街中で遠目にヌヴィレットと目があった。神を降りてからしばらく、目を伏せて会釈するだけだったけれど、最近は手を振るようにしている。ヌヴィレットも手を挙げて会釈をしてくれる。今はそんな関係────だったはずなんだけれど。
『フリーナ──今日も美しい』
「えっ!?」
急に叫んだ僕を、道行く人がぎょっと見つめる。視線に恥ずかしくなって、目についたポスターの前に駆け寄った。
「こ、これは五十年前に流行った名作じゃないか!懐かしいなあ、はは、……あはは…………」
一人芝居をしていると、「まあそうだったのね」「フリーナ様も注目している劇なのかしら」「チケット取るか。まだ空きあるかなあ?」と心臓の音に紛れて周囲の言葉が近くに遠くに聞こえる。それからひとり、ふたりと歩き出し、いつもの日常に戻っていく。
「フリーナ殿」
「うわぁっ!」
驚くように振り返れば、声をかけた人物が驚いたように目を開いていた。
「すまない、驚かせてしまった」
「え、ええと、大丈夫さ!ちょっと次の脚本を考えていて──」
『次からは話しかける声量と角度を気を付けねば──今日の香水はルミドゥースベルを使ったものか。彼女の優しく可憐な雰囲気に似合っている』
「っ!」
ヌヴィレットの唇が動いていないのに、耳の傍でヌヴィレットの声が聞こえた。
「如何したか」
「どうもしないよ、それで、懐かしい劇の名前を見つけたからポスターを見ていたんだ」
「ほう……?どれ」
『これは五十年前に流行った歌劇だ。敵対する国の王子と姫が恋に落ちるという話でたしか最後には──姫が王子を殺し両国を納め……』
「それは僕が嫌いな方のエンディング!」
「うん?」
「あー、あーあーあー、なんでもない!」
うっかりヌヴィレットの心の声に返答してしまった!あんまりにも切なく悲しい別れの後に堂々としているお姫様の姿はどこか荘厳だけど悪女感が強くて、のちに僕自身が脚本を修正してハッピーエンドに仕立て上げた。原作者は怒り狂っていたけれど、世論を味方につけて初演以降は僕の脚本が多く演じられた。今回演じられるのも僕の手が加えられたほうだろう。
「フリーナ?」
『顔が赤い。熱でもあるのだろうか。潤んだ瞳が太陽にきらめいている。水面のようで綺麗だ』
「ん゛ぐ!?」
「大丈夫か。体調が優れないようだが」
「え、っ!わ、わぁっ!?」
『熱は──無いな。この後の彼女のスケジュールは特に無いはずだ。家まで送り届けよう』
「だい、大丈夫!あとは帰るだけだから!」
なんで僕のスケジュール知ってるんだい!?と叫びたい気持ちを抑えてなんとか言い放つ。「そうか」と言って一歩退いたその隙を早足で脱する。
「では、気を付けて帰るように」
「ああ、またね」
『あとでクロリンデに様子を見に行かせよう。私には言えない体調不良なのかもしれない。死に至る病などでは無いと良いが』
そうじゃないんだよお、どちらかというと恥ずか死にそうだよお、と思いつつも早足でその場を去った。家に戻り、床にずるずると座り込んだ。
「なんなんだ!一体!」
「とういう訳で、原因を探りたいんだけれど……」
「あっはっはっは!」
「笑いゴトじゃないよお……どうしたらいいんだい、僕は」
「何か原因は?思い当たる節はないのですか?」
クロリンデが本当に家にやって来て、ジェントルマンにもたせた手紙でサーンドル河にいたナヴィアも来てくれた。
「わからないんだよ、それが……。クロリンデがヌヴィレットの命で僕の家を訪ねてきたから、幻聴とも思えない」
「たしかにね。────それで、フリーナはこの現象を解決したいの?」
ナヴィアに指摘され、僕は思わず思考が止まる。出来事を振り返って、それからすごい勢いで頷いていた。
「他人の思考を勝手に読み取るのは僕の正義に反するし……──し、」
「「し?」」
「心臓が、持たないよぉ……」
顔を覆ってテーブルに突っ伏す。耳元で囁かれるように告げられる『美しい』『可憐』『綺麗だ』なんて、本当に思っていたとしても心臓に悪い。いや、本当に思っているとしたら、ヌヴィレットはなんて感情豊かに育ったんだろう。それを表情におくびにも出さないところが彼らしいというか、いやもっと出していいんだよそっちのほうが好印象だと思うし。でもそれは最高審判官としてはふさわしくないのかも……。
「ゔ~ん……」
「これは……別のことで悩みはじめたな」
「あはっ!フリーナってば、すぐ色んなことで悩むわよね」
うぐ、と頭に図星の矢が刺さる。そうだ、まず、僕のこの状態を解決しないと!
「原因はともかく、奇妙な現象について整理してみましょう」
ノートを一枚破って、そこにクロリンデが書き出していく。
現象:相手の心の声が聞こえる。俗にいうテレパシー
発生日時:本日のお昼から?少なくとも二日前にヌヴィレット様と挨拶した時は何も聞こえなかった
発現者:フリーナ様
対象者:今のところ、ヌヴィレット様のみ
有効範囲:ヌヴィレット様(相手)の姿がフリーナ様の視界に入った時のみ発揮する。おそらく距離は関係ない
「……うん。わかりやすくまとめてくれてありがとう」
昼の出来事と、ナヴィアとクロリンデの心を読めるか試してみたことを集約すると、僕のテレパシーについてはこんな感じだ。
「とりあえず、しばらくヌヴィレットと会わなければ大丈夫ってことだ」
「止めてよ、三日後はお出かけの予定があるんだから」
「うん?それがなんで関係するんだい?」
「はぁ……。水龍、水龍、泣かないで(同情)」
「???」
首をかしげるとナヴィアとクロリンデは互いに意味を含んだ視線を交わしつつ、「今日はもう遅いから、明日から解除方法を探っていきましょう」とナヴィアが締めてお開きになった。
命に関わりそうなことでは無いから、解決に時間がかかっても構わないという判断には、僕も賛成だ。僕も皆にも生活がある。こんなくだらない、一時的な不調に付き合ってもらって、申し訳ないくらいだ。
「また明日」
「また明日。お大事に、っていうのもちょっと変か」
「私はフォンテーヌ廷に戻り、ヌヴィレット様に報告をしてきます」
「ああ、そっか……。僕は元気だよって伝えておいてくれ」
「承知しました」
街角で姿が消えるまで見送ってから、家に引っ込んであれこれと考えながらお風呂の準備をする。
湯船につかりながら、考えるのはこの現象を解決する手立てだ。心を読む。心の声が聞こえる。テレパシー……。似たような症状や力を持つ人、動物……────神?
「あっ!」
ばしゃん!と水面を跳ねさせると、一緒にお風呂に入っていたシュヴァルマラン婦人に泡を吹かれる。ごめんってば。
スメール人に知り合いはいないけれど、神様と所縁のある人なら知っている。
「まだフォンテーヌにいるかなあ?」
一週間くらい前、ホテル・ドゥボールでお茶をした旅人とパイモン。彼らの事だ。その日毎にいる国が違う、なんてこともあるという。
お風呂から上がって早速、手紙を書いた。その手紙を翌日の朝一、冒険者協会に持って行ってキャサリンさんに預けておいた。旅人が言うには、彼女は不思議な情報網を持っていて各国の冒険者協会の受付と連絡が常にとれるらしい。
「よし。さ、食料を買いに行こうか!」
買い物かごを持ったジェントルマン・アッシャーに呼びかける。花壇の花をめでていた彼はすぐ僕の後ろについて来てくれたが、慌ててしまってかごを落としてしまった。
とん、たん、たん。
階段の下まで落ちていくと、ジェントルマンはふわふわと追って行こうとした。
「僕が取りに行くから待っていて。大丈夫、気にしないでおくれ」
彼を慌てさせてしまった僕に責任がある。かごが転がっていった階段を、同じようにとん、たん、たん、と下りた。今住んでいるアパルトマンの前の階段、その中段で止まったのを見て、ほっとする。さらに下に落ちて行って、誰かの頭や足にぶつかってしまって訴えられでもしたら大変だ。
止まっていたかごは風でころりと横に流れていく。建物の角に入る前に、誰かが拾ってくれたのが見えた。
「待ってくれそこの人、僕のかごなんだ!────って、」
ひらめく青い法衣に流れるような白い髪。とがった耳と夜明けの海みたいな静かな瞳……ヌヴィレット!
「ああ……道理で見たことがあると。昨日ぶりだな、フリーナ殿」
『朝から散歩をして正解だった。フリーナ殿に出会えるとは、僥倖。今日も朝日のようにまばゆく美しい……』
「ヴッ!アア、ウン、ソウダネ。オハヨー」
時間はまだこの現象を解決してくれていなかった。なんとか声をしぼり出したもののカタコトだ。インコがまだしゃべったほうが滑らかだろう。
「おはよう。昨日はクロリンデを突然向かわせてすまなかった」
『元気な様子だと聞いたが……。口ぶりや表情が硬い。汗をかいているのか?──舐めたい』
「なっ!?────っ!」
ばち、と瞳が合うと、『久しぶりに目が合った。ああ──可愛らしい』なんて感想が降ってきて、かごを奪い顔を隠す。
「ひろ、ってくれて、っ、ありがとうヌヴィレット!それじゃあ、これで!」
二日目にしてこの情報量だ。気恥ずかしくて気まずくて死んでしまう!誰も見ていなければ壁に頭を打ち付けていたかもしれない。メリュジーヌたちが心を読める生き物じゃなくて良かったよ本当!彼女たちがこんなに豊かな水龍の心の声を聞いたら毎日照れ照れしていたんじゃないかなあ!?
「フリーナ殿?」
「すまない!急いでいるから!!」
足早に階段を駆け上がる。ジェントルマンが帽子をあげてヌヴィレットに会釈していたけれど、その帽子がつるんとした頭に乗る前に引っ張って連れて行く。
帽子をかぶりなおしているジェントルマン・アッシャーに「ごめん、強く引っ張りすぎたね」と謝りつつも早足で道を行く。気が動転していて、パスタはいつもと違う太さのものを買ってしまったし、オリーブオイルを買い忘れたけれど、一刻も早く家に帰りたかった。
帰ってきて、それから午後は劇団の演技指導に行ったけれど全然身が入らなくて────監督から「調子悪いなら言ってください」と暗に帰れと言われたのでとぼとぼと帰宅した。うう……。
日が沈んでもベッドに沈んでいると、ぱち、と電気が付けられた。
「不用心だよ、フリーナ。玄関鍵かかってなかった──うわっ!?」
「たぁーびーびーとぉー!!パイモォン!」
涙をにじませてとびかかる。おお、よしよしと頭を撫でられると落ち着いた。同年代?だと思うんだけれど、旅人って僕より年上みたい。いや、僕の扱いが上手いのか。
「フリーナがオイラたちに頼るってことは相当参ってたんだな」
「参るというか……身が持たないというか。旅人やパイモンだって、急に相手の心の声で『美しい……!』とか『かわいい』とか言われたら困るだろう?しかも相手はヌヴィレットだよ!?」
「それは……そうなんだけれど…………」
「ふふん、オイラはかわいいから別に気にしないぞ」
旅人の勝ち誇ったドヤ顔がこっちに向けられた。そうだね、パイモンはかわいいよ……って、そうじゃなくてぇ!
「手紙に書いたけれど、旅人にしか頼めないんだ。でも、向こうはスメールの神、知恵の神様だろう?元水神だけれど偽物だってことは他の執政の神には知られているだろうし、直接お会いしたいですってお願いするのは気が引けて」
「ナヒーダはお前を拒絶するようなヤツじゃないけれど……旅人を頼ったのはいい判断だと思うぜ」
「うん。もうこっちから伝言は送ったから、今晩には返事が来ると思う」
「そんなに早くかい?」
旅人曰く、草神とは夢の中でやり取りできるらしい。なんだか素敵で面白いね、と返せば、旅人とパイモンはスメールでの旅を語ってくれた。途中、ナヴィアとクロリンデが合流して、そのまま面白くてみんなで聞いた。
旅人はナヴィアが以前用意したというサーンドル河の宿屋に泊まるという。いい夢が見れるといいね、とお別れしてから、僕も眠りについた。
『ふふ。』
『旅人を経由してアナタに近づこうとしてみたけれど……』
『やっぱり駄目みたい。』
『────そんなに怒らないでちょうだい。……フリーナ、また会いましょう?』
『いい夢を』
目覚める前、強い草花と森の匂いがして──目覚めた後、はっきりと濃い水の匂いがした。
ぷわぷわぷくぷくと泡を吐くシュヴァルマラン婦人。かちかちかちとせっかちにハサミを鳴らすクラバレッタさん。なり響く目覚まし時計。
「ち、」
遅刻だぁ!と叫んで10分、いや、15分で仕度した。急いで稽古場に行って、謝り倒して監督に「やっぱり今日も休んだ方が」という言葉をなんとか押しやって、張り切って指導した。その代わり、午後は顔を出せないことを伝えると快く承諾してくれた。監督はナヴィアの友人なので、彼女が根回ししておいてくれたのかもしれない。
「おーいフリーナ!こっちこっち!」
昼過ぎ、遅めのブランチ。カフェ・リュテスで旅人たちと合流した。
「好きなものを頼んで。僕のおごりだ」
「いいのか!それじゃあ、これと、これ、あっ!デザートもつけて~」
「パーイーモーン?」
親しき者にも礼儀あり。旅人がすごむと、パイモンのキラキラとした目がしょんぼりとした。
「うっ……わかってるぞ。でも最後に、飲み物だけ……」
「ふふっ、相変わらず食いしん坊だなあ。それくらいのオーダーなら大丈夫だよ。この大皿も頼んで良いかい?みんなで分けようよ」
やったー、とパイモンが再び元気よく飛び上がる。見ていて可愛らしいくらいの素直さだ。彼もこのくらい表情が豊かだったなら、心の声とのギャップに苦しまずに済んだかもしれない。
食事が運ばれてきて、おいしい、しょっぱい、サクサクだ、甘い、とろける、なんて味覚を楽しみつつ、くちくなったころに紅茶が運ばれてきた。
「それで、フリーナ。昨晩の話だけれど」
「ああ。草神から返事は来たのかい?」
「うーん。その様子じゃ、本当にナヒーダに会えなかったんだね」
「えっと、……?」
旅人の一人頷く様子に、首をかしげる僕。旅人はすぐに思考をまとめて、よし、と立ち上がる。
「フリーナ、街の外へ出てお昼寝しない?」
「急だね、また。この後予定は無いから、大丈夫だけれど……外で野宿したことはないんだ。眠れるといいけれど」
「そんなに長く滞在しないよ。お昼寝も小一時間くらい眠ってくれればいいから」
それなら、うん。行こうかな。どうやらお昼寝をどうしてもしたいようだし。
「決まりだな!あっ、残ったお茶とお菓子はテイクアウトしておやつにしようぜ!」
賛成!と席を立ち店主にテイクアウトすることを伝え、ついでに晶螺マドレーヌとアップルパイを購入した。食べ過ぎな気もするけれど、ちょっとしたピクニックをするから良いだろう。
「そう言えば、目的地は決まっているのかい?」
「ロマリタイムハーバーへ。そこなら、スメールに近い」
「草神がそこへやって来るのかい?」
「違う違う。そっか、フリーナにはまだ説明してなかったよな。ナヒーダは夢を渡ることができるんだ」
夢を渡る……なんて素敵でかわいらしい能力だろう。ああ、なるほど。
「だから僕に眠ってほしいんだね?」
「そのとーり!痛いとか苦しいとか、ゼッタイ無いから安心しろよな!」
パイモンの説明にうんうんと頷く。神様は──フォカロルスもふくめて、人間には考えられないようなことを平然と仕掛けてくることがある。それが聞けて胸を撫でおろす。
ロマリタイムハーバー行きの巡水船に乗り込むために広場に下りると、そこで問題が発生した。
「────来たか」
「ヌ、ヌヴィレット!」
慌てて旅人の後ろに隠れたけれど、一瞬目に入っただけでも心の声が聞こえる。
『ここに来て正解だった。フリーナを連れて行かせはしない』
「よう、ヌヴィレット!……?そんな怖い顔してどうしたんだよ?」
「フリーナを、こちらへ」
ヌヴィレットが僕を敬称も付けず呼ぶなんて。心の声からも焦りが滲み出ている。ただお散歩に行くだけなのに、待ち伏せして止めようとしている。
「フリーナは今からオイラたちとピクニックしに行くんだぞ!」
パイモンは旅人と同じくらい勇敢なところがある。ヌヴィレットの有無を言わせない雰囲気にもはっきりと言い放つ。
「ロマリタイムハーバーに行くだけだよ。何も、フォンテーヌから出るわけじゃない」
「……認められない」
『彼女を他の神々に触れさせるのは、認められない!』
阻止の気持ちには、怒りというより嫉妬の気持ちが入り混じっている。
「ヌヴィレット……。僕はもう神様じゃない。ただの一般人で、今から友人たちとピクニックに行く。キミに止められる筋合いはないし、キミには僕を拘束する権利はない」
「ああ。だが、行って欲しくない」
『わかっている。理解している。君にとって今の私は遠い存在だ。私はいつだって君の傍に居たいというのに。まばゆく輝く君の姿をただ見ているだけしかないというのか?』
甘言が聞こえてきて、旅人の背中にまた体を半分隠した。旅人は仕方ない、という顔をして僕をかばうようにして立つ。
「ヌヴィレット。このままじゃあフリーナが(恥ずか)死んでしまうかもしれないんだ」
「うええ!?」
「えっ!そんなひどい状態だったのかよ、フリーナ!」
パイモンの言葉に僕は首を横に振る。「なんだ、冗談かよ」と小声でささやき旅人を小突いた。ヌヴィレットは────
『 』
驚いた顔。
声は聞こえなかったけれど、静かな水面に雫が落ちる音。
悲しんでいる。
波紋が満ちて、戻って、また静寂に戻ると感情が渦巻いて襲ってきた。
『死ぬ?』『彼女が死ぬ?』『駄目だ』『嫌だ』『どうやって生きていけばいい』『愛を伝えられないまま』『私では守れないのか』『呪おう』『フリーナ』『彼女に不死を』『彼女に愛を』『傍で生きて欲しい』『苦しい』
「ヌヴィレット!」
思わず呼びかけ彼の顔を挟んで、こちらを向かせる。
「僕はちゃんとここに戻って来る!ちょっと体がおかしいだけで、絶対死なないから!」
ね!?と二人を振り返れば「そうだね、ちょっと大げさに言い過ぎた」と旅人が反省した。
「さ、時間は有限なんだ。巡水船で行ってすぐに戻って来る。戻ってきたらキミに顔を見せに来るから────泣かないで」
ぐ、とヌヴィレットの体が揺れる。見開いていた瞳がゆっくり閉じられて、頬に添えていた手に大きな手が重なる。長いまつげが震えて……ゆっくり開いた。
「承知した。必ず、私の元へ帰って来るように」
「うん」
「それと、私は泣いていない」
「うん。」
泣かないで、私は泣いていない。このやり取りは、五百年の間で何度もしてきた。ヌヴィレットはゆっくり離れていくと、エレベーターへつながる道を僕たちに譲った。
「気を付けて」
「ありがとう。行ってくるね」
「すぐ戻って来るからな!安心してくれ!」
「行ってきます、ヌヴィレット!」
こうしてエレベーターに乗り込んですぐ、僕は頭を抱えた。真剣に取り合ってくれたんだとしても、彼の心の声から在り得ない言葉の数々が飛んできたんだ。今更になって混乱している。
「フリーナぁ!巡水船が到着したぞ!」
「もう出発しちゃいますよ、フリーナ様!」
「ま、待ってくれ!」
壁に向かってしゃがみ込んであれこれと悩んでいた僕をそっとしておいてくれたらしい。いつの間にか見慣れた船がやって来ていた。
「ありがとう、アイベル」
柔らかな手にエスコートされる。しまった、僕はもう一般人なのに、と思ったけれど長年の癖でつい手を借りてしまう。ふわふわでやらかなおてて。寝過ごしているとたまにこのおててでぽんぽんって肩を叩かれるんだ。不思議でかわいらしい温もりにつかのまの幸せを感じる。
「いえいえ。お出かけですか?先ほど一瞬曇りましたが、また晴れてきて良かったです!」
「ウン。ホントウニ」
先ほどの出来事を思い出し言葉が角ばる。アイベルは首をかしげたが、巡水船が動き出すと慌てていつもの位置に戻っていく。
アイベルは旅人とパイモンにガイドを始めた。僕はいつも「練習のつもりで構わない」って告げて聞いている。ヌヴィレットと一緒だと大体世間話になるけれど…………。
ヌヴィレットが、僕を、愛……?
「ゔ~~~~」
「わ、どうしたんですかフリーナ様!マシナリーのモーターがから回ったみないな声を出されて!」
「あははっ!その例え、いいなあ!」
「パイモン、からかわないの」
旅人が腕を組んでじっとパイモンを睨んだ。その口元は苦笑いで、僕に同情しているらしい。
「旅人、もしかしてだけど、僕と同じように他の人の心を読んだ経験があるのかい?」
「うん。ナタでそういう経験があったんだ。ちょっとこそばゆい感覚だった」
「こそばゆい」
「フリーナの場合相手が悪かったというか……良い機会というか……」
やけに含みのある言い方だ。パイモンの「わぁっ!」という感嘆の声で会話は途切れた。さっきの曇りの影響か、向こうで霧状の雨が発生したらしい。太陽が七色の幻影を見せる。ぼうっとそれを眺めていると、やがてエリナスの山々が近くなってきた。
「みなさん、ロマリタイムハーバーに到着しました。揺れるので、お足元には気を付けて」
「ありがとう」
「また後でな、アイベル!」
再びエスコートされて船を降りる。それから、エレベーターで下層まで降りて、滝の傍にある木のふもとでお昼寝することにした。
「ここまで来ると、砂漠の乾燥した空気と滝の湿り気がちょうどいいね」
「だろ?オイラのお気に入りの昼寝スポットなんだ!」
ぐーっとみんなでストレッチしてから、ごろんと寝そべる。フォンテーヌの周りを囲む大瀑布は少し離れるとそこまで音は気にならない。大地の香り。草木のささやかな話声を聞いていると、誘われるように眠りに入った。
『こんにちは』
声は夢の中の僕に届いた。つま先に触れる水面。向こうから草花が咲いては散り、咲いては散り、足音とともに近づいて来る。
『こ、こんにちは、ブエル……』
『それから、はじめまして。昨日は邪魔が入ってしまったから……。フリーナ、私のことはどうかナヒーダと呼んで頂戴』
かわいらしい声だ。優しくて、知恵のある者を思わせる声色。
『ナヒーダ』
『そう。それが、私の名前』
急に視界が開ける。知恵の殿堂、と空気が教えてくれる。草で編まれ、花が光り、天井が木々の葉で覆われた美しい元素の空間だった。
『フリーナ。会いたかったわ』
下から声が聞こえた。意識した瞬間、足に力が入らなくなってその場に座り込む。目の前にいるこの幼い女の子が────ブエル。クラクサナリデビ。現世の七執政であり知恵をつかさどる神。ナヒーダ……。
『僕も……会いたかった、気が、する……』
なんだか懐かしい。五百年、フォカロルスから呪いをかけられていたせいか、そうした気配に懐かしさを感じる。
『少しお話ししましょう?あなたの事を知りたいの』
『うん、もちろん良いとも』
ナヒーダは中央にテーブルと椅子を用意してくれた。それに、お茶とクッキーやナツメヤシキャンディの乗ったお皿も。
そこで僕たちは他愛のない会話をした。旅人のおかげで神としての権威を取り戻したナヒーダ。神座を去った僕(元々僕のモノではないけれど)と立場は違うけれど、旅人に多くを助けてもらったという共通の話題から、最近見つけた猫の背中の模様がハートマークだったこと、ナヒーダが気に入っている踊り子が璃月の舞台で成功を収めた事、七星召喚の新しいカードの偽物が出回っていて、その一連の事件の舞台裏と事の顛末。色んなおしゃべりをした。
『ふふふっ!大マハマトラってもっと威厳のある人だと思っていたけれど、今の時代なのかな、おかしいや』
『あの子が特別そうなのかも。私にも時々わからない事を言い出すもの。そのたびに解説してくれて、言葉遊びのアイディアは敵わないわ』
ティーカップの底が見える。もうそんなにおしゃべりしていたのか。夢の中の時間間隔は全く分からない。とても長いような気もするし、そこまで時間が経っていないような気がする。
『さて、本題だけれど────あなたのそれは病や呪いではないから、安心して』
『そうなのかい?良かったあ……。病気じゃないなら、その他は──』
『術式。複雑なものだけれど私なら解けるわ。ただ……』
『ただ?』
『私の痕跡があなたに残るのを良しとしない者がいる。安心してちょうだい。時間の経過で解ける術だから、普段通り過ごしていればいずれ聞こえなくなるわ』
その言葉を聞いて、ほー、と体から力が抜ける。一生ヌヴィレットの心の声が聞こえてくるのは心臓に悪い。
『それから、彼の心の声は嘘偽りのないものよ。内容が過剰になったものがあなたに聞こえている、という訳では無いわ』
『ゔ……』
ナヒーダに尋ねようとしていたことを先に教えてくれた。あまりにも彼から僕に向けられる感情として似つかわしくないものだから、意味が変換されて僕に届いているのかと予想していた。あれが素直で嘘偽りのない言葉の数々だとして────ヌヴィレットは、僕を……。
首を強く降った。
『ごめん、やっぱりキミの力で解除して欲しい。他人の気持ちを勝手に読み取るなんて、いけない事だ』
『そう。それがあなたの正義なのね』
ナヒーダは、なんだかこうなる事をわかっていたみたいだ。『こっちよ』と手招きされる。ナヒーダは立って、それから柔らかな草花の間に座って膝を叩く。
『さあ、私のお膝にいらっしゃい』
『し、失礼します』
小さな女の子の膝枕。なんだか子どもたちがするおままごとみたいだ。そっと身を横たえると、目を瞑る。夢の中なのに眠るなんて、変な感じだ。
『目覚めたとき、もうこの術は解除されているわ』
『フリーナ。私たち神が認める、正義の神』
『また、会いましょう?今度は現実で────』
「……う、……ん……」
「あっ、フリーナ、起きたみたいだぞ!」
パイモンの元気な声。深い眠りだったのか浅い眠りだったのか。陽の傾きから、眠っていたのは大体二時間くらい、かな?
身を起こし寝癖のついた髪を整えていると、旅人が隣に来た。
「ごめん、フリーナ……!」
突然ひれ伏せる旅人。違う、これは稲妻式土下座 だ。いきなりの謝罪に僕はうろたえた。
「オイラもごめん!全然気が付かなかったぞ!」
「パイモンまで!一体どうしたって言うんだい!?」
二人に顔を上げるよう促すと、しずしずと面を上げる。それから二人は気まずそうに視線を交わした。
「ナヒーダに夢の中で指摘されてわかったんだ。オイラたち、お前より先に目が覚めたからバッグの中を探したら確かに無くて……」
「なにが無かったんだい?」
「……読心術の秘薬」
旅人は正座したまま理路整然と話し始めた。
二人はここ最近ナタを中心に冒険しており、その途中で仲間のシャーマンと「相手の心が読める」状態になってしまった。けれどその状態を冷静に分析したシャーマンは秘術と組み合わせ、つい先日旅人にあるモノを渡した。「何かの役に立つかもしれないでしょ?」と。まるでおせっかいおばあちゃんのように小瓶を渡してきたのだ。
その後、フォンテーヌに足を延ばした旅人は仲間たちと久しぶりと挨拶を交わしつつ、僕が引きこもっていないか顔を見に来たのだ。ナタの土産を渡したかったのもある。僕は変わったモノに興味を抱きやすいのでお土産の渡し甲斐があるらしく、あれやこれやを鞄から出してくれた。朝と夜で色が変わる木のスプーン、燃素を閉じ込めた万華鏡、カラフルなマラカスに、ナタで子竜に人気のレコードなどなど。「こんなにもらっていいのかい?」と僕は目を輝かせ受け取った。土産はモノだけではない、たくさんの冒険譚も一緒に。楽しいお茶会の始まりであった────この時、土産物の中に例の小瓶が混ざったのではないか、と旅人は推測する。
「なるほど。それで僕はヌヴィレットの心の声が聞こえるようになってしまった、と……」
原因は旅人だったのか。いや、その怪しい瓶をお酒だと思って疑いもせず飲んだのは僕であって……。
「最終的な責任は僕にある。数日前の僕は、そんな怪しい瓶を開けたと分からないくらい泥酔していたみたいだ」
旅人から経緯を教えられても、そんな瓶お土産の中にあったかなあ?と思い出せないくらいには、あの日酔っていたらしい。家の棚下を覗けば酒瓶に紛れてまだあるのかもしれない。
「アパルトマンに帰ったら探さないと。もし全部飲んでしまっていたらごめん」
「そんな。悪いのはこっちだよ!」
「オイラたちも時間があったら一緒に探してやるんだけれど……」
「忙しいんだろ?このあとまたナタに行くんだ、ってさっきアイベルに話していたじゃないか」
「そうだけどさぁ」
僕はすっかり目が覚めて、ささっとお茶会の準備をした。さっき購入したお菓子とポットにいれた紅茶。寝てただけなのに妙にお腹が空いている。
「さ、夕暮れになる前に食べてしまおう?僕が帰るのが遅いと、いよいよ雨が降ってしまう」
「あっ、忘れてたぜ。いっただっきまーす!」
「ふふ。パイモンてば」
時間が経ってもサクふわのマドレーヌ、クッキーに深い紅茶の香り。変なモノを飲まされたけれど実害は無かった(?)のだし、僕は今回の出来事を不愉快に思っているわけじゃない。むしろ────
「効き目についてはシトラリに教えてやらないとな。ちゃんと目的通りの秘薬を作れるなんて流石だぜ」
パイモンの口の端についた食べかすをハンカチで拭いてやる。少し恥ずかしそうに礼を言われてほほ笑んだ。
「相手の心を読める秘薬、か。あんまり作りすぎないでおくれよ?犯罪に使われたらたまらない」
「これは対象が限定されているから大丈夫なんだけれど────あ、」
「対象が限定 ?」
二人は秘薬の効果を知っている。そして、秘薬の効果が表れる対象 も知っている。
「まさかとは思うけれど────」
「あっなんだかナタの大地が呼んでいる気がする。ね、パイモン?」
「お、おう!そうだな!今日は楽しかったぜ、またなフリーナ!」
「ちょ、ちょっと!──ち、違う、僕とヌヴィレットとはそんな関係じゃない!」
二人の退避は素早かった。あっという間に小舟に乗り込むと、風も無い水面をざぶざぶとすすんで行った。残された僕は途方に暮れるでもなく、ポートマルコットから帰ることにした。アイベルのしてくれたガイドの話は覚えていない。ごめん。
夕暮れの街。重い足取りで船を降りてそのままエレベーターの最上階を押した。約束を破るわけにはいかない。
パレ・メルモニアに入ると、職員たちが僕を見てそわそわとしていた。以前所用があって来た時は、「フリーナ様!」「フリーナ様、お戻りになられたんですか!?」「ヌヴィレット様に休憩を取るように言ってやってください!」とか騒ぎ立ててきたけれど、僕はもう一般人なんだと伝えて逃げ回っていたところをヌヴィレットが収めてくれた。以降、職員たちは僕を見かけても世間話はするものの騒ぎ立てることは無くなった。
「フリーナ様、おかえりなさい!────あっ!も、申し訳ありません!」
「フフッ、セドナってば。四百年やってきた習慣がなかなか抜けないね。……最高審判官と面会できるかい?」
「はい!ヌヴィレット様から来訪されるとおおせつかっておりましたから!執務室にいらっしゃりますよ」
「ありがとう」
大きくて重い扉の前。襟を正し残っている髪の毛のクセを手櫛で整えて──よし。
ノックは三回。「失礼するよ」大きな部屋の隅々まで届くように堂々と。セドナを笑ったけれど、習慣が抜けていないのは僕もか。
「おかえり。フリーナ殿」
「……ただいま」
ふー、とヌヴィレットには分からないように深く息を吐いた。良かった、ヌヴィレットの心の声はもう、聞こえてこない。
「ほら。無事に帰って来ただろう?旅人が話を大げさに言っただけで…………それじゃあ、約束は守ったから。帰るね」
「フリーナ殿」
ヌヴィレットは椅子から立ち上ると、大股でこちらに歩いて来た。
「帰る前に、少しだけ時間をくれないか」
「えっ」
ヌヴィレットは瞼を閉じて、僕の顔の前に手をかざす。それから、眉間にしわを寄せた。
「これは、私への当てつけか?」
つぶやいた声はわずかな声量だったけれど、僕にはそう聞こえた。悔しさや嫉妬が滲む声。
「フリーナ殿。君の手に触れても?」
「へ?い、良いよ……?」
差し出せば、優しく握られる。「少し冷えるかもしれないが我慢して欲しい」と続けざまに言われて、頷けば彼の言う通り涼しい空気が体を覆った。妙な清涼感。肌を水で拭われた感触だった。
「これで良い……。────ん?」
ぽん、と足元に蕾が生まれた。神の目を持って元素力に敏感になった僕にはこれがなにかわかる。ナヒーダの持つ草元素と、水元素が反応してできたモノだ、と。
「わっ!わわッ!離れてヌヴィレット、危ないよ!」
「おそらく大丈夫だろう。こちらへ」
そっと僕を背後に隠してくれる。しばらくすると、ぱふん、と柔らかな音がして花びらが舞った。その中からひらひらと動く花びら──いや、蝶が飛んできた。ヌヴィレットの顔の周りを上下して、それから耳の傍へ。
小さく、ほんとうに小さく、囁く声がした。僕には聞こえないけれど、ヌヴィレットには聞こえているみたいだ。やがて、花と蝶は鱗粉のようにきらめいて消えていった。
「もしかして、ナヒーダからの伝言かい?その……キミの使命は分かっているけれど、僕の今回の困りごとを解決してくれたんだ。かわいらしくて、とてもいい子だったんだ。変なこともされていない。彼女の善良と聡明さはこの僕が保証する。だから────」
「はぁー…………」
長い長いため息だった。ヌヴィレットがこんな風に、肩を落とすくらい大きなため息をつくのが珍しくて、僕は語り口を止めてしまった。呆れられている?ううん、そうじゃなくてなにか別の感情が混じっていたような──
「聞いたのか」
「へ?」
「私の心の声を聞いたのか、と────そう、君に問いただしている」
ど、と心が鳴りだした。胸から飛び出したいと心臓が肋骨を叩く。ナヒーダぁ!旅人ぉ!と耳の奥で僕の絶叫が交互に聞こえた。
「ご、ごめん!勝手に聞いてしまってっ、その、黙っていたのは悪いけれどキミの────」
「フリーナ」
さっきと同じように手を取られて、でも、さっきとは違う熱い温度で。
「今日はこれで帰ると良い。だが、覚悟しておいてほしい」
グローブと素肌の境目に口づけられて、僕は飛び跳ねるようにして執務室を出た。家に転がり込んでも、僕の心は踊ったままだった。
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