ザイレムが墜ちてから数時間が経つ。621とエアは大気圏からの離脱に成功し地上へと帰還、現在は故あって解放戦線の元へ身を寄せていた。勝利を噛み締める中にあって英雄たる“レイヴン”の登場とくれば、解放戦線の面々は大いに歓迎し沸き立つほかない。今や祝賀会が催され、それは深夜を超え夜明けが近づいてもなお、人々の声が絶えず響いている。
しかし当の主賓である621の姿は見当たらない。熱を帯びた賑やかな空気を抜け出した621は、自身の機体へ背中を預け、片膝を抱えながら座り込んでいた。エアには「しばらくひとりになりたい」と伝えてあり、心配する気配を見せつつもその胸中を汲み取った彼女は快く席を外してくれた。
冷たい風を受けながら、621は黎明を迎えようとする地平線と空をひとり眺め、大きく息を吐いた。それは凍てつく空気に白くたなびいて、ひときわ揺らめくと風に掻き乱されては行き先もわからぬ内に消えていく。やがて半ば目を伏せ思案しているところに、後方から声が掛かる。幾度かの通信で聞き覚えのある馴染みの声だ。
「やあ、戦友。こうして会うのは初めてだな」
松葉杖を突いたラスティはいつもと変わらぬ調子で621と接し、おぼつかない足取りで横へ並び立った。
大気圏離脱直前、エアによる探知が生命反応を捉え、半壊した機体――スティールヘイズ・オルトゥスをどうにか抱え込んで連れてきたのだ。そうして怪我を負ったラスティを送り届けるため、二人は解放戦線の元へ赴いた次第である。
621はラスティへ顔を向けると、一人分空けて離れて座り直す。それはあまり近づかれたくないという明確な、けれど控えめな拒否。踏み入ってくれるなとでも言いたげな621の様子に、ラスティは構わず言葉を続ける。
「君の翼が運んでくれた、このルビコンの夜明けを共に分かち合いたくてね。隣を少し貸してくれないか」
そう話して微笑む彼に、621はどこか大仰なものを感じていた。まるでおとぎ話に登場するような主人公……とりわけ人格者である英雄のような振る舞いのラスティは、通信越しでのやりとりは勿論のこと、こうして直接見えてなお621にとって現実離れした未知の存在である。
誰にも邪魔されずひとりになりたい621であったが、足の怪我をおして来たラスティに思わずウォルターの面影が重なる。胸に疼く感情を咄嗟に抑え、喉元で言葉を飲み込むと621は小さく頷いて了承した。
一緒になって座り込み二人で肩を並べ風に当たる中、ラスティから更に会話が振られるだろうと621は身構えていた。しかし彼は何も言わず、自身と同じく空を見上げているようだ。構わずにいてくれるならそれでよいはずだが、どうにもむず痒く、とうとう621から疑問を投げ掛ける。
「仲間のところ、いなくてもいいのか?」
「私には、少し居心地が悪くてね。本当のところは……つい逃げてきてしまった」
人当たりのよい友好的な性格であろう彼にしては意外な返答に、621は若干の驚きを抱く。
ばつが悪そうに苦笑しながらラスティは目線を空から落とし、包帯が巻かれた自身の手のひらを見つめゆっくりと握り締める。先程までの穏やかさは曇り、伏し目がちの彼の姿は弱々しい。
「これまで多くの……仲間の命を失った。その中には、私の手で捨て去ったものもある。そんな自分が、今ここに生きているという事実に、向き合うのが怖いんだ」
ラスティは握る拳を額に当て、祈るように目を閉じる。表情は窺えず、しかし僅かに肩を震わせているように見えた。
今まで敵意と殺意が蔓延る戦場に身を置くことはあれど、こうして人の弱さを目の当たりにすることなどあっただろうかと621は振り返る。初めての光景にどんな言葉を掛ければいいのか戸惑い、今の胸中ではまともに話すこともままならず押し黙るしかない。
そんな621の反応にラスティは気を遣ってか、努めて平静を取り戻そうと前向きに振る舞う。
「いや、すまない。君がせっかく拾ってくれた命だ、粗末に扱うつもりはないさ。……ありがとう、この惑星に生きるかけがえのない人々を守ってくれて。恩人である君に、心からの感謝を」
目に一粒の悲しみを浮かべ、それでもラスティは621へ礼を述べた。傷を抱えてなお他者への思いやりを忘れずにいる彼は、言葉で表すならば“気高い”というべきだろうか。
『壁越え』以降も変わらず、時に敵対も経ているというのにラスティは“戦友”と呼び慕ってくれている。それがなんとも不可解だったが、今、初めて気づく。彼には彼の抱く感情があり、不確かな形を成して強さも弱さも併せ持っているものなのだと。知ろうともせず気にも留めていなかったのは自分自身なのだという事に気づき「嗚呼、これがラスティという人間か」と、621は初めて彼という“生きる命”へ向き合うことになった。
――しかしそれは同時に、目を背けていたかった事実と向き合わざるをえない契機となって、言葉はついに口から零れ始めていく。妙に胸が熱くなって、やがて双眸からは大粒の涙が溢れ出し、感情の奔流が表出する。
「どうしてここにいるのがお前で、“貴方”じゃないんだ」
621は彼を射抜くかのように睨みつける。違う、こんな事を口走るつもりなんてなかった……どうにか堪えたいが、621は止める方法を知らない。言葉が胸につっかえて、歪にひしゃげ吐き出される。
「どうして連れて来なかった、まだ、できたはずで。なのに、どうして……!」
これは自身への憤りだ、八つ当たりに過ぎない。それでも衝動的にラスティへ迫り掴みかかろうと621は両腕を突き出そうとして、しかし視界は滲み、地面に手を付いて俯く。そして、焼きついて離れることのない陽炎の記憶を追想する。
貴方の弱さを知らないまま、終ぞ教えてはくれなかった。その背中にどれだけのものを負っているのかも、分かち合ってはくれなかった。全てを負うままに眠ろうと“選択”した貴方を、止めてはならないと思ってしまったのだ。決着がついたあの時、穏やかに微睡むような一瞬の安らぎを貴方の内に垣間見てしまったのだ。
「違う、違うんだ……自分のせいだ……求めて、それだけしか」
求めるばかりの愚か者が“選択”したことじゃないかと、何よりも自分が一番わかっているはずだろうと、遠くより俯瞰する囁きが内から聞こえる。
「もう、見えない。いつもそこに在ったのに、届いてほしかった手が、自分の手が握り潰して」
あるはずもない面影を胸元へ手繰り寄せるように、両手を握り締め、抱く。導たる輝きは今はただ脳裏に遺るだけで、縋ろうにも涙と共に零れてしまい、いつかは喪われていくのだろうか。そんな不意によぎる想像は621にとって酷く恐ろしく、懸命に拭ってはみるものの、とめどなく辺りを濡らしていく。
この胸に抱えきれない“感情”というものをもたらしてくれた貴方は、もう何処にもいない。静かに置かれた優しさを、『普通の人生』という言葉を理解できる日が来るかもわからない。けれども、この手にぽつぽつと降る温かさは貴方が――ウォルターが、最期に遺してくれた確かな“願い”なのだと、強く信じて歩むしかないのだ。
もうすぐ夜が明ける。日の出は夜の闇を追いやって、新しい未来を描くため、空を徐々に白く染め上げる。微かに瞬く星は覆い隠され、墜ちた過去は欠片となり軌跡を描いては流れ消えていく。全てが終わりを迎える様を、621は仰ぎ見る。
「夜明けなんて、嫌いだ…………置いていかないでくれ……」
泣きじゃくる621の背中をそっとさすり、ラスティはただ傍らで受け止める。輝きを求め彷徨う声は風の音へ混じり、届くことのない想いを攫っていく。
やがて太陽が姿を現し、世界を燦然と照らし始める。日差しは寄り添うように、二人の影をにわかに暖めていく。
621は泣き腫らした顔を腕で少しだけ隠し、気まずい様子ながらも掠れた声で謝罪と礼を述べた。ラスティは相変わらず気さくに応える。
「気にしなくていい、お互い様だろう」
「……怪我は、痛くないか」
「ああ、心配ない。……と言いたいところだが、実は少々傷んできた」
「肩に掴まれ、送る」
621が肩を差し出そうと隣へ寄るが、ラスティは太陽を背に621と正面から向き合って「最後にひとつ、教えてくれないか」と問う。
「君の名前を教えてほしい。君から直接、聞きたいんだ」
不思議な問いかけに瞬きをして考えあぐねる621であったが、今まで自ら名乗ることなどなかったと思い当たる。レイヴン、ビジター、G13、野良犬……そして戦友と、いくつもの名が増え、それは歩んできた道そのものであった。しかし、当てはまるものは自分でさえも形は定かではない。
返事を待つラスティの真っ直ぐな眼差しに621は視線を迷わせたものの、目を閉じてひとつ深呼吸をすると意を決し、瞳に確かな意思を宿して名を口にする。
「C4-621。621でいい」
621がぎこちなく右手を差し出すと、ラスティは笑みを零して頷き握手に応じた。
今となっては呼ぶものもCOMだけであった無機質な名前は、瞬く間に消え入りそうな、あまりにちっぽけな存在なのかもしれない。しかしそれは621自身の“選択”であり、確かな自己の証明だ。
眩い光が行き渡る空は何処までも明るく、二人を迎えるように包み込む。僅かな夜闇の切れ端にはひとつの星が佇んで、誰に知られることなく静かに煌めくと、瞼を閉じるように日差しの中へ姿を消した。
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