つきのせ さぶろく
2025-01-20 10:52:25
1889文字
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潤びる

【自陣SS】トイテニスで敗北した人間によるかいまほ狼天使SS【微ネタバレ有】


 小さなキッチンで、かしゃかしゃと金属が擦れてぶつかり合う軽い音がする。微かな甘い香りと、軽やかな鼻歌が狭くはないLDKを満たしていた。留守番の日は決まってクッキーを作る。甘くて美味しい匂いが帰りを待っていたら、きっと嬉しいだろうから。
 生地を寝かせている間は、読みかけの本を開いてリビングに寝そべって、文字と空想の海に浸る。脳は空っぽではいられなくて、すぐに情報でほとびるも限界を知らないのだろう、続きが気になって仕方がない。朝は眠たかったような気がするのに、気づけば何かに夢中になって昼前になっている。冷蔵庫を開けて、冷えた塊を取り出した。生地の厚さはだいたい5ミリ。あとは厳選された型抜きコレクションを吟味して、今日はオーソドックスにハートと星。鉄板にクッキングシート、列は整然に。ココアパウダーは無くなっていたからプレーン一色。170度で予熱されたオーブンに入れて18分。15分と、追加の3分がミソ。
「今日はうまくいくかなあ」
 指先で電子音がして実験が始まった。絶妙な硬さへの挑戦、焦げとコクの境目に迫る精覈せいかく。熱されて、甘い匂いが強くなる。この間に洗えるものは洗ってしまって、そういえば洗濯物はどうだっけと洗濯機の様子も見にいく。あとはあとはと、気になることを全部確認していたら18分なんて10秒にも満たないくらい早く終わる。お菓子作りへの親近感はきっとそれだ。オーブンから取り出された鉄板の上には、縁がきつね色に程よく色づいた白いクッキーたちがいる。
 鉄板をキッチンに置いたのと同時に、玄関へつながる廊下と部屋を隔てる扉が開いた。ただいまと顔を覗かせたのは白狼ジュンだ。サングラスが外れて、その薄い頬に室内灯の灯りが滑る。
「ジュンちゃんおかえりい」
「ただいま。こっちは問題なし、ナガちゃんは?」
「問題なし!」
 カラメル色のバスケットに山盛りのクッキー、お湯が沸いていく音がする。引いた椅子に狼が座って、昼の光が差し込むダイニングテーブルに天使が降り立つ。
「ジュンちゃんが一番だったからご褒美ね」
 ハートの丸い部分がジュンの唇に柔らかく当たった。視線の先で霖が微笑んでいる。大窓からの逆光で影が落ちていても朝露のような煌めきがあった。まだ温かいクッキーは舌の上で溶けるように崩れた。冷たい指先は唇から離れていく。
「天使ちゃんの元気チャージ、無茶しちゃだめだよう」
 パチリと天使の右目が閉じて、空集合の瞳だけが白狼ジュンを映していた。要素を何一つ持たないものたちの集合は、枠外のものに対して同一を求める。彼女の瞳は無茶苦茶な検索エンジンなのだ。無限の図書館で、本を一つ一つ確認して目の前のものと合致するものを探している。ただし、目の前に立たされている者は、その空集合に何が内包されているのかわからないし、どこまでが彼女の目の前になるのかもわからない。あの視線に晒されると、一瞬だけ胃を掴まれた感覚がして、その後に全てを覗き込まれていたような錯覚が訪れる。これはあくまで覗き込まれているではなく、覗き込まれたという過去形に限定される。現在進行で覗き込まれていることはどうしても掴めない。腹の探り合いに慣れているジュンでも、空集合の瞳の規格外加減にはため息すら出てしまうくらいだ。
「隠すつもりはなかったんだよ。ナガちゃんはすぐわかっちゃうからさ」
「ママには内緒にしちゃうでしょ。ジュンちゃんまた怒られちゃうよ」
「ちょっと疲れたくらいはさ、内緒でも許してよ」
「ジュンちゃん一番早起きで一番遅寝だもん。内緒になってないもーん」
 お手軽なインスタントコーヒーも、ミルクに気を遣うだけで華やかになる。クッキーのバスケットに湯気のたつ二人分のマグカップ。柔らかい日差し。昼間のおやつタイムにジュンの肩も力が抜けていた。霖はココアに星のクッキーを浸している。
 脳は知識を吸って膨らむスポンジだ。なら、心は幸福を吸って膨らむスポンジかもしれない。そう思うだけで、心は脳とは別のところにある臓器ではないかという仮説が少しだけ現実味を帯びる。できることなら、心が幸せで潤びる日々が長く続いたらいい。玄関が開く音が微かに耳に届いて、幸福の足音が二人分近づいてくるのがわかった。