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あさかわ
2025-01-05 22:25:52
20352文字
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還流と撚糸【前編】
本編後体が戻ったり妻が還ってたりする父たちがバディで怪異に突っ込んでいく事件物です。今回は観光船サスペンスです。
全文はリンクよりpixivに飛んでください。
1
2
「万寿汽船の江里口です
……
この度はお世話になります」
ぼそぼそと喋る男は水木より一回り小柄だ。スーツにネクタイを締め、背筋がピンと伸びているのに言葉や表情に覇気がない。何日も会社に泊まり込んだようなげっそりとした顔で名刺を差し出した。水木はにこりと笑顔を浮かべて名刺を交換する。
「頂戴します。水木計測の水木です。こちらはうちの調査員で、怪異の専門家でもあります。依頼の概要を知るために同席させて頂きます」
水木が隣に座るゲゲ郎に視線をやった。ゲゲ郎は腕を組んだまま、じっとしている。くれぐれも余計なことをするなと水木が釘を刺した結果、水木の隣で応接机の菓子を凝視する男になってしまった。
以前は依頼人の応対は水木一人で行っていたのだが、ゲゲ郎も同席するようになった。これには深くない浅い理由がある。
「早速ご依頼内容を伺ってもよろしいですか」
水木は江里口に着席を促した。彼は鞄から封筒を取り出し資料を広げる。船の図面や海図のほかに、二色刷りのリーフレットもある。ゲゲ郎はリーフレットを興味深そうに眺めている。
「弊社は瀬戸内航路がメインの会社でして、関西から九州の温泉地へ定期便を運航しております。今年度は銀行からの融資を受け観光用の新造艦二隻を就航させることになりました」
江里口が二つの船の写真を並べる。どちらも同じ流線型だが、船体のラインが朱色とオレンジで異なっている。
「今年四月に就航した陽春丸。こちらは今月就航したばかりの姉妹艦、錦秋丸です」
「どちらも美しい船ですね」
「鳴り物入りで新造されましたから。設備も最新のものを採用し、船内装飾も多数行なっています。関西から温泉地までの約十五時間の間、乗客の皆様には快適に過ごしていただけるよう作られています」
江里口が設備の写真をいくつか見せてくれた。船体後部のバーに映画設備、一等二等食堂は広々としてテーブルや椅子も豪華だ。三等客室は畳敷きの大部屋だが、蚕棚のように天井までベッドをぎっしり並べた古い船より遥かに快適そうだ。水木が乗った船は快適とはかけ離れていて、観光船の豪華さに驚くばかりだ。
「なんじゃ、この一等とか二等とかいうものは」
「あっ、こら」
ゲゲ郎が図面にある文字を指さした。水木が引き留めようとしたが、江里口が小さな声で説明してくれる。
「客室のグレードのことです。一等、二等、三等に分かれていて、運賃は等級が低いほど安くなります。高い運賃を払っていただいた方には見晴らしの良い部屋や、豪華なお食事、飲み放題のお酒やおつまみ、専用設備の利用ができるようになっています。逆に三等は食事や部屋は見劣りしますが、安価で乗船できます。新婚旅行や家族旅行、修学旅行や帰省など用途は異なりますから、お客様が目的にあった等級の代金を払って乗船頂くのです」
リーフレットにはそれぞれの等級の運賃が書かれている。一等は三等の五倍近くの値段だ。
「もしも、俺とおまえの家で四人分一等運賃を払ったら、会社員の初任給全額吹き飛ぶことになるぞ」
水木の言葉に、ゲゲ郎がぽかんと口を開けた。
「それは大層な額じゃな」
「その値段に見合うものを、我々は提供しなければなりませんね。瀬戸内の島々を眺める航路は外国のお客様にも人気なのです」
江里口が指さした一等客室の写真は障子に畳敷きにスペースや天女の描かれたレリーフがある部屋など日本らしさが満載だ。これならば大金を払う客を満足させることができるだろう。
「それで、この船に一体何の問題があるのですか?」
水木が本筋に切り込むと、江里口が一瞬言葉に詰まった。口を数回開閉して申し訳なさそうな声で話し始める。
「今月就航した錦秋丸で怪異が起こるのです。関西から九州に向かう下り航路の途中で必ず船員が体調不良になる」
「それが怪異によるものだと考えた理由は?」
「最初の一人は機関部の部員でした。機関室勤務を終えて休憩に入る途中でひどい疲労に襲われ立てなくなってしまったのです。陸で療養すれば三日ほどで回復するのですが、最初は歩くこともままならず粥をすするような有様で。同じ部屋で仕事をしていた部員たちは特に体調不良になることもない。その後は機関員だったり甲板員だったりと職種に関係なく、必ず一人体調を崩すのです。それも必ず同じ海域で」
江里口が瀬戸内の海の一か所を指さす。斎灘と書かれた海域は愛媛の松山の少し手前のところだ。
「航海の三分の二ほどを終えたところで必ず一人が虚弱症状を訴えます。勤務の有無、職種に関係がない。奇妙なことが起こるのは錦秋丸がその場所を通った時だとなると科学的な要素より怪異を疑ったわけです」
「なるほどのう。今は科学の時代じゃ、怪異など時代錯誤も甚だしいという輩も多いが、よう受け入れたのう」
ゲゲ郎の言葉に江里口は困った顔をした。
「人間は船によって大海を渡る術を得ました。同時にどれほど技術が発達しても、海を支配下におくことはできません。船乗りにとって超自然的なことは否定すべきではない。大切なのは安全な航海のための術です」
「自然現象であれ怪異であれ受け入れていく、ということじゃな?」
「どれほど頑強な船であっても転覆してしまえば海の藻屑です。ひっくり返そうとするのが高波か、海坊主か、はたまた衝突事故か。なんであっても避けるための努力をする。
……
僕も昔は船乗りでしたから海の脅威はよく分かっているつもりです。錦秋丸と斎灘には科学で説明がつかない何かがある。それならばその道の人を頼るしかありません」
「なるほど、人の強さじゃのう」
ゲゲ郎は満足そうな顔をして菓子鉢のシベリアを手に取った。水木はあっと声が出そうになるのをこらえて笑みを作る。
「
……
江里口さんもお一つどうでしょう」
水木はゲゲ郎に客より先に菓子に手を付けるなと何ども忠告したが、すっかり忘れているらしい。取り繕って江里口にも一つ勧めたが、彼は首を横に振った。
「海は狭間に近いゆえ、様々は場所と繋がるものじゃ。とある場所の境が曖昧になって変化が起こるのは珍しいことではない」
ゲゲ郎がシベリアを振って話し始める。
「狭間、ですか?」
江里口にゲゲ郎がシベリア横にして見せた。水木は茶菓子の買い出しをゲゲ郎に任せたことを少し後悔した。いつもは煎餅を買ってくるのに、たまたまシベリアが目に入ったらしく楽しそうに紙袋を持って帰ってきたのだ。来客にシベリアを出すのはためらわれたが何もないよりはましだ。
「あの世とこの世の間。どちらでもない場所。ほれ、このシベリアの境目は羊羹とスポンジの間じゃ。くっきり分かれておるじゃろ?」
ゲゲ郎がシベリアを指さす。シベリアの断面が白と黒ではっきりと分かれている。
「水木よ、浜辺において陸と海の境目はどこじゃ?」
「どこって
……
波打ち際か?」
寄せては返す波を思い出しながら水木が答えると、江里口が顎に手を当てて少し悩んでから言った。
「波打ち際は広い狭間なのではないでしょうか。潮汐によって波打ち際は変化し続けますから、海と陸の明確な境界はない
……
と思います」
「ほう、よう気が付いた。あの世とこの世はすっぱり分かれている訳ではない。互いの間、どちらでもない狭間がある。海は陸との間の波打ちは、どちらでもない持つ性質が多くのものを引き寄せる。あの世とこの世。妖怪もな」
「海辺の怪談話が多いのにも理由があるってことか」
「で、どうじゃ? 儂の話は分かりやすかったか?」
「はあ
……
御高説痛み入ります」
江里口の世辞にゲゲ郎がぱっと顔を輝かす。
「そうか、そうか!いやぁ、日々話術を磨いた甲斐があったのう」
ゲゲ郎はにこにこしながらシベリアに齧りつく。水木は無言で嬉しそうに揺れる男を眺めた。
ゲゲ郎が話術を磨きたいと言い出したのは最近のことだ。借家で生活しているゲゲ郎たちだが、水木も時々泊まることがある。そういう日は必ず鬼太郎が寝物語の語り部に水木を指名するのだ。養父が泊まりに来たのが嬉しくて、寝る前まで話していたいのだろう。しかし、毎回水木に負け続けるゲゲ郎が臍を曲げた。ゲゲ郎は鼻息荒く依頼人との面談に同席する。そして話術を磨くのだと宣言したのを水木は帳簿から顔を上げずに生返事をした。それが益々ゲゲ郎のわずかばかりの反骨精神を焚き付けたようだ。
水木が岩子に事情を聞けば、ゲゲ郎は話が長すぎて鬼太郎に敬遠されているようだ。手短に気軽に楽しめる話をしろと言っても頑なになったゲゲ郎は聞かない。
「水木計測さんが怪異調査を専門になさっていると聞いて藁にも縋る思いで来ました。新造船で怪異が起こると知れたらひどい醜聞になる。銀行から多額の融資を受けた以上、稼がねばならぬ矢先に困るのです。
……
乗組員たちも怯えながら働いて欲しくない。どうか力を貸していただけないでしょうか」
江里口が水木たちに深々と頭を下げた。
依頼人には様々な種類がある。怪異にすっかり怯えきった者、横柄な態度をとるもの、会社の業績ばかり気にする者。江里口は醜聞を気にしているが、それ以上に乗組員たちを気にかけているようだ。下げた頭は形ばかりのものではない。
「分かりました。我々にできる限りのことをしましょう」
「ありがとうございます」
江里口は胸をなでおろし、少し顔色を取り戻したようだ。ゲゲ郎はシベリアを平らげ勝手に茶をすすっている。
「それでは、調査の日程ですが」
水木は手帳を広げて来週の予定を確認する。
「来週の月曜日にでもお伺いするのはどうでしょう」
江里口は一口茶を飲んでから、頭を低くして言った。
「不躾を承知で申し上げます。できれば明後日からお願いできませんか。船は朝七時に大阪港を出ます。水木社長たちには前日入りして頂かないといけません。明日の宿泊先は弊社で確保しますから、明後日の便に乗船して怪異を調査して頂きたいのです。調査用に特二等室をご用意します。もちろんお代は頂きませんが
……
その」
しゃべるうちに江里口の頭が低くなっていく。もはやテーブルに頭を擦り付けんばかりの様子に水木は漏れそうなため息を堪えた。態度は控えめだが押しが強い。厄介な事情があると言っているようなものだ。
「調査の際、船のあちこちを見回ることでしょう。お手数ですが、一等ラウンジでも問題ないように身なりの方も整えて頂きたいのです。本当に申し訳ない」
「一等ラウンジ? なんじゃそれは?」
小首をかしげるゲゲ郎に水木が答えてやる。
「等級が高いと専用設備があると言っただろう。そういったところに入る時は服装の取り決めがあるんだ。少なくともお前の格好では入れないぞ。写真館に行くときみたいな服を着るんだ」
「面倒じゃのう
……
」
ゲゲ郎の言葉に江里口は小さくすみませんと答えた。水木は手帳を鉛筆で軽く叩いて江里口に問いかける。
「随分急ぎますが
……
何か理由が?」
「来月に銀行の頭取と地元名士を招いて錦秋丸で就航記念パーティーを行う予定です。造船資金を融資して頂いた人たちが来る前に怪異を解決したいというのが、上の意向でして。来客の前で不始末が起きてはいけないと張りつめているのです」
万が一にでも怪異によって銀行と名士の機嫌を損ね、融資の引き上げでもあったら経営に支障が出るだろう。
「何かあったら真っ先に首になるのは現場の人間だ。僕は船乗りを続けられなくなった落ちこぼれです。そんな僕に就職の世話をしてくれた人が錦秋丸に乗っているんです。どうか助けてください」
江里口が必死な理由は個人的な事情も絡んでいるのだ。水木はゲゲ郎に視線を投げた。
「
……
ゲゲ郎。明日から泊りの仕事でもいいか」
「構わぬよ。儂は会社のあれこれに疎いが、大切な人のことで困っているのじゃろ。それを無下にするつもりはない」
ゲゲ郎の言葉に江里口は張りつめた表情をわずかに緩めた。
「それでは明日の午後お伺いします」
水木の言葉に江里口が何度も頭を下げた。背筋をピンと張ったままお辞儀をする姿は見ほれるほどだ。かつて船乗りだった頃の習慣だろうか。
「ありがとうございます! どうか、どうか
……
よろしくお願いします」
その後予定の打ち合わせと契約事項の確認をすると、江里口は帰り支度を始めた。
「では、明日は駅に迎えに参ります。明後日の錦秋丸調査には僕も同行しますので、何かありましたら遠慮なく言ってください」
「分かりました。こちらこそよろしくお願いします」
江里口は何度も振り返っては頭を下げて帰って行った。
書類仕事を終わらせるとすぐに、水木とゲゲ郎はゲゲ郎の家に向かった。明後日使う服を早く出さねばならないし、岩子にも準備を伝えなければならない。
「今帰ったぞ」
ゲゲ郎が引き戸を開けると奥から軽やかな足音がする。
「とうさん、おとうさん、おかえりなさい!」
玄関の引き戸の音に気が付いた鬼太郎がぱっと笑顔を浮かべた。ゲゲ郎が抱っこしようと両手を広げたが、鬼太郎はぴたりと止まってお辞儀をする。最近は随分大人びて抱っこをせがむことも少なくなった。
「ただいま、鬼太郎。岩子さんは?」
「庭で洗濯ものを取りこんでます。きょうはかえりが早いですね」
「む
……
明日から急ぎの仕事が入ってのう。準備をするために帰ってきたんじゃ」
息子を抱きしめることが叶わなかったゲゲ郎が肩を落として下駄を脱ぐ。すると待っていましたとばかりに鬼太郎が下駄をそろえた。続いて水木が靴を脱ぐと、鬼太郎は玄関に置いてあるブラシを手に取る。
「おとうさんのくつ、お預かりします」
「別にいいって。そのまま置いといてくれれば」
鬼太郎は鼻息荒くブラシを構えている。口調も大人びて夏から敬語を使い始めたのには水木も驚いた。何でも一つ目小僧に尊敬する人には礼儀正しい言葉使いをするものだと言われ影響を受けたらしい。あれこれ手伝いしたがるのもその影響だ。
「いいえ、ぼくがやります!」
鬼太郎は水木の靴を手に取るとブラシをかけ始めた。やると決めた養子はかなり頑固だ。
「ほどほどで頼むよ、靴磨き屋さん」
水木は鬼太郎の肩を軽く叩いて家に上がった。
庭で布団を取り込んでいた岩子が二人の姿を見てほほ笑んだ。
「おかえりなさい、あなた。水木さんも、帰りが早いですね」
「ただいま、おまえ。実は今日の依頼人に頼まれて明日からの仕事が入ったんじゃ。どれ、代わろうかのう」
「ありがとう」
ゲゲ郎はサンダルをつっかけて岩子から布団を受け取る。そのまま流れるように他の布団も取り込んでいく。
「すみません、急なことで」
「構いませんよ。怪異がらみのことだと切迫する人は多いでしょうから。それで、何か必要なものがあるんでしょう?」
岩子の察しの良さには何度も助けられている。水木はちゃぶ台に万寿汽船の資料を広げた。
「まあ、素敵な観光船。関西と九州の定期便なんですね。温泉旅行に行くならぴったりだわ」
庭から戻った岩子が錦秋丸のリーフレットを手に取る。ゲゲ郎は布団を寝室にせっせと運んでいる。水木はゲゲ郎が何を言わずとも妻から仕事を引き継げるところを尊敬しているのだが、言う機会がない。
「錦秋丸という新造船で怪異が起こるらしいのです。下りの航路で同じ海域を通るたびに、必ず虚弱症状を起こす船員が出るのだとか」
水木はリーフレットに掲載されている航路図の一か所を指さした。
「明後日の大阪発の船に乗るために明日にはこちらを発たねばならないのです。今回の調査のために一等客向けの部屋に入れる服が必要で
……
ゲゲ郎が写真館で取った時の服がありましたよね」
足袋から羽織まで一式揃いで持っているはずだ。
「あの人の服ならすぐに出せますよ
……
水木さん、ちょっと寄ってくださいな」
ゲゲ郎は隣の部屋に布団と取り込んで敷布の準備をしている。岩子はくすりと笑って水木を手招きする。水木が顔を近づけるひそひそと喋る。
「鬼太郎が水木さんのお家に行っている時は良く着ていますから。デートの定番服にしているんです」
「そりゃ
……
良かったです」
思わぬ惚気を受けて水木は眉間を揉んだ。
「今日と明日の午前中干しておけば大丈夫でしょう。電車は午後の便ですか?」
「ええ、帰りに予約を済ませてきました。服は船に乗ってから着替えるので準備をお願いします」
岩子が頷くと、ブラシかけを終えた鬼太郎が戻っていた。ゲゲ郎が敷布に布団を入れているのを見て、隣に並んで手伝いを始める。
「分かりました。水木さんも上等なスーツを出すのでしょう。私がアイロンと手入れを」
「大丈夫です、慣れてますから!」
昔水木の家に居候していた頃から、岩子は家のことを済ませてしまう。
ゲゲ郎たちが別な家に引っ越した後も、晩のおかずをよく持たせてくれるし、会社の書類仕事も手伝ってくれる。さらに、水木がそろそろ掃除でもするかと思いながら出勤すると、夕方家の中が綺麗になっているし、アイロンを溜めていたワイシャツから皺が消えている。十中八九岩子の仕業なのだが、素知らぬ顔で通されて反論する術もない。
岩子は両手を合わせ、たった今思い付いたような顔をした。
「それじゃあ、夕食は食べにきてくださいな。明日の準備で忙しいでしょうから、それくらいはさせてくれないと」
必要ない、とつっぱねた後を想像して水木はおとなしく頷いた。
「ありがとうございます」
明日から家を空けている間に、布団が干され、タンスの衣服も全て虫干しされる未来が見えたが、水木は黙っておくことにした。
「いってらっしゃい!」
鬼太郎に見送られて、ゲゲ郎は手を振り返す。昨晩は水木も一緒の夕飯だったため機嫌がよいのだろう。岩子は鬼太郎の隣でゲゲ郎に目配せした。
「これから電車に乗って大阪まで行く。そこで江里口さんと合流だ。忘れ物はないよな」
「お主と出張に行くのはこれが初めてではないぞ。何より妻が確認してくれたのだから大丈夫に決まっておる」
「それもそうか」
「ほれ、荷物を持とう」
ゲゲ郎は水木から旅行用の鞄を取った。今回はそれぞれ衣装を持っているため荷物が多い。こういう時は自分が持ち歩くのが手っ取り早いのだ。
「別にいいって」
「何を言うておる。儂は電車の乗り継ぎが苦手じゃから、水木がちゃんと案内してくれぬと困るのじゃ。持ちつ持たれつ、というやつじゃ」
「
……
そういうことにしておくか」
ゲゲ郎の言葉に水木がわずかに口角を上げた。ゲゲ郎から見て、水木という男は真面目なのだ。閻魔大王と約束した霊脈の修復も、会社の経営も真正面から取り組んでいる。のんべんだらりと構えていればよいのに、あれこれ気を回し過ぎるのだ。それが、他でもないゲゲ郎や家族に注ぐ愛情だと気が付いているのかどうかは分からない。ただ、ゲゲ郎は水木の在り方を好ましいと思っているし、やめてくれとも思わない。
「しかし、船のというのは久しぶりに乗るのう。案内を見る限りでは大きな船じゃ。水木は船に乗ったことはあるか?」
「ああ
……
もう十年以上前になるかな」
水木は目をすがめ、自身の左耳を触った。
「行きも帰りも忘れられない船旅だった」
「船酔いでもしたか? もしや、お主酔いやすい質か?」
今回の調査では半日以上船に乗ることになる。ゲゲ郎は岩子が荷物の中に酔い止めを入れてくれたのを思い出した。天狗印の薬であれば船酔いを軽減できるはずだ。
「違うって
……
あの時は酷い旅だったからな。俺が最後に乗ったのは引き揚げ船だ。南方に行く時も船も敵に襲われないか怖かったが、内地に戻る船も楽しいもんじゃなかった」
ゲゲ郎は戦争のことをよく知らない。妻を探していて人の世に疎かったし、人間にあまり関心を向けていなかった。ただ日に日に重苦しくなる空気はなんとなく分かって、同族同士で空しいことをするのだな、と遠くから眺めていただけだ。
「水木
……
」
水木はゲゲ郎に積極的に戦争の話をすることはない。
鬼太郎が水木に顔の傷はどうしたのだと問うたことがあった。水木は鬼太郎を膝にのせて淡々と語った。傷を誇ることも嘆くこともせず、人と人が沢山傷付けあった時代があったのだと。鬼太郎が生きる先はそういうことが減って欲しいと願っているのだと伝えていた。
「そんな顔をするな。もう過ぎたことだから」
水木はゲゲ郎を見上げて困ったように笑った。水木は優しい男だ。だが、哭倉村で会った時は荒んであがいて、悪夢にうなされていた。戦争はこの優しい男も、誠実な人も、悪人も一緒くたに巻き込む嵐なのだ。
「今は大丈夫なんだ」
「お主の言う大丈夫はあてにならん。儂がしっかり見張ってやらんといかんの。ほれ、そっちの鞄もかせ」
ゲゲ郎は水木の調査用鞄にも手を伸ばす。
「こっちはダメだ。切符やら書類やら入っているんだから」
「儂はアテにならんと言うか」
「こと電車に関してお前は全くアテにならん。困ったことがあったらすぐに言うからそう拗ねるな。後で甘いものでも買ってやるから」
「拗ねておらん! 水木は儂のことを子供のように思っておるな」
ゲゲ郎が唇を尖らせると、水木は吹き出して笑い始めた。その声に嫌な感じも張り詰めた様子もない。心からの笑みにゲゲ郎は少しだけ安堵した。
「水木! 面白いものを買ったぞ!」
水木の前でゲゲ郎が子供のようにはしゃいでいる。昨日は子どもではないと言っていたが、少し離れた場所にいる小学生と同じくらいには浮かれているだろう。長身のゲゲ郎は人ごみの中で頭が浮島のように一つ飛び出ている。水木はため息をつかないよう堪えて、隣の江里口に愛想笑いをした。
「すみません、うちの調査員がはしゃいでしまって」
「いえ、楽しんで頂けたなら何よりです」
錦秋松が停泊している船着き場に人ごみができていた。見送り客たちは楽しそうで、船の乗客としきりに言葉を交わす。雑踏を泳ぐように紙テープ売り声を張り上げ、ゲゲ郎はふらふらと近寄ってテープを買っていた。
ゲゲ郎は目を輝かせ、水木に紙テープを見せてくる。
「黄色と水色を買ったぞ。このテープで陸と船で繋ぎ、船出の挨拶をするそうじゃ」
「買ったはいいが、陸の方はどうするんだ」
「そこの子供たちが引き受けてくれるそうじゃ」
ゲゲ郎が振り返った先に二人の小学生と父親らしき人がいる。船を見学にきたようで、父親から借りたカメラを首から下げてゲゲ郎に手を振った。水木が軽く頭を下げると、父親の方も同じく返す。
「色とりどりの紙テープを買い求めておるから、きっと華やかじゃぞ。楽しみじゃのう」
ゲゲ郎はふわふわした足取りで子供たちに近寄る。テープの先端を手渡して戻ってくる様子を水木はぼんやりと眺めていた。
「では参ろうか」
きりりと顔を引き締め、左右の手には紙テープ。水木は依頼人にゲゲ郎を有能な調査員だと紹介している。珍しくなった着流しで白髪の大男に祈祷師の類だと思われることが多いが、今回は大男が仕事そっちのけではしゃいでいるようにしか見えない。
「申し訳ない
……
立派な客船に乗るのは初めての男でして。調査は誠実に行いますからご安心ください」
営業用の笑みと口調を駆使しても取り繕えそうになかった。しかし、江里口は不安や心配をしている様子はない。
「水木計測さんの実績は存じてますから心配しておりません。それより船出を喜ぶ人を見る方が僕はずっと好きですよ」
「そう言って頂けると助かります。
……
ゲゲ郎、そろそろ船に乗るぞ」
「任せておけ。あの子供たちはたっぷり楽しめるようこのテープを切らぬよう尽力するぞ」
江里口はゲゲ郎と小学生を見てから言った。
「あの
……
乗船した後にテープを手渡せば千切れる心配がありませんよ。この船は船着き場と距離が近いですから簡単に手渡しできます」
「なるほど。そうした方がよさそうじゃ」
ゲゲ郎は小学生たちの元に戻って紙テープの手渡しについて話している。
「外洋船ですと甲板とふ頭の距離がありますから、船からテープを投げるようですが、このとおり小さな船ですからね」
江里口が振り返った先にある錦秋丸は煙突から薄墨色の煙を噴き上げている。
錦秋丸は全長約八十五メートル、五層構造の瀬戸内を航行する観光船である。最新のディーゼル主機を備え最大船速は十九ノット。従来船より二時間ほど早くなったそうだ。
「待たせたの。準備は整った。後は船に乗り込むだけじゃな」
ゲゲ郎が戻ってきて、水木たちは錦秋丸に乗り込んだ。ゲゲ郎はふ頭で父親に紙テープを手渡し、小学生たちが頬を染めて笑いあっている。微笑ましい光景に水木も思わず口元が緩んだ。
活気と明るい空気が満ちた船は、水木のざらついた過去を優しく包み込むようだ。
「いい船ですね」
「ええ、だからこそ怪異を取り除きたいのです。船旅を災いではなく幸いで満たしたい」
水木が漏らした本音に江里口が頷いて返す。互いの言葉に嘘はなく、水木は紙テープを持つゲゲ郎と小学生。それ以外にも別れを惜しみテープを握り合う人々を眺める。
「ほれ、水木。お前にも一つやろう」
ゲゲ郎が水色のテープを差し出した。水木は苦笑いと共に受け取って小学生たちに軽く手を振る。
出航する船がふ頭を離れ、徐々にテープが伸びていく。極彩色のテープが幾筋のたなびき、船が進むに従って、ふつりふつりと切れていく。海の青を背景に解けて行く色は美しく、眺めていると気持ちが上向いてくる。江里口の言う通り、錦秋丸に災いは必要ない。水木は怪異を解決する決意を新たに、飛び跳ねる小学生たちに手を振った。
錦秋丸は船尾から白波を二本引いていた。朝一番に出向し南中を目指す午前の日を受けて輝く海面と、反射した光に輝く大小様々な島の間を快走する。
水木はゲゲ郎と一緒に二等客室内で着替えをした。ベストを着込み、普段より上等なジャケットを羽織る。整髪料で髪を上げあえて額を晒した。羽織を着たゲゲ郎が不満そうな声を上げた。
「窮屈じゃあ」
ゲゲ郎が足をもぞもぞと動かしている。下駄を履く足には真っ白な足袋。今日の為にと岩子が用意してくれた新品だ。慣れた着流し一枚ではなく、きちんと長襦袢から羽織まで一式着込んでいる。ちゃんとした格好をしろと水木が口を酸っぱくして言った成果だ。
「我慢しろ。これから船内を回って調査なんだから、部屋を出る前から泣き言をもらすな。大体お前、岩子さんとデートの時はその恰好をしているんだろう」
「妻と出かける時は別じゃあ。妻が喜ぶ顔が嬉しいからめかしこむ気概がわく」
「その気概を仕事でも発揮してくれよ。それにさっきまで紙テープ切って大喜びしていたくせに仕事を怠けるのは関心しない」
「むう
……
」
水木はカフスボタンを留めて外を見た。内海の浮かぶ島々が前から後ろへと流れていく。新造船は晴れ渡る秋空の下を快走し、優美な曲線で築かれた船体に波を受けている。デッキに出て景色を眺める人々は朗らかに談笑をし、若い男女はぴたりと寄り添って海を見ていた。
「みな楽しそうじゃのう」
「それにきっちりめかし込んでいるだろ? 新婚旅行とか記念旅行とかそういう特別な旅をする人がほとんどだ。あとは金持ちの道楽だが
……
まあ、そっちはいい」
高速観光船に乗る機会はこれが最初で最後の人も多いはずだ。ワンピースの女性はスーツの男性と腕を組んで一等ラウンジの方に向かっていく。水木は時計を確認してから調査鞄を肩にかけた。
「よし、行くぞ。江里口さんと合流して上から順番に回ってみよう。さっき言ったことは覚えているか? 一つ目は」
「
……
ふらふらしない」
「二つ目」
「勝手に話しかけない」
「三つ目」
「
……
」
ゲゲ郎が腕を組んで目をつむる。
「なるべく黙っている、だ。乗船前に散々はしゃいだだろう。お前は立っているだけ目立つんだから静かにしててくれよ」
水木はゲゲ郎を全身隈なく見渡した。服装は周囲から浮かないように着込ませたが、白髪の大男はどうしても目立つ。出向の紙テープ切りの時にゲゲ郎に目を向ける乗客は一人や二人ではなかった。
「儂のことをあれこれ言うが、水木はヤクザか成金のような恰好ではないか。額を出して狒々みたいじゃ」
ゲゲ郎が自身の前髪を上げて言った。
「誰がヤクザだ! 成金趣味に見えるのはワザとだよ! 金を持ってそうに見えるのが大事なんだ。いいか
……
髪を上げるのも、ベストを着込むのも軽く見られないための手段なんだ。情報を集めるのになめられて何も聞けなかったら終わりだ」
「その考え方がヤクザじゃあ。おお怖い」
「っ
……
!」
言いたいことは山ほどあったが、反論してはヤクザのようだ。水木は深く息を吐きだして意識を切り替える。
「これはきちんと情報を集めるための作戦だ。窮屈だからと足袋を脱ぐなよ。羽織もだめだ」
「むう
……
」
「ほら、返事!」
「承知
……
」
不服と唇を尖らせてゲゲ郎が頷いた。
錦秋丸の怪異を特定するため、水木たちは江里口と船の中をくまなく見回ることにした。
「最上層から下に降りるルートにしましょう。一番上は展望デッキと操舵室に士官室。二層は一等客室特二等それに付随する娯楽施設です。三層は二等客室やエントランス、四層が三等客室、五層は機関室と船員室などです」
観光船は上の層から徐々に等級が下がっていく。景色の良い場所上客向けで、畳敷きの三等客室は喫水線に近い下層になる。
「船員が体調不良になった場所はバラバラなんですね」
水木がバインダーに挟んだ船体図には体調不良者が出た場所に印がつけてある。最上層の展望デッキから、最下層の機関室まであらゆる場所に印が付いている。
「船の乗組員は職員と部員に分かれており、体調不良になったのは部員がほとんどです」
「
……
確かに、職員が使うことが多い士官室と操舵室で体調を崩された人はいませんね」
最上層の展望デッキで勤務中だった甲板部員が一名倒れているが、それ以外は問題ない。
「怪異が起こりやすい場所があるのか、一通り確認してみましょう。ゲゲ郎、頼むぜ」
「分かっておる。では展望デッキから探ってみようか。怪異が起こる斎灘に近づけば気配も濃くなるじゃろう」
「よろしくお願いします」
江里口は背筋をぴしりと伸ばして見本のようなお辞儀をした。他人から見れば上客が万寿汽船の社員を供に付けているように見えるだろう。錦秋丸で怪異が起こることは人に知られない方がよいのだから、水木たちが船内設備を案内される客に見えるのは都合がよい。
「こちらこそ、よろしく」
エンジンの音によって話し声はあまり遠くまで聞こえない。水木は片手をひょいと上げて、鷹揚に返した。
最上層の展望デッキから下へ降りるルートを辿る。江里口が先導し水木たちは錦秋丸の中を調査していく。
「どうだ、ゲゲ郎何か見つけたか?」
水木の問いかけにゲゲ郎が首を横に振る。
「特に何もないのう
……
」
「人が倒れた場所も異変はありませんか? もしくは何かの形跡が残っているとか」
ゲゲ郎は腕を組んで唸る。
「病人が出たという展望デッキを見たが、妖気が濃いわけでもない。船に何かが憑いている気配はあるが、船内のどことは言えん」
江里口が一等ラウンジのドアを開けた。円形のテーブルには黄色のテーブルクロスが掛けられており、座り心地のよさそうなソファが並んでいる。仕立ての良いスーツを着た紳士が紫煙を燻らせながら海を眺めている。この部屋の中を何もせず歩き回るのは変だろう。水木はポケットから煙草を取り出し、ゲゲ郎にも一本渡した。すかさず江里口がマッチを擦って二人の煙草に火を付けてくれる。
「この部屋は特に何もなかったですよね」
水木はバインダーに挟んだ船内図を確認する。倒れたのはすべて乗組員のため、客の利用が多い場所では怪異の出現が少ない。
「どうでしょうか
……
?」
江里口か小声で問うてくる。ゲゲ郎は煙草を一口飲むと、ふうと煙を吐き出した。
「分からんなあ
……
」
どうにも煮え切らない態度だ。水木は煙草を吸いながら船内図を睨む。
「煙というのは火元から遠くなるほど薄くなっていく。妖気の類も存在が近ければ近いほど強くなるのは常道。しかし、この船に纏わりつく気配は違う」
ゲゲ郎がテーブルクロスを指さした。
「そこの布のように濃淡がなく均一に包み込むような気配じゃ。強くはなっておるが、すべて等しく濃くなっていく。だからどこに行っても、分からんと言う他ない。こうなると事が起こるまで待つしかなくなるぞ」
「そんな
……
」
ゲゲ郎の言葉に江里口は俯く。
「江里口さん、まだ打つ手なしと決まった訳じゃありません。気配は探れなくても怪異を目撃した人に聞き込みはできるでしょう」
水木は江里口の肩を優しく叩いた。
「依頼人を落ち込ませてどうする」
水木が咎める視線を向けると、ゲゲ郎が唇を尖らせる。
「変な希望を持たせるよりマシじゃろ。何も分かっておらんのに分かった振りをする方が問題じゃ」
「それはそうだけど、言い方ってもんが」
「いいえ、ゲゲ郎さんの言う通りです。事実から目を背けても解決の糸口にはなりませんから。引き続き調査をお願いします。僕もできる限りのことをさせて貰います」
水木は最後の煙を味わうと灰皿に煙草を押し付ける。灰皿は高級そうな金属製で、縁起物の鶴と亀が向き合う装飾が施されている。錦秋丸の装飾はいたるところに和風の図案が採用されており、特別室には月見障子のある小さな畳敷きにスペースまで用意されている。
一等ラウンジも調度品は洋風に見えるが意匠は日本的なものを用いられているところが多い。水木がちらりと見たソファで寛ぐスーツの男たちは金髪の外国客だ。船を歩き回っていると乗船客に外国人が多く、瀬戸内の風光明媚な様は外貨獲得に一役買っているようだ。
「すごいな
……
」
バーカウンターの奥に並ぶ酒瓶に水木は声を上げた。舶来のウイスキーやワインから、高級な日本酒までずらりと並んでおり、二人のバーテンダーが会釈をしてくる。
「仕事中じゃぞ」
「飲まねえよ」
横からぼそりと呟くゲゲ郎を肘で小突く。魅力的な場所だが職務を忘れることはない。
「こちらでは勤務中のバーテンダーが一人体調不良になっていますね。その後回復され、今も乗船勤務中と聞きましたが」
「それが彼です。あちらの背の高い方の
……
佐々木さん、ちょっといいかな」
江里口が佐々木を手招きした。いつでも飲めると言え、午前中から酒を求める人間は少ない。
「お呼びでしょうか?」
「僕は水木計測の水木、と申します。勤務中ですがお話を聞いても構いませんか?」
佐々木は江里口といる水木たちを見て得心がいったようだ。
「勿論です。船長から特別なお客様が乗っているという話は聞いていますから」
「恐縮です。倒れた時のことを教えて頂けませんか」
「船員はみな四時間ごとのシフト勤務を行なっています。私は二回目のシフトでバーカウンターからお客様にカクテルの提供をしていました。前日の体調は問題なく、出向時も特に違和感などはありませんでした」
佐々木は自身の顎を指で触った。
「あの時は氷の補充をしようと思ってカウンターの中にしゃがんでいました。こう
……
首裏のところと言えばよいのでしょうか。そこに何かをひっかけられたような感じがして」
佐々木がワイシャツの襟首を触る。
「ぐっと後ろに引っ張られたような感じでした。そうしたら体中の力が抜けて立ち上がることも出来なくなりました。カウンターの中ですぐに同僚が医務室に運んでくれたのですが、体中を酷い虚脱感が襲いました。首裏を引っ張られた瞬間、体の中の生気をほとんど持っていかれたようで
……
結局五日間も入院することになってしまい」
「それは大変だったでしょう。お加減はもう良いんですか」
「最初は吸い飲みから水を飲むのも一苦労でしたが、時間が経てば回復しました。今はすっかり元通り
……
と言いたいところですが、首裏に何かひっかけられた感触が時々思い出されます」
佐々木が眉を下げて笑う。江里口は唇を引き結び冷たい海水に耐えるよう眉を寄せていた。水木は軽くメモを取って佐々木に礼を言う。
「よろしければ何かお作りしましょうか」
「いえ
……
仕事中ですので」
もしも早く解決したらその時は祝杯をあげさせて貰いたい。水木は魅力的な酒瓶たちから目を逸らしてバインダーを持ち直した。
水木はテーブルのメモと船内図を何度も見比べながらため息をついた。最上層から最下層まで一通り船内に足を運んだが、怪異の気配を探ることはできなかった。船全体を風呂敷のように包み込む何かについてさっぱり見当がつかない。午前の調査はそこまでで一度切り上げた。
高等食堂で出てきた昼食は値段に見合うだけの豪華なものだった。滅多に食べられない高級な食材がぽんぽん出てきたのを、ゲゲ郎と一緒にありがたく平らげた。その後は乗組員たちに聞き込みをして、特二等客室に戻って整理しているが、証言はみな似たようなものだ。
「首裏を引っ張られるような感じがして気力が抜ける。見ていた人間は特に怪しい気配はしなかったと
……
人の生気を抜く妖怪か?」
水木の問いかけにゲゲ郎が首を振る。
「その手を妖怪は多いが、船に隠れていたらさすがに儂も気が付く」
「だよなあ
……
海上じゃ逃げ場がないんだし、その線は薄いか。じゃあ、海に住んでいる妖怪となると」
「船幽霊、海坊主、海座頭、赤えい、磯撫で、不知火
……
数えだしたらきりがないぞ。どの妖怪か考えようにも決め手がない」
「八方ふさがりだな」
水木は鉛筆で紙を叩く。腕時計で時刻を確認すると午後三時を過ぎていた。
「
……
問題の海域近づいてきたな。もう一度船内を見回ってみよう。今度は下層から上層に向かって歩いてみるか」
水木は立ち上がり、一度うんと伸びをした。波は変わらず穏やかな様子で、秋の日が西へと傾いていく。この船が目的地に着くときまでには謎を明らかにしたい。水木はネクタイを整えるとドアノブに手をかけた。
機関室と部員室、貨物室がある最下層から三等客室や調理室がある第四層へ。三層にあるロビー両脇には緩いカーブを描く大階段が二つ据えられており、日光菩薩と月光菩薩のレリーフが飾られている。
「どうでしょうか
……
」
変わらず同行してくれる江里口がゲゲ郎に問いかけた。羽織の中に腕をひっこめたゲゲ郎が遊歩甲板の方に顔を向ける。
「船内は相変わらずと言ったところじゃが、外の気配が濃くなってきた」
ゲゲ郎が後部遊歩甲板に足を向け、水木と江里口が付いていく。
船の後方はスクリューが生み出す水流と飛沫が線を描き、徐々に長くなってきた影が海上に伸びている。
「ゲゲ郎」
水木の呼びかけをゲゲ郎が手で制する。
「水木よ、少し待ってくれんか」
「分かった。終わったら話してくれ」
じっと海面を見つめて何かを確かめているようだ。
「気配を感じるなんて、すごいですね。霊媒の技術ですか」
「怪異はあいつは専門ですが、僕は疎くて。どういった原理なのかは知りませんが、腕は確かですよ」
ゲゲ郎が甲板のあちこちを歩き回る。ふと足を止めたは海を眺め、また歩き出しては止まる。これはしばらくかかりそうだと思い、水木は江里口に話を向けた。
「江里口さんは船乗りだったんですよね」
江里口が曖昧な笑みを浮かべる。相変わらず背筋を伸ばして、どこでもぴんとしている。
「僕は十五で徴用されて貨物船の船員になったんです。外海に出れば連合軍の潜水艦に追われて攻撃され、内海に戻れば機雷に怯えていた。乗っていた船が何度沈没させられたことか。何度も沈没させられて、生き残れば次の船に乗せられて同じことの繰り返し。あの頃の船乗りはそういう人生を強いられていました」
戦争は日本で生きる多くの人の生活に薄暗い影を落とした。内地だろうと戦場であろうと、海上であろうと困難と情け容赦のない暴力が降り注いだのだ。
「終戦後の引揚船までは勤務しましたが、すっかり船に辟易しました。水木さんは戦地に?」
水木も江里口と同じ曖昧な笑みを返した。
「兵隊に取られて南方に。顔の傷もその時のものです。引揚船が来たときは地獄に仏だとはこのことだと思いましたよ。知らぬうちに江里口さんにお世話になっていたかもしれません」
「誰かの助けになったのなら良いのですが
……
南方から引き揚げてくる人たちもご苦労されていたようでしたから」
水木も引揚船に乗り込んだ時のことはよく覚えている。じくじくと痛む傷を抱えて、どうにか乗り込んだ船には疲れ切った顔の兵隊たちが山ほど乗っていた。重症患者のうめき声は昼夜耐えることがなく、待ち望んだ故郷に帰ることを夢に見て息を引き取る戦友も少なくなかった。水木も軽症とは言えず、蚕棚のベッドに寝転んで高熱にうなされながら波音を聞いていた。
「
……
実を言うと船旅に良い思い出がないものですから、この仕事は少し憂鬱だったんです。しかし、錦秋丸に乗っているお客さんたちは本当に楽しそうで良かった」
水木の言葉に江里口が小さく頷いた。二人の横を学生服の四人組が通っていく。きゃらきゃら笑う子供の声は心地よいものだ。
「ようやく、船が運ぶべきものを運べるようになりました」
カラコロと下駄の音を響かせゲゲ郎が戻っていた。
「水木よ、一通り確かめてきたぞ」
「それで、どんな具合だ?」
ゲゲ郎が白波を引く海面を指さした。
「段々とあの世とこの世の境界が曖昧になって、狭間の空間が大きく広がっておる。大きな裂け目が海中にあるようじゃ」
「それは虚弱症状と関係があるのか?」
水木が問うとゲゲ郎がじっと海を見つめながら答えた。
「この船で起こる怪異は広大な狭間と関係があるのかもしれぬ。あの世に近づく何かが船に据えられておるかもしれん」
「この船の調度品には古い品も多くあります。江戸時代の絵画や書、香炉などが飾られていますから」
江里口から有益な情報を得た水木は俄然やる気が出てきた。
「そういった類のものはどちらに飾られていますか」
「高等食堂にラウンジ、あとは特別室などですね」
「では上層に向かった方がよさそうだ。ゲゲ郎、頼めるか」
「任せておけ」
水木は見取り図をめくって近場を確認する。ここからだったら高等食堂が近いな。そこから上に登って行こう」
一縷の光明がまた消えようとしている。ゲゲ郎は最上層の展望デッキで水木の横に立っていた。柵を握ったっ水木は海を睨みつけている。日か傾いて風が強くなってきたためか、展望デッキは水木たちの他に乗客はいない。
「収穫はなし、か」
水木の声が硬い。調度品が飾られている場所は一通り回ったが、特に成果はなかった。ゲゲ郎が見たところ付喪神のなりかけの花瓶が一つあっただけだ。となると仮説が間違っていたのか、まだ調べていない何かがあることになる。
「もうすぐ体調不良者が出る海域です
……
すみません、力になることができず」
「江里口さんが謝罪するようなことではありませんよ」
頭を下げる江里口を水木が励ます。
「水木、一本くれんか。少し考え事がしたい」
「ん、ああ。俺も一度頭を冷やすか
……
」
水木がゲゲ郎に煙草の箱を向けた。一本抜き出すと、水木がマッチを擦って火を付けてくれる。煙草飲みの勘で、マッチの火をうまく風から守っているうちに火が付いた。
「水木さん、少し良いですか」
江里口に呼ばれ水木がそちらに向かう。ゲゲ郎は煙を吸いながらさざ波に耳を傾ける。この船に纏わりつく何かの気配は狭間の広がりとともに強くなっている。錦秋丸と怪異は互いを呼び合っているはずだ。それに間違いはない。しかし、そこから先は真っ暗闇を手探りで進むようなものだ。取っ掛かりになるものが見つからず考えあぐねる。
「さて、どうしたものかのう」
ゲゲ郎が吐き出した煙が船尾の方へと流れていく。振り返って水木を確認すると片手に煙草を持ったまま、江里口が差し出した船内図を見て何か話している。
「水木、」
この場所では寒いだろうと呼びかけた。話なら船内ですればよいし、薄暗い中で図面を見るのは大変だろう。ゲゲ郎が羽織を翻し、一歩近寄る。水木が顔を上げ、こちらの名前を呼ぼうと口を開いた瞬間。
「水木?」
水木の体が不自然に後ろに傾いた。まるで、襟首を誰かに掴まれて引っ張られているような
——
体調を崩した船員たちと同じ現象が彼を襲う。
その瞬間、暗闇で見えなかった怪異の姿がはっきりと視えた。
「え?」
水木が声を上げたが、自分に起こった現象に対処できていない。
「いかんっ!」
高い音を立てて下駄で地面を蹴り、ゲゲ郎は水木に手を伸ばした。水木は驚いて目を見開き、隣にいた江里口はとっさの出来事の反応できず固まっている。
「水木っ!」
ゲゲ郎は水木の手を掴もうとしたが、水木の体が後ろに引きずられる速度の方が早かった。空振った手の向こうで水木の体が柵の外ではなく、何もない空中へ消えていく。
「っ
……
! 間に合わんかったか」
水木の体が消えうせ、わずかに残った煙草の煙も風に流れていく。江里口はひゅっと息を飲んでよろけ、柵に捕まる。
「み、水木さん
……
?」
呼びかけに応える声はない。ゲゲ郎は水木が消えた場所に目を向け、江里口を見て奥歯を噛みしめた。事前に聞かされた怪異の内容と、船ということに囚われるあまりそれ以外の可能性を考えていなかった。
「人が
……
」
階段の方から声が聞こえ、ゲゲ郎はそちらに意識を向ける。工具を持った一人の青年と、水木に年の近そうな恰幅の良い男が目を見開いている。
「人が、消えた
……
!」
青年の声に潮騒が重なり、波が打ち消していく。
錦秋丸が目的地に着くまで残り四時間を切っていた。
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