石造りの家の前に並べられた小さなテーブルと椅子を置いただけの簡易的なカフェスペースで、男が1人座っていた。正午はとっくに過ぎたというのに日差しはじりじりと暑く、男は小さなパラソルの影に隠れるようにレモンの炭酸水を飲んでいた。男が暑さの元凶の太陽の代わりにとでもいうようにじっと地面のパラソルの影を睨んでいると、ふとパラソルの影の隣に人影が落ちた。
「シチリア」
自身の名を呼ぶ女の声に、男は聞き覚えがあった。男が怪訝な表情で顔を上げるとサングラス越しに見知った女が見えた。
「イタリア本島とアフリカ大陸の間、地中海のほぼ中央に位置し、その島を境に海はティレニアとイオニアに分けられる」
しかし女は男の眼を見もせずに本の一節を諳んじるように言葉を続けた。
「風光明媚な土地で島の北側には神話に名高いヨーロッパ最大の活火山エトナ山を擁す。また古来よりヨーロッパ、アフリカ、アジアからの往来が盛んで中世にはイスラーム、ビザンツ、ラテンの各文化が共存し様々な言語が飛び交うヨーロッパ随一の文化都市と謳われた--」
「それで、そんな世界の果てに地獄の果てから何の用だ、アルバニア」
「地獄とは失礼な」
滔々とした女の語りを遮るように男が口を開く。アルバニアと呼ばれた女はやっと男と目を合わせて口を歪めた。白い木綿のシャツに黒いスカートといった簡素な出立ちで、女はどうやってここまで来たのか不思議なくらい荷物も持っていない。
「たまには美味しいものが食べたいと思ってね」
男の向かいの椅子に女が腰掛ける。小さなパラソルの影がいつしか時間の経過とともに女のほうに傾いている。男は小さく舌打ちをしてニヒルな笑みを浮かべた。
「メシたかるなら俺じゃなくてナポリのほうに行け。あのバカ煽てりゃなんか出すかもしんねーぞ」
「あちらさん、地続きだからちょっと厄介でね」
「ウチだって余裕はねーんだ。パンとアンチョビとレモンしか出せねーぞ」
「それで十分さ」
いつのまにかレモンの炭酸水のグラスを手に持って、女が涼しげな笑みを浮かべた。男は打って変わってげんなりした様子でため息を吐いた。
「っていうか、オメエいまロシアのとこにいるんじゃあなかったか。いや待て、何も言うな、オメエの事情なんてどうでも良いんだ」
「なに、別に秘密というわけじゃあない。私はーー」
「俺をテメーの事情に巻き込むなって言ってんだよ!」
「ーーロシアとは訣別して中国につくことにした」
「だからオメエ、何も言うなって……あぁ? 今何つったお前。いや、もういい。言うな、何も。そんでUターンしてアドリア海の向こうに帰れ。今なら聞かなかったことにしてやる」
「ロシアとはもうつるまない。中国とやっていく」
「だから言うなって……くそっ、何をどうしたらそうなるんだよこのトンチンカンがよお……テメー今頃あの野郎狂ったようにお前探してるんじゃないか」
「ロシアが?」
「いやそうじゃなくてウチの……ああ、もう、どうでも良いな。ようこそ地中海の楽園へ。地獄から来たお嬢さん」
「お前はそう言ってくれるんじゃあないかって思っていたよ、シチリア」
「メシ食ったら帰れよ。絶対だぞ」
「さて、どうしようかな」
男が疲れた様子で立ち上がって、石造りの家の中へと入っていく。女もそれに続いて歩いていく。そうして通りには、太陽のほかは誰もいなくなった。
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