青果
2025-01-20 19:07:22
14430文字
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【サンプル】風雲たる子どもたち

『風雲たる子どもたち』
九龍妖魔學園紀:皆守と葉佩 / 文庫 / 全年齢 / 本文100ページ/600円(会場)・700円(通頒)
2025/1/26 アナザーコントロール23 東2ホール セ6b『彷徨書房』にて頒布予定の前半サンプルです。

左右を決する描写・示唆する表現はありません。

通頒:https://prim-caca.booth.pm/

皆守の願いとツーリング・ロードムービー

・サンプルは読みやすいように改行がありますが、本では詰まっています
・葉佩とは最終的に愛情値優位、Aスキル・Pスキルマックスを想定



1


 新宿駅は皆守の想定していた光景ではなかった。彼は駅前に着くよりも早くから、路上のさまざまな情報に目眩を起こした。新宿三丁目あたりまで来ると車道の幅はいっそう広くなる。交差点で葉佩が立ち止まって、ようやく信号機の存在を思い出したくらいだった。

 天香學園には交差点がないのだと気づいた。學園内には往来の激しい車道がない。当たり前だ。

 横断歩道も久しぶりに見たし、地下鉄の案内板は皆守の知らないデザインだった。
 真冬だというのに、新宿の街は人いきれがする。東京にはこんなに人間がいたのか、と思うと皆守はファンタジーの世界にいるような気分になった。しかし、どちらかといえば、ファンタジーの住人は皆守のほうだ。

 葉佩は新宿通りを先導していった。ときどき皆守を振り返るので、皆守は葉佩の足を蹴りつけた。気にしないで行け、と言いたかった。真横を歩いている大学生くらいのグループが大きな声で話していて、皆守はそれに勝る声を出せる自信がなかった。

 自分と近い年代の年長者には夕薙がいたし、葉佩の実年齢も皆守は知らない。新宿の街中、なぜだか強く孤独を感じる。制服の隙間から這い上がってくる冷気は容赦がなく、皆守の心身をさらに冷やした。

 天香にいるとき、自分よりも年上というのはほとんど教師のことだった。だから一列に目を逸らしたり無視したりしていたものだが、事実、世界にとっては皆守はまだ未成年でしかなく、年上の人間のほうが遥かに多いのだった。透明のガラス扉の向こう、美容院らしい店構えに入っていく女性は、皆守より二、三だけ年上のように見えた。

 葉佩は、新宿の人混みに目を回す皆守を見て、

「だから言っただろ」

 と笑った。彼の声は喧噪の中に放り込まれたボールのように、すぐに行方が分からなくなった。
 皆守は笑われて癪に障るが、答えるべき言葉をなくした。

 葉佩は皆守を新宿のファッションビルに連れ込んだ。自動車もバイクも通らないが、三年ぶりに見る「店」の眩しさがたまらない。よくよく考えれば、天香學園で一番明るいのは教室で、その教室ですら皆守はろくに寄りつかなかった。

 黙りこくっている皆守を葉佩はちらちら見て含み笑いを漏らした。

「ま、さっさと見繕って出よう」
……何しに来たんだか忘れそうだ」
「コートだよ。防寒具。おまえの」
「ああ、そうか」
「大丈夫?」

 そう言う葉佩の顔は笑っている。この野郎、と小さく言った。葉佩はさらに笑った。

「こうなるだろうなとは思ってたんだ。でも、予想よりちょっと酷いな」
「酷い?」
「落ち込むなよ、たかだか人間がいっぱいいるくらいで」
「落ち込んではない」
「あはは。その顔で」

 葉佩が声をあげて笑うので、皆守は息を吐いた。すると、強張りがいくらかほぐれる。

「まあ、すぐに出よう。なにもブランドの上等なやつを買おうってわけじゃないし」

 葉佩はそう言ってメンズファッションフロアに降りた。彼は古代の遺跡に潜って生計を立てているはずだったが、流行に明るかった。皆守とは違って、三年間穴蔵に閉じこもっていたわけではない。

 二、三着皆守に羽織らせただけで、葉佩は風を通しにくいポリエステルと中綿のコート、厚手の手袋とマフラーを選び取り、皆守をレジに押し出した。レジすらも皆守にとっては久しぶりで、この三年の間に日本の貨幣システムに変化が起きていたらどうする、と妙なことを思った。

「コート、いいのにしてるのはおれの都合だから、ちょっと出すよ」
「いや、いい。俺のだろこれは」
「こっちこそ気にするな。これのほうが、おれに都合がいいんだ。はい」

 葉佩は皆守の手に一万円札をねじ込んだ。高校生にとっては「ちょっと出す」の範囲ではない。葉佩に突き返そうとしたが、

「おれの収入、見たことあるだろ。天香でバディとして着いてきてもらってたとき、受け渡し方法がなかったとはいえ、報酬はおれ全取りだったの申し訳なかったんだ。これくらい気にするな」

 と早口で言われた。この文句に対して皆守が返せるのは「おまえこそ気にするな」だったが、そんな短い言葉では葉佩を説得できるはずもなかった。いつか返すからなとだけ言って、一万円札を持たされた上で会計列に並ぶ。その後ろを葉佩は慌てて着いてきて、言葉を加えた。

「ああ、皆守、いいか。ポイントカードとか、なんだとか、持ってますかって聞かれると思うけど、持ってませんって言えばいいから。お作りしますかって言われるのも、大丈夫です、って言えばいいから」
「俺のことガキだと思ってないか?」
「落ち込んだ顔してるから……
「していない」
「じゃあそういうことにしよう。おれは会計終わるところで待ってるから」

 葉佩にあからさまにリードされると業腹だった。前に並ぶ人間が進んでいき、皆守も進む。列の隙間を葉佩は歩いていって、見えなくなった。
 会計は葉佩に説明された通りのことが起き、説明された通りのことを言って解放された。柱の横に立つ葉佩に近寄ると、彼がまた先導した。
 エスカレーターに乗り、葉佩が皆守を振り返る。

「皆守、ここ出たらそれ着ちゃってよ」
「タグついたままだぞ」
「それくらい、おれが切るから」

 切る、と言うときの葉佩のジェスチャーはハサミではなくナイフの動きだったので、皆守はどこかでハサミを調達しなければならない、と思った。皆守がコンビニという単語を思い出すまで、しばらくかかった。




 道ばたで包装を開けて、歩きながらタグを切る。葉佩のナイフは小さなカッターナイフのことだったので、皆守は仕方なく彼に任せた。

「切れた。ほい」

 葉佩が寄越してきたコードに、皆守は黙って袖を通す。皆守の普段着は荒く織られているわけではないが、どうしても隙間から冷気が染みこんでくる。コートを羽織ると、冷気がシャットアウトされた。自分の体温がコートの内側で巡るあたたかさを味わう。上まで留めると、冬のさなかにあたたかさを味わう醍醐味そのものだった。大袈裟なほどのため息をつく皆守に、葉佩が「あったかいだろ」と声を掛けた。皆守はただ頷く。

 彼は続けて手袋とマフラーのタグを切り、ぽいぽいと皆守に放り投げて寄越した。それらを身につけるとさらにあたたかいことは分かりきっているので、残さず受け取る。
 そのすべてを、彼らは歩きながら行った。皆守は葉佩の後についていく形のままだったが、防寒具を整え終えて、ようやく疑問に至った。今までずっと、新宿の街に呑まれていた。

「どこに行くんだ?」
「パーキング」
「おまえ、車運転できたのか」
「車は持ってないよ」

 得体の知れない回答だ。皆守が顔をしかめていると、葉佩は「まず荷物取りに行く。ロッカーに入れてるんだ。あっちだったかな」などと言って質問を重ねることを許さなかった。
 大中小のサイズがあるコインロッカーの真ん中のサイズを使用していた。葉佩はポケットがいくつもあるベストから、ロッカーの鍵が入っているポケットを迷わず開けて、荷物を取り出す。

「はい、これ」

 葉佩がロッカーから取り出した荷物を差し出してくるので咄嗟に疑いなく受け取ったが、予想したような荷物ではなかった。皆守はそれをまじまじと見た。
 フルフェイスのヘルメットだった。ヘルメットなど、防災訓練でしか触った経験がない。葉佩から渡されたものは木肌のような色をして、目元にあたる部分は遮光のためか薄暗い。いったん片手で受け取ってしまったがずしりと沈み込むように重いので、両手で持ち直した。

「九ちゃん、おい」
「頭入るか見てくれる? 顎でベルト調節できるし、入らないってことはないと思うんだけど」

 彼は皆守の疑問を分かっていて無視している。相手にしたら、皆守がゴネると思っているらしい。それは正しい。皆守はゴネたかった。朝帰りを経験させてやると言い出した時点でおかしかったのだ。

 葉佩がロッカーから取り出したのはもう一つのヘルメットと、彼の荷物らしいボディバッグだった。ロッカーから離れて皆守を振り返り、ただ突っ立っている様に彼は笑った。

「おれと一緒にいると、毎日が新鮮でたまんないだろ」
……言ってろ」

 皆守が何を言ったところで、もう葉佩は傷つかなかった。彼を傷つけられるもののすべてを、皆守は失っている。
 彼は皆守の頭にヘルメットをかぶせ、顎で留めると「頭、前後左右に振ってみ」と言った。言われたとおりに前後左右に傾けてみる。これで何が分かるのか、と疑問の目を向けた。

「ガタガタしない? ヘルメットで首をグキっとやるのまずいからさ。安定してる?」
……安定はしてる。ガタガタするって、中でぶつかるかって意味か?」
「うん。まあある程度は揺れると思うけど、ちょっと傾いただけでヘルメットがズレるとかだとまずいし。……よさそうかな。じゃ、耳のあたりにこれ貼って。ヘルメットの中ね」

 葉佩が何かを手渡してくる。受け取った。小さな電子機器らしい。五百円玉より一回り大きいサイズで薄く、片方が粘着面になっている。皆守はヘルメットを外して、葉佩がうながす通りの位置に貼った。

「またかぶって」

 葉佩の指示を聞いてばかりだな、と思いながら従う。フルフェイスのヘルメットを被り慣れておらず、手間取ったが先ほどと同じような姿勢になった。遮光の灰色の視界の中、葉佩を見ると、彼は小さなマイクを持っている。ニュースキャスターなどが襟元につけるものと似ていた。

「皆守? 聞こえる?」

 彼の声が、正面からではなく耳元から聞こえる。思わず耳を見ようとしてしまったが、ヘルメットをかぶっているせいで何もできなかった。皆守の驚いた様子に、葉佩が笑う。その笑い声も、耳元に直接聞こえた。

 さっき貼った電子機器だ、と気付く。イヤホンと違って何も線がないのに、ちゃんと届いている。思えば携帯電話も線がなくたって通話ができるのだから、今さら驚くことではないのだが、電話ですら仕組みを知らないのだ。これがいつからある技術なのかすら、皆守は分からなかった。天香を出た途端、皆守には世界の全てが分からなくなる。今のうちに外出しておいてよかったかもしれない。

「どう? うるさい?」

 葉佩の質問に、首を振って応じた。

「じゃあこれでいいか。ヘルメット、外していいよ。今度こそパーキング行こう」
……聞きたいことがあるんだが」
「なに?」
「おまえ、免許があるのか」
「ありますとも」

 皆守からの直截な質問に、葉佩は大きく頷きを返した。

 さっき、葉佩は「車は持っていない」と言った。車にヘルメットはいらない。ヘルメットが必要なのは、皆守の知識ではオートバイだったが、オートバイの免許は何歳から取得できるのか、皆守はまったく知らなかった。

「三、四年前くらいにとってるからね、二ケツできますよ」
「いつ取得したかで変わるのか、それは」
「うん。免許取得してから一年必要なんだよ。高速道路はまた別条件があるけど」

 なるほど、と皆守は思った。そう思いながら、葉佩にとっては当たり前の馬鹿みたいな質問だったかもしれないとも考えたが、彼は何も気にしていない顔つきで、また皆守を先導した。皆守は、彼の背を追った。
 葉佩から新宿のパーキングの価格設定についてずっと愚痴を聞かされたので、目的地に着く頃には皆守は新宿のパーキングについて詳しくなっていた。駅前は特に上限額の設定がないらしい。

 車とオートバイが並ぶパーキングの電子表示には「満」とある。確かに、空きはどこにもなかった。
 オートバイの列に近づく葉佩の後ろを歩く。車のパーキングは停車したあと、料金を払うまでガードがあることを知っていたが、オートバイにはないらしい。うち一台に近づいて、葉佩はヘルメットとバッグをその場に残してから料金を精算しに行った。

「案外、小さいんだな」

 バイクを近くで見た最後はいつだったか思い出せない。二人乗りをするというには華奢に見えるボディだったので皆守はそう言ったが、葉佩は

「これでも四〇〇ccあるんだけどな」

 と言った。cc、という単位が何になるのか皆守には分からず、何も言わずに葉佩がロックを解除するのを見守った。
 彼はバイクを自転車のようにごろごろ転がしてパーキングを出た。パーキング前の道路は大きな車道から脇道に入り、いくつか曲がったような細い通路で、人通りはなかった。

 葉佩はヘルメットを被り、立ったままの皆守を見て笑った。皆守はどうすべきなのか分からない。
 彼が先に跨がって、皆守に「乗って」と言った。

「乗ってと言われてもな」
「皆守、脚長いんだから跨げるでしょ」
「そういう話だけじゃない。俺の脚は長い。どこに足を乗せるものなんだ」
「自分から言われると腹立つな……。いいから、まず跨がってみなって。傍から見ただけじゃ分かりにくいけど、乗って上から見たら、足置きが分かりやすいから。いまはエンジンかけてないから、何も気にせず乗って」

 バイクは自転車よりも幅があるので、蹴飛ばしそうになる。それでもどうにか脚を回して、合皮張りのタンデムシートに腰を落ち着けた。両足はいま地面についているが、さてこれを、と下を覗く。すると、ちょうどいい辺りに、ハンドルのようなものが突き出ているのが見えた。ここか、と思いつつ、足を乗せる。収まりがいい。間違いなさそうだった。

「乗ったね? じゃあ軽く説明するけど、そこの金属の筒。マフラーね。エンジンかけるとそこが熱くなるから、絶対に触らないように。火傷するから。特に降りるとき気をつけて」

 下を見る。足を掛けている場所に近くにあるのでよくよく注意しなければならないな、と思った。

「次。カーブするとき、どうしても車体は斜めになる。というか斜めにする。そのとき、逆らわないで一緒に斜めになっててね。倒れると思うかもしれないけど、倒れないから安心して」
……分かった」
「で、手をどうするかなんだけど、後ろにバーがあるからそれを掴んでいてもいい……けど、すると重心が後ろに行くから、走行中ちょっと怖いんじゃないかと思うんだよな……
「じゃあどうするんだ」
「おれの腰に捕まってていいよ。それが一番安全のような気がする」

 どういう意味だ、と皆守はヘルメットの向こうの葉佩を見た。腰に捕まるも何も、腰にはハンドルがついているわけでもない。
 皆守の躊躇いを理解して、葉佩は「あ」と声をあげた。

「ちょうどいい。おれ、今ホルスターベルト巻いてるから、それに捕まってなよ。何も入ってないから」
「日本に来るのにそんなもん巻くなよ」
「ヤバいもん携帯してないから、いいかと思って」

 葉佩は皆守のコートと同じく風を通しにくい素材でできたジャケットの腰を持ち上げた。たしかに、キャメル色のホルスターベルトが巻かれている。これだけなら合法か、と皆守は考えようとしたが、途中でわけが分からなくなった。ベルトにぶらさがったガンポケットが左右に二つあるのを、ハンドルのように握る。これだけだと引きちぎりそうだったので、ベルトに指を引っ掛けて、まるごと握った。

「よさそう?」
「何がいい状態なのか分からん」
「あはは。ま、高速は乗らないし、安全運転するから。じゃあ皆守、ヘルメットかぶって。これマイクね。あんまり風のあたらなさそうなところにつけといて。はい、この機械、これが本体だからコートのポケット入れて。ボリュームはここのつまみね」
「このマイクは必要なのか?」
「走り出したら分かると思うけど、バイクって音がかなりうるさいんだよ。会話できないと困るだろ」

 困るだろうか、と思ったが、バイクに乗った経験がないので皆守は意見しなかった。
 葉佩に従ってヘルメットをかぶり、マイクをコートの襟につける。クリップとしても使用できそうだったが、強風に煽られて落としかねない。大人しく、ピンを刺した。

「じゃあいいかな。エンジンかけるよ」

 耳元のスピーカーから、葉佩の声が聞こえる。ヘルメットを二つ隔てているせいか、走り出す前から、葉佩の肉声はぼんやりとしか聞こえなくなった。
 バイクの車体が震え、ぼつぼつとエンジンのかかる音がした。
 天香學園に入る前は自家用車にしろバスにしろタクシーにしろ、エンジン音を間近で聞くことはあったはずだ。だが、たかだか三年離れていただけで、耳慣れなくなる。それは皆守にとってのこの三年が、彼の内部ではただの三年として換算されていないからかもしれなかった。皆守には、よく分からない。

 振り返ったとき、この三年は荒野だ。交差点はなく、信号もない。ファッションビルもなければ、流行もなかった。だが、荒野にも芽吹く花はある。その花は、秋にようやく風に乗ってきた種だ。

「行くよ」
……おう」

 葉佩の声と共に、バイクが動き出す。力強いエンジンが、青年二人を乗せて走り出した。

 フルフェイスのヘルメットにコートとマフラー、手袋を備えていて露出しているところはほとんどない。冷たい風は防寒具に遮られ、皆守の肌まで届かなかった。確かに、こうなるのであれば、防寒具は必須だっただろう。 強い風にコートの繊維がばたばたと音を立てていた。大きな通りに出ないまま、二車線の道路を走り繋いでいく。交差点で曲がるとき、左に曲がれば左側に、右に曲がれば右側に大きく傾く。あらかじめ聞いていなければ戸惑ったに違いない。

「どう?」

 耳元から葉佩の声が届いた。

「不安定な乗り物だな」
「道が混んでるからのろのろ進んでるしね。高速道路とまで行かなくても、まあまあスピード出せればもう少し安定するんだけど。自転車と同じで」
「速さは、そっちには見えてるのか?」
「メーターあるよ。次降りたとき見せてあげる」

 興味があって聞いたわけではないつもりだったが、見せてあげる、と言われると気になった。

 バイクにはさほど興味がない。だから、いま葉佩が乗っているこのバイクも、どういう来歴なのかまったく分からない。メーカーも、大きさも、力強さも、察することもできなかった。思えば、この男といるときはずっとそうだった。皆守が知っていて、彼に与えることができたものは天香學園の校則だけだ。もっとも、彼はすぐにそれを破ってしまった。

 走り、ブレーキがかかると自然と身体が前に傾いて、葉佩とぶつかる。ヘルメットがぶつかって音が立つので、「悪い」と思わず口にした。

「しょうがないよ。気にしないで。これでちょっとくらい傷ついたとしても、気にしないでいいから」
「これ以上スピードが出たら、もっと強くぶつけそうなんだが」
「そういうもんだよ。ヘルメットでかいから」

 皆守はバイクにまつわる全てが初めてだが葉佩はそうではないので、彼のほうに余裕がある。皆守はマイクに息が掛からないように、そっと細く息を吐いた。ヘルメットがぶつかってしまわないようにすると、葉佩の背中が触れる。コート越しだが、体温があった。

 どうも落ち着かない。アロマが懐かしかったが、この状況で吸えるわけもなかった。

 どこに行くんだ、と聞きそびれていることに気がついていたが、聞きたくなくて黙っていた。目的地が分かってしまえば、それは葉佩とまた別れるまでの時間を数えることに等しいからだ。