もうこの頃は朝が寒くて、霧がかった通りをコートを着込んだビジネスマンが足早に歩くのばかり目立ったサラエボの街も、お昼を過ぎてくるとそこかしこでコーヒーやチェバビをお供に世間話に花を咲かせる人々の活気づいた姿が見える。旧市街のバシャチャルシャで馴染みのカフェに入ったボスニアも、周りの人々と同じように店の前のテラス席に座って店の男に注文をした。知っている人間がいれば一緒に話したりもするが、今日は誰もいないようだ。チラリと辺りを見渡して足を組み替えたボスニアは、来る途中に大通りの売店で買った新聞を広げて読み始めた。一面をザッと見て、それからスポーツ面。贔屓のサッカーチームの試合結果を確認して、そうして二面、三面……。順番に紙面を捲っているうちに、店員がやってきてボスニアの前にお盆を置く。ジェズベごと出される温かいコーヒーと金細工の施された小さなカップ。四角い角砂糖と甘いロクム。お盆に載せて一緒に出されるそれは、紛う事なきボスニアン・コーヒーだ。或いはまたの名をトルコ・コーヒー、などなど。そうしていつも追加でバクラヴァを一つ。シロップのたっぷり掛かったこの店のバクラヴァが、ボスニアは特に気に入りだった。何層も重なった生地とナッツの四角いお菓子に、フォークを入れて切り分けて一かけ口に入れる。ボスニアン・コーヒーを一口。今日も最高の昼下がりだ。ふうっと溜め息にも似た吐息が口から零れ出て、目をのんびりさせてボスニアは煙草を取り出した。ゆっくりとした動作で火をつけて、これまたゆっくりと長く煙を吐き出した。まるで夢見心地だ。
――午後のカフェは良いねえ。
コーヒーとバクラヴァと新聞。3つを交互に繰り返しながら、とりとめも無く考えたボスニアの視界を遮るように、突然何者かの手が目の前に伸びてきた。
「あっ!」
侵入者はボスニアの目の前の皿に乗った可愛い可愛い甘いバクラヴァに、あろうことかブスリとど真ん中目掛けてフォークを突き刺して、そのまま口いっぱいに頬張った。
「ヘルツェゴビナ!」
名前を呼ばれた青年は、むっつりとした表情のまま、口をもごもごと動かしてボスニアの昼下がりの恋人を咀嚼しつつ、ドカリと真正面の席に横を向いたまま座った。
「俺のバクラヴァ!」
「こんくらい許せ」
「ったくお前はもう……。コーヒーもう一杯!それからバクラヴァをもうひとつ。お前飲むだろ」
一応、という風に付け加えられたボスニアの問いに、ヘルツェゴビナは「おう」とだけ短く答えた。2人とも勝手知ったる、といった様子で、先程は怒っていたボスニアももうどうでも良くなったのか、また新しい煙草を取り出して火をつけて新聞を捲り始めた。ヘルツェゴビナも店員が持ってきたコーヒーを受け取って一口啜ってふうっと賑やかな通りの方に目を遣った。その口の端にどこか満足げな笑みが小さく浮かんでいるのを新聞紙越しに見つけて、ボスニアもまた柔らかな笑みを浮かべる。
「最近お前んとこ調子どう」
「ぼちぼちだ。こっちはもう大分寒いな」
丁度ひんやりと冷たい風が吹いて、ヘルツェゴビナがロングカーディガンの前を閉めながら答えた。
「観光も順調?」
「まあな。フルバツカさんのお陰だ」
フルバツカさん、ねえ。
ボスニアは心の中でそう呟いた自分に何処か捻くれたものを感じながら、「ふうん」とだけ返した。ヘルツェゴビナが自分以外の奴のことをさん付けで呼んでいるのは昔からのことではあるけれど。
「――別に、そういう意味じゃ無い」
「そういう意味ってどういうこと」
ボスニアの視線に何か感じたのか、それとも。言葉を継ぎ足したヘルツェゴビナに思うところはあったけれど、ボスニアはそれきり、また目をのんびりとさせてコーヒーをジェズベから入れ直した。角砂糖をコーヒーに少しだけ浸して囓る。美味しいねえ、甘いねえ。ぼんやりしていると、「お前も元気そうで良かったよ」と、身体を向き直したヘルツェゴビナが声を掛けてきたので、ボスニアは「おう」とだけ答えて笑ってみせた。どこかホッとしたように頬を緩めたヘルツェゴビナへ、手を伸ばして軽く頭をぽすぽす叩く。煩わしそうに手を払いのけたヘルツェゴビナをにやにやと眺めながら、ボスニアは口を開いた。
「お前、今週末空けとけ」
「何で」
「バニャルカに行く」
「お前一人で行け」
「いいや、お前も一緒に行くんだ」
チッとヘルツェゴビナが舌打ちをする。ボスニアはまた新聞を広げた。それから新聞紙の向こう側へ一言「みんなで食べた方が飯は旨いだろ」と。また舌打ちが聞こえた。これは大丈夫なヤツだ。そろそろと新聞の上から覗くように前を見た。
「あっ!お前また!」
「うるせえな、お前が食べるのが遅いのが悪い」
テーブルの上の皿に目を向けると、ボスニアの可愛い可愛い甘いバクラヴァがまたしても跡形も無く消え去っていた。
*
のんびりのんびりボスナくんとわりとせっかちなヘルツェゴビナくん。
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