【マイ・ファタール】

『蹂躙するは我が手にて』現行未通過×

アルエル(アル←エル)
運命の残酷さについて



運命という単語を知った時、エルは酷い言葉だと思った。こんなにも苦痛と困難を与える神に、人は未来を定められている。過去の努力も挫折も、全てが決められた線の上。そんな存在は文字通り死んでもゴメンだと、戦場で血に濡れる将軍は吐き捨てた。

戦争が終わって、言葉で語るには濃厚過ぎる出来事を経ても、運命に対する考えは変わらなかった。これは自分たちが掴み取った可能性であり、他の何に強制された結果ではない。勝利と敗北を握っているのは、賽の目を弄ぶ神々の手ではない。そう確信して生きていた。


病室で一人、エルは窓の外を眺める。主治医から余命宣告を受けたのは、つい二日前のこと。徹底して周囲に隠すよう頼み込み、受理されたのが昨日のこと。普段使っている病院から移動し、桜の見える田舎へ入院したのが今日。あっという間に過ぎる時間の中、エルは愛しい指導者を想う。


「アル」


その名前を呼ぶ。返事はない。
そよ風が満開の桜を撫でて、桃色の花びらを揺らす。儚く美しい光景が眩しくて、目をそらすようにベッドへ倒れる。白い清潔な天井を見ているのも嫌で、ゆっくりと目を閉じてしまう。短い銀髪を靡かせて、その背中が小さくなる錯覚。黒いコートを肩に置いて、自分から遠ざかっていく幻覚。虚空に手を伸ばそうとして、自分が泣いていることを知る。


……アル」


もう一度、その名前を呼ぶ。返事はない。
頬を伝う水は、エルに不快さを抱かせる。だが拭うのも億劫で、エルは片腕を目に押し当てることで涙を堰き止めた。服の袖が濡れ、目の回りを湿らせる。

知ってしまった、苦痛を得るほどに。この愛はきっと、何度繰り返しても得てしまうものだ。そう定められたものが良いと、願ってしまったのだ。どれほどの代償を払うことになっても、世界にこの愛は運命だと認めてほしい。あの男に自分は狂わされてしまったのだろう。その責任は計り知れないほど大きいのに、きっと彼がその罪を知ることはない。

暗闇の中、色の違う双眸と目が合う。赤と黒の瞳は、こちらを愛おしげに見ている。恋しい彼の目に、鼓動が大きくなっていく。


………………


また名前を呼ぼうとして、歯を食いしばる。
エルは彼が、自分を見ていないことを知っている。それが無性に悔しくて憎らしくて、壊れてしまいそうなほどに哀しい。愛する人が、自分ではなく誰かに似た自分を見て笑っている事実。いっそ嫌えてしまえば、どれほど苦痛を和らげられただろうか。この愛が憎しみに変貌すれば、どれだけ救われただろうか。

エルの内側でずっと、嵐が吹き荒れている。愛したいから、愛している。愛されないのに、愛されている。双方から向けられた一方的な想いに、頭がおかしくなりそうだ。無知な代替品として笑っていた過去が、羨ましくて仕方がない。かつての自分に腹が立って、心の中で口汚く罵る。気は晴れない。嵐は止まない。

ああ、彼は悪魔なのだ。人間を追い詰め壊してしまう、惨い邪悪な化身。唯一の運命を語りながら、無二の定理を騙る魔性の存在ファタール。狂わせるだけ狂わせて、彼が狂うことは無い。何故なら彼は、最初から狂っている。死体を殺すことができないように、狂人を狂わせることはできない。それらをエルは、知っている。理解して、納得している。


ふと天啓が下りた。そうだ、彼に手紙を遺そう。才能ではなく努力を使って、彼だけの致命傷ファタールになろう。ありふれた万年筆を執り、白い紙を墨で汚そう。文字で心を表し、言葉で人を殺そう。そうすれば多少、この嵐はマシになるだろうから。

体を起こし、執筆のための準備を始める。
その瞳から光が消えるまで、あと────……