やがて、そいつはゆっくりと本を閉じた。
その横顔にむかってぽつりと囁く。
「探しちまうよな、やっぱり。マアいるはずない、って分かってても」
「
……でも、懐かしかった」
本の表紙を愛おしげに撫でる、僕より二回りくらいちいさな手。
水木さんが恋しくて、でも泣けずにいた頃を思い出す。
「この本を、くれたっていう人。
……会ってみたかった、です」
「本当に妙な人だったヨ。見るからに怪しい僕を、平気で家に上げたりして
……でももし、水木さんが年をとったら、あんな感じになっていたのかナ、って。ちょっとだけ、そう思った」
「いくつくらいの人だったんですか?」
「七十九歳。
……新聞の訃報欄によれば、だけどネ」
マア平均寿命くらい、と言っていいだろう。
ひとりの人間と一緒にいられる時間なんて、どんなに長くても数十年の単位だ。思い入れれば、絶対に後から苦しむって、分かっているのに
――僕の心は、あとそいつの心もきっと、人間の存在を求めてしまう。近づいて、叶うならば愛したいと願ってしまう。心の底に、水木さんの注いでくれた愛があるから。
陽炎のような願いを、僕は未だに捨てられない。
どれほど人間を愛しても、人間にはなれないのに。
「
……、」
そいつが、黙って僕に寄りかかってきた。同じ温度の重みが心地いい。
何も言わないまま、僕は細い肩を抱きしめた。
心の底にあるものを言葉にするのは、僕もそいつも得意じゃない。お互いに分かっているから、もう何度繰り返したのか知れない、無言のやりとりを繰り返す。
さみしい、会いたい、声が聞きたい
――他の誰に言ったところで分かってはもらえない、でもそいつには言うまでもなく通じてしまう、心の奥底によどんだままの願い。叶いようもない、虚しい想い。
またしばらく黙っていると、不意に小さな声がする。
「
……思い出しました」
「ぁ、おい」
僕の手の中で、灰になりかかっていた二本目の煙草を、そいつの指先が奪った。灰皿に放り投げられたフィルターを追うように、崩れた灰がふわふわと落ちていく。
「お義父さんもたまに、今のあなたみたいに、煙草に火をつけたままぼんやりしていたことがあった、って」
「
……ああ。あったナ」
「こっそり盗み見ていただけで、僕にはどうしようもなかった。
……水木さん、自分が苦しんでるところは、僕には絶対見せようとはしなかったから。それにあの頃は僕だって、人間基準で言っても子供の年だったし
……」
「だよなァ。
……親の情けない姿なんて、子供に見せるモンじゃない、って思ってたんだろナ」
「ですね」
互いの声に混ざる、笑いになり損なった音。
弱音を吐くのが苦手なのも、水木さんが僕とそいつに残してくれたひとつの形、なのかもしれない。
「それでも
……あのとき、煙草を奪いにいっていたら、何かが変わってたんでしょうか」
「そいつは、どうかナ
……、」
今から思えば、だけど、水木さんはかなり典型的な昭和の雷親父だった
……ような気がする。僕を本気で愛してくれていたのだけは確かだったけど、そいつの言う通り、自分の弱さも重荷も、僕には絶対に見せようとはしなかった。
親子、だったから。
……本当に親子だったから。
「そればっかりは、煙草にイタズラした程度じゃ変わらなかった、と思うネ」
「
……そうですね。ぴしゃっと叱られておしまい、だったかも」
「うん。僕もそんな気がするヨ」
愛なのか呪いなのか判別が付かない、疼くような感情が、心の奥底でまた騒ぐ。
そいつがちいさく、吐息混じりの声で問いかけてきた。
「じゃあ、『鬼太郎』が人間だったら
……どうなってたんでしょう」
「おおむね同じだったンじゃないかナ。ああでも一個だけ、確実に変わることがある」
少しだけ体を放して、そいつの頬をそっと手で包む。正面から見た顔は、確かに、あの頃の僕だった。
「もし『鬼太郎』が人間だったら、
……僕はこうやって、お前に触れて抱きしめて、ってことはできなかったと思うヨ」
「どうして」
「だって、
……人間だったら、僕はもう、とっくに死んでる年だからサ」
そいつは軽く目を見開いた。そこに思い至らなかった、という顔で
――
「そ、
……っか」
「そうだヨ」
思わず苦笑する。僕とそいつの間に、どれくらいの年月の差があるのか、正確なところは測りようもないけど
――僕の年が三桁前半のどこかなのは、間違いのないことだ。
「その方が良かったかも、だよナ。
……出会わずに済んでた方が」
前に言ったことを繰り返す。
そいつは黙ったまま、僕の額に額を合わせてきた。
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波箱
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