mishiadd
2025-02-15 23:22:22
3761文字
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汝の神は嫉妬深い神である:カナリヤ

【鵠と月夜展示品】『汝の神は嫉妬深い神である』の突発的おまけ(たくさん遊びにきてくださってありがとうございます!)
汝の神は嫉妬深い神である:https://privatter.me/page/6795e33594a05

長屋の障子を透かして、月明かりが射し込んでくる。
畳の上に長く伸びた格子の影が、やがてそこに姿勢を崩して座り込んでいる伊織の上にまでかかる。

まるで、鳥籠に囚われた小鳥のようであると――判ずることができる者は、その場にはいなかった。







足を崩した姿勢のまま、頼りなく傾ぐ上半身を畳についた両腕でなんとか支えながら、伊織がじっと畳の目を見下ろしている。ひたひたと迫る恐怖を、その身にまとわりつく疲弊を、重い、あえかな呼吸を――少しでも紛らわせようとして、無意味に畳の目を数えている。
カラカラと、視界の外で引き戸が開く音がする。顔を上げることもなく、畳を見つめ続けていた。どのみち自ら進んでこの顔を上げなくとも、やがてこの顎はあの剣だこのある少年のような手に掴まれて、まるでお気に入りの古美術品アンティークでも眺めるように、好き勝手に持ち上げられて傾けられたりなどするのだ。

伊織がそうと思った瞬間、予想通りに伸びてきた手が伊織の顎を掴み、くん、と上向かされる。おぞましい三日月のかたちに細められた、夕陽色の瞳と目が合う。

「おはよう、イオリ。きちんと食べていたか?」

障子からは月明かりが射し込んでいる。いつこの長屋に尋ねてこようと、彼がやってきたのならばそれは必ず朝であるということらしかった。そんなことはほんの些細なことだった。伊織は、いちいち訂正したり逆らったりなどしない。
彼が伊織の顔を覗き込んでいる間、伊織が目を逸らすことは禁じられていた。伊織の深遠な月夜を溶かし込んだような瞳を眺めるのが、彼の趣味であり日課であるからだった。それを邪魔することは、伊織には許されていない。

「ん?」と目を細めた彼が顎をしゃくって問いの答えを促す。伊織が、そっと目配せをして畳の隅に置かれた台の上を示した。そちらに目をやった彼が、「おお! 半分も食べたのか。偉いぞ、イオリ」とはしゃいだ声で褒める。食欲のない中、無理やりに口の中に詰め込んだ握り飯の残骸だった。「食べない」ことは許容されていなかった。ひっきりなしに注がれ続ける神気を帯びた魔力が常にその身から溢れ出てしまっているような状態での更なるエネルギーの経口補給は伊織の体をより衰弱させたが、そんな理屈は彼には通じていないようだった。「食べる」ことは「善い」ことであるという認識はあっても、「食べる」ことが即ち人の身にとってなんであるか――という認識は、欠落しているようだった。

顎を持ち上げたまま、伊織の白い頬をもう片方の手の甲で撫で、長い癖毛の前髪の上から伊織の額に上機嫌で唇を落とす。それから、常の胡坐ではなく、しどけなく崩して畳の上にどこか引き摺るように放られている伊織の長い両脚に気付く。「――おや」と彼が言った。

「足首に何かが絡まってしまっているな? 何か生えている――蔦? か、これは」

畳の上に片膝を掛けた彼が、伊織の足首に触れる。植物の――蔦のようなものが伊織の両の細い足首に絡まり、まるっきり自由を奪っていた。指先で蔦をなぞり、出処を辿る。――畳の隙間から、生えてきているようだった。
ふむ、と彼が愛らしく両のこめかみに指をあて、首を傾げる。この状況に、その身にまとう威圧感にあまりにも不釣り合いな仕草に得体の知れない恐怖を感じて、伊織がわずかに身動ぎする。
やがて、彼が言った。

「イオリが零してしまった木の実が発芽してしまったのだろう。――上手に食べられなかったのだな? イオリ。よいよい、油が喉を潤すとはいえ、木の実は硬いからな。うまく噛み砕けずに口から零してしまったとしても、恥じることはない」

「愛い愛い」と伊織の機嫌を取るように、彼が伊織の白い頬に何度も口づける。伊織が己の両脚に絡む蔦に目を遣る。「喉によいから」と言って握り飯とは別に彼に与えられた木の実だった。これ以上のものは口にすることができず、とはいえ「食べない」ことは許されていないため、どうしようもなくなって畳の合わせ目の隙間にいくつか隠していた。――それが、伊織の体から漏れ続ける神気に当てられて、発芽してしまったということらしかった。
「よいよい、イオリ、大丈夫だ」とあやし続ける彼は、しかし蔦をなんとかしてくれる気はないようだった。

伊織の上半身を支えて彼が伊織に身を起こさせる。蔦に両脚を囚われて胡坐を組めないながらもそれなりに背筋を伸ばした伊織の顎を再び掴んで、うっとりとした口調で彼が言った。

「イオリ。口を開けてみせよ」

言われた通りに伊織が口を開ける。白い肌や色素の薄い唇に反して血のように赤い舌が覗く。彼が掴んだ伊織の顎を傾けさせて、喉の奥までも覗き込む。「うん」となにやら納得したように頷いた。

「きみが急に喋らなくなってしまったからな。きみの喉がどうかしてしまったのかと心配だったのだ。特に裂けたりはしておらぬようだ。――どうだ、イオリ? 話せるか?」

――あるいはそれは、伊織の中にある、神に相対する人としての最後の抵抗だったのかもしれなかった。
この『神』が所望している伊織の「声」を、そう易々と聞かせてなどやるものか――。神の御前で伊織に残された唯一の自由意思が、「声を発さない」ということだったのかもしれなかった。

「ん?」と再びあやすように促されたが、伊織は口を噤んだ。じっと――夕陽色の瞳をまっすぐに見返した。
その視線をどう思ったのか、彼の目が三日月のかたちにたわむ。古い神社の境内に潜む――木陰をつたって這い寄ってくる、人ではない、なにか。

「ああ、イオリ。昔のきみはよくそんな目をして私を見ていたな。――この私に相対して一歩も譲らず、隙あらばこちらを喰らおうとすらするかのような、つよく獰猛な目――

伊織の両頬を両手で包み込み、恍惚とした様子でその月夜の色をした双眸を眺める。――やがて、ドン、と鈍い轟音が響く程の重圧のような神気を、その身から発した。
ビリビリと伊織の体が痙攣し、痺れる。ふ、と呼吸を求めてうっすらと開いた口を彼の唇に塞がれて、いよいよ呼吸困難になって伊織の目の前がちかちかと点滅する。縋るように彼の白い外衣に手を掛けると、彼に片手を取られる。そのまま上半身を畳の上に押し倒され、畳に縫い付けられた伊織の両の手首を彼の両手が這うようにさすり、やがて両の手のひらを握り込まれる。
気付けばあの神気はおさまっていたが、酸欠の状態で塞がれた口はハアハアと荒い呼吸を繰り返し、それすらも彼の唇に奪われる。脱皮したての蛇のような滑らかに濡れた舌が、伊織の口の中に侵入してくるのを許す。濡れた舌に己の舌が絡め取られ、口の外まで引き摺り出されるのを許す。冷たい風が舌に触れ、その表面をぺろりと彼に舐めとられた。

陶酔したようなうっとりとした瞳をした「神」が、伊織を見下ろしていた。

「イオリ。――声を聞かせよ。きみのその優しい声を。この甘い舌で、この赤い喉で、きみのあの美しい声を紡ぐのだ。あの、凛とした、穏やかで優しい、早朝の新緑にけぶる霧のような――

はあはあと浅い呼吸を繰り返している伊織の耳元に唇を寄せ、彼が言った。

「名前を呼んで、イオリ。――私の名前を。きみのその優しく美しい声で。――その声は、私のもの。きみの声は、私だけのもの。――私だけのもの」

畳に仰向けにされた伊織が、目線を頭上にやる。月明かりを透かした障子が、煌々と白く輝いていた。――人工の、シミュレーターが映し出すに過ぎないその月明かりが、格子の影をくっきりと伊織の上に落としている。

伊織が、自分の上に覆いかぶさり見下ろしている彼を見上げた。ゆっくりと――望まれた通りに、口を開いた。

「『セイバー』。――セイバー。セイバー。……セイバー」

ふふ、と彼の両の口の端が持ち上がる。まるで「神」に似つかわしくないような、大好きな小鳥の可憐な啼き声を耳にして紅潮する、子供のような顔だった。

「ああ、いい声だ、イオリ。もっと呼ぶのだ。もっと私に語り掛けるのだ。――もっともっと、私のために歌うのだ、イオリ」
「セイバー。……セイバー、セイバー」
「綺麗な声だな、イオリ。きみの声はなんと綺麗なのだろう。――その、きみの声も――

「セ、」と言いかけた伊織の唇に彼が人差し指をあて、伊織を黙らせる。彼の望み通りに静かになった伊織の唇を柔らかく吸い、ぺろりと舐める。まるですべてを諦めたような、凪いだ端正な顔を彼がうっとりと見下ろす。

「その、きみの顔も、きみの瞳も、きみの髪も。――きみの体も――。爪の先、髪の毛一本に至るまで、その内側に巡る血管の一本ひとつまで、すべて、すべて私のもの。私の宝物。私の贄」

「イオリ、歌って」と彼が囁く。望まれた通りに、伊織が彼の名を歌う。その声に聞き入り、時折たまらなくなったようにその声を紡ぐ伊織の唇を奪いながら、彼は伊織に歌い続けることを強要する。



伊織の上に、障子の格子の影が長く伸びる。



――鳥籠の中で主人のために歌い続けるカナリヤを、見咎める者は誰もいなかった。






汝の神は嫉妬深い神である:カナリヤ・了