三角リョヲヘイ
2024-12-07 20:00:00
32990文字
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月に鎮め/本編小説、第四話

火付け事件の話

妬けちゃう話。そして覆せない話。
長い一日の締めくくりには、ひと舐めの美酒を。

第四話
火付け事件の話


羅乃目らのめ……紅族。第十九代統領
黒骸くろむくろ……紅族。羅乃目の許婚
羅神らじん……羅乃目に憑いている黒い狼の憑守つきかみ
雨庸うよう……黒骸に憑いている白い大蛇の憑守
鎌苅トキ時かまかりときじ……憑守が見える、食事処伊呂波しょくじどころいろは二代目店主
天河良あまかわりょう……通称「死神」。伊呂波のケツ持ちをしている彫り師
朔介さくすけ……按摩師の老人
朔太郎さくたろう……朔介の相棒を務める犬




 そういえば。
 「そういえば」、接続詞のひとつ。
 文と文を繋ぐ役割を持ちながら、前述された話題とは異なる内容を述べる際に使う。
 忘れていたわけではないけれど、今ふと思い出した事柄を述べる際にも使われる。
 そういえば、大きな建築物を建てようとするならばまずはそれよりも大きく屈強な足場を組む必要があるのはご存知だろうか。更地に堅牢な土台を築き、その上に足場を組んでいく。だが足場を組んだだけでは当然建築物は完成しない。足場の完成などほんの序章に過ぎない。そこからが途方もない作業の開始なのだ。
 何が言いたいのかというと、ものを作り上げる時はそれ相応の手順を踏み、時間と手間と労力をかける必要があるということである。
 簡単に成せるものなど、何ひとつ無い。


     *

 
「そういえば、どうして東町は街道沿いの宿場町みたいに旅籠がたくさん並んでる場所があるんでやんすか?」
「それは俺も気になっていました。町に点在しているものとは別に、大通りの端から端まで旅籠の場所がありましたよね。日雇い労働者向けの仮宿という雰囲気でもなかったですし」
 陽が傾きかけた頃の食事処伊呂波は、ひとときの休息に入っていた。買い出し、仕込み、帳簿の記入、羅乃目と黒骸に至っては便利屋として東町まで掃除の手伝いをして帰ってきたところだ。夜からの営業開始に合わせて英気を養っている時間とでも表現できるだろう。たすき掛けに揃いの前掛けを身につけ、今はゆったりとした姿勢で客席を占領している。
「あーそれはどこから説明したらいいか……
 羅乃目と黒骸の質問に答えるべく、トキ時は顎に手を当てて目を閉じる。トキ時先生の考える時の姿勢だ。
「えっと、太都って南と東にしか入り口がないだろ? あれって実は計算された政策らしくてな。北側は確かに山が険しすぎるから例外ではあるんだが。えーと。太都っていわばこの国の観光地なんだよ。漁倉幕府のお膝元、この国の東側で最も栄えた都会。職を求めてくる奴と同じくらい、一度は太都に遊びに行ってみたい! って奴らがいる。ここまでは伝わってるか?」
「うん」
 太都は四方を険しい山に囲まれた盆地であり、その中を東西南北の名を冠する町で構成されている。
 南町は漁倉政権の城を有する城下町であり高級住宅街。一流の身分の者が住み、一流を提供する店が並ぶ。太都の外から来た者への誘致の為に観光者向けになっている地区もある。
 東町はいわゆる一般層が生活する町。太都内で最も広く面積をとっており、山の裾野へ向かうほど畑なども広がっている。太都の人口の六割以上が東町に居を構えている。実は町の外れに「松ノ区」と呼ばれる貧民街がある。貧民街ではあるが、南町の金持ちたちの間でここへの支援が社会的地位向上を競い合う項目のひとつとされており、施されて生かされているという事実を受け入れられれば、安定した悪くない生活ができる。
 西町は言わずもがな。お上公認遊郭のお堀をぐるりと囲むように形成された町には、岡場所、小間物屋、古着屋、賭場、茶屋飯屋などなど法的にかなり薄暗い影を背負った、はたけば埃だらけの店がひしめき合う。町を上空から捉えた姿をなぞらえて、中心地の遊郭は「蜜」、お堀の外を「花びら」と呼ぶ。西町だけは東町と北町に囲まれている為に山に面していない。治安はかなり悪い。
 最後に北町。太都にして太都にあらず。表で生きられない訳ありや犯罪者、頭のいかれた隣人またその予備軍が、常に食うか食われるかの生活している。人呼んで「蠱毒」。お上や奉行所連中も手を出せない治外法権地域で治安は最低最悪。道端には当然の如く死体が転がっている。
「職を探して太都に来たなら手形は身分証としても必要不可欠だし、観光用の期限付きの手形を取得するのは簡単だからな。そういう奴らは危険を冒す理由がないから必然的に南か東から入ってくることになる」
「観光手形を取得する手がありましたか……
「期限切れたら無効だから結果としては今と同じ状況になるだろうけどな。観光手形じゃあ本来就労できないから、なんにせよ真っ当な職にはありつけないさ。今と変わらない」
 トキ時自身がさらりと現状が真っ当ではないと言い切っている。飯屋の手伝いはヤクザ仕事であろうか。便利屋はなかなか灰色な雰囲気はあるが。
「そういう奴らがさ、なんだかんだで結局は来たいんだよ西町に。西町は観光地の中の観光地なんだ、治安は少々気がかりだけど、本気で遊びたい奴も怖いもの見たさと興味本位の奴も、太都に来たなら話題に上がるのはここ! それに流行を作るのは遊女だからな、真っ当な商いをしている店をちゃんと選んでぼったくりに注意すれば最先端の流行を取り入れた買い物にも完全対応! 老若男女全ての客層を抱き込める。でも南や東から入るとな、遠いんだこれが。一般的な大人の足でぶっ通しで歩いても一日が終わっちまう。南と西を結ぶ専用の早駕籠があるくらいだ」
「もしかして、太都内の移動に中一日宿泊させようってことですか?」
「大当たり! 通り道にも金を落としていってもらおうって魂胆だ。だからふたりが言ってる旅籠だらけの大通りは『西町通り』って呼ばれてる。面白いよな。西町にもそんな通りはないってのに」
「待ってください。あの、じゃあ俺たちが訳ありだってことは、あの夜『さっき太都に着いた』って言った時に気が付いてたんですか?」
「ああ、まあな。さっき太都に着いて最初に伊呂波に来るのは正規の玄関口からは無理だからな。北町側から入って来たってことはすぐにわかったよ。それなりの難易度だったろ? 険しい山ももちろん難所だけど、それだけが北側からの侵入成功率を下げてる要因じゃない、数少ない下山成功者の大半が北町の荒くれ者の前に散っていくんだ」
「確かになんかあったでやんす。片手でぽーんてしちゃったから、あれを襲われたに数えていいのかわかんないけど」
「そ、それはふたりが強いから! 北町はな、蠱毒って呼ばれてるんだ。『すれ違えば喧嘩が始まり、目が合えば殺し合いが始まる。用があっても行ってはならない』って。三歳児でも知ってる合言葉なんだからな」
「険しい山が天然の要塞代わりかと思っていましたが、北町の存在自体が太都の門番のような役割を担っていたんですね」
「まあ当初は山だけが要塞のつもりだったんだろうけどな。結果として北町は門番としてある意味で主要戦力になっちまってるけど後付けみたいなもんだろ。あそこはお上も手出しできない場所になっちまったから防衛に利用するのは不本意だろうしな。何故か知らんが勝手に対処してくれている、に近い」
「ちょっと頭よくなったでやんす」
「ちなみに西町側からの帰り道用に、ずーっと東町側に行った場所にも似たような通りがあるぞ。南に抜けるならもう一踏ん張りして南町に入った方が宿の質もいいんだけどな。予算次第ではそっちの方がいい」
「しっかりしてますね」
 こうして少しだけ得意げな表情でトキ時先生の授業は生徒に実りを残して終了した。蠱毒と呼ばれ変な合言葉があるくらいに危ない北町は目と鼻の先、という立地の食事処伊呂波は、営業開始までまだ時間がある。
 雨庸が大きな口をさらに大きくしてあくびをした。憑守にあくびという機能が必要かどうかは分かりかねる。それを視界の隅に捉えていたトキ時にもあくびが移った。今でも雨庸に巻き付かれると半べそかいて大騒ぎだが、同じ空間にいること自体には慣れてきた様子である。見た目と声の大きさこそ威圧的で脅威に感じるものの、トキ時にとっては実体がないので危害を加えられる危険性は皆無だ、零以下なのだ。
「ああそういえば、羅乃目は本当は何歳なんだ?」
 トキ時はぼんやりした頭に酸素を取り込みながら先日の羅乃目お熱事件を思い出していた。
「本当は? わっち十七でやんすけど」
「ほんとかあ〜?」
 質問の意図が全く掴めていない羅乃目は、まん丸な目で頭に疑問符を浮かべている。嘘なんかついてないのに? という顔で羅神を覗き込んだ。
「説明していなかったな。紅族は人間より少々長命だ。いわゆる年齢の数え方は同じだが、人間と同じ成熟速度ではない。特に十代はそれが顕著ということだ」
「人間でいうと何歳、っていう言い方になるのか?」
「そう捉えて問題ない。まあ若年の紅族に限った話だがな。羅乃目は十から十二歳程度といったところか」
「っくぅ〜そういうことか!」先日のあれやこれに一本筋が通って合点がいったトキ時は、額に手のひらをぱちんと当てる。「羅乃目は次に熱出したら子ども用の薬を用意しような」
「?」
 肉体的な成熟速度が人間より遅いとはいえ、仮にも十代も終わりに差し掛かっている年頃の娘としては、やや幼すぎる印象もある。
「ねえもうわっち十七歳の大人でやんすけど?」

 
 その晩、良は伊呂波の営業中に現れた。北町の死神様が突然お見えになれば、ぎゅうぎゅうの店内も一瞬しんとなる。しかし一部の常連にとっては慣れたものだ、触らぬ神に祟りなしとでも言うように特に何事もなかった体ですぐに元の盛り上がりを見せる。
 死神様も別に店の雰囲気を壊しに来ている訳ではない。俺は頻繁に店へ顔を出していますよという周囲への宣伝を兼ねて、みかじめ料代わりの飯をたかりにきているのだ。大抵の場合は客席が埋まっている為、調理場の内側にいるトキ時の横に適当に突っ立って飯を食っていたり、奥の土間へ予備の椅子を引き摺って来てそこで食ったり、たまに二階の居住空間に勝手に上がり込んで食ったりしている。好きな時間に来て勝手に帰る。死神様は大変自由なのだ。トキ時も良がどこで飯を食おうが特段気にしていないし変に声もかけない。伊呂波の営業中に限っては店内で放し飼いにされている大きな犬のようにも見える。
 そんな死神様、今宵は二階を占拠していた。営業が終わるまで待っていたのだろう、頃合いを見計らってのそのそと降りてきた。ここだけ切り取るとまるでヒモの男だ。正直彼にはヒモの才能もあればそれで生活を賄うことも十二分に可能な大人の交友関係をたくさん持っている。本人にその気がないだけで。なにより彫り師であることに誇りを持っている、稼ぎも十分。
「なあトキ時これ知ってる? 南町の火事。しかも火付けの仕業っぽい」
 良は瓦版をぴらりと指で摘んで、トキ時の眼前でひらつかせている。
「ああ、なんか今日お客が言ってたな。でも南で火事があったってだけで火付けなのは知らなかった」瓦版を良の指から引き抜いて目を通す。「今日の真昼間か。随分と目立つ時間帯だことで」
 日付が変わっているので正確に言うと昨日の昼間にあたる。しかし眠るまでは今日という感覚はある程度誰しもが持ち合わせていそうな感覚だ、良も訂正するつもりはなさそうである。
「南の火消しは五年前の大火で相当鍛えられてっから、あれよあれよと言う間に鎮火されたみたい」
「これでまた大火なんて言ったら南の火消しは面目丸潰れだろうからな、いいことじゃないか。と言うかお前、南町に行ってたのか?」
 太都は広い、南町の事件を扱う瓦版はよほどの大事でない限り他の町で手に入れる機会がない。
「まっさか。五年前の大火の再現か?! っつって、この火付けは太都中の瓦版を賑わせてんの。なんと北町の奴らまで知ってる。今一番熱い話題」
「確か、当時の犯人は捕まっていないんでしたっけ」
 黒骸が話題に入ってきた。太都の外にいても耳に入ってくる大きな出来事だったのだ。
「そう。だから同じ奴が続きを始めたのか、はたまた再現しようとしてるんじゃないないかって騒がれてるわけ」
「それどんなんでやんすか? わっちあんまり知らないかも」
 明らかに火の気がない場所から火の手が上がる事件が七日間で頻発し、南町を恐怖に陥れた。その数ボヤ騒ぎも含めて二十件はくだらない。対応に追われた南町の火消したちが異様な数の火に疲弊し始めた頃、待っていましたと言わんばかりに放たれた火は風向きと合間って瞬く間に広がり、あらゆるものを飲み込み、結果として町の一割を灰に変えてようやく消し止められた。結果に満足でもしたのか、これを最後にぱたりと火付けの手は止まったのだ。
 今では寺子屋の教本にも載っている。これが南町の大火である。
 南町は身分の高い者や権力者も多く生活を送っている為、上層階級を無差別に狙った破壊活動だと推測された。これだけ短期間に多くの火付けを行ったにも関わらず犯人の手がかりはおろか、単独犯か組織的な犯行かも判明していない。
 未だ野放しの犯人を思い出し、南町に限らず太都全体が震えているのだ。
「南町の火がここまで延焼してくるとは思えねえけど、阿保な模倣野郎が出てこないとは言い切れないからな。用心に越したことはないと思って」
「それもそうだよな……どうするか。まだ寒いけど店の前に撒き水でもしとこうかな」
「はは、何もしないよりマシじゃん? もう凍るような季節じゃないし」
「太都は火付けって多いでやんすか?」
「事故的に発生するものは季節によって多くなったりはするけど、わざわざ付けようって奴はそうそういないな。火付けは大罪なんだぞ? 捕まったら引き回しにされて火刑だ」
 トキ時は火を表現しているのか、羅乃目に向かって両手をわさわさ動かしながら半歩近づいた。お化けが出るぞと子どもを脅かしている大人にも見える。多分、火……だ。トキ時はたまに傍目に見れば面白いとしか表現できない動きをする。西町を花に例える話をしてくれた時を思い出す。どことなくもたつき、なんとなく、変。指の先の先まで統率の取れた動き、とは逆をいくような。想像するに彼は運動神経が悪い。
 確かに南町の火付けは過去の事件を彷彿とさせ太都全体を騒がせているが、他の町には正直他人事であり、ある種の娯楽にも近い。模倣犯は恐ろしいけれど実行に移せる者が果たしているのかどうか、大半の者は心の底ではそう思っている。
 

 翌日、羅乃目は単身で西町通りまで来ていた。特に意味はない。昨日この場所の意味を教わったので散歩がてら見に来たのだ。便利屋の仕事が無ければ、曇っていても散歩日和というわけである。黒骸の予想では雨は降らないそうだ。
「面白いものだな、町の中の宿場町という位置付けだったのか」
 西町通りは全長およそ七町(約八百メートル)に及ぶ、太都の中の宿場町。西町とは言わないまでもここもなかなか活気と熱気がある。太都の外から来た者が西町へ行く中間地点(と言いつつかなり西町寄りにある)としての役割を主に担いつつ、それ以外の場所を目指す者も利用していることが想像できる。東町にだって美味くて有名な飯屋や、美しく珍しい反物を扱う店はある。そういった名店を求めて太都内での宿泊を伴う移動も十分にあり得るのだ。
 ぎっちりと並ぶ旅籠に挟まれ、時折り茶屋や飯屋の看板も確認できた。ここは言ってしまえば観光地価格の店しか並んでおらず、味が値段に伴っているのかは判断しかねる。太都の中で鎌苅トキ時が作る飯よりも、いい匂いがして食欲を誘い、事実美味しい店を羅乃目の鼻は見つけていない。まあ甘味に限るとあるらしい、トキ時の専門はあくまでも飯だ。
「人間だらけでやんす」
 羅乃目は独り言をぼやきながらも、なんとなく楽しそうな雰囲気で歩いている。軽やかに音を鳴らす朱い一本下駄。人の流れが激しい場所は余所者に優しい。無関心とは時に優しさになりうる。
「あ、犬」
 羅乃目の瞳は人間に紛れて一匹の犬の後ろ姿を映し出す。三角形の耳をピンと立て、尻尾はくるりと丸まりつつも柔らかそうな毛並み。よく見かける犬種ではあるが、腹回りは白く顔周りは茶が多く背中は黒と茶が半々の点々、何種類か血が混ざっていそうな色味をしている。ちなみにまだ子犬の温泉で足湯をしている成長期の若者だ。野良や地域犬ではなく、明らかにひとりの人物の横をついてちゃきちゃき歩いている。
 犬がぴったりと横についているのは老人。後ろからでもわかる特徴は、下駄を脱いだ羅乃目よりも低い背、痩せ型、浅黒い肌、短く角刈りに切り揃えられた白髪といったところ。背筋は不思議なくらいしゃんと伸びている。
 なんとなく歩いていた羅乃目は、そのままなんとなく犬の後を追うように人を避けていく。歩くたびにふりふりと揺れる尻尾が大変可愛らしい、つい眺めていたくなる。
 しばらくして犬の顔が見たくなった羅乃目は、ほんの少し歩みを早めて追い越すことにした。とんと前に出て、振り返る。
「おや」
「ワンッ」
「気付かれちゃった」
 さり気なく振り返った羅乃目の視線に、老人は気が付いたようだ。羅乃目もあえて隠そうとしていたわけでもなかったが、どうやらこの老人は感覚が鋭い。
「あたしに何かご用ですかね」
「えと、犬、可愛いから顔が見たいなって。邪魔しようとかじゃないでやんす」
「おやおやそうですか。この子は朔太郎といいます。噛むような子じゃないですよ、どうぞ見ていってあげてください。撫でても大丈夫ですよ」
 老人は微笑みながら小さなその体をもう一段階折り曲げ、朔太郎と呼んだ犬を撫でた。朔太郎は目一杯尻尾を振って目を輝かせている。羅乃目が何者かに気付いたことに加えて、老人に撫でられていることも彼を喜ばせている要因のひとつだろう。
「朔太郎元気でやんすね。わっちは羅乃目でやんす」
「こんにちは、あたしは朔介といいます」
 まさか犬相手に自己紹介をしているとは思っていない老人は、丁寧に自己紹介し返してきた。棘が一切感じられない丸みを帯びた語気は、重ねてきた年齢によって削ぎ落とされたのか、はたまた性格からくるものか。
 両手で撫でまわされながら、朔太郎は実によく喋った。この朔介が大好きだということを、少ない語彙で何度も何度も伝えてくる。その中でひとつ気になる言葉があった、羅乃目はそこで朔介に抱いていた違和感の意味を知る。
「おじさん、目が見えないでやんすか」
「ええ、そうですよ。全盲は珍しいですか?」
「ううん、知ってる人にひとりいるでやんす」
「おやそうですか、あたしは朔太郎に道案内してもらって歩くんです。ずうっと見えないもんだから、それはそれで色々と覚えましたし、本当はひとりでも十分に出歩けるんですがね。どうにも寂しいじゃないですか」
 朔太郎は目の見えない朔介に代わって、道に危険がないかを判断する役割を担っていた。なんと杖の代わりに犬を伴って歩いているのだ。動物の言葉がわからない人間にそのようなことが可能であるという事実は、羅乃目の脳みそに少なからず衝撃を与えた。動物と人間が好意と敬意を持って協力して共存している。
「朔太郎、おじさんのこと大好きなんでやんすね」
「おや、ふふふ。あたしたちの仲がばれてしまいましたよ朔太郎」
 羅乃目が朔太郎の言葉を理解しているだなんて想像もしていないだろう。ただ朔太郎の姿を見れば言葉はいらない、全身全霊を持って朔介に対して好意を示していることは馬鹿な人間にも火を見るより明らかな事実だ。
「朔太郎すごいでやんす」
「少し前まではこの子の親父と歩いていたんですがね、親父は引退です。朔太郎はまだ完璧なあたしの目にはなれていないですね、まだこれから一緒に頑張らないと」
「朔太郎えらい!」
 これから頑張らなくてはならない朔太郎は、羅乃目に撫で回され腹を見せてご満悦だ。
 羅乃目は朔介を零に位置付けた。
 羅乃目の人間に対する初期値は零以下である。彼女は人間への嫌悪や憎悪を常に腹の底でつくつくと煮えたぎらせている訳ではない。そもそも人間にあまり興味を抱いていない。有象無象。ただそこにある生き物。必要があれば最低限の交流を持つことは苦ではない。零以下にいくつも種類が存在するが今は省略しよう、面白くもなんともない話だ。
 そして動物に優しく、動物を愛し、また動物からも愛されている人間は零になる。動物たちは人間と異なりおべっかが使えない、そんな存在から愛されていると確信ができてようやく開始地点に立つことができる。勿論他の評価の判断基準だけでなく、己への利害関係が絡んで零になる者もいる。零はまだ好意ではない、単純に可不可を検討した際に不可ではないという位置付けになる。
 現状、いわゆる人間と呼べる括りに属する者で零より大きな数字に片足を引っ掛けているのはトキ時だけだ。零という無を定義化した言葉を打ち砕く者はそう登場しない。
「こら、お嬢さんを前にそんなに舞い上がってはいけないよ。だらしないところを見せたら嫌われてしまうからね」
「おじさんは見えないのに見えるんでやんすか?」
「見えていないですよ。ただね、他のところが鋭くなってきたんです、見えない分ね。お嬢さんがお髪が長くて下駄を履いていることもわかりますよ」
「えー! すごいでやんす!」
 その後も会話を交えながら羅乃目はひとしきり朔太郎を撫で回した。ある程度で満足したのか一息ついてすっと立ち上がると、裾の乱れを手で叩きながら直していく。一応はこういった几帳面さに似たものも持ち合わせているようだ、朔太郎はやだまだもっと!といった様子ではある。人懐こい、いや、同じ獣だからか。
「結局邪魔しちゃった」
 ごめん、とでも続きそうな、それでも反省はあまり感じられない語感だ。
「いいえ、大丈夫ですよ。朔太郎をかまってくれてありがとうございました、あたしも楽しかったです。按摩がご入用の際はどうぞお呼びください」
「あんま?」
「あたしの仕事なんです。体が疲れている時は揉んだり押したりするでしょう?あれがお仕事なんですよ。でもお嬢さんくらいの歳の方には、まだ必要ないかもしれないね」
「ああ、あんまさん、っておじさんのこと言うんでやんすね」
 羅乃目は音だけで認識していた職業についての知見をここで深めることになった。
 長旅で疲労の溜まった体を按摩で癒す、旅籠の並ぶ西町通りは恰好の仕事場というわけだ。普段からここを流して歩いているのだろう。入り用があれば店の者から声をかけてもらって仕事をする、確実な稼ぎ方と言える。
「あ! 朔介さ〜ん! 梅屋よ〜! うちにふたり居るんだけど大丈夫かしら?」
 三件先の旅籠から肌艶と恰幅のいい婦人が手を振りながら覗いている。相手に見えてはいなくとも、つい存在自体を主張してしまうのだろう。はっきりとした大きな声で方角と距離を示そうとしてくれている。どうやら梅屋という旅籠の女将のようだ。
「ええ、勿論ですとも。さて、行きますよ朔太郎」
 朔太郎へ正確に顔を向けて、さあ立ち上がりなさいなと訴えている。
「お仕事中は朔太郎どうしてるでやんすか」
「動物が苦手な人もいますからね、旅籠の外で待っていてもらうんです。だいたいこの辺りの人は顔見知りですからね、朔太郎をお任せしても大丈夫なんですよ」
「ふうん。あ、わっち一緒に待っててもいい?」
 羅乃目の申し出に朔太郎が尻尾を振って嬉しそうに反応している。ぶんぶんと音まで聞こえてきそうな勢いのそれは朔介にもしっかりと伝わっている様子だ。
「では、そうですね。お言葉に甘えてお任せしましょうかね」
 朔介が女将さんにお願いしたのか、女将さんのご厚意なのか、お茶とあられのおやつを出してくれた。いっときではあったが、梅屋の看板娘と看板犬を背負ったふたりは、たまに出入りする業者や客に適度に愛想を振り撒きながら梅屋の玄関や土間で遊びながら時間を潰している。
 手の空いた女将さんに「今日もそうだし、今日じゃなくても、何か困ったことがあったらお手伝いするでやんす。わっち便利屋さん」と、便利屋の宣伝も怠らない。これは羅神に耳打ちされたからだ。色々な人間を見るには、ある程度の宣伝と人伝の噂が必要なのだ。
 半刻ほど経って朔介が梅屋の玄関に戻ってくる頃には、羅乃目は朔太郎から朔介の話をたくさん聞かされていたし、どれくらい好いているのかを朔介よりも知ることになっていた。もうすっかり友だちになったのである。
「っていうことがね、あったでやんす! すんごい楽しかった! 次はみんなで行こ! 朔太郎すんごい可愛いでやんすよ! そうだ明日! ねえ明日行こ!」
 南町ではその日も火付け騒ぎがあった。


 男性陣が羅乃目の押しに負けたのは言うまでもない。伊呂波の営業前に再び西町通りへ赴く次第になった。
 一番大変だったのはトキ時だ。今日の献立を仕上げは営業中でも対応できる品に変え(伊呂波の献立は仕入れやトキ時の気分でかなり変化する。どれも美味しい)、普段より早い時間から店の仕込みを始めて、帳簿の記入は軽く走り書きを残して後回し、早く行こうと急かす羅乃目をなだめながらぬか床を丁寧にかき混ぜてきた。
 最近ふたつに増えたぬか床は、乾燥椎茸や唐辛子などの異なる隠し味を入れて、それぞれ違った風味を楽しめるように細かく調整しているらしい。
 トキ時はぬか床をかき混ぜる為に日々の予定を組んでいる。冬場は一日一回でもよいが、夏場は少し回数を増やさなければならない。羅乃目と黒骸はまだ知らないのだ、ぬか床を混ぜたいがために早く帰宅したい、顔が少し怖くなったトキ時の姿を。
「きっとふたりも朔太郎のこと好きになっちゃうでやんすよ」
 ふたりの少し前を行く羅乃目は時折り楽しそうにくるりと振り返っては朔太郎の話をしてくる。昨日も散々聞かされた話ではあるが、これだけ楽しそうに話されると聞いている側も思わず笑顔になってしまうというものだ。
「それは楽しみだね」
 トキ時の運動能力や体力を思うと、西町通りへは「お散歩」という枠を大きく逸脱している。それを分かっていてもこうしてついてきてくれるのだ、黒骸はトキ時を背負って帰ることも想定していた。
「俺にも愛想振り撒いてくれるのかー? ふたりは、ほら、ちょっと違うから好かれてる節もあるんだろ?」
「そうですね、確かにそれは大いにあります」
「昨日会った印象からすると、あいつは誰にでも友好的な性格に見えた、心配することはない。それにお前は基本的に動物に好かれるのではないか?」
「俺が動物に好かれやすいかどうか……どうだろうなあ、昔猫に手を引っ掻かれたりしてるなあ」
彼はすでに狼をかなり手懐けていることを自覚しているだろうか。結った長い髪を揺らしながら一本下駄で道の先をゆく狼を。
 不意に羅乃目が立ち止まった。下駄の上で器用につま先立ちをしながらきょろきょろを辺りを見渡している。
「どうしたの?」
 黒骸が大股で距離を縮める。疑問符をつけた問いかけを投げはしたが、本当は羅乃目がこういう行動を取る時の理由はなんとなく予想がついている。嫌な予感が頭を掠めた。
……焼けてる匂いがする」
 羅乃目の鼻が何かを察知して、ぐっと足に力が入る。駆け出すぞ、というその瞬間を見逃さなかった黒骸は咄嗟に彼女の手首を掴んだ。
 野生としてはいかがなものか判断が難しいが、羅乃目は何か異変を感じると基本的にはそれの正体を確かめようとする習性がある。生き残る為には間髪入れずに逃げた方がよい場合もあることは本人も承知しているので、あくまでも『基本的に』だ。
「駄目だよ。行くなら一緒に行こう」
「んん」
 完全に注意がそちらへ向いてしまった羅乃目は、口をほとんど動かさずに鼻の奥で返事をした。
 ずんずんと歩を進める羅乃目に置いていかれないように、小走りでトキ時も後をついてくる。黒骸が手を取っているので彼女の速度はかなり抑えられているが、それを少々煩わしく思っていそうな素振りも見せていた。
「焼けてるって、南町でまた火事でも起こってるのか?」
「南町の火事は流石の羅乃目でも嗅ぎつけられないだろう」
「もっとずっと近い」
 羅乃目の歩く力が一層強くなったと同時に風向きが変わる。黒骸とトキ時にも煙のほのかな臭いが確認できた。
「火事か……?」
「あ! 待って羅乃目!」
 トキ時が呟くのと同時に、臭いに気を取られて緩んだ黒骸の手をすり抜けて羅乃目が駆け出した。
「羅乃目の向かった先、西町通りの方角だ」
 どうして、と顔に描いている黒骸とちらりと視線を交わし、意思を確認し合う。
「羅乃目を追いかけよう」


 西町通り。この周辺は東町の火消し六番組『ゐ組』と『う組』の担当地区にあたる。通りの南端から出火したそれは瞬く間に北西へ向かって延焼している最中だ。
 余所者だらけで意思疎通が難しいかと思いきや、従業員同士で声を出し合って慌てふためく客たちをなんとか避難誘導している。その間をふんどし一丁に揃いの法被を羽織った臥煙たちが慌ただしく動き回っていた。思い思いの派手な彫り物を纏った益荒男の中には良の客もいるかもしれない。
 燃え上がる火に向かって、逃げ惑う人間をかき分けて、羅乃目は走ってきた。煙のせいで鼻が効かず、素早く視線を動かしながらなおも火に向かって走る。
「もう避難している可能性もあるぞ。それに今日は来ていないのかもしれん」
「いる、多分。そんな気がする、ざわざわする、探して」
 逃げ遅れた者を待っているのか野次馬なのか、逃げる様子を見せない人々の壁が何箇所かできている。その中にようやく目当ての人物を見つけ出した。浅黒い小柄な老人を。
「おじさん!」
 離れた場所からの声掛けにも、朔介は迷うことなく顔を向けてきた。
「その声はお嬢さんかい? この辺りは火事だよ、危ないから避難しないと」
「朔太郎は?」
「あたしはお客さんに助けてもらって避難したんだけれど、朔太郎はこの大騒ぎに驚いてしまったみたいでね。混乱して、あたしがまだ中に居ると思って入れ違いで入っていってしまったみたいでね」
 朔介はつい一軒の旅籠を見上げてしまった。その中に入っていってしまったんだよと伝えるように。
「朔太郎!」
「いけないよ! 戻っていらっしゃい!」

 
 羅乃目が先に到着してどれほど経ってしまっただろうか、黒骸がトキ時を背負って走ってきた頃には消火どころか延焼が進み、現場は混乱の一途を辿っていた。
「すみません! どなたか女の子を見ませんでしたか! 髪が長くて、朱い一本下駄を履いた活発そうな子です!」
「誰か見ませんでしたか! このくらいの位置で髪を結っている女の子!! 下駄履いてます! 歯が高いやつ! 髪の長い!」
 特定の誰かではなく辺り全体へ向かって声を掛けながら辺りを見渡す。火消しにご近所さんに、避難してきた客と従業員と、それから野次馬。それぞれが仕事をしていたり騒いだり混乱していて、二人の問いかけがきちんと意味を成して耳に届いている者は半数以下だろう。
「桶通るぞ!! どけどけ!」「素人は引っ込んでろ危ねえぞ!」「ああ、私の店が……」「団扇こっち持ってこい! 風向きよくみとけ!!」「助かった……!」「怖いねえ」「ああ、これだけは持ち出せた!」「そこ壊しとけ! 広げるな!」
「すみません! 誰か!」
「もし。それは羅乃目お嬢さんのことかね」
 声に敏感な朔介は黒骸の問いを取りこぼさなかった。周りの喧騒に負けじと精一杯大きな声をあげてくれているのだとわかる声色だ。
「羅乃目! そうです! 羅乃目を見ませんでしたか!」
「あたしの朔太郎を助けようと、庄竹屋に入って行ってしまって」
「どれが庄竹屋ですか!!」
 絶望に似た感情を胃の底に感じながら、それでも旅籠の名前や並びを把握していない黒骸が場所を確認しようとした刹那、黒骸を追い抜くように人影が駆け抜けた。トキ時だ。
 誰かが足しになればと持ってきたのか、その辺に置き去りにされた小さな桶に入った水を走りながら引っ掴むと頭から被り、そのまま庄竹屋と思われる建物へと飛び込んでしまった。
「トキ時さん?!」
「待ちな兄ちゃん危ねえよ!」
「こらこらこら!」
「止まりな!!」
 トキ時を追いかけようとした黒骸は、屈強な臥煙たちに行手を阻まれ一歩出遅れた。彼らは既に建物へと入ってしまったトキ時よりも、これから入ろうとしている黒骸へ狙いを定めたらしい。人命を守るものとして実に冷酷で的確な判断をする。
 庄竹屋はごうごうと火の手が上がる一歩前、黒い煙を燻らせるようにごほごほと吐き出している。二つ隣の建物は既に赤く飲み込まれている。密集した木造建築は想像しているより遥かに延焼が速い。
 ここで食い止めるぞ、と纏が振られている屋根は庄竹屋を超えた先だ。このままだと庄竹屋は延焼阻止の為に破壊されるか間に合わずに燃えるかの二択。
 どんなに男たちの見た目が屈強だろうと黒骸の敵ではない。片手で軽く突き飛ばすだけであっという間に自由になれる、というほんの僅かな時間──
「オメーはここで待ってろ! オレが行ってくる! そのデケエ図体は邪魔だ!!」
「?!」
 今度は雨庸が飛び出してしまった。名前を呼ぶわけにはいかず、黒骸の喉がぐっと鳴った。
「暴れて事を荒立てるんじゃねえぞ! いい子にしとけ!!」
 しっかりと釘を刺してトキ時の後を追う。大人しくせざるを得なくなった黒骸を、自分たちの声でひとまず冷静になったと判断した臥煙たちは一旦それぞれの仕事へ戻って行った。「おい! そこ人が入ってったぞ!!」
 誰か庄竹屋の中へ救助へ向かったりはしないのだろうか。火消しは火を消すだけなのだろうか。まだ雨庸が庄竹屋に消えてから十を数える程度の時間しか経過していないのに、黒骸の目の前は真っ黒と真っ白を行き来しては胃の底から何かを吐き出して叫び出しそうになるほどの永遠を感じている。
 自然の前に太刀打ちできずに途方に暮れている。立ち向かっている火消しの男たちの方が自分なんかよりよっぽど勇猛果敢に見えて、黒骸の絶望をより色濃いものにした。
 すると不意に背後から背中をぽんと叩かれる。
「なに。黒じゃん、大きいから目立つな。こういうの野次馬する系だったんだ?」
 条件反射で振り向くと、良が立っていた。まさか親友が火事に巻き込まれている、もとい飛び込んでいったとはつゆ知らず。明らかに気楽そうな野次馬顔をしている。
「ちーっと近くにいたもんだからよ。東で火事は久々だと思って見に来ちゃった。まさか西町通りで火事とはなあ。てかひとり? 羅乃目といつでも一緒だと思ってた」
 途中まで眼前の火を眺めながら悠長な口調で話していたが、黒骸の異変に気がついた良は眉をやや険しい形に変えながら後半を続けた。
「何があった?」
……羅乃目が庄竹屋の中に」
「は?」
「それを追いかけてトキ時さんも中に」
「はあ?!!」
 真っ青を通り越して白い顔で震えるようなか細い声を振り絞る黒骸は貧血で倒れる寸前の虚弱体質にも見える。かろうじて良と合わせられた視線は、動揺と火を写し込んで赤く小さく揺れ動いていた。
 庄竹屋はじわりと燃え始めている。辺りはこんなに騒がしいのに、煩いのに、黒骸と良が並んだほんの僅かな空間だけ嫌になる程静かに感じた。
 明確に浮かぶ、大切な者が焼けてしまう未来。
「やっぱり俺も……!」
「待て! お前まで行ったらもっと訳わかんねえことになるだろうが! 何がどうなってんだ!?」
「羅乃目が! ……羅乃目が、朔太郎を助けに飛び込んで、それを聞いたトキ時さんもあっという間に後を追いかけてしまって」
「崩れるぞー!!」
 火消しが崩すより早く、燃え尽きた建造物が赤と黒に色と形を変えた。舞い上がる火の粉を抑え込むように大団扇を持った臥煙衆が駆け付ける。通りを挟んだ向いに飛び火していない現状を見れば、彼らがいかに優秀な火消しかが理解できる。
 庄竹屋が同じ末路を辿るまで、あと何刻。
 黒骸と良は会話の途中であることも忘れ、ただ眺めているしか出来ない。あまりにも無力。
「くそっ」良が地面を蹴りつける。「くそっ! くそくそくそ!」
 今飛び込んだところで状況は好転しない。それでも見殺しにする様なことはできない。何も出来ない己に腹を立てている。
 火の手が迫ってきたせいか、辺りに居た野次馬の数が減った。朔介は少々離れてはいるものの、その場に留まっている。険しい表情で着物の襟元をきつく握りしめてなんとか立っているといった様子だ。
 ふと黒骸の耳に羅神の声が耳に入る、遠吠えに乗せて何かを伝えようとしている。
…………
「おい、お前が諦めてどうすんだ!」
…………
 黒骸は火から目を逸らし、目を閉じて耳を澄ませる体勢になっている。それが良には諦めに映ったのだろう。
……二階から飛び降りる」
「?」
「二階から飛び降りる! 受け止めないと!」
 黒骸は良の肩を両手で掴んで揺するように大きな声を上げた。良は不意をつかれて顔をしかめたが、そんなこと気にも留めず黒骸は庄竹屋に掛け出してしまった。
「チッ……おい! そこのお前! お前だ! そう! でけえ布持ってこい! 今すぐだ! 布団でもなんでもいいから今すぐ持ってこい! 早くしねえと殺すぞ!!」
 状況は読めずとも動かなければならない時がある、少なくとも今がそれだ。
「それからお前とお前! 手伝え! 野次馬する根性あるならもっと近付けるだろうが!! 来い!」
 数少なくなっていた野次馬から、的確に体格のいい男を指差して指名しながら良が叫ぶ。この男を北町の死神様だと仮に認識していない人物だったとしても、大柄な男にこの剣幕で捲したてられれば動かざるを得ない。戸惑いつつも素直に従う男たち。
 最初に指差した男が燃えていない旅籠から布団を掻っ攫ってきた。男女が同衾する様な派手でやや大きめの物だ、大きい方が都合がいい。
「よし、お前も手伝え!」
 そのまま布団と一緒に良に促されて庄竹屋まで走る。既に黒骸が二階部分を心配そうに眺めていた。大部分に火が回っている。全焼するのは時間の問題だ。
 臥煙衆はもうひとつ隣の建物を壊すのに必死になっていて、一般人が近付いてきていることに気がつきつつも、声も手も出してこなかった。庄竹屋はもう間に合わない、しかしここで必ず火を食い止める。彼らは彼らの仕事を命懸けでこなしている。
 この庄竹屋は二階部分が顔を出せる様な開口部になっておらず、換気のために障子こそ開くが全面をぎっちりと格子が覆っている。格子を壊さない限り飛び出すことはできない。
 横に長い格子の向かって一番左側、内側から打ち破ろうとする音が聞こえてきた。羅乃目なら一撃で壊せそうな代物だが、壁を隔てて小さく聞こえてくるのはトキ時の声だけだ。
「くっそー!! 火事場の馬鹿力!!」「壊れろ!」「壊れろ!!」「ワンッ」「ちっくしょー!!」
 間に犬の鳴き声が聞こえる。朔太郎だろうか。
 ──ミシッ
 格子を打ち破る決定打が入る、反って裂けた箇所を必死で蹴りつけるトキ時の足が見えた。
「うおおおおおおおああ!!」
 一箇所壊せれば早いものだ。どんどん幅を広げていく。人が通り抜けられる大きさに、なった。
「トキ時! 飛び降りて来い!」
 顔を出したトキ時に良が叫ぶ。ここに親友がいることに疑問を抱いている場合ではないトキ時は素早く頷くと一旦顔を引っ込めた。
 良は連れてきた三人と協力して布団の四隅をそれぞれ持って下で待ち構えている。緩衝材にしようという計画だ。そのまま飛び降りるよりは安心だろう。
「そっちのお前ら屈め! 張り過ぎんな! 少したわませろ!」
 二階からなら大した高さではないものの、冷静さを欠いているとどの様な体勢で落ちてくるかわからない。少しでも衝撃を少なくしようと良が指示を出した。
「来い!!」
「朔太郎、先に行きな」
 トキ時が声を掛けると朔太郎が飛び降りてきた。きちんと布団で受け止められるところころ転がって自力で立ち上がる。朔介のところへ走るかと思いきや、立ち尽くしている黒骸の足元に擦り寄る様にお座りをして上を見上げている。
「いっくぞ!」
 壊した格子の隙間を縫ってトキ時が姿を見せた、体の前で羅乃目を横抱きにしている。
「うわあああああ!」
 せり出した一階部分の軒と火のせいで最小限の距離で降りることが出来ず、前方へ大きく飛び出す様にして飛び降りる。羅乃目の頭を守る様に手で覆い、自身が下になる様に布団に落ちてきた。続いて羅神と雨庸も落ちてくる。こちらは受け止める必要がない、すちゃりと綺麗に着地した。
「離れろ! 走れ走れ!!」
 トキ時と羅乃目を布団に乗せたまま、火の気の無い場所まで一目散に走る面々。元野次馬の男たちは、まさか自分が人命救助の手助けをするとは思ってもみなかっただろう。今は必死に走ってくれている。非常に危険ではあったが悪い気はしないだろう。朔太郎は黒骸が抱えて走る。
 ここまで延焼してこないだろうと思しき場所で一同は足を止める、下ろした布団の上でトキ時が呟いた。
「た、たすかっ、た……羅乃目も息してる……? あ、してるー、な、うん、ああ、うう……疲れた」
 流石に起き上がる元気はない様だ、まな板の上の鯉状態で仰向けに大の字になっている。軽く火傷はしているようだが、目に見えて大怪我を負ってはいない。
「羅乃目、朔太郎を助けようとして箪笥に頭ぶつけたみたい。気を失ってるけど、とりあえずは大丈夫だと思う」トキ時は自分ではなく羅乃目の話を始め、近くにある羅乃目の頭を撫でる。「うん。あー、こぶになってる、血は出てない。他は、どうだろう……
 元野次馬のひとりが、手当のできる者を求めてその場を離れた。
「もー、なんでこんな危な」
「どうしてですか……!」
 良が起き上がらせて全身の状態を確認しようとトキ時に手を伸ばしながら声を掛けた。だがその語尾は黒骸によってかき消されてしまう。
「なんでこんなに危ないことしたんですか!」
 黒骸は、まだ仰向けになっているトキ時の横へ膝をつくと顔を覗き込むように問いただした。
 良は行き場をなくした手を引っ込め、その場にしゃがんだ。
……いやあ、体が勝手に」
「死んでいたかもしれないんですよ」
「あー、まあ羅乃目だけでササっと脱出できた可能性もあったんだよな、勿論。でもなんか、これは行かなきゃいけないって思って、絶対行かないと駄目だって、ガッて、勝手に動いちまって。でもさ、ほら、結果よかっただろ、みんな無事だし」
「馬鹿なこと言わないでください! どうして、どうしてあなたは……!」
……んむ」耳元で大きな声を出された羅乃目が目を覚ました。「黒だ」
 案外けろっとした様子で黒骸へ手を伸ばしてくるのでこちらが不安になってくる。
「黒、朔太郎は?」黒骸の首に手を回すと当たり前のように抱きついた。「あれ、わっち外に出てたっけ?
「羅乃目はトキ時が助けたの、燃える二階から抱えて飛び降りたの。朔太郎ってその犬? その犬助けに行ったの? 助けに行って助けられてちゃ駄目だって。本末転倒」
「死神? あ、トキさんだ」
 羅乃目はここで初めて隣にトキ時が転がっていたことに気がついたらしい。彼女は事態をあまり把握できていないまま目に入ってきたことだけを話している。
「よお。羅乃目は痛いところあるか?」
「んー? だいじょぶ」
「おーおーよかったよお、それなら俺も頑張った甲斐があった」
 大の字になったままのトキ時を、今度こそ良が手を引いて起き上がらせた。
 黒骸は抱き起こした羅乃目を膝の上に乗せ、体をさすってこぶ以外に大きな怪我をしていないか確認している。羅乃目はされるがまま黒骸の肩に頭を押し付けて全てを手放した。甘えているのだ。
「なんで死神いるでやんすか」
 声に出す、というよりは口の中だけで完結させているような話し方をする。羅乃目はどっときた疲れと甘えのお布団に包まっている。羅神も今回ばかりは統領の威厳がどうだとかの小言をこぼさなかった。
「そういえばそうだ、なんでお前がここに居るんだ?」
 トキ時は興奮しているのか、とても元気そうに見える。これが見せかけではないことを祈るばかりだ。
「近くに居たから野次馬しに来たの。ったく危ないことすんなよ、油断も隙もないな。とりあえず医者に診てもらお。さっき探しに行ってくれた奴がいるから」
「おーい」
 そうこうしている間に医者らしき人物を連れて男が戻ってきた。火消しに従事している者だろうか、ふんどし一丁ではないものの臥煙衆にも引けを取らないほどに屈強そうな男だ。応急処置もできる、という役割りを持った立ち位置なのかもしれない。そして朔介も手を引かれ小走りでやって来る。本来であれば肩に手を掛けさせてゆっくり歩くのが基本だが、今はそうも言っていられないだろう。
「お嬢さん! 無事ですか?」
「あ、おじさーん」
「朔太郎、お前は困った子だね。お前の代わりにあたしが皆様にたんとお礼を言わないと」
「ワンッ」
 

 羅乃目もトキ時も朔太郎も、奇跡的にほとんど無傷だった。一番重傷のトキ時も重傷と呼ぶにはほど遠く、しかもその内訳の大部分は格子を蹴り壊す為に必死になった勲章であった。縫う様な傷はないと聞いて彼は心底嬉しそうな表情を見せる。
 羅乃目は長い髪の先が少し焦げてしまい、梅屋の女将が綺麗に切り揃えなおした。み月もすれば元通りになるくらいの、ほんの短い長さの髪の毛は、切り離された後も羅乃目の手で未練がましくこねくりまわされていた。羅乃目は髪の毛を大層大切に扱っていた。被害が少なかったことを喜ぶべきだと自分でも気付いていながら、なんともやるせない顔で羅神に慰められている。「お前は私がしっかりと長生きをさせる。この程度の長さの髪など失ったことを忘れるくらいにこの後の時間は続いているのだぞ。それにある程度長くなったらいつも切り揃えているだろう?それが今回は少し早かっただけだ、何も悲しむ必要はない」とか。
 とにかく。
 みんな無事でよかった、めでたしめでたし!
 とはならない、誠に残念だ。本当に。申し訳ない。
 手当を受けた後、揃って火消しの組頭にみっちりこっぴどく説教をされた。
 火に飛び込むなんてもっての外、死にたいなら俺が殺してやろうか、消火活動の邪魔をするな、手間を増やすな、人がいるとわかっていると下手に壊せない、わかっているのか、竜吐水をかけた勢いでも建物が倒壊するかもしれないからかけられない、わかっているのか、死にたいならひとりで死ね、いやでも助かってよかったなお前ら、でも邪魔するな、本当に助かってよかったな、犬も無事か? おーおーよかったな、二度と火消しの邪魔するんじゃねえぞ、消火は大変なんだぞ、いやでも助かってよかったな、そんなに度胸があるならうちに来ねえか、などなど……
 火消しの勧誘を丁重に断り、やっとのことで解放された一同が帰路につく頃にはとっぷりと日が暮れていた。火が空を赤く染めていたと思っていたら、実際には夕焼けの赤だったという訳である。説教の面子には朔介朔太郎をはじめ、救助を手伝ってくれた元野次馬の三人も含まれていた。元野次馬たちはとんだとばっちりであったが、人助けをして清々しい気持ちだと告げて気持ちのよい顔で散ってゆく。ひとりは気が変わったのか組頭の元へ走っていった。「よう! 死ななくてよかったな! また会ったらよろしくな!」
 朔介とも今日のところは解散する運びとなった。見えていないはずなのに、四人の姿が見えなくなるまで何度もお辞儀をして見送る。隣で朔太郎が何度も吠えていた。おれもおれいいえるぞ!
 それなりの距離はあったものの、トキ時は自力歩行で伊呂波まで無事に帰宅。羅乃目は下駄を燃やしてしまったのでぴょこぴょこ裸足で歩いていたが、流石に途中からは黒骸が背負って帰ることにした。本人は全く気にしていなくても、まだ人通りのある時間帯に裸足で町中を歩いているのは悪目立ちしてしまう。
 心配だからと良も伊呂波までついてきた。
 ああじゃあもう、興奮が冷めてきたから体も痛くなってきたし、疲れたし、お店は大事を取って休みにしちゃうし、このまま寝ちゃおうか。
 めでたしめでたし。
 とはならない。申し訳ない、重ねてお詫び申し上げる。
「良さん、すみません。俺は今からふたりを怒ります。叱るじゃありません、怒ります。言いたいこともあるかと思いますが、まずは俺の番ということでお願いします」
「ん」
 伊呂波の暖簾の先、広く取られた土間の真ん中にゴザを敷いて羅乃目とトキ時が正座をさせられていた。普段は土間に我が物顔で鎮座しているふたつの漬物樽も今は隅に追いやられて、ふたりの姿を固唾を飲んで見守っている。これから御奉行様が罪人を裁きます、という場面が始まるのだ。
 ふたりを見下ろす御奉行様役は言わずもがな黒骸。良は少し後ろの店への暖簾がかかった開口部に腕を組んでもたれかかっている。しどけないとでも言うのか、妙な色気を纏ってやや首を傾け左目でふたりを流し見ている。この男、わざと大味で粗野な所作を装う時とそうでない時の差が激しい。そしておそらく素はこちらの方が近い。
「まずは羅乃目」
……はい」
「羅乃目は絶対に死んじゃいけないってわかってるよね? どうして約束を守れないの? どうして守ろうとしてくれないの? 朔太郎が友だちなのはわかったけど、命をかけてまで助けるべきだったトキ時さんがいなかったらあのまま死んでいたんだよ」
「すぐ出て来れると思ったんだもん」
「でも出てこられなかった。羅乃目は自分の行動で周りがどうなるかをもっときちんと考えて。後先考えずに動けることは時には美点だけど、しっかりと考えて。どうするべきなのか、どうするべきだったのかを。視野を広げて考えて」
 声も荒げず、怒鳴ることもせず、ただ淡々と羅乃目に言葉を投げ続けている。立ったまま。
「俺は怒ってるんだよ。羅乃目が羅乃目を一番に考えて優先してくれなかったことを」
「そんなつもりじゃなかったもん」
「俺は羅乃目に死んでほしくないんだよ、前に話し合って決めたこと覚えてる? 駄目なんだよ、ちゃんと自覚して」ここでゆっくりとしゃがみ込んで目線を合わせた。「羅乃目がいなくなったら生きていけない。どうしてわかってくれないの」
……ごめん」
「もう一回約束して」
「うん」
「トキ時さんにたくさんお礼を言って、命を救ってもらうという重さはよくわかってるでしょう?」
「これが終わったらもっとちゃんと言うでやんす」
 怒ると言いつつ、最後は懇願に近いものがあった。黒骸は正座をして両手を膝の上に乗せたままの羅乃目を抱きしめる。怖かったのだ。愛する者をこれ以上失うわけにはいかない、そんなことは耐えられない。
 一呼吸置いて体を離すと、表情を作り直してトキ時に視線を合わせた。獲物に近づく蛇のように、実に滑らかな動き。
「トキ時さん」
「はひ」
「どうしてあんなに危ないことをしたんですか。羅乃目を助けてくれたことは心から感謝しています、でも、羅乃目を助けるのは俺の役目でした。命を危険に晒してまで、どうして。そこまでする義理はないじゃないですか」
「それは……さあ、さっきも言ったけど、なんか絶対行かなきゃと思って。義理とかそういう難しい話はわからない、俺に聞くなよ」
「聞きますよ、本人じゃないですか」
「だって、もう終わったことだろ? 俺だってよく生きて帰ってきたなと思ってるよ。奇跡だって言うなら、そりゃあもう奇跡だ。でも助かっただろ?」
「じゃあ次も奇跡が起きて助かる、なんてことはないですよ。二度としないでください、あんな危ないことは」
「それはわからないな。もう羅乃目は俺にとって守らないといけない存在だ。今後も何か起きて俺に出来ることだったら、きっとやる」
「!」
 ぼろっ、と音が聞こえてきそうな大粒の涙が、黒骸の両目からひとつずつ落ちた。突然のことに何が起きたのかわからず、自分でも驚いている顔をしている。
 黒骸はわかっているのだ、火を避けて狭い建物内を進むなら自分の大きな背は邪魔になることも、燃えて支えを失い脆くなった床を踏み抜かないようにするには自分が重過ぎることも。どう考えても自分の仕事だったのに、どう考えても自分は適任ではなかったことを。
 愛する者を守る立場にいながら実行に移せず、ただ見ていることしか出来なかった不甲斐ない自分に一番怒りを覚えている。
……ああ、あの、すみません。交代、します」
 指先で目元を押さえながら、黒骸は良が立っている場所までふらりと歩いてきた。
 涙をこぼしてしまった黒骸を、良は体勢を変えないままほんの少しの間見上げていた。良が黒骸のことをどう思ったのかはわからないが、大部分が隠されて表情のわかりにくい瞳には、優しさのようなものがちらりと見え隠れしていた。
…………
 とんっ、ともたれていた壁から背を離す。腕を組んだままひょいと黒骸を躱すと、のしのしとわざと粗野を装って歩く。
「ま、大体は黒が言ってくれたからな。まあ怒るって感じじゃなかったけど」交代した良は、ふたりのちょうど間を取れる位置にしゃがみ込む。「俺からはひとつ」
 いかにもな咳払いをする良に、ふたりは何を言われるのだろうと首をすくめている。怒られることをした自覚はもちろんあるだろうが、でもだって助かったし別にいいじゃん、もう散々怒られました〜、に似た様な感情も同時に掲げていることは確かだ。
「おらおら」
 良は小さくなっているふたりの脳天へ向かって順番に手刀を振り下ろした。とはいっても「ぽす」だとか「とす」だとか、いかにも柔らかそうな音が聞こえてくる手刀だ。フリだけしているに過ぎない。
「あんまり心配かけんなって、今日のは流石に肝が冷えた」
 思いの外短く優しい刑でふたりを裁いた良御奉行様は、続けて左右の手でそれぞれふたりの頬を優しくつねった。「ふにふに、むにむに」という音が聞こえてきそうな強さで。
「悪かったよ、もうあんまり無茶はしないから」
「ごめんなさーい」
「わかればよろしい!」
 これにて閉廷、と言わんばかりに良が一度手を叩く。立ち上がるとそのまま流れるように伸びをした。
「あーそういやあさ、なんであの時に黒はふたりが二階から飛び降りるってわかったんだ?」
 突然の良からの問いに、黒骸の眉がわずかに動いた。羅乃目とトキ時は、まだ「もういいよ」と言われていないので律儀に正座を崩さないまま首を傾げている。あの場にいなかった側の反応として至極正しい。
「ああ、状況的に他はないかと」
「いやでもよ、『一階に戻れる道がないから〜』とか言ってなかったか?」
……言いましたっけ?」
「しかもなんか名前みたいなの呼んでなかった?」
……
 羅乃目の命がかかっていたことを思えば、あの火事はあの日と同じくらいにひっ迫した緊急事態であった。どうやらあまりにも冷静さを欠いてしまった結果、無意識のうちに羅神から聞いた言葉をそのまま口に出してしまっていたらしい。黒骸、まさかの大失態である。なんなら目の色も一瞬変わってしまっていたが、これは間近で大火事が起きていたせいで目に火が映り込んだだけだと思われているのでバレていない。黒骸、気付かないうちに重ねて大失態である。
 彼は今、いつもと変わらない涼しげな表情でこの状況をどう誤魔化すかを考えている。新たな緊急事態に先程の涙はスンと引っ込んだ。
 聞こえないのをいいことに雨庸が大騒ぎしているのを羅神が黙らせた。
 羅乃目とトキ時は顔に出ないように膝に乗せた手を凝視して下を向いたままだ。
 ふたつの漬物樽は我関せず、といった様子だ。
「隠していましたが、俺は羅乃目と以心伝心できます」
 力強く言い切る黒骸の言葉に、下を向いたまま羅乃目がきゅっと目を瞑った。
 雨庸が涙を流しながら大爆笑している。
「あの時羅乃目は気い失ってたろ」
……予知?」
「いや俺に聞く?」
 トキ時がきゅっと口をすぼめて眉間に皺を寄せた。
 動揺が動揺を呼び、黒骸らしからぬ言葉選びで彼は勢いよく墓穴を掘り続けている。早く手を打たねばこのままだと水脈かなにかを掘り当ててしまう。
「正直、初手で詰んでるぞ。立て直せる?」
……審議の時間をください」
 状況を覆せないと察知した黒骸は指をそろえて小さく挙手し、待ったをかけた。御奉行様役だったとは思えないほど勢いを失った彼は、正座を崩していなかったふたりをいそいそと立たせると掘立て小屋へ入って行く。背後で「え、トキ時も連れてく?」と聞こえたが、聞こえなかったふりをした。羅神と雨庸も一応は、と着いていく。
 とん、と掘立て小屋の戸を閉めた直後、黒骸がよたよたとしゃがみ込んでしまった。
……やってしまった」
 大きな両手で顔を覆い、羅乃目の寝相よろしく背中を丸めて小さくなってしまった。
 人間に紛れて生きてかれこれ十二年、この様な失態を冒すのは初めてのことである。
「はあ……このままだと良さんを消さなければなりません」
「駄目ダメだめ駄目! それだけは断固回避! このままだとあいつは俺以上に謎の巻き込まれで死ぬ! だってこれ黒のせいだぞ! 俺は憑守が見えちゃったからあれだけど、今回は間違いなく黒のせいだぞ!」
 顔を手で覆ったままいつもと同じ調子で黒骸はとんでもないことを言い出したので、トキ時が必死に反対している。彼らが初めて出会った時のようだ。「黒のせいだぞ」が会心の一撃になったのか、「ぐうの音も出ません……」と黒骸は一段と小さくなった。雨庸は終始爆笑している。
「こういう時こそトキさんの出番でやんすよ! だって口裏合わせたり誤魔化したりしてくれるでやんしょ? 今こそ出番でやんす!」
「だってでも、それは俺が嘘下手くそだから無しみたいな方向になっただろ?」
「っあー、だからご飯の切り札だったでやんす」
「そうだ、俺が嘘下手くそだから飯で勘弁してもらったんだ」
 掘立て小屋は灯りを灯しておらず、目が慣れれば薄ぼんやり互いの姿を目視できるが、ほぼ暗闇であった。その暗闇の中で三人向かい合い頭を抱え小さな声で大騒ぎをしている。
「黒骸への説教は後にするとして、この場をどう切り抜ける? トキ時は正直当てにならん。だがここで半端に誤魔化したところであの男は探りを入れてくるはずだ、この距離感で半永久的に疑いの目を向けられている方が状況が悪い」
「わ……羅神に直接言われる『当てにならん』ってこんなに胸に刺さるのか……俺もうちょっと話術とか身につけた方がいいかな……
「存在を消すまではいかなくとも、外的損傷を与えて一時的な記憶を消すとかはどうかな? 記憶の混濁を狙う」
「んな曖昧で不確かなこと信じて実行できんのかよ! 加減間違えたら即死だぞあいつ! んでもって失敗したらただの暴力沙汰だ! 敵視されて終わんぞ!」
「ねえトキさん」
……だって先代が飯屋は人の話を聞くのも仕事だ、適度な相槌以外はなにもいらん、話したがりの声にただ耳を傾けろ、聞け、そして美味い飯を作れって、言ってたから……
「トキさんってば!」
「はい!」
 緊急事態と並行してトキ時の心はほんのり柔らかい傷を作っていた。先代の教えを大切に守ってきたこの男は聞き上手ではあるが話術は持ち合わせていない。ぼそぼそ独り言をこぼしながら自分の世界に入り始めていた彼を羅乃目の声が引っ張り上げる。
「トキさん、死神はどのくらい信じられる?」
……あいつは俺がこの世で一番信じられる男だよ」
 トキ時は己を立て直すのに少々時間を有したが、回答自体は即答だった。
「じゃあ取り込もう、こっち側に。教えちゃおう。死神にしてみたらトキさんは人質に取られる様な立ち位置になるはずだから、保険にもなるでやんす」
「ふ、複雑な気持ち……! 確かにあいつ女遊びはひどいけど、信用も信頼もできる男だぞ」
「あー! だから死神は会うたんびに違う匂いがしてたでやんすね! これですっきりでやんす!」
「あー! だから羅乃目はいつも良に会うと最初だけ少し怪訝な顔してたのか〜なるほどな〜」
 あははははーと笑い合うふたりはどう見ても現実逃避に走っているように見受けられる。現状の最善手はこれに思えるが、最善は永続的であるかどうかはわからないことは体験済みだ。前回のものは結果として持ち堪えているが。
「わっちはトキさんを信じられる、そのトキさんが信じるなら死神も信じる」
「でも良が考えた末にふたりの正体をバラす可能性は否定できないぞ。あいつは俺と違ってちゃんと考えているから、バラした方がいいと思われたらそれまでだと思う。理由はないけどまあいいかーの選択肢は無いかもしれない。でも絶対良に手は出さないでほしい」
「そこは出たとこ勝負でやんすよ。実際トキさんとだってこうやって一緒に生活するとは思ってなかったもん。羅神と雨庸はどう思う?」
 黒骸に話を振らない時点で発言権を与えていないことが伝わってくる。黒骸はまだ小さくなったままだ。
「危険を増やす理由はないが、下手に疑われ続けるよりは踏み込んだ方が活路が見出せるかもしれないな。あの男はトキ時よりも弁が立つだろう」
「羅神がまた俺のこと刺してくる〜」
「トキさんのご飯が一番美味しいから大丈夫でやんすよ」
 トキ時が左の前腕を目元に当てて泣き真似をしながら羅乃目に助けを求めている。あいつがいぢめました!と言いそうな雰囲気を、羅乃目が羅乃目としては最大の賛辞でなだめている。非常に面白い絵面だ。恐らくもう後にも先にも見られない。
「オレあーどっちでもいいぜ? ひとりもふたりも今さら変わらねえと思うしよ。なんかあったらまとめてやっちまえばいいだろうよ。ンなことより黒がバカやっちまうのが見れる日が来るなんて思ってなかったぜオレは!! やっちまったなーオイ!」
 また笑い出した雨庸の胴体を、黒骸がしゃがみ込んだまま強く腕で締め上げた。「ギェ」と短い声をあげて雨庸が黙る。
「俺はみんなの判断に従うよ。発言できる立場にいないのは重々承知だから。本当にすみませんでした」雨庸を締め上げたままゆっくりと立ち上がると深々と頭を下げた。「お説教は後ほど、ほどほどでお願いします」
 三人は顔を見合わせ、合図もなく互いに頷き合った。少なくとも今の最善はこれだと答え合わせが終わったのだ。
 ぞろぞろと掘立て小屋から伊呂波へと移動する。ぞろぞろぞろ。良は一番戸に近い卓の席で三人を待っていた。
「話はまとまった?」
「うん」羅乃目は伊呂波の狭い通路に椅子を一脚引っ張ってきた。「大事な話をするからここに座って」
「なになに、もう」
 促されるままに椅子を移った良の後ろへ黒骸が立つ。今ふたりは土間への暖簾を背にして、店の戸の方向を向いている。
「俺はこっちかな」
 伊呂波の戸を背にして暖簾側を向く羅乃目の後ろへ、トキ時が回り込んだ。一本の線上に二対二で向かい合う形になる。
「今から大事な話をします。わっちはトキさんが信じる死神を信じてこの話をします。死神はこの話を聞いたら後戻りできなくなります。でも聞かないっていう拒否権はないです。聞き逃さないで、ちゃんと聞いてください」
 羅乃目が事前の注意事項を丁寧に述べていく。
 黒骸の両手が良の肩へそっと添えられた。
「おーおー。なんの話が始まるのかな」
「墓まで持っていってほしい話をします」
「なに、お尋ね者だった?」
 羅乃目の注意事項から良が憶測を立てる。お尋ね者程度では動じないという意思表示にも見えた。
「んと、わっちらってそういう感じ?」
 羅乃目は後ろを振り向きながら確認を取る。
「いや? そんなことはないぞ。まあでも結果としてはそういう感じになっちまうんじゃないかな」
「じゃあそれ以上の話ってなに? なにか重要な書類に署名を求められてるってのは雰囲気でわかるけど。血判の方がよさそう?」
 流石に北町の男は場慣れしているのだろうか、とにかく肝が据わっている。不利な状況に陥っているにも関わらず実に冷静だ。軽い冗談を挟む余裕まである。
 羅乃目は一度口を開けて、むっと閉じた。トキ時には芋づる式でバレてしまったが故にわざわざ名乗ったりしなかったのだ。羅乃目が生きてきて初めて、生まれて初めて、自分の正体を名乗る。
「わっちらは」
 ここまで言うとまた黙った。
 良は急かさずに待っている。
……わっちは紅族第十九代統領の紅羅乃目。そっちは許婚の紅黒骸。わっちらは紅族の生き残りでやんす」
 良は何も言わなかった。言葉を探しているのかもしれない。ただ前髪の隙間から鋭く羅乃目を捉えて、黙っている。
「わっちらには憑守が憑いてる。聞いたことあるでやんしょ? 獣の神様。憑守の声はわっちらにしか聞こえない。だから黒は、あの時にトキさんがどうするのかがわかった」
「黒に伝えたのは羅神だけどよ、二階から飛び降りろ! っつったのはオレ様だからな!」
 まだ良は黙っている。両肩に黒骸の手が添えられたままだが、彼に立ち上がってどうこうという意思はないようだ。ただ座っている。
……そうか」良はいつもより口を開かない発声をしている。「いたんだな、生き残り。もう誰もいないのかと思ってた」
 その声色に軽蔑は乗っていなかった。ただ生き残りがいたことについて事実を述べているだけに過ぎない。
「お尋ね者以上だってっから何かと思った。確かにこれは墓まで案件だな」良の態度は平らなままだった。「とんでもねえことに加担させられたってことは理解した。でもそれは一旦置いといて、ひとつ気になることがあるんだけどよ……
 良が勢いをつけて立ち上がろうとし、素早く察知した黒骸が手に力をかけてそれを止める。
「なんでトキ時まで知ってんだ、明らかにそっち側みてえな面までさせてよお! そんな何度もヘマしてんじゃねえだろうな! あえてバラして脅したか?! 太都での隠れ家にでもしようってか?! お前らが誰だろうと別に知ったこっちゃねえけどな! トキ時に手え出したらぶっ殺すぞ!!」
 良にとってはふたりが何者であるかよりも、トキ時に被害や危害が加えられないかだけが重要そうだった。黒骸の制止は振りほどけないが、今にも飛び掛かってやろうと必死にもがいている。
「待て! 待てまてまて良! その辺は俺が話すから!!」
 羅乃目の前に割り込もうとしたトキ時は、横に並んでいる卓に足をぶつけてよろめいた。ごっ、というかなりしっかりとした音がした。きっと痛い。
「話す! 俺から! ちょ、ちょっと待て!」
 打ちどころが悪かったのか左手で左足の小指を押さえつつ、右手を大きく開いて良へ向かって突き出している。
 この男、こんな大事な場面に小指をぶつけて痛がっている。せっかく間に割って入ろうとしたのに少しの格好もつかない。物理的にも話題的にも四人の中心へ躍り出たにも関わらず、声も出さずに「────!」と痛がっている彼を見て、良も浮かせていた腰をなんとなくまた椅子へと戻した。
 目尻にほんのり浮かんだ涙を拭うと、トキ時は懸命に良へ向かって説明を始めた。ふたりが来たのは偶然だということ。自分には憑守が見えてしまうこと。だから芋づる式にふたりの正体がわかってしまったこと。お互いの最善を取って住み込みで働いてもらう約束をしたこと。
 途中で「やっぱり危ない目に遭ってんじゃねえか!」とトキ時を怒鳴りつけはしたが、それ以外はまた黙って話を聞いていた。この嘘のような御伽噺のような荒唐無稽な話を。
 良は左手で顔を撫でるように覆うと、右手をひらひらとさせてこう言った。
「もう手を離していい。別に暴れ出したりしねえから」
 黒骸は躊躇いを見せたが、肩に添えていた手を離した。良は宣言通り座ったまま「えー」だとか「はあー?」だとかぼやいている。
「信じてくれよ!俺だって自分に憑守が見えるなんて知ったのついこの間なんだよ」
「いや、まー……なあ」
「俺が嘘下手なの知ってるだろ?」
「よーく知ってる、トキ時がこうって決めたらもう俺に覆せないこともよく知ってる……
 信じる信じないというより、突拍子もなさ過ぎて理解が追いついていないといった様子だ。親友の話を嘘だなんだと一蹴することは出来ない。そもそも嘘をついているとは到底思えない。
「あー、まあ。トキ時がここで嘘つく理由も見当たらないからなあ……
 膝に肘を置き支点にして、親指でこめかみを押さえている。左右対称。
「ほら、お前のことを黒い狼が覗き込んでるし、白い蛇も巻きついてるぞ」
「もー! ちょっとトキちゃん情報小出しにして?! 捌き切れない! 俺にも許容量がある! 今日色々ありすぎ! 小出しにしてきて!」
「だって本当だから! 俺嘘ついてねえから! ちなみに俺は憑守の声も聞こえるんだ! 蛇の方がずっと爆笑しててうるさい!」
「わかった! わかったから! トキ時のこと疑ってねえよ! ああもう」良は絵に描いたように、まさに頭を抱えている。「ああもう」
「じゃあ血判どこに捺すでやんすか?」
……羅乃目が『ほにゃららな人』みたいな表現の時に『人間』って言ってたのはそのまんま人間って意味だったのか」
「うん」
 どうやら血判はまだ捺してもらえないようだ。
 えーそういう話し方する子なんだなーって思ってた……羅乃目の下の犬歯が手前に出てるのは? 随分と立派で牙みたいになってるっしょ」
「それはねえ、ただわっちの歯並びがちょっと悪いから。でも犬歯が大きいのは、ちょっと関係、ある? 多分? うん。これはかっこいいからすんごいお気に入りでやんす。えへ」
 羅乃目は羅神を覗き込んで確認をとった後、良に向かって歯を見せるように笑った。確かに彼女の上下の犬歯は肉食獣の牙と呼んで差し支えないほどに大きく尖っている。
「俺も実は犬歯が大きめです」
 食事の時ですらも大きな口を開けたがらない黒骸が、人差し指を唇に引っ掛けてわざと口内を見せてすぐに戻した。行儀の悪い黒骸を拝めるのはかなり珍しい。
「でも羅乃目ほどの存在感はないですね。羅乃目は鋭利なうえに大きさもありますし歯並びもあってかなり目立ちますが、それは種族云々という枠を出てほぼ彼女の個性です」
「ほーそこはそんなに関係ねえんだ。まあそういう歯の人間も少なからずいるもんな。えーじゃあ猫の事件をあんなに怒ってたのはそう? 犬の為に命張ってたし、それとも単に性格?」
「人間なんか比べる対象にならないくらい動物の方がずうっと大事でやんす、わっちらの友達。人間は別に好きくない」
「好きじゃないだろうが」
「なるほどなあ……じゃあその好きくない人間だらけの場所になんで来たの。最近ふたりで便利屋みたいなことも始めたろ? 長居する心積りって感じじゃん」
「人間を見に来たんでやんす。便利屋はトキさんが考えてくれたの。噂が広まればいろんな人間を見られるんじゃないかって」
「ほおー……
 良はため息と唸り声を交互に挟みながら小刻みに頷いている。脳内で様々な事柄を計算しているのかもしれない。血判を捺さずにこの件は破談になる可能性もまだ拭いきれてはいない。
「はあ、わかった。とりあえずわかった。整理できてねえけどわかった、はあ。もし俺がバラせばトキ時も危ねえってことだよな、ったくとんでもねえな全く。わかったよ、了解了解。で? 血判どこに捺してほしいの?」
 両手を挙げて降参を知らせるような体勢になった。きっとまだ寝て起きたら全部夢だったという展開も期待しているだろう。
「うーん別にいんないでやんす」
「いらないだろうが」
 羅乃目の言葉遣いに羅神は敏感だ。
「あー。じゃあ、とりあえず盃でも交わす?」
「あ! なにそれかっこいいでやんす! 大人!」
「口約束だけじゃあお互いいまいち決まらないだろ? 別に兄弟盃だとか契りを結ぶわけじゃねえけど、とりあえずこの場を締める為に。なにもしないよりは格好つくだろ」
 良の言葉を受けてトキ時が「俺の時はこんなの思いつかなかったな〜」と言いながら酒を出してきた。盃ではなく、乳白色の質素なお猪口を四つ。羅乃目に酒を飲ませていいのか悩んでいる顔をしていると「別に構わん」と羅神が口を出してきた。
「なにに乾杯するでやんすか?」
「どうしましょうか」
「改めて言うと難しいな」
「形だけだし、なんでもいいんじゃん?」
「じゃあ、えーと、この夜に!」
 いったい何処で覚えてくるのか、羅乃目の謎の挨拶でお猪口を掲げた四人はこの夜に乾杯した。薄曇りで星が見えない、月は朧でかろうじて確認できるかどうかのこのしみったれた夜に。ほんのひと口分しか入れられていないお猪口は、一飲みで空になる。
「んと、懐中深く納めなくっていいでやんすか?」
「これは店の備品だから駄目だぞ」
「はあい」
 羅乃目の謎の知識はどこから仕入れられているのだろうか。実は羅神と黒骸もわかっていない。
 四つのお猪口はあっという間にトキ時に回収されてしまった。羅乃目は大人っぽい行事ができたことが嬉しいのか、口元をにやけさせながらそわそわしている。
「黒、大人の話」
 良はおもむろに顎で店の外を示すと席を立ち、暗い夜道へと出ていった。ふたりきりで、という意味だ。
 黒骸は羅乃目へ視線を送ったが、彼女は無言で首をぶんぶんと左右に振って「呼ばれてないから行かない」と伝えている。視線を移した先には小さな灯りが点っていた。店の中で火を着けていたのか、良が煙草をふかしている灯りが。その灯りに引き寄せられた虫のように滑らかな動きで後を追う。
 伊呂波の前の通りはしんとしていた。周囲の店舗が細々と営業しているものの伊呂波ほどの賑わいはない。漏れる淡い明るさと締め切られた戸を隔てて、通りは夜に切り取られていた。
「トキ時は優しいだろ? ああいう甘ったれは付け入りやすくて助かるなあ?」
 開口一番にこの言われ様だ。大人の話は楽しいものではなさそうだ。
「そんな風に利用した訳ではないですよ」
「どうだかな。ともあれ俺はあれに救われたクチだ、だから俺はあいつを否定しない。あいつが甘ったれたことを言い続けたいなら言い続けられる為に何をしてもいい。あいつは悪い虫が寄ってくる。転んだガキ助けたらその間に財布すられてる男だ。乱暴されそうになってる女を助けようとして男にボコられるだけじゃなく、何故か最終的にその女からも頬を引っ叩かれる男だ。じいさんの重い荷物を運ぶのを手伝えば阿片密売の片棒を担がされそうになる男だ……あいつが疑わないなら俺が疑う、あいつが怒らないなら俺が怒る、どうしようもねえ奴はあいつが知らない間に俺が消す。言いたいことはわかったろ?お前らが妙な真似しようってんなら即刻……」良はここで言葉を切り、ゆっくりと煙草をふかす。もったいぶって。どうせ続ける言葉はわかっているんだろ? とでも言いたげに。「ぶっ殺す」
「何をしてもどんな卑怯で汚え手を使っても、必ずぶっ殺す」
「肝に銘じておきますよ、人間が卑怯で汚いのもよく知っています。ですが今までお見せしてきた俺たちに嘘偽りはありません。そこに情報がひとつ加わっただけで全てを見失い見誤るほど、足りない方ではないと判断しています」
 良は煙管の火種をポンっと叩いて落とすと念入りに踏み消し、ついでに頭もわざとらしく掻きむしった。
「わーってるよ、でも先に忠告と警告くらいさせろって。そんなこと言われなかったから知りませんでした〜なんて不公平だろ。さっきの言葉は取り下げねえけど、別に手のひら返して敵視をするだとか今すぐふたりをどうこうしようなんて思ってない。トキ時が命張って守った存在を俺だって信じたい、でも俺にだって時間をくれ。はいそうですかって言える案件じゃないのはお前の方がわかってるだろ? 正直なにも飲み込めてない、今日は色々あり過ぎ……ふたりのことはちゃんと本質で判断するよ。俺は馬鹿な人間とはひと味違うってとこ、羅乃目に見せたいじゃん?」
 これから女でも口説こうかというような、どきりとする流し目に自覚があるのかないのか。
「あなたも大概お人好しに見えます」
「そう? トキ時に似てきたかな。あーだからそっちも裏切ってくれるなよって、まあそういう話」
 良は伊呂波へと視線を向ける。黒骸もならって視線を伊呂波へと向けた。開けっぱなしの戸から店内が伺える。羅乃目とトキ時がなにやら楽しげに会話をしているようだ。
「羅乃目には聞かせなくてよかったのですか?」
「羅乃目より黒の方が分からず屋っぽいから」
「はは、当たらずも遠からず、ですかね」
 伊呂波の中の会話は断片的にしか聞こえてこないが、どうやら好きな食べ物の話をしているのか、やれ金平糖だとかまんじゅうだとか、煮付けだとか干物だとか、食べ物の名前ばかりが聞き取れる。そこには命を救った救われた関係という大仰で畏まった堅苦しい雰囲気は一切感じられなかった。大盛り上がりだ。
「あーあ見てよ、あんなに楽しそうなの。妬けちゃう」
 良は普段の少し軽い口調に戻っていた。妬けちゃうは冗談か否かの判断がつきづらい発音をしている。
「妬けますね」それはもう人間にあれ程までに懐く羅乃目は生まれてこの方見たことないですからね。という言葉は喉元で留めておいた。見せかけではない無防備な姿に、言い表し様のない感情が滲んでくる。
「絶対に死んじゃいけない、か……ふたりとも焼けなくてよかったよな」
「それは……本当にトキ時さんのおかげです」
「二階から飛び降りるって知れたのも助かった要因、かな。あそこで骨折でもしてたら、逃げ遅れて結局は火に飲まれてた」
……そうかもしれません」
「あいつ頑固なんだ。そこも好きなんだけど」
「そうだと思ってました」
……んじゃ戻ろ」
「ええ戻りましょう」
「手とか繋ぐ?」
「俺たちの関係で、それはまだ早いのでは?」
「あ、段階踏めばいいんだ? じゃあ最終的には同衾してお互いを曝け出そ。可愛がっちゃう」
「それは絶対にないですね」
「ないかー」
 長身の男が揃って伊呂波の戸をくぐる。
「なあ、仕込んだ料理が無駄になっちまうからさ、みんなでぱーっと食おう。腹減ったろ?」

 
 後日、西町通り火付け事件の犯人が捕まった。出火場所は明らかに火の手がなく稚拙な手法が取られていた為に、素人の犯行だと見当をつけて調査をしていたそうだ。その正体が南町で起きた一件目の火事の被害者である貴族の娘(齢十三)であるという事実は、犯人が捕まったことによる安堵を大きく上回り太都全域を揺るがせた。
 なんでも被害に遭った際に駆けつけた火消しのひとりに恋をして、また火事が起きれば会えると思った、という。西町通りで事を起こした理由は、ここに泊まる人は太都の外から来た人だから知り合いがいない、それに西町なんかに行きたがる人に何があっても別に困らないから、だとか。
 誰か彼女に教えてやらなかったのだろうか、火消しは区画分担制で少なくとも南町の火消しが東町の火事に出張って来ることはないことを。
 結局彼女は、いや少女は、恋をした相手に一目会うことも叶わず火付けの大罪で火刑となった。淡い恋を脳裏に焼き付け、短い短い人生を大罪人として幕を下ろしたのであった。
 影に隠れて、西町通りの火付けと同日に南町でも火付け騒ぎがあった。こちらは対応が早くボヤに毛が生えた程度の被害で済んだそうだ。東町の話題に飲まれて南町の瓦版さえ賑わせることが出来なかったそうな。翌日も、その翌日も、もう南町で火付け騒ぎは起きていない。
 南町で起きた火付けの犯人は未だ手掛かりすら掴めず……五年前の大火と同一犯なのか、否か。

 
     *

 
 作りかけの足場は燃えてしまっただろうか。その灰まで塗り込んでより堅牢な足場を構築できるだろうか。砕いた心と涙を混ぜて必死に踏み固めて作ってきた地面は、今また更地に戻ってしまっただろうか。
 まだ疑っている、訝しんでいる。でも信じたいに札が裏返った。
まだ横一列にも並べていない。開始の位置にも着けていない。一歩ずつか半歩ずつか、はたまた一足飛びか。ここから先へ進めるか?





次話

第五話、そして日常は続くの話