朝見草
2025-02-13 03:57:26
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夏の悪夢


 望郷


 雲の多い夜。浜村蒼は夜道を急いでいた。
 蒼にとって馴染み深い気象の神、久堅の社を出た頃はまだ日があった。灯りのない参道を安全に帰れるようにと、別れたのは早めの時間。後ろ髪を引かれる思いで山を下ったのが数時間前だ。
 ただ、その後がいけなかった。昔通った道を歩いているうち、懐かしさに時間を忘れてしまったのだ。住宅街の外れで我に返った時には既にとっぷり日が暮れていた。
 この辺りは街灯が少ない。自然が多いと言えば聞こえが良いが、人の手が及んでいない、人間ではないものの陣地だ。いつか崩れた山がそのままになっている場所もある。人が、科学が、自然に抗えなかった時代の名残り。
 なんて呑気に考えている時ではないと蒼は首を振る。こう暗いと純粋に見通しが悪く、人間でも野生動物でも不意に鉢合わせたら危険だ。足音や車の音に耳を済ませ早足で歩く。
『久し振りだね』
 突然の声に勢い良く振り返った。蒼は自分でよく悲鳴を堪えたと思った。
 後退りながらじっと見れば広がる暗がりに一層闇が深い場所があって、声はそこから聞こえたように思えた。
 知らない声だが、例えば当時の同級生ならば声変わりをしただろう。蒼を知っていた近所の大人かもしれない。
 まだおかしな事象だと決まった訳では無いと、早鐘を打つ心臓を落ち着かせるためにゆっくりと呼吸をして、ふと、気付いてしまった。
『随分と大きくなって』
 息を飲む。声は耳から聞こえた訳ではなかった。
 声の主が暗がりから滑るように姿を現す。頭に被る古びた中折れ帽を片手ですっと持ち上げ、物腰柔らかに礼をした。まるで紳士のような仕草だった。
 蒼はソレを火消しのまといのようだと思った。頭だろう部位から布がなだらかに落ち、風を孕んで膨らむ。竿の代わりに枯れ枝のような腕が切れ目から伸びていた。
 知らない。こんな化け物に覚えはない。
『一緒においで。もっと楽しいところへ』
 頭に直接響く声は随分と親しげだった。
 眼前に棒付きの飴が差し出される。捕まったら終わりだと直感で分かった。しかし分かったところでどうしようもない。
 足が動かない。声が出ない。恐怖の針にちくちくと足先から喉まで縫い止められている。
 影の細長い指がのびる。唯一動く眼球でその動きを追う。曲がる。鋭利な爪が腕の皮膚を掠ってぞわりと鳥肌が立った。外気より一層冷たい空気が肌の上を這う。掴まれる。そう思った瞬間。
 ふっ、とソレが離れた。
 雲が晴れる。とん、と温かなものに背を押される感覚がして、つんのめった勢いのまま蒼は月明かりの中を駆けだした。

 離れたソレの手に白い人形のようなものが握られていたことに、蒼は気付かなかった。
 そして何をなくしたかも、数日の内に忘れてしまった。









遭遇した不思議