名前の通り春雷を混ぜ合わせて太都を襲った。ほぼ二日間かけてじっくり太都を堪能した春の嵐は、川を濁らせ梅を攫い、開き始めた桜の蕾を引き千切り、雨漏りを招き、松ノ区の心許ない家屋の端を引っぺがす。春を告げるには余りあるいたずらの数々と太都観光にようやっと満足したのか、それはしゅるりと山の端に消えていった。これほどまでに天候が荒れ、なおかつ長引くことは珍しく、太都全体が花見が出来ない悲しさを忘れて後始末に追われている。不幸中の幸いか、地滑りこそ起きなかったものの、飛んできた物に当たっただとか、雨漏りが酷くて屋根に上がったら落ちただとか、畑が心配、田が心配、川を見てくる
……悲しみの件数は零ではない。しかし北町に限っては、日常茶飯事に堕ちた刃傷沙汰や喧嘩と呼ぶにはいき過ぎたじゃれ合いその他諸々のせいで、消失の悲しみの濃度がかなり薄くなっていた。麻痺しているのだ。これはこの町で暮らす人々の処世術のひとつとも言えるかもしれない。死体が増えて喜ぶ輩も少なくない。己が死なない為に相手を殺さないといけない世界で生きている、郷に入ればなんとやらだ。大切なものはあった方がいいが、あり過ぎては何ひとつ守れない。
そんな春の嵐である、食事処伊呂波も例に漏れず。わずかな距離とはいえ荒天により往復ができなくなることを想定し、掘立て小屋のふたりは布団ごと母屋に拠点を移動。本格的に荒れる直前に「なんか今回やばそうだから来ちゃった」と言いながら良が儀三郎を連れて避難してきた。天候が荒れると楽しくなってしまう性分の羅乃目をなんとかなだめて気を逸らし、店の卓をまとめて隅に寄せて作った空間で飽きるまで運動をさせ、それでも「掘立て小屋が心配でやんす」などと理由を作っては脱走しようとする楽しそうな顔の彼女を連れ戻す作業を挟みながら、なんとか二日間をやり過ごした。
この嵐は春だけでなく、折れた枝やどこの物かわからない暖簾に提灯、手拭いに桶、果ては人間の腕なんかを連れてきた。肘から下だけになった、女のものと思われる腕。そう、人間の腕。
話を数日前に戻そう。
黒骸は不定期で、そしてかなりの頻度で東町の仏具屋へ囲碁を打ちに通っていた、いや習いに。もちろん便利屋の仕事としてである。何故そのような事態になっているのかと言うと
……それはさらに話を過去に戻す必要がある。
最初は単に蔵の掃除をしてほしいという依頼で足を運んだ。お喋り好きな伊呂波の常連たちの口によってごくごく短期間でふたりの便利屋稼業は局所的に認知度が上がっており、どこから伝わったのか東町で四代続く仏具屋の若旦那の耳に入ったらしい。立派な店に得体の知れない若者を招き入れて掃除をさせると言うのだからどんな酔狂な人物かと思いきや、若旦那は生真面目で実直。早々に仕事を終えてしまったふたりが茶を頂いている時にその人物は現れた。
「お前さん、囲碁は打てるか?」
「一応の打ち方だけは知っていますが、きちんと打ったことも、ましてや対戦をしたこともありません」
「そうか、それはいい! それが一番いい!」
文字通り「ニッ」と笑った老人は、聞けば隠居した二代目らしい。暇を持て余した健康老人。言うが早いか道具を抱えてきたかと思えば、あっという間に黒骸と碁盤を囲んだ。道具はどれもかなり使い込まれているものの、一見して高級品だとわかる職人の手仕事が光る重厚感のある逸品である。
「あの。俺は初心者以下なので、二十五子の置き碁でも、相手にもなれないと思いますよ」
「いい、いいんだ! むしろそれがいい。実にいい。置き碁を知っているだけで上出来すぎる。むしろ知り過ぎている」
「そう、ですか?」
「この後時間はあるか? 拘束時間延長の追加金はきっちり出してやる、私と一戦頼む!」
「はあ」
仕事終わりにのんびりとしていたところへの登場だったこともあり、すっかり御隠居の勢いに飲まれ気味になった黒骸は、言われるがままに一局対戦する運びとなってしまった。追加金とは別で、羅乃目には追加茶菓子が運ばれてきた。
「わっち全然わかんないでやんす」
予め敷き詰められた置き石で、既に黒色の密度が高い碁盤上は、その後少しずつ白を増やしていった。
「ねえどっちが勝ってるの?」
「圧倒的に私だ! わはは!」
「ふうん?」
黒骸は囲碁の打ち方だけ知っているが好手も悪手も理解していない。勝ち方も、ましてや美しい引き際という名の負け方も知らない。多少覚えがある者から見れば実に滑稽な手を繰り出し続けているが、仕事と思っているからだろうか表情は実に真剣であったし、現に本人も真剣に打っている。
「オーイ、何もわからねえ素人負かして楽しもうってかァ? いい趣味してんじゃねえかよ人間〜」
黒骸の背後で雨庸がぐねぐねしながら悪態をついている。
「気が散るだろう。黙っていろ」
羅神が黙らせた。
盤面が読めない羅乃目はかなり早い段階で飽きていた。追加茶菓子も既に腹に納め終え、少し丸まった黒骸の背にぴたりと引っ付き、自身の髪をいじっては時間を持て余している。
「ねえー、今どっちでやんすかー」
「ずーっと、私だ! ふはは!」
「ンだよ、なんか腹立つな! オイ!! なんなんだこいつ!」
「黙っていろ」
黒骸は終始黙ったまま、視線を盤面から離さない。
「
……投了か?」
御隠居が真面目な声で確認してきた。途中までの楽しげな雰囲気ではない。
その確認の返答として、黒骸は熟考の末に一手打った。碁盤の右隅にとんと打たれたそれは、意味があるのかないのか羅乃目にはわからなかった。
「ふむ
……」
御隠居は今までとはまた違った声色で一息ついたかと思うと、今度は肩を震わせて静かに笑っている。
「くくく、ふふ、ふはは! いい! 実にいい! 流石にもう打つところがないな! ははは! 私の勝ちだな!!」
後半は笑い過ぎて涙目になりながら膝を叩いている。
「オイ! こいつになんか言い返してやれって! なんなんだこいつはよォ! オレは腹立ってしょうがねえ!」
「
…………」
笑い過ぎてヒイヒイ言っている対戦相手は人差し指で涙を拭うと「いやすまん、すまん
……ふふ」などと漏らしたかと思えば、わざとらしく咳払いをして居住まいを正した。
「お前さん、私に囲碁を習いなさい。予想通り、実に見込みのある無茶苦茶で無鉄砲な手だった。しかし偶然かどうか、全て強気な手だった。筋がいい」
「ンでそーなるんだ?! 頭オカシイんじゃねーのかこいつ!!」
雨庸の言い分はもっともである。素人を負かせて悦に浸ろうとしている無粋な老人かと思いきや、なんと遊び相手を探していたというのだ。おそらく、ふたりを蔵の掃除と銘打って呼んだ黒幕は若旦那ではなくこの御隠居であろう。本来の目的はこちら、というわけだ。なるほど道理で妙に片付いていて掃除甲斐のない綺麗な蔵であった。
「いやなに、倅や孫は全く面白味のない手しか打たなくてな。それに私の相手なぞそうはしてくれない。近所の囲碁仲間も足が痛いだの腰が痛いだの言って集まりも悪くなって
……ここまで言ったらわかるだろう。私は共に楽しむ相手がほしいんだ、いないなら育てるまでよ」
「
……お断りしたらどうするんですか?」
「お前さんは断らん、何故なら今後これは仕事になるからだ」ふたりが怪訝そうな顔をする前に、御隠居は腕を組んで背筋を伸ばした。「さて商談だ。便利屋の仕事依頼として拘束時間代を私が払う、そして囲碁を教える。お前さんは便利屋として金を受け取り、囲碁を習いに来る。お供に茶と菓子もつけよう。明日また同じ時間に来るといい、他に仕事が入ったら無断でそちらを優先して構わない。そうだな、馬鹿な天候になった時も無断で休んで構わない。どうだ、安定したいい小遣い稼ぎになるぞ。私のことは気軽に『イゴさん』とでも呼ぶといい!」
といった経緯で、黒骸はイゴさんの元で金を貰いながら囲碁を教わっている。この筋が通っているようでいてまるで意味不明な構図を前に、当初は有耶無耶にして通わずに終わりにしようと思っていたものの、「仕事だからやらないと」という真面目な性格が災いして(否。幸いして)、こうしてきっちり通っては手解きを受けている次第である。実際のところ性に合っているのか、囲碁自体をそれなりに楽しんでいた。
「まっさか律儀に通うことになるなんてな」
「あの人が言っていた通りだよ、安定したいい小遣い稼ぎだからね。融通が効くから気も楽だし、西町ではまず出会えない人種との人脈を、友好的なものとして持てたのは大きい。なんにせよ維持して損はない」黒骸はここからが本題とでも言いたげに、声を少し落として続けた。「年齢や職業、社会的地位を考えると、
あれには参加していないだろうからね」
「
……そうかもしれねーけど。仏具屋だろ? どうせ葬式埋葬祭りで儲けたクチだぜ?」
「だったらその稼ぎは少しでも削ってやらないと。安心してよ雨庸、俺は人間に気を許したり絆されたりしないよ。使えそうなものは使う、それだけだからね。その為に最低限綺麗な上辺はきっちり用意するものだよ」
「そうかよ
……」
この仏具屋と伊呂波の往復で、ある日事件が起きる。
事件などと大それた単語を持ち出したが、それはあくまでも結果的にここが発端だったという視点からの査定であって、正直なんてことはない。角を曲がった出会い頭に、人とぶつかっただけである。ぶつかったと言うよりも、全速力で突っ込まれたと言った方がより正確に状況を伝えられるだろう。完全なる貰い事故だ。だが人間が不意打ちで突っ込んできたところでよろめく黒骸ではない。その体重と体幹がまるで壁のような役割りを果たし、同じ速度を保ったまま相手が後ろへふき飛ばされていった。
ぶつかられて勝手に転ばれているという事実を脳内で瞬時に並べて「
……面倒だな」と喉まで出かかった言葉を「すみません、大丈夫ですか?」に切り替える。
相手があまりに派手な飛ばされ方をしたので、周囲の人間たちに注目されてしまった。道の真ん中で悪目立ちをしていることも相まって、つい「優しい」と思われそうな無難でありきたりな方法でその場をやり過ごそうとしたのだ。無闇やたらと他者に最大出力をもって優しく接する者が近くにいると、行動の選択肢に自然と刷り込まれてしまうらしい。
「大丈夫ですか?」
飛ばされたのは女性のようだった。呼びかけと同時に格好だけでもと思って手を差し伸べてしまった。
「
……はい」
差し出した手を取ろうとした人間は黒骸の顔を見上げると、天命でも授かったかのような表情になる。
「!」
「
……?」
一方通行の視点で、背景が華やぎあたたかい光に包まれ、花びらが舞い、祝福するかのように何処からともなくやって来た蝶が舞う
……全ては幻想であり幻覚である。何度も言うが「一方通行の視点で」。極楽浄土とはまた趣きの異なる南蛮絵のような場面が背景に描き出されるなか、後方から精悍な顔をした男が走ってきた。
「
飛丸様ー!」
その声が耳に届くや否や、天命を授かった顔は即座に苛立ちをあらわにする。
「
郡司! この格好の時は『蝶』と呼ぶようにと言っているでしょう!」
黒骸が女性と思い込んでいた人物は飛丸と呼ばれたことが許せないらしい。男と呼ぶには高いが、女のそれと呼ぶにはいくぶん逞しすぎる声色で走ってきた男を罵倒している。
運良く手を取られずに済んだ黒骸はどさくさに紛れて手を引っ込めるも、流石にそのまま立ち去るわけにはいかないと思いふたりをちらりと観察した。
座り込んだまま男を罵倒している女性、いや男性、十代前半から半ばの少年。つまりは女性装の若い男。名を飛丸というらしい。女性装の時はお蝶と呼ばなければこのように怒りだすということか。女性的という雑な括り方をして失礼がないかどうか黒骸には判断はできないが、先日会った花ちゃんとはまた全く違う方向性と言える。小綺麗に化粧を施し髪を綺麗に結ったその姿は、口を閉じていれば女性に見える華奢さを持っていた。
走ってきて罵倒されている男は郡司と呼ばれていた。四角い顔に四角い体凛々しい眉毛、健康的に日焼けした肌、二十代後半から三十前半の歳。帯刀しており、身のこなしだけで武芸に秀でている者だと判断できる。が、今は飛丸にぎゃんぎゃん噛みつかれ、左手を後頭部に添えながらぺこぺこと謝っている。
女性装趣味のどこぞのお坊ちゃんと、そのお目付け役といった間柄だろう。
郡司が飛丸の手を取って立ち上がらせた。
「はあ、あの、すみません。大丈夫ですか。お怪我がなければ俺は先を急ぎますので、失礼します」
これが事件である。
「
……またいるなあ」
この事件を境に、黒骸は仏具屋から伊呂波への帰り道で尾行まがいなことをされるようになってしまった。最初の出会いが行きがけだったので、どこかからあの仏具屋へ出入りしていることは既にばれてしまっているのだろう。それでどこから来ているのか確かめたい
……のか話しかける機会を伺われているのか、飛丸から直々に下手な尾行をされているという次第である。その後ろでいつも郡司が心配そうな顔をしていた。
「話しかけたいなら普通に話してくれた方がまだましなんだけどな。人間はどうしてこう暇なんだろう」
「お前あいつに惚れられちまったな! こりゃあ!」
無責任に爆笑する雨庸を、見えない者からも違和感のない自然な動きで耳元から引き剥がす。
「迷惑」
「オレがか?」
「人間の話だよ」
毎回適当に撒いてから伊呂波に帰宅するというひと手間を加えさせられた黒骸は、飛丸個人というよりも人間という存在そのものへの悪態を内心つきながら、不要な角をいくつも曲がった。
「最近さあ、この辺で人攫いが横行してるんだって」
営業前の食事処伊呂波は、最近ではお馴染みになった四人が顔を合わせている。
店内の対面式調理場に面している席へ腰掛けて、良が昨日の夕飯に何を食べたかを伝えるかのような軽さで、巷の一大事を情報共有してきた。
「
……こう言ってはあれですが、珍しい話ではないのでは? そういった話題は何度かお客からも耳にしますよ」
事実、他所の町から来たであろううら若き乙女たちを言葉巧みに、または力技で拐かしては、個人で楽しんだり金持ちに個別で卸したり岡場所に売り飛ばしたりする事業が存在する。
「お、黒ってば順応早いじゃーん。まあそうなんだけど、流行ってるのは少しやっかいなんだよな」
「なんだなんだもう。やっかいなのはいらないぞ」
トキ時が調理場の内側でわかりやすく嫌そうな顔をしながら、まだ旬には少し早い絹さやの筋取りをしている。味噌汁にでもするつもりらしい。
「若い女ばかりを狙っててさ。まあここまでは普通じゃん? んで普通じゃないのがこっから先」良は頬杖していた腕を右から左に変えた。「何日かするとその攫われた子の家の前に、足だとか腕だとか耳だとか、とにかく体の一部分だけを置いていくんだって。勿論その子の。ほくろとかでさ、わかったりするから」
「うげ、なんていう悪趣味な」
「家の前に置く、ですか。生家まで調べて犯行に及んでいるんでしょうか。なんにせよ大胆ですね」
「調べてから攫ってるのか、切ってる時にご丁寧に聞き出すのかはわからねえけど」
「いいいいいいいい暴力反対!」
トキ時が耐えられずに、絹さやを投げ出して両手をわなわなさせながら震えている。確かに攫うだけよりも格段に悪質で悪趣味である。
「切断という行為自体を楽しんでるのか、欠損した体に欲情するのか、はたまた両方か。まあ若い女を獲物に定めてるなら余さず全部楽しんでるんだろうけど
……さすがにこれは北町でも引かれてる。普通に拐かしに遭って体の一部分も帰ってこない子たちの末路も、まあ似たようなもんの場合もあるだろうけどさ。裏稼業の報復ならまだしも攫われてるのはどう考えても一般人だからな。危険を犯してわざわざ家の前に体の一部を置きに来る利点も理由もわからねえし、なにより最低のひと言に尽きる。頻度と手際からいって組織的なもんだと思うんだよなあ」
「北町の死神と呼ばれる良さんにも、その組織に見当がついていないのですか?」
「
……心当たりがあるっちゃあ、ある。でもいまいち噂止まりと言うか、実態が掴めねえと言うか、ヤクザもんが後ろについてるのかどうかもよくわからねえ。暗部も暗部って感じ。俺はそんな趣味ないし」良が左目を閉じた。「
……きっと場末のタコ部屋みたいな女郎屋に売られる方がまだましだろうな。そういう場所の商品は使われ方にもよるが基本的には一二回程度で使い捨てだろうし。急に需要が増えるとは思えねえんだけど
……」
「あまり流行られても困りますね」
想像してしまったのか、トキ時が青い顔をしている。可食部分とポキッと折って取り除いた筋のふたつに分けられた絹さやで、最低なものを頭に浮かべたらしい。いっそすっぱり殺してくれた方が楽、ということも大いにありえるだろう。
「ま、俺がなにを言いたいのかっていうと、おひいも気を付けなって話」
まるで他人事といった風に話題に入って来なかった羅乃目は、話を振られてきょとんと目を丸くする。
「んえ? わっちは人間に捕まったりしないでやんす」
全く聞いていないようで、実は話をきちんと聞いているのが羅乃目である。
「わかってないな、羅乃目
……」
良はすっと立ち上がると迷いなく短い暖簾をくぐって調理場へ入った。真剣な眼差しに見つめられてトキ時が何事かと身構える。
「な、なんだよ」
「
…………」
瞬時にくるりとトキ時の後ろを取った良は、左腕でトキ時が動けないように抱き寄せ、右手はまるで匕首でも持っているかのように見立てて首元へ突き立てた。大変申し訳ないが、伝わりやすさを重視してあえて世界観に合わない表現を使わせて頂きたい。この男は目に見えないドス、『エアードス』を構えている。
「おらあ!! いいのか?! 言うこと聞かねえと、こいつがどうなっちまうかなあ?!!」
良がトキ時を人質に取って羅乃目を脅している。到底堅気には見えない目付きが実にいい仕事をしていた。ご丁寧に「げへへ〜」などと下品な笑いまでしてくれている。そして今、目に見えない匕首の刃を舌で舐めた、芸が細かい。完全に人攫いの実行役だ。
「
……わ、わあ。わあ助けてくれえ、羅乃目〜」
その場に臨場感を添えようと、トキ時が大根役者っぷりを発揮してくれている。打ち合わせ無しでここまでやれるのだから上出来だろう。
「どっ
……どうしよう黒!!」
「困ったね」
昼下がりの茶番劇に新しい演目が追加された。
羅乃目は素早く立ち上がって調理場へ入ったが、ふたりの周りで体を左右に揺らしてうろうろしながら「どうしよどうしよ」と言っているだけだ。
黒骸は優しく微笑むばかりで助言はしてくれない。
良は「どうするー? ほら、こうなっちゃったらどうするー?」と言いながらも体勢は変えない。最初よりも抱き寄せ方に甘さが出てきた。これは物理的な拘束の甘さを意味しているのではなく、
そういう雰囲気という意味の甘さである。トキ時の耳元で「ほら、俺の言うこと聞く? どうする? 聞かない? あーあートキ時のこと、どうしちゃおうかな」などといい声を出している。特に「どうしちゃおうかな」の部分に適度に吐息が混じっていて、耳元で囁かれれば、もうどうにでもして!という者は少なくないだろう。そして本人は無意識でやっている。何故こうもいちいち妙に色気があって性的なのか。
トキ時は神妙な顔で小さく「たーすけてー」と呟いている。なにせ絹さやでの想像が頭から離れないのか神経質になっている最中だ、そもそも今の彼には茶番劇に出演する精神的な元気がない。おおかた「こうやって甘く囁かれて、ついて行って、その先で
……ウッ」などと考えてしまっている。
「──な? だからおひいも気を付けないと駄目ってこと。わかった?」
「はあい」
「ああ、うん。羅乃目の危機管理教育の一端を担えたなら俺は本望だよ」
その日の黒骸は運が悪かった。
いつも通り適当に撒いて帰路に着く予定が、ばったりと伊呂波の常連に出くわしてしまったのである。「まだ営業時間前か。いや、いっちょこの時間に顔でも見に行くか! なんの用もねえが! あんまり早く帰っても母ちゃんがうるせえんだよ、遅いのも文句言うくせによ」と連れ立って歩く羽目になり、尾行を許したまま伊呂波へと到着してしまった。
常連はトキ時の顔を見るなり「どうだ? この時間に見る俺の顔は新鮮だろ! まあ時間潰しでなんの用もないんだ! 多分明日また来る! 勝ったら、勝ったらな! 負けたら来ねえ! 今日は負けた! スカンピンとは俺のことよ! じゃあな!」と、本当に何をしに来たのかわからない滞在時間であっという間に帰っていった。営業時間まであとおおよそ一刻。
「こんばんは。先日助けていただいた者です」
常連とほぼ入れ違いで、満を持してという面持ちで飛丸が伊呂波へと入ってきた。女性装をしているので蝶と呼んだ方が面倒がないだろうか。後ろから申し訳なさそうに郡司も入店して来る。
「えーと、誰か知り合いか?」
蝶の第一声から、営業時間を間違えた客でも便利屋への依頼相談に来たわけでもないと察したトキ時は、視線でふたりへ確認する。
「そこの殿方と知り合いです」
「知り合いではないです」
「まあ、もうお忘れになったのですか?」
蝶の言葉を間髪入れずに否定した『そこの殿方』は、いつもの対人用の微笑みを装備せず呆れた顔をしてわかりやすくため息までついた。
「尾行には気付いていましたが、いささか悪趣味ではありませんか? 何かご用があれば声を掛けるなりなんなり方法はいくらでもあるかと思いますが」
「貴方のことを少しでも知りたくて。お住まいはどちらかと」
「聞けば済む話では? こそこそ下手について回られる方が圧倒的に迷惑ですよ」
雨庸が茶化していた通り、蝶は完全に恋をしている顔になっている。このやり取りを聞きながら郡司は胃が痛そうに眉間に皺を寄せて、大変申し訳なさそうに立っていた。意見ができる立場ではないのだろう。可哀想に。
「ではお名前をお教えください! わたくしは蝶と言います」
話が見えない羅乃目とトキ時の為に、雨庸が簡単に説明をしている。話を大袈裟に面白おかしく話したがる傾向があるが、今回ばかりは過不足なく事実だけを簡潔に述べるに留めた。万が一羅乃目がなにか勘違いするといけないと判断したのだろう。
「飛丸様、と呼ばれていませんでしたか?」
「覚えていてくださったのですか? あ! いえ、あれは、その、それはわたくしの名では。ああ、その、貴方様のお名前は?」
「別に俺はあなたを助けてなどいません。むしろぶつかられた側ですからね」
「手を差し伸べてくださったではありませんか」
「あのまま無視して立ち去ればよかったと後悔している最中です」
「まあ、なぜそのようなことをおっしゃるのです! わたくしはあの時に運命を感じたというのに。あの時は邪魔が入って叶いませんでしたが、是非その手を取らせてくださいませ」
「それはそちらの主観でしょう? その発言を聞いてより一層後悔が色濃くなりました。開店準備で忙しいので、どうぞお引き取りを」
「わたくしに興味を持ってはくださらないのですか?」
「全く無いですね」
「なぜですか? それはわたくしが
……男だからですか?」
「随分と面白い物差しをお持ちですね。ではあえてそれを肯定しておきます。お帰りください」
「お名前を聞いたら本日は帰ります」
「本日は? 金輪際姿を現さないのなら検討の余地もありますけれど」
どうやら黒骸は名乗りたくない様子だ。より面倒になるのが目に見えているのだろうか、単に関わりになりたくない旨をこの態度から察してほしいという主張か。残念ながら恋する乙女の前に察する察しないなどと言う曖昧な表現は意味をなさないらしい。
トキ時はいたたまれない表情で体を強張らせ、口の前に手を添えている。
羅乃目はその横で全く興味がないと言いたげだが、なんとなくそれを眺めてはいる。
「黒は全く相手にしてないけど、羅乃目としてはああいうのはどうなんだ? 嫉妬したりするのか?」
「嫉妬? わっちが人間に
……? なんで?」
せっかくの小さな声での質問を、平時と変わらない大きさの声量で返している。
「自分は!!」
黙っていた郡司が突然大声をあげる。胃痛が限界地点まで到達しているのか、声色と顔色がちぐはぐでまるで一致しない。
「自分は
郡司直助と申す! こちらのお方は笹垣家三男、
笹垣飛丸様! 今のお姿の際は
お蝶様と呼んで頂きたく! 自分は生まれ落ちた時から笹垣家に仕えて早三十四年! お蝶様をお守りするべく武芸を磨いてきた身! 先日の全くぶれない体幹、大変見事でありました! 同じ
漢として貴方様の名をお教えください!」
そう叫ぶと腿の付け根に手を添えて、肩幅程度に開いた足を膝部分から軽く曲げて礼をした。武人の礼とでも言うのか、伊呂波の三人には馴染みのない形であった。
「ちょ、郡司! なにを
……!?」
意味がわかるようなわからないような、恐らく自分でもどんどん意味がわからなくなりながら必死で駆け抜けている。蝶の困惑に同意ではあるが、とにかくこの場の空気を打開せんとする気概だけは買ってやるべきだろう。現に蝶だけでなく郡司にこの気迫で迫られては躱し切れないと判断したのか、とうとう黒骸が折れた。
「
……俺は黒骸です。それから奥にいるのが俺の雇い主、ここ食事処伊呂波の店主である鎌苅トキ時。その横の女性が俺の許婚である羅乃目です」
郡司を倣ってなのか、それとも羅乃目という許婚がいるということを述べたかったのか、黒骸は店の奥に居たふたりを指をそろえた手の平でそっと示しながら紹介した。
「俺はこの世で羅乃目しか愛していません。その他の有象無象に興味はありません。あなたに興味がないのは男だからではありません、あなたが羅乃目ではないからです。以上です、今度こそお引き取りを」
「
……い、い、許婚ーーー?!」
その日はこの一言で眩暈を起こした蝶が倒れ、慌てて郡司が抱えて退店した。
「ご機嫌よう。本日も目が離せないくらいお美しいですわ黒骸様。どうか貴方様のことを教えてくださいませ」
てっきり許婚の存在で諦めてくれると思ったが、蝶は伊呂波へ来るようになってしまった。しかも時間が許す限り一日中。良と鉢合わせることもあったが黒骸以外は眼中にない様子で、存在の確認をするだけで交流はない。加えて良は蝶がどうにも好きではないらしく、「この辺りをそんな綺麗なナリでふらふらしてると、冗談抜きでろくな目に遭わないから本当に気をつけな」と言い残したきり面倒がって日中に顔を出さなくなった。
黒骸ひとりで用事があると「妻は家で待つものですわ」と言ってあえて付いて行かずに伊呂波に居座っている始末だ。これのおかげでトキ時も揃っての買い出しが出来なくなってしまった。
「皆様でお出になっても大丈夫ですよ。わたくしがおりますので」
「
……随分お粗末な教育を受けてきたんですね。迷惑だから帰れと言っているんですが」
流石に目に余ると、基本的に無視を決め込んでいる黒骸がため息混じりにこう漏らせば、「やっと話しかけてくださいました!」と喜ばせる結果に終わった。
郡司は相変わらず胃痛に顔を歪ませ真っ青な顔で脂汗を垂らしながら静かにしている。都度小さな声で蝶に進言しているが全く聞き入れてもらえず、また一段と顔を青くする。実はトキ時も郡司と同じ顔をしている。いたたまれなくて仕方がないのだろう。
羅乃目はというと、別段変わりなく過ごしている。蝶がいてもいなくても用があれば外出して、終われば真っ直ぐ帰ってくる。暇な時間も散歩の気分ならばふらりと出かけて、そうでなければなんてことない顔のまま伊呂波で過ごしている。
先ほど、蝶は黒骸以外は眼中にないと表現したが黒骸の不在時に限っては、その許婚である羅乃目には真正面から食ってかかって延々と嫌味を並べ続けていた。
「待ってくれ。従業員を守るのも店主の勤めだ。聞き捨てならない。取り消してくれ」
「まあ、なんて立派な雇い主様なんでしょう。これなら黒骸様も安心して働けますわ」
言われている本人は、なんで人間と同じ土俵に立たないといけないでやんすかと言わんばかりに、無視というよりも存在そのものを認知していないかのような振る舞いをしていた。完全に五感から排除している。
「許婚だなんて、所詮は親が勝手に決めたこと。こちらには意思なんてない、ろくでもない約束事でしょう? 守る必要があるのかしら? 貴女も意地にならずに手放してみたらいかがかしら。手放すのは確かに惜しいでしょうね、お気持ちはわかります。でもきっと黒骸様の隣はわたくしの方が似合いますわ。本当は貴女もお気付きなのでしょう?」
人間に憑守が見えない聞こえないのように、羅乃目に蝶が見えない聞こえないのではと錯覚を起こしかけた矢先、羅乃目はさっぱりとした口調でこう告げた。
「お前、早く死ねるといいでやんすね」
「な?!」
「だってばかは死んだら治るでやんしょ? 早く死んで治るといいでやんすね」
「羅乃目それは」駄目、と口にしようとしたが、トキ時は喉がひゅるりと鳴るに終わった。視線の先で羅乃目がおおよそ生き物に向けるものではないような、鋭く研ぎ澄ました刃のように冷たく、凪いだ湖畔の水面のように静かに、それでいて屈託のない、溢れんばかりの満面の笑みをたたえていたからだ。到底言葉では表せない、見たことのない蔑みの顔。
「
……」
空回るように唾だけ飲み込んだトキ時の喉と視線に気付いた羅乃目は、いつもの顔にくるりと戻ると、声に出さず口の動きと指差しで何かを伝えてくる。
わ っ ち が
な お す ?
この言葉を受けた蝶は顔を真っ赤にして憤慨し、その日は早々に切り上げていった。
「馬鹿は死んでも治らない、だ。間違えるな。この人間はこの先何度死んでも馬鹿のままだろう」
主君への暴言と取られて郡司が逆上する可能性が脳裏をよぎるも、それはあくまでもよぎる妄想に過ぎず、実際は泣きそうな顔で何度もぺこぺこと謝りながら丁寧にゆっくりと伊呂波の戸を閉めて消えていった。
伊呂波の店内では、「羅乃目、駄目だ。駄目だぞ。駄目だからな。命ってのは簡単に奪っていいもんじゃないんだ。一番大切にするものなんだ。仮に冗談だったとしても、そういうことは言ったら駄目だ」とトキ時が念を押す声が聞こえる。その言葉が、なにもかも全てを人間に奪われた獣に響いているかはわからない。
「だって人間は生まれ変わるんでやんしょ? だったら別に、来世っていうのに期待して死んだらいいのに」
変わって伊呂波の外。足早に肩で風を切る蝶は、すっかり『蝶』ではなく『飛丸』の歩き方になっていた。それだけ怒り心頭ということか。しかし身から出た錆に近いものは感じるので、下手に同情するべきではない。
「お蝶様、何故あの男にこだわるのですか。叶わない恋を追いかけるのはどうかおやめ下さい。今のお姿が、どれ程他者の目に厄介で惨めで哀れに映ることか
……どうぞ身の振り方を今一度お考えください」
「お前になにがわかると言うのですか!わたくしは『蝶』として生きたいだけなのです。このままでは父上の定めた家へ『飛丸』として婿入りしなければなりません
……わたくしは、わたくしは。あゝ、あのお方が少しでも気を許してくださって、わたくしの手を引いてくれたのなら、笹垣家など
……お前にはわかりません。到底わかりません
……!」
「そうだとしても、あの男にこだわる理由にはなりません。素性も知れぬ、あのような町に住む男です。それに許婚しか愛していないと申していたではありませんか、それ以外に興味はないと、はっきり」
「こだわる理由はあります! この恋は本物です!」
「飛丸様は相手の意思を無視した思いが、本物だと申すのですか?」
「人の心は変わるものでしょう?! 今まで知らなかったというだけのこと! わたくしもあの時までは知りませんでした! そう、これで全てが変わるかもしれない! 賭けているのです! 惨めに哀れに映っても構いません!
……恋心は本物ですが縋っているのもまた事実です。否定はしません」
「飛丸様、貴方様がお蝶様として生きたい気持ちは痛い程理解しているつもりです。この郡司が一番の理解者であると自負しております。ですが、もっと気品と気位を持ち、己を律してください。今のお姿は、とても美しいとは言えません」
「
……『蝶』を救えるのは、わたくしだけです。わたくしはわたくしを救ってみせます。自分の意思で救います。必ずや救われてみせます」
力強い声は、飛丸とも蝶とも言えない色をしていた。自己中心的で自愛と自尊心が強く夢みがち、そして持ち前の行動力で問題を解決しようとする青さと強さ。
「でしたら! でしたら、なにもあの男でなくとも
……」
「あら、他にいまして? 残された時間が、僅かな、この、わたくしに」
突然足を止め、振り返り、郡司の胸に人差し指を突き立て、一語ずつ突きつけるように言い放つ。
なりふり構っていられる時期はとうに過ぎたということだ。例え間違っている道であっても、叩き壊される前に渡り切らなければならない。
渡った先が安住の地と信じて。
「この辺は人攫いが出るから危ないでやんすよ」
翌日、蝶はひとりで羅乃目の後ろをついて歩いていた。この場合、危ないの勘定に自分自身は入っていない。さすがにうんざりしているのだろう、突き放す口実を探しているに過ぎない。
「大きいのはどうしたでやんすか」
「郡司は置いてきました、邪魔なので。ねえ、ふたりでお話しましょう」
わっちは話すことないでやんすという意思表示か、止めていた足で再び歩き出す。下駄はまだ、繋ぎで履いているだけの鼻緒がちりめんのもの。
「無視していても無駄です。貴女が思いの外、わたくしの言葉を聞いてくれているということは理解しました。このまま話します」
ほんの少しだけでも本気を出せば、この鬱陶しい人間を撒いてひとりで優雅に散歩ができる。ブンを探しに行くのもいいだろう、朔太郎に会いに西町通りへ行くのも捨てがたい。それからきさき庵へさくら饅頭を買いに行くのもいい。それかうっかり北町へ迷い込むのもいい。明らかに他所者であるうら若き乙女が北町へ迷い込めば、鴨がねぎと鍋を両方背負って歩いてくるよりも遥かにありがたがられるに違いない。
でもどちらもしなかった。それすら面倒ということか。拒否をするという姿勢を示す労力さえも割きたくないのである。普段通りの速さで道を行く。
「わたくしも許婚がおります。飛丸として婿入りする相手です」
話の冒頭はこんな雰囲気だった。その後の長ったらしい自分語りの内容を整理してかいつまむとこうだ。
いわゆる政略結婚であり、笹垣家の後ろ盾として相手の家の名前が必要である。でも自分は蝶として生きていきたいので、飛丸として婿入りをしたくない。そんな時に黒骸と出会ってしまった。運命だと感じた。だからどうか黒骸を譲ってほしい、今は警戒されているがあれは貴女に義理立てしているからこその対応。貴女が蝶との方がお似合いだと言葉添えしてくれたらきっと心変わりしてくれるはず。婿入りまでもう時間がない。可哀想だと思わないか。助けてほしい。救ってほしい。手伝ってほしい。とかなんとか。
「わたくしは家の為の道具ではありません。自分の意思と感情があります。許婚だなんて親の勝手な取り決め、お互いに破棄して自由に生きましょう?」
「
……この辺は人攫いが出るから危ないでやんすよ。死神も前に危ないって言ってたでやんしょ」
羅乃目は聞く耳を持たず、本日二度目の一文を再度発した。あの時の表情は見せず、だだ平らな態度で事実を警告した。こんな真っ昼間から人攫いが出るのかはわからない。もし、もしも、それは怖いから送ってくれと言われれば応じることもやぶさかではない。むしろ軽く応じてしまえる程度の存在。小さな羽虫などいちいち殺さず、あえて見逃すことの方が多いだろう。この人間の位置付けはとっくに完了しており、そして今後更新されることはない。
ほんの少しの同情も買えなかった蝶は、明らかに不満げな表情を浮かべる。
どんなに立派な家柄だとしても、三男坊であれば責任も負わずに相当可愛がられて我儘に育ててもらえたのだろう。自分を救えるのは自分だけだから行動する、という一点のみ評価できるが、自分以外の個にも意思と感情があることを失念している。いや知らないのかもしれない。まだ若い、本人の意思があればこれからでも十分に性格を矯正できる範囲だろうが、性格以前に生き方を変えたい彼は、今後もうまく舵取りが出来ずに沈没すると容易に想像ができる。生き方を変える道に手本がいない。婿入りした先でも心を自由に生きていける可能性を見出せるだけの、希望を持てる先人が。
「わたくしの話を聞いて、なにも思わないのですか?」
「人攫いが出るから危ないでやんすよ」
駄目押しの三回目。取り合うつもりはないという意思表示。
「よろしいではありませんか!! 人攫い!! 実に結構!! 攫われるだけの魅力がわたくしにあるという事実が裏付けされるというもの!!」
むきになって、やけに大きな声で主張してくる。今の発言で目をつけられる可能性と、既につけられていた場合の危険度の上昇具合は手に取るようにわかる。羅乃目には。
「お前本当にばかでやんすね。攫われたらどうなるかわかんないでやんすか?」
「それはそれは勇敢な殿方が救いに来てくれるのでしょうね! 貴女は今まで攫われもせず悠々と生活していらっしゃるのでしょうその様な魅力の無さで、よくもまあ黒骸様の許婚を名乗っていられますね! さて、もう貴女と話すことはありません! ご機嫌よう!」
羅乃目がいわゆる西町(それから北町)特有の危険な目に遭わないのは、かなり早い段階で尾行を撒き、わざとぶつかられる前に軽やかに避け(ぶつかっても負傷するのは相手の方である)、不意に掴もうとしてくる手や腕を何食わぬ顔でするりと通り抜け、いざという場面で人間を肉塊に変えることに一切の躊躇いがないからである。それから北町の死神様と懇意にしているという点も、一部の者たちに対して一定の効果を担っているかもしれない。
そんなことは知る由もなく。
蝶は独り、帰路についた。
「黒骸殿!」
相変わらず青いを通り越して土色のような顔色をした郡司が、伊呂波から出てきたばかりの黒骸を捕まえた。
「お蝶様はっ
……来て、い
……ませんか!」
肩で息をして、からからになった喉に声が絡まり口からうまく出てこない。気持ちだけが前に出て、唇を無意味に開閉させた。
「
……いえ、今日はまだ見かけてもいません。てっきりあなたが言い含めてくれたのかと思いましたが、その様子だとどうも違いそうですね」
「自分が、目を離した隙に
……!」
「そうですか。では」
買い出し用の籠を背負い直すと、涼しい顔で郡司の横を通り抜ける。
「お待ちください!」
「なにか?」
「自分はこの辺りの土地勘がありません、どうかお蝶様の捜索に手を貸していただけませぬか! 目を離した時間と距離を考えると、まだこちらに到着していないのはおかしい。何かあったとしか考えられません」
主の所在に関わらず、この男は常に胃を痛めて顔色を悪くしているのかと思うとなんとも同情を誘う。
「どうか!」
名を問われた時と同じ礼の作法だ。ひっ迫した状況で一縷の望みに縋り、ここまで全力疾走してきた精悍な顔をした男
……
トキ時がこの場にいないことを黒骸は内心で喜ばしく感じていた。きっと有無を言わず、後先を考えず、なんなら己がいの一番に走り出すだろう。だがトキ時はこの場にいない。そして自分はトキ時ではない。
「何故ですか」
「なっ、何故などと」
「俺には関係のないことです。仕事がありますので、それでは」
するりと歩き出す黒骸の前に慌てて滑り込んできた郡司は、再度懇願の姿勢をとった。
「お待ちください! どうか! お願い申し上げます!! お蝶様は黒骸殿に会う為に西町へ来ておりました、きっと今日も! それを、なにも感じないと申されるのですか」
「なにを感じろと言うのですか。迷惑ですか? 俺が僅かでも好意的でまるで勘違いをするような言動をとったことがありましたか? なにを見ていたのですか?」
「そっ、それは
……」
「己の不始末を棚に上げて協力を乞うてくるとは片腹痛いですね」
「恥を承知でお願い申し上げているのです」苦虫を噛んで噛んですり潰して隙間なく口内に塗り込んでいるかの様な表情をしながら、まだ季節外れの汗を手の甲で拭う。「
……お蝶様になにかあったら自分は腹を切るしかありません。いえ、自分が腹を切るなどどうでもよいのです、何度でもいくらでも切ります、問題ではありません、お蝶様がご無事であるならば」
「
……」
「聞けば、便利屋を営んでいると! これは仕事の依頼です! 費用は問いません!」
俯きがちだった顔を勢いよくあげ、再度協力を乞うてくる。仕事となれば受けざるを得ないと判断したのか、当初からこの予定だったのかは判断しかねる。
「生憎ですが受ける仕事は選ぶタチでして、他を当たってください。迷子になってまだ東町にいるか、案外その辺りで優雅に散歩しているだけかもしれませんよ。この辺りではそうそうお目にかかれない身なりをしていますので、出発点さえ押さえられれば聞き込みだけでもかなり足取りが掴めると思います。それでは」
「
……なぜお蝶様はこの様な男を」
言葉にするつもりはなかったのか、まろび出た言葉を回収しようと郡司はハッとして口元を手のひらで覆った。
「おや、意見が一致しましたね。なぜ俺を? とずっと思っていました」黒骸はここで久しぶりに対人用の微笑みを装備した。「ならばあなたがとっとと『自分が幸せにする』とでも言って駆け落ちしたらよかったじゃないですか。名家に疎いので笹垣家は知りませんが、太都から出てしまえばどうにでもなるのでは? いや、してみせるくらい言うべきだったのではありませんか? その程度の覚悟も決められない生ぬるい忠誠心など、無いも同然かと思います」
「
…………」
「
……なるほど、まさか断られた後ですか。失礼しました。でもここで探し出したら再考してもらえるのでは? 感動の場面になるかもしれませんし、こういう時は他人の手を借りるだなんて野暮なことはしない方がいいですよ」
暗に手伝いはしないという旨を、微笑みを崩さずに並べ直した。
あえて神経を逆撫でするような言葉選びで、なかば郡司を煽っている。仮に逆上して斬りかかられても、この程度の人間に遅れをとることはない。なんだったら引導を渡してやってもいい。この男は
あれに参加していた可能性が高い、今消した方がいい、まである。そこまですればきっとあの困った三男坊も興味を失ってくれるだろう。
「ひとでなし、とでも言いたげですね。構いませんよ。俺は文字通り『ひとでなし』ですので」
「トキさーん! 風! すごいでやんすー!!」
そう叫ぶ羅乃目の声は口を出た端から一音ずつ絵に描いたような強風に流されていった。この世の終わりの前兆を疑うような湿った春の強風にもみくちゃにされながら、まるで尻尾を全力で振る犬の様に実に楽しげにしている。長い髪が大きくなびき、羅乃目だから平然と立っていられるのだろうと容易に推測できる風速を可視化してくれていた。実際、風とは思えない程に凶悪な音が鳴り響いている。それを伊呂波の開け放たれた戸越しにちらりと目視したトキ時は「黒、危ないから羅乃目しまって」と冷静に指示を出すと続けて、「というか出る前に羅神が止めてくれよな」と小言を漏らす。
トキ時の中で「妙齢の女性、女の子、思春期、子ども、五歳児」という羅乃目に対する印象に修正が入り続けている。時たまに年相応の凛とした強さや落ち着き、聡明さを見せることもあるが、基本的には五歳児だと思って接している方がやりやすいと一応の結論が出たらしい。羅乃目自身、トキ時に対して気を許して素が出てきている節もある。なんにせよトキ時にとっては年下の女の子ということに変わりはない、必要な時に必要なだけ大人の扱いをしてあげればいいのだ。匙加減だけ心に留めておく。
「はーい。ほら羅乃目おいで」トキ時の指示を受けて伊呂波の内側から黒骸が両腕を広げて呼びかける。「もうこれは風の音じゃないよ」
広げられた黒骸の腕に向かって、ぱああと音が聞こえるくらいに目を輝かせた羅乃目が嬉しそうに突進してきた。
太都に春の嵐が来る。
──人攫いの話、後編へ続く。
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