走らせていたペンをころりとローテーブルに転がし、ビーマはあぐらをかいたまま、腕だけぐっと伸ばして体をほぐした。録りためていた料理番組を見始めたのは夕食後だ。作ってみたいレシピをメモしたり、自前のレシピに応用できそうなことをレシピ帳に書き加える作業をして、今やっと一段落つけた。仕事で幾分疲れていたが、夜に少しでも趣味の時間を持てると気分転換になってよい。
さて、とくるり後ろを振り向く。
「おっ、」
そして、咄嗟に声を抑えた。ビーマが背にして座っていたソファの上で、ドゥリーヨダナが眠っていたからだ。そういえば、「わし様の扱いが悪い!構え!」という言葉と共に背中をゲシッと蹴られた結果、パンケーキの「ン」の二画目がぐーんと上に伸びまくったメモ書きは、もう三ページほど前にある。もしかすると、結構放っておいてしまったのかもしれない。
カーペットの上に座っていたせいで少ししびれる足をそろりと動かし、ソファの方に体を向け、ドゥリーヨダナの様子を窺う。随分気持ちよさそうに寝ている。
少し寝かせておこうかと考えたが、右腕がだいぶ窮屈そうに体の下で潰されているのを見つけた。これでは起きた時に腕が痛くなるに違いない。
「昔」だったら軽々持ち上げてベッドまで運んでやっただろう。だが、今はそうもいかない。現代では棍棒術にあけくれるわけでもなし、戦もなし。あの頃の怪力など、今のビーマにはないのだ。人並みの筋力で自分と同じ体格の男を持ち上げるのは難しいし、何より危ない。
ビーマは中腰の姿勢で、そろりとドゥリーヨダナに手を伸ばし、寝て重い体を起こさないようにゆっくり持ち上げ、右腕を引きずり出してやる。
「う…ん……」
むずがるような声にドキリとする。ビーマが動きを止めたその間に、ドゥリーヨダナの両腕がにゅっと伸びてきてビーマにゆるりと抱きついてきた。急に伸し掛かられて思わず尻もちをつきそうになり、腹に力を入れてなんとか耐える。
息を止めて踏ん張るビーマのことなど露知らず、ドゥリーヨダナはまたむにゃむにゃと寝入っていった。それにほっとしつつ、今度はドゥリーヨダナを抱えながら自分の体勢を整える。ソファから落ちるようにしなだれかかるドゥリーヨダナを、中途半端な姿勢のまま支え続けることは困難だ。
そうっと、そっと、ビーマはドゥリーヨダナを横抱きにしてソファの上に座った。ようやっと落ち着けて静かに息をつく。
ここまでしてもドゥリーヨダナは起きない。
それにまた「昔」との違いを感じる。「昔」であれば、ビーマが最初に腕を伸ばした時点で気配を察知して起きていただろう。「よくもわし様を放っておいたな!」と即座に騒ぎ出したかもしれない。
でも今のドゥリーヨダナはすっかり寝こけてそのままだ。今ならこのくらい鈍感でも十分なのだから。人並みの勘の鋭さで、自分も宿敵も今を生きている。
腕の中で眠るドゥリーヨダナをじっと見つめる。ふとドゥリーヨダナの口がはむはむと動いた。料理番組を見ていたから夢の中で何か食べているのかもしれない。満足げな表情を浮かべていて少し笑った。食べているのが自分の料理ならばいいと思う。
ずっとずっと見続けてきた己の宿敵、そして、連れ合い。くたりと己に寄りかかってくるドゥリーヨダナのやわらかな体は、星見台で肩を並べて戦った筋骨隆々さはないけれど、今のやわさだってひたすら愛おしかった。
「ドゥリーヨダナ」
呼んでそっと頰を撫でる。やはり起きない。安寧の中、眠っている。
「風邪引いちまうぞ」
己から出た春風のような囁きに小さく驚く。ハヌマーン・ハウリングなど今となっては出せまい。でも、ドゥリーヨダナはいつも隣にいてくれるから己の声が届かないことはない。だから、いい。
ビーマは微笑みながらぐるりとドゥリーヨダナを抱きしめた。人並みのぬくもりは、今ここにいる連れ合いをあたためるには十分なはずだ。
「ふふ……」
ほら、ドゥリーヨダナが笑った。ふにゃりととけた表情に、ビーマの頬も同じく緩む。
幸福だ。
寄り添う愛しいぬくもりはビーマのこともあたためる。とろりと夢の気配がして、招かれるままに目を閉じた。
ベッド以外で寝たら、起きた時に互いの体はバキバキだろう。いてて……と眉をしかめて脆弱な体を笑いあいたい。
明日は久しぶりの休日だ。先日、ドゥリーヨダナが「本格的なココアは鍋で作るらしいぞ」と目を輝かせていたから、ふたり分にぴったりサイズのミルクパンを使って、ココアを練って作ってやるのもいい。
世界を救うことはできないけれど、人並みの体でもやりたいことはたくさんある。
「ふ……」
ふたりで過ごす明日を思い描く。そうして自然に笑みをこぼしてビーマも眠りについた。
人並みの筋力、人並みの勘、人並みのぬくもり。過去を越えて、星見台を越えて、ふたりはこの平穏な世に寄り添って生きている。ただ幸せだと微笑みあって。
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