さもゆ
2025-01-28 16:46:19
5721文字
Public 吸死
 

【ドラロナ】スコープ越しの勝利/好きなひとのにおいは、

犬を愛さぬ者、紳士に非ずのおまけふたつ。


切っ掛けさえあればすぐくっつく二人。

好きなひとのにおいは、




 狂犬に噛まれた左肩の傷と、パックリ裂けた左手の傷は一週間も経たないうちに完治したのだが、それよりも深いところの影響は中々消えやしなかった。
 たとえば、犬を見るたびに知らず眉が下がったり、吠え声を聞くたびにびくりと肩を揺らしたり。ただそこまでは、まだ些細な影響だった。あの懐いていた可愛い大型犬がロナルドに牙を剥く吸血鬼であった事件から二週間は経ち、いつものジョギングコースで顔見知りの犬と飼い主と挨拶しているうちに、それらは自然と完治していったのである。
 問題は、煙だ。
 ドラルクがそれに気づいたのはたまたまだった。棺桶の中で朝更かしのゲームをしていて、窓を開く音がした。起き出したロナルドが開けたのだろうが、しばらく待っても閉じる音がしない。足音もしないし、開けた窓のそばで一体何をしているのか気になって、ドラルクはそろりと棺桶の蓋を持ち上げた。遮光カーテンが機能し部屋はまだ薄暗かったが、窓下の床を見ると、陽の光が零れていた。それだけで目を焼かれた気分になり、しかしその中にかさついた剥き出しの踵が柔らかく陽を纏っているのが見え、またそろりと、目線だけを上に向けた。閉じた遮光カーテンの中に彼は佇んでいるようだった。
「ロナルドくん? 何してんの」
 ぎょっとしたように踵が引かれ、ガラガラと窓が閉じる音がした。夜色のカーテンを捲り、ロナルドが顔を出す。お日様が出てくるのって、こんな感じなのかな、焼かれる前に見れたら、そうかも。とドラルクは無意識に思った。カーテンを後ろ手にぴったり閉じたロナルドの唇には、滅多と見ない、煙草が咥えられている。慌てて指で潰したのか、先からもう煙は出ていない。ロナルドは気まずそうに顔をしかめ、咥えた火のない煙草をぷらぷらと揺らした。「なんも」
 聞いたドラルクは蓋を完全に開け、身を起こした。「……たま~に集中したい時だけに煙草喫う男が、煙草咥えて何もってことはないだろ」
「集中してた」
「休みの日に? 趣味の大してないきみが? 何を。休むのを?」
……説教くせえ言い方やめろ」
「もっと完璧な説教の方がいい? 体に悪いからやめなさい」
 ロナルドは益々顔をしかめると、ジョンはもう出かけた、とてんでトンチキな返答を寄越した。そりゃ最初のころジョンの体に悪いからと嘯き事あるごとに禁煙させようとしてきたのはドラルクだったが、今はロナルドの話をしているのに。
 ロナルドはごほ、と咳をして煙草を咥えるのをやめた。てっきり咳払いかと思ったが、続いて、すん、と鼻を啜っている。ドラルクはロナルドの裸足にまた目をやり、寒いんだろ、靴下履け、と言おうとロナルドを見上げた。ぎょ、とする。顰め面が泣きそうに歪んでいる。
「どうした?」
「どうも……
「こうもねーだろ。なに。言ってよ。面白そうなら全力で煽ってやるから」
「面白くなさそうなら?」
「きみに限ってそんなことある? まあそうだな、そん時はそん時で、とりあえずきみの隣にはいるかな」 
「煙のにおいがするんだ」
 ドラルクは口を閉じた。煙草のことではあるまい。煙草を咥えて煙のにおいがするからと泣きっ面になっているとしたら、面白いというよりは、呆れるか、ポンチの催眠か頭を心配する。
「煙の、」ロナルドはもう一度、今度はドラルクに分かりやすいように言い直した。「においがする。あれから、たまに。グレゴリーの」
「は?」
「VRCには行った。後遺症だろうって。吸血鬼に乗っ取られかけた後遺症にしては軽いから、まあこれもしばらく様子見て、自然治癒するだろうって……
「は? なに、いつから?」
「もう忘れたんかよ。ええと、二週間前だろ。グレゴリーさんと、ルインの、」
「十八日と十六時間前だろ。きみより覚えてるぞ。忘れるもんか。あれからずっと、あの悪臭が?」
「たまにな」肩を竦める。「煙草で誤魔化せやしねえかなって思ったけど、鼻の奥から蘇ってきやがる。鼻うがいとかしてみようかな……
 鼻うがいをするロナルドは見てみたいが、そんなことより、ドラルクはまず、死んだ。この死因はとても子どもじみた(欲しいものが誰かに奪われそうになった子どもの苛烈な癇癪が一番近いが、ドラルクの子どものころ、欲しいものが手に入らないことは早々無かったので彼はそれを的確に言い表し自覚する術を未だ持っていない)ものだったが、復活したとっくに大人のドラルクは、ふざけやがって、と胸の内側はざらつかせながらも笑顔でロナルドを手招いていた。ふざけやがって、この人間は、この男は、私のものだぞ。私の夜毎作る料理を糧とし、肉となり、骨となり、血となっているのだ。その血と骨肉に守られた肺に、あの無法者の影が未だこびりついているなど、有り得ない。
「ロナルドくん、おいで」
「え、なに」
「いいから」
「やだよお前ぜったい何か企んでんじゃん」
「その後遺症、私なら治せる」
「マジ? や、ほんと? マジで言ってる? どっち?」
「マジマジ。ほんとだよ。信じてよ」
 ロナルドは逡巡したのち、よっぽど悪臭の後遺症に参っているのか煙草をゴミ箱に投げ入れてから大人しくドラルクのそばに寄った。棺桶の外側で跪こうとしたので、「こっち。中入って」と内側に招いて座らせる。棺桶内に二人で座るとさすがに狭く、膝がぶつかった。ドラルクは自分のマントを取り出し、それをロナルドの頭から被せた。
「え、なに、」
「嗅いで」
「は?」
「嗅いで。私のマント」
…………」ロナルドは不審そうな顔つきのまま、それでも恐る恐る、マントを自分の手で握り、鼻に持っていった。すん。「……嗅いだけど……
「どう?」
「何が?」
「肺にまで私の匂い到達した?」
…………」ドラルクがじっと見つめてくる瞳を得体の知れないもののように見つめ返し、今度は先より深く、すう、とマントに鼻を寄せて吸い込んだ。息を長く吐き、またすう、と吸う。何度かそれを繰り返す姿を観察していたドラルクは、ざらついていた胸の内側がひどくなだらかになっていくのが分かった。ロナルドは鼻を離した。「……ウン、まあ。お前のにおいになったけど……
「そ。良かった。じゃもしまた後遺症が出たら教えてね。嗅がせるから」
「嗅がせるから!? 何で」
「だって」
 ドラルクはきょとんとして答えた。
「きみが誰に噛まれようが血を吸われようが構わんがね、でもきみの内側に私以外の吸血鬼が招かれるのは、腹が立つだろ」
……そ、」ロナルドは何かを言いかけたが、口を閉じ、開けて、籠で眠っているジョンと、布のかけられたキンデメの水槽と、スリープ充電されている死のゲームに目をやり、事務所のメビヤツの方にも顔を向けてから、ドラルクに顔を戻し、黙ってマントで顔を覆った。不思議な動きだったが、素直で大変宜しかった。そのままドラルクの匂いに満たされてしまえばいい。
 暇になったドラルクはついでに脈拍も数えてやろうと手首を握りやった。びくりと震えられたが、殴られはしなかった。手首は太く、骨が硬くて、肌は熱く、血管はとくとくと流れ元気だった。ああ。こんなに楽しい時の刻み方は、やはり、ロナルドだけなのだ。三十年後も、三百年後も。